[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 59
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/03/10 20:46
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とあるタイプの女性は、同性から蛇蝎のごとく嫌われている。
ところが、このタイプの女性は男からすると大人気だったりする。人なつっこくて、可愛ゆく見えることが多いからだ。だけど、もしこの手の女性がそばにいたとして、その本性を看破することも出来ずに、迂闊に鼻の下を伸ばしてちやほやしてしまったりすると、男の側も多くの女性から冷ややかな視線を浴びせられ、疎まれることになってしまうことは知っておきたい。
実際、この手の女性はロクな存在ではない。
気分や、自分の都合で急に態度を変えて来るからだ。嘘も平気でつく。相手の心情や立場などに配慮することもないのだ。
そんなことに気づかず、調子に乗って慢心していると、ある日突如として深く突き落とされて、心理的に、社会評価的に、そして男的にも、再起不能になってしまいかねないのだ。
職場で、学校で、サークル活動その他諸々で……その手の女性がいたら是非気をつけて頂きたい。こういった女性と上手くつきあってなお、自己を保てるのはよっぽどの大人物だけである。
ちなみに、お水の職業に就いている女性の場合は、職業的にそう振る舞っているだけなので、性格的にこの手の振る舞いをしてしまう女性とは違うのだと告げておかなければ不公平であろう。ま、男からすれば似たようなものではあるが。
さて、この手の女性の特徴をまとめると、以下のようになる。
1.場の権力構造に敏感で、影響力のある存在にすり寄っていく。多くは対象が男性のために端から見ると男に媚びるように見えるが、対象が女でもすり寄っていける。
2.対象が好むタイプを敏感に察知して、それを演じるのが非常に上手。
3.損得勘定に敏感で、自己の欲求を満たすことが第1。嫌なことや手間のかかることは、他人に押しつけてしまう。だけど、人目には自分が一番仕事をしているとか、泥を被っているみたいなアピールが上手。
4.相手によって平気で態度を変える。
5.相手にしない態度をとってしまうと、馬鹿にされたと逆恨みしてくる。深刻な仕返し、(直接的な攻撃よりも、悪評を流すといった間接的な攻撃)をしてくる場合もあるので、恐怖の存在と言える。
レレイの身体を乗っ取ったハーディが、レレイならば絶対にしない、と言うかできないはずの婀娜っぽい潤んだような瞳を向けてきた瞬間、伊丹の脳裏では警鐘ががんがん鳴り響いた。初見の女性に自分がモテるはずがないという思いは30年を越える人生経験で結構強固なのだ。そして、にもかかわらず自分に好意を寄せてくる女性が居たら、そこにはきっと下心がある。それが伊丹の認識である。
そこで思い当たるのが、梨紗から言い聞かされた上記5条件である。
別に、梨紗は伊丹を教育するためにそんなことを話したわけではない。ただ、彼女の属するサークルにこの種の女が居たらしく、殆ど毎日のごとく愚痴を聞かされ続けただけである。とは言っても、毎日毎日聞かされていれば、伊丹とて学習するものだ。
この女、非常に厄介だ。
伊丹は、背筋に電撃のように走るぞくぞくっとした恐怖感、戦慄、悪寒、そしてつきつけられた媚態に沸き上がる欲望?そんなものの綯い交ぜとなった感触に、身震いした。
だが、相手はこちらの心を読んで来る。と言うことは、警戒していることまでも読みとられてしまうわけであり、あからさまに警戒していることも知られてしまうことは相手の機嫌を損ねることになりかねない。
無難に躱すということが非常に難しい。
逃げを信条とする伊丹としても、このような重囲下におかれては、身の処しようがない。「あわわ、あわわ、どうしたものか」と、四六の蝦蟇のごとく多量の脂汗を噴出させてしまった。
「どうしたの?」
ハーディがレレイの声で問うて来る。
すっと胸元15㎝の距離まで踏み込んで来る。そして下から上目遣いで、ちょっと首を傾げる姿は、そのまま飾って置きたくなる。容姿がレレイなので、可愛い振る舞いは非常によく似合うのだ。
とは言っても中身は違う。清楚さなんて欠片もない淫靡な女怪だ。
伊丹に許された対応は、両手を胸元前に拡げるガード姿勢を固め、「いえ、いいいえ、いえいえ、何でもありません」と慌てふためくというものだけであった。
助けを求めて周囲を見渡せば、ロゥリィと、テュカと、ヤオからざわっと剣呑な気配が立ち上っている。そんな女相手にしてんじゃねぇよ、情けねぇ奴だな、とでも言いたそうな意志がそれらの視線には、はっきりと込められていた。
「そう構えないでいただけるかしら。ちょっと傷つくかも」
甘えた口振りで、人差し指で伊丹の胸をつつくあたりは、あからさまでやり過ぎだ。とは言っても、効果があるからこそこの手は乱用されるわけであり、実際に伊丹の心臓は、所有者の意志を若干裏切って軽く高鳴ってしまった。
「いえいえ、そんなっ、とは言っても……」
業を煮やしたロゥリィがついに動いた。
ハーディの背後に素早く踏み込むと、チャキと金属的な音とともにハルバートの斧刃をその細い項に突きつけたのである。
「いい加減にしないと怒るわよぉ」
「あら、礼儀を知らない娘ね。亜神の分際で正神に刃を向けるとは良い度胸」
「わたしはぁ正神だからといって無条件で敬ったりしないわぁ。礼儀には礼儀、無礼には無礼で応えるわぁ。他人の男にぃ手を出す無礼な奴にはぁ、これで充分」
「久しぶりに肉の身体を得たのだもの。この沸き上がって来る飢えを満たし、乾きを潤し、体の芯に渦巻く肉の愛欲を達する時の、震えるような悦楽を味わいたいと思うのはいけないこと?ちょっとぐらい貸しなさいよ」
「誰があんたなんかにぃ」
「まぁ、妬いてるのね。可愛いくてよ……でも横恋慕って背徳的でぞくぞくっしちゃうわ」
「レレイは未通女(おぼこ)よぉ。痛いばっかりで、気持ちよくなんかないわよぉ」
「流石は永遠の処女(おとめ)。実感籠もってるわね。でも、貴女はどうやってそこから快楽を得ているのかしら?何かコツでもあって?」
「コツなんて簡単。だけどぉ貴女には無理ぃ」
「それは何かしら?」
「愛よぉ。愛が介在する時『だけ』ぇ、苦痛も愉楽へとなるのよぉ」
「流石、愛の神を目指すだけあるわね。じゃぁ、やっぱり本命の貴女に相手して貰わなくてはならないわね」
そう言って振り返ったハーディは、細い指先を伸ばしてロゥリィの頬を撫でた。
ロゥリィはハルバートの刃をハーディの首に更に押しつけて、おぞましげに「だから、やめぃ……」と突き放す。
「わたしぃは、あんたの嫁にはならないと言ってるでしょぉっ!」
「あら残念。でもいつかは気が変わることでしょう。それまで待つことにするわ。それに、新しい亜神が現れそうだからぁ、その娘を勧誘してもいいわね」
「ちっ」と舌打ちしたロゥリィは、その美貌を歪めて言い放った。
「レレイの身体からぁ、出て行きなさいぃ」
「嫌よ。この身体、幼すぎるのが難点だけど相性がいいもの……」
ハーディはレレイの身体を、いとおしげに抱いて不敵に微笑む。
「それとも……力ずくで追い出してみる?この身体を破壊することが、貴女に出来て?」
レレイの身を人質にとられてしまえば、ロゥリィとてくっと唇を噛んで引かざるを得ない。
ハーディは、ハルバートの押し当てられていた首を軽く撫でると、じわじわと距離を置いて逃げつつあった伊丹を捕らえ、その右腕を抱くようにして取った。周囲の女達に見せびらかすような態度のそれで、雰囲気はさらにも増して悪くなる。
「さあ、参りましょう」
「ど、どこへ?」
「まずは、食欲を満たすことにするわ」
「しょ、食事ですか?まだ飯時には早いと思うんですけどねぇ…」
つき合ってくれないと、後で酷いわよ。
すうっと細めた眼差しには剣呑な光が充ちていた。そうして険しいところを見せておきながら、絶妙な力加減で腕をふんわりと抱いて来るところなどは、飴と鞭の使い方が実に巧妙であった。
一行を引き連れて神殿を出たハーディは、神官や巫女達の縋るような視線にも目も止めず、ベルナーゴ神殿の門前町にある一番豪華そうな食堂に入って、卓上が溢れかえるほどの料理を次々と運ばせた。
相伴を強いられることとなった伊丹や、ロゥリィ、テュカ、ヤオも思わず絶句だ。五人がかりでも、正直言って食べきれるかどうか怪しい。それくらいの量であった。
肉、野菜、川魚、香草、キノコ、小麦、乳酪、乳精などをふんだんに用いた料理は、見ただけでも胃がもたれそうだ。なのに、ハーディはそれらを一人で食い尽くさんばかりの勢いで手を伸ばしている。
ひと皿、ふた皿と次々に空になっていく様に、腹でも壊さないかとつい心配になる。
「い、いくら、他人の腹とは言っても、少しは気をつかったらどうなの?」
伊丹達が、その余りの食べっぷりに絶句している中、レレイの身を気遣ったテュカが言った。
だが、冥府の神は肩を竦めると一人嘯く。
「あ~あ神になんて、なるものじゃないわね。無限の孤独の中で、どんどん無感動、無感情になっていくのよ。このままだと、ただただ役割を淡々と果たすだけの存在になってしまうかも知れない。それを防ぐためにも、魂の歓びを共に出来る伴侶が必要なのよ……ロゥリィ、わたしの嫁になりなさい。別に婿でもいいけれど、一緒に溶け合い永遠を楽しみましょう」
ロゥリィは、パンを囓りながら嘯いた。
「いやよぉ。もう間に合ってますぅ」
「あら、やっぱりこちらの殿方かしら?」
ハーディは伊丹にすすっと顔を寄せた。
「手を出すなと言ったでしょぉ!」
興奮した猫のように髪を逆立てたロゥリィは、伊丹の腕をひっぱってハーディからメリメリと引きはがした。
「昇神を看取られるのは最高の幸せよねぇ。伴侶が寿命を迎えるまで宿っていればいいし、その後は眷属に招いても良い。看取った側にまわっても、魂を預かっておけば昇神する時に同伴してもらえるもの。……あ~あ、これから昇進する娘が羨ましいなっ!ねぇ貴方、同情してくださいな。孤独な寂しい女に優しくして」
そんな風に言い寄られれば、ガードを固めていても思わず揺れてしまいそうになるのが男の性かも知れない。これを防がんとばかりにロゥリィは柳眉を逆立てる。
「しっしっ、いかがわしいぃ!」
「じゃあ、そこのハイエルフ。貴女がロゥリィの代わりに相手をしてくれない?」
「レレイならともかく、ハーディ様はお断りです」
「あら、どうしてかしら?」
「好意を持てないからです」
「そっちのダークエルフはどう?」
「お断り申し上げる。かつてなら、お誘いに応えるのも吝かではなかったでありましょうが、今となっては御身に好意など持ちようもありません」
「ジゼルから、話は聞いたわ。残念なことだったわね」
その他人事のような言い様に、ヤオは卓を叩いて立ち上がった。
「残念っ!?残念と言われたか?」
間にテーブルが挟まっていなければ今すぐにでも挑みかかりそうなほどの怒気を視線に込めていた。テュカも、ヤオ程でないにしても美麗な眉を少し寄せて、不快感を顕わにしていた。
そんな視線にも全く動じない態度で肉を食(は)みながら、ハーディは愚痴を漏らす。
「ええ、言ったわ。間違いなくてよ」
「言うに事欠いて、残念の一言ですか?友人、仲間、家族、親友、そういったものを己の所行で亡くした者に対してかける言葉がそれですか?」
「ええ、そうよ。神と人間とでは、見ているものが違うのだもの。畑を潤せと雨を望む者がいる。その一方で空よ晴れろと好天を望む者が居ることも知っている。でも、嵐や暴風を起こして大地を洪水で覆うの。何故なら、行き詰まった森の木々を少しばかり倒し、葉を落とし土を肥やすため。あるいは土を濁流で流して肥沃な土で大地を覆うため、さらなる生命を育むためよ。でも、そんなことも知らない人間は自分の都合に合わないからと言って神を憎むの。物事の善悪は人間の情でしかないわ。因果は、また次の因果を紡ぐ、次の因果、また次の因果、そしてさらに次の因果………神は、もっと大きく、長い時の流れで物事を見ているわ、昨日今日の些末な出来事の、一時的な損得善悪にこだわらないの。ねぇ、貴女は夏の炎暑にあたって人が亡くなった時、太陽の神を呪って?」
「いいえ」
「波濤に船が飲み込まれ、船員達が溺れ死んだ時、貴女は海神(わだつみ)を呪うのかしら?」
「呪ったりしません」
「それは何故?」
「自然の為したことだからです」
「では、炎龍が子を産み、育むために餌を獲る。たまたまそれがヒトだったりエルフだったりした。そのことのいったい何が問題だったのかしら?あなた達が今食している毛長牛の肉。その子牛が親の敵と襲ってきたら討たれてやるのかしら?」
ヤオはそっぽを向くと鼻で笑った。
「肉親や仲間を失ったことのない者なら、つい受け容れてしまいそうな理屈ですね。傲慢でむかつく考え方です」
「あら、貴女達エルフだって、ヒトが森に踏み込んで、生活のためであろうと樹木を切り、猟をすること禁ずるでしょう?それはヒト種からすれば傲慢でむかつく考え方だわ。目の前に富をもたらす森があるのに、エルフのせいで狩りが出来ない。貧困を強いられている。そんな風に猟師は呪うでしょうね。ねぇ、何のために森を守り、ヒトが入ることを禁ずるの?」
「それは、森が失われないようにです」
「では、炎龍を始めとする古代龍は失われて良いの?」
「それは……」
「野に生きる生き物を、家畜みたいに飼い慣らして餌を与えればよかったの?全ての肉食の生き物をそんな風にすればよい?ゾッとする世界が出来そうね……」
「……………」
「そう。見ているもの、立場、考え方が異なるのよ。恨み辛みを抱くのは勝手だわ。それを晴らしたいと思うのも貴女達の自由。だから私は、可愛い龍達が討たれたことについては許すことにしたの」
その上で、お気の毒様と言う意外に、なんと言えばいいのかとハーディは愚痴った。
ヒトもエルフも、肉食の動物も、ありとあらゆる生き物が、互いに命を奪って互いを餌にして生きている。生きるために殺し、食べるために殺す。そうしなければ、生きていけないのだから。
この世界に生きている限り、自分の意志に反してであれ、進んでであれ何かを殺している。そして殺した側、殺された側も、何くわぬ顔でともに暮らすのよ。それが生きるということだと知っているから。
「ねぇ、ロゥリィ。私、何か間違ったこと言っているかしら?」
ロゥリィは、まずは黙した。
ハーディなんぞの言葉に頷くのは業腹だったからだ。だが、殊この件については節を曲げるわけにもいかないのは確かであり、だから吐き捨てるようにして「何もないわぁ」と告げた。
それを見て満足そうに頷いたハーディは朗々と語る。
「多くの人間は勘違いしているの。この世が理想郷だと思っている。自由も当然、平和も当然、世界は充分な富と幸せが満ちあふれていて、自分はその恩恵に浴せるはずだと思っている。自分が生きていけるのは当然だと思っている。でも現実は違う。何もなく、与えられず、理不尽にも命すら奪われる。だから思い込む。自分にそれが与えられないのは、誰かがそれを横取りしたり、奪っているからだと。そうすれば自分の貧しさを他人のせいに出来るから。実際は違う、豊かさとは生み出すもの。作り出す物。探し出す物。創造する物。そして戦って勝ち取るもの。命は守って初めて保たれる。元からあるものでは決してないの。誰かが産み、作り、育てて初めてそこにある。そのことを知らないのか、あえて目を背けている愚か者共が、在るのが当然と思い込むのよ。ここに出てくる料理とて、料理人がヘボなら家畜の餌にもならないものになってしまう。これは天然の材料を元に、料理人によって創造されたものなの。そして、その価値に対して客は対価を払う。料理人はその能力で、豊かさを作り出すの」
「あの、良いですか?」
伊丹は口を拭きながら手を挙げた。
「今の話、凄くもっともに聞こえます。最後なんて拍手したいところです。でもね、何かがおかしいと思ったんだ。それで考えてみたんだけど、ハーディ様」
「なあに?」
「今の話だと、眠っていた古代龍を叩き起こした理由にならないと思うんですよ。確かジゼルさんがおっしゃった話だと、他の亜神に勝つとか何とか……神様同士の諍いのお支度ですか?」
「そうよ。そうだわっ。危なく、丸め込まれるところだった。古代龍を増やすためだったら、活動期に入ってからで良かったはずよ」
今度はテュカまでも席を立って騙されないぞという構えで、ハーディに迫った。
「なかなか鋭いわね」
テュカやヤオの敵意に満ちた視線を無視して、ハーディは伊丹にだけ微笑んだ。
「いいえ、どっちかって言うと鈍いと言われてますけどねぇ、あはは」
「それって誰の評価?」
「まあ、友人とか知人とか、上司とかです」
「随分と見る目のないお友達なのね。それに自己評価も低すぎよ。他でもない私が褒めてあげるから自信を持ちなさい」
ハーディはそこまで言うと、酒を口に含んだ。
「敢えてこの時期に炎龍を叩き起こして、子をなさせたのは、この時期でなければ間に合わないからよ。でも、他の神々と諍いを起こすのが目的というのは誤り。結果として、他の神々や、亜神と諍いになるかも知れないけれど。それ自体を目的に据えたつもりはないわ」
「では、何が目的ですか?」
「私たち神が目指す究極の目標は、この世界という箱庭を豊かにしていくこと。栄えさせていくことよ。そして私は冥王。停滞と安定とを崩して、新しい潮流を引き起こす」
「要は、引っかき回すってことですかねぇ」
「言い得て妙ね。でもその通りよ」
「何だかなぁ」
「何か思うところがありそうね。許すから口にしてご覧なさい?」
「………あれ、こころ読めるんじゃないんですか?」
「横着しないで欲しいわ。肉の身体に憑依している間は、聞こえないの。だから口にして貰わないと意志の疎通はできないわ」
「そうですか。神様相手に、こんなことを語っちゃうのも何なんですがね、今の話を聞いていて子供の頃、一生懸命積み木を積み上げてこれから完成って頃合いになると、横から邪魔しに入ってくる奴を思い出しました。まるでぶち壊すことを正義みたいに誇ってた奴でね。非常に腹が立ったのを覚えてます」
「なかなか面白い感想ね。私のしていることは、未熟な餓鬼が、嫉妬と自己顕示欲から起こす癇癪と同じとは……でも、そうかも知れないわね。気がつかなかったから、今度からは、自覚的にやることにしましょう」
「え、受け容れちゃうんですか?」
「確信犯だもの。それが役割だからもあるけど……そうよ、言われてみて気づいた。私はそれが楽しくてしょうがないのよ。私がぶちこわしたことで、慌てふためく人間達。あちこちで始まる戦争と動乱を見るのが楽しくてしょうがないわ。知ってる?今頃、帝国は親子兄妹に別れて、内戦の真っ最中なのよ」
「な、内戦?もしかして、それにも関わったりしてます?」
「うふふ。さぁ、どうかしら。でも、これで能力も見識も無い癖に権力や立場を得ていた者は、居なくなるでしょう。力があっても機会を得ずに世に出られなかった者が、これで出て来易くなったわ。能力のない者は振り落とされ消えていく。引っかき回すと言うことは、世界を新鮮に保つ、腐らせない秘訣なのよ。さあ、お腹も一杯になったことだし、そろそろ次に行きましょう。良い物をみせてあげるからついてらっしゃい」
こうして伊丹達はハーディに引きずられるようにして店を出ることとなった。
「美味しゅうございました」
ハーディは「妊娠何ヶ月?」と尋ねたくなるほどに膨れあがったお腹を、ポンポンと叩きながら食べたものの味を反芻しながら告げた。
その隣には、食事の代価として馬鹿にならない金額を支払わされて「お布施よ、お布施」と背中を叩かれながら涙目となっている伊丹がいる。
「功徳を積んだから、貴方に御利益を与えましょう」
そうハーディは言う。が、伊丹としては彼女の人となりをとても信じることは出来ないでいた。
停めて置いた高機動車にロゥリィ、ヤオ、テュカ、そしてハーディ(レレイ)を先に乗せて、伊丹自身は少し離れたところに下がって、軽くなった財布の中身を確認する。両替して置いたこちらの貨幣は随分と減ってしまった。金貨、銀貨、銅貨……。
「何で俺が……経費で落ちるかねぇ」
そんな愚痴をこぼしていると、「よお、伊丹」と路地裏から声がかけられた。
久しぶりの日本語に一瞬違和感を感じたが、よくよく見れば古巣の同僚達である。
「赤井、剣崎。どうしてここに」
赤井三等陸尉も剣崎三等陸尉も、それぞれ地元民の服装をしてしまうと日焼けした肌もあってかこの土地にとけ込んでしまう。もし、呼び止められなければきっと気がつかずにすれ違ってしまっただろう。
二人の待つ路地裏に入り、二人の肩を叩く伊丹。
銀座事件で一人だけ昇進してしまった身だが、古巣に居た時は同階級であったし、同じチームに属していたこともあって気の置けない仲である。二人は、習慣的に周囲に対する警戒の視線を送りながらも、親しげに伊丹の肩を叩き返した。
「アルヌスや、イタリカ、帝都周辺へと枝を伸ばしていた地下組織の本株が、このあたりまで伸びていることがわかってな。根刈り、枝刈り、草刈り中だ。といっても、俺たちは夜番なんで、日の出ている内に土地勘を掴んでおこうとこうして出歩いてる。今から、飯を食うつもりだ」
つまり、夜間には作戦があると言うことだ。この街のどこかが彼らによって襲撃されることになるのだろう。
「このベルナーゴに?」
「ああ。帝都にある売春宿が元締めっぽく見えていたが、どうもただのならず者で連絡役に過ぎないようだ。地下茎を手繰ったらこんなところに来ちまったんだが、組織としてはこっちの方が本命っぽいってのが2科長の出した結論だ。徹底的に叩き潰してやる。それより、伊丹。お前の方こそどうなってる。何でこんな所に?」
「深部資源の探査中なんだが、こちらの神殿からお呼びがかかっていてね、こっちの神様に何やら良いものを見せてやると言われて、それを見に行くところ」
赤井も剣崎も「神様?なんだそりゃ」とあんぐりと口を開けた。
『特戦』に所属している面々は現実主義者ばかりである。いろいろな事情で特定の宗教に信仰心が篤い者は、特戦には入れないからだ。それだけに、神様とかそういった超現実的な存在を受け容れることは難しく、神様……何それ。といった反応を示す物が多いのである。
ロゥリィについて言えば、とんでもない寿命をもち、とんでもなく強く、そして幼い外見の種族という理解の仕方をする。
「その割りには、いつもと同じ顔ぶれしかいないみたいだな?あれはレレイだったよな。へぇ、ロングも似合うんだねぇ」
赤井は、高機動車に乗っている女性達に視線を送った。彼は非常に視力がよいので、ちょっと距離が開いていても人相風体を見分けることが可能だ。
「ま、ちょっとな」
レレイが憑依されているとか、その手の話をしても精神疾患とか、そういった解釈になって混乱させるだけなので、伊丹は誤魔化すことにした。
「そか。まぁいい、ところで今出てきた店。味はどうだ?」
「美味かったぞ。高かったけど」
伊丹はそういって、お勧めの料理について若干の情報を提供する。するとお返しとばかりに剣崎が言った。
「グランマの行方がわかったぞ」
「な?何だと?!」
伊丹は血相を変えた。
「名を変えて潜伏していた」
「ど、どこだ、何処にいた?何故お前が知っている?」
「偶然だよ。ここで聞いても仕方ないだろう。ネットに繋ぐ環境もないのに……後でURLを教えてやる」
「わかった。有り難い、ホントありがたい」
伊丹は剣崎の手を諸手で握り何度と無く頭を下げた。と、同時に気づいた。これがハーディの言う御利益か、と。
「うまい飯の情報と引き替えだ、そう悪くないだろ」
「ああ、凄く有り難いぜ」
伊丹は、この世界の神様という存在がどれほどに凄いかその片鱗を見たような気分になっていた。これならお布施もまぁ、惜しくない気になってしまうから不思議である。
* *
「で、やって参りましたトワイル。見せたかったのは、ここよ」
「良い物がある」の一言で、ベルナーゴから引っ張り出された一行が、北へと向かって一昼夜。ようやくたどり着いたその場所は、緑豊かな牧草生い茂る牧歌的なところであった。
「のどかなところだねぇ……」
アルヌスへの帰路の燃料が足りなくなりそうな予感で頭を悩ませている伊丹は、深く考えることもなく感じた通りに呟いた。だが、同伴者達はどうも同じようには感じていないようであった。
不敵な態度のハーディは、ニヤニヤとアルカイックスマイルを浮かべているたけであるが、ロゥリィは今にも挑みかかりそうなほどに敵意をというか殺気をまき散らし、ヤオとテュカの二人は、何かおぞましい物でも見ているかのような嫌悪の表情を浮かべている。
「どしたの?」
「ここは、もう死んでるわ」
テュカは、地に片膝を着いて牧草を調べた。枯れることなく、緑のまま死んでいると言うのは理解できない。せめて秋の芝生のような色になっていればわかるのである。だが、虫の死骸を掌に拾って、調べるか今さっき死んだがごとく、新鮮に見えた。ただ水気だけが抜けている。
「死んだ植物や虫が、腐りもしないのってどういうこと?」
腐敗させる菌がまでも死んでいるということだ、と現代科学の知識を持つ伊丹なら解釈できるところである。つまり、ありとあらゆる生き物が此処では死に絶えている。原因は、放射能か?毒ガスに類する物か?と思うところだ。
「いったい何故?」
注目を浴びたハーディは、悪戯が成功したかのごとき笑みを浮かべて告げた。
「貴女達、世界が歪んできていることには気づいているかしら?」
すぐに、ロンデルで発表された内容が思い浮かぶ。空を眺めて歪みもその目で確認している。
「解っているなら話が早いわ。ここは、そのしわ寄せを受けている場所なのよ。ここはまだ、マシな方かしら」
「何が起きているの?」
テュカが重ねて問いかける。
ハーディはそれに答えず「次に参りましょう」とだけ告げた。
クナップナイへと向かっている最中、運転している伊丹は、後部からゴツゴツ頭が叩かれることに気づいていた。バックミラー越しに見えるロゥリィやテュカの視線は、お前が尋ねろと言っている。ハーディはどうも、嫌われていることへの当てつけか、女性からの問いには答えが辛い。
仕方なしに、助手席のハーディへと尋ねた。
「実際、世界が歪んできているというのは、別の場所でも聞いた話なので理解できます。さっき行った、トワイルという土地が死に絶えているという話は、正直言って俺にはわからなかったんですが、テュカやヤオが深刻に受け止めているってことは解りました。で、尋ねるんですが、いったい何が原因なんですか?そしてなんでそれを俺たちに見せようと?」
高機動車から見える外の景色が、流れていく様を楽しんでいたハーディは、伊丹からの問いに「どう説明したら良いかしら」と風にながされる銀髪を梳くようにしてから、頭を掻いた。
「こうなったのは、『門』が開いているからよ。それをあなた達に知って欲しかったの」
「説明してくれるんでしようねぇ」
つい口を挟むロゥリィ。だが、ハーディは伊丹に答えた。
「異なる世界を繋ぐというのは、案外簡単なことなの。二つの世界の流れがもっとも近づいたところで、ちょっと門を開けばいいのだから。そして、その門は二つの世界が離れていくと、消えてしまうわ」
だけど門を強固に維持するものがある。それがあるがために、門が消えない。不自然な力がかかって世界に歪みが生じている。ハーディはそう言った。
「歪みが広がると、世界はトワイルのようになり、そして……こうなるわ」
ハーディが車内からクナップナイの地平を指さした。
そこは、暗黒の雲海に覆われつつある高原であった。
日本で言うなら長野の軽井沢か、山梨のような、高原と山に囲まれた風光明媚な土地。
そんな山々のつくる谷間を見下ろすようにして、一人の女性が佇んでいた。
白ゴス神官服を纏った竜人出身の亜神、ジゼルである。彼女は、黒い雲海に覆われていく大地をただじっと見つめていた。
「ジゼル。どんな様子?」
ハーディの声にジゼルは振り返る。
「主上。わざわざのお運び頂かなくても」
ジゼルは畏まって片膝をついて見せた。
「ご覧のように、どんどん広がっています。昨日は山が二つ飲み込まれました」
「なにこれ」
怯えたように言うテュカに、ジゼルは「なんでぇ、お前ぇらか……」と鼻であざ笑うかのように言う。
「じぃ~ぜるぅ。お久しぶりねぇ」
「ひっ、お姉さまっ!それにこの男っ!」
ロゥリィに凄まれたジゼルは、ハーディを楯にするかのように隠れつつ言った。
「み、見ての通りさ。大地が、あの黒い霧に飲み込まれていってんだ。酷でえもんさね」
「ただのガスの類ではない?」
伊丹の問いに、ハーディは石を拾って黒い霧へと投げ込んで見せた。こぶし程度の石は、の中に飛び込んだ瞬間、霧の中から発された電光によって瞬く間に砕かれてしまう。霧に覆われた大地は、細かく砕かれてしまうのだ。
「門を閉じないとどうなるか、理解できたかしら?」
テュカとヤオがそれぞれ風の精霊魔法を唱え始める。
霧や雲のようなものならば風で祓えるはず。そう思ったのだろう。
だが、開いた傘が吹き飛ばされる程度の風が吹いても、高原を覆う黒い霧は揺れ動くことすらなかった。
「これは、霧や雲の類ではないのよ。だから風で祓うことは出来ないわ」
「まさか、アポクリフ……」
ロゥリィは呻くように漏らした。
「そう、世界を覆い隠す闇。世界の終末を起こす物として予言されている物よ。本来ならはその出番は、あと数万年は先のはずなのに、早々と出てきてしまったのよ」
「どうして?」
テュカの問いにハーディはつまらなさそうに言う。
「もう原因は説明したわ」
続けてヤオが問う。
「違います。何故、それを此の身達におっしゃるのでしょうと尋ねているのです。我らは貴女を主神と仰ぐ信徒ではございません。御身なら信徒やこちらにおわすジゼル聖下らに命じられれば宜しいではないですか。門を閉じさせよ、と」
「あら。私は門を閉じろとお願いするつもりはなくてよ」
「ずるいのねぇ。門を閉じないと世界が滅ぶと説明して置いて、どうするかは自分で決めろと言うのぉ?」
「そうよ、ロゥリィ。この際だから私は見てみたいの。門に託しているものが多い人間が、門を自ら閉じることが出来るか。それに、こちらの殿方は門の向こうのご出身。門の向こう側に、様々なしがらみがあることでしょう。門を閉じると言うことは、貴女にとってこちらの殿方との別れとなるかも知れなくてよ。あなた達にはそれをする決断が、果たして出来るかしら」
わくわくした表情のハーディを見て、伊丹は思った。
やっぱりこいつ、ロクな女じゃねぇ、と。
>>>>>>>>>>>>
もう、3月中に(あと4話で)終わらせることを諦めます。どうやっても、4話では収まりません。終わらそう終わらそうと頑張るほど、変なことになってしまいます。(っていうか、今までも削りすぎ)
と言うことでもう暫くおつきあい下さい。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 60
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/03/10 20:52
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首相官邸
もう、午後10時を回ったというのに、麻田が執務室にあって沈思黙考を続けているがために、主立った官邸のスタッフ達は退庁できないでいた。
だが、お役所仕事は、汲めども汲めども尽きることのない泉のごとく湧いてくるものだ。仕事場に居るかぎりすることは沢山あった。
法律、予算、外交、防衛……様々な事案について、情報を掻き集め総理が判断を下す際の助けとすべく整理し、判断が下されたなら、該当する書類を作成して管轄する省庁へと送るため使送便(しそうびん)ボックスに放り込む。
使送便とは、お役所が独自に行っている切手の要らない郵便みたいなものだ。地域や役所によって呼び名が違う。都庁だと交換便(こうかんびん)。逓送便(ていそうびん)と呼ぶところもあるらしい。
出前で夕食をとり、コーヒーなどを呑みながら、滞っている仕事をひとつまたひとつと片づけていく。そして、首相の執務室から出てくるお茶汲み秘書の顔を見ては、「どんな様子だった?」と尋ね「まだ考え込んでらっしゃいます」という答えに、嘆息するのである。
財務省から来ている新婚の事務秘書官が携帯を取り出して、メールを打ち始めた。今夜は遅くなるから、先に眠っていてもよいとでも知らせているのだろう。警察、外務省、それぞれから来ている皆も、今宵も終電前に帰れるだろうかと考えながら、もう無理かも知れないという諦めの気持が出はじめている。
ちらりと時計を見て互いに顔を見合わせ、再び仕事のために机と向かう。
日本という国の中枢に勤める者は、こうして今夜も残業しつづけている。
さて、今、麻田の頭を占めているのは、政府の支持率のことでも、某国が人工衛星と称して発射しようとしている弾道ミサイルのことでもなかった。
マスコミのする批判のための批判に曝されていては何をどうしたって、支持率は上がることはない。だからもう、とうの昔にすっかり諦めていた。
弾道ミサイルの一発なんかも、被害が出ない限りは発射してくれた方が立場が明確になって、かえってやりやすくなるくらいだ。
そんなことよりも、問題なのは門をどう扱うかである。
陸上自衛隊 特地方面派遣部隊二等陸尉 伊丹耀司の報告は本来ならば、戯言として黙殺あるいは笑殺すらしてもよいものであった。少なくとも一国の総理が真剣に取り合うような内容ではなかった。対策を考えなくてはならないと思わせるほどの、科学的な根拠も説得力にも欠いているのだ。
もしこの場に精神科医師が同席していたなら、伊丹が体験したと言う内容の殆どは病気として片づけられてしまうだろう。
現地人の少女に神が取り憑いたという現象は、国際疾病分類に言うところの『トランス及び憑依障害』に該当するし、それ以降の伊丹等が各地で見せられたという世界の歪みからおきる現象についての話も、感応性妄想性精神障害と説明できなくもない。
なのに、麻田は考え込んでしまった。門を閉じることで起きうる事態。その影響。諸外国、野党の追及等々についてである。
統幕議長を含めて、周囲の誰も彼もが「取り合うべきではありません」と進言しているのに、自衛隊の2等陸尉程度の言葉を麻田は真剣に受け止めていた。もちろん、それは麻田が伊丹という男と個人的な知り合いであったということも理由となるが、その内容が事実だと直感的に理解出来てしまったからでもある。
問題は、直感でしか理解できないことにある。
「この世の終わり」
そう聞いて原因と考えられることは、日本という狭い範囲なら、国土が大規模地震で沈没したり、空から無数の核爆弾が振ってくるという事態かも知れない。某国の配給会社が余所様のフィルムを勝手に改竄してまでも日本が滅亡するという結末にしたがったウィルス感染による場合もあるかも知れない。
これが地球規模なら、温暖化による天候の激変と海面の上昇とか、巨大な小惑星の落下という現象がそれを引き起こすかも知れない。こういった事は、あり得なくもない話として、想像できるのだ。
これらに共通していることは、原因と結果の因果関係が合理的に理解でき、他者と共有できることに尽きる。その発生確率の稀少性は問題ではない。
ところが、門によって引き起こされるという世界の終わりとやらは、原因と結果が理解しがたいのだ。
「世界が歪む?その結果、破綻する?」
どうやって、他人を説得しろと言うのか。理解させろと言うのか。
それにだ。門を閉じたとしても、いずれ後で開ける可能性を伊丹は示唆したが、上手く行くとは限らない上に、再び開くのには相応の時間がかかるとも言っていた。そして何よりの問題は、開け閉めが可能なものであるなら、設置場所も変えられる可能性も考えなくてはならない。
もし、可能であったとしたら日本は、諸外国から今以上の圧力に曝されるだろう。ゆえに、それは可能な限り秘匿して起きたい。出来ることなら開け閉めしないのが、一番なのだ。
麻田は頭を抱えていた。
重厚なドアが開かれる音。
仕事を続ける秘書官達が頭を上げてみれば、ドアの隙間から麻田が顔を出していた。
「悪りぃけどよ、統幕議長の居所、判るか?」
ほれきた。予想通り……居残ってて正解だった。
補佐官は「統幕議長は浅間山の噴火対策会議に出ておられます。もう終わる頃ですから、市ヶ谷に戻られているのではないでしょうか?」と言いつつ電話を取ってボタンを押しはじめた。
「浅間山?」
「先日、気象庁から噴火警戒レベル3が出ました」
「そうだったな。このところ、変な地震も多いってのに浅間山の噴火かよ……」
麻田はそのまま執務室に戻らず、秘書官達の屯する事務室へと入った。
テーブルの上には出前された寿司が三つ四つ残っていて、小腹のすいているらしい麻田は、その中から蒸し海老を選んで手を伸ばす。
「総理。どうなさるんですか?」
第2秘書の女性が、気を利かせてお茶を差し出した。
「お、有り難うよ。……兎にも角にも、考えるのに材料が必要だからな。もっと詳しく調査するように統幕議長に指示するつもりだ」
「調査した結果、2等陸尉の報告した事象が実際に起きていたとしたら、どうなさるんですか?」
「問題は、それなんだよ」
麻田は呻いた。
「それが事実だったとして、世界が破滅するってことと関連づけられるかなんだよ。そのあたりを解説してくれって言って、誰もが納得するような答えを返してくれる学者さん、どっかにいるんだろか……」
「下手すると、草津派の連中が黙っていませんよ」と主席秘書官。
「あいつらは建設関連企業と繋がっているかんなぁ」
衆議院議員でもある首相補佐官が言う。
「それに、野党だってです。民政党の党首は東北の建設業界をがっちり握ってます。特地開発計画でも業界の利益を代表して食い込みに全力を注いでました。今更、門を閉めるだなんて言ったらあの連中、臍を曲げますよ。与野党双方から袋だたきにされます」
特地の資源開発は、国内の土建業界にとっては久々の大仕事である。担当官庁と政治家、そして企業という関係で瞬く間に利権構造が構築されて、利益分配役として特地資源開発機構、特地産業振興財団、特地貿易振興会等などと、天下り団体が設立される運びとなっている。もちろんこれらは役人の天下り先となる。
「外交も大変なことになります」
外務省から来ている事務秘書官も告げた。特にアメリカ、EUそして中国は話が違うと言って文句を言ってくるだろう。全方位からの非難を受けて麻田政権は木っ端微塵に吹っ飛ぶことになるだろう。
「統幕議長と繋がりました」との声に麻田はお茶で口をすすいでから、受話器を取る。
「ああ、麻田です……」
事務秘書官達は、それぞれ派遣元の省庁に既に用意して置いた『門』を閉じる可能性とその影響を検討するよう促すメールを、一斉に送り出す。
こうして首相官邸から、事態は少しずつ動き始めた。
伊丹は、銀座を経てアルヌスへと戻っていた。
ベルナーゴから戻ってきた時は慌ただしくてアルヌスの様子を観察する余裕はなかったが、こうしてみると自衛隊が待機する日常は以前とほとんど変わらないままと見える。
だが、ゾルザル率いる反乱軍との戦いに圧倒的な勝利を得たことで、隊員達は充実感と自信を深めたらしい。すれ違う際に向けてくる敬礼や、所作、言葉といったそこかしこに、きびきびとした張りが感じられていた。
レンジャーの訓練時(別にレンジャーでなくても)、理不尽なことに助教から「目の輝きが足りないっ!」と言った罵声を浴びせられることがある。
どうしたら目を輝かせることが出来るのか、方法があるのなら尋ねてみたいところである。もし本当に光っているなら緑内障を疑わなくてはならないと、屁理屈をこねて不平不満に思ったくらいだ。だが、こうしてみれば、なるほど目を輝やかせているとはこう言うことかと思わせるほどの活気が隊内に満ちあふれていた。
それは普段と違う、ある意味で健全で素直なものに思えた。
悲しいことであり、不謹慎も承知であるが、自衛官は活躍の場を与えられることを求め続ける鬼子でもある。かつて吉田茂が言ったように、自衛官が褒められ讃えられる場とは、国民が困窮する時である。大災害、大事故、そして有事。だからこそ税金泥ボーという罵声にも耐えて欲しいと時の首相は、防衛大学の卒業式で演説したのだ。自らが、税金泥ボーと蔑まれる世の中こそ、自分達が守ろうとする平和で安全な日本なのだからと。
それは悲劇の主人公めいた陶酔感を防衛大学卒業生達にもたらしただろう。
日本の平和と安寧のために、後ろ指さされながら罪業を一人背負う……そんなロマンチシズムに浸ることで、己の人生を満足させることが出来るのだから、それはそれでよかったかも知れない。
制服組の反感を抑え、かつての帝国陸軍ような暴発を防ぐという意味では、政治家吉田茂の成功と言える。
だが、それは歪んだ不健康な自己満足だ。
これによって、平和を維持するために、防衛というものがどれほど必要かを世間に訴えることも、自分達がしていることをもっと知って貰うと言うことも、最初から諦めてしまう風潮が出来てしまった。
自衛官達の全てがそうだとは言わない。だが一部の自衛官達は確実に歪んでいる。
汚いもの、恐ろしい世界の現実など、無垢で幼い子供達に見せる必要ない。それは俺たち大人が背負えばいい。そんな雰囲気が自衛隊にはあるのだ。だから自衛官達は、駐屯地の営門前に集まって騒ぐ平和運動家達を、物事がすこし判り始めた年代の無邪気な子供が、生意気なことを言い出したかのごとく見る。そう見てしまう。
彼らの内心の声はこんなものかも知れない。
「うんうん、良いよ、良いよ。君たちはそれで良い。君たちが無邪気に平和平和と唱えていられる毎日こそが、俺たちの仕事の成果だ」と。
まるで、悪戯をする孫を見て、元気で宜しいと微笑む老人のようではないか。
あるいは、こっちの方が多いかも知れない。
「こいつら頭おかしいんじゃねぇか。おめでたい連中だ。誰が国を守っていると思ってるんだ?」
要するに相手にしてないのだ。
すると平和運動家達も、自分達が相手にされていないことを感じるから、主張することがだんだんヒステリックになってくる。一例では「飛んでくるミサイルを打ち落とすと破片が降ってくるから危険だ。だからミサイル防衛反対」という主張があった。
多分、言っている当人もその異常さに、気づいていないのだろう。生意気盛りの子供が訳知り顔をした大人を見るかのように、自分達の言葉に耳を貸さない大人に対するかのように、ますますおかしくなっていく。そして、そのおかしさを感じられないまま、自衛官こそ戦争を起こそうとしている存在であるかのように見てしまうのだ。
こうして、互いに理解できない溝が出来る。そして、そこが日本の安全を脅かそうとする真の敵にとっての付け込みやすい弱点となっている。
職業を食べていくためのものと割り切っている伊丹は仕事に充足感を求めていない。だから自衛隊という組織や、その中の風潮そのものを突き放して見ることが出来た。そして、そんな中に満ちている歪んだ自己満足が嫌でしょうがなかったのである。逆の意味での増長慢ではないかと感じていたからだ。
ところが、こうして見れば戦争に勝って嬉しいと歓び、そして張り切っている隊員達がいる。それがいかに不健康なことであるか承知の上で、「実に健康的だなあ」などと感じてしまうのである。
隊舎に戻って制服から戦闘服に着替える。既に夕食の刻限は過ぎているので、いつもと同じように街へ下りて食堂に行くことにした。
その賑やかな雰囲気は、以前と変わらぬ活気と喧騒で充ち満ちていた。
新規に導入されたらしいガソリンエンジンの発電機が軽快な音を立てて回っている。裸電球の照明が、あちこちを明るく照らし踏み固められた地面に、少しばかりガタつくテーブルが並べられて、屋台村のごとく広大な天幕が雨露をしのぐべく夜空を覆っていた。
ヒト種を始めとして、ドワーフの職人、猫耳のキャットピープルや、これまではアルヌスでは見かけなかった翼人なんかの姿まであった。様々な種族が肩を並べて座り、テーブルの上に置かれた料理を食べ、酒を酌み交わすその雑多な無政府状態こそが陽気な雰囲気の源だろう。
だが、伊丹は、ささやかながらも違和感を感じた。
街の住民達が少しばかり余所余所しいのだ。ちらちらと伊丹に向けてくる視線こそ感じるが、何か隔意でもあるのか誰も声をかけて来ない。
伊丹は空いているテーブルを探したが、どこもあいていないのでカウンターへと目を向けた。幸いなことに空席が1つだけあったので、左隣のドワーフにちょっとばかり詰めて貰ってようやく落ち着き場を得る。
右隣は、PXの猫耳娘が酔いつぶれたのか突っ伏している。さらに、その隣では彼女の同僚が管を巻いて周りの男共を辟易とさせている。可愛い女の子も、酔っ払って、しかも周囲にからむようでは魅力も台無しだ。男達も手を焼いているようであった。
「なんだか、良くない飲み方だね」
そんな感想を呟きながら腰を下ろすと、料理長のおやっさんが声をかけてきた。
「伊丹の旦那。お久しぶりですね」
「あっちこっち出歩いてたからねぇ」
「お~い新入りっ!!こちらの旦那にビールだ!」
新人らしいポーパルバニーが、ビールの入ったジョッキを伊丹の前へと運んできた。まだ馴れていないのがよくわかる危なっかしい手つきで、混んでいる客席の間で働くのにしても、たどたどしさが感じられた。
ジョッキを置くのにも沮喪があった。ジョッキの底をテーブルに引っかけ、三分の一ほどこぼしてしまったのだ。その瞬間、料理長が罵声を飛ばし、ポーパルバニーは「すみません、すみません」と馴れない日本語で謝りながら頭をペコペコと下げる。おかげで顔を見ることも出来ない。しかも、逃げるように下がってしまった。
「すいやせん旦那。躾がなってくなくて」
「いいっていいって。だいたい、みんなだって最初の頃はこんなもんだったぜ」
戦闘服に若干のシミが出来た程度である。この程度なら迷彩服なら全く目立たない。
「はい、煮付けと、お通しがあがったよ。……お、隊長っ!!お久しぶりですっ!」
知った呼び声に伊丹は「おおっ」と右手を挙げて応えた。奥まった調理場から古田が顔を出していたのだ。
「よおっ、古田。帝都に行ってたんじゃないのか?」
「任務完了して、帰ってきたばかりなんですよ。とりあえず2科の仕事は終わりです」
「それで、また現地人指導で、KP作業(炊事)?大変だな」
古田は、「暇ですからねぇ」と言いつつも、「センセイ、味見てください」という声に呼ばれて「おっ、今行くと」嬉々として調理場へ戻っていった。
料理長は摘みとして、枝豆の類、肉の類を伊丹の前にどんどん並べていく。
一人で来た時の伊丹は、頼む物がいつも同じなので、「いつもの」と言うまでもなく料理長は出してくるのだ。
「ところで、何か変わったことあった?様子がなんか変だよ……」
「あったと言えば、ありましたね」
「何?」
「門のことでさぁ。ハイエルフのお嬢から、説明がありました。伊丹の旦那も、同じように門を閉めるべきだって考えてらっしゃるんで?」
いつの間にか、伊丹を中心にしたその周りは静かになっていた。誰も彼もが、聞き耳を立てているのだ。
「ハーディとか言う神様がおっしゃるにはそう言う話だった。門を閉めないと世界が終わるんだってさ」
「あっしらからすれば、門を閉めるってことが世界の終わりに感じられます」
料理長の表情は苦い物でも口に入れたのかと思うほどのものであった。
「ニャァ、ニャァ。自衛隊の人達、みんな門の向こうに帰っちゃうのかニャア?」
隣で酔いつぶれていたPXの猫耳娘が、いきなりガバッと身体を起こすと、酔っぱらい独特の口調と雰囲気で伊丹に絡んで来た。
「そんなの酷いニャ。帰らないで欲しいニャ。ウチたちを見捨てるつもりかニャ?」
伊丹に縋るように抱きついて来る。そのまま床に崩れ落ちてしまいそうになったので慌てて手を伸ばし支えたが、だらしなくぶら下がる猫耳娘の身体は、思った以上に軽い。
見渡せば、ここにいる誰も彼もが同じように考えているらしい。みな、伊丹の反応を固唾を呑んで見守っていた。
「旦那。どうしても門を閉じなきゃなんないんですかねぇ。一度閉めたら、また開けられるとは限らないそうじゃないですか」
誰も彼もが不安なのだ。自分達の将来に。
門に託しているものが多い人間が、門を自ら閉じることが出来るか。それが見てみたい。
ハーディの言葉が伊丹の心に重くのしかかっていた。
「また、ドジやっちゃった……」
客の膝にビールをこぼし、逃げるように板場に戻ったテューレは、壁におでこをぶつけて自己嫌悪に浸っていた。
助け出されたお姫様は、その後末永く幸せに暮らしました、といった結末は童話に限らずあらゆる物語に存在する。だが、現実は違う。幕が閉じて芝居が終わっても、登場人物達の人生は続くのだ。
救い出され、幸せな抱擁の後は、現実的で退屈な日常生活が待っている。
そして思い知る。
自分は、物語の主人公などではなく、その辺で生きている有象無象と全く同じ『生き物』だということを。
このアルヌスでは、働かないことを許される者はいない。厳密にいえば、かつてのコダ村の避難民達は働かなくてもよかった。だが彼らは、働かないでいることを拒否し、働くことを選んだのである。そして作られ発展して来たのがこの街である以上、何もしないでいるという選択肢は最初から存在していないのだ。
テューレは、虚脱感に浸る暇もなくフルタに連れられてこの店に来た。
そして、「働かなきゃ、給料なんか出ねぇぞ」という料理長の罵声に追い立てられるようにして、店の仕事を始めることとなったのである。
注文取りから、料理を運び、客が帰れば後かたづけ、そして皿洗いと、馴れないことばかりのために始終手間取っている。
注文を間違え、料理長や先輩の店員達から罵声が浴びせられる。
料理の皿を落とし、酒をこぼし、椅子に躓いて派手に転ぶ。
ゾルザルの元での奴隷生活の日々にも似た、いやそれ以上の辛さを味わう毎日だった。
なんで自分がこんな辛い思いをしなければならないのか、そう思ってついぞ目でフルタを探す。自分を救い出してくれたはずの緑の人のフルタを。
だが、調理場の古田は人が変わったようにテューレに甘くしてくれない。
料理長以上の罵声を飛ばし、テューレを叱りつけるのである。
洗った皿の汚れがきちんと落ちていなければ「なんだ、この仕事はっ!」と、烈火のごとく怒り、皿を丁寧に洗うために手間取れば「早く洗えっ!」と言ってまた怒る。
叩かれたり、殴られたりされることは決してないが、それでも信じようと思っていた相手に罵倒されるのは精神的にきつかった。
いや、今のテューレにはそちらの方が辛い。
身体の痛みは、すでに切り離すことが出来るようになっていたからだ。手はあかぎれて、皮膚の割れたところから出血するまでになり、休む暇もなく料理を運び続けるので足腰も痛くなる。それでも、テューレはそれを無視することが出来る。
なんで自分がこうもきつい労働を強いられなくてはならないのか。まるで、奴隷に売られたようなものではないか。フルタも、自分を娼婦にしようとしたボウロと同じだったと、恨む気持にすらなった。いや、娼婦のほうが楽だったに違いない、とすら思う。
そんな中での先ほどの失敗だ。
テューレはすっかりと捨て鉢な気持になりかけていた。だが、それでも逃げ出さずにこの生活を続けるのは、行く所など何処にもないと言うこともあったが……「どうしたの?」と声をかけてくれる存在があるからだ。
前掛けを外し、手を洗い終えた古田は仕事の時とはうって変わって優しい。
「………どうしました?」
口惜しさ、自己憐憫、悲しさ、そういった気持がこみ上げて思わず泣いてしまう。
ゾルザルの元にいた時は、男なんぞに決して涙を見せるもんかと堪えていられたはずなのに、ここに来て我慢が出来なくなったようで、不思議と涙が溢れてしまう。
「俺は行きますよ。テューレさんは頑張ってください。んじゃ、お先っ!」
現地料理人に対する技術指導という名目で来ている古田は、自衛隊での勤務時間に従っている。だから閉店まで居ることは出来ないのだ。店が開いているうちに翌日の料理や、仕入、仕込み等のアドバイスを料理長に残して、隊舎へと帰っていく。
「お疲れさまでしたっ!!」
料理人達が古田に挨拶する声が、調理場に響いた。そんな中で、テューレが古田の背中に投げつける言葉が悲鳴のごとく続く
「頑張ってどうしろって言うのよ!?」
料理人達が、「また、あいつかよ」といった視線をテューレに向けられた。だが彼女は古田が連れてきたために彼の保護下にあると見なされている。アルヌス、そしてこの店で古田の権威は絶対的に近く、店員達も料理人達も、テューレに思うところがあってもそれを表に出さず、距離を置いて出来るだけ近づかないようにしていた。
だから何も言わずに、それぞれの仕事へと戻って行く。
「どうしろって……どういうことです?」
古田は、驚いたように振り返る。
「昨日と同じ今日、今日と同じ明日がただひたすら続く毎日。辛い今を耐えるだけの毎日。今日を頑張っても、辛い明日が来るのよ。だったら頑張るなんて無意味よ。もう、嫌っ!」
「テューレさんは、明日が今日と同じだと思ってるんですか?」
「同じに決まってるわっ!注文を取って、料理を運んで、後かたづけして、皿洗い、そして掃除して、また明日が来たら、支度して、注文を取って、料理を運んで……そんな毎日に何の意味があるの?!」
「そっか……そんな風思えてるんなら、働くのは辛いばかりですよね、きっと」
「なによ、他人事みたいに」
「他人事ですからね。実際……」
「助けてよ。私をここまで連れてきたのは、貴方でしょっ!」
どうしたら良いんだろうなあと言わんばかりに、天井を仰ぎ見る古田。正直、テューレの思いが全く理解できない様子であった。
「俺は、実は『この仕事』を辛いって思ったことがないんですよ」
「何それ?!それって変よ、頭がいかれてるんじゃないの!?」
「なにげに失礼ですね」
料理人達の殺視線がテューレに注がれる。テューレは古田を誘って店の裏側へと移動することにした。そこは、人気のないジメジメとしたところであるが、周囲から隔絶されているので休憩に都合が良くテューレは仕事が辛くなるとここに逃げてくる。
テューレは改めて古田に尋ねた。
「働くのは苦痛ではないの?」
「面白いって思ったりすることはあります」
「貴方ってきっと、怒鳴られたり怒られたりしたことないの?」
「とんでもない。この道に入って、親方から怒鳴られたり、ぶん殴られたりしてばっかりです」
「それが辛くなかったの?」
「痛いとは思いましたけど、辛いとは感じなかったんですよ。こんちくしょう、今度は褒めさせてやるって思ったりもしましたね」
「……?」
「ほら、料理人になりたいって思ってましたからね。それも出来ることなら腕の良い料理人に。……怒られたってことは間違っていたってことで、そこを改めていけば腕のいい料理人になれるって思ってました。だから怒鳴られない限り、がんがんやりましたよ。逆に、怒ってくれる人のいない今の方が不安ですよ。それでいいのか、間違ってないのか怖くてしょうがないです」
自分はこんなに辛いのに、それを何とも感じないと言う男を憎らしくさえ思えたテューレは、挑発するかのように言った。怒らせて化けの皮を剥いでやる。そういう気持だったのだ。
「要は飼い慣らされてるってことじゃない?奴隷根性よ」
ところが、テューレの予想に反して古田は「そうかも知れませんね」と苦笑した。
「でも、親方からこうも言われてます。誰でも上手く行っている時は、この仕事は俺に向いているって思うものだって。だけど、続けていれば何をやっても上手く行かない、仕事をしていて辛いって思うどん底の時が来る。その時になっても、まだこれを続けていくって思えた時こそ、初めて本物になれるって……だからきっと俺はまだ、まだまだなんですよ」
「へぇ…」
テューレは、どんな話題なら古田が感情的な示すかと、あらゆる分野で挑発を試みる。
「きっと料理しか取り柄のない男だったのね」
すると古田は頷いた。
「それでいいんじゃないですか?自分は何にでもなれるって可能性に浸るのはとても楽しいと思いますよ。でも、歳を取るたびに、そのなれる筈の何かって、どんどん減っていくんです。大人になるってことは、それまで見下していたものに自分を貶めていくことかも知れません」
「でも今、貴方は戦争をしてるわ」
「ええ。でもそれは開店の資金を貯めるためです。任期があけたら、退職金もたんまり出ますから店を持つつもりなんですよ。おっと、これって死亡フラグっぽいですね……」
古田はそう言って口を抑えた。だがテューレはその話を続けさせることにした。
「小さな店で、席は12席だったかしら?」
「ええ、晒しの板場で、料理人は自分一人」
古田の視線が、この店にあつまっている客達へと向かっていることに気づいたテューレは、彼が見ているものが何か確かめたくて、同じように眺めてみることにした。
「客は、仕事を終えた人々です。帰る途中で、ふらっと店に立ち寄って着飾った余所行きではない身の丈にあった料理を楽しんで貰いたい」
テューレの目には、古田が言うような小さいがそれでいて少し安そうな店が見えてきた。カウンターで、そして客席で客達が美味そうに酒を呑み料理を味わい、お喋りを楽しんでいる。包丁を振るう古田。そして……
「客席側には気心の知れた女性に入ってもらいたいですね。その女性にちなんで、兎の意匠の入った前掛けを藍染めで拵えて貰いましょう。きっと似合うはずです」
「えっ」
それって……
「その女性を目当てに足を運ぶ客もいるかもしれないですね」
自分のことだなんて、古田は決して言ってない。ポーパルバニーは、このアルヌスになら他にも沢山いるのだから。だが、何故か古田の店に自分が働いている光景を思い浮かべてしまった。
違う、違うと頭を振って振り切ろうとするが、その光景は妙に印象的で、頭に残った。何よりもその夢想から、馴染みのない何かこそばゆくも温かい気持が感じられてしまったのである。
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ベットに横たわったレレイが、一応の小康状態を見せたため、ロゥリィはほっと息を付いた。連日続く発熱のため、溢れほどに流れる額の汗を手巾でふき取って、ハーディに憑依された証とも言える長い銀髪を手櫛で軽く整える。それは、黒髪の美少女が銀髪の美少女をいたわると言う、実に絵になる光景だった。
医師は疲労と診断した。だが、まだ予断は許されないことをロゥリィは知っていた。
神に憑依されれば、人間の魂魄などはひとたまりもなく打ち砕かれてしまうのが常なのだ。神とはそれほどに巨大な存在である。
そして、それに耐え得る希有な資質を持ち合わせたとしても、その影響は身体と魂に刻み込まれてしまう。さらに付け加えるならハーディのやらかした暴飲暴食もここに加わる。
神殿に仕える巫女達とは、その意味では言寄せの際に一回きりの使い捨となることすら受け容れている。そうまでしても神との合一を求めるのも、信仰に生きる彼女らにとってそれが無上の喜びだからだ。そして万が一、いや億が一の可能性で心身の無事を保つことが出来たら、彼女らの信仰はその階梯を大きく進めることとなるのだ。
そんな巫女達がずらっと控える神殿で、彼女たちを無視し、信者でもないレレイに憑依してみせたハーディの思惑は、何か理由があってのことか、それとも単なる気まぐれかがロゥリィには判別できない。ただ、あの女の性格ならば、どっちもあり得るように思えた。
「熱は下がってきたわねぇ」
ロゥリィはそう呟くと、レレイの腕を掛け布団の下へと納めた。
もし、レレイが無事にこの試練を乗り越えたなら……
「では、門を閉じなければ世界は滅ぶというのですね?」
甲斐甲斐しくレレイの世話をするロゥリィの背中に、くどいほど話しかけてくる者が居た。
ピニャである。ロゥリィはその都度「そのとおりよぉ」と答えて来たが、もういい加減にしてくれないかな、とも思っている。鬱陶しいというのが本音だ。もう、何度も何度も、同じ問答を強いられて来たからだ。
だがそれは、ピニャからすれば皇帝モルトや、その周囲の貴族達に事情を説明するために必要なプロセスであった。世界が滅びると聞いて危機意識を持ったピニャは何はともあれ、門を閉じるべきだと皇帝や、閣僚達に訴えたのである。
ところが、彼らの反応はピニャが思ったようなものとはならなかった。
それはきっと事の重大性が伝わっていないからだ、あるいは自分の言葉が真実として伝わっていないのだと考えた彼女は、閣僚や、元老院議員の主立った者を引き連れて、亜神たるロゥリィの口から事の次第が伝わるようにと試みたのである。
ピニャとしては、彼らに事実をきちんと把握させる必要があったのだ。
だが、やはり閣僚達の反応はピニャが期待したようなものとはならなかった。
いくら待っても、すぐに門を閉めましょうという言葉は、出てこなかったのだ。
何故なら現閣僚と議員の多くが、日本という国の存在を必要としていたからである。
日本との戦争。そしてゾルザルによる内乱。
この二つによって帝国の国力は落ちるところまで落ちてしまった。軍事力は消耗し、国庫の中身も蕩尽されてしまった。
この状態で周辺諸国が攻め寄せてこないのは、ひとえに自衛隊という強大な軍事力がモルト皇帝の後ろ盾となっていると見なされたからに他ならない。
もちろん皇帝も元老院も、傾いた帝国の再建を急いでいる。外交では、諸国に対して強力な自衛隊の存在をチラつかせながら、ゾルザル側に味方したことを不問に付すから、帝国の覇権に従え、と交渉を続けている。
だが、国庫についてはゾルザルに与した主戦論派貴族の資産を没収して一応満たしたものの、戦禍による流通や産業に対する損害は拭いがたく、翌年以降の財政はかなり厳しいものとなることが予想された。それに、壊滅に等しい状態の国軍も再編成するとしても、旧来通りというわけにはいかないのである。
軍隊の近代化をしなければならない。少なくとも、剣と弓矢から脱却する必要があるそれが閣僚達の見解であった。
幸いにして先日、ロンデルで開かれた学会で、爆発に関わる革命的な発表がなされたという知らせが入っていた。帝国の軍事関係者は、これを応用すれば日本が用いているような銃砲の製作が出来るかも知れないと言う。
さらに今後日本に支払う莫大な賠償金の負担に耐えるため、産業の振興を商業と鉱山開発を中心に転換しなければならなかった。
日本は資源を求めているので、これを輸出して、日本からは便利で安い品々を購入する。そしてこれらの商品を、国の内外に売るという形で利益を上げることが可能であろうと踏んでいるのだ。
そんな訳で、今更門を閉めようというピニャの主張は、論外なのだ。
下手をすれば、大陸全土で覇を競い合う戦乱の時代が始まってしまう。そうなれば、弱り切った帝国は風前の灯火となる。
逆に、門を閉じようと言う企てがあるならそれを妨げる必要すらあるのだ。
「聖下。それでは、イタミと申す者が、冥王猊下から事態を知らせる言葉を賜って、本国に戻ったのですね?」
「今頃はぁ、もう伝え終えている頃合いよぉ」
面倒くさげに答えるロゥリィに、ピニャは背後に列ぶ官僚達を顧みた。もう訊ねたいことはないか?聞くべき事は聞いたかという確認である。
「最後にもう一つ……」
末席に控えていたマルクス伯が最後に質問を発した。
「聖下。門を閉じませんと、世界が滅びるとして、それは何時のことになりましょうか?」
ロゥリィは面倒くさげに返した。
「わからないわぁ。明日かも知れない、来月かも知れない。来年かも知れないわぁ。ただ、先に延ばせば延ばすほどぉ、歪みが解消される時の反動が大きいそうよぉ」
閣僚達を引き連れて、紫殿を後にしたピニャは、「門を早く閉めなければなりません」ときっぱり告げた。
だが、マルクス伯らを筆頭に、誰も彼も頷くことはなかった。ピニャの主張に戸惑うかのごとく互いに顔を見合わせるばかりである。
「どうしたと言うのです。このままでは世界が滅びるのですよ」
マルクス伯が恐れながら申し上げますと、1人前に出た。
「殿下。今、門を閉めれば帝国が滅びます」
「では、世界が滅しても帝国を残す方法があるとでも?」
「そうは申しておりません。ただ聖下も申しておられたではありませんか。世界が終わるとは言っても、それがいつかはわからぬと。何も今急ぐ必要はないのです。国力を整備して、帝国の覇権を維持できるようにした後、門を閉じるべく日本国と協議すれば宜しいでしょう」
「聖下は明日かも判らぬともおっしゃった。侮って今この瞬間に惨事が起きたら何とする?それに、伊丹殿も事態を本国に注進していると言うなら、日本が閉めると言い出すかも知れぬ」
「講和交渉での要求から察するに、日本側も門を閉じることを急ぎますまい。なにしろ、我が国から賠償金もまだ得ておらぬのですから」
ピニャは閣僚達の態度に愕然とした。
確かに彼らの言うように門を閉めれば帝国は危機的状態に陥るかも知れない。
だが、それは皇帝や閣僚達、議員達が一致協力して挑めば解決が可能な程度の困難だと思っていた。
少なくとも人智を越える世界の終わりなどよりは、遙かに容易いことの筈だ。
確かに帝国の国力は弱まった。諸外国との対立も深まって舵取りが難しくなる。かつてのように大陸を我が物のように振る舞うことは、もう無理だ。それでも、まだまだ帝国は繁栄を謳歌できるはずなのだ。
なのに、その大きな問題に目を向けようとせず、安直なその場しのぎで事を済ませようと言う。ピニャはそういう閣僚達に失望せざるを得なかったのである。
ピニャ達が立ち去ると、レレイの寝室は静けさに包まれやっと落ち着きを取り戻した。
周りも静かになってレレイもゆっくりと休めるだろう。
ロゥリィはそんな風に思って少し気晴らしすべく部屋から出ようとしたのだが、寝台から発された弱々しい声で呼び止められてしまった。
「目が醒めたのねぇ。今どこにいるかわかるぅ?」
ロゥリィはレレイのベットに駆け寄ると、枕と掛け布団の間に見えるレレイの顔に笑顔を向ける。
「現状は、認識している。見当識も正常……だと、思う」
「よかったわぁ。意識が戻ればもう安心ねぇ」
「…………伊丹は?」
「耀司ならぁ、今頃アルヌスよぉ」
それを聞いてレレイは身体を起こそうとした。が、激しい頭痛に呻いて頭を抱えた。
「何をやっているのぉ。まだ寝ていなさい」とロゥリィは押しとどめようとしたのだが、レレイは首を振った。
「伊丹の側に行かないと」
「幾ら何でも動くのまだ無理よぉ。もう少し体力が回復してからにしましょう」
「ダメ。門を閉じる時、伊丹の側に居いないと」
「大丈夫よぉ。まだ閉めるかどうかって話をしている段階だしぃ。閉める前にはアルヌスに行って耀司の首根っことっつかまえておくつもりだからぁ」
レレイは、ホッとしたようにため息をつくとロゥリィへと目を向ける。
「よかった」
「なぁにぃ?耀司と離ればなれになっちゃうって、思ったぁ?心配したぁ?」
すると、レレイは頬を膨らませつつ言った。
「貴女は、伊丹をこちらに引き留めるつもり?」
「当然よぉ。わたしぃは、向こうに行けない以上、耀司をこっちに捕まえておくしかないでしょう。レレイこそ、どうするつもりぃ?」
「伊丹が居ると決めたところに……」
「へぇ~」
健気なのねぇとロゥリィは嘯いた。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 61
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/04/07 20:11
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61
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時刻的には、太陽が青空を背景にして南の空に浮かぶ頃合い。
完全武装で身を固めた伊丹は、ヘリポートに駐機するCH-47 JAチヌークの傍らでゲスト達の到着を待っていた。
今回の任務では久しぶりに、栗林、倉田、勝本、笹川そして黒川の第3偵察隊の5名が指揮下につけられた。それに加えて現地協力者という形で、ヤオとテュカが随伴することを求めて許可を得ている。
気心の知れた部下は頼もしい。それぞれに細かい指図をする必要もなく、倉田、勝本、笹川は積載する荷物の点検をはじめていた。ヤオは、初めての体験となるヘリコプター搭乗に緊張した面持ちで固まっている。本当はテュカもなのだが、彼女はそんことよりも黒川に接近して話しかけることに熱中していた。
黒川は、テュカが見せる屈託のない透き通った笑みを見て安心したのか、手を握ったり抱き合ったりというスキンシップも受け容れている。お姉さま気質の黒川はテュカを年下だと錯覚してしまうようだ。
「隊長。お久しぶりです」
倉田の挨拶に伊丹は「おうっ」と敬礼で答えた。
「人数少なめですけど、これで大丈夫なんですか?結構奥地に入っていくんでしょ?」
まず最初に安全性とか身の危険とかを気にする態度に、伊丹は倉田っぽくないなぁと感じた。普段の倉田なら、最初に気にするのはまだ出会ったことがない獣系美少女との出会いがあるかどうかだろう。イタリカのフォルマル家に仕えるキャットピープルのメイド、ペルシアとの関係が上手く行っているから目移りしない、と言うのなら良いのだが。
現地住民の襲撃に曝された経験が必要以上に憶病にさせているのかも知れない。自衛官としては当然と言える姿だとしても、それがトラウマから来るものなら面白くない。気を配る必要があるからだ。ヒトの攻撃性は、恐怖心を加味すると過剰になる傾向がある。つまり下手すると「逃げる奴は敵だ、逃げない奴は訓練された敵だ」とか言って、見た者の全てに銃口を向けかねないのだ。
伊丹は大丈夫だと告げて、簡易に予定を説明することにした。
「目的地は戦闘地域じゃない。人も住んでない。それに、現地で活動中の部隊と合流することになっている。今回は、その連中の『お迎え』も兼ねているんだ。さらに復路では給油がてら帝都に立ち寄って、ロゥリィとレレイを引き取って帰って来るという予定だ」
現地で人数が増えるのである。それならば安心とばかりに倉田は仕事に戻った。
「隊長……」
呼ばれて振り返ってみれば、小柄な体躯の女性。栗林だった。
「よお、栗林」
元気だったか?との呼びかけに栗林は無言のまま伊丹のふくらはぎを回し蹴ることで応じた。脚を見事に跳ね上げられた伊丹は背中から地面に叩きつけられた。
どうにか咄嗟に受け身こそ取ったが、それで衝撃が無くなったわけでもなく「痛ぇな。何すんだ?」と苦情を申し立てようとした。だがのっけから目を据わらせている栗林は伊丹の脚を蹴っただけでは満足せず、腹に馬乗りになると掌底で胸板を叩いてきた。
顔面を殴って来ないだけ、手加減をしているのかも知れない。しかも、ボディアーマー越しだったから栗林の打撃はさしたるダメージに成らなかった。
「隊長が居なかったせいですよ、隊長が居たらあんなことに成らずに済んだんです」
栗林はそう訴えながら伊丹を淡々と叩き続けた。
最初はそれこそ、はたくという感じだった。だが次第に口調に、手にと感情と力が籠もり出し、パン、タンという音が、ドスッ、ドコッと鈍くなってそれとともに伊丹の肉体に伝わって来る衝撃も馬鹿に出来なくなっていく。栗林は『透し』を会得しているらしいが、伊丹は身を以てその片鱗を窺い知ることとなった。
「隊長が居てくれたら、オレ危ないところ行くのヤダよぉとか言ってた筈です。そしたら、あんなところまで入っていくことも無かったんです。隊長さえ居てくれたら直ぐに逃げ出せていたんです。隊長さえ居てくれたら、隊長さえ居てくれたら富田は……」
大粒の涙をポロポロと落としながら詰る栗林。そんな彼女に伊丹は両の手を伸ばすと、ぎゅっと抱き寄せた。
それはマウントポジョンで殴打され続けることに身の危険を感じたからであり、栗林を抱き寄せてしまうことでその打撃から身を守るためだった。そして、「もう参った。降参。叩くな」と伝えるため、柔道や総合格闘技などで用いられる合図……掌でトントンと、栗林の背中を叩いたのである。
「悪い。悪かった……」
何がきっかけになったのか……まるで栓が抜けたかのごとく栗林の感情が迸った。
「怖かったんだからぁ!誰が敵だかわかんなくて、もうみんなダメかと思ったんだからぁ!」
倒すべき敵が判っているなら栗林は無類の強さを発揮する。
だが、誰が敵で誰が味方か判らない混乱の坩堝の中にあっては栗林も、誰に拳を叩きつけるべきか、誰に銃剣を刺突すべきか、そして誰に向けて引き金を引くべきか、判別することが出来なかった。
その一瞬の迷いを振り捨てて、敵も味方も問わない戦いを『する』と思い切ることが出来た富田だけが、仲間を救い、取材スタッフの命を守るために力を振るうことが出来たのである。
本来、そのために指揮官が居る。何と戦い、何を守るべきか。瞬時に判断して隊員達に命令する。そしてその結果に責任を負う。それが役割である。しかし、栗林も富田も隊長代行の桑原の指揮が届かないところにあった。もし、伊丹がいたら、二人の指揮を執ることも出来たかも知れない。
栗林はそう思うからこそ、難癖であることも承知の上で、あの日あの時あの場所に居てくれなかったと詰ってしまうのだろう。それは、同情に値する。
とは言っても場が場である。
女性に胸の中で号泣されるというのは、二人きりで誰もいない場所でならば良いものかも知れない。栗林は、性格はともかく外見は可愛いいから、かなうなら心ゆくまで泣かせてあげてその柔らかさを役得として堪能しても良い。
だが、衆人環視の中でとなるとそうも行かない。しかもボディアーマーをつけていたら柔らかさなんて欠片もない。外聞の悪さだけが際だってしまうため、とにかく早く泣き止んで欲しくて、慌ててあやすしかなかった。
事情をよく知る第3偵察隊の面々からは、なんとなく許容する空気が発せられていたが、それを知らない連中からは「何をやっているか、不謹慎な」といった視線を向けられた。そればかりか、テュカとかヤオの方角から来る視線は、殺傷力がありそうな危険な出力に達している。
「わかった、わかった。ホント、オレが悪かったから。ゴメン、だから泣き止んでくれないかなぁ、頼むからさあ」
だが、栗林はこれまで溜め込んだ想いの堰を切ったかのように、しばしの間噎び泣いていた。
「も、もしかして、お姉ちゃん?……何やってるのこんなところで」
という声がするまで。
ビクッと身を硬くして、呼吸を止める栗林。
頸椎の具合が悪いのか、首を回旋させるのにまるで蝶番の錆びたドアのような音をさせながら振り返った。
「な、菜々美」
「うわっ!男の人の膝にって、もうそれって対面座位?随分と積極的!しかも相手は、冴えない感じの三十路男……」
途端、伊丹はワサビを塊で口に入れてしまったかのような激烈な刺激を鼻奥に感じつつ大地に背中を打ち付けた。
ああっ、自分は栗林に殴られたんだなと、横たわってはじめて気づく。
この女は、夫婦元気でド突き合えるバイオレンスな家庭(ドメスティック)を築きたいようであるが、この調子に合わせていける男は特戦にもそんなにいないだろうと、思う伊丹である。
もう見栄とか外聞なんてどうでもいいやと、暗転した視野が光を取り戻すまでのしばしの間、動かずにじっとしていることにした。
栗林は栗林で、跳ねるようにして伊丹から飛び退いて、体裁を整えると何事もなかったかのごとく妹と対峙する。
「あんた、何しに来たのよ」
目を真っ赤にして鼻をすすりながら問う。見れば菜々美の背後には例によってカメラマン、音声、ディレクターなどがそろっていて、取材体勢だと言うことはわかるのだが、このあたりは売り言葉に買い言葉といったところだろう。
「一応仕事なんだけど。それより、顔、拭きなよ」
妹からの指摘に栗林は、慌ててパイル地のハンカチを取り出すとゴシゴシと顔を拭いた。元より化粧などしていない栗林だ。顔を拭くにしても豪快に振る舞う。
対するにカメラ写りの問題もあって化粧も仕事の内の菜々美は、それと感じさせない程度にしてもメイクをしている。なのに肌の色艶や、目鼻や眉の際だち方が、姉とそう大差ないことに、どう言うことだろうと思ったりした。
何が違うんだろう、肌の手入れ方法だろうか、それとも何か特殊な化粧品だろうか……そんなことを訊ねてみようと思ったところで「仕事?ああ取材ね……するんなら、さっさと始めれば?どうせ、その辺の連中に適当にインタビューして、嘘っぱちな字幕つけて流すだけでしょ」と嫌味を言われ、お気楽な質問ができる状態ではないことを思い知った。
菜々美は唇を尖らせた。
「そんな言い方、酷い」
「言われたくなければ、きちっと仕事しろって言うの。真実を伝えるのが報道の使命?捏造、印象操作、部分抽出のばっかりじゃない。真実が聞いて呆れるわ」
「それをわたしに言われても」
「はいはい、言い訳ご苦労様。そうやって、自分の身は守ってればいいわ。それとも、真実を伝えるなんて事あんたにできるの?無理だよね~ただの局アナだから」
「…………………うぅぅ」
内心忸怩たるものがあるのだろう、菜々美を始めとしてカメラマンやディレクターは苦い物を舐めたような表情をして視線をおろした。だが、そんな態度がまた栗林の癇に障る。
「ふん、所詮はその程度だよねぇ。あたしはね、あんたがジャーナリストになりたいって言うから、反対する母さんの説得を手伝ったんだ。それが、ただ仕込まれたとおりにしか喋らないオウムになり下がりやがって」
砂吐き顔となった栗林はかさにかかってますます罵ろうとした。
いくら妹相手だとしても、マスコミを罵る自衛官という構図はすこし不味い。殴打された時のダメージが幾分か回復した伊丹は、起きあがると栗林を止めた。
「おいおい、栗林。そのくらいにしとけ。妹さん困ってるぞ」
それは後ろから彼女の口を覆うという、普段だった肘打ち、ほぼ同時に脛蹴りを受けた上で、背負い投げされかねない危険な体勢であった。
だが、この時の栗林はされるがままそれを受け容れた。その代わりと言っては何だが、何もないところをパンチだキックだと手や足をぶんまわし、盛大に不満を体現していた。
「僕等だって、胸を張れる仕事をしたいよ。だけど、ダメなんだ。いくら撮影しても、それを使うかどうかを決めるのは上のヒトなんだ」
カメラマンのそんな抗弁は、その声の小ささもあって、誰の共感も得ることは出来なかったのである。
「おほんっ!!」
突然の咳払いに注意が喚起され視線を向けた途端、伊丹は態度を豹変させて背筋を伸ばすと号令を発した。
「整列しろっ!気をつけっ!」
栗林達ははじかれたように横隊に整列すると胸を張った。
まるで何事もなかったかのように整然と並び立つ自衛官。
菜々美を始めとする取材スタッフ達も仕事を思い出してカメラを構え、そして録画を始める。
伊丹は敬礼すると、皆の前に現れた狭間陸将に報告した。
「準備完了いたしました」
「うむ、ご苦労である」
構えた挨拶をそこまでとした狭間は、随伴してきた壮年や老年に達する男性達を伊丹達の前に案内した。
「こちらは、京都大学で、宇宙生物学を研究してらっしゃる漆畑教授。さらにこちらは国立天文台の白位博士。そして、こちらが養鳴教授だ。理論物理学がご専門で、東大に奉職されている。」
「漆畑(うるしばた)です」
「僕、白位(しらい)」
「儂が養鳴(ようめい)だ」
狭間陸将の紹介を受け三者が三様の自己紹介をした。伊丹はそれを見て思わず「はぁ、大学の先生方ですか……」と歯切れの悪い挨拶で応じてしまった。
そんな伊丹の反応を「なんだ。軍人らしくもない、もっときっぱりせんか」などと養鳴教授は言いつつも、突如振り返ると、何故儂の紹介を最後にするなどといって、狭間陸将に食って掛かった。
「儂は東大の教授だぞ。履歴書の職歴なんぞ4行で済むほどだ。京都やそこらの学者連中と一緒にするな」
漆畑や白位を指さしての失礼な物言いに流石の狭間も額に汗した。
とりあえず額を拭いながら、「先輩は、自分の身内という位置づけになりますので、最後にさせていただいております」等と言って取りなした。
すると養鳴は急に態度を変えた。
「なんだ、貴様も東大出か?」
「はっ。先輩の4期後輩に当たります」
「おおっそうか、そうか、身内扱いか。ならば仕方ないな。結婚式でも身内は一番後ろだ……うんうん。身内扱いか、あっははっ」
何が気に入ったのか養鳴は、急に態度が鷹揚になった。そして、突然関心の方向性を変えておもむろに四つん這いになってアルヌスの大地を叩いたり、「むむむむ、あれは何だっ!!」などと言いながら指さして、介添え役として来ていたスーツ姿の役人連中を困らせはじめる。
漆畑は漆畑で、養鳴の失礼な発言や奇行も全く気にすることもなく、この特地の風景を眺めたり、テュカやヤオをまじまじと観察していた。
「ほうほうほう……なるほど、環境が地球に似ていれば知的生命体の形態は、ヒトと同じかそれに近いと言う考え方は正しかったようだな」
周りをぐるぐる回りながら、まるで頭の先から足の先までをつぶさに観察する視線を受けて、二人は困っている。普段のヤオなら、失礼な態度だと威嚇したりぶん殴ったりするところだが、男が女を見るのとは明らかに色合いが異なるので、どう対応したらよいのかと迷っているようであった。
「あー狭間君。この女性二人は、連れ帰ってよいのかね?」
「漆畑先生、ダメです。その二人は現地協力者ですから」
「そうか、それは残念だ。研究室がさぞ華やぐとおもったのだがな、実に残念だ」
白位は、カメラを見つけると取材妨害としか思えないようなおどけた身振りでVサインを作って笑ったり、菜々美に話しかけたりしはじめた。
「君たちは同行する取材スタッフだね。判らないことがあったら是非、僕に質問したまえ。もし、特集番組を作る予定があったら、言ってくれれば解説者として出演してあげてもいいよ」
非常に個性的でいろいろな意味で『奇特』な方々であった。
「大学の……教授ですか?」
「個性的なんだ、それぞれにな」
そんな三人を後目に、狭間は伊丹へと訓示する。
「この三方と、テレビ局の取材スタッフが、お前の見たという世界の終わりの徴候を確かめに参られる。くれぐれも粗相の無いようにしっかりと案内するように」
「はっ」
伊丹は短節で小気味良い返事と共に敬礼した。
「それと、今回から報道向けの通訳には、民間人に担当して頂く」
テレビ局が現地人にインタビューした際につける翻訳が、事実から大きくかけ離れているという問題は、以前から指摘されていることであった。防衛省がその度に抗議するのであるが、自衛隊員しか満足に通訳できる者が居ないという現状では「自衛隊に都合の良い翻訳であるか見分けようがない。中立公正な報道をしようとするなら、稚拙であっても間違いだらけであっても自ら翻訳をせざるを得ないのだ。結果として間違った翻訳をしてしまったが、他意はない」と開き直られてしまったのである。
その為に、民間人の通訳が求められていた。そして白羽の矢が立ったのがこの女性であった。
「望月紀子です。宜しくお願いいたします」
ペコリと頭を下げる女性の姿に、伊丹や栗林は目を丸くした。
「では、行って参ります」
紀子はそんな挨拶を狭間にすると、颯爽とした足取りでチヌークへと向かったのである。
「これに乗って良いんですか!?」
「あ、はい。乗っちゃって良いですよ。学者さん方も、取材スタッフの方もどうぞ、乗ってください」
だが、状況は既に混沌としていた。
養鳴教授は、石を投げたりして、重力がどうのこうのと難しいことを語り、漆畑教授がチヌークを観察していて前側に回り込もうとして「危ないですっ!!ローターに首を跳ねられますよ」と倉田に羽交い締めにされ、白位博士は取材スタッフのディレクターを相手に出演料の話をもちかけたりしていたからだ。
そんな三人も「伊丹が繰り返して、ヘリに乗ってください」と言うとそれぞれに素直に従った。
「ああ、君。座席は指定かね?」
「いえ、自由席となっています」
続いて取材スタッフも乗り込む。最後が伊丹達だ。
機内のシートに座った養鳴は機内の装備を次々と指さしては、「うむむむ、これは何だね」と、飽くなき探求心を発露して倉田を困らせ、漆畑は今度は、栗林姉と黒川を「うむうむ」と観察しはじめて、伊丹に連れて帰って良いかと訊ねたりし、テュカに「しっしっ」と追い払われている。白位は白位で、笹川や勝本相手に頼まれても居ないのに天文学の講義を始めていた。
取材スタッフのディレクターは、紀子の素性を確かめようとしてか、さかんに話しかけていた。
特地に拉致された犠牲者が居たことは報道されていたが、どこの誰という事実は本人のプライバシーを守るためという理由で、これまで伏せられていたのである。だが民間人で特地の言葉が解ると言う望月紀子が、その拉致被害者である可能性は当然の事ながら大きいわけで、ディレクターが熱くなるのも当然と言えるだろう。そして、紀子も素直に事実を答えているようであった。
紀子の「奴隷になってました」という言葉が漏れ聞こえて、伊丹は思わず空耳かと耳をほじったくらいである。
「ど、奴隷って、やっぱり下働きとかですか?」
「いいえ。愛玩用です」
あっけらかんと答えるその内容は、聞いている方が動揺してしまうようなものであった。実際ディレクターも、菜々美も引きつった笑顔のまま凍り付いている。だが、紀子は「それがどうかしました?」といった態度だ。どんなカウンセリングを受けたらこんな風になるのだろうか。
伊丹は、全員の着席を確認すると機内会話用のインカムに向けて怒鳴った。
「全員搭乗。機長、こちらお荷物。宜しく頼む!!」
『了解。これより離陸する』
搭乗員が、車輪止めを外して機内に戻ってくる。
エンジンの音が耳に煩いほどに激しくなって、機体がふわっと浮く感触に揺れた。それを良いことにテュカは「きゃっ」と黒川に抱きついた。ヤオは側面の丸い窓に張り付くようにして外の景色に見入っている。
こうして、伊丹は学者先生と取材スタッフを連れクナップナイへと向かって飛び立ったのである。
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一方、首相の麻田周辺の動きが慌ただしくなってきた。
「首相……正大党の後原党首よりお電話が入っております」
秘書の言葉に麻田は「またかよ」と肩を落とす。
まだ、調査のために現地に学者を送り込んだという段階でしかないのに、与党の主立った顔役から電話がかかっりっぱなしである。
皆、口振りはそれぞれであるが、言わんとしていることは「何をするにしても、もっと慎重にやってもらいたい」と言う苦言ばかりであった。
「今朝から電話がひっきりなしだ。仕事もろくすってぼできやしねぇ……はい、麻田です」
『門』を閉じることは、特地の資源や様々な利権を期待する財界とそれに連なる族議員達にとっては、糧道を断たれるにも等しいことであった。それだけに必死になっているのだろう。
麻田は、ハンで押したようにこう答える。
「こちらとしても、慎重に検討するためにも、現地の調査が必要だと考えたまでです」
相手の切り返しもだいたいにおいて同じである。
「何を検討するというのだ?門を閉めるかどうかなど、悩む必要などないではないか?」
要するに、『門を閉じることを検討する事』そのものが気に入らないと言うのだ。
「そんな調査など止めてしまいなさい。もし、そうしなければ、こちらにも考えがある」
実際、建設関連や、エネルギー、資源などを扱う企業の株価も、右上がりだったものが、天井に当たったかのように、微妙に下がったりあがったりを始めた。
情報がすでにあちこちから漏れているのだ。
情報のリーク、マスコミを動かして危機感をあおり、「そのような事実はない」と首相の口からアナウンスさせて言質を取るというやり方である。これで、発言がかわればまた発言がブレたといって、叩くのだ。
また、しばらくすると中国の国家主席、ロシア大統領、フランス大統領、イギリス首相、そしてアメリカ大統領と、次々に電話がかかって来た。門の取り扱いについて懸念をつきつけられ、門の取り扱いがすでに世界的な問題であることの再確認を、麻田は強いられることとなってしまったのである。
だが、特地で何が起きているか判明するまでまだ何も決められない。
報道陣のぶらさがり取材で、「特地で何か問題が発生しているという話ですが?」と、マイクを突きつけられても「現段階では何も問題はありません」と答えるしかない。
「しかし、学識者が特地に入ったと言うことですが」
「特地の学術的な調査は、以前より行うこととなっておりました」
「しかし、それならば今回のように少人数ではなく、もっと大々的に行うのでは?」
「ええ、ですから今回は本格的調査の前に行う、下見みたいなものと位置づけて考えています。特地の内乱も終結して、改めて講和交渉も文書の調印にこぎ着けましたから、民間の学識経験者に入って頂けることになったわけです」
「しかし、この時期では不自然ではないでしょうか?」
「いいえ、私は不自然と考えません」
麻田はそう答えて、会見を終えた。
だが、ニュース番組では「現段階」といったどうにも歯切れの悪い発言が多いと紹介。「今後に何かあることを含んでいると思われるような発言である」とか「記者達から逃れるように足早に車に乗り込んだ」などと、コメントして結んでいた。
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チヌークは、帝都近くに設けられた中継拠点で給油をして、さらに北へと向かい、クナップヌイに、日没間際となって到着した。
着陸予定場所に近づくと、赤い煙が上がっていた。
先行している部隊からの着陸場所を知らせる合図だ。
付近の安全も確認されているはずであるが、現場上空を一周してから着陸の体勢をとった。
「これより着陸予定」
機長の連絡に、伊丹は栗林達に全周囲警戒を命じた。六四小銃の槓桿を引く金属音に、隊員達のマインドセットは弛緩したリラックス状態から戦闘態勢へと移行する。
取材スタッフのカメラマンが、隊員達の姿を撮そうとカメラを構えたが、伊丹は「着陸時に機体がバランスを失って大きく姿勢が傾く畏れがあります。席を立たないで」とこれを制止。座ってるようにと指示した。実際はそれほど大したことはないのだが、やたらめったら撮影されたくないものが現地にはいるのだ。ただ、そんなことを直接言えば、かえって興味を引き寄せる恐れがあるから、何気なく気を逸らそうとしているのである。
勝本を呼び寄せて、カメラマンの隣に座らせる。
「勝本!着地したら、カメラの人と下りて、学者さん方が下りるところとかを撮らせてやってくれ。……そういうことなんで、貴方が最初に下りて良いです。格好良いところ撮ってよ」
伊丹の言葉を気遣いと勘違いしたらしいカメラマンは、ペコリと頭を下げた。
機体が着地すると、機体は一旦大きく動揺して、そして静止した。
後部開口部の扉が下りていくとそこから外界が開けていく。完全に開く前から、勝本に連れられたカメラマンは下りていって、それとすれ違うようにして、合流予定の部隊長が乗り込んで来た。
その姿は、緑や茶色のドーランで完全に顔面を迷彩塗装しており、人相も判別できないものとなっているが、特地では当たり前の光景だったため、取材スタッフは気にも留めなかったようである。とは言っても栗林達にはすぐに判ってしまったようである。それは、彼の装備している銃がM4カービンであったりと、普通とは大きく異なっていたからだ。
「よお伊丹。予定よりお早い到着だな。俺の下にいた時は、そんなに勤勉ではなかったと思ったぞ……。周辺は敵影無しだ」
「出雲三佐、お久しぶりです。早く到着したのは、早く飯の支度をはじめたいからですよ。今回は民間人をごっそり引き連れてますからね。……おいっ倉田、笹川、黒川、栗林、宿営の支度を始めてくれ。テュカとヤオは、勝本と学者さん達つれてとりあえず現場を下見させて来てくれ。報道の人はどうする?……学者さんと、現地の下見?そう言うことだから、ヤオ頼む」
伊丹は出雲に向かうと「そう言うことです」と告げた。
「宿営?ヘリを使わないのか?」
「荷室は、航空科さんと、民間人に使って貰う予定です。女性もいますからね……とりあえず簡易ベットは人数分積みこんできてます。俺等は宿営用天幕ということで」
「おっ、ベットは有り難いぜ。此処ひと月ばっか高機動車のシートか、地面だったからな。久しぶりに手足が伸ばせるってもんだ」
「こっちの宿泊施設使わなかったんですか?」
「機会があったらそうしたかったんだが、状況が連続して結局そういうわけにはいかなかった」
テュカとヤオが案内する形で、学者先生方がチヌークから降りていく。そしてその光景を撮影するために追っていく取材スタッフ。こうしても皆が出払ってから、伊丹と出雲は機体から降りた。
見れば泥とか、草を纏った特殊作戦群の隊員達が、周囲を警戒する位置ついている。視線を巡らせると、それぞれの位置から挨拶を送ってきた。
そんな中から男とは思えない、滑らかな身体の線をもった隊員が1人駆け寄ってきた。いきなり腕にしがみつかれて、伊丹は何事かと思う。
「イタミのダンナっ!久しぶりっ!」
「って、お、お前なんでこんなところに」
デリラだった。アルヌスの食堂で働いていたデリラが迷彩の戦闘服で身を包み、兎耳はブッシュハットの下に隠すという姿をしていた。きっと、言われなければ見ても判らなかったろう。
「現地人の協力者が使えるって前例はお前が拵えたろ?それで、この兎女を使うことにしたんだ」
アルヌスで、日本人が関わる事件が起きた場合、日本が裁判権を持つことが協定で決まっている。デリラは東京地裁で裁判を受け、諸々の事情を考慮しての執行猶予つきの判決を受けたのである。それに文句のない彼女は一審判決を受け容れたわけだが、アルヌスで騒動を起こして元の職に戻れるはずもなく、フォルマル家からも放逐されて行き場がなくて困っていたところに、スカウトを受けたと言う。
「あたいを騙した連中をやっつけてやったよ!」
「って、でも身体は大丈夫なのか?」
「ダメさ、あたいの腰から尻はもう傷物だよ。もう、安くないよ、とは言えないね。見てみるかい?」
そう言っていきなりベルトをかちゃかちゃ始めたために伊丹は「待て待て待て」と止めた。伊丹が聞きたいのはそう言うことではないのだが、デリラにとってはその程度のことのようであった。
「随分と、丈夫なんだな~」
「でもないよ。お医者が凄いんだよ。腰に、骨の代わりをする『ちたん』とかいう鉄みたいなものを入れたんだってさ。ひと月ぐらいで歩けるようになったよ」
だから、そんな大出術を受けてひと月で、今みたいに元気に動けるのが凄いと思うのであるが、デリラは日本人の医者が凄いとしきりに褒めるだけであった。
「時々、痛いけど。でも、それで済んだんだ。柳田のダンナに較べたらマシさ」
一生かけて柳田のダンナに償いをする。そう、デリラは言ったのだった。
テュカとヤオに案内された、養鳴と漆畑、白位の3人の学者と、取材スタッフ達は、目の前に広がる光景に絶句していた。カメラマンは慌てて、カメラを構えてその無惨な光景を記録に留めはじめた。
「こ、これは……」
それは高原の山や谷が、黒い雲海によって覆い尽くされそうになっている姿であった。
黒い霧によって根元を覆われた植物群のことごとくが、緑の姿のまま枯死している。その姿にテュカも悲しげに呻いた。
「もうこんなところまで……」
前に来た時から、まだそれほどの時を経過したわけでもないと言うのに、黒い雲海は大地をさらに侵蝕していたのである。
「漆畑君。これを何と見るかね?」
「一見すると、スモッグみたいですがね……」
漆畑は、斜面を少し下ると、入り江の水面にも似た黒い霧に手を伸ばそうとしてヤオに止められた。
「気をつけて頂きたい」
そう言って、ヤオは石を投げ込む。すると、黒い霧の中に飛び込んだ石は、その向こう側で小さな雷に打たれたように弾け、消えて行った。
漆畑は、傍らの木から枝を手折ると、その先を突っ込んだ。
水蒸気やスモッグの類であれば、ドライアイスで作った煙のように、枝であろうと手であろうと攪拌すればそれなりに波うったりと、反応してみせるものだ。だが、それはまるで影のように手応えがなくその場に固定して動かなかった。
「表面から浅い層なら大丈夫のようだな」
漆畑は鞄から、コンビニの買い物袋を取り出すと中身の焼酎やツマミの類を鞄に放り込み、買い物袋だけを掴んだ。そしてしゃがみ込むと、それで水を汲むかのように、黒い霧を浚った。
だが、何度繰り返しても、すくい上げたビニール袋内に黒い何かが溜まることはなかった。ビニール袋を入れれば、その内部には確かに黒い霧状の物体は入るというのに……。
「これは、物質ではないようだな」
養鳴の言葉に、白位、漆畑の二人は「そうですね」と頷く。
水たまりを覗き込む子供のごとく、大の大人三人がしゃがんで顔を寄せ合って黒い霧を観察している。
「これは、影のようなものではないかと思える」
「影ですか?」
横からニュッとマイクが突きつけられた。傍らで菜々美がニコッとした笑顔で養鳴の解説を待っている。傍らにはカメラのレンズも光っていた。
そんな彼女の笑顔に、学者達は頷くとさらに解説を始めた。
「まだ、そうだとはっきりしたわけではない。だが、これは余剰次元からの影ではないだろうか?」
「じ、次元ですか?SFみたいですね」
「うむ。いかがわしい似非科学っぽく聞こえるだろう。儂もそう思う。だが、実際には立派な学問の研究分野だ。ジュネーブでは、大型ハドロン衝突型加速器を用いて、5次元空間の存在を証明すべく実験が進められておる」
「はあ、そうですか……でも、こんなふわふわってしているというか、厚みがありそうなものが影なんですか?」
「うむ、良い質問だ。儂らの住む三次元に置いては、影と言えば平面すなわち二次元だな」
「ええ」
「ここに立体的、すなわち三次元の影が存在するとすれば、余剰次元の存在を示唆するものとなりうるんじゃ」
「ふ~ん」
菜々美は合点がいったかのように頷いて見せた。養鳴教授もその反応を見て好々爺のように微笑んだ。
だが
「…………………………………わかりません」
「あ、頭の悪い奴め!理解できないと言うかっ!!胸にばかり栄養が行って、頭に行っとらんのじゃろ!」
こいつめこいつめと、菜々美のおでこをペシペシと叩く養鳴教授。菜々美は頭を抱えると地面を転がり回った。
「ひえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ、ごめんなさい。でも、ホントに理解できないんです」
「まぁまぁ養鳴教授、抑えて抑えて。説明の真ん中を省いて理解できる学生なんて今日日いませんよ。それに、厚みを持った影の存在が、余剰次元の存在を示唆するなんて理論、わたしも初耳ですよ」
「そりゃ、そうだろう。儂が今思いついた」
二の句の継げない、漆畑と白位。
状況が理解できない栗林菜々美は教授達の顔を「なに、どうして?」ときょろきょろ見つめる。
この直後「この程度のこと、直感で理解できなくてどうする!!」という声がクナップヌイの山間部に響くこととなった。
陽が落ちて、辺りが闇に包まれる夜。
天文学者の白位はこれからが自分の出番とばかりに、宿営地から少し離れた所に望遠鏡やカメラなど据えて観測を始めた。
これにはカメラ趣味の笹川陸士長が手伝っている。
銀塩写真の長時間露光と聞いて腕が疼いたようだ。夜空でこれをすると、星が綺麗な曲線を描いたものとして写る。もし、天球に歪みが生じているなら、当然のごとくこの線が歪むというわけだ。
取材スタッフの内カメラマンと音声は、二人のそんな作業を撮影していた。
養鳴と、漆畑の二人はチヌークの荷室に置かれた簡易ベットに座って、酒を呑みながら夕方に自分達の見た物についてを話し合っている。
「持ってきた道具で、どれだけアレを調べられるかだな」
ディレクターは、その傍らで紀子から聞いた話をメモにまとめている。
紀子と菜々美は、チヌークの操縦席近くをカーテンで仕切ったところを割り当てられて既に就寝。ちなみに警備役もかねてデリラのベットも同じ場所に置かれた。聞けばデリラの裁判では紀子が通訳をしたと言う。被害者になるかも知れなかった紀子が進んで通訳を買って出たことで友情めいた物が育まれたのだろう、二人は再会を喜び合って意気投合していた。
パイロットと搭乗員の航空科三人はチヌークの点検を済ませると、早々に就寝。
テュカは、黒川とお喋りで忙しい。
栗林は不寝番が明け方なのので、天幕内で早々に就寝。
勝本と倉田は現在不寝番。
出雲三佐と彼の7名の部下は、民間人前に顔をさらしたがらず、それぞれ割り当てられたテントに入ってしまった。
そして、普段なら邪魔になるレレイとロゥリィも、今頃帝都で迎えを待っている頃だろう。
そんな訳で……今夜はヤオにとって、伊丹と二人きりの時間がとれる、唯一無二のチャンスであった。
これを逃したら後はないかも知れない。
栗林が寝ている脇で、テュカが黒川とお喋りしているのを聞き流しながら、ヤオは伊丹の入った天幕をずっと観察していた。
「カツモトとクラタは不寝番。ササガワは仕事。すなわち伊丹は1人きり…」
ヤオは、そっと自分の天幕から抜け出した。
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Arcadiaは3月20日からサーバの物理的なお引っ越しによってお休みに入るそうです。早くても再開は24日(火)と言うことです。遅れることも当然あり得ます。皆様慌てることのないようになさってください。