i tasi yan i tano'

THE SEA AND THE LAND - 海と大地

優れた船乗りとして、私たちの大昔の先祖たちは3,500年以上にもわたり、東南アジアの島からマリアナ諸島まで航海しました。彼らは持てる知識や道具を持ち込んで生き延びました。現代のチャモロ人は、これら最初の定住者であるタオタオモナの直系の子孫です。私たちの旅はここから始まります。

OPEN OCEAN - 外洋

海原に出ていく前に、私たちの先祖はmananiti (先祖の霊) に無事に戻れることを願いました。外洋での漁業は、彼らを導く海や空、そして海洋生物に関する伝統的な知識を有する、高度な技術を持つ航海士のものでした。捕れた魚を持って戻ると、Saina (年長者) に収穫への感謝の印として、亡くなった先祖の尊い頭蓋骨に最も良い魚が献上されました。

Deep Sea Fishing - 深海での漁

グアムはフィリンピン海と太平洋に囲まれ、世界の海の中でも最も深いことが知られているマリアナ海溝の側面に位置しています。私たちの先祖は、大型の魚を求めて、信じられないような技術で外洋に向けてカヌーを繰り出しました。古代の遺跡からはマカジキの化石が発見されています。彼らが使用していた洗練された手法の一部は、150世代にわたって受け継がれてきました。

1602年、カトリックの伝道者であるサモラのフレイ・ホワン・ポブレ (Fray Juan Pobre de Zamora) は、大きなマカジキを捕まえたもののサメに奪い取られたというチャモロの漁師、スナマ (Sunama) の物語を記しました。Sunamaは釣り糸を離さず、それを自分のカヌーに結び付け、サメをかわして獲った獲物を取り戻しました。うまく取り戻した彼は、自分の幸運を示す織物のマットをマストの先頭にぶら下げて陸に帰ってきました。

何世紀も後になると、ロッドとリールを使用して、グレッグ・デュエナス・ぺレス (Greg Duenas Perez) が重量1,153ポンド (約523キロ) の青みがかったマカジキを捕まえて世界記録となりました。この印象的なビルフィッシュは1969年にリティディアンポイントの沖で捕獲されました。

REEF - 岩(がん)礁(しょう)

岩礁は私たちの先祖に豊かな食物を提供してくれました。南部のココス・ラグーン (Cocos Lagoon) や西部のアプラ港 (Apra Harbor) は堡(ほ)礁(しょう)です。島の残りの部分は裾(きょ)礁(しょう)に囲まれています。今日では、私たちの岩礁の中に、1,000種類以上の魚や375種類のサンゴが生息しています。

男も女も、子供たちも、岩礁で漁をしました。一部の魚やカニ、その他の海産物は昼間に漁が行われ、他は夜に行われました。網や釣り針、また槍が使われました。atulai (サバ) のシーズンには、大型の網を海に広げて、岸に向かって泳ぎながら魚を捕まえました。

I Poi’o

poio は岩(がん)礁(しょう)での漁に使われた道具です。半分にしたココナッツの殻を半球形の玄武岩または石灰岩にくっつけて作られています。殻の中には細かく挽いたココナッツを入れ、それを海に下ろします。漁師は石を上下に引き、魚をおびき寄せるためにココナッツを少しずつ放出します。これを何日、何週間と毎日行い、捕まえやすくするために、毎日ロープを短くして魚が十分近くに来るようおびき寄せました。

LAGOON - ラグーン

グアムの海岸線に広がるラグーンは海洋生物の宝庫です。今日、深いラグーンはココス (Cocos) やアプラ (Apra) の沖にあり、また浅いラグーンははがにやハガニヤ (Hagåtña) やタモン (Tumon) を囲んでいます。

私たちの先祖は植物の繊維や海藻から編み目の大きさが異なる網を作り、石やセラミックの重りを削りました。またカメやカキの殻、ココナッツの殻、木材および骨から釣り針も作りました。釣り糸には木の繊維が使われました。

Manégigao

私たちの先祖はコミュニティで所有するgigåoと呼ばれる魚用の罠を使用し、hiteng (アイゴ)、lågua (ブダイ)、gådåo (ハタ)、palaksi (ベラ)、そしてtátaga (テングハギ) などの岩(がん)礁(しょう)にいる大型の魚を捕まえていました。潮が引くと、魚が石のバリアの間に挟まります。

Manéhima - Giant Clams

ラグーンでは大型の二枚貝が採取され、身の部分が食されていました。殻は道具やボディーオーナメントに使われました。

New Moon – Full Moon - 新月 – 満月

  • 私たちの先祖が使用していた太陰暦は13ヶ月あり、そのうちの3つの月は漁に関連がありました。
  • Umatalaf – フエダイを捕まえる、
  • Sumongsong – 家にいて網を繕う、および、
  • Umagåhaf – ザリガニまたは岩ガニを捕まえる、という意味です。

BEACH - 砂浜

私たちの先祖は貝や他の資源を与えてくれる海岸線沿いのコミュニティに定住していました。Tågong (貝) はこれらの場所では豊富に見つかり、ステータスを反映するためのボディーオーナメントとして、また文化的な儀式や一族の交換および取引におけるchenchule (贈り物) 用のsalåpe’ (富) として使用されました。

Triton Shell Horn - トリトンのほら貝

kulo’ (トリトンのほら貝) の音を聞くと、私たちの先祖とのつながりが喚起されます。彼らは海にいる間にカヌー同士で連絡を取り合う、葬儀の際に追悼の意を表す、一族を呼び集める、また差し迫った危険について警告する、といったことのためにkulo’ を使いました。

I Guinahan I Matǻo Siha

1979年、イパオ・ビーチパーク (Ypao Beach Park) の建設中に、念入りに埋葬されている女性が発見されました。何百個ものビーズでできたSpondylus や他の貝が首や頭に巻かれており、腰のあたりには下帯に織り込まれていたと思われるビーズも見つかりました。彼女の遺体の傍には2体の男性の骸骨がありました。そのうちの1体には、肩に埋め込まれた槍の穂先が1つ見つかりました。25年後、ナトンビーチ (Ñaton Beach) での発掘の際に多くの装飾を身に着けた女性がもう1体見つかり、430 個のイモガイ (conus) ビーズやイモガイのブレスレットが腕に巻かれていました。どちらの女性もmatåo カーストのmaga’håga のようです。

Shell Tools and Ornaments - 貝の道具と装飾品

私たちの先祖は周囲の砂浜で見つかった貝を使って、例えばmanlasgue (スクレーパー) や gåchai (斧) などの日常の仕事のための道具を作っていました。

lalasas は水(すい)字(じ)貝(がい)から作られており、イモの皮を剥くときや、米の収穫に使われていました。

Tågong Haggan (べっ甲) は貴重品でした。欠片はお皿やディスクなどの装飾品に仕上げられ、富を表しました。それらはlailai (プレーンなシェルプレート) や pinipu (穴の開けられたシェルプレート) と呼ばれていました。貝に開けられた穴が多いほど貴重とされました。

Guinahan famagu’on (子供の富) は磨かれていないカメの甲のディスクが編んで繋げられた非常に貴重な装飾品で、長い方で直径が6インチから1インチまであります。首の周りをドレープのように飾り、不揃いなままお腹のあたりまでぶらさげられていました。1819年、フランスの探検家、ルイ・クロード・ド・フルシネ (Louis Claude de Freycinet) は、高い地位にあった者だけがべっ甲の装飾品を持っていたと記しています。Guinahan famagu’on もまた子供の命を救った人が身に着けていた可能性があります。

COAST - 海岸線

私たちの先祖は豊かな陶芸の伝統や、海岸線で生きるための知識を持っていました。彼らが残した工芸品から、彼らの暮らしぶりが分かります。

Litekyan (グアム)、Achugao (サイパン) および Tåga’ (テニアン) は太平洋諸島の中では最も初期のものとして知られている居住地の1つです。そこで見つかるempe’ tinaha (陶器の欠片) には3,500年も遡るものもあります。近くの川が陶器のための土を運んできました。またプレラッテ (Pre-Latte) およびラッテ (Latte) の遺跡で見つかった陶器の形やサイズ、また装飾における違いは、環境やライフスタイルの変化が反映されています

Marianas Redware - マリアナ陶器

プレラッテ (Pre-Latte) の陶器 (1500 BCから900 AD)

最も初期の陶器は厚みが薄く、石灰を鋭く彫り込んだ複雑な装飾が付いていました。陶器に掘られている模様やモチーフには、一族のシンボルや周囲に見えるものが反映されている可能性があります。

Marianas Plain Pottery - マリアナのプレーンな陶器

ラッテ (Latte) の陶器 (900 AD から 1700 AD)

約2,500年前より、陶器はより大きくて重くなり、厚みが増して装飾はシンプルになりました。中には縦方向に側壁が付いたものもあり、底は平です。約1,000年前になると、陶器の淵が厚くなり、装飾は僅か、あるいは全くなくなりました。私たちの先祖がより永住型の家に住むようになると、大型で重く、装飾の少ない日常使いの陶器が作られました。さらに、新しい陶器のスタイルには異なる食物や調理方法が影響を与えた可能性もあります。陶器のデザインや絵柄にも利用可能な材料の影響が見られ、また島々の間での取引を通じてもたらされるようになった可能性も考えられます。

WETLANDS - 湿地

グアムの湿地には草の生えた湿地、泥状の湿地、河口、谷川、泉、およびマングローブがあります。例えばuhang (淡水エビ)、pulan (ムーンフィッシュ)、alimåsak (小型のザリガニ) および atmangåo (マングローブカニ) など、多くの生き物がここを住処としており、大事なたんぱく源でもあります。

Nåsa

淡水のエビを捕まえるために、私たちの先祖はnåsa という罠を作りました。これは竹を割って作られています。餌はココナッツの果肉です。

Catching Eel - うなぎを捕まえる

Manåchang (一番下のカーストに属する人たち) は内陸に住み、主に自分たちで育てた物を食べていました。海にはほとんど行かれなかった彼らは、主に淡水や湿地での漁に携わっていました。枝や自分の手を使って hasuli (淡水ウナギ) や大きな魚を捕まえていました。Matåo や Acha’ot (最も高いカーストおよび中位のカースト) の人々はこれらを食しませんでした。

Rice -米

マレッソ (Malesso′)、ウマタック (Humåtak)、ハガニヤ(Hagåtña)、スメイ (Sumay)、イナラハン (Inalahan) およびタロフォフォ (Talofofo) の湿地帯はfå′i (米) を育てるには理想的な場所でした。太陰暦のFa’gualo (10 月下旬) に行われた田植えや6カ月後の収穫は主に女性の仕事でした。

1971年の考古学レポートには、ヨーロッパ人が到来する何百年も前に遡るロタ (Rota) で見つかった古代の陶器の欠片に米のもみの模様が付いていた証拠が含まれていました。マリアナは異文化に触れる前の時代の太平洋諸島における米生育の最東端でした。

マリアナでの米の栽培は私たちと東南アジアの島との結びつきを示しています。収穫されたもみ、または pugas は、一族の間や他の島々との間で取り引きされ、またのちにヨーロッパ人たちとは鉄との交換が行われました。米は今日チャモロの食料として定着しています。

私たちの先祖はフーハ (Fouha) で毎年祭りを祝っていましたが、ここでは霊の女神であるフーナ (Fo’na (Fu’una)) が最初の人間を創造したと信じられています。餅を献納し、祝福を受け、病気の者を癒すために村に持ち帰りました。米は出産や結婚の儀式にも使われました。米を祝福するこの祝いは最近になって Lukåo Fuha として復活しました。


SAVANNAH AND VALLEYS - サバンナと谷

私たちの島のサバンナは主に (ソードグラス) や åkgak (パンダナス) で構成されており、グアム南部に大きく広がっています。最大規模のラッテ (latte’) sabañeta (平原) または草地に見られます。Kañåda、すなわち谷は、火山性の土でできたなだらかな丘の側にあり、肥沃な土地はパンノキ、サトウキビ、バナナ、およびあらゆる種類のイモ類の栽培に適しています。グアムの草地は今では水牛やシカ、また野生のブタの住処となっています。

Planting -田植え

私たちの先祖は木の棒で土地を耕し、guålo’ (収穫) の時にはみなで助け合いました。耕作や田植えは主に女性主導で行われました。

Dågu

タロ、ヤム、その他のイモ類は初期の定住者によってマリアナにもたらされました。私たちの先祖はスニ (suni) を育てて根も葉も食べました。マネンゴン (Manenggon) やタロフォフォ (Talofofo) の古代遺跡では、古代の dågu の収穫用ピットが見つかっています。

The Lunar Calendar - 太陰暦

私たちの先祖は小さな空き地で植物を育てるほか、食料採取や漁で暮らしていました。太陰暦の各月は、気象条件や特定の月のフェーズにリンクした自給自足の生活にちなんで命名されていました。

JUNGLE - ジャングル

私たちの先祖はグアムの豊かな内陸の熱帯地帯をハロムタノ (hålomtåno’) と呼びました。多くの植物は既知のものであり、そこに彼らが種のないパンノキやバナナなどの新しい植物を加えました。Niyok (ココナツ)は、食物や飲料、また薬から日よけや道具の材料まで何にでも利用できました。今日、私たちの先祖の霊は hålomtåno’ に住んでいると信じられています。習慣的に、この聖地に入ってそこから材料を得る時に、私たちは彼らの許可を求めます。

Pugua’

私たちの先祖はpugua’ (ビンロウの実) の木や、ママオン (mamå’on) として知られる伝統を持ち込みましたが、これには pupulu (キンマ) や åfok (消石灰) と一緒にビンロウジ (pugua’) を噛む習慣が含まれていました。この習慣により社会的なやり取りや一族同士の交渉の基調が制定され、今日でもよく行われています。

Ifit

daogdokdok のような木を材料にした材木は、カヌーや家の土台、武器、掘削道具、その他の利用目的に使われました。しかし、Ifit は、特にそのサイズや耐久性ゆえに珍重されていました。

Titifok yan Mamama’

私たちの先祖はtitifok (機織り) や mamå’on (ビンロウの実を噛むこと) など、社会的慣習や伝統において、自然環境からの材料を用いていました。

Carved Wooden Objects - 木彫りのオブジェ

alunan hayu (ヘッドレスト)、木をベースに貝のスクレーパーと併せて作られているkamyu (ココナツ挽き)、putot (木製のモルタル) やlommok (すりこぎ) などを含め、人々は家庭用品を掘って作りました。グマ・ウリタオ (guma’ uritao) の未婚の若者は tunas を削って持ち運びましたが、これは地域的なデザインを彫り込んだ木の棒で、先端にはターメリックで染色され、pokse’ (ハイビスカスの樹皮) でできたタッセルが付いています。このようにして掘られた棒により、未婚男性を既婚男性と区別しました。

Woven Objects - 織物

織物は女性のみが行う仕事でした。ココナッツとパンダナス の葉を織り込んでguåfak (マット) の他、例えばåtof (屋根)、såtge (床)、håfyen maigo’ (毛布)、la’yak (帆)、håfyen matai (埋葬用の布)、håfyen patgon (だっこ紐)、tuhong (帽子) および dogga (サンダル) などのアイテムを作りました。

私たちの先祖はkottot (かご) を織って、いろいろな形やサイズに編んだ入れ物を作って様々な目的に用いました。Hakuk は大型の肩掛けかごで、保存食物を運ぶためのロープのストラップが付いていました。蓋つきの中サイズのバスケットである balakbak は、腰の位置で運びます。ålan tuktuk は中が同じサイズの 2 つの部分に分かれていました。 åla はヤムを運ぶために作られ、guagua’ には獲りたての魚を入れ、tataho には収穫したばかりの米を入れました。Ålan mama'on は小型のかごでpugua’pupulu および åfok を運びました。Katupat は小型でひし形をした箱で、仕事中にtengguang、すなわち食事を提供するものとして米を調理したり運んだりするために使われました。


Flying animals of Guam - グアムの空飛ぶ生き物

私たちのジャングルには元々14種類の鳥が住んでいました。一部は食物として狩猟されました。もう1つの空飛ぶ生き物であるfanihi (オオコウモリ) は、長い間珍味と考えられており、現在は絶滅の危機に瀕しています。

私たちの国の鳥であるko′ko′ (グアムレイル) や chuguangguang (グアムヒタキ) はグアム固有の鳥です。私たちの島は海や沖、また水辺の様々な鳥の住処でもあります。

住む場所がなくなり、またミナミオオガシラなどの外来種の侵入により、私たちの固有の鳥はほとんどが絶滅の危機に瀕しています。

Tinige’ i Manaotao Mo’na Siha

Cave pictographs -洞窟のピクトグラフ

私たちの先祖は洞窟の壁に消石灰から作られた白いペースト、炭でできたい黒いペート、および土からできた赤いペーストでシンボルを描きました。これらの洞窟のアートはグアム、サイパン、およびロタで写真撮影されたもので、同じように文化的、かつ精神的な重要性を持っていました。