GINEN I MAÑAINA-TA

our ancient heritage - 私たちの古代遺跡

私たちの島は太平洋の中では最初に人が住むようになった島であり、彼らは新しい故郷を探し求めるプロの航海士たちでした。やがて彼らは Gåni と呼ばれる北方の島々も含め、群島全体に居住するようになりました。私たちの先祖は積極的に地域を移動し、貿易に携わり、他の島の住民と姻戚関係になりました。

約1000年前、海抜の変化により岩(がん)礁(しょう)が固定され、居住可能な土地が増えました。私たちの先祖は人口が増えるとともに内陸に移動しました。彼らはラテ (latte’) の基礎の上に家を建てましたが、今日その遺跡は私たちの太古の有形の思い出であり、また私たちの文化が長く続いてきたことを象徴しています。

親族関係や継承は婚姻による一族の系列や大きなファミリーネットワークを通して決められていました。彼らは交換や相互関係の複雑なシステムを守っていました。口伝による歴史や血統は豊かなストーリーテリングの伝統によって継承されました。一族の首長はマガハガ (maga’haga) およびその兄弟のマガラヒ (maga’lahi) でした。社会的秩序にはmatao または manmå’gas が含まれ、彼らは最高位のカーストでした。acha’ot カーストのメンバーは熟達したカヌーの建造者、クラフトマン、ハーブヒーラー、そして魔術師 (makåhna yan ka’kåhna) でした。Manåchang は召使の仕事をしていましたが、主要な latte居住地からは離れて暮らしていました。

GUMA’ HIGAI

Pole-and-thatch dwelling - 柱と葺き屋根の住まい

私たちの初期の先祖はヤシで拭いた屋根の乗った木造の家を建てました。これらは地面の上または木の柱の基礎にも乗っており、東南アジアの島に見られる家とは似通ったスタイルになっています。

ARCHEOLOGICAL STUDIES - INESTUDION GUINADDOK SIHA

考古学的研究

マリアナは遠隔海洋諸島において最も長い資料と記述による記録が残されているミクロネシアの群島の中でも、最も多くの考古学的研究がなされています。白骨化した遺体や埋葬物を見ることで、考古学者は人々の暮らし、食べていたもの、一般的な健康状態や死者の葬り方を描くことができます。

チャモロでは魂は死なないと信じられています。一族のメンバーは近くに置いておくために家の下に埋められ、その頭蓋骨を使って助けや導きを得るためにコミュニケーションを取りました。一般に、人々は海岸線に沿って埋葬され、足は海の方に向けられました。プレラッテの埋葬はより念入りで、より多くの副葬物が入れられていました。

Tooth Art

ほとんどの成人は歯をキンマで染めていましたが、中には目に見える表面に精密な格子模様を掘って化粧を施す者もいました。Matåo の女性は歯を黒または茶色がかった赤に染めましたが、これは痛みを伴い、14日間かかり、この装飾は正式なgupot (祭り)で祝いました。

The Man from TAGA’ , Tinian, CNMI -タガの男の容貌

テニアン (Tinian) の タガ (Tåga’) 遺跡で発見された500年から800年前の頭蓋骨が1998年につなぎ合わされ、その人がどのような外見だったかが分かりました。骨の分析により、彼は50代半ばで亡くなったことが分かりました。頭蓋骨に傷ついた骨の治った跡があり、これはおそらく若い頃に顔に負った貫通性の刺し傷に起因すると思われます。

CANOES - カヌー

カヌーを削ることは、何代にもわたり受け継がれてきた聖なる伝統知識です。全てのピースがきっちりと合わさるように木を完ぺきに裁断して削る必要があります。記録に残る最も大きなカヌーは長さ52フィート (約 15.8メートル) と言われていますが、26-28フィート (8―8.5メートル) の船が最も一般的でした。

アシンメトリな船(せん)殻(こく)と舷(げん)外(がい)浮(ふ)材(ざい)は、チャモロおよびミクロネシアのカヌー、såhyan のユニークな特徴でした。låyak (帆) 帆は織られたpandanus (パンダナス) でできており、船殻の片方の端からもう一方の端に動かされました。初めて見たヨーロッパ人にとって、そのプラウ船は「最大時速 20 マイルの速度で水の上を滑るように飛んでいる」ように見えました。

CANOE MODELS - カヌーのモデル

私たちの先祖はsakmanlilek、duding およ duduli のような帆付きのカヌーを使用して、島々の間を移動しては取引や深海での漁、およびネットワーク作りをしていました。Pangnga および galaideはパドル式のカヌーで、岩(がん)礁(しょう)の内側での漁や移動に使われました。

CANOE REPLICA - カヌーのレプリカ

この1/4スケールのチャモロの sakman のレプリカは、伝統的な技術を用いて地元の航海士によって作られました。彼らはミクロネシアのカヌー建造の第一人者から指導を受けました。

NAVIGATION I HINANAO TÅSI

私たちの伝統の中で最も神聖で古いものは、航海術とカヌーの建造に関するものです。進んだ船乗りの知識とカヌーのデザインで、私たちの先祖は何千マイルも移動してマリアナ諸島に到達しました。これらの卓越した航海士たちは Timek (北極星) や他の星座を目指し、雲のフォーメーションや波のパターン、海の色、また海鳥や海洋生物の存在を観察しながら航海しました。

航海術は若い男性の親族に早い時期に教えられます。思春期までには、彼らは自分で航海できるようになりました。

fahang dångkolo (茶色いアジサシ) が現れると、陸が近いことが分かります。鳥は海の上を飛んで餌を食べ、夜になると陸に帰るのです。

雲はしばしば島の上空で集まり、野菜の緑を反映することもあります。

Star Map of Knowledge -星図の知識

星図の知識とは恒星のコンパスのことであり、航海士が自らの位置を知ることができ、夜空の星の相対的な位置に方向を向けることにより特定の島のある方向を知ることができました。


A. うねりの方向は島を廻るにつれて変化します。

B. 遠いサイドでは、うねりが重なります。十文字のパターンにより島の位置が分かります。

C. うねりは跳ね返ることもあります。跳ね返ったうねりの形により島との距離と方向が分かります。


VOYAGING AND TRADE - 航海と取引

外洋航海をしていた頃、私たちの先祖はマリアナやカロリーヌ諸島、またどこへでも、sakmanで取引のために航海しました。フィリンピンや台湾、日本沖の琉球諸島、またさらにその先まで移動していたようです。

私たちの先祖には鉄と金属 (lulok)の知識があり、そえらは道具として価値を持っていました。熟達した海のトレーダーとして、他の帆付きの船に出会うと、新鮮な水、魚、また果物を鉄と交換していたようです。

LATTE’ ARCHITECTURE - ラテ (Latte) のアーキテクチャ

私たちの先祖は latte’ の石の基礎を築きました。これは haligi (柱) と tåsa (柱頭) とでできています。guma’ såhyan tåsi (カヌーの家) や guma’ uritao (独身男性の家) のような建物は ラテの列の上に置かれ、海岸線や崖のラインに平行になる向きに置かれます。

ラテは、例えばポンペイのナンマトル (Nan Madol) やラパ・ヌイのモアイ像 (イースター島) などの太平洋の他の巨石が建てられる前の、900ADごろに初めて現れました。

様々なサイズがあるラテは、6から14セットもも並行に建てられています。最も印象的なラテ (約4.5メートル) はテニアンのタガ遺跡にあります。ロタのアス・ネベス採掘場には知られている中では最も大きい haligi および tåsa があり、これらは地面の中に残っています。

ラテは木の床に安定した基礎を提供し、地震の時も安全が保たれます。ラテはguma’ を湿った地面から持ち上げ、害虫を寄せ付けず、換気できるようにして、建物の下に日陰やストレージスペースを提供します。

ラテを造る者は岩(がん)礁(しょう)やサンゴ、消石灰、砂岩、火山性の砂岩 や玄武岩など島のあちらこちらで見つかる様々な地質物質を使用しています。

Object: Lusong -ルソン

ルソン (Lusong) は食物や薬用のハーブを処理するために lommok (石のすりこぎ) と共に使用される石のモルタルです。ルソンとして使用された石の表面が洞窟の近くで発見されましたが、他のものはラテの遺跡で発見された移動式の巨石 でした。

WAY OF LIFE - 生活様式


17世紀に代わる頃、私たちの先祖は母系 (母方) の結びつきに則った高度に組織化された社会でした。家族が集まり、食事を分け合い、ゲームに興じ、物語を語り、話し合い、また力や技を競うgupot (祭り) を楽しんでいました。

彼らは chenchule’ と呼ばれる相互関係および交換のシステムを実施していました。古代の社会秩序では famagu’on (子供) mañaina (お年寄り) を大切にしていました。

必要なものだけを使い、土地や海をこれらの天然資源の導き手として深く尊敬しました。私たちの先祖は親切で寛大な生き方が特に秀でていました。mana’daña (共同)、manafa’maolek (協力)、そしてmana’gofli’e (相手の中に最良のものを見出すこと) の価値は、調和の哲学、和解、および争いの解決に対する真の証言です。

I Mesngon, Ayu Åpman

私たちの先祖は優れた語り手でした。kantan CHamorita (チャモロの歌) およびストーリーテリングの伝統は、彼らが再生する言葉や暗喩の使い方、またユーモアによって息を吹き返すのでした。このようなアートの形式は、私たちの Fino’ Håya (マリアナの土着の言語) の美しさと豊かさを反映し、今日まで続いています。

私たちの先祖の物質的な文化はよく発展し、極めて技術的です。彼らは東南アジアの島からマリアナの故郷に至るまで、先祖たちの知識やスキルを受けついできました。彼らの クラフト、丹精込めた道具作りや建築には、その環境との や親和性、および世界の文化における重要な足跡を生み出す能力を示しています。

ISLA DELAS LA DRONESS - 泥棒の島々