[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 45
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/11/25 19:14
・
・
・
45
・
・
・
・
「うっ」
暗転した視野に光を取り戻した伊丹は、額を抑えながら頭を振った。
動かないはずの大地が、ぐるぐると動いているように感じられて、自分が倒れているのかさかさまになっているのかさえ、わからなかったのだ。セルマの身体を受け止めたダメージとLAMのバックブラストを喰らいかけた衝撃で、三半規管に狂いが生じたらしい。
汗をたっぷりかいたところに浴びた埃や、LAMのロケット噴煙で全身砂だらけの埃だらけ。口の中にも侵入したそれらに、唾がざらざらとして実に不快だった。
乾いた口中の水分を掻き集めるようにして、数回唾を吐く。そして、顔に帰ってきた唾の感触にようやく自分が仰向けに倒れていることを自覚した。
どれほどの時間を失ったのだろうが。一瞬か、数秒か、数分か。
世界の回転が静まるのを待って、周囲を見渡してみる。
すると、セルマの顔が腕枕の距離にあって伊丹をじっと見つめていた。その近さと微動だにしない眼差しに思わず驚いてしまう。何事かと思って、視線を彼女の美しい顔から、喉、そして曲線美豊かな胸へと降ろして行くと全てが理解できた。
屍体となっていたのだ。
炎龍は、牙を立て噛み砕いたからと言って必ずしもそれを喰い、飲み下すとわけではないらしい。楚々とした魅力を持った彼女が、わずかな間にこうなってしまったことに伊丹は不思議を感じる。もうこの娘は動かないのだ。動けない。ものも言えない思えない、ただの骸(むくろ)だ。
伊丹はそっと手を伸ばすと、セルマの顔を撫でるようにして瞼をおろした。
まだ軟らかく、温もりすらあった。整った顔には傷1つ無かった。だから、瞼をおろしてしまえば眠っているようにも見える。だが、胸のあたりから非現実的なまでに破壊された肉体を見ることで、彼女はもう目覚めることがないと言うことを、どうしても理解できてしまうのだ。
突然、爆音が轟く。破片が熱波が伊丹に激しく降り注いだ。
ボディアーマーを着てなければ、どうなっていたか。剥き出しの腕や脚からは切り傷なんだか、打ち身なんだか火傷なんだかよくわからない苦痛を激しく感じる。その苦痛が、炎龍との戦いが始まったばかりであり、まだまだ続いているのだと言うことを、訓練教官に尻を蹴飛ばされた時ほどに、実感させられた。
人は首だけになっても脳細胞が死に至るしばらくの間、意識があるという。もしそうならばセルマは死の瞬間に至るまで、世界が暗くなっていくわずかな末期の風景として、伊丹を選んだのだ。もし、そうだとしたら、どんな思いで伊丹を見つめていたのか……。
「行ってくるぜ」
伊丹は、セルマの頭をひと撫でして別れを告げると、身体に力を入れた。
身体を俯せにかえして匍匐前進を始める。始めてから『てっぱち(ヘルメット)』がないことに気づく。くたびれたチンストラップを使っていたので、フックが甘く爆風で吹っ飛んでしまったようだ。首がもげずに済んだと喜ぶべきか、それとも失敗したと悔しがるべきか……。
飛来して来る破片や、爆風、炎龍の炎の熱などから頭を抱えるようにして庇いながら、周囲を見渡し、手探りしながら、発破器とリールを探す。
程なくして、砂と埃が降り積もり半分埋まりかけていた発破器を見つけた。
伊丹は、それに手を伸ばしたが、持ち上げた際に感じるはずの手応えがないことに舌打ちした。
発破母線が中途で切れていたのだ。LAMが炸裂した際の衝撃か、破片によるためか。
「くそっ!!」
折角の苦労も水の泡だ。
仕掛けた爆薬が使えないとなれば、LAMに賭けるしかない。が、ダークエルフ達は統制もなく闇雲に進んでは倒れていった。見れば、どうにか動けているのはクロウにフェンにヤオだけだ。しかも3人とも満身創痍。血まみれ怪我まみれ、しかも火傷なのかLAMの噴射炎を浴びてのカーボンなのか判らないが、身体の各所を炭化したみたいに、黒くさせていた。
ヤオが、バンの遺体の下からLAMを引っ張り出すと炎龍に向かって突っかかっていく。
ヤオは伊丹が教えたことを忠実に行った。プロープを引き出し、安全レバーをFへと合わせた。命中すれば間違いなく炎龍の鱗を引きはがすだろう。だが、狂乱状態の炎龍は、身を火口の壁にぶつけることも厭わず、跳ねるようにしてこれを避ける。その巨体が地にぶつかり、壁にぶつかるたびに岩棚は大きく揺れて、火口の壁が派手に崩れた。雪崩のように、火山灰や軽石や岩盤が降ってくる。
そんな中、フェンが炎龍の炎を浴びながらも、そのまま特攻をかけて炎龍にダメージを与えた。
伊丹は「馬鹿野郎っ!」と身を起こす。
わずかな間に、ダークエルフ達が死んでしまった。セルマが死に、今フェンが死んだ。この一瞬を躊躇ったら次は、レレイや、テュカ、ヤオ、クロウだ。そう思っただけで伊丹の身体は動いた。壮絶な覚悟とか、決意とか、そんな精神的なきっかけはない。考えもしない。頭の中は空っぽだ。ただ反射的に訓練の結果身に付いた動作として、走り出したのである。
発破器を拾い、リールを拾い、ニッパをもって。
炎龍の足下を駆け抜けて。発破母線を埋めた場所を手探りで掘り返していく。
剣をぶつけ合うばかりが戦いではない。銃砲火器を撃ち合うばかりが戦いではない。穴を掘り、伝令に走り、爆薬を仕掛ける。それぞれがそれぞれの部署で、課された役割を誠実に果たすこと。それが全て戦いなのだ。伊丹は、炎龍を吹っ飛ばす最後の切り札を確保すること。それを自らの役割と見なしていた。
ちぎれた断端を見つけだして、被覆をニッパで剥いて、断端を繋いでいく。
口で言えば簡単な作業だが、頭上では炎龍が暴れ、火を吐き、LAMの爆風が吹き荒れる。
炎龍の悲鳴にも似た泣き声が響く。いよいよ逃げ腰となった炎龍が、翼を拡げて岩棚を離れようとした。
伊丹は、頭上から降り注ぐ土砂に何度も咳き込みながら、リールを抱え上げて、繋ぎ終えた発破線を伸ばしていく。そこへ、誰かの甲高い調子はずれの嘲笑が響いた。
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっ」
誰かと思って振り返ってみれば、レレイ。
ポンチョにも似たロープをひるがえしながら、緑の瞳を輝かせて立っている。
その小さな体躯から伸びた腕の向かう先、掲げあげる手の向かう先、その突き立てられた指の向かう先、それは上空。天空を覆うように、まるで吊り下げられたように無数の剣が浮いていた。
「死ね、くそったれのトカゲ野郎」
レレイのものとも思えない罵倒をきっかけに、土砂降りのように降り注ぐ剣。
さしもの伊丹も、これに巻き込まれては堪らないと走った。ヤオも、クロウもその凄まじさに、慌てふためいていた。
「くっくっくっ」
どうやら、レレイは我を忘れると人格ががらっと変わるのかも知れない。白い無表情のレレイに感情の色がついた。それは禍々しいほどに狂怒の色を湛えていた。
「わぁ、まてまてまてまてっ!!」
頭を抱えて、身を投げるようにして伏せる。ヤオやクロウも伊丹を真似て頭を抱えて伏せたために3人で額を寄せ合うかのようになった。
歯を食いしばって着弾を待つ。だが、予想された衝撃は訪れなかった。
宙を舞う剣は、ただ重力に引かれて降り注ぐのではなく、勢いそのままに炎龍目がけて突き進んでいたのだ。的確に誘導され、導かれた剣は、全方位から逃げようとする炎龍へとまとわりついて、弾ける。
爆発の勢いによって撃ち出された多くの剣が砕け、多くの剣が切っ先を失って跳ね返った。もちろん、その中には強靱な鱗を突き破る剣もあった。が、全体としてみれば、極僅か。確率的には10本に1つか20本に1つ。それだけ多くの商人が、剣に命を託した戦士達を裏切っていたということだ。
だが、レレイが浴びせかけた剣は非常に多い。
母数が多ければその中の稀少の剣の割合も増えていく。真に名匠の打った剣、真に名工の研いだ剣が炎龍の身体に突き刺ささった。しかも、レレイは逃げ去ろうとした炎龍の翼を集中的に狙った。
翼をずたずたに引き裂きさかれた炎龍は、その巨体を支える浮力を失う。
炎龍が、ついに墜ちた。
・
・
・
・
その巨体が岩棚に叩きつけられる衝撃は凄まじいものとなった。
岩棚が大きく揺れて、岩盤に亀裂が走ったほどだ。そして炎龍もまた、落下の衝撃によるダメージに身もだえていた。大空に舞うための翼を失い、身体の各所に穿たれた穴からは、出血が続いている。そして何本もの剣が、槍が、刀が刺さり、立ち上がる気力も失ったようかのように見える。
その証拠に、唸り声にも力が無い。
「やったぜっ!!」
クロウとヤオは、炎龍の水に墜ちた犬のような姿に勇躍すると、それぞれに剣を、サーベルを抜いて走り出した。だが、飛べなくなったとしても、炎龍は戦車並みの防御と攻撃力を持つと見ている伊丹には、まだまだ危険きわまりない存在に見えた。
「馬鹿、止めろっ!」
どうにかヤオの後ろ髪を捕まえることに成功したが、クロウを立ち止まらせることは出来なかった。しかも、目の前で精根尽き果てようにレレイが膝を着いて倒れていく。ヤオを捕まえ、レレイを支える。伊丹に出来ることはこれで精一杯だった。
クロウは剣を抜くと、脇目もふらずに渾身の力を込めて炎龍に叩きつける。
その跳ね返すような甲高い音には、どうしょうもないほどの堅牢さを感じさせられたが、剣を叩きつけることに成功したクロウは、直接の手応えが嬉しかったのか我を忘れて連打した。
「この野郎っ、この野郎っ!」
調子に乗って、繰り返し繰り返し剣を叩きつけ、それで適わないと思って剣先を突き立てる。あまりの鱗の頑強さに、業を煮やしたのか次は鱗の隙間に剣を差し込んで引き剥がしにかかった。
虫の息となっていても、やはり炎龍は炎龍であった。
身を捩らすように首を起こしたと思うと、まとわりつく蠅でも払うかのように炎を放ち、クロウの身を焼いたのである。
「うわぁつ!!」
「クロゥ!!!」とヤオが手を伸ばす。だが伊丹は、ヤオの腕を捕まえて決して離さなかった。
「駄目だ、ヤオ。駄目だ!!」
「クロウ!!イタミ殿、離してくれっ!!」
「止めろ、お前まで巻き込まれるぞっ!」
ヤオの叫びももどかしく、火だるまとなったクロウはしばらく転げ回っていたが、やがて動きを止める。
炎龍の隻眼には殺気が、まだまだ満ちていた。わずかに火を放ちながら、伊丹達を威嚇する。その目には死の瞬間まで屈しない、古代龍としての意志の光があった。
「何故だ、何故止める!!」
「馬鹿野郎。いい加減に、頭を冷やせっ」
伊丹は、激昂しているヤオを離すまいと、ひっぱった。今にも火を吐き出しそうな炎龍から離れて洞窟へと退却しようと、彼女の腕を懸命に引っ張っていた。
・
・
・
・
「あ、ああっ、ああ」
レレイに指を銜えて見ていろと言われたテュカは、目前で繰り広げられた戦いを呆然と見下ろしていた。
ダークエルフの男が、炎で焼かれ七転八倒している。
そんな仲間を助けようとヤオが手を伸ばす。だが、伊丹は彼女の手を離さない。そればかりか懸命に引っぱって炎龍から距離をとろうとしている。頭に血が上っているヤオは伊丹の制止に従わず、炎龍に向おうと伊丹を振り払おうとさえした。
そんなヤオの姿が、自分に重なる。
馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
向こうの炎龍がわずかに身を捩らせて伊丹に牙を剥いた。伊丹は炎龍に背を向け、レレイを抱きかかえ、ヤオの腕を牽いて、逃げようとしてた。
炎龍の顎が大きくひらいて、その鋭い歯列が剥き出しとなる。その中心に、伊丹の姿。
それが、炎龍に背を向けた父のものと重なった。
「父さんが、死んじゃう」
この瞬間、テュカの頭の中はそれだけで一杯になった。
奥歯を噛みしめ、テュカは一歩を前へと出した。
手には剣はなく弓もない。ならば、わずかに使える精霊魔法以外に武器はない。テュカは徒手単身で前に出た。
森の精霊種たるエルフは風木の精霊魔法の相性がよい。ましてハイエルフならば、発動に僅か2節。
「teruymmun! hapuriy!」
それは雷撃の召還であった。
いけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!
碧眼から流れる涙をまき散らしながら、渾身の雷撃をテュカは召還した。
雷撃などで、炎龍がしとめられるとは思っていない。できるなら、父が、あるいは数多の精霊使いが炎龍をしとめただろうから。
だが、それでも良かった。炎龍の気を一瞬でも逸らす。僅かな時、数舜、数刹那。寸毫の時を稼ぐことが出来れば、テュカが父と見なした男は、死の顎から逃れうるかも、しれないのだから。
青白い閃光が瞬き、大地の表面が軽く跳ねた。
その衝撃に、伊丹はレレイを抱えたまま、ヤオを引きずったまま倒れ込む。テュカは両手を拡げて伊丹に抱きついた。勢いそのままに伊丹はレレイ、テュカ、ヤオごと、洞窟へと転がり込んだのである。今度は、テュカは独りではなかった。皆を抱いたまま、皆と共に洞窟へと飛び込めた。
炎龍の体表面を電撃は走る。通常ならそのまま地へと流れていく電流の迸りは、各所に突き立てられた剣にまとわりついて体内に深く侵入した。
電流は『流れやすい所』を流れるという法則に下がって、炎龍の肉体を突き抜けた。そして、伊丹が配置した発破母線に触れ駆け抜ける。それは地中に埋められた75㎏の粘土爆薬に突き立てられた無数の電気雷管へと至った。
炎龍の心臓が、大きく鼓動する。
瞬間。炎龍の爆発的な断末魔の悲鳴が轟く。それは巨大な鉄の塊を引き裂くような音だった。それに続いて火山の噴火を思わせる大爆発が続く。それは洞穴内で共鳴し、大地を振るわせた。その衝撃は、地面に伏せる伊丹の耳を貫き、テュカの耳を貫いた。誰も彼もがその魂魄をうち砕くほどの衝撃に貫かれた。
炎龍の巨体は、強烈な破壊力によって引き裂かれた。
傷つけられた心臓壁から吹き出した血液は空気に触れた途端、炎のように燃えた。
炎龍の心臓が鼓動するたびに、その心臓から血炎が溢れた。赤い血潮の代わりに、辺りには炎が溢れた。飛び散った血炎のしぶきは、炎龍の身体を内部から焼き浸食し、包み込み始めた。
堅牢な鱗は見事なまでにたたき割られ、しかも体内も焼かれていく。こうなれば最早助かる術はない。その巨体を打ち震えさせ、身体の各所に穿たれた傷跡から、紅蓮の炎をまき散らし、苦しそうに悶えながら炎龍は崩落する岩棚と共に、地の底の闇へと堕ちていった。
そして、その瞬間から大地が崩壊を始めた。
支えを失ったかのように洞窟の天井が崩れ出す。洞窟の床にもひびが走り、亀裂が広がり、大きな地割れが口開いていった。あたかも、4人を奈落へと引きずり込もうとするかのように。
「逃げるぞっ!!」
伊丹はヤオの頬を叩き、動けない人形のようなレレイを担ぎ上げ、テュカを励ます。
テュカも身体をしたたかに打ち付けていてそれなりに、身体が悲鳴を上げていたが、今は痛いとか疲れたとか言っている暇もない。「走れ、走れ、走れ」という伊丹の声に急き立てられるように走った。
天井、柱、大地、あらゆるものが、少しずつ崩れはじめた。
終わりのない地震。それは、激しさを増していくだけだった。このままでは大地の全てが壊れ崩れるようにも思えたほどだ。
洞窟の内部。神殿のようだった階段。伊丹達が走り抜けていく端から、地面が消え失せていく。落ちた瓦礫は、地の底に広がる暗黒の空間へと飲み込まれていく。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
足の下が崩れ落ちて転落の恐怖に喉から声を振り絞るテュカ。
「テュカっ!!!!!」
伊丹の右手が、テュカの左手を捕らえた。伊丹が必死の形相でテュカをつかみ上げ、地上に結びつけている。
「しっかりしろっ!!」
テュカを引き上げようといする伊丹。その伊丹の背後からヤオの手も伸びてきて、テュカの手を更に支える。二つの手がテュカの手をしっかりと掴んだ。
足下では大地に無数のひび割れが走っていく。
それまで堅牢な硬質を維持していた地面が、砂のように頼りなくなってしまった。柱が崩れ始める。岩の天井を支えていた柱が、ことこどくが折れて、朽ちていく。
ここも危ない。どこも危ない。安全な所などどこにもない。
伊丹は、テュカの手を握り込んだまま、その崩落する洞窟を駆け抜けていく。
懸命に走る一歩一歩の踵、そのわずかな後ろから地面が崩れ落ていく。その崩落の速度は、4人を追い立て深淵へと引きずり込もうと、激しく追い立てた。
落盤の恐怖と全力疾走の疲労は、テュカの体力を容赦なくそぎ取っていった。
彼女の流れるような金髪は、砂を浴びて、煙に汚れた。汗にまみれた肌は、砂礫を浴びて泥のようになっている。
早鐘のような鼓動は、胸が張り裂けそうなどで、一呼吸一呼吸が熱く、痛く、辛い。
天井にから大きな岩が降ってくる。大崩壊の名にふさわしく、あらゆるものが堕ちていく。だけど、生きている。まだ、生きている。
自分は生きている。
伊丹も生きている。
レレイも生きている。
ヤオも生きている。
テュカは、伊丹の手を握り返してその感触の確かなことを味わった。
死なせずに済んだ。亡き父の敵を討った。
いつの間にか地面を蹴る足に、力がとどき始める。引きずられてるから動かしていた脚に意志の力が蘇っていた。
・
・
・
・
* *
・
・
・
・
崩れゆく洞窟から命からがらどうにか逃れ、外の空気に触れた伊丹達は最早動くことも出来ずに、崩れるようにして地面に横たわった。
肩で息をして、咳き込んですら居る。
吸い込む空気が、熱く胸が焼けるように痛い。手足はもう鉛のように重く、我が身ながら恨めしく鬱陶しいほどだ。
洞窟はその崩落が出口近くにまで達して埋まってしまい、周囲には砂埃が立ち上がっている。
空は、西側ではまだ星が瞬いていたが、東側では幻想的なまでに紅く染まりだしている。
「はぁ、はあ、はあ……みんな、無事か?」
問う言葉も、簡潔にして要点のみ。テュカは「生きてる」とだけ、ヤオは「なんとか」、レレイは「損傷はたいしたことがない……」と答えて来た。「遅いぃよぉ」という弱々しい声はロゥリィだ。
どうにか全員の無事を、とは言っても誰も彼も傷だらけでこれを無事と言ってよいかどうかはわからないが、とりあえず生きていることだけは確認した伊丹は、安堵のため息をつく。
「……………」
しばしの時の果てに、はたと気づく。
「ロゥリィ!」
顔を上げた伊丹の目に入ったのは、ボロくずのような有様になり果てて転がる、黒フリルの塊りだった。
手足が引きちぎれそうになり、無数の傷を受けて転がっていた。
無事なところを探す事の方が難しいぐらいだ。傷からは沸騰した湯のような蒸気があがり、瞬く間に回復していくのだが、傍目にはそんなことでは到底追いつかないと思えるほどの出血と、怪我だ。生きているのが不思議なくらいである。
「どうしたんだ。いったい、何があった?!」
伊丹は、全身の疲労もよそにロゥリィに近づくと彼女の身体を抱き上げた。
力無く落ちる腕に、思わず慌てる。彼女の左腕は、どうにか皮一枚で繋がっていただけだった。あわてて、伊丹はロゥリィの腕を元のように付けあわせようとした。非理性的な、振る舞いだが、この時ばかりはそれが正解。傷口同志がくっつこうとし始める。
「お姉さまったら、ヒト種なんかに心配されて。随分と腕が鈍ったんではなくて?」
背後から投げかけられる声に、振り返る伊丹。
見上げた山の中腹に、二頭の新生龍を従えた白ゴス神官服をまとった女性が立っていた。
--参考--
75㎏の粘土爆薬の爆発に絶対に巻き込まれるだろうと言うつっこみはどうぞご容赦をお願いします。
一応、以下を参考にしてください。
筆者が、昔某所にて勉強に使ったノートを、本棚から漁ってきて開いてみる。
土色に汚れたページを捲ると、『野戦築城第2部』の資料をつたない字で書き写してあった。
付表第5 通常爆弾(GP)の効果
その1 建物・壕に対する作用及び破片・爆風による危険界
○木造建物に対する作用
50㎏級/倒壊 10m以内 半壊 20m 安全 40m
100㎏級/倒壊 15m以内 半壊 30m 安全 60m
○破片による危険界(立ち姿)
50㎏級/即死25m 死傷25~90m 安全90m以上
100㎏級/即死30m 死傷30~100m 安全100m以上
(1.安全界においても軽症を受けることがある)
(2.伏姿の場合には、各被害に応ずる距離を30~80%減少できる)
○爆風による危険界(立ち姿)
50㎏級/即死6m以内 死傷 6~16m 安全 16m以上
100㎏級/即死8m以内 死傷 8~20m 安全 20m以上
○壕に対する作用
50㎏級/崩壊3m以内 半壊3~6m 安全6m以上
100㎏級/崩壊4m以内 半壊4~8m 安全8m以上
(なお、昔のものなので現在では数値は変更されている可能性もある。さらには教範からの書き写し間違えを当時してないと言う保証もない。しかし、爆薬を用いたシーンについて厳密さを求められる諸氏にとっては、参考に成るとは思うのでここに開示しておきます)
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 46
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/12/09 19:38
・
・
・
・
46
・
・
・
・
その女は、白ゴスを纏っていた。
見た目20代前半の肢体。
深縹(ふかきはなだ)色の肌をフリルに充ち満ちた白い衣装で包んでいる。包んでは、いるのだが胸元のあわせが足りず豊かな双丘で構成された谷間から、ピアス輝く臍部までを見事なまでに露出。その、ぬめるような肌を紐できつく編み止めるというデザインとなっていた。袖も肩で切り落として、フリルのスカートも裾がぼろぼろ。深々としたスリットが入ってるも同然で美脚を全く隠せてない。露出されている腹部や、腕、腿、頬などには、トライバルのタトゥーが入っている。もしかすると全身に刺青が施されているのかもしれない。
灰色の髪をたなびかせた彼女は、縦に割れた金色の瞳にどんよりとくすんだ輝きをたたえ、死神が振るうような大鎌をよっこらせと肩に乗せて舌なめずりした。まるで錆びた刀剣のようなやさぐれた雰囲気だ。それゆえに通った後には辺り構わずゾロリとした、凶悪な傷跡をのこして歩く危険な気配を湛えていた。
「お姉さま。主上さんの奥さんになろうってお人が、汚らわしいヒト種なんぞに気安く肌を触れ、触れさせるとは不調法が過ぎまっ、せんか……」
丁寧な言葉遣いに馴れないのか、自ら舌を噛みそこなって「ちくしょうめっ」などという小さな罵倒が漏れ聞こえた。
「煩いっ。あんな女の嫁に、誰がなるもんですかっ!」
ロゥリィは文句を言いながら、震える体をぎこちなく起こした。
両腕の切断面が繋がり、血まみれの手足もどうにか彼女の言うことをきくようだ。だが、やはり力は充分ではないようだ。普段なら軽々と振るうハルバートも、手をかけるのが精一杯で持ち上げることすら難しそうであった。
「主上さんに、見初められて嬉しくないんすか?」
「何度も言っているでしょう。わたしぃの主神はエムロイ。死と断罪と狂気、そして戦いの神よぉ」
「はぁ、マリッジブルーってやつかねぇ。不憫なこって」
ここはやっぱり1つ、無理矢理にでも連れ帰らねばなるまいか、などと剣呑なことを呟いていた。
「何が、マリッジブルーよっ!何が不憫よっ!そっちが勝手に決めて、勝手に言ってるだけじゃないぃ」
「もう、嫌っ」と、ばかりにロィリィは伊丹に子供のように縋った。今にも泣き出しそうだった。
それを見た白ゴス女性は、伊丹に胡乱な視線を向けた。
ロゥリィに対しては、一応の敬意を示そうとして言葉遣いに気をつかう白ゴスだが、伊丹相手となれば、もうあからさまなまでに蔑んだ視線と口調になる。
「そこのヒト種の雄。てめぇ、主上さんの妻女になろうってお人を寝取ろうとか考えてんじゃなねぇだろうな?もし、そうならそのケツに、二つ目の割れ目をこさえてやっぞ」
伊丹からすれば、何で俺?寝取る?滅相もないと訴えたい気分だ。だから首をブンブンと大きく振った。だが、すがりついてくるロゥリィに小さな声で、まだ力が戻ってこないから、時間を稼いで欲しいと囁かれれば否応もない。状況を、この白ゴス女性とロゥリィとの間にどんな確執があるのか見極めるためにも、少しばかり言葉をかわす必要を感じる。
「質問っ、質問っ!!」
伊丹は手を挙げた。すると、白ゴス女性は「なんだよ、めんどくせぇなぁ」と、舌打ちしながらも実は律儀な性格らしく「わかった、わかった、さっさと質問しろよ」と言う態度で耳を貸してくれた。
「まず最初にお尋ねするのは、貴女はどちら様で……おっと失礼、自分は日本国は陸上自衛隊 特地深部情報偵察隊所属 第3偵察隊長 伊丹耀司二等陸尉であります」
白ゴス女性は、その背中に巨大な羽を広げた。そのドラゴンのような翼を大きく広げるとふわっと滑空して、音もなく伊丹達の前に降り立つ。そして、まるで品定めするかのように伊丹のことを右から、左からジロジロとなめ回すように見ていった。その縦割れた瞳と所作に、やっぱり爬虫類系だなぁという感想を伊丹は抱いた。
「ご丁寧に自己紹介あんがとよ。オレはジゼル。見てのとおりの使徒さ。主上ハーディに仕えるてる」
ペコリと頭を下げる姿は、行儀見習い中の居酒屋バイトみたいな雰囲気があった。ロゥリィの囁きによるとこの女性は竜人出身の亜神で現世に存在する、一番若い使徒らしい。
「ハーディ…さまと言いますと、やはり神様で?」
「そだよ。って言うか、んなことも知らねぇのかよ。常識無ぇ奴」
特地についての無知を指摘された伊丹は、「あはは、よく言われます」と、まるで追従するかのよう笑った。そして、現在の雰囲気が途切れないよう「今のやりとりを聞いてて思ったんですが、そのハーディって神様は女性でらっしゃいますよね。それが、女のロゥリィを嫁にしようとしてるってことですか?」と質問を続けた。
「そだよ。何か変か?おかしいかよ?」
「いや、別に。ただ人間的な感覚だと女性が、女性を嫁にするっていうのは、まだ珍しいことでして。外国ではあるって話ですが、卑近にそう言う話がないんで確認だけしておきたくなりまして」
「本人達の好きずきだろ。いちいち文句たれるなよ、おっさん」
「おっ、おっさん?」
確かに、おっさん言われてもおかしくない年齢ではある。が、あからさまにそう言われたのは、意外にも初めての経験である。結構、傷つくものであると、しみじみと実感してしまう今日この頃だ。人知れずして、精神的なダメージを受けたが、それを押し隠して明るく振る舞う健気な伊丹であった。
「神様ってのは進んでるんですねぇ」
すると、ジゼルは「ああっ、もうっ!」と、自分の後ろ髪を掻きむしって肩を竦めた。
「ホントのこと言うと、オレにもわかんねぇんだよっ。けどよ、差別はいけないだろ?だからそれなりに理解はしようと思ってんだよ。ま、普通は、わかんなくて当たり前なんだろうけどな」
「わたしぃは嫌よぉ。男がいいわぁ」
「と、まぁ、こんな有様でさ。まいってるぜ」
主上の想いが広く理解されるには、まだまだ道は遠い、とジゼルはため息と共に太陽が昇りつつある地平線へと視線を向けるのだった。
「まぁ、こうしたことは本人の意思が問題ですからねぇ。時に、ジゼルさんはハーディさまと同じように、同性が好みで?それとも異性がお好みで?」
「オレか?オレは男がいい」
「では、実際どう思われます?本人の意思を無視して、暴力で無理矢理連れて行って、しかも好みでない同性の相手に娶せようというのは。ご自身の身に置き換えてみたら、やっぱり嫌じゃないですか?」
伊丹の言葉にジゼルは眉根を寄せた。視線を背けて小さく舌打ちする。
「それを言われっと参るんだよなぁ。けどよ、使徒としちゃあ、お姉様を連れてこいっていう主上さまには逆らえねぇし。御意に従うしかないだろっ」
「それで、先ほどから戦っていたと?」
「そうさ。まさか、こんなところでお姉さまに出くわせるとは、思っても見なかったけどな。出会ったからにはってことでな」
「ロゥリィって結構強かったと思うんですが、貴女一人でこんなにしたんですか?」
見るからにロゥリイの傷は酷かった。もちろん治りかけてはいるが、最初に見た時は身体のそこかしこに深々とした傷が残っていたのだ。黒ゴス故にわかりにくいが、着ている服は乾いた血が大量にこびりついていた。
するとジゼルは、愁眉を寄せる。
「馬鹿かお前ぇ。んなの、お前の傷をお姉様がかわりに引き受けたからに決まってるだろうよ」
ジゼルはそう言うと、砂でも吐くように唾を大地にぶつけた。
「どうりでおかしいと思ったぜっ。本当ならオレ独りじゃ絶対に無理なんだよ。戦いの神、エムロイの使徒。死神ロゥリィ相手に、オレなんて互角に持ち込むのが関の山のはず。それがどうだい、まるで動きが悪い。何もしなくても傷を負う……、最初は舐められてるのかと思って頭に来たが。そりゃ、そうだろさ。お前ぇの傷をお姉さまが引き受けたんだからな」
見れば繋がっているのがわかる、とジゼルは言った。
そう言えば、不思議と大けがの無い伊丹は唖然としてロゥリィに視線をおろして「なんでそんなことを」と尋ねた。するとロゥリィはペロッと舌を出して、肩を竦めた。「別にぃ良いじゃないぃ」
この態度に、伊丹としては、どうしょうもない気持ちになった。心臓をわしづかみにされてしまった気分だ。
「ま、事情がわかれば話は別だ。今度は、全力でやってもらうぜ」
ジゼルはそう言って、背後の新生龍2頭を振り返る。いつの間にか、2頭の新生龍も近くに寄ってきていて、ジゼルにその巨体を撫でられて気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「オレ独りでなんとか互角。だがこの2頭がいれば、お姉さまにだって勝てるんだぜ」
2頭の新生龍は、身体の赤いものと、黒いものとがいる。おそらく炎龍の巣にあった卵の破片、あれから孵ったのがこの2頭だろう。身体を覆う鱗の形状や、全体の雰囲気に炎龍の荒々しい面影を感じる。それでも親に比較すれば、突起というか風格に欠けるきらいがあり、大きさも二周りほど小ぶりだ。とは言っても、巨体であることは間違いないが。
「ず、随分と、懐いてますね。危なくないですか?」
「ああ?産まれた時から世話したかなんな。眠っている炎龍を起こして、わざわざ水竜と番わせて、卵を産まさせて。ようやく、ここまで飼い慣らすことに成功したったわけよ。随分と苦労したぜ。それだけの価値はあったけどな。炎龍と新生龍、そしてオレ。この組み合わせなら無敵だぜ」
そう言って、ジゼルはほくそ笑んだ。
「な、なんでまた、そんなことを?」
「お前、本気で馬鹿だな。お姉様を含めて、他の亜神に勝つために決まってるだろ。ところで、ロゥリィお姉様。体力の回復具合はいかがでしょうか?そろそろ、2戦目と参りたいんですが、今度こそ手加減抜きでお願いします」
ジゼルは、ロゥリィに告げると大鎌を構えた。背後の新生龍2頭も翼を拡げ、距離を置いてそれぞれに身構える。
ロゥリィも、伊丹から離れてどうにかハルバートを構えた。だが、その重みで身体が微妙に傾いで揺れた。傷の回復が進んでいるとは言え、やはり受けたダメージが彼女を蝕んでいるようだ。
「ちょっとお待ち頂きたい、ジゼル聖下。今のお話によるならば、炎龍を起こしたのは聖下であらせられるか?」
緊張の走った両者の間に水を差したのはヤオだった。
左の二の腕に出来た傷を右手で庇いながら、片足でびっこをひいて少しずつ前に出て、ジゼルに問いつめる姿は鬼気迫るものがある。
「なんでぇ、お前は?」
「なぜ、そのようなことをっ!」
ヤオの怒気を孕んだ詰問に、ジゼルは無礼を感じてか、ヤオに向ける視線をすぅと細めると少し低めの口調で言葉を返した。
「オレのやることに、文句があるってのか?」
「ありますともっ!!此の身らはハーディを主と仰ぐ者。これまで、それなりに誠意を持って仕えて参ったつもりです。なのに、その代償として与えられたのが、炎龍と言う名の災厄。それはいったい何故なのですか?!」
ジゼルは苛立ち混じりに、盛大なため息をついた。
「主上様のご意志を、いちいち何故なんて尋ねてんじゃねぇんだよ。親分が黒ったら、白かろうと赤かろうと、黒なんだ。お前等信徒は、それに従うってのがスジってもんだろうよ」
「し、しかし」
「上には上の考えってやつがあんだよっ!」
「それが、我が同胞を滅亡に導くものであってもですか?」
「当たり前だろう。信仰心が篤いって言うなら、なおさらだろう?お前等はな、主上のお役に立てることを喜ばなきゃだめなんだよ。それが死ぬことなら黙って従う。それが信仰心というものだろ。違うか?」
ジゼルの、何故そのような分かり切ったことを問うのだという態度に、ヤオは身を震わせて唸った。
「こ、此の身に限って言えば、主神の仰せならば従いましょう。ですが同胞や一族すべてに生贄となれとは、あまりにも無体なお言葉。此の身の一族を炎龍の餌とすることは、本当に主神のご意志だったのですか?」
この言葉にジゼルは笑みを浮かべて手を打った。
「なんだそれ?へぇ、餌になっていたのはお前らだったのか。炎龍の奴、どこから餌を獲って来るのかって思ってんだけど、それがダークエルフだったとは知らなかった。災難だったな、お前」
この言葉には、さしものヤオも唖然とした。
ダークエルフが炎龍の餌となっていた。それがハーディの意志だった、と言うのならまだしも、知らなかったと言う。それはつまり、信徒達が苦境に置かれていたことに、関心を払ってなかったと言うことを意味する。
「災難?災難の一言ですか?!」
ヤオは、力無く膝を屈して大地に突いた、両手で大地を叩く。
「何度祈ったか。何度泣いたことか。何度悲しんだことか。何度問うたことか。何度救い求めたことか。何度、絶望したことか。その都度主神を想い、自らを励まし、立ち上がり、希望を求め、旅に出て……そんな此の身の祈りに、神々は応えてくれないばかりか、耳すら貸してくれてなかったと言うのですか」
血涙を流しながら問うヤオに対して、ジゼルは困ったように眉根を寄せて言い放った。
「いちいち、信徒の言葉に耳を傾けている神なんているわけねぇだろ。金をくれ、救ってくれ、出世できますように、くじに当たりたい、豊作祈願、勝負に勝ちたい?恋愛成就?んな、欲まみれのお祈りなんざに耳を貸してたら、きりがねえんだよ。おんぶにだっこと縋ることしかしない信徒なんぞ、炎龍のエサになってろってんだ」
この言葉にヤオが切れた。自らの魂をかけた祈りを、そんな欲ぼけた頼み事と同列に扱われたことが、頭に来たのだ。
サーベルを抜剣するのが速いか、ジゼルへと斬りかかった。
だが、それよりも速く鋭い大鎌の一閃が振り下ろされた。
・
・
・
・
咄嗟のことだった。
伊丹は、ジゼルに斬りかかろうとするヤオに飛びつくと彼女の胴を抱えながら引きずり倒した。ここで喧嘩を始められたら巻き込まれること必定だからだ。
ジゼルの大鎌はヤオの身体を、皮一枚の差で掠った。そこへロゥリィがハルバートを振るって斬りかかる。
ジゼルは、身を逸らすことでこれを躱した。そこへ割って入るようにして、赤龍の鋭い爪が振り下ろされ、今度はロゥリィが跳ねるようにして、その一撃を避けた。
伊丹は、ヤオを抱えて地を転がると、腿から9㎜拳銃を抜く。おおよその見当をつけて連射。3発の弾丸が、ロゥリィを追撃しようとする赤龍の巨体に当たったが、その強靱な鱗にはばまれて傷1つ負わせることが出来ない。とは言え、その攻撃は赤龍を牽制することに成功した。ただ、その代償として2頭の新生龍とシゼルに、伊丹を敵と認識させることとなる。
交錯した一瞬が終わり、間合いが開く。
ロゥリィはハルバートを構えなおし、伊丹はヤオを起こして、ロゥリィの傍らへと立った。レレイやテュカは、黒龍に牽制され、これから逃れるだけで精一杯の様子。二人とも、有効な攻撃手段を持っていないことに加えて、レレイに至っては炎龍戦で精神力の殆どを消耗し、回復できないのでいるのだ。
「くそっ……」
巻き込まれることを防ぐために動いたつもりだったが、かえって巻き込まれてしまった。伊丹は、新生龍には効果無しと見て、銃口をジゼルに向けたが、それを見たジゼルは、「おいおい、ヒト種がこのオレ挑もうとは」と、嬉しそうに微笑む。
「お前ぇ、なかなかいい目してるじゃねぇか。そういう無謀な奴って、好きだぜ」
「当たり前じゃないぃ。これでも、炎龍を倒した程の男よぉ」
肩で息しているロゥリィは、精神的な優位を保とうとしてかそう言った。
「なんだと?!って失礼。いや、今、何を倒したって言われましたか?お姉ぇさま」
「炎龍を、倒したって言ってるのよぉ」
無事に出て来たからにはそうよね、とロゥリィは伊丹に尋ねる。
ジゼルの刺すような視線に、別に俺が倒した訳じゃないと叫きたいところである。
伊丹がしたことは粘土爆薬をしかけただけだ。戦ったのはもっぱらヤオ達ダークエルフだし、レレイだし、とどめを刺したのはテュカだ。が、今、この瞬間のロゥリィの負担を軽くするには、自分が容易ならない敵だとジゼルに思わせる必要性も理解できる。やせ我慢して、即興で、はったりを効かせることにした。
思わず呟く。「俺って、こんなんばっか」
特殊作戦群でも、欺瞞のためとかで嘘経歴が『その方面』に流され、大したことしてないのに二重橋壕では英雄とやらに持ち上げられる。実際と評判の解離たるや甚だしい。実力以上に振る舞うことを強いられるのがどれほどにしんどいか。だが、ここは下腹に力を入れて、余裕に振る舞う。余裕に見えるように振る舞わなくてはならなかった。
「嘘かホントか、火口を覗いてみればわかりますよ。炎龍の屍体が転がってるはずです。あっ、勢い余って岩棚を吹っ飛ばしちまったから、埋まっているかも知れませんけどねぇ。あはは」
内心、ガタガタ震えているのは秘密である。ロゥリィの「良くできましたぁ」という小さな声も、危うく聞き逃すところだった。
確認のためかジゼルが顎をしゃくると、黒龍が火口へと飛び上がっていった。
「へへへ、命からがら逃げてきたってんならわかる話だ。お姉さまの加護があったとは言え、ヒト種に出来るわけがねぇからな。だが、嘘にしては底が浅すぎる。と、すれはホントか?もし、そうなら面白れぇ。そこのヒト種の雄。もう一度名前を言え。さっきの名乗り、聞き流してて忘れちまった……」
「耀司よぉ。伊丹耀司」
伊丹よりも先にロゥリィが告げる。そしてさらに伊丹の腕に、ロゥリィは見せつけるようにして腕をからめた。
「耀司とは眷属の契りを交わしたわぁ。あんたはぁ、新生龍二頭を手に入れたかも知れないけれどぉ、わたしぃは炎龍すら倒す男を伴侶にすると言うわけぇ」
「そう言うことか……やってくれるじゃねぇか、お姉さま」
そうしている内に、火口付近を飛ぶ黒龍から、叫びが響いた。
自らの親を失ったことを知らせる、悲痛な叫びだった。
「おほっ、嬉しいねぇ!こんな奴がヒト種から出てくるとは思わなかったぜ。使徒になった甲斐があるってもんだ」
大鎌を構えなおすジゼル。
「この耀司とわたしぃを相手にぃ、新生龍二頭とあんただけで、はたして勝てるぅのかしらぁ?」
ロゥリィとジゼルの舌戦の横では、伊丹が必死になって「さっさと、帰れ。適わないと思って逃げてくれ、行け、去れ。神様……」と、祈っていた。だが、祈るべき対象が目の前にいては、なんだか効き目もなさそうである。というより、いちいち祈りに耳を貸したりしてないと今、言われたばかりである。
「へっ。面白くなってきた。トワト!モゥト!お前等も親の仇だ、手を抜くんじゃねぇぞっ!!」
二頭の新生龍はジゼルの呼びかけに応えて、朝日の昇った大空へと舞い上がった。ジゼルも大鎌を振りかぶった。ロゥリィもハルバートを振りかぶる。
「行くぜっ!!」
「ヤべつ!やぶ蛇だったっ!」
戦うことを、最初から考えていなかった伊丹は、進もうとしたロゥリィを抱えると、後ろに向かって全力で走り出した。
「ヤオっ!!レレイを頼む。テュカ、走れ!!」
伊丹の指示をうけてヤオは、自らの傷も忘れてレレイを抱え上げた。テュカもはじかれたように走る。それまでの余裕な態度から一転しての見事な逃げっぷり。あっけにとられたジゼルはしばらく何があったのか、理解できなかった程だ。
誰もいなくなったデュバ山麓に隙間から吹き抜ける空気にも似た、肌寒さを感じさせる風が走っていく。遠くからカラスに似た鳥の鳴き声が聞こえた。
「あ……」
どういう逃げ足をしているのか、下り斜面を転がるようにして走っていく伊丹達は、気がついた時には、既に遠く小さくなっていた。
「ば、ば、ば……馬鹿な」
どうする?と問いかけるような感じで、黒龍と赤龍がジゼルへと視線を向ける。
「お、追えっ!!」
慌てて、飛び上がる二頭。
いかに人間が走ろうとも、大空を舞う龍からは逃げ切れない。
翼を大きく拡げ、高度を上げて速度を上げた。そして、上空から火を浴びせかけようと顎を開いた瞬間。
蛇にも似た軌跡を描いて飛来した4条の筋が、2頭の新生龍を襲った。
・
・
・
・
「久里浜。『カレ』のサイズ、以前見たのと比べて、ちと小さくねぇか?」
ロックオンさせた熱源追尾型空対空ミサイル・サイドワインダーを発射しながら、神子田は久里浜に言った。
「二頭居るし。完全に別目標だ」
『とは言っても、あの二頭に伊丹二等陸尉達が追われてるのは確かです』
僚機の瑞原3等空佐の声に、神子田は頷いた。
「ミリタリーパワー・マキシマム。フルウェポン、フリー。コンバットマニューバ、ゴゥ、ゴゥ、ゴゥッ」
久里浜の声に、神子田は「吶喊!!」と叫んだ。
「神子田は目標、赤。西元は目標、黒」
空対空ミサイルの近接雷管が作動し新生龍は爆炎に包まれた。だが、それでくたばるようなら苦労はない。神子田は、ヘッドアップディスプレィのピパーに、赤龍を捕らえると、引き金に指をかけた。
M61バルカン砲は、毎分6000発で20㎜弾を発射する。わずかな瞬間であっても交錯時に浴びせられた土砂降りを遙かに越える鉛玉の嵐は、新生龍の身体をミキサーのように激しく揺さぶった。
平衡を失った2頭の新生龍は、中空に浮かび上がる機能を失って大地に叩きつけられた。
すぐさま、よろめくようにしても立ち上がろうとするのは流石である。翼を拡げて、大地から離れようとする闘争本能は素晴らしい。年若い新生龍とは言え、空の支配者たる龍種である。が……。
『だんちゃ~く、今!!!!!』
75式自走155㎜りゅう弾砲15門から放たれた砲弾に充填された約7㎏のTNTが炸裂。新生龍を含む、その周囲の空気と大地を徹底的にかき回して立ち直る隙を与えない。
『効力射撃はじめっ!!』
ダークエルフの長老達は、ずらっと列ぶ75式自走155㎜りゅう弾砲の砲口から放たれる炎を、両耳を押さえながら不思議そうに見守っていた。あたりには煙が立ちこめて、ほとんど周りが見えなくなっていく。そのなかを特科の隊員達が、忙しく立ち働いている。
「いったい、何をしてるのだ、この連中は?」
「何かの儀式じゃろうか?」
けたたましい雷鳴の如き砲声も、それが数十キロ離れたところを攻撃するためとは、思えなかったのである。
だが、次から次へと撃ち出される榴弾は、確実にテュバ山麓を耕していった。
「おほほっ。凄まじい威力じゃのうっ!!」
エルベ藩王国王デュランは、乗機に指定されたヘリから双眼鏡を覗きながら、感嘆の声をあげた。山の中腹が度重なる爆煙に包まれ、新生龍がその衝撃と破壊力によって袋だたきにされている様子が見えた。
「儂も、あれを喰らった時は、何が起こったのかさっぱりじゃったが、こうして離れて見るとよくぞ生きておったと思う凄まじさじゃ」
エンジン音の煩い機内ではどうしても声が大きくなる。デュランは怒鳴るようにして、隣に座る加茂一等陸佐に告げた。
「陛下には御武運があったのでしょう」
加茂は、大きく頷きながら返事した。
「武運か?それが、幸いかどうかはこれからのことじゃよ。さぁ、次を見せてくれんか」
「よし。コブラ隊前へ!!」
加茂がプレストークスイッチを押して、命令を下す。
すると、並行して飛んでいた二機のAH-1コブラが、速度を上げて前へと出た。2機の攻撃ヘリは、攻撃位置に遷移すると小脇に抱えたTOWミサイルを発射した。
有線で誘導されるそのミサイルは旧式であるが故に、人間が目標と定めた初見の標的に戸惑うこともなく正確に突き進んだ。
主力戦車すら撃破する力を持つ天空からの矢を受けた新生龍は、その巨体は大きく弾けさせた。
炎龍には及ばないにしても、強固な防御力を誇った鱗がいとも簡単に引き裂かれ、肉を露呈しそこから鮮血を吹き出す。連べ撃ちによって、2本3本と対戦車ミサイルを受けた赤龍、黒龍、二頭の新生龍はこうしてデュバ山麓をまな板として、肉塊へと解体されたのである。
「な、何だっ!なんて、こった……」
一斉砲撃の爆発に巻き込まれたジゼルは、巻き上げられた土砂に半身を埋められながら、子飼いの新生龍が爆発の中に飲み込まれていくのを、呆然と眺めていた。戦いの興奮の中に入ると元々視野が狭くなる傾向もあって、他の一切が目に入らないのだ。
だから、遠方から飛来する砲弾、ミサイル。その実体の持つ破壊力のみに目を奪われる。何から発射されたかを見ていない。そして誤解する。
「こ、これがイタミヨージの力と言うのか?!」
もし、伊丹が傍らにいたならば「違う、違う」と大いに、訂正を試みただろう。が、それは適わない。
さらには、爆音が止んだ向こうから「じぃ~~ぜる~~ぅ?どこにいるのぉ~?」と地の底から響くような声。振り返ると、そこにロゥリィ・マーキュリーの姿があった。
襤褸切れのようになったフリルスカートを、滞空するヘリのローター風によってたなびかせながら、乾いた血に汚れた腕でハルバートかかえながらジゼルの姿を探している。
上空のヘリからはロープが下ろされ、普通科の隊員達が次々と降下してくる。降下した隊員達は、食卓に乗った海老か蟹に等しい状態となった新生龍に歩み寄って、それが最早死んでいることを確認している。
それらを背景としたロゥリイの壮絶なまでの笑みは、背筋が冷たくなるまでに美しく、凄惨なまでの恐怖感をジゼルにもたらした。
「お、お姉さま………」
震える足で、震える手。ずりずりと後ずさって、見つからないようにと伏せて隠れる。
「まずいぜ。このままじゃ見つかる」
攻守代わって、今度は自分が狩られる側に回ってしまったのである。
「じぃ~~ぜる~~ぅ?どこにいるのぉ~?幽閉してあげるからぁ、でてらっしゃぁ~い」
亜神は死なない。逆に言えば死ねない。それは恩恵でもあるが、同時に呪いにも近い。
腕を切り落とそうが、脚を切り落とそうが、首を切っても死なないのだ。そして傷口を合わせればそこから回復できる。もし、腕や脚を切り離して磨り潰し、焼いたり獣などに喰わせたりすると、切断された端から手足が伸びてくるという始末。
故に、亜神達の戦いにおける勝利とは、相手の自由を奪うことである。負けた者は、両手両足あるいは胴を腰斬され、時には首だけにされて、解放されるかあるいは誰かに救い出されるまでの数百年の長き時を、神殿などに幽閉されてしまうのだ。
肉の身体より解脱するまでの1000年間を、ただ地の底に埋められたまま過ごしてしまった神もいる。1000年の長きに渡って、暗黒の地の底に埋葬され続けた亜神が昇神後どのような禍神(まがつかみ)となるか、想像するに難しくないだろう。
残忍な者に捕らわれて、再生する内蔵を獣に喰われ続けるという扱いを受けた者も実際にいる。肉の身体である以上、快楽もあれば苦痛も受ける。それが摂理だ。だが死なないのだ。死ねないが故に敗北した亜神は、死よりも恐ろしい運命が待ち構えている。
「じぃ~~ぜる~~ぅ?どこにいるのぉ~?」
ジゼルは、ロゥリィとその傍らに立つ、伊丹、レレイ、テュカ、ヤオへと視線を巡らせた。ヒト種が二人、エルフが二人。普段なら歯牙にもかけない相手だ。なのに、今は勝てる気がしなかった。炎龍を倒し、新生龍2頭を屠ったあの攻撃をしてみせるイタミという男を前にしては、勝てる気が全くしない。
ジゼルは、逃げることにした。大地に隠れ泥にまみれても、この場から逃れることを優先したのである。
・
・
・
・
* *
・
・
・
・
戦いの終わったテュバ山麓。
第1戦闘団の隊員達が続々と、周囲に降り立つと新生龍の屍体の確認作業を始めた。上空を旋回していた二機のファントムは、二度ほど翼を振ると去っていく。
また伊丹の報告を受けて、火口内部へと降下した隊員が炎龍の死骸をみつけたことで、テュカの敵討ちは終わったことが確認された。
災害救助に手慣れた自衛隊らしく、炎龍の犠牲となったダークエルフ達の遺体が火口内部から丁重に収容され運ばれてくる。また、炎龍と2頭の新生龍の遺体は、研究のためにこれから運ばれるということで、玉掛け作業(クレーンで釣り上げるためのロープをかける作業)が進められていた。
そんな様子を伊丹達は、肩を寄せて座りこけて眺めていた。
テュカとレレイが伊丹に凭れるように座り、ロゥリィは伊丹の膝を枕に眠っていた。ヤオにいたっては、伊丹の背中に、自分の背中を預けて呆けていた。自らの信じていた神に裏切られたショックは相当なものだったらしい。
喜ぶにしても悲しむにしても体力が必要だ。これだけ疲れると感情が動かず、ただ、ぼやっとするだけになってしまうのだ。
「生きてるな、俺たち」
「そうね……」
呟くような伊丹の言葉に、返事を返したのはテュカだけだった。この中では彼女が一番疲労度が低い。戦いが始まる寸前まで、眠らされていたからだ。レレイもすやすやと眠っている。
「やっつけたな」
「うん。敵討ち、したわ」
テュカは、短く答えた。
「もう、俺のこと父さんなんて呼ぶなよ」
テュカは、ゆっくりと視線を伊丹へと向けて抑揚に欠けた言葉で告げた。
「嫌」
「なんで……」
「言い慣れちゃったから」
「そか」
伊丹は、もう、どうでも良くなった。
・
・
・
・
* *
・
・
・
・
「停職2週間と、減俸1ヶ月………ですか」
帰還早々、伊丹は直属の上司である檜垣から書類を受け取ると肩を落とした。まぁ、そう言うことになるだろうと覚悟はしていたが、現実に懲戒処分を受けるとなると、これまた別でそれなりに気持ちが沈むのである。
他の偵察隊隊長達は、伊丹の方に視線を向けないように、そらぞらしいまでに机仕事に没頭していた。
「それに加えて、第3偵察隊の隊長職を解く」
檜垣が、机の上から新しい書類を取り上げて、伊丹につきつける。辞令だった。
「はぁ」
「当然だな。何しろ、自分の部下を放り出していっちまったんだから」
檜垣の言葉に、伊丹としては頷かざるを得ない。
「ここまでが処分人事だ」と檜垣が告げる。すると
「気を、つけっー!!」
背後からの号令に伊丹は背筋を伸ばした。隊長達もみな、一斉に起立して直立不動の姿となった。
背後から靴音をならして現れたのは狭間陸将だった。狭間の側には黒い盆に賞状紙を乗せたものを掲げる婦人自衛官『達』が続いていた。
「伊丹二等陸尉。一級賞詞が防衛大臣より届いておる。日本人拉致被害者救出の功績を特にたたえてこれを授けるものである」
狭間は、伊丹に賞状と略章を押しつけた。
「次に、特地の各方面から、いろいろと来ているぞ。まず、エルベ藩王国国王デュラン陛下より、日本国政府宛と、伊丹二等陸尉個人に対しての感状が届いた。炎龍を退治してくれてありがとうだとよ。それにともなってお前には卿の称号が贈られた。お前、こっちじゃ貴族様だな。次に、シュワルツの森のダークエルフ族長会議からも、自衛隊特地方面派遣隊と、お前個人の双方にそれぞれ感状が来ている。お前には、これまた名誉族長の称号と、こいつだ」
狭間は、伊丹の手にヤオが持ってきた金剛石の原石を、ドスッと押しつけた。人の頭サイズあってずしりと重い。金額に換算したらいくらになるか全く不明だが、下手すると、宝くじに10回連続して1等にあたったくらいの価値があるかも知れない。
「それに、人身売買は日本じゃ重大な犯罪だからヤオって娘の扱いをちゃんとしておけよ」と言って、ヤオの権利証が伊丹に押しつけられる。こちらでは人身売買が行われているので、人間の所有権に関する証書類も存在するのだ。
「それから次はなんだ?ドワーフのルベ村?そこからの感状、レイゾパムってところからも感状。トルーテ村からも感状、どれも炎龍退治してくれて有り難うって奴だな。それと……」
次々と婦人自衛官が、漆塗りの盆に乗せた巻物とか、紙とかを運び込んでくる。最後の一通が、黒い羊皮紙の手紙だった。しかも、黒いリボンに黒い封蝋で封緘してあつて非常に禍々しい気配がある。
「ベルナーゴ神殿?そんなのあったったけ、まぁいい……」
賞状に略綬に、ダイヤモンドの原石と、書類の束。そろそろ両腕で抱えきれなくなっているところに来て、こうして羊皮紙の巻物が押しつけられた。
そして、最後の婦人自衛官が狭間に一枚の紙を差し出した。
「でだ。これだけ各方面から賞賛される仕事をしたお前さんを処分しましたっていうだけでは、通りが悪い。そこで、お前さんに新しい任務がある」
狭間はそう告げて、辞令を読んだ。
「伊丹二等陸尉。特地深部情報偵察隊、資源探査隊長職を命ず」
「資源探査隊長?」
「ああ。要するに、特地を好き勝手にほっつきまわって役に立ちそうな資源を探せってことだ。お前向きだろう?」
「そりゃ、まぁ……」
「停職期間があけたら、早速その任についてもらう」
狭間はそう言うと伊丹の肩をトンと叩いて、去っていた。
皆、伊丹を無視するかのように机に向かっての仕事を再開した。だが、今度はチラチラと、やっかみ分を含んだニヤついた視線が浴びせられていて、なんともこそばゆくて居心地悪い。
「あ、どうも」
伊丹がそう告げると「馬鹿野郎めっ」と、四方八方から一斉に書類の束が投げつけられた。
・
・
・
・
* *
・
・
・
・
「ベルナーゴ神殿?」
ロゥリィは伊丹に尋ねられると、ニヤと頬を歪めた。
「そこってぇ、ハーディの神殿よぉ」
梨紗の運転するワゴン車の助手席に座る伊丹は、真後ろからのロゥリィの言葉に眉を寄せた。窓の外は、関東地方の郊外の風景が流れていた。畑があり、田圃がある。県道は車の通りも少なく、農道との交差点ではトラクターが土をまき散らしながらのんびりと走っている光景も見えた。
「行くぅ?」
黒い神殿からの手紙は、伊丹に対する招待状だったのである。
ロゥリィに問われて、伊丹としては首を振った。特地の神様というのは、どうにもこちら側の常識では測れない存在だ。何を考えているのかもわからないので、伊丹としてはご遠慮したい。だが、ロゥリィは一度は、行ってみるべきだと言った。
「向こうからお呼びがかかったんだからぁ、こちらとしては大手を振って、ハーディの領域に入ることが出来るわぁ。しっかりとぉ、あんたの嫁にはならないって告げてやりたいしぃ、何を考えているか尋ねてみるのもいいわぁ」
「ベルナーゴの手前に、学都ロンデルがある。もし、行くなら同行したい」
論文の発表と導師号の申請をするとレレイは言った。
「へぇ、カトー老師、博士号を飛び越して導師号を認めたんだ」とテュカは喜んだ。
導師号とは、免許皆伝のようなもので、魔導師として独り立ちを認めることを意味している。レレイの年齢としては異例のことであるが、炎龍を倒すという功績をもつ魔導師をいつまでも、弟子の身分にしておくのもおかしな話しだということでカトー老師は許可したのだ。
「レレイが導師号を貰うところは、絶対に見に行かないとね」と、テュカも同行することを暗に告げる。
「此の身としては、ベルナーゴ神殿に赴く機会を頂けるなら、主神にしっかりと三行半をつきつけてやろうと思っている。そこで、ロゥリィ聖下にお願いがあるのだが……」
「わかってるけどぉ、ホントにいいのぉ?」
「ええ。是非……」
「どういうこと?」
テュカの問いに、ヤオは微笑む。
「名乗りを、シュワルツの森部族デュッシ氏族。デハンの娘 ヤオ・ハ・デュッシ。改め、ヤオ・ロゥ・デュッシにしようと思っている」
「うわっ」と、テュカは目を丸くする。
「ああ、話が見えないんだが…」という伊丹の問いに、テュカは解説してくれた。
「例えば、あたしの名前は、テュカ・ルナ・マルソー。このルナは、音楽の神ルナリューを指しているの。あたしは、ルナリューを主神と仰ぐ信徒というわけ」
「なるほどね……で、ロゥってことは」
「当然、聖下のことだ」
「亜神の内に、直信徒をかかえるなんて、前代未聞じゃない?」
「祈りに耳を貸してくれない神などより、直接話を聞いて、言葉を返してくれる亜神の方々の方が、信じるに値する」
ヤオはそう言うと胸を張った。
「ところで、ロゥリィ。あんた昇神したら何の神様になるの?」
テュカの問いに、またまた伊丹は解説を求めた。今度は、レレイが答える。
「死と断罪と狂気、そして戦いの神は、エムロイ。使徒が昇神すると、このうちのどれかを分け担う神となるか、あるいはまだ誰も担っていない事象、領域を切り取って守り神となる」
「へぇ………」
「で、何の神様になるの?」
「死かな?」
「戦いではないだろうか」
「断罪が似合う」
「狂気ってのも、ロゥリィっぽいよね」
こんな予測が飛び交う中、ロゥリィは俯いて頬を赤くしながらボソリと答えた。これによって梨紗を除いた一同はしばしの間、石像になってしまう。
「お~い、みんなぁ。どうしたんだぁ」
梨紗は、硬直してしまった皆に、声をかけるが誰一人ぴくりとも動かなかった。
皆をして、ここまでなさしめたロゥリィの答えは「愛……なんて、駄目かな?」だったのである。
・
・
・
・
「ついたよ~」
梨紗の言葉で、伊丹達は車から降りた。
そこは、農村地帯の森を敷地とする、中規模の病院だった。古ぼけていて、築30年は経っていそうな建物ばかりだ。建物の古ささえ我慢できれば、あるいはここは居心地の良い場所なのかも知れない。
「ここに、伊丹殿の母君がおいでか」
「耀司ぃの母親ねぇ?」
「お父さんのお母さんなら、お婆さまってことね」
「…お義母さん」
伊丹は、なかなか第一歩を踏み出せなかった。そんな伊丹をテュカが追い詰める。
「父親を騙った上に、あたしを騙し抜いて、炎龍退治を強いた罰として母親に会うこと」
テュカは伊丹を許すにあたって、そのような条件を出していた。もちろん伊丹が、テュカの為に父親を演じたことはわかっている。だが、テュカとしては、いつまでも罪悪感を抱えられて、互いの間に距離をおかれるのは不愉快なのであった。そこで、それとこれとは話は別という論法で、二人の間にあるわだかまりにケリをつけることとしたのだった。
そんなことも伊丹としては、わかってる。とは言っても、行きづらいのも確かなのだ。
「わかってる、わかってる…」
伊丹はそう言うと、大きく深呼吸しようとする。だが、そんな伊丹に苛ついた梨紗や、テュカや、レレイや、ロゥリィ、ヤオは「さっさと行けっ」とばかりに伊丹の尻を蹴ったのだった。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 47
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/12/09 19:37
・
・
・
・
47
・
・
・
・
その夜、帝都南苑宮では、祝賀の集まりが大々的に開かれた。
参加者は帝室の者は勿論、元老院議員、閣僚、軍人、貴族に列せられる者達。これに加えて、上流に属する豪商などである。そして、主賓として日本国からの講和交渉使節団。そう、この夜会は、特地問題対策担当副大臣の白百合玲子を代表とした日本側使節団を歓迎するものであったのだ。が、同時に彼らと共に帰還した、捕虜15名の帰還を喜ぶ催しでもあった。
帰還した捕虜は全て貴族の子弟達。彼らは旧知の者に囲まれ、その無事を祝われると共に、異世界に置いて虜囚となっている者達の消息や、預かった言葉などを伝えて大いに喜ばれていた。生存の知らせを受け、いずれ帰って来るとの希望は持てても、我が子、我が家族、我が夫がどのような生活を送っているかを知りたがるのは、人の心情として当然と言えるだろう。
そんな様子を眺め見る日本政府使節団は、仲介役ピニャと、彼女の通訳としてアルヌスから呼び戻されたボーゼス嬢に案内され、会場の一角を陣取るようにしてまとまっていた。
「何か不思議な気分ですね」
日本側のプロトコルに従って、華美ではないが、それでいて地味でもないイブニングドレスで身を固めた白百合議員は、帝国側の習慣に従って、床に置かれた分厚い敷物とクッションに凭れるように腰を下ろすと、交渉における雑務等を担当してくれる外務官僚の一人にそうこぼした。
「敵国の首都を交渉場所とせざるをえなかったのは、意志決定と通信手段の格差故とお考え下さい。本当なら中立国、あるいは中立地帯のイタリカあたりが場所としては適切なんですが、いかんせん帝都との連絡に片道12~3日というのは、時間がかかりすぎます」
外務官僚の答えに白百合副大臣は「そうじゃなくて…」と語尾を濁らせる。
周りにいる帝国貴族の婦人達が纏う服装の傾向が、日本的な感覚から見ても斬新に過ぎる印象だったのである。
勿論、奇妙というわけではない。例えば、近世ヨーロッパの上流社会を描いた映画やドラマなどを見ても、ひとつの文化が爛熟期を迎えると、奇抜なデザインが出現している様子が描かれる。それと似て、重くないのか?と問いたくなるぐらい大きな帽子とか、物理的機能があるの?と、問いたくなるぐらい大きなリボンとか、頭の数倍くらい膨らませた髪型とか。変に露出度が高かったり、身体の線が妙に顕わになっていたりと言う感じで、デザインにしても色遣いにしても、まさに色とりどり。言ってはいけないかも知れないが、まるで彼女の息子がよく見るテレビアニメのようだ。そんな印象を抱いていたのである。
「男性の公式の服装が、トーガに似た服装と聞いていたから、古代ローマかギリシャ風を、あるいは中世ヨーロッパをイメージしていたのだけれど……」
実際、傍らに座るピニャはトーガに似たものを纏っている。それは、女性ながら公職に就く者としてのものであった、このあたりは白百合にはわからないことだ。
「まぁ、この世界はこの世界なりに独自の文化発展をしていると言うことなのでしょう。おっ、皇帝陛下の御入来です…」
名もない外務官僚はそう言って、白百合の疑問に対する答えを切り上げると、皇帝の入来を知らせた。そして、この帝国の元首をたたえる拍手に参加したのである。
・
・
・
・
帝都で華やかなりし祝賀の催しがはじまったころ、帝都から離れることおよそ3リーグ(約4.8㎞)の郊外をひた走る高機動車の車列があった。
ピニャ率いる騎士団所属の騎士補グレイ・アルドは、揺れる荷台の席にて銃と呼ばれる武器を立てて静かにしている自衛官達を前にして緊張の時を過ごしていた。
歴戦のグレイとて、戦いの前は緊張する。そんな時、グレイは同僚と共に過度に明るく振る舞ったり、大言壮語したりでこれを乗り越えて来た。多くの騎士や兵達がそうしている。そうしている内に、戦場に到着するのだ。このように沈黙して、何かを待つような緊張は戦場に到着して会敵し、衝突の瞬間を待つ時だけのものである。
なのにどうだろうか。この場を支配する緊張は、もう戦場にいて敵がすぐそこにいるかのようである。確かにこの鉄の荷馬車なら、瞬く間に戦場に到着するだろう。だが、それだってもう少し、時の過ごしようというものがあるように思えるのだ。
沈黙の重さについに耐えられなくなって、思わず隣に座る富田に話しかけた。
「トミタ殿。いつもこのような重々しい雰囲気なのでござろうか?」
車中に差し込む月明かりを頼りに、顔にカモフラージュ塗装を施していた富田は、騎士団からの連絡員として同乗することとなったグレイに視線を向けると、肩の力を抜いて応じた。
「ええ。そうです」
「しかし、あまり張りつめている切れそうですゾ。小官としては、もう少し和気藹々としているのを好むところ」
「そうですね。そうしましょう。……みんな力を抜け」
この言葉を受けて車中の隊員達は、それぞれにため息をついたり、柔軟体操をするかのように腕や肩を回したりした。だが、かえってぎこちなく見えて、全然力が抜けてないように見えた。
やがて、車はライトを消した。
しかしすぐには停車せず、ゆっくり滑るように走る。運転席の倉田は、夜間暗視装置を使用している。故に、ゆっくり走る分には暗くても困らない。
やがて、高機動車が停まる。
隊員達は、命令の下達を待って銃を引き寄せる。その際の金属音だけが、印象深く車内に響いた。
「ど、どうされたのですか?」
「シ。もう、戦場です」
富田はそう告げると人差し指を自分の口元に立てて黙った。これはこの世界でも通じる静粛を求める合図だった。皆が黙るのは、緊張からだけではない。いつ何時発されるかわからない命令を聞き逃さないためでもあるのだ。
助手席で、第2偵察隊長と無線連絡をしていた桑原曹長が「了解」と告げる。伊丹が指揮を放棄して以来、第3偵察隊は暫定的に第2偵察隊長の指揮下に置かれている。そして、隊長代理として先任陸曹たる桑原は、後方にいる彼の部下達に視線を向けると命令した。
「下車」
全員で受けた命令を、重く低い声で唱和する。「下車!」
後部ドアが開かれ、隊員達は瞬く間に車から降りていった。それに釣られるようにして、グレイも続く。隊員達は、腰をかがめた姿勢で進み、立木の影に身を預けて銃を構え、また地面の窪みに伏せて銃を構える。そして、音もなく、静かに進んでいった。
グレイが目を凝らすと、自衛官達が向かうのは暗闇の向こう側にある小さな建物だった。周囲を見渡すと場所は、小さな集落。どこかの荘園の一角のようだ。その中では一番大きな木造の建物が、自衛官達の目標のようである。
前方で伏せていた仁科が手を前へと振る。すると、隠れていた隊員達が、静かに進み出す。まさに風のように、そして影のように。
ある程度まで進んだところで、グレイは富田から前に出ないようにと求められた。
「な、何故であろうか。小官は殿下より、貴公等の戦いの一部始終を見るように仰せつかっておる」
富田は「貴方の鎧も剣も音がします」と告げた。
そう言われてみれば確かにそうである。歩くたびに、止まるたびに金属のぶつかる音が耳障りなまでに発せられていた。これに対し、富田を始めとした自衛官達は、まるで音がしない。衣擦れの音すらしないように袖や裾にテープを巻いて、銃は金属の擦れ合う部位に布をあてているのだ。
グレイは、慌てて鎧を外すと、剣のみを手にする。
「これでよかろうか?」
富田は嘆息しつつも「いいでしょう」と告げて、自分から離れないように指示して前へと進んだ。
仁科、勝本、戸津、そして栗林。この4名は銃を構えつつ、建物のドアを挟むよう両側につくと、静かにしゃがんだ。窓の前には決して立たず。僅かな月明かりが作る影すらこぼさない慎重さだ。
第2偵察隊の隊員達は、建物の反対側に配置済みだ。別の任務についている古田や、黒川、笹川を除いた8名の第3偵察隊は、獲物を追い立てる勢子の役割を担うことになっていた。
銃口は下に向けている。だが視線は周囲に隈無く配られる。最早、言葉も交わさない。手で指で合図をかわし、ドアを静かに開けると、銃口を起こしつつ室内へと向けた。
静かに、静かに、静かに。それでいて、素早く。
闇の立ちこめる、廊下の奥に扉があった。その扉と壁の長方形の隙間から、室内の灯りが漏れている。
建物の外では、桑原、東、倉田が灯火の点る部屋へと静かに銃の狙いを定めていた。
・
・
・
・
「スガワラ様?お国では女性でも大臣閣下になれるのですか?」
篝火の明かりがゆらめく夜の宴席。それは広く、そして多くの人が、談笑し、料理を口にして酒を呑んでいる。所々で、笑い声が上がり、時に歓声が上がる。もちろん、それぞれに身分にふさわしい振る舞いが求められるので、それなりに優雅さを演じているが、皆、場の明るい雰囲気に馴染んでいた。
そんな中で、突然のようにかけられた聞き覚えのある声。菅原は、誰にも知られないように小さくため息をついた。
声の主はテュエリ家の娘シェリー嬢だった。先日誕生日を迎えたばかりの12才。物怖じしない積極性と、くりくりっとした瞳が可愛らしい少女だ。今日は、菅原が贈った小粒ながら弱冠ピンク色がはいった真珠を耳に飾り付け、身体全体を華やかな白い花のようなに見せる衣装で身を飾っていた。
図々しいほどに親しんで来る彼女を、これまで邪険にすることもなく優しく接して来たのは講和派の重鎮カーゼル侯爵との繋がりを得るため。要は子守くらいに思っていたのだ。だが、どうもその過程でテュエリ家に誤解が生じたようである。
テュエリ家の当主が、どうやら菅原を将来の婿候補と考えている様子なのだ。
家の中に力のある官僚がいるわけでもなく、将来を嘱望できる軍人になった者もいない。カーゼル侯爵との縁戚筋と言うだけでどうにか貴族としての体面を取り繕っている状況を改善するには、ニホンとの繋がりを強化することで、外交という分野におけるテュエリ家の存在感を高めるしかないと考えたのだろう。
それはわかる。理解できるのだが、菅原とて30代中盤に入る身なのだ。
外務省のエリート官僚として、将来を嘱望されている。入省以来、中東、北アフリカときな臭い場所ばかりを歴任して歩きながら、官邸の事務秘書官にまでなったからには、外務省の頂点が視野に入ってくる。
此処まで来れば、本省に戻って一流企業の社長令嬢といった『お嬢様』級の女性との縁談がいくらでも選べる身分である。もちろん、誰でも良いわけではない。これも外交分野で役に立つ家柄の女性を相手として選ばなければならない。例えば、西欧との関係が深い商社との閨閥だ。これらを背景として官僚のトップを目指すという野望を持っているのだ。その、お相手が、日本と較べて1000年は遅れているように見える未開の国の、しかも12才の少女というのは体裁が悪いばかりか足を引っ張られる。ついでに言えば犯罪であって、その上趣味ではない。大いに遠慮したかった。
その為に、最近は多忙を理由にシェリー嬢のお相手を断るようにしてきたのであるが、まさかこんなところで出会うとは。皇帝すら列席するような宴席に、12才になったばかりの少女を送りつけて来るとはテュエリ家当主、どうにも侮れない。
「シェリーさん。今夜は駄目ですよ」
菅原はそう言ってシェリーに背中を向けようとしたが、日本交渉団の一員として纏っているタキシードの裾が引っ張られてしまった。
「スガワラ様。そう邪険に扱わないで下さいませ。スガワラ様が、私のような幼齢の女に興味がないのは存じております。ですが、私とてあと4年もすれば一人前の女。それまでにスガワラ様に似つかわくなってみせますから、どうぞその時をご期待下さい。そして、お国の女性副大臣をどうぞ、私に紹介して下さいませ」
にこやかにつぶらな瞳を輝かせる。断られるなど少しも思ってない笑みだ。
これには菅原も頭痛を感じた。
使節団は皇帝や、大臣等との儀礼的な挨拶こそ済ませたが、まだ、帝国の主立った者と親しく話をするという雰囲気になっていないのである。貴族達は、帰還した捕虜達を取り囲むので忙しく、会場の一角にまとまっているし、大臣連中は会場の反対側に陣取って、こちらの様子を窺っている状態だ。
だから現段階では白百合副大臣と話をするのが、ボーゼス嬢という通訳を交えた皇女ピニャだけという状態になっている。ピニャとしては立場を弁えてか、積極的に誰かを紹介したり、話をさせたりというアプローチは控えているようだ。この、誰も日本国交渉団に近づこうとしない今こそが、帝国で多くの貴族と出会い、時間をかけて人脈を築いてきた菅原の出番と言える。誰を最初に紹介すれば、場が和やかになるのか。人々かうち解けるのか。菅原は、じっと品定めしていたのである。
ところが「だからこそですわ、スガワラ様」とシェリーは言ってのけた。
「どうしてですか?」
「帝国の者にとって、ニホンという国はまだまだ未知の国です。大変素晴らしい文物ととてつもない軍事力を有していることは、私のような浅学な少女ですら存じていますわ。とても興味深く、誰もが親しくお話ししたいと思っていることでしょう。ですが、聞くところに寄りますと、ニホンの女性はとてつもなくお強いとか。迂闊に近づいて、うっかり粗相でもしたら殴られてしまうのではと、皆、恐れているのです」
菅原は会場正面中央の、最上位席の方へと視線を向けた。
皇帝と、皇太子ゾルザルがいるのを見て、皇帝の面前で大立ち回りをしたあげく、あそこにいる皇太子を素手で半殺しにしてのけた女性自衛官の存在を思い出したのである。自分もその場に居合わせたのだから、非常によく憶えている。
「帝国の貴族間でも、地揺れのあった夜の出来事は、まことしやかに語られておりましてよ。ですが、私のような可憐な少女が、無邪気さを発露してその構えを突破してみせれば、帝国の貴族達も安心して、お国の使節団の方々とお話をすることでしょう」
シェリーは、肩を揺するようにして「どうします?」と目をパチパチと瞬かせると悪戯っぽい視線を向けてきた。
こう言われては菅原として降参するしかない。
「わかりました。では、ご紹介しましょう」
「ええ。宜しくお願いしましてよ」
シェリーは、貴婦人のごとく菅原に介添えを求めて手を伸ばし、菅原は彼女の手を取るしかなかったのである。
・
・
・
・
「副大臣閣下。お初にお目もじ致します。私はテュエリ家のシェリーと申します」
シェリーが、白百合副大臣の前に出て、スカートを摘み上げるようにして見事なまでに日本語を操ってお辞儀する情景は、一枚の絵画のようであった。
スガワラ様とは、日頃から親しくさせて頂いております。という余計な一言がなければ菅原も大いに感嘆しただろうが、この一言で白百合以下、外務省の同僚達の視線が痛く突き刺さる。これらの視線が意味するのは、「お前、幼気な少女に何をした?」という詰問に近いものだ。あるいは「菅原、お前終わったな」という、出世競争の相手が脱落したことを喜ぶものであったかも知れない。
「これは丁寧に有り難うございます。可愛らしいお嬢さん、日本語はおできになるの?」
「いいえ、挨拶だけですわ。閣下」
白百合は帝国の言葉がわからないので菅原に通訳を求めて、これもまた丁寧に答礼して見せる。実際、このやりとりは、非常に微笑ましいものとして人々の目に映った。会場に居合わせた全ての貴族達は、密かに注目していたのである。これによって、日本国使節団に対する、近づきがたい雰囲気は払拭されることとなる。
そうなると、シェリーの先例に倣って、多くの貴婦人達が菅原に紹介を求めて来る。あるいはピニャへと紹介を求めてくる。そして、これに続くようにして議員や閣僚達が、それぞれの細君に引っ張られるようにして寄って来るのである。
日本の外交官達と、帝国貴族の間で相互理解のための会話、そして講和交渉の第一歩はこのような形で始まったのである。
・
・
・
・
硝煙の香り漂い、室内には屍が4つ。
ヒト種あり、ワーウルフと呼ばれる亜人や、トロル、ゴブリンであった。どれも鎧で身を固めて武装していたが、剣を下げているのに抜く暇もなく倒されてしまった。
生きている者は、それぞれに縛り上げられて部屋の隅へと転がされている。
既に自衛官達は、室内の物色を始めていた。タンスを開いて中身を引っ張り出し、テーブルはひっくりかえし、棚の物は全ておろす。ツボは中まで手を突っ込み、箱という箱は全てをあける。二重底になっていないか、物差しで中と外のサイズを測るという徹底ぶりだ。
グレイは、一瞬にして室内にいた敵を打ち倒してしまった自衛官達の力量に驚嘆の思いを感じながらも、自らの剣にこびり付いた血を拭いもせずに鞘に納めて、家捜しに参加した。
棚から下ろされた荷物、特に文書の類の点検を任されているのだ。
「あった、これだと思う」
二重底となっていた文箱の底を破ると書類や手紙の束が出てきた。戸津の見つけだしたそれを富田とグレイ、そして仁科が確認する。
「うむ。これで間違いない」
グレイはその羊皮紙に、フォルマル伯爵家の刻印が入っていることを確認した。フォルマル伯爵家の執事バーソロミューが、横流ししたものの一部であろう。それに商人からの書簡が多数入っている。
グレイはその手紙を、適当にあけてざっと斜め読みしていく。数枚目で、グレイは声を出して読み始めた。
「これであろうか?……以前より、ご依頼のありましたマツイ・フユキと申す者については、その働きはすばらしく、健康状態も良好であり、ご呈示頂きました20デナリの額ではお譲りいたしかねます。新たなる金額をご呈示下さるか、別の奴隷をご用命下さいますよう……云々」
要は料金交渉の手紙と言うことである。奴隷商人が、商品の働きがすばらしいとか、健康状態良好などと言うのは、魚屋が「うちの魚は生きがいいよ」と言うのと同じで、値段を釣り上げるための修辞だ。信じてよいものではない。
仁科は「さて、尋問を始めますか?」、と床に転がっている捕虜を見渡す。
この手紙が何処の誰とやりとりされていたものか、またこの連中が、どういう思想を持った人間の集まりで、どんなところから資金を得ているの。洗いざらい喋って貰う必要がある。
「小官に任されよ」
グレイはそう告げると、転がっている捕虜の一人を引きずって部屋から出ていた。
仁科一等陸曹は「栗林。グレイ氏に付き添え」と命じた上で、第2偵察隊長に無線で捜索していた物が出てきたことを報告した。すると第2偵察隊長は、突入時に建物から逃げ出した者があったことを、知らせてきた。
現在、その者は馬で帝都方面に逃げていると言う。当然ながら第2偵察隊がこれを追跡している。気づかれないように……。
仁科は第3偵察隊の面々を見渡して、「獲物が巣に向かって逃げてるそうだ」と告げるのだった。
・
・
・
・
宴席もそれぞれに挨拶を済ませ、出てくる料理の半分も減ると場が白けてくる。日本でも宴会も予定時間の半分も過ぎると、最初に座っていた場所からそれぞれ親しい者がいる場所や、親しくなりたい者のいる場所に散って、話し込んでいくものだ。
ゾルザルも、次から次ぎへとやって来る元老院議員や貴族のご機嫌伺いに、辟易としてしまった態度を隠そうともせず、ぶつぶつ愚痴をこぼしながら料理を口に運んでいた。
日本との講和交渉そのものが気に入らないと公言してはばからない彼としては、使節を歓迎しての宴会など出たくなかったろうし、次期皇帝として立太子された途端、ちやほやされるようになったことも気に入らないようである。
「ちっ。掌を返したようにおべっかを使いやがる……」
ゾルザルの吐き出した罵倒に、皇帝は「権勢とはそういうものだ」と言い聞かした。
追従、おべっかと、至尊の座に座れば誰も彼もが本心をおし隠して耳心地の良いことしか言わなくなる。それに馴れてしまってもいけないが、全てを拒否してもいけない。権力を持つということは、難しいことなのだ。
全て受け容れることと、全てを拒否することは方向性こそ違うが、自分の考えを持たないという意味で、結局の所同じ。何でもかんでも賛成する大政翼賛と、何でもかんでも批判する反権力の姿勢は、違うように見えるが、実は政治に対して無責任という点に置いて全く同じ態度なのである。故にどちらも信用してはいけない、等々。
これらは、モルトなりにする息子に対しての帝王教育だった。だがゾルザルの耳に入っても、彼の胸中に何かを刻むことはなかったようである。
「それぐらい承知しております」という言葉と共に、ゾルザルは席をあとにすると会場の若い軍人達の群れに歩み寄り、彼らと肩を抱くようにして親しげに言葉をかわしはじめたのである。
「若い軍人連中と、度々会合の場を設けているようだが……」
皇帝の独り言にも似た呟きに答える者がいる。皇帝の斜め後方に控えていた内務相のマルクス伯であった。
「はい。殿下に置かれましては、軍部との結びつきをとても重視されているようです。時折あのようにして、親しげに言葉を交わしておられるとの報告が入っております」
「己の統治に自信が欠ける者は、軍事力に頼ろうとする」
「ですが、政権を確固たるものとするために軍権を掌握する。これは間違っているとは申せません。殿下が、殿下のお考えで動かれることは頼もしいことでありましょう」
「それが、あやつの頭部より自然に湧いて出たものならな」
「と、申しますと」
マルクス伯の問いに皇帝は、僅かに口元を歪めただけで答えようとはしなかった。
・
・
・
・
帝国で開かれる宴席では、場の雰囲気を持たせるために様々な音楽や踊りをする専門家が招かれる。話や料理だけでは、すぐに飽きてしまうからだ。
華やかな踊りや、手品、そして曲芸の披露が終わると、次は、一人の吟遊詩人が招き入れられた。賑やかでやかましいものが続いたので、ここいらでしみじみと静かなものをと誰もが思っていたところにこれだから、大いに歓迎される。このあたり進行役に携わる者の妙味と言えるだろう。
吟遊詩人は、シタールに似た弦楽器をものを構えると、もの悲しい旋律で爪弾きだした。
貴族達は静かに耳を傾ける。
どのような芸であろうと、一旦始まったからには終わるまで見て、耳を傾けるのが礼儀とされているからだ。その代わり、最後まで聞いて、それが聞くに耐えないものであったならその芸人は、文字通り放り出される運命である。
『子の名を叫ぶ父、その姿に神々よ哀れみを
母の姿を求めし幼子の声に、神々よ聞きたもう、
民のすすり泣きが聞こえしか?天地にまします神々よ
大地に生きし民は、天の恵みに生き、天よりの災いにひれ伏す……』
シェリーは、冒頭部分を聞いただけで唇を尖らせた。すっかり日本使節団の群れに馴染んでしまった彼女は、菅原や白百合達に混ざり、クッションに半場寝そべるようにしている。
「私、この詩は嫌いです」
何気なくシェリーの不満が耳に入ったので、ピニャは尋ねてみた。
「何故か?確かに、こうした宴席では似つかわしくないような気がするが」
「だって、凄く気持が沈むというか、落ち込む詩なんですもの。同じ物を前に聞いたことがありますけど、その時も気持の沈むものでした。殿下は、そういうの、お好きですか?」
『……太陽よ、遍く照らせ、大地をその暑熱で焼くな
風雨よ、森を育てよ、暴風をもって大地を荒らすな
氷雪よ、大地を隠すな
雷よ、大地を抉るな
雹よ、砂嵐よ、静まりて作物を枯らすな
炎龍よ、眠り続けたもう
神々よ、何故炎龍の眠りを妨げる。何故災禍をひきおこす
母を奪われし幼子のすすり泣きを、父を失いし娘子の嘆き。
神々よ、民の嘆きが聞こえぬか
それは天災に対する人々の嘆きの詩だった。
高貴な者の集まる宴席で、悲しみと苦しみに救いを求める民が居ることを忘れないで下さいという、思いを込めてこのような題目をわざわざ選ぶ吟遊詩人は、時々居る。最後まで聞くという礼儀を逆手に取った一種の風刺だが、あまり喜ばれないし、次の機会には呼んでもらえなくなる恐れがある。それでも、あえてこうした行動に出るのは、それだけ声や、楽器を操る技、そして物語に自信があり、貴族達に聞き入らせる自信があるからに違いない。
また、彼らの物語の多くは実際に起きた出来事をモチーフとする。そのために遠く離れた場所で起きた出来事の詳細を知るには便利である。そのために不敬とされるほどの内容でなければ為政者達は、それなりの関心をもって聞くことが多いのである。
『民よ、ただ耐えよ
天に逆らうな、神々を恨むな、避けられぬ災禍は、頭を垂れてただひたすらに過ぎ去りしを待つことしか出来ぬ
神々よ、一刻も早く嵐を鎮め、干魃を治め、そして炎龍を眠りへと誘え
神々よ、聞きたもう、人々の祈りを
それとも足りぬと言うか。供物が、供犠が、貢ぎ物が。
民は波頭に翻弄される小舟の旅客。だだ身を寄せ合って、身を寄せ合って、耐えて待つ
神々よ、何もしてくれぬならせめて、我らに希望を灯せ……』
だが、たまたま追加の飲み物を運んでいた給仕のメイドが、やはりシェリーの苦言が耳に入ったのかこう告げた。
「お嬢様。この吟遊詩人、この詩の終わり方を変えたんですよ。是非楽しみになさって下さいな」
「あなた、聞いたことがあるの?」
「はい、お嬢様。一昨日、この吟遊詩人が新来舞台に立った時に。きっと流行ると思います」
新来舞台とは、旅をして流れてきた吟遊詩人が、立ち寄った村や町で、最初にする公演である。口コミを期待して大抵は無料で公開される。そのために、貧しい庶民が聞きによるが、貴族や商人でも新来の挨拶舞台ばかり好んで聞くことを趣味にしている者もいる。
メイドは、続きを聞きたいのか立ち去ろうとせずに、その場に控える。
実際、もの悲しさの底をついたように、曲調は少しずつ明るいものへと変わり始める。
『民よ、人々よ見よ。天を覆う暗幕が一条の光によって切り裂かれしその時を
永遠に続く夜はなく、過ぎ去りぬ暴風はない
春の来ない冬もなく、明けぬ夜もない
人々よ耳を澄ませ、遠く東方の地平からその気配が、その足音が、その声が聞こえる
光の向こう側から角笛の音高らかに、彼の者が大地に降りた
民よ、人々よ、彼の者の名を知るや?……』
「緑の人っ!!!」
会場にいたメイド達が、吟遊詩人の問いかけに黄色い声で叫ぶようにして応じた。吟遊詩人も満足げに微笑んで、メイド達に軽く会釈を返す。
『そは、神々の寵愛を受けし者。神々の贈り物、希望の光
民よ、人々よ、彼の者の宝具の名を知るや?』
「黒の鉄槌!鉄の逸物!」
何人かがこの詩を聞いたことがあうるようで、声を合わせて答えた。この詩は、詩人の問いかけに対して、聴衆が答えるようにして共に歌っていくものらしい。
『炎龍に襲われ、救いを求めし民あり。その名を知るや?人々よ!』
「コダの民!」
『緑の人、炎龍の前に立ちふさがり、その牙よりコダの民を救う。
盗賊に、襲われ滅びに瀕した街あり。その名を知るや?人々よ!』
「イタリカの街!」
『緑の人、盗賊を滅して、その災禍より街を救う。
北に捕らわれし娘あり』
「それは、名も無き黒髪の乙女!」
『緑の人、鎖をうち砕き、それを解き放つ。
南に、父の仇、討たんとする娘』
「金毛碧眼エルフの乙女!」
『緑の人、共に手を携えて遂に炎龍を討ち果たす。
人々よ、天を見上げよ。我らを苛んだ災禍の風が過ぎ去っていく
人々よ、地平を見渡せ。我らを追い立てた、業火が消え去ゆく
人々よ、頭を上げよ。我らを包んだ闇が晴れ、青空が広がっている
さあ、共に喜ぼう、平安の訪れを
さあ、共に謳おう、希望の喜びを
そして、たたえよう緑の人を』
炎龍を討ち果たす……の下りで、貴族の多くがざわめく。吟遊詩人の詩が本当ならば、炎龍が倒されたと言うのだから。
当然、多くの者が吟遊詩人に問いかけた。その詩は本当かと……いや、嘘だろう、いくら物語でもいい加減な創作をするな、と。だが詩人は、その問いに答え馴れているのか、あるいはその問いを待っていたのか、僅かに微笑むと再び楽器を構えて、緑の人による炎龍退治の物語を奏で始めた。
それは、滅びに瀕した故郷を救うために、ダークエルフの娘が緑の人を求めて旅に出るところから始まる、延べ一時間に渡る壮大な叙事詩であった。
・
・
・
・
* *
・
・
・
・
本来ならば、このような公式の場にテューレは、近づくことすら許されないものである。個人的に娯楽を求めることも許されないから、吟遊詩人の物語りを、彼女が耳にすることもなかった。
だが、ゾルザルは彼女を宴席からそう遠くない別室に控えさせた。
ゾルザルは気分1つでテューレを求める。不満なことがあれば、テューレを陵辱し暴力を振るうことでその憂さを晴らし、意気消沈するようなことがあれば、彼女に温もりを求める。そのような時のために彼女は、常に近くに侍ることを強いられていたのだ。
だから、メイドや使用人達も、彼女がここに居ても居ないかのように振る舞う。
人気のない部屋の中。することもなく、主が姿を現すか、時が流れるのをただじっと待つ身。そんな退屈への不満が、宴会場からわずかに流れてくる吟遊詩人の声に、ポーパルバニーとしての鋭い聴力を傾けさせたのは仕方のないことかもしれない。
最近、ゾルザルが寵愛するようになった料理人から、届けられるようになったキャロットクッキーという菓子。所詮、テューレがゾルザルのお気に入りであることを知って、その関心を得たいが為のものだろう。だが、菓子に罪はない。その甘い感触にほんの少しの幸せを感じながら、音楽と、そして詩人の声にじっと聞き入る。
その詩は、人々の不幸をうたったものだった。
そうだ、その通りだ。誰も彼もが、我が身に降りかかる災難を耐えながら生きている。テューレは共感の心で目頭が熱くなるのをこらえながら、神々に対してどうにかして欲しい、苦しみや悲しみから救って欲しい叫ぶ歌に浸った。
故郷を奪われ、同胞からは憎まれる。そんな境遇も、我が身だけではないと思えばこそ、耐えられるのである。だから世界が憎しみあい、殺し合い、悲しみで埋め尽くされることは、彼女にとっての慰めとなるのだ。
だが……物語はテューレにとって、残酷なものとなった。
炎龍をうち払い、人々を救ったという緑の人。
盗賊を討滅し、街を救ったという緑の人。
捕らわれた娘を救い出したという緑の人。
そして、エルフの娘を狂気から救うために、そしてダークエルフを滅びから救うために、懇願に応じて立ち上がった緑の人。
「嘘だ」
もし、そのような者がいると言うのなら、彼の者はどうしてテューレを救わないのか。
世界に、自分ほど救われる価値のある者は存在しない。自分は同胞を救うために我が身を投じたのだ。だから、何者に比しても自分が救われなければならない。なのにどうして自分はこのような境遇に耐えつづけなければならないのか。神はどうしてこのような不公正をお許しになるのか。
テューレは沸き上がる憤りと悲しみにわななく。
自分と似た境遇にあった紀子は救われた。
たった一人の民を救うために、日本という国は兵を差し向けて、帝国の奥深く宮廷にまで乗り込ん来たのだ。少なくともテューレには、そう見えていた。自分と紀子。二人の境遇の違いはどこにあるのか。その違いに対する憎悪と嫉妬が、彼女の暗い情念をかき立て紀子を含めた、ニホン人奴隷の暗殺を命じた。まだ、結果の知らせは届かないが、この手のことは手間がかかる。焦って急き立てればしくじる恐れもある。だから、矢を放ったなら、その結果は悠然と待つべきなのだ。きっと、紀子とニホン人は残忍な死を迎えるだろう。いや、もしかして今にも死んでいるかも知れない。
「許せない」
コダ村の住民が救われることも許せない。ならば亡ぼしてやる。
イタリカの街が救われたことも許せない。ならば亡ぼしてやる。
そして、エルフの娘も、ダークエルフが救われることも許せない。ならば亡ぼしてやる。
緑の人の伝説は、民にとって福音ではなく、災厄の始まりであるべきなのだ。少なくとも、自分が救われるまでは。
もとより、ゾルザルの野望をかき立て、耳に毒の言葉を注ぎこみ、世界を破滅の業火で覆い尽くす。そのためにこそ生きている。だが足りない。それでは足りない、災厄と、悲劇が足りない。何か策を。もっと策を、策を、策を。
テューレは、いかにして世界を亡ぼすか。いかに人々を苦しめるか。有り余る時間をそのことのみに費やし、呪詛し続けた。
その事ばかり考えていた。
だから、夜会が終わったことも気づかなかった。
いつの間にか、ゾルザルに連れ帰られ「どうして、この俺が敵国の使者を歓迎せねばならぬのだ。しかも女だと?!緑の人だと?炎龍を倒すなどありえん」等という罵倒とともに、憤懣をぶつけられても日頃しているようにゾルザルを満足させるような反応を返すことが出来なかった。
ただ、歯を食いしばって責め苦に耐え、時が流れるに任せてしまった。
ゾルザルは、テューレが普段のような自分の嗜虐心を満足させる反応を示さず、ただ木偶人形のようにぐったりとしていることに、ことさら激昂した。嬌声をあげさせようと普段にも増してテューレを攻め抜き、苦痛の声をあげさせようと、殴り、叩き、虐待し、締め上げた。
だが、どのようにしても思った通りにならないことを悟ったゾルザルは、テューレをベットから投げ捨てるように放り出す。その衝撃に呻いたテューレは、ゾルザルへ恨みがましい視線を向けた。
「ふんっ、木偶が。少しは、反応して見せろっ!」
「……………………………………………………………………どうせ」
普段見せない、テューレの反抗的な程度にゾルザルは「ん?」と訝しがる。
「どうした、その目は?何か言いたいことでもあるのか?」
「どうせ、わたしの故郷はもう無いのでしょう?!とっくの昔に、滅ぼしてしまった癖にっ!!」
テューレの悲鳴にも似た言葉に、ゾルザルも流石に怯んだ。少しの間をおいて、「なんだ、知っておったのか」と鼻白む。
「知っておりました。知っておりましたとも、人でなしっ!!」
テューレがゾルザルにつかみかかる。
「ほう?たかが、亜人の分際でよくぞ言った」
ゾルザルは、テューレの両腕を強引にねじ伏せると押し倒した。ポーパルバニー故の、意外な力にゾルザルは圧倒されそうになったが、常人よりは体格の良いゾルザルはどうにか組み伏せることに成功した。これまで従順だったテューレの激しい抵抗は、ゾルザルの嗜虐心を高まらせたようだ。
「ずいぶんと健気に抵抗するではないか。これまでと趣向が変わって、楽しめそうだ」
実際、反抗するテューレをねじ伏せることは、ゾルザルをこれまでになく興奮させた。怯えて震える兎を嬲る肉食獣のような気分になって、ゾルザルはテューレの頬を舐めあげた。
「畜生っ!ひとでなしっ!畜生っ!けだものっ!」
テューレの悲鳴がゾルザルの寝所に響く。そして、それに混ぜるようにテューレが毒に満ちた一言を放った。それは胸中に閉じこめた憎悪を奸智の炎で煎じ詰めた、呪詛の猛毒だ。
「今は、力ずくで私を犯せばいい。したいだけ蹂躙すればいい。だけどそれは続かない。きっと、緑の人があなたのような者の存在を知ったら、きっと討ち滅ぼすでしょう。炎龍すら倒した緑の人にあなたなんかが、かなうはずない」
何度も肌を合わせれば、女は男がどんな精神を持つか理解する。
テューレの知るゾルザルは、外見的には威勢良く、自信たっぷりに見えるがその実は憶病な男である。帝位に就きたいと望んでおきながら、その実、国を統治する自信が全くないのだ。だから口先で我こそは次期皇帝などと言っていても、裏では次弟に皇位を奪われるような隙をわざと作っている。平素の粗暴さがそれだった。愚かしい行動がそれだった。要するに、無意識に帝位を遠ざけようとしていたのだ。
何故か。帝位に就かなければ己の実力の無さを実感しなくて済むからだ。
至尊の座につけなかったのは弟の奸智や、卑怯な元老院のせい。自分に与えられるべき物が不埒な者共によって不当にも『奪われた』のであり、自分は悪くない。自分は被害者である、と誤魔化して生きることが出来る。そして、自分が帝位に就いたなら国をもっとよりよい方向へと導いていける、と『可能性という名の果実』を、いつまでも舐っていることが出来るのだ。
だが情勢は変わってしまった。ついに皇太子となってしまった。
帝位は目の前だ。目の前まで来てしまった。
己が望んでいた地位だ。喜ばねばならないと喜んで見せている。だが、だが、だが、だが……それは所詮は虚勢。
テューレは知っている。ゾルザルが、内心で帝位に怯えていることを。
自分の政策が次から次ぎへと失敗し、国が壊れ、民の怨嗟の声が沸き上がる。
無力な本性が暴露され、ありとあらゆる存在が、自分を指さして罵る夢を何度も見ていることを知っている。その時が訪れることを心の底から恐れている。権力に対する渇望と恐怖の二律背反。それがゾルザルを苛立たせ、より粗暴にし、愚かにさせる。
だからテューレは唆した。夢に怯える子供のようなゾルザルを優しく抱き、その耳に注ぎこんだのだ。毒の言葉を。
「力こそ全て。自分が正しいと信じる政策を、断固として行うためには、反対する者を制するだけの力が必要です。反対する者がひとりもいなければ、貴方の政治はきっと上手く行くことでしょう」
ゾルザルはそれに乗った。自分が皇帝となった時、反対者の存在を許さないために、絶対的な独裁体制を敷くために、軍権を握ろうと欲しているのである。
そんな劣等感の塊とも言えるゾルザルは、テューレの一言で案の定は我を忘れる。
事実を暴く者は、許さない。
テューレに頬に、頭に「俺に逆らうな。逆らうな」と拳を叩きつけながら、ゾルザルは緑の人に対する怒りを爆発させた。
炎龍を倒したという確固たる実績に対する羨望。
自らが欲して得られない、人々からの声望に対する嫉妬。
心身共に自分の所有物だったはずのテューレですら、緑の人を頼りにして自らに反抗しはじめた。それはゾルザルにとって恐怖に違いない。緑の人の存在に励まされて、自分に不満を持つ者が、続々と背を向け、反抗を始める。そんな幻想が男の目には見えていることだろう。
ゾルザルは、テューレを暴力で征服する。ねじ伏せる。
同じように、全てを暴力で征服する。ねじ伏せようとするだろう。
「いいだろう。反抗したくばするがいい。だが、お前は俺の物だ。絶対に手放さぬ。手放してやらぬ。お前の所には、決して緑の人とやらは来ない。来れないようにしてやる。何故なら、この俺が、そやつを、きっと、必ず、絶対に殺してやるからだ。お前のその反抗的な態度が、絶望によってどんな風に変わるか、楽しみにしているぞ」
こうして、緑の人という存在は、ゾルザルにとっての不倶戴天の敵となったのである。