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A WAR NOT OF OUR MAKING- 私たちが起こしたものではない戦争

**SENSITIVE SUBJECT MATTER**

戦争前の私たちの生活は安定し、家族の幸福を映し出していました。私たちは活気あふれる田舎での自足自給の経済を営み、人口も増え続けていました。Sumay や Hagåtña が島の商業の中心地になっていました。これら全てが変わろうとしていました。

ほとんど何の説明もなく、海軍は1941年10月に所属の人員やその家族たちをグアムから避難させ、チャモロ人には残った僅かなアメリカ軍の人員とともに自衛させました。

一部の家族は今後大変な時が来ると警告を受け、戦争に向けての準備を始めましたが、私たちが起こしたものではない戦争にグアムがどれほどの規模で加わるのか疑うものは誰もいませんでした。

THE BEGINNING OF THE WAR - 戦争の始まり

1841年12月8日、まず日本軍が Sumay を爆撃しました。 Larry Lujan Pangelinan および Teddy Flores Cruz はパン・アメリカン・ホテルの従業員でしたが、彼らはグアムの最初の犠牲者でした。Sumay への爆撃の知らせはSanta Marian Kamalen を称えるミサを祝っている最中に Hagåtña に届きました。司祭の Miguel Olano は人々に避難場所を探すよう指示しました。Hagåtñaに続くあらゆる小道や4本の幹線道路は、町の外のlånchos に殺到する約11,000人の人々でごった返していました。

12月10日にHagåtñaが侵攻された後、グアム島の衛兵は後に残って Plaza de España を守りました。アメリカ海軍の総督はその後すぐに投降しました。これが日本の帝国軍によりグアムが占領された始まりでした。

LIFE DURING THE JAPANESE OCCUPATION - 日本占領下の生活

日本の占領下で、グアムは大宮島と改名され、14,000人の日本軍のキャンプになりました。彼らは建物や家を押収し、私たちの動きを監視するために外出禁止令を開始しました。情報をコントロールするためにラジオが没収されました。多くの人々は移動させられ、Sumayの住人はApraや他の農地から立ち退かされました。

日本人はグアムで自分たちを助けるよう、北マリアナ諸島からチャモロ語の通訳を連れてきました。日本の支配の元での生活はたいへんでした。食料は少なく、兵士たちが僅かな反抗を感知しただけでも罰を科すことがたまにありました。

中には私たちとうまくやろうとする日本人もいましたが、風向きが悪くなると、彼らはより暴力的になりました。私たちは強制労働に苦しみ、レイプされたり拷問を受けたりする者もおり、Tinta、Faha そして Chagui’an などでは日本人によって集団殺戮もありました。深い信仰によって私たちは強さを保ち – そして生き延びたのです。

FATHER JESUS BAZA DUEÑAS 神父

チャモロ人の司祭、Pale’ Duenas はグアムにおける教会のリーダーでしたが、Edward Duenas および Juan U. Pangelinan と共に拷問を受けて殺されました。Pale’ Duenas はアメリカ人の George Tweed を保護し、日本当局に逆らったために告発されたのです。

ULTIMATE SACRIFICES - 究極の犠牲

多くの勇敢なチャモロ人が日本人に抵抗して殺されました。刑を執行される前にひざまずいているJesus Salas は、グアム島衛兵のメンバーでした。

Concentration Camps - 強制収容所

アメリカの攻撃が始まると、日本兵は私たちのほとんどを強制収容所に向かって行進させました。最も大きなものは Manenggon にありました。移動は困難で、生き延びられなかった者もいました。食料は極めて少ないものでした。キャンプでの状況は恐ろしいものでした。

CAVE MASSACRES - 洞窟での大量虐殺

最後の日々の間、日本兵は私たちを何百人も殺しました。多くの女性がレイプされて殺されました。Fena や Malesso’ の近くでは約80人の住人が殺害され、Chagui’an、Yigoでは45人の男や少年が殺されました。


ATÅTE RIVER- ATÅTE 川

Malesso での大量虐殺に呼応して、Jose “Tunko” Reyes に率いられた約 20 人の村の男たちが10人の日本兵を殺害し、Atåteを奪還しました。この勝利が戦争の転換点となりました。

AMERICANS RETURN 1944-1945 - アメリカ人が戻る 1944-1945

1944年7月、アメリカ軍が13日間連続でグアムを爆撃しました。この軍事行動により Hagåtña と Sumay は全滅しました。爆撃の間、私たちのほとんどは強制収容所に留まっていました。

幸いにも日本の占領から救い出された私たちは、戦争の焼け跡から再建の道を歩み始めました。多くの者がよそへ移住しました。Sumay は大きな軍事基地となりました。Hagåtña の住人はSinajana や Barrigada のような戦後にできた村に移住させられました。私たちは再びアメリカ海軍の監督下に置かれました。

Gift to the Guam Museum from Retired Brig. General C.I. Murray, USMC

Two young children holding an American flag after the liberation of Guam in July 1944. The flags were made in secret by the boys mothers from parts of dresses during the Japanese Occupation. The flag were used by locals to identify themselves to the American soldiers. The photo was taken on August 10, 1944 by Pulitzer Prize photographer, Joe Rosenthal/AP.