3千年の時を超えて、私たちの先祖は安定して自立した、環境的にバランスの取れたライフスタイルや社会的秩序を発展させてきました。変化の兆しが見えたのは、ヨーロッパの探検家がやってきた時でした。
まずスペインがやってきて、土地や人々に新しい宗教や政府、それに社会的構造を強制しました。私たちの先祖は30年近くも抵抗を示しました。多くの者たちが疾病により亡くなりました。
様々な旗が上がっては撤退していきました。このような揺れ動く時を通じて、私たちチャモロのアイデンティティに対する感覚は強いままでした。
(CHamoru)
Tungo’ påtgon-hu i fina’pos-mu. Ekungok maolek i fino’ mañaina-mu. Fanatahguiyan i ha’åni, på’go pa’go-mu, agupa’ ti agupå-mu.
My child, know your past. Listen well to the words of your elders. These are changing times. Today is your today. Tomorrow may not be yours.
私たちの先祖が初めて西洋と遭遇したのは、フェルディナンド・マゼランがやってきた時でした。1565年、ミゲル・レガスピ (Miguel Legaspi) は私たちの島をスペインのものだと主張しました。この間、他の探検家や海賊、また捕鯨船もグアムに立ち寄りました。
「オセアニアの凌辱はグアムから始まった」
ダグラス・L・オリバー
西洋人は、当初私たちの島をde la Velas Latinas (三角形の帆の島) と呼んでいましたが、それはマゼランのフリートに何百というフラウ船の三角に織られた帆に出くわしたためです。3日経つと、今度はIslas de los Ladrones (泥棒の島) という名前を付けましたが、これは文化的な誤解によるものでした。後に、ディエゴ・ルイス・デ・サンヴィトレス神父が、自らのパトロネスであったオーストリアのマリア・アナ女王をたたえて島を改名しました。
ウマタック (Umatac) は多くの船にとって寄航港になりました。私たちの先祖はこれらの訪問者と取引を行い、水や誰もが欲しがるマリアナのケーパー、食料および労働力を提供して、鉄や他の文物と交換しました。Mai’es、achote、donne’ および家畜はやがて主要な食物となりました。
マニラ・ガレオン貿易 (The Manila Galleon Trade) やナオ・デ・チーナ (La Nao de China) は太平洋上では初めての世界的貿易ルートでした。250年の間、人、アイデア、植物、動物、および中国の陶器のようなぜいたく品、金、銀、およびスパイスがこれらのガレオン船で輸送されました。ここで取り上げたピラール号 (The Pilar) は1690年にココス諸島近海で沈みました
世界における覇権を確実にするために、スペインは陸と富を求めて新世界のあらゆる場所に征服者を派遣しました。私たちのような先住文化はかつてないほどに脅威を覚えることになったのです。ヨーロッパの宗教熱が征服欲に火をつけ、その結果、十字架と剣との間で不名誉な同盟が結ばれたのです。
植民地の設立と共に困惑と不満が大きくなりました。ひどい干ばつに見舞われた当時の状況により緊張が助長されました。私たちの先祖はジレンマに直面したのです。中には洗礼を受けて妥協を選択した者もいました。他の者は1671年にスペインに対抗して立ち上がるために2,000人の戦士を呼び集めたフラオ (Hurao) のように、使命を心に留めた者もいました。
1680年、植民地の支配は司祭からスペイン人の知事に移りました。メキシコやフィリピンのインディオと同様に、私たちの先祖はスペイン風の名前を付け、輸入した布で作られた 服を着て、カトリックのアイデンティティを実践しました。スペインの旗の元での生活は教会の鐘によって規定されました。セレモニーの伝統は fiestas patronales (教会の守護聖人) に明け渡されました。私たちの先祖はラテ建築を建てるのを止め、陶器の作成も止めました。船に乗ることも深海用のカヌー作りも廃止されました。
グアムは探検家や捕鯨船、そして海賊にとって重要な寄航港 になりました。このように世界中から訪れた者たちが残したものの中で最も永く続いている遺産は遺伝子プールへの貢献でした。多くの子供たちがチャモロの女性とこれらの船乗りたちとの間に生まれました。この頃にまで辿ることができる姓もあります。
私たちの先祖の旅は、3世紀もの間の衝突や妥協を通じて、新しい現実を生み出しました。何世代ものチャモロの人々が圧制を耐えて生き延び、mestisu、すなわち混合文化を生み出しています。
チャモロとスペイン、フィリピン、メキシコ、およびその他の国々との相互関連性は私たちの生き方、信じるもの、食べ物、そして祝い方までにも強い影響を及ぼしてきました。このような先住民と外国の両方の影響を受けたこのユニークな組み合わせは、集合的に Kostumbren CHamoru (チャモロの習わし) として知られるようになりました。
私たちのものは私たちの家族全体に根差した歴史的遺産であり、私たちの相互依存のシステム、私たちの古代の言語、そして私たちの自然環境との親密な関係性。i fina’pos-taの教え 、すなわち私たちの先祖の旅が、回復力があり未来への挑戦に立ち向かう私たちの能力を形作ってきたのです。
グアムは探検家や捕鯨船、そして海賊にとって重要な寄航港 になりました。このように世界中から訪れた者たちが残したものの中で最も永く続いている遺産は遺伝子プールへの貢献でした。多くの子供たちがチャモロの女性とこれらの船乗りたちとの間に生まれました。この頃にまで辿ることができる姓もあります。
1898年6月20日、アメリカの軍艦、チャールストン (USS Charoeston) に乗船していたヘンリー・グラス船長 (Captain Henry Glass) がアプラ湾に入港し、フォート・サンタ・クルスで発砲しました。知事のホワン・マリナを含むスペインの役人たちは戦争捕虜となりました。21台の銃による祝砲と共にアメリカの旗が揚げられ、「星条旗よ永遠なれ」が演奏されました。
1898年のパリ条約でグアムは公式に降参し、私たちはスペインとアメリカの戦争の戦利品としてアメリカに降伏しました。1つの世界パワーからもう1つのものへと支配権が移ることにより、大幅な混乱が起き、地元のリーダーたちの間でも 動揺が起きました。
アメリカ帝国に従属することになったチャモロは、スペイン政権の元で持っていたわずかばかりの統治が海軍政府の独裁支配の元で消滅してしまったことにすぐに気が付きました。海軍政権の優先順位は私たちの民主主義を保証することよりも、「運命と使命の実現」の一環として帝国を打ち立てることにありました。
1917年、知事のロイ・スミスは、公式な政治力を持たないアドバイザリー団体として初のグアム議会を指名しました。しかし、チャモロのメンバーは政治的な問題を擁護し、差別的な行政命令に立ち向かいました。
私たちにとって大きな落胆となったのは、信心深い者のために司牧を行う唯一の司祭として ホセ・ベルナルド・パロモ・イ・トーレス神父 (Pale’ Jose Bernardo Palomo y Torres) だけを残し、グアムから全てのスペイン人司祭を追放したことです。
覇権を奪った直後に、海軍政府はチャモロのアメリカ化のスケジュールを打ち出しました。私たちは、自分たちの文化的慣習、宗教的信心、言語、伝統、食事、および生活様式が古いと感じるように仕向けられました。
私たちのmañaina は衛生化のスローガンや英語以外の使用を禁止するポリシー、また日常生活を規定する命令を浴びせられました。口笛を吹くことも禁じられ、音が出るスリッパを履いてはならず、衣服の裾は地面に触れてはならず、夜は出歩くことを禁じられ、宗教的な祝いは厳重に制限されました。海軍はこの他にも、ほとんどの者が支払うことのできないほどの土地税を課しました。
と同時に、学校が必須になりました。海軍の管理を支援するために給料ベースの経済が課されました。差別的な行いは当たり前でした。アメリカ式にする罠、すなわちファッションやスポーツ、パレード、クラブ、映画、音楽、エンターテインメント、食事、休暇、および展示会なども導入されました。チャモロの人々は給仕やコックとして積極的に軍隊に採用されました。
チャモロの人々はすぐに、前に進むためにはアメリカ人として振舞わねばならないことを学んだのです。
私たちの lånchos (大きな牧場) はいつでも私たちにアイデンティティや安心感を与え、私たちを大地や伝統と結び付けてくれます。食物を育てて準備するスペースがあり、リラックス