[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 65
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/04/24 12:11
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黒川美和は女性自衛官である。だが同時に看護師でもある。
衛生看護科のある高等学校を卒業した後に、とある民間病院に就職。さらに病院のひも付きで高等看護学校(夜間)に通って正看護師資格を取りそのお礼奉公(学費を出して貰ったお礼として一定期間、安い賃金で勤め続ける。この間に退職しようとすると、莫大な違約金が発生する傭兵契約みたいなもの)として手術室、救命救急、ICU、精神科病棟と同じ病院でも過酷な現場ばかりで働かされた。
そんな彼女が病院を出て自衛隊に入ったのは、看護師間の合い言葉ともなっている「研修医にひっかかるな」という禁をついうっかり破ってしまったからだった。しかも相手は、どうもお脳の調子が緩んでいるお坊ちゃま医師。
たった一度の飲み会で、向かい合って座った際の愛想笑いに何を勘違いしたか、黒川が自分のことを好きだと思い込み恋人でもないのにつきまとい、居もしない他の男に嫉妬すると言う暴挙に出た。
これに参った黒川は、莫大な違約金を払って逃げ出すように退職して他の病院へ。しかし、引っ越し先にまでストーカー医師は追いかけて来て、しかも毎日のように電話がかかってきて、アパートからは盗聴器が見つかって、憔悴のあまり自殺という単語さえ脳裏に浮かぶほどに追い詰められてしまったのである。
だが、たまたま知り合った入院患者さんの一人が、「どうしたの?浮かない顔して」と声を掛けて「そう言った勘違い野郎が絶対に入って来れない安全な場所があるけど興味ある?」と教えてくれた。
聞けばその場所は、敷地の四方は全て有刺鉄線や高い塀によって囲われており、生半可な者では忍び込むことは到底不可能。さらに、24時間態勢で常に屈強な男達によって厳重に警備されており、明確な理由もなく外部の者が出入りすることも無理。内部には売店その他がそろっているから、籠もっていようと思えば何ヶ月でも何不自由なく籠もっていられると言う。
藁にも縋る思いだった黒川は、自衛隊地方連絡部(当時/現在は地方協力部)と書いてある名刺を握り締めて、即座に「行きます」と答えたのである。そして陸上自衛隊朝霞駐屯地で寝起きすることになって、ようやく安心して眠ることの出来る日々を手に入れたのだった。
そこは確かに安全であった。
勘違いしたストーカー医師は、営門の前まで来たが中まで入ろうにも89式小銃をもって警備する隊員に怯えて、うろうろすることしか出来なかったのだ。当然盗聴器の類は仕掛けられない。
電話だって携帯電話を解約してしまえば代表電話しかない。「はい、朝霞駐屯地です」と言って男の人(希に女性もあり)が電話に出るのに、無言電話も「はぁはぁ」電話も出来ない。手紙の類も駐屯地で一括して受けて(危険物チェックはここでされる)営内斑の班長が手渡す仕組みだから、差出人不明の変な手紙が届いてれば、万事弁えてる班長が「棄てちゃえ棄てちゃえ」と読まずに棄てることを推奨してくれるわけだ。
もしストーカーが、休日になれば出かけるだろうと思って門前に車を止めて待ち伏せてても、東京都と埼玉県の境にある朝霞駐屯地の敷地は広大過ぎるほどに広大で、営門も数カ所に及ぶ。しかも、長時間駐車していれば警察官がやって来て、「君、どこの反戦団体の人?」とか言って免許証は確認されるし、カーナンバーまで控えられてしまい、下手すると公安関係者や自衛隊の2科や、情報隊から調査されたりと、おちおち待ち構えていられないのだ。
入隊して13週間。一般曹候補生前期教育もあと3週間となった頃、営内斑の居室でのんびりとお茶を飲んでいた黒川は、班長と一緒にやって来たスーツ姿の人に「君、君、一寸来たまえ」と呼ばれて、「この人知っている?」とストーカー医師の写真を出された。
「はい、知ってます」これこれこういう人ですと事情を説明。すると、正体不明のスーツ姿の人は、げんなりした表情をして事情を説明してくれた。
このストーカー医師は雨の日も風の日も「健気に」駐屯地前で黒川が出て来るのを待っていたらしい。だが、時々やってくる赤い旗とか、のぼり旗をもった人達の群れに取り囲まれて、這々の体で逃げ出したり、「一緒に、シュプレヒコールしましょう」と巻き込まれたりしていくうちに、平和運動の女性と親しくなったようで、今ではストーカー医師から平和運動の活動家医師へと昇格してしまった。
「ま、そう言うことだから、もうつきまとわれたりしないと思うよ」とのこと。そのかわり、ストーキングの対象が自衛隊になってしまったが。
自衛官になったのが、こんな経緯であった黒川だから、栗林のように強い男を見つけたいとか、自衛隊に対する憧れがあるといった前向きな希望はなかった。ただ、自衛隊の海外派遣とか、災害時の救助など、普通に病院に勤めていてはとても出来ないような経験が出来ることは嬉しく思っている。自衛隊側も黒川の持っている技術と経験を貴重なものと評価しており、早々に二等陸曹にまで昇進させている。もちろん指揮命令系統に組み込まれた、現場指揮が出来る二等陸曹としてである。(自衛隊看護学生が看護師の資格をとると二等陸曹になるが、資格と職に対して与えられた身分としての階級なので、一般隊員の部下が与えられて現場指揮をするわけではない。例えると軍医がどれだけ偉くても部隊を指揮させてもらえないのと同じ)
唯一の悩みと言えば、男の多い職場なのに、男に縁がないことだろう。
看護師という職業とこれまでの経験もあって、男性に対する視線が自然とシビアで警戒的になってしまうのだ。接する時の物言いも、ついつい辛くなってしまうし、彼女の背丈に釣り合う男も少ないから倦厭されているのだろう。
「だったら、少しは隙を見せて男が寄って気安くなるようにすれば良いのに」と同僚に言われてしまうが、どうしても身構えてしまうのだからしょうがないのだ。
言い訳すれば、「いずれは治すつもりなのですが、だけど今はダメ。治したいと思わせてくれるほどの男性が現れないのですわ」となる。
そう言うわけで、今は自分の恋路より、他人の恋花や浮いた話を愛でることにしている。その代表格がレレイ、ロゥリィ、そしてテュカの伊丹争奪戦である。
隊内給湯室ネットワークの胴元発表によると、掛けの倍率は現在一枠・ロゥリィ1倍、二枠・レレイ1.5倍、三枠・テュカ4倍、四枠・ヤオ4倍となっている。
ロゥリィが、やっぱりダントツの一番人気で、レレイがそれを追っている。
レレイがロゥリィに負けている理由としては、やはり実年齢が未だに16才になったばかりというところにあるかも知れない。いかに伊丹と言えども、手を出すことには躊躇すると思われているのだ。
だったらロゥリィだって同じ事と言う意見もあるが、彼女の場合は外見はともあれ900才を越えているわけだから、法とかモラルといった規制は完全にクリアされている、いわゆる合法ロリということに強みがあるのだ。
だが、レレイを推す者は言う。彼女とて16才になった。民法上は結婚可能年齢だと。青少年育成なんたら条例も結婚を前提の真面目なつき合いなら合法という判例が出ている。その意味では彼女もギリギリセーフである。そしてなにより相手は、あの伊丹ではないか、と。
つまり伊丹と言う男をどう評するかで、判断が割れるのだ。
「あれでも、一応×1だからなぁ。結婚はできたってことだろ」
「でも、×がついた理由にもよるんじゃないか?相手の女性が成長して、興味が持てなくなったって理由なら永遠のロリがガチだろう」
その辺に流布している程度の情報は、それを確かめる材料となってくれない。
テュカ・ルナ・マルソーが大きく遅れているのは、首位争いを避けて「お父さん」と呼べる気楽な娘的ポジションに納まっているからであった。
伊丹に積極的にすり寄ることもなく、いつも少し離れたところから彼を見ているという感じである。そのために憎からず思ってはいるだろうが、それは恋心ではないという説が強いのだ。ヤオの評価が低いのも、ほぼこれと同じとなる。
ちなみに、黒川8倍、栗林6倍のオッズがついていることを知った二人が、胴元を絞めに行ったのは内緒の話だ。
閑話休題(むだばなしはさておいて)。
さて、この手のレースで勝ち馬投票券を買うと言うことは、その馬を応援することを意味する以上、黒川が賭けるのはレレイやロゥリィではなく、テュカと言うことになる。
理由は簡単で、彼女の内心の葛藤を知っていたからだ。
黒川は、炎龍に襲われたコワンの村で彼女の救助と看護に関わって以来、彼女の健康や悩みなどいろいろな相談を受けて来た。父を失った悲しみに耐えられず、精神の平衡を欠いていた時、その是非はともかくとしても一番熱心にテュカの先行きを心配したのは黒川だった。彼女が不安や恐怖に震えていた時に夜遅くまで付き添い、時に一緒に寝てまでも支えようとしている。
炎龍退治という方法で、テュカを狂気から解放した伊丹には、ある種の嫉妬すら感じたほどだ。それが、決して自分には出来ない方法であったがゆえに、自分のしてきたことの徒労感と無力感に打ち拉がれたのである。
だが、テュカが精神的な健康を取り戻してからも彼女が心を開いて相談をしてくるという仲は続いた。もう親友とも言える仲である。それゆえに、彼女の悩みや内心の葛藤につねに耳を傾け、一緒に悩んでいるのである。
だから言えるのだが、テュカは恋愛面では非常に臆病者である。
それもまぁ、仕方がないと言えば仕方ないかもしれない。
狂気から解放されて、伊丹を見た時の彼女の心境は、深酒して酔っ払い、みっともないことを言ったり、やったりしまくった翌朝、全部の記憶が鮮明な状態で、相手と向かい合ったに近いのだから。
父とはまったく似つかない男を「お父さん」と呼び、しばしの間起居まで共にした。甘えまくり、時には抱きついたり、一緒に寝てくれてとせがんだり、我が儘を言ったり、口では言えないくらい恥ずかしいことも……してしまったりたりしなかったり。穴があったら飛び込んで埋まってしまいたいぐらいの心境だったという。
「あうあう、お願いミワ。あたしを埋めて」
ミワとは黒川のこと。
頭を抱えてしがみついてくるハイエルフの娘を見下ろして、思わず携帯円匙(えんぴ)を持ってきて本当に埋葬してやろうかと思ってしまった。
テュカは自分から「お父さんが、大好き」と言うほどのファザコンだ。そして、その気持をそのままそっくり向けてしまった。伊丹もよくぞ我慢したと褒めたくなるが、もし理性のタガが吹っ飛んで襲って来たらきっと受け容れてしまっていた。いや、たぶん抵抗する気になんてなれなかったに違いない、とまで言っている。
男という種を全くもって信じていない黒川としては、当然のことながら心配になって、「な、何もされてないのね?」と再度確認。
すると、「……………何もなかったの」と、うなだれた口調の返事があった。
その言葉は何もなくて良かったという安堵を感じさせるものであったが、同時にどこか残念そうな響きも感じられて、黒川の胸中は複雑である。
何もなくて残念という気持が、父親と伊丹と、はたしてどちらとの関係に向けられているのか今ひとつ理解できなかったし、理解出来たら出来たで自分の持っている一般的な倫理観というかモラルといったものが激しく動揺してしまうような畏れがあったからだ。
「普通の男なら、あそこで手を出すわよね」
おかしな関係にならずによかったはずなのに、伊丹に対する思慕の情をはっきりと感じている今のテュカには、あの時、何故手を出してもらえなかったのかという問題は、ひっかかりとなっているらしい。つまり、自分を面倒な女と思っているからではないか、とか、女性としての魅力に欠けているから、とか、女として見てもらえてないからではと、悩んでいるのだ。
黒川としては、伊丹がどういう理由で我慢したかは知らないが、手を出されていたら別の意味で悩んだろうと思うから、こうフォローするしかない。
「相手のことを大切に想っているから、不用意なことをしない男もいるって言うわ。伊丹二尉はそう言う人なのかもしれない」
言った本人自身が信じていないセリフに説得力などあろうはずがない。はたしてテュカも懐疑的なままで「そうかな?」と首を傾げる。
「………多分、もしかしたら、きっと、かも知れないわ」
こんな助言が何かの足しになるということは当然無い。さらに、自分のしでかした事への羞恥心もぬぐえずに澱となって溜まっている。そんな状態だから、自ずと伊丹と距離は当たらず触らず、でも親しい距離にいたいということで、「お父さん」と呼び、「どうしたテュカ?」と返事が戻って来る関係に落ち着いたというわけである。要は逃避である。
そして今日に至るまで、何事もなかったかのように、ポーカーフェイスをしっかりと固めて伊丹と接していると言うわけだ。伊丹に対するアプローチも出来ないで居る。そして、その分黒川へと泣きつくわけだ。
ところが、門を閉じなければならなくなって、事態は動き出す。
これまでも積極的だったロゥリィは、伊丹を捕まえるためにさらに積極さを増すだろうし、レレイは三日夜の習わしが済んでいることを楯にして伊丹の逃げ道をふさぐだろう。 なのに、自分はまだ後ろの方でうろうろしている。好意の表明も、既成事実の蓄積も何もしてないのだ。
テュカから見ても二人はとても良い娘で魅力的だ。
ロゥリィは外見はともかく中身は大人の女で、経験も豊富で情も濃い。戦いに際しては伊丹の傷を代わって受けるまでの健気さを見せつけた。
レレイは知的で誠実で、魔導師としても将来性がある。しかも商才まである。きっと伊丹も、ロゥリィかレレイのような娘を魅力的だと思うに違いない。いや、きっと選ぶ、自分だったらそうする、と断言できる。
そして二人に比べて自分はと思うたびに、二人の積極的なアプローチを目にする度に、テュカの中にいろいろな憤懣と愚痴が溜まってきたわけである。
クナップヌイでは、ヤオがこそこそと出かけたのを幸いにテュカは嘆いた。
「自分がどんどん嫌な娘になっていくのがわかる。ロゥリィやレレイに対する嫉妬で変になりそう。ねぇミワ、あたし、どうしたらいい?」
「やっぱり告白するしかないのでは?」
「そ、そんなこと出来るわけないわ。『お前のこと、義娘としか思えない』っとか言われたら、再起不能よお!」
「では、ロゥリィやレレイが伊丹二尉に迫るのを、黙って見てますか?」
「それも嫌」
「じゃぁ、果敢に攻めるしかないでしょう?日本には、当たって砕けろという言葉がありますわ」
「く、砕けたくないんだけど」
見ている側としては、さっさと玉砕してくれた方が楽なのである。だが、テュカのあまりのへたれっぷりには、流石の黒川も苛ついてきた。
胸中の「いいかげんになさいな、貴女」と言う思いに駆られて、詰問と非難の情を込めて「そもそもなんであんなのが良いと思うのです?」と言う質問を発した。
「あんなのって言うと、貴女が気分を害するのがわかってましたから、今まで控えてましたけど、貴女ほどの女性がどうしてあんな男を慕うのか、正直理解できませんわ」
「あんなの?!」
「ええ、あんなの、です。わたくしも、前ほどこき下ろすつもりはありませんが、あれがいいって言う貴女の気持ちはやっぱり理解できませんわ。もしかして、命がけで助けてもらって、好きに成っちゃた……ですか?どこかのマンガか小説みたいに」
「あ、それ違うから」
「そうなの?」
「男に助けてもらった女の子は、みんな男のことを好きになるのかしら?あり得ないわ。もちろん感謝の気持ちは持つわ。でも、それで異性として好意を持つこととは全く別よ」
「じゃあ、なんでです?」
問われたテュカは頬を染めて「正直言って、わからない」と俯いた。だが「でも『あの人』の良いところなら一晩中だって言えるわよ」と胸を張る。
『あの人』とテュカが呼ぶ時、何か嬉しそうな響きがあった。そのせいか、黒川も胸中にむずかゆさを感じてしまう。
「例えば?」
「そうねぇ。人として信頼できるところかしら。信頼できる嘘つきってこと」
「信頼?嘘つきがですか?」
「そ。他人を騙す人には大きくわけて二通り居る。最初から騙すつもりで嘘をつく人。もう一つが、言った時は本気でもそれを実現する努力を怠る人。あたしたちエルフを含めて人間って、物事を約束するとき、それが実現できるかどうか考えるでしょ?そして言ったことを嘘にしないために、立場とか、置かれた状況とか、計算ずくになってしまうの。だから実現出来ることしか出来ると言わないし、約束しない。それは勿論、誠実さであり大切なことよ。人との間に信用を結ぶには必要なことだわ。だけど、約束を果たせるかどうかという許容量があって、それを越えた途端に『もうダメです。約束できません』とされてしまう冷たさがあるわ」
テュカはそこまで言うと一息ついた。そして、少しばかり身を乗り出してさらに続けた。
「でも、あの時『あの人』は嘘を言ってくれた。大丈夫、まかせてって言ったの。言っちゃう人よ。あたし達を安心させることだけ考えて、任せてと言って、そして大丈夫だ心配ないって言う嘘を最後まで信じさせようとしてくれた。だからあたしたちも騙されることにしたの。あたしたちは、大丈夫なんだって。でも、嘘だからそのままにしておいたらきつと大変なことになる。だからみんな働くことにしたの。あたしが変になってた時もそうだったわ。俺はお前の父さんじゃないって、逃げれば逃げられたのに、あたしの妄想に嘘につき合ってくれた」
「強いて言うなら、最初から嘘の必要が無くなる時まで騙し切ろうとするってことかな。最後まで騙しきればそれって本当のことだもの」とテュカは言い切った。黒川としてもテュカにここまで言われれば、彼女の真剣さを受け容れざるを得ず、応援することに決めたのである。
そしてテュカが、レレイ、ロゥリィと共に伊丹を呼びだしたと言う。
黒川としては、いよいよテュカが討って出る気になったかと期待してしまうのも無理はない。
ロゥリィが「テュカは、耀司のことを愛しているわけじゃないのよぉ。だから、会えなくなっても平気なんだわぁ」と言った時、「さぁ行け、素直になれテュカ」と声に出さずに叫んだくらいだった。
アルヌスの食堂内。
怒気を孕んだひと睨みで、諍いを止めに入ろうとした伊丹を沈黙させるロゥリィとテュカ。
伊丹が引き下がったことを確認して、テュカはいささか皮肉っぽく言った。
「ロゥリィって、相手をむさぼるような愛し方しかできないのね」
少しばかり殺気を孕んだ嘲けるかのようにせせら笑いでこれを受けとめたロゥリィは足を組み替えながらハルバートをそっと引き寄せた。
「ふん。わたしぃにもぉ、『貴方が満足がわたしの満足ぅ、貴方の幸せがわたしの幸せですぅ』っなんて、気取ってた時期もありましたぁ。でもねぇ、そんなことしてたら結局後悔するのよぉ。ま、好きな男って言えばぁ、お父さんだったお子さまにはわからないかもねぇ」
「へえ。後悔しちゃったんだ?」
「そりゃぁもうねぇ。男なんてぇ勝手させておけば、後先考えずにどんどん先に行って、とっとと逝っちゃうのよぉ。しっかりと首根っこ捕まえておかないとぉダメなのよぉ」
「随分と経験豊富でらっしゃること。さぞいっぱいの男偏歴を重ねてきたんでしょうね。いずれは愛の神を目指すだけあるわね」
ざわっとしていた食堂が一瞬にして静まりかえった。
あたりの体感気温が急速に下がっていく。
一触即発の気配に伊丹は黒川と栗林、そしてヤオをそれぞれ振り返ると、いっせのっせっと、4人でテーブルを抱えあげ、少しばかり二人から距離を取った。周囲も同様にテーブルを抱えて距離を取り始めた。
3つ並んだ椅子の右端、レレイだけは隣でヒートアップする二人を無視して、もくもくと鶏肉を口に運んでいる。
「あ、あらぁ、羨ましいぃ?」
「ぜ~んぜん。それでお父さんに、寂しさを味合わせても平気になっちゃうなら、ちっとも羨ましくなんかないわよ」
テュカはテーブルを叩こうとして空振りしてしまう。テーブルが傍にないことに今更気づく滑稽さにロゥリィはにんまりと笑った。
「わたしぃは、耀司に寂しい思いなんてさせないわよぉ」
「へぇ?ほぅ?どうやって?」
「決まってるじゃない。わたしぃが一緒にいるっ。わたしぃが愛すっ。寂しさなんて毛筋一本ほど感じさせないほどにねぇ」
「随分と身勝手なのね。利己主義。自分の愛情さえ満たせればいいってことよね?」
いよいよ二人とも、立ち上がって向かい合った。はじかれるように倒れる椅子二つ。その隣ではレレイが黙々とジョッキの中身を呑んでいた。
「っていうか、レレイ。お前何呑んでる?」
伊丹の問いに、何故かレレイは表情のない視線を返してくるだけである。見れば空いたジョッキが2~3転がっていて既に4杯目のようだ。
「そう言うテュカはどうなのかしらぁ。いまだに『お父さん』呼ばわりぃ。一歩退いて自分の気持ちも抑えてぇ、楽な娘の位置で満足してぇ。最初から諦めてるだけでしょぉ?そのあげくぅ耀司からぁ、お母さんを取り上げたくない?笑わせてくれるわぁ!我慢するなら独りで勝手に我慢してろっって言うのよぉっ!耀司はわたしが貰うからぁ」
「ダメよっ。お父さんは……ううん、伊丹耀司は日本に帰すのよっ。日本に暮らしてきた場所があって、家族が居て、これからの暮らしがあるんだからっ」
「それはおあいにく様ぁ。帰るとかどうかは耀司自身が決めることよぉ……そうよぉねっ」
レレイの様子を見に近づいたところをロゥリィはそう言いながら迫ってきた。確かにその通りなので伊丹は「うんうん」と首を激しく縦に振って頷いた。だが、今度はテュカが伊丹に迫る。
「ダメ。ダメよ。帰らないと絶対に後悔するわ」
「だからぁ言ってるでしょぉ、その後悔もぉ、寂しさもぉ全部ひっくるめてわたしが癒すっ」
その時である、レレイが腰を上げた。今にもつかみあいを始めそうな二人の間に割って入った。
テュカもロゥリィも、レレイが何を言い出すかと黙った。
「今結論を求めてもきっと答えはない。答えはこれから伊丹が出す。私たちはその答えを黙って受け容れるしかない立場」
レレイは二人に言い聞かせるように話した後、今度は伊丹に向かった。
「貴方がどのような結論を出しても、私は常に共に在る。これが私の意志。どうぞ、知って置いて欲しい」
そして、レレイはそのまま背を向けると去っていった。
ロゥリィとテュカは再び向かい合ったが、「ふんっ!」「へんっ!」と互いに顔を背け、やはりそれぞれの方角へと立ち去っていった。
後に残された伊丹と黒川と栗林。
「凄い弩修羅場……」
「伊丹二尉?随分とおモテになるようですが、どんな答えを出しても血の雨が降りそうですわね。でも、どんな事になるか、是非楽しみにさせていただきますわ」
二人はそう言って、勘定を伊丹に残して隊舎へと戻っていった。
独り残された伊丹にヤオは「御身に平安がありますように祈ろうと思うのだが、果たして聖下に祈って効果があるのか今ひとつ疑問に思う」と語るのだった。
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数日後。
煌びやかな装いをまとった女性騎士の集団に警護される馬車の列が街道を進み、アルヌスの丘をその視界におさめたのは夕刻近くのこと。
細かな彫刻が施された馬車の傍らで、白馬に騎乗しているパナシュの装いは男装の麗人よろしく凛々しさと美しさを兼ね備えた風格があった。その趣味が無い女性であっても、きっと彼女を見たら胸をときめかせてしまうだろう。車列警備を指揮する彼女にはそれほどの魅力があった。
パナシュは、馬を馬車に寄せると、そっと語りかけた。
「ピニャ殿下。いよいよアルヌスが見えて参りました」
「うむ。先触れの使者は誰がよいかな?」
「はい。ニコラシカがよろしいかと」
「では、そのように…」
元々ピニャの騎士団は、実戦よりは典礼儀仗用とみなされる部隊である。
高雅な雰囲気を纏わせたら比類する集団は他にないだろう。そんな中から先触れの使者として選ばれたのは、ニコラシカ騎士長嬢であった。御歳17才、貴顕たる家門からの出身で語学研修生としてアルヌスに一時滞在していたこともあり、ある程度日本語が話せ、さらに土地勘があることから今回のように名誉ある単騎駆けを任されることとなった。
栗色の髪をなびかせながら右手に金糸の旗を捧げ持ち白馬を走らせる姿は、見る者を瞠目させるだけの美々しさがある。
自衛隊の引いた警戒線で誰何されるたびに馬の首を巡らせ「わたくしは、帝国外交使節団の到来を告げる者。宜しくお支度下さい」と若干の緊張を感じさせるアルトの声で歌うようして走り抜ける。
元々、自衛隊側もその到着日時は知らされている。
実は誰何に対する彼女の掛け合いも、帝国の外交典礼に従った儀式なのだ。その為の念入りな打ち合わせもすでに為されており、普段なら完璧な偽装をして隠蔽しているはずの隊員達も、この時ばかりはクリーニングを終えたばかり皺1つ無い戦闘服に身を包み、普通科の隊員であることを示す紅いマフラーを纏った姿で、これを迎えている。
ニコラシカの白馬は警戒線を抜けアルヌスの街に入っても、その速度を弛めず馬蹄の音を轟かせながら丘の中腹にまで駆け上った。
街の住民達も滅多にない見物とばかりに、仕事の手を止めて路傍で見物をしていたし、自衛隊側も既に隊伍を組んで出迎えの態勢をとなっている。
馬を駆って息せき切っているニコラシカ嬢が、自衛隊の隊伍に向けて「帝国使節団到着をお知らせするっ!!」と叫んでドサッと落馬してしまう。が、ここまでがいわゆる儀式で、お芝居なのだそうだ。
伊丹に割り当てられた役割は、とりあえず一時的に部下とされた衛生科隊員に担架を担がせてニコラシカ嬢を載せ、その場から連れ去ることである。ぐったりとして身じろぎもしない様子が、迫真の演技すぎて心配になり、とりあえず小声で声を掛けてみる。
「あの、身体痛くない?」
すると小声の返事があった。
「大丈夫です。なんども練習しましたから……」
失神してぐたっと倒れたフリをしつつも、答えはしっかりしている。
伊丹は彼女の「何度も」という言葉に痛ましさを感じつつも、乗って来た白馬の轡をとり、衛生科隊員二人はニコラシカ嬢をよっこらせと担架に乗せた。
「わ、私、重いですかあ?」
「いやいやいや、そんなことないですって。軽いですよ~」
そんな会話をしながらニコラシカ嬢の担架を持ち上げて、脇へと退いて行くのである。これで仕事は終わりだ。隊舎の影にまで下がると、ニコラシカはむくりと起きて運んでくれた隊員に「有り難うございます」と言いながら担架から降り、伊丹から馬の手綱を受け取った。
やがて、帝国の使節団を載せた馬車十数台の列が見えてきた。
「捧げ、つつっ!」
自衛隊一個戦闘団が、帝国の使節団に対して一糸乱れぬ着剣捧げ銃の敬礼を贈った。
銃剣の林の間を使節団の馬車の列と、護衛の騎士達の代表数名が通り抜けていく。主立った者達はこのままアルヌスの山頂へと向かて門も越える。残りの騎士や、馬車の半数以上はここアルヌスで待機と言うことになるのだ。
こうして帝国使節団は銀座へと入った。そして、そのまま内堀通りを通って永田町、赤坂へと向かい、迎賓館赤坂離宮へと迎えられたのである。
その間、銀座および内堀通りの交通は自動車については一時的な規制があった。だが、歩行者については若干の街頭の警戒を強めた程度であったため、その場に居合わせることとなった日本国民や外国人観光客の殆どは、突然目の前を馬車の列が走り抜けていくという光景に何か映画の撮影かと目を疑うことしか出来なかった。そしてその夜のニュースで初めて、その車列の正体が何であったかを知らされることとなる。
その夜、講和条約文書に、皇帝名代たるピニャと内閣総理大臣の麻田が互いに歩み寄って握手する場面が、全世界に向けて生中継されていた。ここ、アルヌスでも光回線を通して配信されていたため、隊員達は皆、テレビに釘付けになっている。自衛官だけでなく、おそらく日本国民の殆どがこれを見ているかも知れない。
テレビ各局はこぞって臨時の報道番組を流し、教育放送や一部を除いた殆どのチャンネルでじ同じ情景が流れていたからだ。
「これで終わるな……」
「ああ。やったな」
そんな会話を幹部達が交わしている中、伊丹は会話にも加わらず、テレビも見ようとせず、机に向かってぼんやりと考え事をしていた。
伊丹の傍らには、首に技官の身分証をぶら下げたレレイが座って、分厚い書類の翻訳をチェックしている。
講和条約がこれから調印される。
だが条約発効以降も両国間にこれまで取り交わされた各種の協約は、そのまま更新される。両国の外交関係はこれから始まると言っても良く、実務の面では細かい調整がさらに必要となるのだ。
例えば、日本が割譲を受けるアルヌスの丘を中心にした半径100リーグの範囲だが、当然のことだが無人の土地ではなく、既に住んでいる者がいた。これらの住民達には、特別永住権を持った帝国臣民として今の場所に住み続けるか、あるいは日本国籍をとるかの二者択一が提示されることとなっている。
当然ながら、アルヌス生活者協同組合の従業員達にも「どうしますか?」という質問がされる。一定期間内に、どっちにするか決めて提出しろという書類だが、当然日本語というわけには行かないのである。
と言うわけで、レレイやカトー先生達といった両国間の文字について少しでも理解できる者は、書類の誤訳や誤字脱字等の確認に狩り出されている。ちなみに伊丹は、言葉はなんとか出来るようになっているが、文字の読み書きは出来ないので、この手の仕事は回ってこない。
じっと考え込んでいる伊丹は、傍らのレレイ向けてポツリと言った。
「レレイは、どうする?」
「日本の国籍を得たいと考えている。その方が都合がよい。伊丹はどうするのか?」
「俺は逃げたいぜ」
「ダメ。逃がさない」
「……………………………………………」
背筋がうっすらと寒くなる伊丹であった。
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時事ネタは……。
ほら、風化した(笑)
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 66
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/04/24 12:09
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その夜、マスコミ各社を通じて講和条約文書への調印の様子が全世界に報じられた。
日本側代表 内閣総理大臣麻田太郎、帝国側代表 皇帝名代皇女ピニャ・コ・ラーダ。
担当者が文章内容をもう一度確認。その後、麻田は筆を用いて、ピニャはペンを持って、それぞれ2通の文書に署名と書判(花押)を記し、互いに一通ずつを手に取った。日本は国会、帝国では元老院がこの条約内容を批准すれば、帝国と日本国間の戦争状態は終結することとなる。
講和の条件を大雑把にまとめると以下の通り。
帝国は、銀座事件を宣戦布告なき攻撃であったとして謝意を公表する。また皇帝モルトは、この条約発効後2年以内に退位する。
帝国は賠償として、総額1億5200万スワニーを20カ年(帝国年)に分けて支払う。ただし国民が帝国の通貨を受け取っても賠償としての意味がないため、日本国政府が代表して受け取り、銀座事件被災者に分配するものとする。
帝国はアルヌスの丘を中心に半径100リーグの地域を日本国に割譲し、双方新たな国境線を侵犯しないことを誓う。
帝国は、国内全域における鉱山資源等の調査試掘権と、帝国国有地における現有鉱山、および金・銀・銅・鉄を除いた資源の採掘権を日本政府へ譲渡する。日本側はこれらの採掘及び輸送に当たって、労働環境並びに自然環境の汚染防止に最大限の配慮を払わなければならない。
帝国と日本は自由貿易協定を結ぶ。また帝国は日本国民および日本に籍を置く法人に対して、土地取得の自由、各種税制上の優遇すること。
その他は、細かな内容がつらつらと並ぶので割愛する。
ただ全判的に見ると、帝国の片務的恵国待遇とか関税の自主権がないとか、日本人に対する裁判権の行使等に一定の制限が課されるなど、相互の国民の保護という点で明治維新前の日本が欧米列強と結ばされた不平等条約に近い内容が見受けられる。
これらも帝国では、諸侯や地方領主が独自に裁判権や徴税権を有してる現状から、当面の間ある程度の制限を課しておく必要があると相互に認めてのことであり、相手の無知に付け込んだ一方的な不平等条約とは異なっている。条約文の末にも、帝国側に法制度が整った際にこれらを見直す旨も記されている。
条約への調印を済ませた両国首脳と随員達は共同記者会見の前に、迎賓館「羽衣の間」でしばし休息。大仕事を終えた開放感に一時浸りながら、ティーカップを傾けつつ、互いに雑談を交わしてた。
内閣官房長官や国土交通省大臣らは窓際で、新たに日本国土となるアルヌスの扱いについて話し合っていた。
「派閥間のバランスを考えると、都濃派が野本を推してくるでしょう」
「だが、それだとウチの親分が黙ってないですよ」
「麻田総理も悩みどころでしょうね。下手をうつと一機に政局になだれ込みかねないデリケートな案件ですからね」
条約の批准と同時に『特別地域管理行政特別法』が国会で可決される予定だ。これにより特地開発庁と担当大臣がおかれる。イメージとしては総督府のようなものだ。特地開発の窓口となるために、様々な利権が保証されている。当然その大臣職も美味しいポストとなるため、その椅子を巡って派閥間ではすでに争奪戦が始まっているのである。
欲望と策謀が渦巻く謀議が。そこかしこでなされている中、双方のトップ、ピニャと麻田は肩の力を抜くべく雑談に花を咲かせていた。
だが、ピニャだけは次の予定を前にしていささか緊張気味の面持ちである。
「閣下。キョウドウキシャカイケンとは、どのような意味を持つのでしょう?」
通訳として傍らに立つ菅原の翻訳を聞いた麻田は、やぶにらみの表情を破顔一笑させて応じた。
「政(まつりごと)は、国民の暮らし向きに大きな影響を与えます。特に帝国と日本との間の戦争が終われば、人や物が門を挟んで大きく動き出すでしょう。ですから両国の政に携わる者が何を考えて、これから何をしようとしているのかをあらかじめ多くの者に知らせることは必要なことなのです。まして、具体的なことは責任ある立場についてから考えると言ったいい加減な対応は、恥を知る者のすることではありません」
「ふ~む」
ピニャはどうにも釈然としない様子であった。
宮廷政治の中枢近くにいたピニャにとって、政治とは貴族や元老院議員といった一部の、狭い範囲にある者がすることであり、関連する情報ですら顕職に立つ者に与えられる特権と考えていたからだ。
帝国では、情報の伝播は可能な限り狭い範囲で留め、多くの者には知らさない「寄らしむべし、知らしむべからず」が統治の要諦であると考えられている。それだけに、あえて下々の者にまで知らせることの意味を説明されて、頭で理解できても実感できない。ましてや、記者とか言う輩の質問には注意しろ、言葉の選び方に気を配れと助言されても、混乱するばかりだったのである。
だが、実際に共同記者会見に臨むと、その警句の意味が大いに理解できた。
戦争で敗北した国は、講和の席で侮辱される。しかし屈辱に耐え、堂々と渡り合って国家としての誇りを示すこともまた使節の重大な使命だ。敗者は慈悲を請う立場であるが、頭を下げているだけでは侮られ軽んじられてしまうからだ。
ところが、日本政府はピニャ達を決して辱めようとしなかった。ピニャ達を賓客として粗略に扱わず礼遇していたから、それが何時になるかと身構えていたピニャとしては、拍子抜けしたほどである。
しかし、共同記者会見の席に座った時「始まった」と思った。
立ち並ぶ記者と称する輩が、吊し上げるつもりなのか大人数で虎視眈々と待ち構えている。次々と光魔法で目も眩ませ、こちらを苛立たせようとする狡猾さだ。
真の敵とは、この連中であったかと驚いたのも僅かな間である。ピニャは直ちに口舌による戦闘の心構えをとって腰を下ろした。その彼女の面差しは戦場で敵に向かって剣を抜き、今にも突撃を命じる時に似た挑戦的なものとなる。
心強いのは、連中の矢面に立つのがピニャ独りでなかったことだ。
通訳として長く苦労を共にした菅原が斜め後ろに座っている。彼は日本側の人間だが、その人となりは信頼できることがわかっている。さらに、勝者であるはずの麻田もまた隣に座って、会場のそこかしこから放たれる光を浴びていた。
「これより、記者会見を始めます」
会場の片隅にいた係がそう宣言すると、そこかしこで手が上がる。
何が起こってもいいように心構えをしていても、記者会見など始めてのピニャにとっては、目の前で起きる1つ1つの全てに心を配るしかなく、僅かな瞬間も途方もない時の流れのように感じられた。
司会者の仕切で、一人が立ち上がって質問を始めた。
「毎朝新聞です。麻田総理にお尋ねします。今回の講和によって得られる賠償額は、戦災に遭われた方々に対する賠償として充分なものとなるでしょうか?」
記者の質問は麻田に向けられた。
傍らの菅原が質問の内容、そして麻田の回答をひとつひとつ翻訳して教えてくれるが、ピニャはまたしても肩すかしを食ったような気分となった。何故に、自分ではなく麻田が吊し上げられるのかと首を傾げたくなった。
見れば麻田は、記者達の質問を受けても動ずることなくこれに答えていく。次々と記者が手を挙げて、質問を続けていく。
ピニャはこうしている間も次々と放たれる光に、目が眩みそうだった。
「決して充分なものとは成り得ないでしょう。ですが帝国、そして帝国を含めた特地の情勢や経済からみると、これが限界ではないかとも考えます」
「産業金融新聞です。日本政府がこれの肩代わりをして戦災を受けた方への支援を行っていくという現状は続いていくのですか?」
「そのように考えて頂いてかまいません」
「新鮮新聞です。講和の内容から見ると、日本政府は賠償金以外にも帝国から様々な利権を得ています。これを内外の企業に売却してしまえば、その利益で戦災を受けた方に充分な賠償をもたらすことも可能なのではありませんか?」
麻田は唇を歪める。
「そう言うことを我が国では捕らぬ狸の皮算用と言いますが、ご存じではありませんか?帝国から譲られた各種の権利も、すべて手を入れて開発して、はじめて価値を持ちます。利益を生むまでには莫大な投資が必要です。今日明日の用を為すものではありません」
「赤衛社です。自衛隊の現地からの撤退についてですが、その時期についてのお考えを……」
しばしの間、記者の関心は麻田とのやりとりに集中していた。
ピニャは、彼らの視線が自分に向かって来ない中で緊張を維持し続けることが出来なかった。状況の中で、わずかにぼんやりとしてしまったその時、突然降りかかってきた質問に思わず怯んでしまったのだ。
ピニャは狼狽を何とか隠そうとして、大仰な振る舞いで背後の菅原へと語りかけた。
「……申し訳ないが、なんと言っていたのかもう一度訳してもらえまいか?」
すると菅原は小声で説明した。
「門を閉じないと世界に重大な損害が及ぶかも知れないという説が出ています。帝国ではどうでしょうか?日本では各地で火山が噴火したり、地震がおきたりしていますが、帝国ではどんなことが起きていますか?……と問われています」
「我が国でも地揺れや、空の異常などが起きているのは確かだ」
「帝国としては、門を閉じる良いきっかけとなります。門を閉じたら二度と開きたくないのでは?」
意地悪な質問である。ピニャはつい「その通り」と本音を答えそうになり、すんでの所で思いとどまった。
場の流れは、賠償の支払いについて話が出ていたばかりだ。ここで、門を閉じて二度と開きたくないなどと答えたら、賠償の支払いを逃れようとしている、講和を反故にしたいと思っていると受け取られかねない。ここでは帝国の姿勢が問われているのだと気づいて言葉を慎重に選んだ。
「門はアルヌスにあり、その開け閉めは最早妾の関与できることではない。日本の処置に任せることになる。ただ、我が国の指導者階級は日本の優れた文物に触れて進んだ文化、学問、技術を学ぶべきだという考えが強くなっている」
「しかし、門を閉じないと大変な災害が起きるかも知れないとも言われています。どう思いますか?」
「避けられる災いならば、方法を講じるべきだと妾は考えている。しかるべき対応があるならそれをするべきではないだろうか?」
ピニャと麻田の共同記者会見は、アルヌスにも光ケーブルを通じて流されており、特地に派遣されてきている自衛官達もこれを見ることが出来た。
アルヌスの食堂でも、これに間に合うように運び込まれた50インチ大画面の液晶テレビを取り囲み、その物珍しさと、報じられる内容の両方への関心からか、皆が食い入るようにしてこれを見ていた。
モニターの表面に触れてみたり、わざわざ後ろに回って誰もいないことを確認してしまう者もいるが、それよりも多くの者が、報じられている内容に固唾を呑んでいる。
『しかし、門を閉じないと大変な災害が起きるかも知れないとも言われています。どう思いますか?』
『避けられる災いならば、方法を講じるべきだと妾は考えている。しかるべき対応があるならそれをするべきではないだろうか?』
続く麻田も同様の考えを示した。
帝国との講和がなった今、将来の長きに渡って安定した連絡を確保するためにも、門を一旦閉じて、双方に起きている異常の解消を図りたいという考えを示したのである。
「やっぱりか……」
舌打ちや、がっかりしたようなどよめきがあたり埋め尽くす。
「でも、将来にわたって安定した連絡を確保するためって言ってるニャ」
「それだって、門を閉じたら次に開けられるかどうかは、賭でしかないだろ?」
「その賭に失敗したら、犠牲になるのは俺たちの生活じゃないか」
料理長はカウンターの内側に立ち、睨むようにして仲間達の会話を聞いていた。
アルヌスの街は、コダ村からの難民を中心にした組合によって創られた。だが、今では街で、そしてあちこち都市にある支店で働く従業員、商業部門、輸送、護衛部門と直接的には800人以上、取引先を含めれば何千という数の生活を支える存在となっている。
だが、そんな組合を支えているのは、門だ。それが皆の認識だった。
もし、門が閉じられてもう二度と開かなかったらどうなるか。日本という国の庇護を離れたアルヌスを帝国はどうするだろうか。日本からの商品が入らなくなったら商売はどうなるか。今みたいな利益は上げられるのか?そして、自分達の生活はどうなる?
誰も彼もが、門を閉じるということに不安を感じている。日本の人間も、帝国の人間も自分達の不安に無頓着すぎる。組合の幹部だってそうだ。どうしょうもなくなったら、元居たコダ村に戻ればいい。なんだかんだ言ってもロゥリィ聖下が困ることはないし、ハイエルフのテュカだって精霊遣いだから生活に困ることはない。レレイだって優秀な魔導師でしかも導師号を持つ学徒だから学都で教鞭でもとっていれば喰うに困らない。
だから、今後のためなどと言って、門を閉じてみようなどと言えるのだ。そう考えてしまう。
だが、門を開きっぱなしにしていれば、いずれは災害が起こる。これも理解できる。
実際、帝都では派手に地揺れがあったと言う。だがしかし、……目の前に迫っていることへの不安と、何時起こるかはわからないことへの不安。二つ並べた時に、目の前の不安の方がどうしたって情緒を刺激してしまうのだ。
頭では努めて公平であろうとしても、居ても立っても居られない。それが人間の心理だ。
そんなことを黙考していた料理長の前に、いつの間にか迷彩服の女性が目の前に立っていた。「やぁ」と手を挙げられても、誰かわからない。
見れば、迷彩服を纏っているから自衛官かと思って見れば、頭に兎耳がたっている。しばしの時を経て、料理長の記憶にある人物と目の前の女性とが一致した。
「おい、おいおい……誰かと思ったらデリラじゃねぇか!」
「料理長。お久しぶりだね」
デリラが差し出して来た手を料理長は、パンパンっと叩いた後しっかと握った。
「お前、何やってたんだ。なんだその格好?」
「ちょっとねぇ、現地協力員って奴で雇われててさ。その仕事も一段落ついてようやく時間が出来たら、みんなの顔を見に来たって訳……」
「現地協力員ってホントかよ?大騒動を起こした割りには、羨ましいとこに就職しやがったな」
「それを言わないでおくれよ。後悔してるんだら」
デリラはそんなことを言いつつ、周りを見渡した。皆、デリラのことに気にも留めようともせず何かに熱中している。
「あたいさ、みんなには迷惑を掛けたって思ってはいるんだ。でもさ、やっぱりそれなりに迎えてくれるかもってどこか期待しちまってたんだよね。だから、みんなに忘れられたみたいに無視されると、少しへこむよ……」
しゅんと項垂れるデリラ。両耳の尖端も、首とおなじように地面の方向に向けて垂れ下がった。
「あ~それ、違うぞデリラ。みんな今朝方入った『てれび』って奴に夢中なんだ」
「てれび?」
顎をしゃくって示された方向には液晶テレビがあっだ。ピニャや麻田が記者の質問に応じている光景が流されている。
「あ、あれか。自衛隊の仕事をしてて見たことがあるよ。そっか、アレもここに入ったんだね。灯りも電灯が入って、ここも随分広くなったしね」
初めて見た時は箱の中に誰か入ってるって思って、叩いたり後ろに回ったりしたよ、などと自分の間抜け具合を披露しながら、デリラはビールを注文する。
「お~い。ビールを1つ」
料理長の声にテレビに魅入られているジゼルは「は~い」と生返事だけで、いつまで経っても動かない。
「おい、コラッ。いい加減にしねぇと、給料でねぇぞっ」
だがジゼルはいい加減に手を振るばかりである。
流石にデリラも苦笑してしまった。
「随分な娘を置いてるね。あたいが主任張ってた時は、あんないい加減な奴は即刻絞めてたよ」
「だがよ、そうも行かないんだよ。何しろなアレが……」
「知っているよ。ジゼル聖下だろ?」
「何だ知ってたのか?」
「クナップヌイから一緒のヘリコプターに乗って帰ってきたから。あたいは直ぐに次の任務についたから、こっちに顔出せなかったけどね。そうか、聖下、ここで働いてるのか?でもいったいなんで?」
料理長はジゼルの飲み食いに始まった借金について説明した。
「でも、それって普通、1日2日も働けば返せるんじゃないのかい?」
「働いている間、喰わなければな」
「喰わなければって……ええっ!?」
「賄いじゃ足りないって、結局喰うし呑むんだよ、しかもその量が尋常でなくってな。だから、いつまでだっても借金が減らない。いや、少しは減っているか?だが完済はずっと先になる」
料理長が困ったように愚痴る傍ら、ジゼルに代わってポーパルバニーの娘がデリラの前にジョッキを置いた。
「お待たせしました」
そのソツのない振る舞いにはデリラも思わず呆気にとられた顔をする。「いや、ありがと」と答えるだけで精一杯の様子だ。
「あんな娘いたっけ?」
「ああ?来たのはそんなに前の事じゃないよ。フルタ先生が連れてきたんだ。最初は使えねぇ奴だったけど、最近はめっきり頭角を現してフロアの主任を任せようかって話も出てる」
「へぇ、フルタのダンナがねぇ」
デリラは、控えの位置に戻っていく白いポーパルバニーの背中、柳腰から脚に賭けて描かれている綺麗な曲線を眺めていた。料理長もたまに観賞しているが、女も見るんだねぇと思ったりする。
「まぁ、ダンナも男だったってことか。でも、純血種なんて生き残ってたんだね」
「ウワサだと、フルタ先生が門の向こうに連れて行こうとしてるとかって話さ」
デリラは「へぇ。でも、ニホンで暮らすってのはちょっと覚悟が要るよ」と呟きつつジョッキを口に運ぶ。
「どうしてだ?凄く良いところだって聞くぜ」
「だってさぁ、門の向こうってヒト種しかいないんだよ?物見遊山に行くならともかく、住むとなったら少しは考えなきゃ。いろいろ先々のことも考える必要があるしね」
「そうだな、先々のことまでだな。種が違うってコトは、習慣が違う、生き方が違う、価値観が違う、何より寿命が違うってこった。ヒト種は長く生きて精々100年。だが亜人は寿命が長いものが多い。エルフともなれば何百年だ。惚れた腫れただけで、移り住むわけにも行かないってこった。下手すりゃ連れ合いがおっ死んじまってからの方が、長いってんだからな。……おい、摘みはどうする?」
「料理長に任せるよ」
そう言って再びビールをくびぐびとあおる。
「おい、テューレ。こっちのお客に煮凝りを出してやってくれっ」
その瞬間、デリラは口に含んでいたビールを盛大に噴出していた。
「って、何やってるんだデリラ。汚ねえなぁ」
ゲホッ、ケハッと盛大に噎せている。
テューレが布巾をもって来て、あちこちをぬらしたビールを手際よく拭いていった。
自分が汚したわけでもないのに「お客様、お体は濡れてませんか?」と至れり尽くせりで、瞬く間にカウンターの上は綺麗にされて何事もなかったかのようだ。
一連の作業の間、デリラはテューレに魅入られたように見つめていた。
「あんたが、テューレかい?」
「ええ。そうですが、お客様何か?」
「いや。なんでもないよ……あんた、ここで何をやってるの?」
「仲居をしてます」
「…………そう言う事じゃないんだけど……ま、いっか。有り難う」
「失礼いたしました」
テューレは片づけが済むと、一礼してそそくさと戻っていく。
デリラは凄絶なまでに輝く瞳を、その背中へと向けていた。
「おい、デリラ。どうした?お前、女が趣味か?」
料理長に声を掛けられて、飛んでいた意識が戻ってきたかのように見えるデリラは、慌てふためいて腰を上げた。
「おい、なんだよ」
「悪いね、あたいちょっとばかり用を思い出したんだ」
そう言いつつ出された摘みをガバッと口に入れ、ビールを一気に飲み干す。
この店では料理の使い回しは決してしないため、客が手をつけなかったものは、いくらもったいなくとも棄ててしまうのだ。それを料理長やフルタが悲しく思っていることを知っているデリラとしてはこうするしかなかった。
くにっくにっとした煮凝りの食感に「うん、美味い」と感想をつけて、カウンターに銅貨を置いたデリラは、足早に店から出て行った。
「なんだか、慌ただしい奴だなぁ」
デリラの使った食器の後かたづけをしていると、その隣に座っていた男が声を掛けてくる。
「コノ世界ニハ様々な種族がイルね。デモ今日の暮らし、明日の暮らしに汲々とシテル時種の違いナンテアマリ意味ナイ。考エルコト、思うコト、願うコト、ホトンド同じ。ソシテ、余裕のアル奴、希望のアル奴が側にイル時のハンノウもオンナジ」
最近、アルヌスに居座った連中の一人であることは料理長にもすぐわかった。
肌の色、髪の色など見た目こそ日本人に似ているが、物腰や態度が明らかに異なるからである。勝手につくった宿営地に籠もってあまり出てこない連中だから珍しいと言えば珍しい。男は組んだ手に顎を載せた姿のまま、独り言のように喋っていた。それは、日本語のようだが訛りがあって、どうにも聞き取りづらいものであった。
「お客さん、何かご注文ですかい?」
料理長は尋ねる。
「ワタシ、門をトジルノニハンタイね。アンタどうオモウ?」
「で………………ご注文は?」
「アンタ達が手伝ッテくれたら、門をアケトクこと約束スルよ」
料理長は改めて男の顔を見た。
男は、気味の悪いつくったような嗤いの表情を、顔のあるべき所に貼り付けていた。
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東京での条約調印を終えたピニャ達帝国側使節団は、その日の深夜にはアルヌスへと戻った。
晩餐会も、歓迎記念式典も無しの慌ただしい日程と言えるが、まだ、銀座事件の犠牲者の前に帝国の使節を曝せる雰囲気ではないと考えた日本側の意向を汲んでのことだ。外国から来た大統領に靴を投げるような記者が、日本にもいないとも限らないから政府が気を使ったのである。深夜の銀座で慰霊碑に献花したが、その後は早々に門を越えてしまった。
ここでピニャは、元老院の批准を待つことになる。
都へと送り出した使者が、早馬を駆けて帝都に講和条約文書を届けるのに約10日。元老院の批准決議と批准書の発効に1~2日かかり、さらに復路に約10日。合わせて22~3日の待機である。
その間も、一応の外交日程が組まれている。
すでにアルヌスは、日本国と言って良い上に、銀座は永田町から目と鼻の先で政治家や官僚も入って来やすくなったからだ。講和に伴う各種の協議や講和後を睨んでの会談等だ。とは言って、事務方の協議ならいざ知らずピニャと直接会って話さなければならないようなことは、もうそれほど多くない。有り体に言えば、大臣や議員が「帝国の皇女に会ってきた」と国内や選挙区に向けて宣伝目的だったり、事務方が詰めた仕事の最終段階で話をまとめるといった箔付け的要素が強いのだ。だから、『割りと暇』といった感じで過ごすこととなった。
ここで日本側が、ヘリを出すなどの交通手段を提供すれば、それなりの速度で手続を進めることも可能なのだが、帝国にも外交上の秘密や誇りというものがある。効率だけを理由に手を出すことも出来ないのだ。
さて、そんな訳で、時間に余裕があるピニャは、アルヌスの街で研修に送り出した部下達に会ったり、個人的に会いたいと思っていた日本人女性を招くように日本政府に依頼したり、日本と特地間の交易状態を視察したいと申し出て、門を通過するコンテナを見学して、その量の多さに目を丸くするなどした。思わず、自衛隊の係員に尋ねる。
「随分と沢山の品物が通るのだな。やっぱり輸出より輸入が多いのか?」
「ええ。特地からは珍しい果物とかが出ますが、それほど多くないですね。今は日本から入ってくる物の方が圧倒的に多いです」
門の幅は狭いので、門の通過手続も今では大分簡略化されている。日本の国内から発送されたものならば、組合からの注文証明書があるだけで通過が認められている。いちいち全部点検なんてしていたら、物の流れが止まってしまうからだ。
「それにしても、輸出がほとんど無いとなると、我が国の貨幣はどんどん流出してしまうな」
ピニャの呟きにハミルトンが応じた。
「帝国では賠償の支払いのために金貨を市場に出すのを止めてしまっています。そのせいもあって、金貨の価値は、異常なまでに高騰しています。これに引きずられるようにして、銀貨も銅貨もその価値を上げています。以前から、貨幣の不足傾向が目立ちましたが、今では地方に行くと物々交換がまかりとおっているそうです」
「これも、それも門が元凶と言うことか……」
ピニャは嘆くようにして呟いた。
「やはり、やるしかないのか」
「殿下……わたくしは殿下のご意志に従います」
その後、ピニャはアルヌス生活者協同組合に赴いて、コンテナから商品が取り出され、各地に送り出される仕分け作業や、輸入品サンプルなどを見たりしている。
仕入れの担当者にはピニャ自ら出向いて面会し、ケント紙に証券用インク、丸ペンやGペンなどの各種ペン先、それに鉛筆、消しゴム、修正液、そして各種のスクリーントーン等、聞く者が聞けば何に使うか一発で出来そうな品々を、大量に注文している。流石に、電気設備等がないのでパソコンやプリンター、ペンタブレット等は発注してないが、そこには80年代から90年代にかけて週刊誌に連載を持っているマンガ家が10年ぐらいかけて消費するほどの量となった。
仕入れ担当者から発注書を受け取った事務担当の少年は、目を見開いてその数字を数えた。
「ね、何これ。注文票の数字、ひと桁、ううん、二桁間違えてない?」
「文具だよ。日本の物は使い勝手がいいからね。ピニャ殿下が御入り用なんだって」
「それにしても、この量は凄くないかなぁ?すくりーんとーんて何?」
「さぁ、帝国の政務で使うんじゃないの」
こんな会話も、仕入れ担当の元商人達と組合事務担当の子供達の間で交わされた。
「それよりさ、例の品物はいつ届くかな?」
「大急ぎでって言ってたアレ?……ちょっと待て」
少年はバサバサと事務所に届くファクスの束の確認を始めた。
「食堂の料理長から、何しろ急ぎで頼むって言われているからね」
「別に良いけどさ、後でレレイ姉にそっちから説明して置いてよ。怒られるの僕なんだからね。あったあった、発送元が、うへっ漢字だらけ……知らない漢字も多くて読めないよ。でも電話番号は合ってるからこれだね」
少年が取り出したFAXの送付票には、「極東貿易振興協力株式会社」と書かれていた。
「肉と肉調理用の料理台、肉の丸焼き用大鉄串、鉄釜が『こんてな』で3つ。来週…4日後には届くって、注文してから届くまで随分早いね。前もって用意してたみたい」
「手続もすっ飛ばしたくらいなんだから、向こうも急いでくれんだよ、有り難い話さ」
「そう言うのもう無しにしてよね」
「でも最近、レレイさんも忙しいみたいだし」
「そうなんだよねぇ……レレイ姉、最近色呆けちゃって、伊丹のおじさんにつきっきりだから仕事が滞っちゃってるんだよ」
仕入れ担当者は、少年の愚痴に笑顔で答えた。
「坊主はまだ色恋には縁がない感じだな」
「そんなことないよ、好きな子ぐらいいるよ。でも、仕事をする時は仕事をしないといけないだろ。だからけじめをつけてるんだよ」
口を尖らせる少年に対して、仕入れ担当者は「おっ、なかなかしっかりしてるな」といった。
「坊主は商売の才能があるかも知れないな。こんな言葉があるから憶えておけよ……
例え、小さくても、野心を持ちなさい
暴風は、柳のごとく受け流し、荒波には、逆らわずに居なさい
常に、興味津々と、世間の出来事に目を配り耳を傾けなさい。
俺の商売の師匠が教えてくれた、成功の秘訣だってさ」
これを守っていれば、きっと大商人にもなれるぞ、と言いながら仕入れ担当者は少年の肩を叩いたのだった。
一方、『最近色呆け』呼ばわりされたレレイはその頃何をしていたかと言うと、伊丹やロゥリィ、テュカらと共に、麻田総理や防衛大臣、官房長官、狭間陸将と幕僚、養鳴、漆畑、白位博士等の集まった極秘の会合に参加していた。
門の開閉手順について説明するためである。
これは麻田が是が非でも、直接話を聞きたいと言って設けた場であった。
門の開閉に関わる技術と知識を持つ者は現在の所レレイしか確認されていない。従って日本と特地の関係は、レレイ一人にかかっているのだ。今回、門を閉じるかどうかの決断を下すに当たって、レレイの人柄や、意志を確かめておきたいと麻田が思ったとしても当然だろう。
「私たちの世界は、紐のようであり、かつ、川のような流れであることは伊丹より説明があったと思う」
『門』とは、この世界流と世界流とを繋ぐ現象であるとレレイは説明する。
「門の開閉については、冥王ハーディの力を借りて行うのでさして難しくない。問題は、日本のある世界流を見つけだすこと。その為には、目印が必要となる」
「目印?」
「そう。条件としては以下の4つ。長期間安定して存在していた物。材質は、混じり物のない均質な結晶体。ありふれてない珍しさのある物。一定以上の大きさと質量があること」
レレイは滑らかな口調で、まるで学会発表であるかのように説明していった。
全ての物質には固有の振動がある。日常的に存在する物質は純粋な物は少なく、混合体であることが多いので、それが放つ振動波は複雑で、言わば濁っていると言える。
混じり物のない単一の素材で出来ている物だと『波形』は純粋で単調という特徴を持つ。すなわち見つけやすくなる。
そして、1つの物体として長期の時間を経た物質は、二つに分けられても暫くの間、全く同じ『波調』を描いた波動を放つ。
「波長?」
「違う『波調』。波には『波長』と、『波形』の他に、実は『波調』と言う要素が存在する」
レレイは例えた。
二人の人物が居る。同じ調子、同じ速さで同じ楽譜・歌詞の歌を唄いながら別の道を歩いているとする。でも、交差点で二人が出会った時、その歌は合唱にはならない。何故なら、歌い始めた時期が一致していないから。ちなみに、歌い出す時期が違う場合、輪唱と呼ばれる。
「ああ、音楽の時間に蛙の歌とかでやったな」
「一緒にいた二人が合唱を始めたとする。この二人が分かれ道で別々の道を選んだ。でも再び、この道が交わった時、出会った二人の歌は合唱となっている」
「なるほど。沢山の人間が好き勝手に唄っている大雑音の中、自分と合唱できる歌声を探すってことだね?」
「そのイメージが近い」
漆畑との感心したような言葉に、養鳴は漆畑の襟首を掴んで激しく揺さぶった。
「おい、漆畑っ!簡単に納得するなっ!今の説明だと、このお嬢さんは余剰次元を越えて伝わる、波動とやらを大した設備もなしに観測できると言っておるのだぞっ!」
「養鳴先生。出来るって言うんですから、そう言うことにしておきましょう。こっちは魔法がある世界なんですよ。私は、魔法を見せつけられた時に自分の常識で、特地を計るのをもうすっぱり諦めましたよ」
養鳴と漆畑は、以前レレイに魔法を見せてくれてとせがみ、心ゆくまで実演をしてもらっている。当然の事ながら当初はトリックだと疑ったが、最後には真実だと認めざるを得なかった。ただ、魔法という現象は日本の学者にとって常識を超越する物であったから、しばしの間二人とも頭を抱えてうんうん唸るはめに陥った。
「魔法という現象がある。まずはそれを認めましょう。その上で、その仕組みの解明をするんですよ。物理学もものすごく進歩しますよ」
「ず、随分と前向きだな。お前は」
「その為にも是非、お嬢さんをウチの研究室に連れ帰って……」
「いや、儂の研究室だろう」
「まぁ、まぁ、お二方。それは後にしてください。今は門の話と言うことで」
官房長官の取りなすような言葉に、二人は言い争いを止めた。それを待っていたのか、レレイも中断していた説明を再開する。
「これを門を閉じる寸前二つに分けて用いる。さらに条件を付けるなら、ある程度堅牢で、温度や多少の衝撃では壊れたり変質したりしない安定した物質であることが望ましい。こちらの知識とそちらの科学とを照らし合わせると、分子の構造も影響があるように思える」
狭間陸将が「だったら鉄の塊とかはどうだろう?」と提案した。
「純粋な鉄は実はなかなか存在しない。ある程度の大きさになると必ず不純物が混ざる。そしてそれ故に不均質。二つに分けた時の僅かな違いも、問題になる畏れがある」
「二つに分ける時の大きさの違いは問題になるかい?」
麻田も何にするか考えているようだ。
「質量の違いは、歌に例えれば声の大きさの違いに繋がるだけ。大きい方を日本側に置きたい」
「そっかあ、何か良い物ねぇかなあ。新しく作るって言うなら今の技術でも出来るが、新しい物じゃダメって事になると……難しいぜ」
麻田はそんな事を呟きつつ後ろ頭を掻く。
「以上の条件にかなう品物の手配を依頼したい」
「わかった、早速なんとかしよう。だけどよお、その前に、お嬢さんに確認しておきたいことがある。あんたはなんで日本とこの世界とを繋ぎたいって思うんだ?」
レレイは麻田からの質問に、戸惑ったようでしばしの間黙していた。なんと答えようか考えているかのようにも見えた。
「答えにくいかい?」
レレイは縦に首を振った。
「アルヌス生活者協同組合の利益のため、と言っても総理も納得されないはず。何故なら、それ以上の利益が誰かから約束されるなら、門を開く動機はなくなってしまうことになるから。これでは信用してもらえない」
「そうなんだよ。俺としちゃあ国益に関わる問題だけに、お嬢さんの意志がどこらへんにあるのか、しっかりと確認しておかないとって思ってる。答えにくいのを承知で、そこを頼む。教えてくれないか」
「日本の優れた文物を取り入れたいから」
「冗談言っちゃあ困るぜ、そいつはなおさら信用できねぇ。さ、そろそろ本音ってヤツを頼むぜ」
レレイは頬を薄紅に染めると、そっぽを向いた。
「…………………………………………好きな人達と離ればなれになりたくない。わたしは、コダ村の人達が好き。ロゥリィが好き、テュカが好きでヤオが好き、自衛隊のみんなが好き、そして………………………………」
「ああ、悪い。お終いの方がよく聞こえなかった」
麻田はそう言いながら身を乗り出した」
「………………………………………イタ……が………」
「誰だって?」
「………………………………………伊丹と一緒にいたいです」
しばしの間、会議室は沈黙に包まれた。
麻田総理を始めとした大臣、官房長官、狭間などなどの、冷ややかな視線が伊丹に向かっていく。皆、無言に問いかけていた。「お前、いったい何をした」と。
「言っちゃ悪いが、そいつは趣味が悪いぜ。こいつのことはチューボーの頃から知ってるが、お世辞にもお嬢さんみたいな才媛が惚れるような男じゃないぞ」
麻田のこの言葉に、会議室内の空気は急激に澱んだ。
ロゥリィとかテュカの発する気配がなんとなく剣呑なものとなったからだ。
「こんな奴のどこが良いって言うんだ?」
「それは……………学徒たる私が賢神ラーより与えられた、命題だと考えている」
「命題?」
「そう。私は一生を掛けてでも、その謎を解き明かさなければならない。私は伊丹に対してある種の感情を抱いている。私は自らが、このような感情を伊丹に対して抱いていることに気づいて以来、自らを対象としてずっと観察し続けてきた。そして問い続けてきた。何故、どうして、どこを、様々な問いかけに解答を探し続けてきた。だけど、この理不尽で腹立たしくなる感情の根源が何であるか、未だに答えは見つかっていない。そればかりか酷く非理性的な振る舞いばかりしている。私の立てた仮説によるとこの感情は……『懸想(けそう)』と呼ばれる感情は、おそらく精神的な疾患ではないかと考えられる。要は心身の病気。異常。不具合。その証拠に、対象に対して想いを巡らせるだけで、動悸、息切れ、発汗、発赤、不眠、焦燥感、不安といった各種の症状が起こる。今も、この通り」
そう言うレレイの色白な顔が、リンゴのごとく真っ赤になっていた。
おほん、ごほんっと官房長官や、養鳴教授が咳払いしつつ伊丹へと視線を浴びせた後に、互いに見合わせる。
「確かに病気の一種じゃろうなぁ。お医者様でも草津の湯でも治らないと昔から言っておるし」
「あー、悪かった。恥ずかしいことを言わせちまったな。だけど安心したぜ。これで心おきなく任せることが出来るってもんだ」
「閣下、こんなことで信じて良いんですか?」
官房長官の言葉に、麻田は唇を歪ませた。
「変な損得勘定よりは、よっぽどわかりやすいじゃねぇか。俺はこのお嬢さんを信じられるぜ」
麻田はそう強く頷いて席を立ったのである。
政府が「起こりうるかも知れない災害を未然に防ぐための、門の一時閉鎖。そして、定期的な開閉による特地との連絡安定化計画」を発表したのは、その翌日のことである。
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日本政府が、門を一旦閉じることを決めたことに対する内外のリアクションは早かった。すでに何度も麻田が門に対する考えを示していたことも、その早さの理由となるだろう。
アメリカや、EU諸国は特地に入った科学者からの報告もあって、災害を未然に防ぐためと言われてしまえば、反対することは出来なかった。万が一災害が起こったなら、反対したが故の責任を問われてしまうからだ。
特地の利権にほぼあずかれないアフリカや南米、特地に各種資源が見つかったために資源の値崩れが起こっている資源輸出国は積極的に賛成している。彼らの論調は特地などに投資する金があれば、我らの国にこそ投資すべきだというものであったからだ。日本政府が門を一旦閉じるという発表をすると、値崩れしかけた資源の価格はゆっくりとだが再度上昇をはじめた為「二度と門が開きませんように」と、あからさまに神に祈った大統領すらいた。
これに対し中国、韓国を中心とした新興工業国はかなり強い態度で反対の態度を示した。
「我が国の科学者が独自に調査した結果、門の存在が異変や災害に結びつくことはない」とまで主張した国もあって、相変わらず日本による特地独占、帝国主義的植民地支配の再来と騒いでいる。
日本国内の論調は、財界は災害を防ぐためならば仕方ないという態度である。
多額の資金を投じて特地の開発をして、その後でやっぱり門を閉めなければならないという事態が起きれば大損となってしまう。ならば麻田の言うように、安定した特地との連絡を確保するためにも、賭に出るのもやむを得ないと考えたのである。
問題は政界であった。
民枢党を始めとする野党は、門が存在することによって異変が起こっていると言っても、それによって災害とを結びつけるのは短絡的であるとして反対に回った。そして門の一旦閉鎖などという賭は行わず、特地アルヌスに得た新国土に外国人3000万人を受け容れ、独自通貨を発行したり、第二外国語として中国語を教育するなどとした『特地ビジョン』を発表したのである。
しかし、それだけであれば問題にはならなかった。
ならなかった筈である。だが現実は急展開する。
講和条約批准のために開かれた臨時国会の場で、与党の一翼を担っていたはずの正大党が突如離反を表明、野党と共に内閣不信任決議案に賛成したのである。
内閣不信任決議案が可決されれば、内閣総理大臣は辞職するか、衆議院を解散しなければならない。麻田は衆議院を解散することによって、国民の信を問うこととなってしまったのである。
すなわち総選挙である。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 67
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/04/28 20:44
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「閣下、これはいったいどういう事態でしょう?日本で反乱でも起きたとでも言うのですか?」
ピニャは、麻田と会うなり挨拶も抜きにして詰め寄るようにして訊ねた。
『門』の閉鎖が予定通りに実施できなくなりそうだと知らされ、血相を変えて面会の予定を取り付けたのである。総選挙の準備に忙しい麻田としても、帝国の皇女から是非にと求められれば、15分かそこらくらいの時間は割かざるを得ないのが外交である。儀礼的な挨拶も抜きにして要点だけの慌ただしい会談が始まった。
今回の通訳はニコラシカが担当している。彼女も語彙を尽くして通訳をしているが、麻田のべらんめい調の言葉を翻訳するには、苦労が耐えないようでうっすらと額に汗をかいていた。
「ある意味、反乱って言えば反乱だな。正大党と、与党の一部が敵に回って、俺の不信任を可決しちまったんだからな」
説明の足りない伊丹を補足するように、麻田の秘書が説明を追加した。
「法の定めによりますと、不信任決議の可決があった場合、総理大臣は辞職するか衆議院を解散して、40日以内に国民の選挙によってその信を問わなければなりません。総理はこの度衆議院解散を選択されました」
秘書の説明に、ピニャは眉根を寄せた。
「選挙か。日本では議員は選挙で決まるのだったな……議員が入れ替わって、閣下を支持する者が過半を制すれば、閣下が引き続き日本を導き、不支持の者が過半を制すれば別の物が総理の座に座ると言うことになるのだな?」
「はい、殿下」と秘書は軽く頷いた。
「良くできた仕組みだ。だが、その選挙の結果を双方共に受け容れるのか?その結果に不満を持って内戦が始まったりしないのか?」
「はい。我が国では選挙の結果を、実力をもって覆そうとした例はありません」
要は血の流れない反乱ということだ。
ピニャは、為政者としてふさわしくないと見なされた者が、こうやって穏健に排除される仕組に素直に感銘した。排除される者も黙っている必要はなく、民衆の支持を得ればこれに抗することが出来るのである。そのためには結局善政を敷くしかない。そして、民衆はいたずらに乱を起こす者を支持することはないだろう。帝国や、その周辺の王国では、為政者をその座から引きずり降ろすには、武力を行使しての血塗られた反乱しか方法がない。ゾルザルによる反乱と対峙した彼女にとって、あのような骨肉の争いは、二度と繰り返したくない悲劇なのだ。
だが、彼女の立場では関心ばかりしてはいられない。
今や帝国は、日本の政治的な影響を真正面から受ける立場である。選挙によって日本の帝国への態度が変われば、これまでの苦労が全く水の泡である。しかも、野党の発表したとか言う「特地ビジョン/3000万人の移民」とか言う計画を聞いて、ピニャは門からものすごい数の人間が津波のようにあふれ出て来る幻想を見てしまった。それは帝国に政(まつりごと)に関わる彼女にとっては、恐怖の感情を沸き立たせるものだ。
それに野党は『門』と両国で起きている災害は無関係だから、『門』は開けたままにしておくと言っているとか。ピニャとしても、それは到底受け容れがたい話である。だから麻田に縋るようにして言った。
「閣下を支持しない者は、『門』を開けておくことを主張していると聞く。妾としては、それは困る。閣下に何としても勝ってもらわなければならない」
「俺も負けるつもりはないぜ。だけどなぁ、一応覚悟だけはしておいてくれよ。今の野党が政権を取れば対応はがらっと変わる」
麻田は傍らの秘書を見た。秘書は資料を捲った。
「信頼できる調査から見ても、現状ではどちらが勝ってもおかしくありません。非常に、僅差です。メディアの反与党キャンペーンも大分鎮静化しましたが、その影響は未だに残っているのです。選挙を前にもう少し実績を上げて支持率を上げておきたかったのですが」
「………では、選挙が終わる前に門を閉めてしまってはどうだろう?」
「俺としてもそうしたいんだが、アルヌスには中国と韓国の連中が居座ってんだよ。もちろん、立ち退いてくれるよう抗議はしてるぜ。だけどよ、講和条約発効前である以上、アルヌスはまだ日本領でなく日本政府に講義を受ける謂われはないと、開き直っている始末なんだ。本国の方に抗議しても、『こちらとしては現場が言うことを聞かなくて困っている。力ずくで連れ戻すために軍の一隊を送るから、門を通らせろ』と、ふざけたことすら言って来る始末だ」
アメリカとフランスは、門を閉じることに同意している。門を閉じる日取りを伝えれば素直に退去してくれるだろう。だが、強硬に反対している両国は、そうはいかなかった。言い逃れ、開き直り、食言、あらゆる手管を尽くして居座り続け既得権益として主張し始めるだろう。
「あんな連中、力ずくで排除してしまえばいいではないか?」
「現状では出来ない。大義名分はあるから俺としても中国と韓国とやり合うのも吝かじゃねぇが、さっき言ったように自衛権にせよ、警察権にせよ、発動にはアルヌスが正式に日本の領土になることが必要だ」
「すでに帝国は領土を日本に割譲した」
「こっち側の批准が済んでない。条約を批准するはずの場で、不信任決議をつきつけられちまったからな」
ピニャは、額を抑えて天を仰いだ。
「なんてことだ……」
「あれもこれも、小さな動きがこの状況を作るべく動いていたわけさ。全部が仕組まれててた」
「では、閣下はどうなされる」
「俺としては今は選挙に全力を尽くす。それだけだ」
ピニャはジリジリと焦るような気分で親指の爪を噛んだ。
麻田が勝てば問題はない。だが、戦いに絶対はないのだ。ピニャは最悪の状況、つまり麻田が負けた時のことを考えなければならない立場なのだ。
「両国の言い分は、講和条約はまだ発効していない故に、アルヌスは日本領ではない。だから抗議を日本から受ける謂われはない、と言うものだったな」
「そうです」
秘書と麻田は、ピニャの様子にとまどい互いの顔を見合わせた。ピニャはその双眸をギラギラと獰猛なまでに輝かせていたからだ。
「良かろう。彼の地がまだ帝国領だと言うのであれば、帝国の流儀でやらせて貰うことにする。我が国は日本と戦争をして講和をしようとしているが、それを理由に他の国との戦争を避けなければならぬ理由もない」
ピニャはそう言い放って、はじかれたように腰を上げる。
通訳するニコラシカもその言葉には、顔色を変えずにいられなかった。だが、なんとか忠実に通訳の任だけは全うしていた。麻田は、彼女の部下すら顔色を変えてしまうピニャの言動に、訝しげな視線を向けた。そう、不自然なまでに熱心すぎると感じられるのだ。それは損得勘定や世界の破滅を回避したいという危機意識と言った理性的なものとは、異なる次元から発せられているように感じられた。
「殿下も、随分と熱心だな。何故、そんなにまでして門を閉じてしまいたいんだい?」
ピニャは麻田の質問の意図に気づいた。閉じてしまいたいか……という言葉にピニャを計ろうとする響きがあったからだ。だから逆立っているであろう柳眉を降ろし、返す言葉は慎重に選んで、努めて平静を装いながらゆっくりと答える。
「無論、世界の破滅を防ぐためだ」
「確かに。俺も門を閉めることにしたのはそれが理由だ」
だけど、それ以外の意図はないのかい?
直接の問いかけではなかった。己の疑念をそのままに口に出すなど政治家としては二流以下の振る舞いだからだ。だが、座ったまま見上げてくる彼の視線はピニャに対して雄弁に語りかけている。
「門の安定は、両国の発展に役立つと考えている。それが帝国にとっても利益ともなる」
日本との講和は、領土、地下資源の採掘権そして賠償と、帝国の損失はとても大きいものとなったが、それを越える利益があるとも考えられていた。事実として、軍事的に弱体化した帝国を取り囲む、周辺諸国とのパワーバランスにおいて、日本という国と親密な関係を築くことで他国の圧力を払いのけることが出来ている。このおかげで、帝国は無理な軍拡をせずとも済むのだ。さらに日本からもたらされる新しい文物や技術の流入経路の上流を占めることになる。ほとんどの物が一旦帝国に入って周辺諸国へと流れていく。その流れが、帝国に計り知れない利益をもたらすことになる。
ピニャは首筋に大量の汗を流しながらそう説明した。
麻田は黙したままピニャの瞳をじっと見据えていたが、やがて力を抜いて「そうだな。少なくとも帝国と日本には、門なんか無くなって欲しいと思っている人間はいないと思うからこそ、俺も安心して門を一旦閉めようなんて提案が出来るわけだ」と頷く。
「兎に角、剣呑なことはやめてくれよ。とばっちりが来るのはこっちなんだからな」
「いいえ、閣下。講和条約が未だ発効していない今、アルヌスは帝国領だと言ったのは連中でありましょう。ならば、我が国のすることで日本にとばっちりが行くことはありません。閣下は自衛隊の撤収作業を続けさせて頂きたい。さすれば、選挙の結果が出る前にはこの件片づきましょう……」
ピニャは麻田から応諾の頷きを得ると、ニコラシカに「行くぞ」と告げて床を踏みならしながら応接室から退出したのだった。
だが、ドアを閉じて周囲に他人の視線がないと思った瞬間、ふらふらと崩れるようにしゃがみ込んでしまう。
あわててニコラシカが抱き留めようと手を伸ばした。
「で、殿下、どうされました?」
自分の心底をすっかり見抜かれたかも知れないという不安と緊張で、ピニャの顔色からは血色という物がすっかり抜けていたのである。
ピニャは部屋に戻ると、声を張り上げるようにして彼女の子飼いの部下達を招き寄せた。帝国の使節としての随員達は、外に追い出されてしまったが、これまでもよくある事だったので、誰も変に思う者はいなかった。
やがてドアが閉じられて、ピニャの周りには彼女が信頼する者しかいなくなった。
「ハミルトンっ!!」
小走りに彼女の秘書役をこなしてきた副官が前に出ると片膝をつく。
「はいっ」
「直ちに狭間将軍に、『へりこぷた』をお借りせよ。取り急ぎ帝都へ向かわなければならない事態が生じたと言ってな」
「帝都へですか?」
「うむ、事は急を要する。出兵だ、アルヌスに居座った招かざる客人を駆逐するという大義名分を得たっ!」
「かしこまりましたっ」
ハミルトンは直ちに腰を上げるとピニャの前から走り去っていった。
「ニコラシカっ!!妾が此処を離れている間の庶務は任せる。殆どのことは副使のカーゼルやキケロに任せて置いてよいが、捕虜の受け取りと帝都への後送だけは遺漏無きよう確認を徹底せよ。一人として向こうに取り残さないようにな」
「御意!」
「パナシュ!ボーゼス!」
「はいっ」
二人が前に出て、やはり片膝をついた。
「妾が帝都に赴いている間に、万事手抜かり無く……いいな?」
「殿下……よろしいのですか?」
「ボーゼス。これを逃したら、機会はないのだ」
「しかし……」
「この際だ、かまわぬ。梨紗様のご指導を賜れば、我が国にも芸術は根付くだろうしな」
ピニャは構うことはないとばかり笑ったが、ボーゼスの憂い顔は晴れない。
「身重のボーゼスには、負担が大きいか?ならばパナシュに任せよう。いいなパナシュ」
「はっ、畏まりました」
ボーゼスが立ちつくす中、パナシュは迷いもなくピニャの指示を受け容れた。
「パナシュ、貴女も反対だったのではないのですか?!」
「ボーゼス。もう既にさんざん話し合っただろう。これは、ピニャ様のご命令なのだ」
二人は言い合いながらピニャの前から退席した。
ピニャは心配しなかった。
ボーゼスもなんだかんだ言ってもピニャ子飼いの将の一人だ。命令に対して異見を持っていても、いざとなれば従う。これまでそうであったから、これからもそうであるとピニャは考えたのである。
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チヌークを借りて、取り急ぎ帝都へと戻ったピニャは早速父たる皇帝に面談し状況の説明をし出兵の許可を求めた。だが、皇帝は、ピニャの求めに頷くことはなかった。
「陛下。門を閉じるには、アルヌスに居座った者を排除する必要があります」
「では、門を閉じずにおれば良い。今や、帝国は日本の後ろ盾無くして、周辺諸国の圧力から逃れる術はない。アルヌスへの移民3000万人なども、日本に割譲したアルヌス内でのことなら、我々が気にすることでは無い」
「しかし、脅威になります」
「ふん。彼の国の脅威など、今に始まったことではない。それが、少しばかり増えただけだ。それに3000万人もの口を養う食糧、物資をあの狭い門を越えて運び続けることなど出来まい。……つまりは、我が国の農作物が売れると言うことだ」
「しかし、ロゥリィ聖下からも門を閉じなければ二つの世界に災いが起きるとの預言を得たではありませんか」
「確かに。だがそれは今日明日に起こることではない。何も、兵を派して無理を推してまでしてすることではなかろう。じっくり時間を掛けて話しあい続ければよいのだ。日本が、アルヌスに様々な設備を作り、鉱山を開発し、その価値も使い方も教えてくれる。様々な技術がもたらされる。いずれは門を閉じなければならぬかも知れないが、別のその後でもかまわぬのだ」
「ですが、門を閉じる障害の排除は、日本政府からの要請でして」
「疑わしいことだな」
「これは異な事を。妾をお疑いか?」
「よいかピニャ。もし、本当に日本から、帝国に出兵の要請があったとして、それをそなたが唯々諾々と受け容れたのであれば、そなたの為政者候補としての資質を疑わねばならぬぞ。わかっておるのか?自分が手を汚したくないから他国にそれを引き受けさせようと言う申し出なのだぞ、それは。聡明なそなたの振る舞いとはいささか考えにくい。故に嘘だ」
「で、ですが……」
皇帝は、ピニャに訝しげな視線を向けた。それは奇しくも、麻田がピニャに向けた物と同種の色彩を帯びた物であった。
「何を、そう思い詰めておる?」
「妾は、災いを防ぎたい一心で、ただそれだけです」
「余の決断は、否だ。帝国は国家としてこれに関わらない。軍を動かさぬ。汝の騎士団にも出動を禁ずる。これは皇帝としての厳命である。直ちに文書をもって布告せよ」
「父上っ!!」
「少し頭を冷やすが良い」
皇帝はそう言い残すと、侍従達とともにピニャに背を向けて立ち去ってしまったのである。
アルヌスの陸上自衛隊特地派遣部隊は慌ただしさに包まれていた。撤収作業の為である。
門の安定化計画と言っても、恣意的に門を開閉するのはこれが初めてとなる。門を閉めればその時点で日本との連絡は途絶えてしまい、そして、二度と連絡がとれなくなる畏れもあるのだ。そんな場所に隊員達や、貴重な装備を残していくことは、出来るはずがないのだ。
74式戦車に始まる各種戦闘車両、重火器、分解された攻撃ヘリ等は他にも先んじて運び出されている。
ただ、40mm自走高射機関砲M42などに代表される既に退役済みの装備や、現役の物でも耐用年数の過ぎた73式トラック等の車両類、そして空自のF4ファントム等は、特地に残されることとなっている。これに加えて、書類上は消費されたことになっていても、実際は使用されずにそれぞれ現場で保管されていた燃料や弾薬類、手榴弾、LAM等も持ち帰ることが出来ないので、同様の扱いとなる。
門の安定が確保された後、このアルヌスと門の警備に配備される1600人を残して、他の部隊はそれぞれの原隊へと帰る。残った1600人も、門を閉鎖する際には日本に戻るため、このアルヌスの駐屯地はほぼ空となるのだ。そして、再び特地側から銀座への門が開かれるのを、待つと言うわけである。
麻田は国民に向けてこう演説した。
「それは、打ち上げた有人ロケットが、大気圏を突入して無事に帰ってくるのを見守るかのような緊張感を孕んでいます。しかも、その正否を分ける要素は、科学とか、技術といったものだけではありません。銀座事件以来、私たち日本人が特地の人々とどう関わってきたか。彼女ら、彼らが、もう一度我々との間に『門』を開きたいと思ってくれるか。それが問われるものとなるでしょう。私は、現場の自衛官達が誠実に関わってきたと信じています。実際に、それを信じさせてくれる実例もこの目で確認して参りました。ですから、私は楽観しています。きっと特地の人々も、我々と共に発展していこうと願ってくれることでしょう」
こう言って、麻田は総選挙10日前の木曜日に『門』の閉鎖をすることを発表したのである。
これを受けて、アメリカとフランスから来ていた捜索隊と国連の視察団は退去していった。
その後、特地に派遣されていた部隊の撤収が始まった。そうは言っても、元が3万人近い大部隊だ。撤収も1日2日では到底終わらない。15日ほどかけて順次撤退と言うことになっている。
空自地区の格納庫では残していくことになる2機のファントムが、機体全体に電子の歌姫と長ネギのノーズアートを施されてすっかり『痛飛行機』に化粧直しされていた。
ご丁寧にワァックス掛けすら済ませたこの2機を前に、神子田を始めとしたパイロットや整備員達は全員集合し、記念撮影の後、夜中から明け方まで呑んで騒いだあげく、累々たる屍の如き惨状を描いたりしたのである。
そうした行儀の悪さも、この時ばかりは「まぁいいだろう」と見て見ぬフリをしてもらえたのだが、かえって「み、水をくれ……」と呻いているのを半日以上放置されるといったことも起きたりした。
またPXや街のそこかしこで、猫耳娘を筆頭とする見目の良い亜人の女の子達が、若い自衛官連中に請われて一緒に写真を撮ったりしている光景が、連日に渡って見受けられるようになった。
彼女たちの中には「ちょっとついて来て」と請われて、人影のないところに連れ込まれ、何事がおきるかとびくびくしていたら、「つき合って下さいっ!」と告白されたり、「一緒に日本に来てくれ」と言われる等ということもあったようである。
もちろん、彼女たちの答えは、ほとんどの場面で「否」であった。
身体が複数無い以上、全てに肯定的な答えなど返しようがないし、顔はなんとか知っている、言葉もちょっと交わしたことがあると言う程度のつきあいで、親しい交際を求められても、答えようがないというのが本音であろう。
ただ、日頃からターゲットを絞り、せっせと通い詰めて好意値の向上に励んでいた者の何割かは、「…………はい」と応諾の答えをもらえる幸せを得た。そう言った者は、周囲のやっかみによって袋叩きに等しい祝福の洗礼を浴びせられることとなった。
とは言っても、「一緒に日本に行くのは……考えさせて」という消極的否定な返答が多かったと言う。憧れの地とは言え行ったこともない土地に、しかもヒト種しか住んでないところへ行くということが彼女たちにとって、どれほどハードルが高いかを、ここからも窺い知ることが出来るだろう。
新しく誕生したばかりのカップルは、そのほとんどが、再会を約束した別れから始まることとなり、その後の小説やテレビドラマに沢山のネタを提供することとなったのである。
さて、特殊作戦群の現地協力員として雇われているデリラも、撤収作業の忙しさに巻き込まれた内の一人である。
ダンボールをトラックに積みこんだり、消費したことになっている爆薬や弾薬を指定された集積場に提出しに行ったり(後で埋めに行く)、さらには書類の分類と搬出で、てんやわんやしている最中、「でりら~、隊長が呼んでるよ~。洗面器持って来いって」と先任曹長に言われて、「なんだい?出雲の旦那」と隊長室に行ってみると、あちこちに荷物がとっちらかっている引っ越し真っ最中の執務室で、出雲や剣崎達の名前の入った書類と、革袋を1つ手渡された。
「なんだい、これ?」
革袋のずっしりとした感触は金が入っていることを訴えていたが、給料にしては多すぎる気がした。
何はともあれ給料を貰う時の要領で、洗面器に革袋の中身をぶちまけた。給料が現金で渡される時、陸上自衛隊では隊員達は洗面器を持って廊下に並び、所属する隊の長から給料を受け取ると、その場で洗面器に中身をぶちまけて紙幣の枚数から硬貨の数をしっかりと数えて、金額に間違いがないかを隊長の前で確認するという作業をするのだ。
洗面器に散らばった金貨銀貨はデリラが見たこともない程に高価値のスワニ金貨やデナリ銀貨ばかりであった。
「金貨30枚と、銀貨50枚って……何これ」
「とりあえず、退職金みたいなもんさ。大した額じゃないが、日本に来るにしてもこっちに残るにしても、先立つ物は要るからな。それと書類の方は、特地開発関連企業への推薦状だ。門の再開通が出来たら政府系や、民間企業が大挙してやってくる。そうなると、こっちに詳しい人材は喉から手が出るほど欲しいはずだ。ところが、信用できない人間は雇ってもらえねえ。そこで役に立つのが、その推薦状と勤務証明書だ」
デリラは胸がじんわりと熱くなるのを感じていた。
給料がもらえるだけでも有り難いと思っていたが、先々のことまで心配してもらえるとは、思っても見なかったからだ。既に身の振り方を決めている彼女ではあるが、あまり公言できる内容でもなかったため、「どうする?」と問われても、答えをぼかし続けていた。それが彼らに気を回させることになってしまったのだろう。
「短い間だっだが、ありがとな。お陰で助かったぜ」
出雲はそう言うとデリラの頭を軽く撫でて、机の上の荷物の片づけに戻った。
デリラはしばしの間、その場ですんっすんっと鼻を鳴らしていたが、出雲が気にも止めず放っておいてくれたので、自然に涙が止まるまで心ゆくまで泣くことが出来たのである。
一方、撤収する自衛隊の車両が銀座からどんどん出ていくなか、銀座駐屯地に入っていく者もいた。その多くが、特地へと送られる品物の輸送トラックとその運転手達であるが、その中に一人の民間人女性の姿があった。
タクシーに金を払って降り立った彼女は、なかなかに金回りの良さそうなブランド物の服装で身を固め、下品にならない程度に高価で品の良いアクセサリーで飾り立てていた。いわゆるセレブレティな女性であることが感じられる。
警衛所の窓口に「あのぉ~」と恐る恐る声を掛けて「はい、なんでしょう」という窓口の人の柔らかめの返事に安心した梨紗は、シャネルのハンドバックから封筒を1つと免許証を取り出して提示した。
「あの、今日、ここに来て欲しいって手紙が来たんだけど」
警衛は、梨紗の差し出した免許証と、彼女の顔を確認した。
なかなか手入れされていて美人というほどではないが、整っていて可愛いげのある容貌をしているな、と言う感想を抱きつつ、予定されている来客名簿の記述を指先で1つ1つ照合を始めた。
「……あ、あった。ありましたね」
奥に入って、何番のカウンターで手続きして下さい等々の説明をされた梨紗は、ビル建設の現場にも似た、トラックの行き交う喧騒の包まれるドームの奥へと入った。
カウンターに、どうにかたどり着くと、飛行場の手荷物点検にも似た手続を経た後、「迎えが来るのでしばし待っていてください」と言われてベンチに腰を下ろした。
すると、オリーブドラブに塗装されたジープのような車が迎えに来た。制服の自衛官は「どうぞ、こちらにお乗り下さい」と荷台の扉が開ける。
一般の感覚では、荷台にどうぞと言われてもちょっと気がひける。助手席があいてるなら助手席が良いんだけどなぁと思うのだ。だが、「どうぞ」と重ねて言われれば、否応もない。梨紗はよいしょっと、段差のきつい荷台へと乗った。
荷台で揺られること約5分。ふと外を見ると、いつの間にか周囲の景色が銀座のビル群ではなくて、森と荒野の丘の頂き近くにいることに気づいた。
「ここが特地かぁ」
「ええ。なかなか良い景色でしょ」
独り言のつもりだったが、運転していた自衛官が答えてくれたので梨紗は調子に乗ってさらに言葉を続けた。
「これからどこに行くんですか?」
「すぐですよ。業務隊……事務とか、会計とか、そういった仕事をしている建物の脇に、来客者用の建物があります。そこにお客様を案内するようにと言われてます」
団地のような建物の間を抜けて、73式トラックは隊舎の玄関前に車を止めた。
「へぇ」
荷台から降りてみれば、突然「きゃぁ~リサ様~!」と黄色い声が四方から浴びせられてびっくりしてしまう。
待ち構えていたのは「ここって、宝塚?」と言いたくなる男装の麗人とか、着飾ったお姫様達の大集団だったのである。
特殊作戦群の隊員達の乗ったトラックが去って行くのを見送ったデリラは、人気の無くなった隊舎の廊下や居室を忘れ物がないか、あって欲しいなぁという想いを込めて見て回った。何か忘れていたら、それを送り届ける手続をすることで、まだ部隊と関わっているような気持になれるからだ。
だが、残念なことにチリ1つ残っておらず寂寥感ばかりが風と共に流れていた。
ただ自分の荷物をまとめようとしたら、特殊作戦群の隊員達が寄ってたかって悪戯書きをほどこしたTシャツが、ベット上に残されていたりした。他に、置きみやげのつもりなのか、サングラスとか、スタングレネードとか、双眼鏡とか、漫画とか、真新しい花札とか、折り鶴とかがあったりする。
Tシャツを拡げてみれば、デリラすら顔を赤らめるほどの猥褻な絵柄がちりばめられていて、さすがに袖を通すことは出来ないが、大切にしようと思って荷物の奥深くに沈める。
「すたんぐれねーど、なんて何に使えって言うのかねぇ」
折り鶴なんかは赤井三尉がよく片手で折る練習をしていた。花札は特戦の連中と遊んだ。漫画のおかげで字も大分憶えた。サングラスは、通常のフレームだとヒト種とは耳の位置が違うのでかけることは出来ないが、これは鼻梁だけで支えるタイプのフレームだった。(映画マトリクスで、モーフィアスがかけていたようなデザインだ)わざわざ用意してくれたようである。
サングラスは早速かける。窓ガラスに自分の顔が映っているのが見えて、思わずニヤリと笑ってしまった。
ふと、着ている作業服だの迷彩服だのナイフなどは、返さなくて良かったのかなと思ったりする。ま、何も言われなかったからいいやとばかりに、これらも荷物に加えて仕舞い込み、現地協力員として雇われていた者達の集合場所として指定された建物へと向かって、足早に急いだ。
すると、そこには40~50人前後、デリラのようなポーパルバニーや、ヒト種、キャットピープル、中には翼人もいた。こんなにさくさんの現地協力員がいるとはデリラも思ってみなかった。皆、それぞれ職場が散らばっていたし、大抵は偵察隊に同行したり、調査、交渉と留守にしていることが多いので、一堂に会する機会などなかったのだ。
みんな、デリラと同様に周囲を見渡していた。
ロゥリィやテュカ、レレイもヤオの姿があったことも意外に感じる。だが考えてみればこの4名が現地協力員の草分けだ。彼女たちがいたから、自分達は現地協力員として雇われる機会が与えられたわけであり、誰も彼もが彼女たちには一目を置いている。ここに居ない方がおかしいのかも知れない。
こうして待つことしばしの間。
何が始まるのだろうと思っていれば、狭間陸将が幕僚達を引き連れて姿を現し、皆にねぎらいの言葉をかけたのである。その後、担当の幹部が前に出て各種の説明を始めた。
日本に来る者の為に、帰りのトラックに便乗出来るようにした。随時乗車の手続を受け付けているので申し出るように。それと、帝都やイタリカに行く者は、明日と明後日の2便しかないので、こちらは今日か明日までには手続をするように。また、このアルヌスの隊舎の1つを解放しておくので、諸君等は自衛隊が戻ってくるまで利用しつづけてよい、といったことの説明があった。
また、門の再開通がなされたあと、再び現地協力員として働いてくれる気のある者は来て欲しい。その時に再会できることを楽しみにしてると言われて、皆表情に喜色に浮かべた。
その後解散が指示されると、幹部自衛官達はデリラ達に向けて丁寧で味わいのある敬礼をして来た。デリラ達も、それぞれのやり方で挨拶を返す。こうして、別れの会は終わりとなった。
門が再開通するまで日本に行ってみたいと言う好奇心旺盛な強者や、一時帰郷して門の再会通を待とうと言う者が、それぞれの行き先に応じて、乗り物の便乗を申し出るため係官の周りに群がっている。
だが、デリラはそれらの手続はしなかった。知った顔に挨拶を済ませると、建物を出て丘を下りアルヌスの街へと向かった。
するとロゥリィやテュカ、レレイ、ヤオと同道する形になる。道々、3人に最近の様子を訊ねてみた。
すると、これから組合の従業員達と幹部とで間で、門を閉じることについて話し合いをしなければならず、その為に結構忙しいということである。皆、組合が傾くのではないかと不安に思っているので、それを宥めるのが大変らしい。
「でも、再開通が済むまで、日本の物が入って来ないんだろ?万が一の時は、どうするんだい?」
「ぬかりはない。在庫は価値が上がる。それに既に大陸の各国に支店を拡げた。物を安いところから高いところへと持っていく交易だけでも、商いは続けていける」
レレイの言葉に、デリラは「お見それしました」と感嘆の声をあげることしか出来なかった。本当なら、もう少し具体的に話を聞きたかったのであるが、騎士団のボーゼスやパナシュが「あ、いたいた」とやって来るとレレイに相談したいことがあると言って彼女を連れて行ってしまったのである。
「日本からお客様を迎えたのですが、どう翻訳したらいいか解らない言葉がありまして……」
残されたテュカ達は「先に行ってるから、早く来なさいよ」とレレイに声を掛ける。彼女は振り返って軽く手を挙げた。
デリラも釣られるようにして手を挙げたが、彼女がレレイの姿を見たのは、これが最後となってしまうのである。
日増しに自衛官達が減っていくアルヌスであるが、街は相変わらず活気に満ちあふれていた。
万が一、門の再開通に失敗すれば、日本からの品物が途絶えてしまうが、レレイの説明に寄れば今はまだ在庫もあるし、商売のやり方は考えているので組合は今後も立派に続いていくと言うことである。
確か、これからそのことを説明するとか言っていた。そのせいか、夕食にはまだ早い頃合いだと言うのに従業員達が食堂に集まって来ている。
ロゥリィやテュカとヤオが、その人混みの中に入っていった。だが、既に生活者協同組合の従業員ではないデリラには、その群れの中に混ざる資格はない。
だから外から中の様子をうかがって、目指す人物の姿を探した。
「とりあえず、居所を確認しないとね」
現地協力員としての仕事はきちんと終わらせた。
部隊も見送って、世話になった人にも挨拶も済ませた。
後は、自分の落とし前をつけるだけである。
だがいくら視線を巡らせてもテューレの姿はなかった。
この食堂が仕事場である彼女にとって、居場所はそうそう沢山あるわけではない。必ずどこかにいるはずであった。そして、この食堂で働いていたデリラには、心当たりが数カ所ある。
もしかしたらと思って、店の裏手へと回ってみる。
すると案の定、人気のない路地裏テューレの姿はあった。ナイフの柄に手を伸ばして足音を抑えて近づこうとしたが、傍らに戦闘服姿の古田の姿があることに気づいて、慌てて物陰に隠れた。
「テューレさん。良かったら、俺が店を開くのを手伝ってくれませんか?」
「えっ……」
「再来月で任期が満了するんですよ。一緒に日本に行って、くれないかなぁなんて……」
それは、古田がテューレを口説いている現場であった。
「わたしみたいなのでいいの?」「テューレさんがいいんです」とか、砂の混ざった砂糖を吐きたくなるような甘ったるい会話が交わされるのが耳に入って、デリラはげんなりとした気分に陥ってしまった。
二つの影が重なって、離れるまでの暫しの間デリラは足下の地面にザクザクとナイフを突き刺したり、穴をほじったりすることで、退屈というか、沸き上がって来るある種のいらつきに耐えていたのである。
幸い、苦行にも似た時間はさして続かず「じゃ、俺もう行きます」と言って、古田は去って行った。その後ろ姿を見送るテューレは、デリラから見ても美しく、可愛く、そして幸せそうであった。
歩く姿は弾むようで、嬉しさが全身で表現されている。落ちていた箒とちりとりを拾い上げて、鼻歌を歌いながらゴミ捨て場のある倉庫の向こうへと消えて行った。
「ゴメンよフルタの旦那。こいの女だけダメなんだ。だから、ホントにゴメン」
そんなことを呟きつつ、デリラは彼女の後を追った。
いったい、何がどうなっている事やら。
見れば、食堂の食品倉庫の並ぶ場所に、十数人の男達が集まっていた。そしてテューレがその連中に手足を押さえ込まれ、どこかの暗がりへと引きずられていくところであった。
「……なんだ、あれ?」
よく見ると男達の中には、料理長も混ざっていた。
倉庫からは、男達の手で金属で出来た丸太状の物が牛一頭分ほどの肉の塊から取り出されていた。全部で十数本にはなるだろう。従業員達は、皆説明会に出席するため、食堂に集まっていて周りには誰もいない。
状況から察するに料理長が組合の荷物を横流しでもしていて、テューレの奴にその現場を見られたと言ったところだろうか。もしかしたら、金属で出来たあの丸太状の物には、禁制品の類が入っているのかも知れないとデリラは考えた。
「おいおい、手荒なことするな」
「見ラレタ以上、放ってオクコトナド出来ナイ、ね。アンタも解ッテイルはず」
「だけどよお、乱暴なことしなくても……」
「我々は僅カナ可能性モ、見過ごセナイ。口を封ジルのが一番」
料理長は乱暴は止めるように迫っているが、どうやら男達の方は聞く耳を持っていないようであった。
男達の動きはきびきびとして統制が非常に良くとれている。まるで自衛官かと思ったほどだ。だが、着ている服装や、全体の雰囲気が自衛隊のそれとは違った。かといって、この世界の住民でもないようだ。
「さて、どうしようか」
デリラはここでテューレが連れ去られた方へ行くか、それともこの場を見届けるかに迷った。テューレがどうなろうと正直どうでもよいが、殺すのだけは自分でしたいと言う気持と、ここで何が起きているのかを確かめたいと言う気持が拮抗したのだ。
止めようとか、乱入するという選択肢はない。
料理長の不正をここで暴いたところで、デリラまでテューレと同じように捕まってしまうだけである。それなら、横流し品がどこに隠されるか確認して、後でロゥリィなり、テュカなりの耳に入れておけば良いのだ。
テューレについては、多少痛い目に遭っていてもデリラとしては全く痛痒を感じない。
そう言うことで、両方を選択する。つまり、料理長が引き渡した物がどこに運び込まれるか確認した上で、テューレを探すことにしたのである。
丸太状の物体は、男達によって担ぎ上げられて荷車に乗せられた。これらの上に木箱や肉などを積み重ねて隠してしまおうと言うのだろう。
そして案の定と言うべきか、それらは捜索隊と称する連中が勝手に作った宿営地へと運ばれていったのである。
天幕が並ぶなか、デリラはゆっくりと風下にまわって、荷物が運び込まれる先への見える茂みへと身を隠した。荷物から双眼鏡を取り出して、目に当てる。
その狭い視野の向こうで、男達は荷車から嬉々として食糧を運び出し、同時に丸太状のものは天幕の1つに収めていった。
見ればテューレもそこにいた。
耳を立てて、連中の会話を聞き取ろうとすると、風に乗って「ディアボ様っ!」と誰かの名前を呼ぶテューレの声がどうにか聞き取れるだけであった。
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「どうしたもんかねぇ」
デリラは、空を仰いで寝ころんで辺りが暗闇に包まれるのを待っていた。
夜になって辺りが暗闇に包まれても、待っていた。
だが、テューレの裸身に男達が群がるのは、いつまでたっても終わりそうもなかった。当初聞こえていた彼女の泣き声も、くぐもった悲鳴もすっかり聞こえなくなってしまった。
流石にこのままじゃ死んでしまうのでは、と心配になって、様子を窺って見るとまだ続いている始末。
「男って奴はどうしょうもないねぇ」
事が済んで、テューレが始末される寸前に攫おうと思っていたのだが、いい加減待ちくたびれたデリラは、行動を始める事にした。荷物からスタングレネードを取り出すと、地を這うようにしてゆっくりと近づいていく。
夜の暗闇の中だ。
男達の関心は小さな焚き火の側で取る久方ぶりの温かい食事か、テューレに向けられている。だからデリラが近づくのは、驚くほどに容易だった。
天幕の1つを覗いてみると、焚き火の光に照らされて料理長が横流しした丸太状の物体が確認できる。表面に『Колокол』と記されていたが、キリル文字の読めないデリラにはそれが何を意味しているかは理解できなかった。
ただ、横流し品がそこにあることだけは確認して、デリラはスタングレネードのピンを抜いた。
閃光と炸裂音の轟く中、デリラはテューレに群がっていた男達を蹴散らしてその白い身体を担ぐと走った。
灯りと言えば焚き火の僅かな光しかない中、暗闇に慣れた目を1000万カンデラを越す閃光に灼かれた男達は顔を押さえて呻く。
程なくして、後方から空気を切る甲高い音が、数発ほど耳元をかすめる。
その内のいくつかがテューレの身体に当たったようで、肩上で彼女の身体が激しく動いた。
「大人しくしてな」
デリラはそう言って、テューレの身体を押さえたが、次第に支える腕とテューレの肌との隙間に鉄錆の臭いを伴うぬめる液体がしみこんできて滑りやすくなり、担いだまま走ることも難しくなって来た。
中途で、何度か方向を変えて森の中に入る。そして、周囲に動物の気配がないことを確認して初めてデリラはテューレの身体を投げるようにして降ろした。
「よおっ、まだ生きているかい?」
表情に血の気のないテューレは、その身体の半分以上を己の血で真っ赤に染めていた。手足には力無く、陸に打ち上げられた軟体動物のようにそこに横たわっているだけとなっていた。
テューレはデリラを見ると、何かを喘ぐように言った。
最初は聞き取れず、デリラは少し耳を寄せる。
「はやく、誰かに知らせて……」
医者でも呼んで来いとでもいうのかい?これから殺されることも解らずに?と言う、馬鹿にした気分で、デリラはテューレの口元に耳を寄せた。だが、テューレはそんなことを言っているのではなかった。
「早くしないと、古田さんが死んじゃう。あの人達、恐ろしいことを……」
これを聞いてデリラは首を傾げる。命乞いではなく、古田を助けろと?助けないと行けないようなことが起こるというのか?
「ディアボがいた。あの人達と手を組んで………何かしようとしてる」
「わからないねぇっ!いったい何があるって言うんだいっ!ディアボって誰?」
「お願いぃ。みんなに知らせて。でないとフルタさんが死んじゃうよぉ」
テューレの手がデリラの顔に触れた。
もう殆ど力のないその手で、懸命にデリラを行かそうとしている。その鬼気迫る様子はデリラをしても恐怖を感じさせるものだった。
「フルタさん、フルタさん」
「わ、解ったよ。伝えりゃいいんだねっ!」
デリラが、勢いに負けてそう言うとテューレは、頷いて微笑んだ。
しょうがないねぇ。デリラはそう言って、テューレをそこに置き棄てて走るのだった。
フルタさん……フルタさん……
男に嬲られるのだって、馴れてるから大丈夫。
怪我だってすぐに治る。だから大丈夫。
大丈夫。きっと、幸せになれる。ううん、今幸せだ。明日が早く来ないかな。
「明日の支度しなきゃ」
力が抜けて次第に景色も曇っていく。
「明日の料理。何?」 ねぇ、古田さん。
テューレの生は、こうして終わりを告げた。