[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 37
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/09/30 20:25
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「この未曾有の恥辱と、損害に、どのような対策を講じられるおつもりか、陛下にお尋ねしたい?」
元老院議員であり、貴族の一人でもあるカーゼル侯爵は、議事堂があったはずの瓦礫の山に立つと玉座の皇帝モルト・ソル・アウグスタスに向けて歯に衣着せぬ言葉を突きつけた。
かつては薄闇の広間であったその場所は、今や青空の下の野外劇場と化している。
演じられるのはもっぱら喜劇か、笑劇か。最早、重厚さなど欠片も無く、前衛芸術と、精神失調に基づく難解さの区別も付かない半可通素人劇団の舞台背景ごとく、廃墟となり果てていた。
ふきすさぶ風が議員達のトーガをそよがせる。
鼻にくすぶる刺激臭や、舞い散った粉塵が彼らの袖を汚していった。
熟睡時を襲った深夜の地揺れとその余震は、人々の眠りを破り、夜の闇を恐怖で満たした。こうなると貧弱な灯火による明かりでは、闇のもたらす不安をうち消すことができず、人々は夜が明けるまで眠りに就くことが出来なくなってしまったのである。
まんじりとしない時を過ごし、東の空が白らんでいつもと変わらない帝都の朝を迎え、ようやく人々は一息つくことが出来たのである。
ところが、太陽がのぼると同時に、天空を切り裂く大音響と共に光が走った。
それは雷鳴にも似た、耳を切り裂く大音響であった。
二本の巨大な剣が天を斬り裂くように横切ると、そこから投下された四個の物体が、帝都の丘にそびえ立つ元老院の建物に、正確に吸い寄せられると堅牢なはずの建物を、ものの見事に吹き飛ばしたのである。
帝国の権威の象徴たる元老院は一瞬にして、うち砕かれた。
もちろん、帝都に潜伏する自衛官のレーザー誘導による精密爆撃である。だが、それを知るべくもない一般の市民達は、地揺れに続く神々の怒りの表明であると、恐れたのである。ひそひそと、皇帝が何か神に背く振る舞いを行ったのではというデマが、深く静かに広まりはじめていた。
帝国の知識層の代表とも言える元老院議員達は、それが神々の怒りであるとは思わなかった。それが人の為した事であると、知る立場にあったからである。
とは言え、自分達の権威の象徴たる議事堂を襲った惨状には圧倒されていた。
一辺が、両手を拡げるほどの巨石をもって構築された元老院の建物が、ものの見事に粉砕され、その岩は瓦礫と化しているのだ。これが神々の力ではないとするなら、敵はどれほどの力を有しているのかと思う。
議員達が座るべき椅子も、調度品も、大理石のレリーフ、諸外国からの貢ぎ物、戦利品そして巨大な神々の像といった悉くが破壊され、地に落とし砕けた陶片のようになってしまった。
誰もが思って身震いする。
これが自分達が議事堂に集まっている時に、為されていたらどうなっていたか、と。
あるいは、敵がこの力を無差別に帝都に振り下ろしたらどうなるか、と。
最早、席もなく壇上もない。各々は適当な石に腰を下ろし、あるいは、地面に座ることを由とせず立ったまま、カーゼル侯爵の言葉に耳を傾けていた。
「事の次第は、開戦前に敵を知るため、異境の住民を数人ばかり攫ってきたことに始まる。敵国の使者は、このことを知るやたいそう怒り、事も有ろうに陛下の面前において皇子ゾルザルを打擲(ちょうちゃく)するに及んだのだそうだが、陛下、間違い有りませんな」
顔を腫らしたゾルザルが、皇帝の傍らに座って、苦痛に呻いていた。
一目見ただけでも『打擲』などという表現ではいささか遠慮が過ぎるように思われた。
これは、明らかに数人がかりで殴る蹴る、撃って叩くの暴行による怪我であった。ところが聞き及んだ話では、ゾルザルをこんな目に合わせたのが、たった1人の女だと聞くから驚きだった。
女と言っても、巨人とか、オークとか、トロールといった怪異の牝だというならまだわかる、が、加害者はただのヒト種、しかも非常に小柄(ただし胸だけは大きい)な女性だったと言うのである。
当然、ゾルザルは認めない。
「俺は、殴られてなどいない。地揺れに足を取られ、転んだだけだ…」
歯を失って、息の漏れる口から喘ぐようにして懸命に否定し続けている。
そうだろう。もし、たった1人の女にここまでされたと認めようものなら、彼の面子は永久に潰れたも同然だからだ。人々が『ゾルザル』と彼の名を呼ぶ時、そこに『女にボコられた奴』という意味が付されてしまうのだ。
今後は、ゾルザルと呼ぶ度に人々は、クスッと笑うだろう。
そんなこと、受け容れられるはずがなかった。ゾルザルは次期皇帝候補としての威信を失ってしまう。だから必死になって否定しているのである。そのせいで公式には、謁見の間での戦闘は、自国民を救出しようとするニホン国の使者と、奴隷の所有権を守ろうとするゾルザルの取り巻きによる争いとされた。
それほどまでして守るほどの見栄か…と、カーゼル侯爵はゾルザルに軽蔑の視線を浴びせる。皇族に対する暴力という意味で、折角の外交カードが誰かのくだらない見栄のせいで使えないのだ。個人の利益のために帝国の国益を損なっているのだから、ある意味ゾルザルの二重の失点と言える。そのことに気付かない愚かしさが、また嗤えるのだ。
「敵国の使者は、我が帝国との講和を望んでいたとキケロ卿から伺っていた。その為に丁寧な下準備を積み重ね、会合をも繰り返していたと言う。真実をあかせば、わたしの方にも紹介へ経ての接触があり、近日会談を持つ予定であった。
なのにいったいどういう事か?たかが奴隷のことで、何故彼らがここまで怒ったのか。その奴隷が敵国の王族であったとかそう言うことでもなかろうに…誰か事の次第や、彼の者等の考え方について知る者はいないのだろうか?もしいたら、詳しく説明して頂きたい」
カーゼルの問いかけに、みな俯いた。
事実の全貌を知る者など、どこにも居なかったからだ。敵国や、その使者の『ひととなり』について多少とは言え知る元老院議員としては、キケロや、デュシー侯爵などがいる。が、彼らは昨夜、何が起こったのかを知らない。
マルクス伯爵は、内相として何が起こったのかについては、かなりの情報を得ている。だが、そのかわりにニホンや、敵の使者については知らない。
この双方を知る者として必然的に、ピニャの名が挙がった。
こうして、ピニャは産まれて初めて元老院の場へと招致されることとなったのである。
ピニャは、300人からの視線を受けて、恐る恐る立った。300人分の視線がピニャを弾劾しているように見えたからだ。
皇帝の身近に敵国の兵を近づけた失態を、ピニャとしてもどのように償うことになるかと頭を悩ませていたのである。が、元老院議員達は、そのことには触れなかった。とにもかくにも事情の説明を、ピニャの知るニホンという国、ニホン人というものを説明するよう求められた。
「わ、妾が、知っていることを申し述べたいと思うが、発言を許されたい」
議長役たる第一人者が鷹揚に頷いて、ピニャに発言を許可する。
ピニャは咳払いをすると、事の次第を時系列に従って、説明することとした。すなわち、彼らとの初めての出会いからである。
「そもそも、妾が彼らと出会ったのはイタリカにおいて…」
こうして帝国の政府関係者は、自分らが何者と戦争を行っているかを知ることとなったのである。
曰く、敵の持つ武器は、弓も届かないところに立つ兵を次々と打ち倒す威力を持つ。敵は、それらの武器を槍や剣のごとく、兵に当たり前に装備させており、我が方の兵は手が届く前に倒されてしまうことになる。
それはいみじくも、帝国軍の連合諸王国軍が何故敗亡したかを説明するものたった。
その、あまりの荒唐無稽な情景に、何割かの議員達が懐疑的に振る舞った。だが、キケロ卿やデュシー侯爵といった園遊会に招かれた者達の補足証言によって、真実であることが証言される。なによりも彼らは、それらの武器の試射すら許されたのだから。
ピニャは、さらに語る。鉄の天馬が、大地に蠢く盗賊を掃き清めるがごとくなぎ倒していった恐怖の光景についてを。
元老院の議事堂が吹き飛ばされた今、それを疑う術はなかった。
「敵はニホンという国。門の向こうは、この帝都を遙かにしのぐ、摩天楼のごとき世界であった。それは地上に、天空へ広がりを見せており、我らが墓所とみなす暗黒の地下すら、煌々と輝く光で昼の街のごとく照らし、人々はそこでも暮らしていた。豊かな文物と斬新な芸術に溢れ、整然とした秩序と、清潔さに充ち満ちていた」
また、仲介役を引き受けることを決めたことで日本政府から与えられた、捕虜の名簿をピニャは提出した。
「今まで黙していたことを許されたい。この名簿に載っている者は全てニホンに捕虜となって生きている」
ピニャの差し出した紙の束を、議員達はつかみ合うようにして奪い合った。「ノーリスの息子の名があるぞ!!」「デカンツがの名がある。ここに名が載っている者は皆生きているというのですかな?ピニャ殿下?確かに、生きているのですな?」「儂の息子が生きているゾ!やったぁ!!!」
議場跡地は歓喜の声で満ちあふれた。と同時に、いくら探しても、身内の名が見つからず再び絶望する者もいて、その一喜一憂はしばしの間、議場を混乱たらしめた。
「名簿に載っている者は、全てニホン国にて捕虜となっている。妾は、仲介の役務を引き受ける代償として、その内の十数名についての身請けする権利を与えられた。そして、講和交渉の為に、キケロ卿やデュシー侯爵といった方々のご親族を身請けする約束で、帝国側の交渉役を引き受けて頂いたのだ」
「殿下はおずるいっ!!それでは、他の者はどうなる?!!このまま指をくわえてみていろとおっしゃるのか?!!」
ピニャの選から漏れた者にとっては、当然の言葉であろう。だが、ピニャとしても講和交渉をきちんと担っていける人材を、選ぶ必要があり、そのためのものだったと答えるしかなかった。
そう言われてしまえば、主戦論者で充ち満ちていた元老院の中で、妨害や各種の攻撃を跳ね返しながら、きちっと講和交渉を勧められる人材は、わずかになってしまうことは誰もが理解できる話であった。講和交渉が進まなければ、捕虜返還の交渉すら出来ないのである。その意味では、ピニャの選択も仕方のないことと理解できた。
だが、事がここに及んだからには、残りの全員をいかに引き渡してもらうかを、検討するべきだということになる。しかし、そのためにやはり身代金を積まなければならないのだろうか?
「ニホンの外務担当者はこう言った。ニホンには奴隷という習慣はなく、身代金の有無を問わず捕虜の生命や安全は保証される。もし、帝国に、ニホン側の捕虜がいればこれと交換となろうが、いないのであれば、今後予定されている交渉に置いて、何らかの譲歩と引き替えと言うことになろう…と」
「奴隷という習慣がない?また身代金もいらぬと言うのか?」
「ふんっ、交渉における譲歩と引き替えというのだから、やはり身代金も同然ではないか?体裁の良い人質ということであろう?」
「とは言え、奴隷に売られたりせぬという確約はありがたい。きっと救い出してやるぞ…」
議員達が互いに交わす言葉が途切れるのを待って、ピニャは言葉を続けた。
「妾は思うのだ。彼の国の使節を激怒させたのは、このことではなかったか、と…」
どういうことだ、と議員達は説明を続けるように求める。
「彼の国の者が、我が国の貴族の子弟を奴隷にするでもなく、捕虜として厚遇するのは、別に求められたわけではない。自発的なものであった。それは皇帝陛下が看破されたように、民を愛するという気性からきたものだと思う。そのような気性の者が、ニホンの民を帝国が捕らえた上で奴隷としていたと知ったら、そしてその生死すら定かでないと知ったら、どうなるか…我が子を奪われた翼獅子のごとくなろうことは、誰にも判ろう」
その結果がこれだ、とピニャは両手を拡げて言った。
周囲は元老院の議場跡地。粉々に砕けた壁石や柱が倒れ、瓦礫が積み上がっている。天井は青々とした空。雲がぽっかりと浮かんでいた。
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ゾルザルが元老院の議事堂跡地に自らの居所を失って、誰からも気づかれることなく退席し自らの居城に戻ったのは、それから程なくしてのことであった。
瞼は黒痣が覆い、唇は醜く晴れ上がって身体の彼処もみみず腫れや、打撃痕で覆われていた。
歯を失って唇が腫れているために、呼吸は無様に漏れて、その声も、張りや人々の精神を戦慄させた勢いを失っている。
まさには、敗残の輩として無様な姿を曝していた。
戸をくぐった途端に、力を失ったがごとく崩れるように倒れる。取り巻き達や、彼の奴隷娘達はあわわて介抱しようと駆け寄った。
テューレも言葉こそ少ないが甲斐甲斐しくもその肩を貸して寝台へその身を運ぶのを手伝っていた。氷が運び込まれ、腫れた顔や身体が冷やされていく。
「これで元老院は講和論が大勢を占めることとなりますね。問題は、このままでは無条件降伏に近い形で講和を結ぶ羽目に陥ってしまうことです。これをどうにかするためには、やはり多少なりとも軍事的な成果をあげなければなりません…」
ベットに運ばれるゾルザルを眺めるように立っていた青年が、テラスから言葉を投げかけた。
その姿に初めて気付いたのか、ゾルザルは腫れ上がった顔を歪めた。青年は見るからに貴公子然としていて、粗暴な様のゾルザルよりも気品を感じさせ、その視線は理知的な気配があった。
「ディアボ」
「兄様。おいたわしい姿に成られて…。もう無理はなされますな」
ディアボと呼ばれた青年は傍まで歩み寄ると、寝台の兄の顔を覗き込んだ。
「小賢しい奴め」
「兄様こそ」
ゾルザルは「これは自業自得よ」と腫れた顔に自ら手を当てた。
「俺は、お前のその脳天気さが羨ましい。お前のように、自らの有能を示して生きながらえられると到底思えぬ。父上はカティ義兄ぃを責め殺した男だぞ」
「あの時の父上はまだ若かったのです。ゆえに先代皇帝の遺児にして自らの養い児を恐れた。ですが、もう歳をとられました。後継を考えてもよい頃です。なにより我らは父上の血を引いている…」
「だから、俺が馬鹿を演じている間に、後継の座を狙うということか?」
「兄様が、父上を恐れて馬鹿をやって下さったお陰で、わたしは存分に力を振るうことが出来ました。ありがたいと思いますよ」
お陰で次期皇帝の座を争うのに、勝ち目が見えてきたと言う。だがゾルザルは、肩を竦めてディアボの認識を甘いと指摘した。
「皇帝は、お前ではなく俺を次期皇帝として指名するだろう」
ディアボは、兄が父のことを皇帝とのみ呼んだことが気になった。まるで他人を呼ぶかのようだ。
「それはどうでしょう?兄様に皇帝の座が守れましょうか?」
「お前は、皇帝の権力への妄執を軽く見ているのだ。此度の戦争の幕引きにあたって、さすがの皇帝も退位せざるを得まい。だが、ただ退位したりはするまいよ。俺を操り人形として玉座に据えて実権は自らが握る。おおかたそんなところに収まるだろう。お前は自らの有能を示しすぎたのだ。皇帝もお前を意のままに出来とは考えまいからな」
この言葉に、ディアボは目を剥いた。
「しかし、それでは父上亡き後どうなるのです。あまりにも無責任すぎる」
「お前、よっぽと俺が無能だと信じたいようだな…」
皇帝の人柄を見抜き、恐れられぬように長年に渡って牙や爪を隠し続けるなど、並大抵のことではない。それが出来る男が無能なはずはないのである。
「テューレ……ノリコと共に捕らえられた、他のニホン人の所在は?」
問われたテューレは、深いお辞儀をすると、それまでの無力そうな弱々しかった表情を一転させた。知的な、そして覇気に満ちた笑みを浮かべていた。
「はい。他に2人ございます。鉱山奴隷として売り払われましたが、その所在の確認は済んでおります。ノガミ・ヒロキと言う者ですが、残念ながら落盤事故で死亡いたしました。またもう1人、マツイ・フユキと言う者は、同じ鉱山で『まだ』生きております。ご指示があれば、ただちに保護いたしますが、いかが取りはからいましょうか?」
「すぐに連れて参れ。…ノリコも、売っぱらわずにおいて正解だったな。興味本位もあったが、こうなるとわかっておったら、もう少し優しく扱ってやればよかったか?」
全身が痛むのか、顔を顰める。
「いいえ殿下、あれくらいでよいのです。どうせ言葉も話せぬ身。売られて行く先など娼館あたりが関の山であったでしょう。不特定多数の慰み者になることを考えれば、次期皇帝のお情けをいただいた身を、誇りと思うべきなのです」
ディアボは、開いた口を閉じることが出来なかった。
これまで隠し続けてきた爪を、わずかながらも見せつけてきたと言うことは大勢は既に決したと言うことか?確かに、講和交渉は始まるだろう。話をまとめるために皇帝の退位も必要になるだろう。しかし元老院は、後継人事を素直に承諾しまい。あっ、そのためのニホン人か。ゾルザルが見つけてきたということで、ニホン国の使者を宥めてみせれば……やられたっ!!
「今頃皇帝は元老院で、講和に際しては自らの退位をも辞さぬ決意と、後継として俺の立太子を発表している頃だろう。ピニャが、意外な成長を見せてきたが敵には成らぬ。ニホン人と親しすぎるからな。ま、今後のニホンとの外交においては、重要な役割を担って貰うことになるだろう」
「では兄様、戦争はどうされる?このまま敗北にも等しい講和をするおつもりか?」
「敵の何を恐れる必要がある?元老院を破壊するのに、わざわざ無人の明け方を選ぶようなお人好しだぞ。まともに戦って勝てぬので有れば、戦わねば良いのだ。この程度、皇帝も考えておるぞ。ディアボよ、お前、俺と皇帝のどっちにつくか今の内に考えておけ…」
ゾルザルはそう言い放つと寝台にテューレを引き込みながら、ディアボに去るように命じるのだった。もう、周りに誰もいないも同然の痴態で、取り巻き達や女達もそそくさと消えていく。
「で、殿下、お体に触りますわ」
「かまうものか…しばし痛みを忘れさせてくれ」
「殿下ったら、仕方のない方ですね、あ……」
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大型輸送ヘリコプターCH-47 JAチヌークがアルヌスの丘へと戻ってきた。
望月紀子は、ヘリの窓から見降ろす景色に、胸を締め付けられるような感触を味わった。
帝都を出てから果樹園や農地、牧草地と荒野、あるいは樹海のような森が続いて、それが途切れてしばらくすると、遠望に飛行場や、丘の頂上を六芒星型に取り囲む、コンクリート製の建造物群が見えてきた。
そこには、わずかながらも日本の気配があった。
「帰れるんだ…」
ポツリと漏らすと、感極まって涙がこぼれる。
昨夜から何度泣いたろう。勿論、恋人の裕樹のことも心配だ。だが、自分が帰れることもまた嬉しいのだ。そして、自分を救ってくれた自衛隊は、恋人も救出してくれるに違いないと信じたかった。
早く、両親に会いたい。
紀子の両脇を抱えるように座る黒川と栗林が、何かと気をつかってくれた。着る物も手配してくれたし、食べる物も、飲む物もと至れり尽くせりだ。チョコレートとか、お菓子の類を口に入れた時、その懐かしい味に、やっぱり涙が出てしまったほどだ。
捕らえられていた間に起きた出来事についても、何も聞かずに、そっとしておいてくれる。紀子も今は、辛かった日々を思い出すことより、帰れることとなった喜びに浸っていたかった。
菅原と伊丹からの無線による報告を受けた、『特地』方面派遣部隊の最高指揮官たる狭間陸将は、ただちに拉致被害者のアルヌスへの移送を命じると共に、皇帝ならびに帝国の政府当局者に対する威嚇として、F-4ファントムの2機による爆撃を要請した。
そこに込められたメッセージは、勿論「直ちに拉致犠牲者を返還せよ」である。この手のことは、動物や子どもの躾と同じで、粗相の存在が判明したその時に、罰を与え叱りつけなければ意味が伝わらないのである。よって、間髪を入れず痛烈な一撃を、与えるべきであるという発想の元、攻撃目標が選択された。
防衛大臣からも民間人に可能な限り被害を出さないという条件の下で、攻撃許可が与えられた。
福下内閣における防衛大臣の石場は受話器に向かって、普段と同じような冷静沈着な言い回しのまま「やってかまいません。おおいに、やって宜しい」と、語ったと言う。
後で石場の報告を受けた福下総理は、「困ったもんですが、やっちゃたものはしょうがないでしょう」と眉根を寄せたと言うから実に対照的である。
チヌークは、アルヌスの陣地奥深くに設けられたヘリポートへと降りた。
そこで黒川と栗林は、紀子を両脇から抱えるようして待ち構えていた医官達と合流すると診療施設へと向かった。アルヌスには、戦闘による負傷者の発生に備えて、入院施設のある医療設備も整えられているのだ。
そこで彼女は、婦人科・産科・内科・外科・精神科等々の健康診断や、心理的に負担にならない程度の聞き取り調査、例えば拉致された時の状況等の質問を受ける手はずである。また犯罪被害者支援を専門とする臨床心理士がカウンセラーとしてつけられ心の傷をゆっくりと癒すことになる。
残りの、第3偵察隊のメンバー達は、帝都から日本へと運ぶ各種のサンプルの入ったダンボール箱の荷下ろしをしていた。
やはり大陸の覇権国家の首都だけあって、帝都には各国の物産や商品、情報が集まっていた。お陰で大陸各地の鉱物資源の埋蔵状況も、おおまかだが掴めてきている。希土類については、その存在そのものを『特地』の人間は知らないために、こちらで探すしかないが、特地の者でも知っている資源として鉄、スズ、亜鉛、金、銀、銅、白金等といった一般的な資源の分布状況と、その土地から、商人を通じて送られて来た鉱石のサンプルが入手できた。さらに南方には、燃える液体のわき出る土地があるとされていて、今後の政府間交渉において開発権や、採掘権などを要求するのに非常に役に立つ。
また他には、種族・民族の坩堝とも言える悪所で撮影した映像の入っているDVDとかもあった。その多くは、写真趣味の笹川陸士長が撮影した物だが、それ以外にも他の隊員達が撮影したものが含まれていて、被写体はもっぱら女性に偏っている。が、これはこれで、こんな容姿の種族・亜人が居ますよ、こんな服装の民族が居ますよという資料になる。これまでの資料が、銀座事件で捕虜になった兵士だったり、アルヌス周辺で出会った農民や商人のみであったから、全体としてはバランスが取れることとなる。
他の…例えば第1とか、第5とかの偵察隊だと、集めて来る資料は帝都周辺の植物の種子とか葉の標本、昆虫、動物、鉱物、土壌といった至極真面目なものが多い。
対するに、第3偵察隊は伊丹の薫陶が行き届いている為か文化面の物が多く、亜人の習俗、風習の写真(担当:笹川)とか、現地の食べ物(担当:古田)といったもので、テレビとか、週刊誌が喜ぶようなネタが満載なのだ。
特に、参考人招致の件以来『特地』の人々(もっぱら女性)に対する、マスコミ等の関心は強くなるばかり。
『特地』に取材に入らせろと言うテレビ局や新聞社の要望は、担当者に対する夜討ち朝駆けを通り越して、最早ストーキングか、脅迫めいて来てさえいる。そんな圧力をかわすために防衛省の担当者は、伊丹達が時折持ち帰る映像資料を少しずつリークし始めたと言うわけである。
そんなものが写真週刊誌とかで『特地の女の子特集』といった記事で掲載されたりしているという状況である。『特地』の黒ゴス少女とか、金髪エルフ娘とか、銀髪魔法少女とか、猫耳のPXの店員とか、ウサ耳の居酒屋看板娘とかの写真集が、秋葉原にある本屋の店頭に並んだのも、最近のことだったりする。
と言うわけで、大切な資料である。その積み卸しと、送り先ごとに分類する作業を伊丹等は丁寧に行っていた。そこへ柳田がやってきた。
「よぉ伊丹、お帰り。また、やらかしたって?」
言われると思った、と伊丹は舌打ちしつつ頭を抱えた。よりにも寄っても、敵の国家元首の前で乱闘騒ぎを引き起すという後先考えない振る舞いは、問題視されないはずがないからである。
具体的に例えてみると某半島の北の所軍様との首脳会談の席で、総理の護衛が銃を将軍様の息子に突きつけて「拉致犠牲者、返してね」と言ったのに近いかも知れない。それで上手く行けば、確かに溜飲は降りるかも知れないが、外交的には信用を失うので絶対的に不味いのである。実際に武器を向けたわけではないとしても、皇帝の第1皇子を半殺しにしたというのも充分に不味い。
「頭を抱えてんのはこっちなんだよ。お前はホントに状況を面白くしてくれる。なにしろ、今回『も』拉致被害者の救出っていう手柄つきだからな、罰したものか、賞したものか、はっきり言って困ってる」
「で、状況は?」
「四分六って減俸ってところかな。ところがだ、政府は拉致犠牲者の救出を大々的に発表したがっている。このところ下がりっぱなしの内閣支持率をあげるのにも、もってこいだからな。そうなると処罰ってわけにもいかなくなっちまうので、上としては決断できないでいるわけだ」
「狭間陸将とかは?」
「例によって苦虫を噛みつぶしたような顔をしてるよ」
伊丹は「迷惑をかけてすみません」と、狭間のいる方角に向かって、柏手を打って両手を合わせた。自分のことなのに相変わらず緊迫感に欠ける男である。ま、出世欲のない伊丹からすれば、馘首されなきゃそれで万々歳なのだ。
「で、もしかして呼び出しとか?」
柳田がわざわざ伊丹の所へとやってきた理由である。減俸にしろ何にしろ、いろいろとお叱りの言葉があるはずなのだ。だが柳田は違う違うと手を振った。
「流石に今日はない。首脳部の頭は、拉致犠牲者への対策だけで手一杯だ。実は、ご家族と連絡が取れないらしいんだ。娘の捜索願を警察に出したのは記録があった。その後、一家総出で銀座にいって『娘を知りませんか?』というビラを配っていたという情報がある。…あの日も、な」
伊丹が夏の○ミケに行くために、ゆりかもめを待っていたあの日である。あの日、あの時、銀座は血で染まった。多くの人が亡くなったのである。伊丹が救うことが出来たのは全体から見れば、極僅かでしかない。
「マジかよ」
「ご本人には、まだ内緒だぞ。一応、医官と専門家が詳細を伝えるタイミングを見計らうことになっている。俺が来たのは、第4偵察隊を帝都に見送ったついでと、今の話をするためだ。お前等が余計なことをしないうちにな…。それと、現場で何があったのか報告書なんかじゃなく、直接聞いておきたいと思う。立ち話も何だから、後で『街』で呑もう」
伊丹は、柳田の誘いに嫌な顔を隠さなかった。なんでお前と…と思ったりする。柳田の陰気な面を眺めながら呑むくらいなら、ロゥリィやテュカ、(レレイは、日本の基準では未成年なのでダメ。食事なら可)と呑んだ方が酒は美味いに決まっているからだ。あるいは、デリラをからかってもいい。倉田や富田なんかと呑むのも楽しいはずだ。
「まぁ、そんな顔するな。こっちはこっちでいろいろと面白いこともあったんで話してやるからさ。紹介したい人もいる。そういうことで、19時に…」
だが、そんなことはお構いなしに柳田は、約束を押しつけていった。嫌な顔をされて、それで怯んでいるようでは、柳田のような気性の人間はやっていられないのかも知れない。こうなったら、柳田に奢らせちゃる、ということで伊丹は納得することにした。
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黒川と栗林は、拉致犠牲者の望月紀子に付き添って行ったために、彼女たちの荷物は、ヘリポート脇に放置されたままだった。
他の隊員達は、荷物の整理・運搬や、それらの搬出で忙しく、終ったとしても今度は銃の整備をして、私物の整理等としなければならないことが多い。指揮官の伊丹としても、黒川と栗林の荷物を持って行ってやれと指示するのは、なんとなく憚られた。
そこで、後は桑原曹長に任せて自分が運ぶことにした。
とりあえず診療施設に行けばいいかということで、彼女らの変に重い荷物を抱えあげて歩くこと暫し。やがてコンク剥き出しの堅牢そうな建物が見えてきた。
そこは、戦闘時に発生する大量の負傷者に備えてベット数300、また処置室および手術室の数も併せて20という、重傷の救命救急に特化した医療設備であった。
ただし現在は開店休業中。このところ戦闘もろくすっぽなく、あったとしても自衛隊側に怪我人が出ることもほとんどなかったからだ。
あまりに暇なものだから、当初配置された看護士や医官達は元の所属である自衛隊病院に戻され、平常の勤務に就いている。
不意に大規模な戦闘が始まったら常勤している8名の医師で持ちこたえ、他の者が招集されて駆けつけるのを待つことになっている。これも『門』が銀座にあるからこそ出来る体制と言えるだろう。
だから、現在稼働中のベットは10に満たない。入院患者は現在は4人。
時折運ばれてくる自衛官は、訓練中に転んで怪我をしたとか、頭を打ったとか、指に切り傷が出来たとか、風邪を引いたとか、特地の水が合わずにお腹を壊した、といった症例ばかりで入院に至る例は至極希である。
これに対して、重傷で入院が必要な患者は『特地』の者ばかりであった。
アルヌスの建築作業現場で、親方のドワーフに頭をぶん殴られた弟子とか、組合が雇った警備の兵が盗賊との戦闘で負傷したとかである。それと、ちょっと前に第4偵察隊が修道院で死にかけているところを保護した、正体不明の男性が入院している。
見た目で年の頃40~50。左上肢を上腕の肘寄りの部分から切断。左の下肢を大腿のほぼ中央で切断の上敗血症になりかけているという痛ましい姿であったが、抗生物質の投与でおどろくほどの回復を見せて、現在は医療用の義肢をつけてリハビリ中だ。
問題は、本人が名前以外出身地や、家族の連絡先を教えてくれないことだろうか。おかげで、退院の目処がついていない。
医官達は、おそらく連合諸王国軍の兵士の1人だったのではないかと推測している。修道院に保護されていたのだから、もしかすると貴族とか、結構身分が高い者なのかも知れない。敵の捕虜となることを恐れて口を噤んでいるのだろう。
そんな感じで閑散としている病棟。
伊丹から見ても、巨大なナースセンターに、1人か2人の看護士がポツンと座って記録を書いているという光景は、なんともシュールであったが、そんな白衣の看護士に声をかけて、自分の部下がこのただっ広い病棟のどこにいるかを尋ねた。
すると紀子の病室は個室だと言う。都心の病院で、個室なんかに迂闊に入ったら、室料として1日ン万円とられてもおかしくない。「部屋が余っているから大盤振る舞いってことか」と呟きつつ伊丹は長い廊下を進んだ。
女性の病室に迂闊に入ると大顰蹙を買うおそれがある。(服を脱いで身体を拭いていたりすることもある)そこで伊丹は廊下から栗林と黒川に聞こえるように「荷物をもってきたぞぉ」と声をかけた。
ちょうど紀子の腕に看護士が注射針を刺して採血しようとするところだったようで、黒川がドアを開けてくれた瞬間、彼女の肌にプスリと刺さるのを目撃してしまった。見れば、栗林は自分に針が刺されたかのように痛そうに目を背けていた。伊丹も、注射される時は目を背けるタイプなので、見たくなかったのだが…。
膿盆(のうぼん/病院とかで見るソラ豆型のステンレス製の皿)には、いったい何CCの血を採るんだ?と言いたくなるほどの量の試験管が転がっていた。感染症、寄生虫、各種の毒物などなどと未知のリスクを検査する以上、検体は多くなってしまうのも理解できるのだが、これだけ血を抜かれたら貧血になってもおかしくない。
病院では、検査を受けるのにも体力が必要で、検査を受けたが為に病気になったという笑い話があるが、結構深刻に現実な話である。実際、病床の紀子は青白い顔をしていた。
伊丹は、紀子に「ご機嫌いかが?」と声をかけつつも、黒川と栗林に荷物を引き渡す。紀子も、伊丹の気安い物腰に「だいぶ、いい感じです」と答えた。
伊丹は、紀子からすると自分を救出してくれた3人の自衛官の1人という認識である。
「黒川。望月さんは、しばらくここにいることになるのかい?」
「そうですわね。この検査の量だと…短くても1~2週間は覚悟して頂いた方がよろしいかと思いますが…」
黒川は白衣の看護士が持っているボードを覗き込みながら、答えた。血算、生化学、レントゲン、尿、便、分泌物各種培養、胃カメラ、EEG、心電図、超音波、妊娠反応、内診…等々。今時、人間ドックだって1日で帰れる時代であるが、これだけの量をこなせば結果が出るまでに1~2週間の時間を要するのは仕方のないことかも知れない。
「だそうだ。ま、ここまで来れば帰ってきたも同然だからな。ゆっくりしてよ」
「それはかまいません。でも、できれば家に電話して無事を知らせたいんですが…」
それを聞いた栗林が、自分の携帯電話に手を伸ばそうとしたのを見て、伊丹は視線で制すると大きめの声で告げた。
「ああ、ゴメンよ。まだ、こっちには民間の回線が引かれてないんだ。門から銀座に出る前には検疫が必要だし、直接連絡するのはもうちょっと我慢して。いきなり僕等みたいな厳ついのが連絡を取ったら、ご家族だってびっくりするよ。背広組の、ホラ、菅原ってのがいたでしょ。あっちのほうで連絡を取ることになっているから」
と、伊丹はパンと両手を合わせた。
紀子もこうも頼み込まれたら我が儘ばかりも言えないと苦笑してこれを受け容れた。すかさず看護士が「次の検査は…」と紙のコップを取り出してトイレの場所を教えている。
その間に伊丹は、栗林、黒川を廊下に引っ張り出して、柳田から聞いた紀子の家の状況について説明した。
「と、言うことで、家の話をするのはお医者とカウンセラーがGoサインを出してからだ。いいな?」
黒川は、そのあまりの痛ましさに絶句している。栗林は携帯をポケットの上から抑えながら「危なかった」と呟いた。
「俺も、びびったぜ。お前が携帯ひっぱりだそうしたからよ」
すると、看護士に案内された紀子がスリッパをパタパタ言わせながら病室から出てきた。
伊丹は「じゃ、また何かあったら来るから」と挨拶する。勿論、社交辞令という奴だ。黒川は看護士でもあるから、望月との関わりはまだ続くだろうが、伊丹や栗林との接点はもう無い可能性の方が高い。それが判ったのか紀子はきちんとお辞儀をしてきた。
「本当に、有り難うございました」
その姿は、親から愛情を注がれて育ち、どこに出ても恥ずかしくないよう、きちんと躾られた娘さんのものであった。
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1日の課業を終えて、国旗を降納する際に流れる君が代ラッパが耳に入ると自衛官達の時間は止まる。国旗が見えるなら、国旗に向かって敬礼。見えずとも、その場で姿勢を正して直立不動になるのだ。
そして、それが終わった瞬間、また動き出す。特に仕事や任務の無い自衛官達は、それぞれに余暇を過ごすことになる。
大抵は、洗面器に風呂道具を入れて浴場へと向かい(シャワーなどという贅沢な設備は残念ながら特地にはない)、汗を流したら食堂で食事をして居室で靴を磨いたり、洗濯をしたり、アイロン掛けをしたり、繕い物をしたり、本を読んだりして、時間を過ごすことになる。
就寝前の点呼までは、基本的に自由なのである。
伊丹は、柳田に誘われたのもあって、アルヌスの街に出てきて食堂へと向かった。
ちょっと数日留守にしていただけなのに、アルヌス生活者共同組合の食堂、略して生共(生協ではない!)食堂の雰囲気はがらっと変わっていた。
野外席にも天幕が張られて、ちょっと雨が降っても困らないようになっていたのだ。さらにテーブルの数もかなり増えている。料理人も含めた店員の人数が増えていて、右肩上がりで増している客のニーズに応えられるようになっていたのである。
いよいよ屋台村的雰囲気が増していた。
でも、デリラは目聡く伊丹の顔を見つけると「よおっ、ダンナ。お帰りっ!!」と明るく声をかけて来る。それに釣られか見知った街の住民達は、口々に声をかけてくれる。知らない顔には、彼らが伊丹のことを説明している。
「イタミのだんな、お帰りっ!!!」
皆、気のいい連中である。殺伐とした帝都の悪所から戻ってきただけに、陽性の活気が身に染み渡る感じであった。
「で、なんでこの人数?」
柳田がうんざりしたような表情をした。その訳は伊丹の背後に控えている第3偵察隊の面々が理由であった。
「柳田二尉、本日はごちそうさまです」
二つ分のテーブルが占拠されて、「おねぇさん、とりあえず生ビール大を12」という声に「は~い」という声が帰ってくる。みな呑んで喰う気、満々であった。
「おい、おい、おいっ、伊丹。ど、どうなってるんだ?」
「流石、柳田二等陸尉。太っ腹ですなぁ。みんな、多少は遠慮しろよ」
勘弁してくれよと、柳田は財布を取りだして、中身のチェックを始めた。
いくらこの特地の物価は安いと言っても、12人分を気軽に出せるほどではないのである。流石に、桑原曹長や仁科一曹あたりは苦笑して、調子に乗って高価な料理を注文しようとする若い連中を窘めていた。
隣のテーブルにはドワーフのおっさんが「がははは」と下品に笑いながら、隣にいるやつの頭をばしばしと叩き、PXの売り娘さん達が、きゃぴきゃぴと黄色い声でお喋りを楽しんでいる。
そんな喧噪の中で、みなしばらくの間、呑んで喋って、食べていた。そして柳田は伊丹から帝都の様子や、起きた出来事について報告書からは窺い知れない体験について聞き取っていた。
それも一段落した頃である。今度は柳田の方から水を向けてきた。
「伊丹よ、お前が居ない間に、面白い人物がお前を訪ねてきた」
「俺を?」
「緑の人ってのはお前達のことだろう?その指揮官ってのはお前だ」
コダ村の避難民達が広めている噂は伊丹も知っている。その恩恵も、充分に受けていると言って良い。実際に、この街の皆が伊丹に好意的なのも、組合幹部と伊丹が懇意というだけでなく、その噂が大本にあるからだ。
「で、どんな用なんだ?」
「ドラゴンを退治してくれとよ…」
「へぇ、ドラゴンをねぇ………って無理に決まってるだろう?あんな怪物相手なんて」
「まあ、実際の所は無理でもないんだが、諸々の理由で駄目だと言うことになった」
柳田は、ヤオという娘が狭間陸将と面会し、ドラゴン退治を依頼したが、そのドラゴンが出没する場所が帝国とは別の国であると言う理由で断られるまでの一連の経緯について説明した。その後、ヤオは片っ端から陸自の幹部に声をかけて回って、自分の同胞を救ってくれ、故郷を助けてくれと泣きついていると言う。
「痛ましい話だな?」
「そう思うだろ?」
「でも、自衛隊として駄目なら駄目だろう」
「確かに、その通りなんだが、エルベ藩王国ってのは南にあってな。どうも石油が出るらしい。それとヤオっていう娘っ子はこんなでかいダイヤモンドの原石を抱えてきた。これも魅力的だ」
柳田は、両手でスイカを抱えるくらいのサイズを示した。
だんだん話がきな臭くなって来た。伊丹としては、眉に唾を充分に塗りつけて、警戒心を喚起させたいところである。
「で…」と、俺にその話をする理由は何だ?と言う意味を込める。
「お前、偵察に行ってみないか?前も言ったと思うが、資源の探査という名目がつけば、お前達は相当自由に行動できる。気が着いたら国境を越えてました。ドラゴンと出くわしました。やっつけちゃいました…ってことになっても、問題は無いだろうと思ってな」
「おおありだっ!!!」
伊丹はテーブルをガンと叩いて立ち上がった。
「お前、アレと出くわしたことがないから、簡単に言えるんだろうがな、アレはなっ、相当におっかないんだぞっ!!」
伊丹の声に、皆静まりかえった。食堂の客達も何事かと静まりかえる。
「どうしたんです?隊長」
倉田ののんきな問いに、伊丹は声のトーンを一段と低くして答えた。
「俺たちだけで、ドラゴンを退治して来いってよ」
第3偵察隊の面々は、唖然とした。自分達には、撃退するのがやっとだったからだ。追い払うのだって、もう一度やれと言われてもできる自信はない。
「LANを百本ぐらい用意して、連べ打ちでもしますか?」
勝本の軽口を無視して、伊丹は柳田の顔を覗き込むようにして言った。
「こいつらの過半数に死ねって言うのと同じだぞ」
ドラゴンの襲撃ではコダ村避難民の多くが犠牲になった。第3偵察隊に損害が出なかったのは、ある意味で逃げ足の遅いコダ村の住民達にドラゴンの注意が集中したからとも言える。真正面からぶつかったらどうなるか、容易に想像できるのだ。
「命令なら従うが、選択権がこちらにあるのなら、俺は嫌だね。死にたくないし、こいつらも死なせたくない」
すると柳田は、肩を竦めて「そうか?」と言うだけであった。伊丹の言葉など、聞くに値しないと言わんばかりである。そして、「だけど、お前はきっと行く。予言してもいい」とまで言う。「そうなったら、形式は俺が整えてやるから、安心しな」と。
「なんで俺が、行くことにするんだ?」
「さぁな」
柳田はそこまで言うと「さてと…」と、伝票を持って席を立った。
「仕方ないから、今日は俺が奢ってやる。ま、これも、謝罪の前渡しだと思ってくれ」
「謝罪?」
訝しがる伊丹に対して柳田は右手を挙げながら、去っていった。
去り際にこう言った。
「金髪エルフの女の子のところに行ってみな…」
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[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 38
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/10/07 21:17
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堰きとめられた水の堤が切られて決壊すると、その大きな流れはあらゆるものを、悉く押し流してしまう。
状況は静かに推移して、動き出す時はあっと言う間である。
『門』を挟んだその内外の政治状況も、決壊寸前のダムのごとくであって、これまでの静けさや穏やかさはある意味、嵐の前の静けさに近いものだったかも知れない。
沖縄を唄った謡にて曰く。「ていごの花が咲く」
もし、ていごの花が『特地』にあったら、アルヌスの丘は彼の花が咲き乱れていたかも知れない。
彼の詩は、ていごの花が咲き乱れると嵐が来ると唄っているが、その実暗示されているのは戦乱の訪れなのだ。
帝国、帝都、そして日本を含んだ世界各国。さまざまな思惑が、それぞれに入り乱れるようにして平和を築こうとする堤防に蟻の一穴を穿っていたのである。
「ピニャ!!」
「ディアボ兄様…どうされたのですか?」
慌てふためいてやって来る次兄を、ピニャは足を止めて待った。
いたずらに時間ばかり費やす議会を終えて、元老院議員達は今後の方策やら意見を互いに語りながら歩いている。その流れに逆らって、突然立ち止まった彼女によって、元老院跡地の回廊に、はた迷惑な渋滞が発生した。
かつて天井のあった場所は空にかわり、その空にも星が瞬く頃合いである。
突然の混雑によって肩をぶつけたり、押し合ったりで、手にした松明から飛び散った火の粉を浴びた壮年やお年寄りの議員達が、慌てふためいたり、眉を寄せたりしながら、ピニャの傍らをすり抜けていった。
そんな人の群れの中からピニャを捕まえたディアボは、他人の耳がある廊下を避けて、かつて小部屋があった場所へと、連れ込んだ。そこは破壊された元老院の中でも、比較的損傷が少なくて三方に壁が残っている。内緒話をするには充分だろう。
「ゾルザルについてお前知っているか?」
「ええ。父上も兄様の立太子を決められ、帝位の継承が明らかとなりました。妾も一安心です。それが何か?」
「あの馬鹿が、何をトチ狂ったのか父上と張り合うつもりだ。この俺にもどっちに着くか旗幟を清明にしておくよう言い放ちやがった」
ゾルザルの部屋であった出来事を話して聞かせるディアボ。
だが、ピニャは次兄の言葉を理解するのに少しばかり時間を必要とした。
「……あの、実に兄様らしからぬ振る舞いですね。皇太子になっていよいよ増長して威張るとか言うなら判るんですが。そのような賢しらな言動はものすごく違和感があります」
「俺もだ…いったいどうなってる?!!」
「妾に判じようがありましょうか?それに兄様がいずれ皇帝に成られると言っても、父上の後見・監督を得てのこと。張り合えるはずがありません。いったいどうするつもりなのでしょう」
「当面の間は雌伏して機を窺うつもりらしいが」
「そのままずうっと雌伏していてはくれないと言うことですね?」
ディアボは砂を吐き捨てるかのように言った。
「世の中には二種類の馬鹿が居る。一つは、自分が馬鹿であることを知っている、すなわち賢い馬鹿だ。もう一つは、自分を賢いと思っている本物の馬鹿だ。あいつはどうやら後者らしい」
「父上は当面は自分が後見して、自分亡きあとは、ディアボ兄の補佐で帝国を運営していくことを期待している……と、思っていたのですが」
「この俺が、アレの補佐だとっ!?そんなこと聞いておらぬ。この俺が、なんだってあいつの補佐を引き受けねばならんのだっ!!それならばこの俺が皇帝となっても良かったではないか!!くそっ、父上も早まった真似をっ!!」
怒りに駆られたディアボは、崩れかけた壁を殴りつけた。弱っていた漆喰がその衝撃で崩れて埃が舞い散った。
「兄様。帝位の継承は長子相続こそが説得力を有します。人柄や能力の有無は、普段接する立場にない民草には理解できません。兵士達もです。ここで序列を乱して、能力の優劣によって帝位が得られるとなれば、自負心を持つ者なら誰しも『我こそは』と思うもの。そうなれば、国は千々に乱れましょう。
無論例外もあります。それ故に父上も、ぎりぎりまで迷っておられたのです。ですが、この国難の最中、次兄を後継に選んで兄弟が噛み合う事態になれば、いよいよ帝国が危うくなります。それを考えれば、兄様が帝位に就かれたほうがよっぽとマシだと思われませぬか?
ディアボ兄様は、ゾルザル兄様の背中しか見ておられぬようですが、ディアボ兄様の背中を見ている者は、この宮廷には大勢いるのですよ」
ディアボは、妹の理路整然とした物言いに驚いた。いつの間にここまで成長したのだろう。その言葉にも相当の説得力もあった。
ディアボは、兄と自分を比較して、実務能力も見識においても優れていると思うからこそ、自分が次期皇帝たらんと頑張って来たのである。が、もし能力という物差しだけで次期皇帝を決めてもよいのであれば、自分の叔父や妹や弟達も競争相手となってしまうことを忘れていたのである。
そのことに気付いて見ると、この目の前に立っている妹はどうだろうか?
ゾルザルはこの妹を敵と親しすぎるという理由で競争相手と見なさなかった。彼女が所有する人脈を、利用することだけを考えていた。が、ディアボは逆に、敵国の軍事力とピニャの結びつきが恐ろしくなった。何故なら、自分ならとっくの昔にその立場を利用しているからだ。
思わず背筋が寒くなる。
ピニャこそが、最も帝位に近い立場にいると言うことをディアボはこの時、はっきりと意識したのである。
自分に都合の良い王族を王に立てて、同盟関係を結ぶということは帝国もよくやってきたことだ。軍事において圧倒的なニホンという国は、今それをできる立場にあった。そして皇帝たる父が、そのことに気付いてない筈がない。
ディアボは皇帝の思考を推し量る。推し量ろうとした。
あまりにも材料が少ないが、ピニャという存在を加味すると、ことさらこの時期にゾルザルを皇太子に立てたことで皇帝が描こうとしている将来の図絵がぼんやりとだが見えてきたような気がしたのだ。
ニホンという敵はお人好し。まともに戦わなければよい…。
その皇帝の言は、ニホンは、利用しやすいと言う意味ではなかろうか?民を愛し、義に篤く、信に過ぎる。そんな敵を利用するにはどうしたらいい?ちがう、敵だった者すら味方にするにはどうしたらいいか?
…それは、ニホン対帝国という対立の構図を変えてしまえばよい。
どうやって?その鍵となる者……………………………それがピニャか。
帝国内において、どうにかしてピニャと皇太子ゾルザルが反目し合う政治状況を作る。
一番良いのは、ゾルザルが軍事的な暴発を起こしてニホンとの戦争を激化させることだ。ゾルザルに戦争を主導する役割を担わせる。そのためには一時的にでも軍事的な優勢か、優勢と錯覚させるような混乱した状況が必要となるだろう。これは政治とは別の技術的な問題なのであとで詰めることにして…。
もし、この構図が成り立つなら戦争を終わらせることを大義名分としたピニャとニホンの共闘は容易に成立する。ニホンの力でゾルザルを廃して、ピニャが帝位に就くという目もあり得るわけだ。
こうなればそれまで敵だったはずのニホンは、ピニャ=帝国の同盟者だ。これによってニホンは帝国の覇権を支える後ろ盾となり、さらに帝国はその進んだ文物を他国に先んじて吸収することもできる立場となるわけだ。さらに退位することで責任を負う父は、その玉座をめぐる争とは無縁の立場となりうる。ある意味、ゾルザルを生け贄とすることで、自分を安全なところに置くことが出来るわけだ。
ピニャのことだ、帝位に就いたとしても父を蔑ろにするようにことはしまい。と言うより国政の人材を自前でそろえられないピニャは、兎にも角にも父の息のかかった者を用いざるを得ないのだ。つまり、裏で操ることが可能なのである。
「う~む」
こうして冷静に考えてみるれば、ゾルザルの語った「退位した皇帝対、現役の皇帝たるゾルザル」という対立の図式より、ピニャを隠し玉としてニホンという敵を味方としてしまう、皇帝の絵図のほうが遙かに現実的に思えた。
ゾルザルには父と競っていく意思はあっても、それを現実にしていく構想力で一歩も二歩も劣っている。さらに、構想を具体化していく現実的な『力』にも欠けているのだ。
ディアボは、兄のはったりにも似た詐術から目が醒めたような気がして、ホッとした。
こうなればゾルザルに味方することは、大変に危険なことである。かといって皇帝に味方したとしても、ディアボには生きる目がないのだが…。精々、父の傀儡たるピニャの補佐をするだけの一生になり果ててしまうだろう。
帝位を狙うディアボとしては、さらに考えるべきは、ピニャの立場に自分が割り込むにはどうしたらいいかであった。それには、とにもかくにもニホンと縁を結ばなくては成らないがその点でもディアボは大きな遅れを取っている。
ディアボは考える。
皇帝の考想を真似てみては…と。
皇帝は、ゾルザルと自身の対立という単純な図式を、ピニャとニホンによる同盟勢力という第3勢力を持ち込むことで、自分を天秤の支点とすることを試みている。
と、すればディアボに出来ることは、第4の勢力を構成することだ。そして状況に対するキャスティングボード握ることで主導権を握るチャンスを得るのだ。
問題を何を味方とするかである。
諸外国や諸侯を糾合すると言うのも一手だ。勿論、皇位の座をめぐる争いに加わるには、帝国軍と互角な勝負に持ち込めるくらいの力は欲しかった。もし、こちらに無いのなら、ニホンの国内、あるいはニホンという国の外はどうだろうか。そういった力を持つ勢力はないのか?
「………………?兄様、また考えすぎておられるのでは?」
これだけの思考を沈黙したまま続けていれば、誰もが変に思う。
「ゾルザルの兄様は考え無しなので困りますが、ディアボ兄様は考えに過ぎるところがありますね」
黙り込んでしまった次兄をピニャが、呆れたように眺める視線に気付いて、ディアボは自分の後ろ暗い思考を誤魔化すためか、あるいは考えすぎる性格に対する非難を糊塗するためなのか、ことさら言い放った。
「いったい誰だ!?あのゾルザルをホントの大馬鹿に仕立て上がったのは」
「そんなに、馬鹿、馬鹿と貶さずとも…それに、ゾルザル兄様も、本当にそれだけの力をお持ちで、これまで韜晦してこられたのかもしれませんよ」
「あり得ない!あれは馬鹿だ。だってそうだろう。皇帝たる父を恐れて、頭角を隠してきたのなら、父が亡くなるまで隠し続けているべきだ。それをこのような時期に暴露するなんで馬鹿でしかあり得ない」
「あの、兄上。いささか口が過ぎるのでは?立太子された嬉しさに、自分を抑えきれなかっただけかも知れませんし」
「だってホントに馬鹿なんだもんっ!!しょうがないじゃないかっ!!俺たちが思っていたような小馬鹿だったら、まだマシなんだよっ!!
それが身を守るために小馬鹿を演じているつもりで馬鹿に磨きをかけて、しかも、本当の自分は天才なんだと勘違いするぐらいの大馬鹿になっちまったんだ、あいつはっ!!
いいかピニャ。大馬鹿は恐いぞ。なまじ変なところで小知恵がまわるから始末に負えないんだっ!!小商売で成功して、大商売でずっこける大馬鹿商人が世に尽きぬように、あるいは天才とアレが紙一重なのと同じでな。大馬鹿はまわりを巻き込んで盛大に破滅してくれるんだ。
もう彼奴のことはいい。問題はピニャ、お前だ。お前も少しはこれからのことを考えておけよ」
最後のそれは、これからお前を中心にこの帝国が動いていくことになるかも知れないという警告であった。この帝国をどうするのか何の見識も持っていないようなら、後ろに立っている者(自分も含めて)がお前の背中を見ることになるぞ、という宣告でもある。
「妾なら、とうの昔に考えておりますが」
「そ、そうか?やはりな、そうでなくてはならぬ」
やはり帝位もその視野にいれていたようだ。油断のならない妹である。だが…勝負は最後までわからないものだ。負けないとディアボは拳を握った。ところがピニャの答えは、ディアボの斜め上を行っていた。
「妾は、芸術の擁護者となります」
まるで自分の立場を理解していなかった。
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テューレは、自らの首にかけられた革製の首輪をいまいましそうに取り外して投げ捨てると、狭苦しい私室の、きしみを立てるほどの粗末な寝台に倒れ込むように身体を投げ出すと俯せに横たわった。
二の腕や首には痣や、真新しい歯形痕が残っていた。ごしごしと指で擦ってみても肌からその痕跡が消えることはない。擦ったところで消えることはないことは判っているが、擦らずにはいられない。そんな心境であった。
「……………」
小さなため息をひとつ。すると寝台の下からくぐもった嗄(しわが)れ声が聞こえた。
「テューレ様。ボウロでございまする」
横たわったまま、まるで寝言のように応じるテューレ。
「なに?」
「アルヌスへ送り込んだ手の者からの報告が参っておりまする」
「そう。そこにおいておいて、後で読むから」
何もかも忠節故とは思って感謝こそするが、今は疲れ果てている。こんな時はどのような親しい者であっても他人の存在は鬱陶しく感じるものだ。
報告を届けるだけなら用件も終わったことだしこれでボウロも去るだろうと期待する。だが、テューレの忠臣は立ち去らなかった。
「テューレ様。ゾルザルが皇太子となれば、いよいよ帝国も終わりでございますな」
思わず無音の舌打ちするテューレ。見えないことを良いことに、眉根を寄せて唇を噛んだ。さっさと立ち去れという言葉が、喉元まであがってくる。だが、ボウロは彼女にとって唯一無二の臣下であった。ボウロなくしては、自由のないテューレはゾルザルの籠の鳥でしかないのである。だから、強い拒絶も出来なかった。
この醜男は報酬を求めているのだ。忠節に報いるのに報酬は当然のこと、であるが…テューレはうんざりとした気分になる。ゾルザルに続いて、この男にまで。
テューレは頭を抱えつつも、寝返りをうつように俯せから仰向けとなると、ベットの淵から片足を落とした。
やがて、水滴り跳ねるような音とともに、足をナメクジの這いずるような感触が伝わってくる。唇を噛んで不快感を堪えつつ、テューレは、気を逸らすように言った。
「アレを煽て上げて、自信過剰にまで追い込むのにも苦労したのよ」
貴方は偉大な人、本当はできるのに他人は貴方を評価しない。それは天才を凡人は理解できないから。言いたい人には言わせておきなさい。貴方のことは私が存じています。貴方は力強くて凛々しい。その颯爽とした振る舞いに人々は目を惹かれます。貴方が、いえ、貴方だけが真に正しいのです。貴方は素晴らしい。貴方の発想は斬新すぎるのです。凡俗には理解できません。天才は、凡人のようにあらねばならぬ理由はありません。したいようになさってください、それが正しい答えです。皇帝は貴方を恐れています。だから、立太子しないのではなく、できないのです。皇帝は恐ろしい人、貴方の慕っていた義兄を殺しました。その恐ろしい人物が恐れるのだから、貴方はやはり素晴らしいのです。義兄のように殺されないためにもここは雌伏すべきです。才能を隠すのです。能力を隠すのです。無能を演じるのです。今の貴方はも無能を演じているだけなのです。
テューレが甘い吐息と共に、彼の耳に注ぎ込んだ蜂蜜漬けの言葉は、ゾルザルの魂を確実に捕らえて太らせた。彼女の語った耳心地のよい嘘を信じ、それを基盤としてさらなる嘘を信じ、それを信じるために自らに嘘を塗り重ねていく。ここまで来ると、本人は微塵も疑わずに信じ切っている。元よりあった根拠のない自負心と自尊心がより膨れあがり、他人から吹き込まれた考えすら、自分の発想と錯覚する。それどころか、他人が自分の考えを盗んだとすら考えるようになってしまった。
「お人好しの異世界の軍など恐れるに足らない」そんな皇帝の言葉が耳に入った途端、「俺のアイデアを我がもののように言いやがって」と考えているのだ。
「でも、油断しては駄目よ。講和は何としても潰さないと。何としても戦争を続けさせるの。火に油を注ぐの。この地上のヒト種が憎しみ合って、罵りあって、殺し合い、奪い合い、破壊し合って帝国が滅んで、王国が滅んで、街が滅び、村が滅び、ヒト種がこの地上から消えていくまで、決して手をゆるめては駄目。そうして初めて、私の復讐は完遂されるのよ」
「ならば良い考えがございまする。ニホン人奴隷を始末いたしまする。たかが一人二人の同胞が奴隷となっていたと知っただけで、元老院を破壊するくらいなのですから、残りの者が殺されてしまったと聞けば、大いに理性を失うこと請け合いでございまする」
「たかが、一人二人の同胞が奴隷になっていただけで、怒り狂って攻めて来た」のくだりはテューレの胸中にあった正体不明の苛立ちを怒りへと変えた。
自分の時には誰も助けに来てくれなかったと言うのにっ!
誰も助けてくれなかった。誰も同情してくれなかった。
誰も自分の事を案じてくれなかった。
しかも、生き残った仲間は、自分が一族を裏切ったという嘘を信じて、この身をつけ狙ってすらいると聞く。
それだけは、絶対に許せなかった。
自分は故郷を守るために、自らを犠牲にしたのだ。なのに誰も、何も返してくれない、愛してくれないなどという理不尽は、断じて許せなないのだ。そして、その怒りは同じ境遇にあったにもかかわらず、自分には与えられなかった救いの手が差し伸べられた紀子へも波及する。
「甘いわね。とっても甘い。私たちが手をかけては駄目。帝室の者に手をかけさせる方法を考えなさい。できればピニャがいいわ。でも、無理ならディアボでもいい。ノリコも殺させるの。そうすればニホンと帝国、そして元老院と帝室の関係も最悪となるでしょう。戦争は続く。戦争が大きくなる。ヒト種が殺し合って大地は骸で覆われる。父と母と弟と一族の故郷を亡ぼしたゾルザルも、帝国も何もかもが滅びるの。それは私にとって、大いなる喜びなのよ。そうすればボウロ、私はお前の望みを叶えましょう」
テューレの腿にまで舌を這わせていた豚と犬をかけ合わせたような醜い男が、瞳を輝かせてその表情を歪めた。笑ったのだろう。
「かしこまりましたテューレ様。乏しい智慧を絞ってみます。ですからお約束、なにとぞお忘れ無く。いひひひひ」
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アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、中国、EUそして日本の外相の集まる会議の場で、麻田は耳につけたインカムにふさがれた耳の穴が蒸れるのを、じゅくじゅくと痛痒く感じていた。
通訳の声が流れるインカムをはずして、何度か外耳道の空気を入れ換えようと試みる。だが生来からの熱しやすい体質に加えて、交わされるやりとりの内容が彼の情緒を強く刺激するようなものであったために、いささか体温が上がり気味なのだ。それを抑えるのにも、理性の総動員が必要だった。
麻田はため息をひとつつくと、斜め前方に座るロシアのウラジミール外相に向けて語った。
「そのような要求は到底受け容れかねる。銀座と言えば、我が国の政治経済の中枢、首都東京である。そこに武装した外国の軍隊を無条件で受け容れるなど、どうして出来ようか。まして我が国は貴国ロシアを信用できない。グルジアの南オセチア州でなされた極悪非道の侵略行為と住民虐殺の蛮行はつい最近の出来事である」
通訳が麻田の日本語をロシア語に翻訳するのに、若干のタイムラグが生じる。この間に、麻田は机の上に置かれたミネラルウォーターを口に含んで一息ついた。顔色を変えたウラジミールが、麻田に向かって強い口調で何か言い始めたが、ロシア語などわからない麻田は、それが日本語に翻訳されるのを待つ。
通訳の翻訳は以下のようなものであった。
「そのような悪意に満ちた誹謗を我が国は受け容れるわけにはいきません。南オセチアにおける我が国の軍事行動はあくまでも我が邦人保護を目的としたものであり、非難されるべきは、民族浄化をはかろうとしたグルジア側にあります。我が国の軍事力の行使はあくまでも適正なものであり、何一つ非難されるようなものはないのです」
麻田は「わらっちまうぜ」と肩を竦めながら、隣の外務次官へと一旦視線を向けた。外務次官は、この表舞台とは別の場…すなわち裏で為される影の交渉「別名テーブル下の交渉」の結果、アメリカ、イギリス、ドイツの賛同を得たことの報告を得て麻田にメモを示した。
メモには「概ね賛同を得る。条件次第」と書いてあった。
「俺が見たのは、報道関係者に向かって銃をぶっぱなすロシア兵の映像とか、そんなんばっかりだったぜ…」
通訳が麻田のべらめぇ口調をどのように翻訳したのかはわからないが相当に刺激的な意訳だったらしい。
ウラジミールはテーブルを拳で叩くと、顔を真っ赤にして腰をあげた。
「それは西側報道機関の捏造です!!!」
「現場生中継を捏造とはちゃんちらおかしくて嗤えるねぇ。後々になって出してきたロシア側の新証拠とやらの方が捏造だろうに。いずれにせよ、我が国は貴国を信用できない。よって、ロシア側の要求するように無制限の要求は断固拒否する」
ロシアの外務大臣は、握り拳を作ったまま他国の大臣の顔を見渡した。
この8カ国外相会議は、経済や、政治上の様々な問題を検討するために設けられた。当然、日本国の東京に忽然と現れた『門』という現象も議題に上がった。
それは日本国内で起きた出来事であるが故に、本来日本だけの問題であった。そして『門』は日本だけの物のはず。
だが、その『門』が多大なる利益をもたらすことが判ると、その『門』がもたらした負の利益、戦災のことは忘れ去られて、そこからもたらされる利益ばかりが注目を浴びたのである。
各国の要求は、すなわち「独り占めするな、こっちにも寄越せ」であった。
『門』に多大な興味を示しているのはここに集まった8カ国ばかりではない。韓国、インド、台湾、ブラジル、メキシコ、オーストラリア、シンガポール等々、そうそうたる国々がそろっている。こうした国々の国際圧力に屈する形で、首相の福下は大幅の譲歩を決断したのである。
ただ、勿論譲ってばかりというわけにはいかない。日本には日本が求めるべき国益というものがある。人の家に欲しいものがあるからといって、土足でずかずかと上がって良いはずがない。言うべきは言い、つっぱねるべきは突っぱねる。閣議における麻田や石場の主張が取り入れられ、総論において受け容れても、各論に置いて非常に強い制限を加えていくという方針が定められたのである。
こうして『門』の利用や、日本が他国を受け容れるための枠組みづくりが、ここに集まった8カ国で取り決められようとしていた。
今度は中国の外相が発言を始めた。
「我が国は、日本国が『特地』において、かつての帝国陸軍ような蛮行を行っていることを危惧している。東京の治安や安全を脅かそうという意図はない。信用して頂きたい。我々が求めるのは『特地』に立ち入り、日本軍の活動を監視し、我が国の権益を守るための最低限の戦力を受け容れていただくことだけである。あまりにも頑なに拒絶する態度は、何か人に見られたくないような行為をしているのではないかという疑念が生じるので注意して頂きたい」
麻田は、似たようなことを韓国の大使が言っていたことを思い出した。
国内でも野党勢力の政府批判の論旨が似たようなものになりつつあって、これについては注意が必要であった。
野党と、特定アジアの結びつき。
そう言えば、野党は日銀総裁人事においても非常に拒絶的な態度を取った。これは我が国の為替防衛の秘密兵器たる『日銀砲』の使用を妨げ、日本の経済安全保障を脅かすための最初の一手であると見て取ることも可能だ。(日銀砲の発動には、やはり財務省と日銀の一体性が必要であろう)さらには為替相場を安定させるためのこれらの資金たる米国の国債を、埋蔵金などと称して売り払い(それだけで、アメリカの怒りを買う行為である)枯渇させることを目的としているとしか思えないマニフェストを発表している。
政権欲しさのあまりに野党は、盗賊のために門を内側から開くという行為にも手を染めるつもりのようだ。一般にはわかりにくいが故に、これによって受けた打撃はみんな与党のせいと非難できるわけだ。これによって国民生活にどれほどの打撃を受けるか全く考えていないのだろう。
馬鹿なことである。リベラル系の大統領が2代続いた韓国が、現在どうなったか見れば判るはずである。その二の舞を演じるつもりなのだろうか。おそらく中国系かオイル系のハゲタカファンド…つまりその背後にいるのは中国政府そのもの、そしてアラブ各国の政府その物である…から金が流れて来ているのかも知れない。
麻田は、中国と野党との繋がりを心のメモ帳に要注意と記入しつつ、述べた。
「安心して頂きたい。日本国は大東亜戦…もとい、第二次世界大戦に敗戦して以来、民主主義の国家となっている。ウィグルやチベットで某国が行っているような武力弾圧とか虐殺とかは一切していない。実際、我が国の野党が現地の住民を国会に招致して意見を求めたが、自衛隊の行動の適正さを証言してくれたくらいである。ま、それでも疑わしいどうしても見に来たいというので有れば、受け容れることも吝かではないが、当然の事ながら条件がある」
続く言葉を各国の外務大臣達は身を乗り出して待った。
「まず『門』が東京にある以上、『特地』に入るには東京を通過しなければならない。だが、一国の政治経済の中枢に、他国の軍事力を受け容れさせるという非常識をこの八カ国協議が推す以上、以下の条件が認められなければならない。
それは、日本国領土内を通過する段階では、各国の軍隊、それに所属する兵士は、我が国の法に従わなければならないと言うことである。我が国は武器管理に置いては厳重な法の規制下にあり、銃砲火器刀剣等の携行は絶対に認められない。これらの装備を『特地』まで輸送するに当たっては、分解し、完全に梱包し、弾薬なども我が国の爆発物取り扱い等の法に従って移送されなければならない。また輸送の手段も、我が国の法に従って粛々と為されなければならない。則ち交通ルールを守れと言うことだ。守られなければ当然、我が国の法に従って、刑罰を受けることとなる。また、これらの条件が適切に為されていることを確認するために、荷物等の検査も当然ながら受けて頂く。これの拒絶もまた、ペナルティの対象となる。
もし万が一、外国の兵が、武装して門を出て銀座の土を踏んだら、我が国の法を犯した者として、その理由の如何を問わず、当該将兵はその場で射殺され、車両等は撃破される。また、その兵の所属する国家は、不法行為に対する賠償として兵士1人あたり米貨にて100万ドルを支払って頂く。さらに我が国の建物や施設財産等を損壊させた場合も、それに見合った額を加えて支払って頂く。
なお、これらの金員は、あらかじめ保証金として我が国に預けていただく…従って、特地へ派遣する兵の人数に応じた保証金を積んでいただくと言うことである。10人なら1000万ドル、100人なら1億ドルということである」
もう、この段階で各国の外務大臣の顔は真っ青だった。
日米安全保障条約があるアメリカの外相だけは、苦笑いしている。米兵が武装したまま日本国内を移動することは、条約で認められているから、これらの条件はほぼクリアされるのである。問題は保証金だが、日米の関係に置いては、返還させることが決まっている限りに置いてなんの心配はない。さらに、『門』から得られる利益はこれを度外視できるほどに大きいと試算されているのだ。
またイギリス、ドイツも、顔色を青くしながらも、次官とひそひそと何やらメモをやりとりしながら検討していた。
実は、両国とも『特地』での武力行使して、大昔のように領土や権益を拡げる意図を放棄していたからだ。両国ともアメリカ同様に、小さな門しか補給路のない特地に、大軍を派遣することの危険に気付いたのである。従って、日本から分け前を貰うという方針に切り替えていた。
そうなると必要な戦力は形ばかりの監視と、特地の情報収集に必要な少数でよいことになる。その程度なら両国とも保証金(あとで帰ってくる)は問題とならない額とも考えたのである。
カナダやイタリアは、何やら補佐官とひそひそとやって、本国と連絡を取り合っている様子が見受けられる。これも机の下の交渉が進んでいて、額の問題で交渉になっても、総論では受け容れることになるだろう。
問題は、現代にもなお海外植民地を有するフランス、武力侵略もへっちゃらなロシア、領土領海の拡張と異民族の武力弾圧に余念のない中国であった。これらの三国は、日本の要求に対して苦い顔をして首を振った。
これらの国は、特地において100年ほど昔になされたような、植民的な権益を狙って大量の軍事力の投入を考えていたからである。
補給物資等の輸送の問題についてもフランスにはそれなりの考えがあるようだが、中国やロシアは自国と日本が近いこともあって、さほど輸送距離もなく、さらに自国で普段あたりまえにやるようなノリで軍事優先が通じると思いこんでいるのだ。そのために日本の道路事情の特殊性に考えが至っていない。
さらに中国は、増えすぎた人口を、特地に移民させるという荒技を考えていた。自国民を移住させて、その範囲を自国民保護を理由として軍事的に支配していくやり方だ。しかし、これだと送り込む人数に応じて保証金を積めと言う日本の要求には、当然の事ながら頷くことは出来ないのである。
「我が国が、日本国の経済や政治に悪影響を及ぼすような行為をするはずがありません。従って、このような過剰の保証金は不必要だと思われます。それに、兵士が武装したまま『門』から東京に出たと言うだけで、その場で死刑とはあまりも野蛮なことです。どうぞ、再考して頂きたい」
麻田は、フランスの外相の言葉に対してこう答えた。
「嫌だ」
何を言われたのかわからないのか、フランス外相は目をパチクリとさせている。
「なんと言われましたか?」
「お断りすると申し上げた。これらの巨額の保証金は、過剰な戦力を入れることを防ぐためだからである。我が国は『特地』の秩序を乱したくない。特に、現在は、特地内の『武装勢力』と非常にデリケートな交渉の真っ最中であり、これをいたずらに混乱させれば、終わる戦争も終わらなくなってしまう恐れがある。また、フランスは我が国の政治・経済の中枢を混乱させたり、攻撃したりするおつもりか?」
「そんなことあろうはすがありません」
「門を越えてフランス兵が銀座に出てくるおそれは絶対にないと言い切れるか?」
「無論」
ならば問題ないでしょうと麻田は大きく頷いた。
「フランス兵が銀座に武装したまま出て来ることなど、絶対にないと言われるのであれば、どれほど過剰なペナルティを決めたとしても、心配ないではないか。人を正当な理由もなく殺したら死刑という罰を恐れるのは、自分が人を殺しそうだと認識している人間だけである」(言うまでもないが、間違いや、何かの弾み、事故等は過失致死であって殺人ではないため当然死刑は適用されない。正当及び過剰防衛も同じであることを蛇足ながら付け加えておく)
麻田の言葉を最後に、次の交渉日程を定めた上で、この日の会議は終了した。
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一方、世界の思惑や水面下の動きを余所に、伊丹はアルヌスの街をうろうろとしていた。
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がしたのである。
柳田の言った金髪エルフと言えば、このアルヌスではテュカのことしかないからだ。
伊丹はテュカが嫌いではない。いや、どちらかというと好きな部類に入る。…正直に言えば非常に好みである。見栄えだけ取り上げてみても、彼女の魅力を数え上げるのに苦労を要しない。美しい顔立ちに、透き通る蜂蜜のような髪、そして温もりを感じさせる肌に包まれた、ほっそりとした肢体等々。フィギュアにして飾っておきたいくらいだ。
その碧眼の瞳は、伊丹には見えない精霊の類を見通す力があって神秘的ですらある。
もし彼女が何も抱えていなければ、もっと積極的に話をしたいと思ったろうし、もっと関わりたいと思ったろう。だが、伊丹は彼女との間に越えられない壁の存在を感じて、それが出来なかったのだ。
それは彼女が、精神に大きな爆弾を抱えていたからだ。
「金髪エルフのところに行ってみな」
柳田の嫌な表情。そしてその言葉の響き。
どうしたって、いつ炸裂するか判らない不発弾をかかえる彼女の精神のことを思ってしまう。
これまで伊丹がしてきたことは、その不発弾を炸裂させないように、不用意な衝撃を与えないようにすることだけだった。
それしか出来なかったと言うのもあるが、一度、彼女の心が平衡を欠けば何がおこるかわからなかったからである。
否、逆か。
何が起こるか予想が出来るからこそ、それを見たくなかったのである。見たくないから目を背けていたのである。
柳田と別れた後、伊丹は部下と別れると街の居住区、仮設住宅の並ぶ区画あたりで、うろうろとしていた。
テュカの様子は見に行かなければならない。だが、もし自分が恐れていた事態が起こっていたとしたら、と思うとどうにも近づけないのだ。そんな葛藤の間で揺れ動いて、四半時ほど行ったり来たりとしている。まるでストーカーだ。
女性の部屋の近くでそんな挙動不審な様は、当然の事ながら怪しまれてしかるべきものだ。が、アルヌスの生活者協同組合の子ども達やお年寄り達は、伊丹の人となりをよく知っていた。だから、怪しむよりは気軽に声をかけてくる。
「イタミのおじさん。こんばんは…どうしたの?」
それはレレイよりも二~三つ下の年齢の男の子だった。
洗浄した翼竜の鱗を入れた箱を抱えているところを見ると、こんな夜遅くまで作業をしていたようだ。
組合がここまで大きくなって、使用人の数も増えたと言うのに、コダ村の住民は働き者ばかりで現場から離れない。立場にあぐらをかかないのだ。人を雇ってるという意識がないのかも知れない。どんどん増えていく従業員を見る目が、新しく村の人が増えた…ぐらいの感覚で、もちろん仕事の仕方や働き方には注文をつけるけれど、大抵は率先垂範。なので従業員達はボスの目を盗んでサボるということも出来ないでいる。って言うか、子どもが一生懸命働いてて、給料をもらってる(しかも結構沢山)自分達が怠けてたら、不味いだろ大人として…と思わせてしまうのだ。
さらに彼らは、とても純朴なので、自分に出来ないことをする専門家、例えば傭兵とか、営業とか、大工仕事といった技能を必要とする仕事をする者には、ちゃんと敬意を払うのだ。「これは、こうすると、うまく行くんだよ」「へぇ、おじさん、すご~い」という感じである。これで、働く気になれない輩がいたら、相当なへそ曲がりだ。
こんなところが、ここが『天国』とか『良い職場』あつかいされる理由かも知れない。それでいて、経理などの要の部分は、レレイとか、テュカとか、ロゥリィとか、カトー老師がしっかりと掌握しているので、舐められると言うこともない。しかも自衛隊の目も光っている。
かつて釣り銭勘定をごまかすことを試みたとある不真面目な従業員は、暗算という恐るべき技術を有するニホンの兵隊(特地では普通、暗算が出来るような者は、同じ軍隊でももっと良い仕事をしているものだ)に看破されて、大いに冷や汗を掻いたらしい。ちなみにその男は、お金を扱う職場から配置転換された上に、ダークエルフの女性に対する婦女暴行未遂事件を引き起こして解雇された上で、イタリカへと身柄を送検された。
少年と一緒に働いていたホビットの男性が「あ、ぼっちゃん。私が運んでおきますよ」と少年から鱗の箱を受け取って倉庫へと運んでいった。おかげで手の空いた少年は、伊丹の元へとやってきて、先ほどと同じく「どうしたの?」という質問を揶揄するような表情で繰り返した。
「いや、ちょっとな」
「もしかして、夜這いとか?」
なんともまぁ、ませた子である。だがレレイの2才下なら13才。大人の間で育った子供これくらいのことは口にしても変ではないかも知れない。こういう場合、普通の大人なら叱ったりするんだろうか?ほって置くのだろうか?
伊丹の場合は、どこでそんな言葉を覚えたんだろうと思いつつもそれ以外は何とも思わず、ただ「違うよ」と指摘した。その上で「そう言うことは、思っても口にするなよ。変な噂で傷つくのは女性なんだからな」と、しっかりと言い含めるのである。
「言って回ったりなんかしないよ。ただ、聖下の部屋なら裏手だし、レレイ姉さんの部屋なら向こうだから、もしかしてテュカさんにまで手を出そうとしてるのかなぁ、とか思っちゃったんだ」
「おいおい、レレイに手を出したら犯罪だぞ。日本には、児童福祉法とか、青少年育成条例というのがあるんだ。それと、テュカには用があって来たのは確かだが、夜這いとは違う」
ロゥリィのことをあえて言わないのは、年齢的には条件がクリアされているからだ。とは言っても、手を出した訳でもないのに、ロゥリィやレレイには既に手をつけた、と思われるのも心外なので、その点についても充分に抗議しておいた。
すると少年は、わずかに首を傾げた。
「………………………………おじさん、もしかして、三日夜のならわしって言葉を知らない?」
「なんだそれ?」
「…………………………………………………………………駄目だ、こりゃ。もう、し~らなぃっと」
ぷぃと背中を向けて去っていく少年に、お前は、故いかりや長介氏か?と思いつつも、伊丹は彼が呆れている理由には気を留めなかった。どちらかというと、少年に声をかけられたことでテュカの部屋へと赴く決心がいよいよ固まって、そのことばっかりに気を取られていたからである。
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テュカの部屋のドアをノックする。
返事を待つ間、仮設住宅のドアの前で見たくない光景を想像してしまった。
浮かんでくるのは、かつての母の姿だ。
青い顔をして髪を振り乱し、壁にゴツ、ゴツと額を打ち続けているその姿は、まるで幽鬼のように思え、見た瞬間に背筋が凍ったものである。
「生きてるのよ」「そう。生きてるの」「死んだりしてない」「生きてる」「だって、何もなかったもの」「だって殺さなきゃいけないようなこと、何もなかったもの」「そうよ何もなかったのよ」「でも、いないの」「いないのよ」「どこにいるの?」「あの人を探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」「探さなきゃ」
恐い想像を振り払うように頭を振る。
気がつくと寒さなどまったく感じてないはずなのに、全身に鳥肌が立っていた。
しばらく待つと、戸が内側から開いた。
「よお、テュ……」
テュカへ挨拶するつもりが、伊丹を出迎えたのはレレイであった。ランプの灯された室内には、黒ゴスのロゥリィの姿もある。
「入って…」
表情の乏しいレレイの声には、まるで何かを周囲に知られることを恐れるような響きがあって、伊丹も素早く対応した。
すぐに室内に入って、後ろ手で戸を閉じる。
すると、都合3人分の視線が伊丹を迎えた。
一人は、ロゥリィ。緊張で強ばっていた表情が伊丹を見て、わずかに緩む。
一人は、レレイだ。
そして最後の一人が、テュカだった。
木製の寝台に腰掛け、髪を振り乱して何かに怯え、恐れ、憔悴していた表情が、伊丹を見た途端に明るい笑顔に変わる。目を涙で潤ませて、おもむろに立ち上がると伊丹に体当たりするかのように駆け寄ると、全身で掻き抱くようにしてしがみついて来たのである。
伊丹に抱きついて、テュカはロゥリィとレレイの二人に言い放った。
「ほら、見なさい。帰ってきたじゃない」
「……………」
「……………」
ロゥリィの痛ましそうな表情、レレイの情緒を含まない無機的な視線がテュカを経由して再び伊丹へと集まった。
伊丹は、何が起きているのかと困惑して、「なにが、どうなっている?」と説明を求めようとした。だがそれよりも早くテュカが言う。
「二人とも、いくら冗談でも言って良いことと悪いことがあるのよ。いくら二人でも度が過ぎると怒るんだからね。それに…あの嘘つきダークエルフっ!!あとで絶対にとっちめてやるんだからっ!!街から追い出してやるっ!!」
伊丹を抱きしめる力がちょっとばかり増す。どうやらテュカは大いに憤っているようであった。伊丹は、恐る恐る尋ねてみることにした。
「な、なぁ、テュカ。いったい何があったんだ?」
「聞いてよ。二人とも、父さんが死んだなんて言うのよ。もう、笑っちゃうわ」
「父さんが、亡くなった?」
伊丹は追加説明を求めてテュカからロゥリィとレレイに視線を向けた。だがロゥリィは痛ましそうに視線を背けるだけ。レレイもじっと伊丹へと視線を注いで成り行きを見守っているだけだ。
「そうよ。でも二人は悪くないの。悪いのは、あのダークエルフなんだわ」
「ダークエルフって?」
「知らないの?もう街中で有名よ。故郷の集落を助けてくれって、緑の人に助けを求めに来たのよ。でも、自衛隊の人に断られ続けて…わたしたちのも同情したから、とりあえず寝るところくらいは提供したんだけど、とんでもない恩知らず。何が気に入らないのか、いきなり父さんが炎龍に殺された。死んだと認めろ。認めて敵討ちをしろっ、緑の人に助太刀を頼めって言いだして。失礼しちゃうわよ」
「……敵討ち?」
「そう。いくら助太刀が欲しいからって、嘘をついてまでって呆れちゃうでしょ?」
「嘘なのか?」
「だって、父さんが死んだなんて。炎龍に喰い殺されたなんて、馬鹿みたいじゃない。こうして生きてるんだから。そうでしょ?父さん!!」
テュカの紺碧の双眸は伊丹を見て「父さん」と呼びかけていた。
伊丹を見ているようでいて、実は何も見ていてない狂気に満ちた視線と飾っておきたいほどの笑顔。それは伊丹の記憶の奥底に閉じこめた古い記憶を、嫌が応にも揺さぶり起こした。
瞬間、伊丹の胃袋は締め上げられた。
柳田に奢らせて、食べて飲んだもの全てが胃から逆流してきた。
思わず口を抑えるが、押しとどめることは不可能だった。戸を開けてテュカの部屋を出るのが早いか、その場で吐いてしまう。絞るようにして根こそぎ吐いた。吐く物がなくなれば胃液を吐き、それでも嘔気は止まらない。
「いったい、どうしたの?!!」
テュカの悲鳴にも似た声があがった。心配してなのか背後からしがみついて来たが、伊丹はそれを振り払う。絞り上げられる胃が、激痛を訴え、じっとしていることなど出来なかったからだ。
「ちくしょうっ!!なんてこった」
吐瀉物にまみれながら伊丹はのたうち回る。
くそっ、誰だテュカを壊したのはっ!!
背後からレレイの魔法の呪文を紡ぐ喉歌が聞こえる。
途端、伊丹の意識は霞の中に沈み込むように途絶えた。
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伊丹が目が醒めると、仮設住宅の天井が目に入った。
窓の外は既に深夜。だがランプの薄い暖色の明かりが、世界を闇と光の狭間に留めていた。
「ようやくぅ、お目覚めぇ?」
枕元の椅子に腰掛けるロゥリィが、左側の頬だけを微笑みの形に歪めた。ロゥリイの背後にはテュカの寝台があって、小さくテュカが寝息を立てているのが見えた。
伊丹が寝ているのはテュカが父親の物と決めた寝台だ。テュカは、使う者などいないのに定期的にシーツを変え、毛布を干すなどしていたようだ。
「げぇげぇ吐いてる、ヨージをレレイが眠らせたのよぉ。そしたらテュカったらぁ、すっごく取り乱しちゃってぇ…お父さんが死んじゃうってぇ」
ロゥリィの傍らに立っていたレレイの左頬は赤く腫れ唇が切れていた。
「どうしたんだ?」
答えないレレイに代わってロゥリイが「テュカを眠らせるのにちょっとね」と肩を竦めた。
伊丹は仰向けになったまま、大きく息を吐いた。
幸い、先ほどの吐き気は一時的なものだったようで、吐く物もなくなった空っぽの胃袋はわずかにしくしくとした痛みを訴えるだけだ。
「事情を聞かせてくれるな?」
「どう、話したものかしらぁ?」
ロゥリィは、レレイに視線を送りながら足を組み替えた。レレイはそれを受けて、一歩前に出た。
レレイの説明に寄れば、事の発端は、レレイがヤオという名のダークエルフを連れて来て、彼女に宿を貸したことから始まるという。
「ヤオ?」
「わたしぃのことをガキっ言い放った女がいたでしょ?」
ロゥリィと差し向かいで呑んでいた時に、何やら言いがかりをつけてきたあげくに伊丹にサーベルを向けたダークエルフを思い出した。
「ああ、彼奴か」
炎龍に襲われた故郷を救うために、彼女は緑の人を求めてやって来たと言うのである。ところが、自衛隊は彼女の求めを断った。
「その辺の下りは柳田から聞いてる。だけどそいつがいったいなんで、テュカにオヤジさんが亡くなったという話を吹き込むことになるんだ?」
「それは、此の身より話そう…」
いつの間にか、ドアの前にダークエルフの女が立っていた。頭や顔を覆うターバンを解きながら、ヤオは進み出て素顔を晒す。その顔は不敵を越えて最早邪悪に近い印象があった。
ロゥリィはチッと舌打ちしながらハルバートに手を伸ばし、レレイも杖を引き寄せる。二人とも明らかな敵意を示していた。
「挨拶が遅れた。緑の人よ…我が名はヤオ。ダークエルフ、シュワルツの森部族デュッシ氏族。デハンの娘 ヤオ・ハ・デュッシ」
深々と頭を垂れる。
「名乗りなら、前に受けた」
「そうだったな。その節は失礼した。ロゥリィ殿を稚(いとけな)い女児と勘違いしてな。御身を子供をたぶらかす不逞の輩と思い違いした。許されたい」
「で、なんでテュカに余計なことを言った?」
伊丹は横たえていた身体を起こすと、ベットに座ってヤオへとまっすぐに目を向けた。
「余計とは心外。事実を伝えたまでだ」
「では、問い直す。なぜ事実を伝えたんだ?」
「決まっている。悪意があったからだ」
悪意だと?
伊丹の意外そうな表情をヤオは嗤う。
「悪意も悪意、大悪意。それ以外何がある?…御身は、ここにいる三方を特に大切にしていると、ヤナギダ氏より聞いた。この三方を救うためなら、多少の横紙破りでもやるだろうと聞き及んでいる。ならば、それをしないでどうしていられるだろう。
御身の同僚に此の身は、地に頭を着けて頼み込んだ。富も名誉も約束すると告げた。だが誰も彼もが、狭量にも口をそろえて拒絶する。それは出来ないと言うばかり。こうしている今も、此の身の同胞は、塗炭の思いに苦しんでいるというのに。炎龍を倒す力を持つ者が、手を差し伸べてはくれないのだ。だが、そうした者共も、冗談交じりに言ったそうだぞ。『イタミならもしかするかも』とな」
レレイへと視線を向けてみると、「通訳した」と彼女は呟くように頷いた。
「だから、壊したのだ。このハイエルフの心を救うには、父親が炎龍によって殺されたことを、しかと言い含め、その上で敵を討つしかないぞ。さぁ、どうするっ緑の人よ。このままこのハイエルフを見捨てるか?それとも武器を取って立つか?」
伊丹の歯が鳴った。
噛み合って擦れあう音に込められた怒りは、そのままヤオに対する冷たい視線となり突き刺す。
ヤオは、怒りとも泣き顔とも、嗤いともつかない複雑な表情で、大粒の涙を流していた。
一歩、伊丹に向かって前に出る。前に出つつ言う。
「人が、愛する者を殺めたなら、その下手人を追い求めれば復讐を果たすこともできよう。天のもたらした災害なら、どうしょうもないから神を呪うしかない」
ヤオは、視線を一瞬、ロゥリィへと向けた。
「だが、炎龍はどうか?仇は確かに其処にいるのだ。なのに、手も足も出ない。誰も捕らえることができず、罰することもできない。かといって天のもたらした災厄でもない。では…では、この怒りはどこへ向ければよいのか?恨みのやり場はどこへ向ければいい?。愛する者を奪われた憎しみは、誰に向ければいいのか?」
さらにヤオは前に出る。
「復讐とは、愛する者を失った怒りと憎しみをはらし、自分の魂魄を鎮めるために必要な儀式だ。それを経てはじめて残され者の心は癒される。現実に立つことも出来よう。明日を見ることも出来よう…」
伊丹のすぐ前まで来たヤオは、おもむろに膝をついて額を床にこすりつけた。
「お願い。この娘のついででいいから、此の身の同胞を救って。お願いします」
そのかわりに我が身を捧げるとヤオは言った。何をしてくれてもいい。犯そうとも、八つ裂きしてくれようとも何をされても文句を言わないと。
そんな言葉を、ヤオは体の全てを絞るようにして放ったのだった。
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三重県津市に、土曜から火曜まで出張の予定あり。次週の投稿は大幅に遅れる可能性大。読者諸氏には、何卒ご容赦願いたい。