[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 39
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/10/21 20:43
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結局の所、ヤオと柳田の目論見は見事に失敗し、彼女は臍を噛む思いをすることとなった。伊丹が、テュカを受け容れてしまったからだ。
「おとうさん♪」
伊丹は、テュカの悲しい妄想につき合っている。
彼女が自分を父と思うことで、なんとか現実と狂気の崖淵に留まることが出来るならばと、それに応えることにしたのだ。
勿論、それは問題の先送りでしかない。と言うよりは完全な逃避だった。明日撤収命令が出る可能性もある身なのだ。その時に、テュカを連れ帰ることは出来ないのだから、当然彼女はこの地に独り見捨てられることとなる。それはもう、精神的な殺人と言っても過言ではないだろう。
だが、どうしろと言うのか。
俺に何が出来る?何をしろと言う?伊丹は奥歯を噛みしめながらそう、呟いては無理矢理にでも表情筋を笑顔の形に引き寄せていた。
「なんだ、テュカ?」
テュカは鼻歌を歌いながら嬉々として朝食の支度をしていた。二人でテーブルを囲んで食事をし、それを終えると伊丹は仕事と称して『隊』へと戻り、テュカは組合の仕事をしたり、近くの森の手入れをしたりする。
やがて夕方になると、テュカが整える食卓へと伊丹は戻って来る。そんな偽りだが、穏やかな日々が10日ばかり続いた。
「今日はどうするの?」
「自衛隊の仕事さ」
「随分と働き者になったものね」
「この街も大きくなったからな。自衛隊の仕事はちゃんと引き受けていかないと、みんなもやっていけないだろ?」
「………………………そうね」
「それと、明日は帝都へ行くことになった。ちょっと留守にする」
「帝都に?なんで父さんが?」
「通訳とか、案内人とかが必要らしい。第3偵察隊の人達と一緒だから安心だろ?」
テュカの面倒を見ていたくても、伊丹の本来の身分は自衛官である。任務をおろそかにすることは許されなかった。だから、適当な嘘を掻き集めて口にせざる得ない。
「父さんが行くこと無いじゃないの?出来れば家にいて欲しいな」
「そう言うな。家を空ける事なんて、これまでも何度かあったろ?」
テュカは、頷きながらも眉根を寄せた。襲いかかる頭痛に耐えているようだった。
いくらテュカが伊丹と父親を重ね合わせていると言っても、そこはやはり別人なのだ。
些細な仕草や、物腰まで、どうしたって違うのである。
しかも伊丹はテュカの父親、ホドリュー・レイ・マルソーのことを全く知らない。知っていれば、多少の芝居をうつことは出来たろうが、何の情報もない中では、彼女の記憶にある父と伊丹の間には、ズレが生じて来るのだ。
このズレ…現実と夢想の矛盾点を、なんとか吸収して整合性を保つのはテュカの側だった。矛盾することからは目をそらし、考えまいとする。おかしな事からは気を逸らす。見ない。聞かない。わからない。
その時のストレスが、強烈な頭痛となってテュカを襲うのだろう。
起居を共にして、食事を共にして、一緒に時を過ごせば過ごすほどに、そのズレはますます大きくなっていく。ズレの吸収が難しくなればなるほど、テュカには頭痛や各種の身体的な症状が襲いかかった。それも日を追う事に回数が増え、苦痛の度も増してきているように見受けられるのだ。
伊丹は、テュカの美しい顔が苦痛に歪むのを見て唇を噛む。
「俺に、どうしろって言うんだ」
どうすることも出来ない。今のままでも精一杯なのだから。そんな思いを呟きながら、テュカの部屋を出て街を歩き始めると、あたかも待ち構えてたようにヤオが姿を現した。
「なんだ、またお前か?まだいたのか…」
「………………」
その、恨みがましそうな視線に幾ばくかの疚しさを感じるのか、伊丹は目をそらせてしまった。それがなんだか悔しくて、唾棄するかのように鼻を鳴らし、ヤオのことを無視して悠然と通り過ぎてみせる。
美女の涙ながらの願いを受けて、勇敢なる戦士が立ち上がるという話は、伊丹が最も嫌う類の話だった。
何しろ、戦士には生か死しか無いのだから。物語であるからこそ、戦士は勝利を得て、報酬も名誉も、そして恋をも手にするが、現実の多くはその逆の結末へと向かって、戦士は野に骸を晒すことになるだろう。
美女はまた、後払いの矮小な報酬で己の命を捨てるような、愚かなる犠牲者を捜すのだ。では戦士はどうなると言うのか。戦士は死んでも良いのか?
伊丹は、死にたくはなかった。これまで、よい人生を送ってきたとは言えないのかも知れないが、それでも無闇に投げ出したいと思うほどには自分の命は無価値でもないと思っているからだ。
失敗したけれど、結婚だってしたし、なんだか最近女性の知り合いが増えつつあるような気がする昨今だ。なにやら良いことがこれからも有ることを期待できるんじゃないかと思えるのだ。
なのに…。
「いつまでも続かないぞ。もう終わりはすぐ其処まで来ている」と。
ヤオのそれは、まるで呪いの言葉だった。
伊丹は、歩みを止めると背中を向けたまま応えた。
「くそったれっめ!!」
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「よお、伊丹。いつまで家族ごっこやってんだ?」
伊丹が、ワープロに向かって報告書をうちこんでいると、柳田の声が背後から浴びせられた。テュカとの事を揶揄しているのだ。
「あんたの知った事じゃねぇよ」
「ま、お前がそれでいいんなら、こっちも構わねぇんだがな。それより、いよいよ東京から捕虜返還の第一陣がやって来るぞ。首相補佐官も一緒だ。これをきっかけに講和に向けた本格的な協議をも始まるってわけだ」
「拉致被害者の件はどうなった?」
「それは、残りの捕虜返還の交換条件だな。今回の捕虜返還は、ピニャ殿下にきちっと義理を果たしておくと言う意味がある。それと、こちらがいかに捕虜を厚遇していたかを示すことにもなる。そうしておいて、『残りの捕虜の返還は、そちらの態度次第ですよ。場合によっては待遇も悪化するかも』とでも言ってやるわけだ。帝国側も『可及的かつ速やかに』という言葉の意味を悟ることになるだろうぜ」
「そうかねぇ…」
「なんだよ。随分と淡白な反応だなぁ。向こうさんの皇子様をぶん殴った奴とは思えんぞ」
「悪い。俺、今、全然余裕がないんだ」
伊丹はため息をつくと、キーボートから手を離した。
仕事がちっともはかどらないようだ。柳田との雑談程度で、妙な苛立ちを感じるほどに。もともと柳田との会話は不愉快さを伴うことが多いが、このところ、それがより増強していた。
「お前大丈夫か?」
「正直言って駄目だ。最近、頭がごちゃごちゃしている」
伊丹はそう言うと、ノートPCをパタンと閉じて、頭を抱えた。
「簡単な話だろ?ドラゴン退治に行ってこいよ。そうすればお前の悩みなんて一発だ」
「で、部下の大半を死なせるのかよ。そりゃ駄目だ。俺はテュカも大事だが、あの連中も大事なんだ、どっちも引き替えに出来ねぇ。
なぁ、知っているか?桑原曹長は、娘さんが近々結婚するらしいんだ。定年を迎えて孫を抱くのをすっげぇ楽しみにしている。
仁科一曹は若い嫁さんが、商社の総合職だって尻に引かれているって嘆いてるが、その実マゾ気質らしく喜んでいる。
栗林は俺が紹介した連中と、休みの度にデートをしてる。どうもえり好みが激しくてな、好みのタイプが居ないってぶぅぶぅ言ってるぜ。
黒川は相変わらず理念先行型の性格だが、テュカの件があってから割と慎重になった。いいことだ。
富田は語学研修に来ているボーゼス嬢と交際中。禁令を破って夜這いに行ったりしているという噂だ。現場を見つけてとっちめてやらんと…。
倉田は、フォルマル伯爵家のメイド、ペルシアにご執心のようでイタリカに行く任務があると、妙に張り切っている。
勝本は、組合の子供達に懐かれている。
戸津は、ますます財テク技術に磨きをかけている。以前から株だの為替だのに異様に詳しかったが、組合の経済顧問をはじめてからますます、絶好調だ。
東は曹学で、もう時期実部隊配備の教育期間が終わる。いよいよ最終過程でそれが済めば晴れて三等陸曹だ。
笹川は写真を撮りまくってコンクールに応募するんだって張り切ってる。
古田は料理の腕に磨きをかけて、こっちの食材を生かした創作料理を考えてる。
な、面白い連中だろ。こんな連中を任務ならまだしも、俺の勝手で危ない思いをさせるわけには行かないんだよ」
柳田は手近な椅子を引っ張ると、腕を組んでデンと腰を下ろした。
「お前はそう言うがな、ダイヤモンドと、石油だぞ。そこから得られる利益も莫大だし、資源のない我が国にとって、その確保は額面の価値以上の意味がある。要は国益を考えろと言うことだ。ダークエルフの住んでいるところでに、それだけの資源があるんなら、恩を売っておきたいところなんだよ。採掘とかいろいろと後で良いことが多い」
「だったら柳田さん、あんたが行ったらどうだ?」
伊丹はそう言って柳田を突き放した。柳田とて自衛官なのだ。尻で椅子を温めてばかりいず、泥と埃にまみれて、特地の大地を走り回っても良いはずだ。すると柳田は悪びれずに肩を竦めた。
「残念だが、俺は部下がいなくてねぇ。伊丹、部下を貸してくれよ」
「嫌だね。あんた一人で行きなって」
「俺一人で?無茶言うなって」
「柳田さん。人間、自分の自由に出来る命は自分のものだけだ。石油も、ダイヤモンドも命を張るだけの価値があると思うなら、まず自分の身をチップ代わりにオッズテーブルに載せろよ。今なら賞金は、人の頭サイズのダイヤと、ダークエルフの美女つきだぜ」
「一人で行って、どうにか出来る相手なら、どうにかするけどよぉ。ドラゴンっては、どうにか出来るのかねぇ?」
「まぁ、LANは効いたんだから、結局は当たりさえすれどうにかな…る……」
伊丹はそこまで口にして目を細めた。
戦車だって、だだっ広い平野で、真正面から戦えと言われたら勝てる筈がない。が、遮蔽物の多い隆起に富んだ地形や、木や林の隠蔽が効いた場所に引き込めるのなら、単独でも何とかなるかも知れないだろう。
もし、相手が戦闘ヘリだとしても…。
結局は戦い方次第なのだ。では空飛ぶ戦車とされたドラゴンならどうか。飛び回れない狭隘な地形…洞窟とかが良い。そのような地形の中に誘い込めれば、正面から110mm個人携帯対戦車弾を浴びせかけることも出来るかも知れない。
「ま、相手は生き物だからな。餌に毒を仕込んだり、寝込みを襲ったりって方法もあるだろうけど…」
「………………………それも良いかもな」
何を考え込んでいるのか、妙に反応の悪くなった伊丹を柳田は訝しく思いつつも、話を切り上げるべく腰を上げた。
「伊丹よ。いずれにせよ、出かける時は言ってくれ。ちゃんとした形にしてやるからよ」
「……………………………ああ、その時は頼む」
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その夜、伊丹がテュカを連れだして食堂に行った。皆で酒盛りをするためだ。
ハイ・エルフだから人付き合いが悪くて、お高く止まっている、と見られ勝ちだったテュカをどうにか、街のみんなとうち解けさせようとする配慮だが、同時に伊丹自身が、この瞬間だけは父親役から解放される。伊丹としては少しばかり考え事に時間を取りたかったのである。
テュカの周りは、街の人々や第3偵察隊の連中が囲んでいる。
テュカのことは、黒川が隣に座ってフォローしている。
黒川の話によるとテュカには両刀の気配があるそうだ。「もしかしたら自分に気があるのかも…」という少しばかり困ったような顔をしていた。そこまであからさまなものではないだろうが、いわゆる思慕の念に近いものかもしれない。
そんなこともあって黒川が傍にいると、テュカは「父さん、傍にいてよ」とは言わないので、伊丹は別のテーブルに座って、レレイやロゥリィなどを相手に杯を傾ける。
「自分より年上のぉ、子持ちになった気分はどうぉかしらぁ?」
ロゥリィは言われ、伊丹は苦笑する。
「複雑だね。とっても複雑だ」
破綻点が近いぞとか、もう止めておけ…といった類のことは、ロゥリィもレレイも判っていて、口にしない。
伊丹はテュカと共に断崖絶壁に向かって全力疾走をしている。だが、これを止めることもまたテュカの破滅なのだ。だから、これを途中で止めるかどうかを決めることが出来るのは伊丹だけなのである。
二人とも、伊丹が決断するその時まで、自分には見守っていることしか出来ないのだということを充分に理解していた。ならばその事を、今、ここでつついて皆を嫌な気分にさせる必要はない。今は楽しむべき時なのだから。
「はい。お待ちどうさまなのですぅ」
よたよたと手元の頼りない猫娘が、追加の料理や酒を運んで来た。どうやら新入りの娘らしい。
「デリラはどうした?」
「先輩は、郷里から手紙が届いたとかで休憩中なのですぅ。はいぃ」
「そうか?」
ロゥリィは、伊丹の正面に座ってグラスを差し上げると伊丹と乾杯する。レレイは伊丹の右脇に座って日本から送られてきたソフトドリンクのグラスを掲げていた。
二人とも、明るい雰囲気だった。
こういう気配りの出来る女性は、恋人にしろ友達にするにしても、非常に希有な存在なのでとても得難いと言えるだろう。大抵の女は、自分の感情を優先させるから、分かり切ったことを、場所も弁えずに主張して、周囲に嫌な気分をばらまくのだ。
その意味ではロゥリィも、レレイも実によい女だった。是が非でも大切にしたい。
そんなことを感じながら、伊丹は、自分に出来ること、為すべき事。その問題について、ゆっくりと考えるのであった。
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伊丹の母親が病んだのは、彼が中学生の頃であった。
きっかけは、暴力に狂った父親を止めようとしてた母親が、つい台所の包丁に手を伸ばしてしまったことにある。
正当防衛。どうしょうもなかった。自業自得。
母親の心を鎮めるために、警察官、弁護士、検察官、そして婦人相談施設の相談員など多く人が多くの言葉を費やした。だが彼の母は、自らを恨むことを止めなかった。
自らを責め苛む心。
そして、仕方なかったという言い訳。
この葛藤とせめぎ合いに加えて夫を失った悲しみ。愛する夫を奪った『何か』への怒り、憎しみ。残された自分と子供の将来への不安。これらの全てを、自身へと集中させてしまったのだ。
母親が、自らの心を救うために選んだ道が、現実を否定することだった。それしかなかったのだ。今となれば、わかる。そうすることで、伊丹の母はかろうじて、生きることが出来ていたのだ。
だが当時の伊丹には、そんなことは理解できなかった。
正しいとか、正しくないとか、そんな物差しは一義的な物であり、この世に生きる人々の救いには到底成り得ないものだ。だが、若い伊丹にはそれがわからなかったのだ。
毎朝、毎夕食卓に並ぶ父親の分の食事。それを見て苛立ち、怒りそして…。
「オヤジは、あんたが殺しただろう!!」
言うべきではなかった。
逆行ものの小説みたいに、あの時に戻れたらと何度思ったことか。戻れることを夢見ていた。戻れることを願い、請い、祈った。あの時に戻れたら、きっと、違うやり方が出来た。出来たはず、出来ただろう。そう思うのだ。しかし、現実は戻らなかった。それが現実というものだからだ。
母のように狂えたらどれ程良いだろう。だが、それもできなかった。
こうして伊丹は、母が時間をかけてゆっくりと、そして確実に壊れていく姿を、日々見て過ごすこととなった。蛙を熱湯の入った鍋に入れると、その熱さに驚いてすぐに飛び出してくるが、水からゆっくり茹で上げれば、煮上がるまで鍋の中に居るという。それと同じで、ゆっくりとゆっくりと進行する狂気は、やがて破綻点が訪れることを思わせても、それはまだ先のことのように感じさせたのだ。こうして月日が流れ、伊丹が見ている目の前で、不意に破綻点が訪れた。母親がついに自らに火を放つに至ったのである。
こうして、母親は入院することとなった。自ら傷つけ、他人を害する恐れあり。それが理由である。
その入院は、措置入院と呼ばれる形態で、知事の命令によるものだ。従って本人や親族の意思は問われない。費用も、よっぽど裕福でない限り公費で賄われる。
「ここにはいたくない、退院したい」と縋るように叫ぶ母に、高校生の伊丹がしてやれることなど何もなかった。一緒にいて、壊れた母の世界につきあい続けてやることなど、重すぎて出来ない。だから命令という言葉は、都合の良い免罪符となった。
「命令なんだから、しょうがないじゃないか。そういう法律なんだからしょうがないだろ」
思い返しても、鉄の重たい扉が金属音を立てて閉まる音は、今でも耳について離れない。
そう、そこは通常の病院ではない。
病棟には廊下に座り込んで、雑談に勤しむ病棟の患者達の姿がある。
身体の病ではないが故に、皆肉体的にはそれなりに元気があってそうした者は普段着を着て、何をすることもなく病棟で時が流れるのを待っている。朝食をとった直後に昼飯のことを話し、昼食後だと言うのに、夕飯を待つ。
そうして気がつくと10年、下手すると20年。いや、場合によっては30年入院していたと言う現実が追いついて来る。
彼ら、彼女らの時間は入院した20才、30才の時で止まっている。そこでは年齢相応の人生経験を積むチャンスなども無い。病の苦しみを日々耐えるのだけで精一杯だったのだから仕方ないと言えよう。
当時の精神科病棟というのは、大きな和室があって、まるで旅館の大部屋のようなところに皆で布団を並べて眠るという、病室と呼ぶにはいささか違和感のある風景だ。だが、それが当たり前だったのである。今でこそ、近代的に『普通の病院』の『普通の病室』のごとく、一人一つのベットが割り当てられているが、この日本がそのようになりだしたのも平成に入ってからだ。
廊下を歩けば、ヤンキー座りしたおっさんやおばさん達が給食用トマトホールの空き缶を取り囲んでそれを灰皿代わりにして、煙草を吸っている。
これらは病状の落ち着いている人だ。その隙間に、病状の激しい人を見かけることになる。
例えば、そこにいる筈のない誰かと話しているご婦人。居丈高に威張り声を張り上げ、公衆電話で、何かを怒鳴りつけている青年。強い薬のせいで朦朧となって弛緩した表情で、ぺたぺたというスリッパを引きずる足音をたてながらひたすら廊下を徘徊する若い女性。身体に盗聴器が仕掛けられていると言って、看護室に調べてくれと訴え続ける男性。素っ裸で駆け抜けていく少女。おむつをつけられて抑制…ベットに縛られて、喉を裂けんばかりに叫び続けている男。
病棟の空気は、煙草だけではない、何かすえたような独特の異臭で充ち満ちていた。トイレのドアは自殺を防ぎ、早期発見するために極端なまでに背丈が低く、下は隙間が大きくて、背伸びをしても、しゃがんでもその向こう側が覗けそうなほど。
そんな世界に、伊丹は母親を置いてきた。置いて来るしかなかったのだ。
黒川に懐いて、時に腕につかまったりして、周りの自衛官やら、売店の娘達にからかわれたり、談笑しているテュカからは、そんな狂気の片鱗すら感じない。が、このまま放置しておけば母のようになる。なってしまうかも知れないのだ。いや、確実になる。
そして残念なことに、現代の精神医学は患者を治すことなど出来ないのである。
今の精神医学に出来ることは、治る者と治らない者を選別して、治らない者の病状を、とりあえず軽くする。そのくらいである。治らない者はどうしたって治すことは出来ない。薬で症状を抑え、自然に治癒をするのを待つ、それだけなのだ。
伊丹は十数年の歳月で、そのことを身に染みて理解した。だから、テュカを救うとすれば、今しかないと感じていた。
あの日、あの時、自分は何も出来なかった。
当時の自分はガキだったからだ。
では、今の自分はどうだ。
今の、自分には何も出来ないのか?
父を殺したというドラゴンを、テュカが討てば、そのカタルシスが彼女を狂気から開放するかも知れない。父の死を受け容れ、同時にその敵を討ったことで自らを憎むことを止めるかも知れない。
だが、それは分の悪い賭だ。明らかに悪すぎる。
少なくとも、他人の命をオッズテーブルに載せることは出来ない。
伊丹が自由に出来るチップは一枚、自分の物だけだった。それをテュカのチップとか重ねて、グリーンのテーブルに載せる。
だが
「本当にそれしか、無いのか?」
それしかないとして、自分に出来るのか。ドラゴンに向かっていくことなど…。正直に言って恐ろしかった。
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もう深夜に近い時間帯だが、伊丹はアルヌスの診療施設の玄関前にあるベンチに座って休んでいた。
夜風に当たりたかったのもある。
「どうしたものかなぁ」と頭を抱えていた。
そして4~5分も座っていると、カチャ、カチャという軽快な金属音が近づいてきて、薄闇の中で黒い人影が伊丹の前に立った。
「若いの、そこを退くが良い」
人影は、老人であった。いや、実際はもっと若いのかも知れない。だが額や頬を始めとした顔に刻み込まれた皺の数々は、老成した男の年輪を感じさせた。その老人は、歩くたびに金属音をさせている。歩き方から見ると左足が義足なのだろう。言葉はこの『特地』のものだから日本人ではない。
老人の威厳がそうさせたのか、伊丹は気軽に腰を上げると座る場所を譲った。
何しろベンチは他にもある。この場所に座りたいと言う者を、意地悪して頑張る意味など無い。
「ほう。なかなか殊勝じゃの。ここは儂が毎晩使っておる場所だ。以後は、気をつけよ」
老人は、まだ義足になれないのか、よたよたとする感じで腰を下ろした。
「さて、若いの。いったい何を迷って、このようなところで黄昏れておる?」
「爺さんには関係がない」
「そうか。ま、喋りたくないなら、それでもいいじゃろ」
男は、深々とため息をつくと、左腕の義手の具合を気になるのか、がちゃがちゃといじっていた。
「どうにも、この細工が理解できぬ。お主らの世界に住む者は、手足を無くすと皆このような物をつけて生活しておるのか?」
話しかけてくる男性がどうにも煩わしかったが、邪険にもできなくて「ええ。全員が全員とは言えませんが、ほんどが…」と答えた。
「医者はこんな物をつけて、走れるようにもなる等と言っておったが、実に疑わしい」
「走るための足を取り付けますと、この僕より速く走る者もいますよ」
男は、本当かと訝しがった。そこで伊丹はパラリンピックという障害者の競技会があり、そこでは五体満足な者でも、容易に越えることの出来ないような記録が次々とうち立てられているのだと説明した。
「そうかそうか。なんだお主、興に乗れば結構喋れるではないか。その調子で、なんでこんなところで黄昏れていたのか、喋ってしまえ」
「はぁ?」
「大の男が、何を躊躇っておる。情けないのぅ」
伊丹は、忌々しく思いつつも、不思議と話すことにしていた。考えを整理するためにも誰かに聞いて欲しかったというのもあったようだ。
伊丹が用があったの、この診療施設にいる精神医学ソーシャルワーカーだった。
そのソーシャルワーカーは、あまり男っぽさのない、どちらかという中性的な感じで、年齢も見た目ではわかりにくいタイプであった。見た目は髪を短く切りそろえて、丸いメガネをかけている。白衣を着ているからこそ医療関係者であることがわかるが、医者のような権威的な雰囲気はないし、どちらかというと学生と見間違えかねない弱々しいと言うか、軟らかな雰囲気があった
「これは伊丹二尉。どうしました、こんな時間に?」
「実は先生に相談したいことがありまして…」
その精神医学ソーシャルワーカーの男は、紀子のためにやって来た被害者支援の専門家であった。
伊丹は、性的犯罪被害者の支援に男性が来たと聞いて、意外に思った。
実際に、女性がつけられるべきだという意見もある。被害者にとって男性は恐怖の象徴となっているからだ。だが、同時に支援者は男性の方が良いという意見もあるのだ。そうしなければ男性に対する不信感や、不安感が固まってしまって、男性恐怖症患者を作ることになってしまう。ここで配慮に欠けたが為に、夫や、恋人、婚約者と上手く行かなくなってしまう例は枚挙の暇がないほどだ。
だから、男の方が良い時もあるのだ。確かに最初のハードルは高い。が、恐い男も、恐くない男性もいると認識するためには大切なことなのだ。ただ今回に関しては、その意味では楽であったと言う。何故なら、紀子には伊丹が居たからだ。
伊丹は、紀子にとって自らを救い出してくれた恐くない男性の代表だ。その象徴を引き継ぐという意味で、精神医学ソーシャルワーカーの男は、紀子との初顔合わせで、伊丹に紹介されるという形式を求めたのである。その時に面識が出来た。
ちなみにこのソーシャルワーカーは、一般陸曹候補学生を経て三等陸曹になりながらも退職してしまい、大学に入ったという変わり者だ。予備自衛官でもあったので『門』のこちら側に立ち入りを許可された次第である。
伊丹はソーシャルワーカーの前に座ると、おもむろに切り出した。
自分の父親を殺された娘は、父親の仇を取ることで救われるだろうか、と。
ソーシャルワーカーは、肩を竦めるとケースバイケースなので何とも言えないと答えた。
「だって、人によりますから」
ただ、人間が仇を追い求める心は、最早本能に近いとソーシャルワーカーは言った。
仇を捕まえ、処罰する。被害者や被害者家族のカタルシスは、現代では警察が犯人を捕らえ、裁判所によって断罪され、そして刑務所に送られる、という過程の中でなされる。
勿論、犯罪被害者を許すべきだという高邁な考え方を否定するわけではないが、それは被害者の側にそれを支えるような信仰心や哲学があってはじめて成立するものであり、この場合は『許し』が、被害者やその遺族に対するカタルシスをもたらすことになる。
「復讐は虚しいとかよく言うぜ」
「そうですね。虚しいものなのかも知れません。でも、その虚しさを味わうことで、ようやく次へ進んでいけるんですよ。自分は詰まらないことに捕らわれていたな。そう思えたら、それはそれでいいんです。それが区切りになるからです。人のこころには、区切りというものが必要になるんですよ」
伊丹は、そんな言葉を受けて考え込んでいたのである。テュカを救うためにドラゴンを倒しに行くべきか否や、と。
気がつくと、老人に対して伊丹はテュカのことも含めて喋っていた。
「儂も同じように思うぞ。復讐を果たせば、少なくとも気が晴れる。仇が大手を振ってうろうろしていると知れば、儂ならはらわたが煮えくりかえって、飯も喉を通らぬわ」
「でもね、仇が強いんですよ」
「なんだ、怖じ気づいておるのか?」
「ええ。だってドラゴンですから…こっちの言葉では炎龍でしたね」
「なんだと。炎龍が出ているのか?」
老人は眉を寄せた。伊丹は改めて気付いた。老人の左目には眼帯がつけられていることに。さらに見れば、老人の身体はあちこち傷だらけだ。その頬にも大きな傷が付いている。
「ただ、場所が場所なので、大規模な戦力を送ることは出来ず。少数では部下の過半を失うのが必定」
「そうだな。強大な敵との戦では、持ちうる戦力の全てを投入するのが定石じゃ。ちまちまとした小戦力を送り込んだり、あるいは味方に敵の本質を教えず、突撃を命じたりするような馬鹿は、あいつらだけで充分じゃ」
何やら、ものすごく気持ちの籠もった言葉であった。
「いっそのこと、テュカをつれて俺たちだけで行こうかと思ったりしたんですけどね。無理に決まってるし」
「おお、なるほど。それならば無関係な他人を巻き込む恐れはないものな。ただそれは自殺に近いのう」
「そうなんですよ。だから迷ってるんです」
「なぁ、若いの。自殺としか思えないような事でも、しなければならない時というのはあるものじゃぞ。自殺にならないように知恵を絞るのだよ。工夫をするのだ」
老人はそう言うと立ち上がった。
義足の立てる金属音とともに、肩を揺する、一見ふらふらとした独特の歩き方で前に出る。
「男なら、危険を顧みず前に進まなければならぬ時がある。負けると判っていても戦わねばならぬ時がある。(元ネタ/劇場版銀河鉄道999)そうは思わぬか?」
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翌朝、チヌークの中に伊丹と第3偵察隊の面々はいた。
いつものように柳田が帝都に届ける荷物を運び込む。伊丹は、部下達が席に着くのを確認してから、自分も座った。
パイロットが、柳田と何か話し合っている。
ヘリポートの外には、テュカが見送りに来ていた。レレイがいた。ロゥリィがいた。
テュカの泣きそうな表情でこちらを見ていることに伊丹は居心地の悪い苛立ちを感じた。だがこれが当たり前なのだ。自分は任務に従って、部下を指揮して、しばらく帝都に滞在して、外務省の担当者を護衛し、そして戻って来る。それまでのほんのちょっとの時間を留守にするだけだ。
ちょっと留守にするだけなのだ。
打ち合わせを終えた柳田が降りる。
「では、行きます」
パイロットがそう告げた時、伊丹は「くそっ!」と舌打ちして隣の桑原に告げた。
「おやっさん、済みません。俺、行けません」
だが離陸のためにローターの回転数が高くなって騒音で声が耳に入らない。
「なんて言いました?」
「俺、おります。後を頼みます!!」
伊丹は指揮を放棄して、後部ハッチが閉じる寸前にヘリを駆け下りていた。
ヘリは飛び立っていく。第3偵察隊の部下達は伊丹が見送る中を、飛び立っていった。
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どうにか出張を終えて戻ってまいりました。
つかれたです。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 40
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/10/21 20:48
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「どうしたの?」
ヘリが飛び去るのを見送った伊丹は、泣き笑いの表情で立ちつくすテュカの問いに「帝都に行くのは止めたよ」と答えた。
手袋をとって、重苦しい鉄帽(ヘルメット)も外した。
すると、なんだか自分を縛り付けていた枷を取り払ったような開放感があって晴れ晴れとした気持ちであった。多分、いろいろと後で悔いることになるだろう。でも、鬱々とどうしようかと悩み続けているよりは、決めてしまった今の方が、遙かに良いと思った。
「いいの?」
どうやらテュカは、自分の我が儘が父親を困らせてしまったのではないかと心配しているようだった。だが、独りぼっちにされずに済んだ喜びが先に立ったのか、ゆっくりと伊丹に歩み寄ってその胸に身を投げる。
「お前が、笑顔で居られるほうが大事だからな。俺が一緒にいてやるから、お前も頑張れ」
すっかり開き直った上に、気分の高揚している伊丹は、普段なら気恥ずかしくて絶対に言えないようなセリフを平気で口にしていた。
「な、何よ、それ!?じ、実の娘を口説いてるの!?」
動揺を抑えきれないのか、抗議するテュカの声はどこかうわずっていた。
伊丹は「そんな風に聞こえたか?」と苦笑で返す。
実際、そんなつもりは毛頭無い。これからのテュカを待ち受ける運命の過酷さを思いやっての励ましのつもりだったからだ。問題は、そんな朴念仁な男の言葉が、女の胸にどんな風に響くか、だろう。お前が笑っていられるようにずっと一緒に居てやる…と憎からず思っている男性に言われて、それを口説き文句と思わない女性は、どれだけいるかなのだ。
テュカは、額をコツンと伊丹の胸に当てると「ぱかっ」と詰った。
残念ながら完全武装をしていたために、彼女の温もりとか柔らかさを伊丹は堪能することはできなかった。チタンプレートの入ったボディアーマーはテュカの身体を硬く受け止めてしまい、その感触を伝えてくれないのだ。
出来ることと言えば、懐中の子猫を愛でるようにその髪を撫でるくらいだ。
細く軟らかく、流れるような髪を指で梳(くしけず)る。そしてテュカの形の良い頭蓋に掌を這わす。テュカの笹穂のような耳に指が触れてしまって、テュカがぴくっと身体を震えさせたりするのも、悪くない感触だ。敏感なタイプらしい。
伊丹は、小さく息を吐いて呼吸を整えると、旅の支度をしなさいと告げた。
「一緒に行こう」
少しばかり父親を気取ってみた。
三十と数年の人生に置いても、『女性を旅行に誘う』などと言う、数えようにも思い出すことすら難しい行為だ。断られるかも知れない、嫌な顔をされるかも知れないという恐れと不安を、冗談めかして誤魔化すのと同じ類の方便である。
そのために父親っぽい口調だが……それがテュカのツボにはまったようだった。彼女は「何処に行くの?」と喜び勇んだ反応を示した。
その表情は、驚きと喜びで彩られていた。伊丹には知るよしもなかったが、無理に父親を気取るような口調こそ、テュカの父であるホドリューとそっくりなものだったからだ。父親としては威厳に欠ける男が無理に背伸びして父親を演じる。そんな時の微妙な声色こそが、テュカが父親として愛した男のものであった。
無邪気に喜ぶテュカの笑顔に、伊丹の良心は激しく痛むがそれを押し殺して微笑みの形に頬の筋肉を引き締める。
「南の方だ。嫌か?」
「ううん、行く行く!お父さんとだったら何処だって!一緒に、旅が出来るなんてっ凄く嬉しいっ!!今すぐ出るの?」
「今から支度しよう。それが済んだら出かけるぞ」
「それじゃあ、急がなきゃね。お昼過ぎには出たいもの」
テュカはそう言うと、伊丹の手を名残惜しいかのように掴んだまま身体を離した。少しずつ後ずさりして、もう指先を触れているだけで精一杯なところまで下がると、踵(きびす)を返して走り出す。
「すぐ支度してくるからねっ」
テュカは軽く振り返ってそう言うと、自分の部屋へと向かったのだった。
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「伊丹。お前馬鹿か?いや、前から馬鹿とは思っていたが、ここまでとは思わなかった」
傍らで見ていた柳田は、テュカが去ると開口一番でそう言った。
「任務放棄の上に、単身でのドラゴン退治?無茶が過ぎるだろう。こっちの身にもなれよ。どうやって、お前だけを派遣する状況を作れば良いんだ?」
「柳田さん、それを聞かれても困る。そいつはあんたの役割っていう約束だったろ?」
「とは言ってもなあ」柳田は、頭をカリカリと掻いた。「部外的には根回しを済ませてあるから、馘になったりはしないと思うが、こんなやり方だと内部的にはもう駄目だわ。前の事件も保留のままだから、良くて停職、へたすりゃ降格の上で、配転ってところだな」
「覚悟はしたつもりだけど、改めて他人から言われるとずしっと来るなぁ」
伊丹は、顔を顰めると腹部をさすった。
流石に胃に来ているようだった。これだけ問題を重なれば『特地』での任務から解かれ、北端の過酷な駐屯地とか、離島とかに回されるとは思っている。当然テュカにも遭えなくなってしまうが、そんなこともまた覚悟の上だ。
「悪いこと言わん。今からでも、3recの連中を追いかけて、とりあえず任務を果たして来いよ。それが終わってから、隊を率いてドラゴン退治に行くんだ。そう言う形にすれば、部内的にも言い訳が効くんだよ」
「柳田さん、もう言わないでくれよ。私事に、連中を巻き込む訳にはいかないし、もう時間的猶予もないみたいだしな。するべき事を先送りしたがための後悔なら、嫌と言うほどしたんだよ。だから、今は動く」
「それにしたってなぁ、やることが過激すぎだぜ。お荷物を引き連れて勝てる思ってるのか?」
「なんとかするさ。悪いね」
伊丹は、柳田に向けて両手を合わせた。続けてアルヌスの丘の頂上にいる狭間陸将に向けて拝むように「ご迷惑をかけて申し訳有りません」と柏手を打つ。
「ったく、なんだかなぁ。それだけの価値があの金髪エルフにあるのか?いい女なんてそこらにいっくらでもいるだろうに。お前くらいに名声があって、すげぇコネを持ってて、その上に石油だの、ダイヤモンドだのが埋まってる土地の原住民に恩を売りつけることに成功すれば、業界が美味しい思いをさせてくれるんだぞ。いい女なんて掃いて捨てるほど寄って来るぜ」
確かに、それは美味しいかもしれなかった。
伊丹とて健全な男である。自分好みの女性ばかり集めた酒池肉林の風景が、脳裏によぎった。だが、思い浮かぶ光景はいささかギャグテイストに過ぎるセミヌードなお嬢さん達に囲まれているというものだった。
ぶるぶると首を振って想像した画像を一旦抹消する。自分は、諸星○たるでもなければ、○島でもないのだから。ここは冷静に現実的にならなければならない。そう、将来を考えるに当たっては、リアリティが大切なのだ。そこで無理矢理、現実的な将来像を想像してみたりした。
だが、次いで思い浮かんだのは伊丹の好みからは大きく外れたゴージャスな容姿のホステスさんとか、煌びやかな女性達に囲まれて窮屈な思いをしている図とか、自衛官を退職してタレントみたいにコメンテーターとしてテレビ番組に出演させられていたりとか、誰が書いたんだかわかんない「二重橋の英雄」といったタイトルの本のサイン会に出席したり、保守系の政党から選挙に引っ張り出されたりといったものだった。
実に貧困な想像力である。
だが、柳田の囁く美味しい思いなんて、伊丹にはその程度のものとしか思えなかったのだ。何か作ったり創造したりするという能力に欠けている以上、そんな形で自分を消費する将来しか考えられないのだ。そんなものがテュカを見捨てて得られる未来なら、あまりにも酷すぎると言えるだろう。
それだったら今まで通りの自衛官生活を続けて、テュカやロゥリィやレレイ、ピニャとボーゼスを引き連れて冬コ○に突撃した時のような、大騒ぎで疲れるけれど、楽しい日が時々ある方が良いように思える。
「やっぱ無理だわ」
柳田は、伊丹のそんな言葉にたいして肩を竦めて応じた。それが、馬鹿は救えないねという意味なのか、それとも言ってることがわからんという意味なのかは、伊丹にもわからない。だが、柳田が、伊丹のしようとすることを納得はしなくても、それなりに受け容れてくれたということは理解できた。
「と言うことで、柳田さん。つじつま合わせは頼むわ。それに、車両と武器と爆薬の用意も頼むぜ。予備の燃料と飯も必要だな…」
柳田は天を仰いで頭を抱えると「ちょっと待て、ちょっと待て」と慌ててポケットからメモ帳を取り出し、伊丹が口にした物品をリストアップしていった。
「武器は何を?それと食糧だがどれくらい必要だ?」
「LAN(110mm個人携帯対戦車弾)を最低10。食糧は、俺とテュカの二人だから二人分で頼む」
「おい、ヤオは連れて行かないのか?」
「ヤオ?誰だそれ?」
「今回の元凶だよ。ダークエルフの女」
「ああ、あれか?どうでもいいよ。柳田さん、それを言うならあんただって元凶その2だろう」
「うへっ、とんだやぶ蛇だったぜ。俺は俺の職分で頑張るから、それ以上言うなよ……わかった、食糧は2人分だな?」
柳田はそう言うと、伊丹の背後にチラと視線を向けた。
「ああ、2人分」
「本当に2人分でいいのか?」
「なに?」
「…………………」
柳田は答えなかった。ただ、伊丹に対して、気の毒そうな、お悔やみを申し上げますと、言いたそうな表情をする。その途端に、伊丹の両足は強烈な力で払いあげられた。
いきなり視界に空が広がり、気がつくと地面に背中からたきつけられる。
その衝撃に咳き込みながらも見上げた視界には、伊丹の身体を跨ぐようにして立つロゥリィのフリルのちりばめられた黒ゴススカートと、パニエに包まれてその中へと消えていくすらりとした脚であった。
黒のブーツとそれに続く黒い網タイツ。それを吊り支える黒のガーターが薄闇の向こうに見えたりした。さらなる向こう側で見える黒い何かについては、直ちに視野から除外して、冷たく見下ろすロゥリィに視線を合わせる。
「ちょっとばかりぃ、水くさいんじゃないぃ?」
ハルバートの石突きが、伊丹の耳傍を掠めて大地に突き刺さった。
ロゥリィの傍らにはレレイもいて、大地に横たわる伊丹を見下している。
「だって、いや、ほら、巻き込むわけにはいかないかなぁって思って」
ロゥリィは伊丹の腹部に、ズンっとお尻を降ろすと、その胸板を小さな拳で叩いた。とは言っても、埃を払う程度の衝撃だ。
「それが水くさいのよぉ。いい加減、巻き込んで良いって思ったらどぉ?」
「いいのか?」
「寂しいこと言わないでょぉ」
ロゥリィはまた伊丹の胸板を叩いた。
「でも、危ないぞ。無事に帰ってこれるか判らないんだぞ」
「すっごくぅ楽しそぉ。ゾクゾクしちゃうわぁ」
その時の、ロゥリィの微笑みの双眸には、妖しい狂気にも似た挑戦的な輝きが満ちていた。今にも伊丹に噛みつきそうな感じである。
「でもさ、ほら、まぁなんだ…」
「お馬鹿さぁんねぇ。女を危険な火遊びに誘いたいなら、見栄を張らずに素直に言ってみることよぉ。女はその一言を待っているものなのだからぁ」
「でも、ドラゴン退治だぜ。一緒に死んでくれって誘うようなもんだろ?」
「いやぁよ。心中なんてもってのほかぁ。まだ40年近くこの肉の身体を使えるんだからぁ、たっぷり楽しんでから解脱したいわぁ」
「じゃぁ、駄目じゃん」
「もしかして、最初から負けるつもりなのぉ?自殺なのぉ?」
伊丹は首を振った。自殺に等しい危険性の中でも、わずかでも生き残れる可能性があれば、それに賭けるつもりはある。
「じゃぁ、心中ではないわよねぇ………」
「……………」
「…………………」
「……………………」
「……………………さっさと言えってのぉ。おい」
ゴスッとロゥリィの拳が伊丹の腹部に突き刺さる。硬質のボディアーマーも、その強烈な衝撃だけは素直に伝えて来た。
「うっ………わかった、わかった。言うから、待て待てって」
マウントポジションから放たれる、二発目をかわそうとして伊丹はロゥリィにしがみついた。それは、丁度ロゥリィのささやかな胸に顔部をつっこむ形となる。
「ロゥリィ、一緒に来てくれるか?」
剣呑な気配がさっと退いて、輝くような笑みを見せた。ロゥリィもこんな透き通るような笑顔が出来るのだなぁと、伊丹はしみじみと思う。
「高いわよぉ」
「借りておく。返せるかどうかわからんが…」
「大丈夫ぅ。ちゃんと、取り立てるからぁ。死後にぃ、魂をいただくだけよぉ。眷属になってもらうわぁ」
「お前は悪魔かよっ!!」
ロゥリィは伊丹のつっこみを可憐なまでに無視すると、伊丹から腰を上げた。
地面に突き立てておいたハルバートを引っこ抜くと、柳田に向けて指を三本立てて「3人分ねぇ」と告げる。そして自分の部屋に向けて走り出した。支度に行くのだろう。
振り向かずに行ってしまったロゥリィの背中を見送っていると、今度は「4人分…」と柳田に注文するレレイの声が聞こえた。
「おいおい、レレイも行くのか?」
レレイの情緒に欠けた視線は、「何、自明のことを尋ねているのか」と小馬鹿にするような冷たさがあった。「夜が明けたら陽が昇るのか?」とか「物を落としたら地面に落ちるのか?」と真顔で尋ねたりしたら、きっとこんな視線を向けられるだろう。
こんなことも説明しなければならないのか?とばかりに、レレイは手短に説明をする。
「生還率をあげるには魔法が必要。同行の許可を…」
レレイの、物問いたげな色彩をもつ視線。
無表情という相貌の向こう側に、伊丹はレレイの様々な感情の揺らめきを初めて感じた。そしてそれは、レレイの怒りが心頭に発していると主張していた。
「れ、レレイさん?も、もしかして怒ってらっしゃる?」
「………………………………………………」
こうして、伊丹は「4人分頼む」と柳田に告げた。
ロゥリィに譲ったばかりで、レレイの申し出をはね除ける理由もないし、滅多に怒らない少女の怒りがとてつもなく恐ろしかったからだ。
伊丹が思いつくような「若いから」とか「組合に必要な人材」といった類の言い訳をしたとしても、レレイにかかれば赤ん坊の手を捻るがごとくに論破されてしまっただろうし、怒りの炎に油を注ぐようなことになるような気もしたのだ。
伊丹の対応に満足したのか、レレイもまたこの場から立ち去る。彼女にもまた支度があるのだろう。
今度は伊丹の前に、ヤオが姿を現した。
無言のまま前に出ると、地に座り込む伊丹に向けて片膝をついて、胸にクロスさせた両の掌をあてて、深く頭を垂れる。
「なんなりと仰せ付け下さい。此の身は只今より永久に御身の物。御身の、いかなる仰せにも従います。今この場で命を絶てとおっしゃるなら、ただちに…」
伊丹は、神妙に忠誠を誓うヤオを見て深いため息をついた。本気で、自死しかねない迫力があったからだ。
「とりあえず、ここで死なれても後始末に困る。それなら道案内をしてくれ。ドラゴン退治でも役に立ってくれ」
「かしこまりました。囮でもなんでも仰せつけ下さい」
ヤオの言葉の端々には、自罰的な気配が見受けられた。
自嘲とか、自罰というのは、他者から罵られたり罰されることへの心的な防衛としてなされることが多い。ヤオも自らの罪と、それに対する伊丹の怒りを感じているのだろう。
そんなヤオを、伊丹は罰するようなことはしなかった。あからさまに憎しみを向けることもしない。ただ、淡々と彼女の役割を指図するだけである。
罰されることを求めている者を罰することは、逆に楽にしてやることを意味する。ヤオに良心というものがあるなら、その呵責を受け続けることが罰となるだろう……などと考えたわけでもない。
ただ、腹を立てたりするのは、面倒なばかりで詰まらないと思っただけだ。愛情の反対にあるのは怒りや憎しみではなく、無関心であるように、彼女に対して心が全く動かないのだ。
もう少し、ヤオの境遇とか思いを、伊丹が知っていれば別の感情が湧いたかも知れない。だが、伊丹にとってヤオと言う名のダークエルフは、いきなりサーベルを突きつけて来たり、テュカに対する精神的な狼藉を働いたという、悪い印象しかないのだ。
そんな伊丹の、距離を感じさせる冷淡さは慚愧と呵責に凝り固まったヤオにとって心地よいものであったのが皮肉である。「しょうがなかったんだよな」、などと優しくされたらかえって地獄だったろう。
自分はそうされるだけの罪を犯したのだから、手頃な道具のように使い潰されて、そのまま打ち捨てられるのがふさわしいと思っている。それが不幸慣れした此の身らしい末路だろう。でも、適うなら罰が欲しかった。苦痛と罵倒を与えて欲しかった。侮辱と陵辱を欲っしていた。
ヤオは自分の深奥にある何かが嗜虐に飢え求めていて、それを快楽と感じるのかも知れないと気付いて、背筋を振るわせていた。
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「結局、5人分だな…」
一連のやりとりを見ていた柳田は砂を吐くようにして言い放った。
「なぁ、伊丹。この際だからはっきり言わせて貰うと、俺はお前が嫌いだ」
何を言い出すかと思えば、柳田の口からこぼれたのはそんな罵倒であった。ボールペンとメモ帳を胸ポケットに仕舞いながら、伊丹の傍らで傅いているヤオにちょっと視線を向ける。
「俺は、防衛大を出て、それなりに優秀な成績をあげて自衛隊に入った。エリートコースに乗っていると言ってもいい。だが、楽をしてここまで来た訳じゃない。軍事、法律、様々な勉強を暇さえあれば続けてるし、同僚や上司とのつきあいだって慎重にこなしてきた。下げたくもない頭を下げて、言いたくもないおべっかをあっちこっちに言って回り、本省の背広組との顔つなぎも丁寧にやって、政界や財界の連中がつけてくる無理難題な注文もなんとか納めてきた。俺はな、組織の苛烈な競争で生き残るべく、努力してきたんだよ。苦労してきたんだよ。頑張ってきたんだよ。だからな、正直言ってお前みたいな奴は嫌いなんだ。はっきり言って、見下している。片手間な仕事をして、趣味を優先した息抜きの合間の人生?嗤わせてくれるぜ」
柳田の罵倒は言葉だけ追えば、エリートの増長慢にも聞こえる。が、どこか調子はずれで必死な気配があったために伊丹は聞き入ってしまった。
「お前は何だよ。やる気は無ぇ上に偶然の幸運で、ちゃっかり昇進して来て今や俺と同じ階級だとぅ?それじゃぁ、俺のこれまでの苦労は何なんだよ。確かに、自衛隊ってのは戦闘組織だからな。実戦となれば、その功績を報いるのも当然だろう。だがな、お前みたいな勝手なことをやってる奴がのさばって、俺のような裏方が苦労してるのってなんだか狡くねぇか?だからよ、苦労しろよ。もっと酷い目に遭えよ。危ない思いしてくれよ。部下の家族に、息子さんは悲運にも特地でお亡くなりになりましたって手紙を書く立場になってみろって言うんだよっ!そうしてやっと俺の努力と釣り合うてもんだ。違うか?えっ?
なのに、何なんだよ!!私事だから部下を巻き込みたくないっ?
国益の為になるだろう?体裁は整えるって言ったじゃないか!?
俺たち自衛官が引き連れていけるのは上が附けてくれる部下だけなんだよ!!階級と編成で与えられた部下が全て。それが当たり前なんだよっ!
みんな、その部下を得るために、命令できる立場になるために努力するんだろ?!違うのかよ?!
隊を離れたら、俺たち個人は何んにも出来ないんだよ。出来ちゃおかしいんだよっ!!
なのに、どうしてお前には、ついてきてくれる奴が居るの!?
なのに、どうしてお前だけに、自分からついてくって言う奴が出て来るんだよ!?
くそっ、腹が立って来る。胸くそ悪いっ」
柳田はそう言うと地面を蹴って背中を向けた。
肩で息をしている柳田の背中を、伊丹はしばらく見ていることとなった。
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「なによ、この女も連れていくの?」
ヤオの存在を見て愁眉を寄せたテュカに、伊丹は「この女性も、いろいろとあったみたいだけど、もう諦めて故郷に帰ることにしたんだと。帰り道だって言うし、途中まで送っていくことになったんだ」と言う説明をした。
レレイもロゥリィも、この嘘については何も言わなかった。ヤオも、伊丹の嘘に合わせたように、しばらくお世話になりますと頭を下げた。
テュカは、二人きりだと思っていた旅の同行者が増えてしまったことについては、思うところがあるようだ。だが、ロゥリィもレレイも、もう仲の良い友人であるから、彼女たちとの旅も父との二人旅とは違う楽しみが期待できるとして、すぐに機嫌を直した。
旅装を整えたテュカ、レレイ、ロゥリィの周囲には、アルヌスの街の人達が見送りに集まっていた。
レレイは、カトー老師に後のことを頼み、子供達に向けて帳簿や経理について困ったことがあれば、カトー老師とよく相談するようにと申し送っていた。
ロゥリィは、信者達や飲み仲間達に挨拶を交わし、ヤオは世話になった自衛官や警務隊の隊員が遠巻きにしているのを見つけて、目線で挨拶をしている。
そうこうしていると、クラクションが聞こえて人垣が割れて道を開く。そして柳田の乗った高機動車がゆっくりと伊丹達の前で止まった。
「よお、伊丹。さっきは恥ずかしいところを見せたな。よかったら忘れてくれ」
「何のことだ?記憶にないぞ」
「それならいいんだ」
柳田はそう言うと、エンジンを止めて運転席を降りる。入れ替わるようにしてレレイが後部から乗り込み、ロゥリィ…そしてヤオが恐る恐るという感じで乗り込む。助手席はテュカが座った。
「頼まれたものは、積みこんで置いた。それと、子供達からということでいくつか餞別も載せて置いたから後でチェックしてくれ」
伊丹が運転席に座る。
「みんな、いいかな?」
伊丹は乗り込んだ女性達に声をかける。
「さぁ、行こ!」
「準備は既に完了している」
「いつでもいいわぁ」
「ほ、本懐です」
伊丹はアクセルを踏む。
こうして、一行を乗せた高機動車は、あっけなくアルヌスを出発したのだった。
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アルヌスの丘のにある診療施設。
その病室からは眼下にアルヌスの街が見える。老人はベットの腰掛けて、街から出ていく車両を見送っていた。
「若者が行ったか…」
潰れて光を失った片目を黒い眼帯で覆い、左腕と左足に義肢を装着。服装を整えると、ナースコールのボタンを押した。
「デュランさん、どうしましたか?」
スピーカーを通じて聞こえる看護師の声かけに、老人は肩を竦めた。
「済まないが、一番地位のある人を呼んでくれぬか?」
「どうしたんですか?」
「いや、以前から誤魔化しておった儂のことなのじゃが、話そうと思ってな」
「どういった心境の変化ですか?いくら尋ねても、『儂はただの農夫じゃよ』としか答えて頂けなかったのに」
「なに、若者がなけなしの勇気を示そうとしているのに、儂がこんなところでぬくぬくとしているわけにもいくまいと思ってな」
「判りました。すぐに先生を呼びますね」
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アルヌス生活者協同組合、従業員宿舎。
ドワーフの大工が突貫工事で作り上げた長屋は、自衛隊が拵えた仮設住宅にも負けない住み心地を誇っていた。
そのなかの一室に、食堂の主任給仕のデリラの部屋がある。
石畳の床に、木造のベット。そこに通常は藁を積むべき所に、なんと綿の入った寝具が置かれていて彼女を驚かせた。
さらに、据え付けの家具として小さなテーブルとタンスが置かれて、小さな台所まである。窓には、カラフルな彩りのカーテンがかかっている。信じられないことであるが、この空間と備品の全てが、デリラ独りに与えられたものだった。
思わず涙ぐんでしまったほどだ。
こんな好待遇は、自分のような雇われのポーパルバニーでは考えられないのである。
亜人に対する待遇が最もよいと評判のフォルマル伯爵家ですら、ハウスメイドは大部屋が普通で、古参格になってようやく二人部屋が与えられる。
ところが、今や自分は個室の主だった。
アルヌスの街は住民や出入りする人間が増えた。これによって手狭になった食堂は席数を増やしたのだが、当然の事ながらデリラやドーラ達だけでは人手が足らない。
その為に、給仕を増やすこととなったのである。そして新人の給仕を監督したり教育する役職として、デリラには主任という肩書きがついて、これに伴って彼女の給料が増えて、居室としては個室が与えられたと言うわけである。
デリラは、はしゃいだ。
無意味に、窓を開けたり締めたり、カーテンを擦ってみたり、まだ埃も浮かんでないと言うのに拭き掃除してみたり、同僚や後輩を部屋に招いて「先輩、すごぃですぅ」と羨ましがらせて悦に入ったりした。
また気兼の必要な同居人がいないのをよいことに、裸でくつろいだり、へたくそな唄を歌ったりしてみた。その開放感と心地よさは例えようがない。
さらには、故郷の友達に手紙を書いて自慢したぐらいである。返事の手紙を送る余裕がないことを見越して、返信用の費用を添えて。
手紙の最後にはこう付け加えていた。フォルマル伯爵家に赴いて自分からのこの手紙を見せ、推薦を貰ってこのアルヌスに来るように、と。
デリラは、自分も行くと言ってくるであろう友達の返事が待ち遠しかった。
朝、遅めに起きて支度をして、店に出て昼から店を開く。そして、一生懸命に働いて、客達と楽しくお喋りをして、そして夜遅くに店を閉めて、部屋に戻ってゆっくりと眠る。
食べ物を心配をしなくても良い。
寝る場所の心配をしなくても良い。
休暇をどう過ごそうかな、と悩むことの出来る贅沢。
それは夢のような毎日だった。
だが、昨夜届いた手紙の文面は、デリラが期待していたものとは異なっていた。
「なんで、こんな内容の指示書が、イタリカから?」
それは、フォルマル伯爵家からの秘密指示書であった。
だがその内容は、今のデリラには到底受け容れがたいものだった。もし、この指示をそのままに実行したら、この街で自分はもう働けなくなってしまう。それどころか、この街で働く全ての亜人達が立場を失いかねない内容である。それはもう、決して許されないことだった。
「どうして!」
どうして、このような内容の指示をフォルマル伯爵家が出して来るのか。今の自衛隊とフォルマル伯爵家の関係に置いては、絶対にあり得ないはずだ。しかもフォルマル伯爵家は、日本との講和を推し進めているピニャの後見監督下にあったから、二重の意味であり得ないのだ。
だが、指示には従わなければならない。
それが、フォルマル伯爵家の密偵としてのデリラの使命である。だが、デリラは手紙を前にして、身動きを取ることが出来なかったのである。
窓の外を高機動車のエンジン音が響く。
「あ、イタミの丹那」
窓を開いたデリラの前を、伊丹達の乗る車が走り去っていくところだった。
+++++++++++
次回は、本編の予定ですが、湯煙温泉編が先に仕上がる可能性もあります。