[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 35
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/09/16 20:42
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こうして、日本の外務担当者と帝国元老院議員との間で、講和の準備交渉の開催が同意された。
これによってピニャの請け負った『仲介』の任もその山を越えて一息つけるところである。あくまでも彼女の役割は仲介なのだから、あとは日本当局者と帝国側元老院議員の仕事だ。
ピニャの任は、日本当局者の往来を保証したり、便宜を図ったりへと移行して、少しずつ役割の重要性…つまり責任が低下していくことになるはず。代官に任せっぱなしのフォルマル伯爵家の後見事務や、騎士団の管理運営、そして趣味の芸術にも、今よりも多くの時間を割くことが出来るはずだ。
帝室の一員として、今後の交渉の推移は確かに心配になる。だが、応対するのは海千山千の議員達。彼らも現実を認識した以上、自分などよりも遙かに上手くやってくれるだろう。それぐらいは期待しても許されるのではないかと思う。
さらに、前にボーゼスのやらかした失敗についても、伊丹の宥恕(ゆうじょ/寛大な心で罪などを許すこと)を得て、心のわだかまりというか罪業感というか、後からあのこと言われたらどうしようという不安と恐怖の混ざった後ろめたい感じと言った、いろんな重石がすっかりとり払われ、すっきりさっぱり、青天白日の気分になった。
だもんだから、涙をはらったピニャの笑顔は、それはもうとても明るく朗らかにして美しいものであった。
直前に、どん底まで突き落とされて地の底にめり込んだ分、舞い上る急上昇は、PAC3のミサイル並み。女であることを前面に押し出してくる相手が苦手な伊丹も、このような無防備で邪念のない笑顔には、思わず心臓を鷲掴みにされてしまう。
まして、ギュと抱擁されて彼女の双丘の感触とか、ぬくもりとか、花の香りとか、いろいろと五感に訴えてくる刺激が伴ってれば、好感度1だったとしても、8(10点満点中)ぐらいに急上昇しても不思議はないわけで、年甲斐もなく伊丹は顔を紅くしてしまった。
「あの、その、殿下。ちょっとくっつき過ぎです。人目とかありますし…」
「この手が嬉しい」「この身が嬉しい」という状態では、こんな抗議の言葉も言い訳程度になりさがる。要するに、後で誰かから揶揄されたり詰問された時のためのアリバイ工作でしかないのだ。
もちろん今のピニャには「それが、どうかしたか?」である。うれしさの余り舞い上がっている彼女は、自分が今、何をしているのか判っていない。わかっていても気にならない。だって、心底嬉しいのだから。
ま、役得かなぁ…などと伊丹は思うのだが、後でしっぺ返しの有りそうな気配に諸手をあげて喜べないところである。
そんな時に、伊丹の耳に装着されていたイヤホンは、空電音と共にこんな音声を放った。
『アベンジャー、こちらアーチャー。送れ』
舞い上がっていた心拍数が急激に低下して、ほのかに温まっていた血液と脳みそも氷水を流されたがごとく、たちまち冷えた。プレストークボタンを押し込んで、囁くように言う。
「こちらアベンジャー。どうした?」
『楽しんでいるところすまん。招待客とは思えない、騎馬の小集団がSSL(監視警戒線)を越える。真っ直ぐそっちに向かう模様』
「暫し待て」
伊丹はそう告げて置いて、懐中のピニャへと視線を降ろした。
「殿下。ここに騎馬の一隊が近づいてきていると言う報告が入りました。何かお心当たりは?」
「はて、聞いておらぬが……それが、どうしたのか?」
東洋の古い医学書には、感情が一定の線を越えると心身に悪い影響を及ぼすと書いてあるそうである。怒れば、気が頭に向かって突き上がって(怒りの余り顔が真っ赤になるのはのは解りやすい反応である)、血管がプチッと行くおそれがあるし、恐怖が過ぎると、気は下方向に突き下がって、大小便を漏らさないように頑張っている括約筋をこじ開けてしまう。しかも腰が抜けて立てなくなったりする。
同様に、喜びが過ぎると、いろいろと緩むのだそうである。まぁ、ピニャの場合は緩むというよりはタレるという感じであるが、そう言う意味では精神的な緊張が弛緩して、反応が悪くなって、さっぱりと役立たずになり果てていた。
人には、ストレスがかかっていた方が思考が冴えるタイプがいる。ピニャもそれに属するようだと思いつつ、伊丹としては近接中の騎馬の小集団が、盗賊とか無頼漢の類、あるいは帝国の軍関係といった不測の事態を想定して、するべき対応を考えていた。
影で警護をしてくれている『S』に処理を依頼しても良いが、相手が誰だか判らない段階では避けたい対応だ。彼らが動くと言うことは闇に葬ることを意味するのだから。後々で、ピニャに迷惑が及ぶ場合も考えられる。
盗賊や無頼漢の類だったら、それとはっきり判ってから排除すればいいのだ。問題は、帝国の政府あるいは軍関係であった場合だ。その際は、よっぽどの危険がなければ、排除のような強硬手段は使いたくない。それくらいなら、見られたら不味いもの、まだ、知られない方が良いとされるものを隠す方がよい。
伊丹の基本的態度は『逃げ』だから、判断は早く悩まない。
「富田!倉田!勝本!高機動車で議員の方々を、ここから連れだしてくれ。菅原さん、なんだか知らないが、騎馬の小集団が近接中。会談は中止して下さい。VIPをここから離脱させます。でも、園遊会は止める必要はないです。ご家族は、ここにいても問題ないでしょう」
銃や、迫撃砲の後始末をしていた自衛官達も、矢継ぎ早な伊丹の指示にはじかれたように走り出した。菅原も、議員達に駆け寄って、身振り手振りで懸命に事態の急を告げた。
たちまち、迫撃砲も、銃も弾薬も片づけられる。
ピニャも、伊丹に両の頬を「しっかりしてください。心を引き締めて」とピタピタと叩かれて、ようやく精神の建て直しを始めた。
菅原から状況説明を受けた議員達は、ニホンとの講和交渉がまだおおっぴらに出来ないことはよく認識していた。主戦論が主流の現状で自分達が講和の下準備に手をつけているなどと知られたら、過激派に刺されかねない。それに、内務相が何やらキナ臭い動きをしているという噂も耳に入っている。
「議員達が集まっている=講和交渉の準備」と、すぐさま結論づける発想があるとは思えないが、噂や様々な思惑の断片が、変な形で結びついて、真実を浮き彫りにしてしまう事が無いとも言えないのが、現実なのである。
従って、急遽この場を離れることには同意であった。万が一、近づいてくるのが盗賊や暴漢の類であっても家族を残していくことについては心配していない。ニホン人の武器の恐ろしさは、今さっき認識したばかりなのだから。そして家族達だけが園遊会で楽しんでいるだけなら、後ろ指さされる理由は一切ない。
交渉を行う、話し合いをする、という意味では合意を見たのだから、会談の日程だの細かいことは、後で書簡でやりとりしてもよい。そういうことで、議員達は身1つで走り出そうとした。
ちょうどそこに、3両の高機動車が砂塵を巻き上げながら急停車する。これらの車両は第1偵察隊が、おいていったものだ。計6名の自衛官達が、彼らの前に降り立った。
銃や迫撃砲に驚いた議員達は、今度は馬無しで、しかもとんでもない高速で走る荷車の登場に再度、驚愕することとなる。これによって、遠いと思っていたアルヌス丘と帝都の距離が、ニホンにとっては指呼の間でしかないことを知り、皇帝が頼りとしている距離の防壁すら役立たずであるという事実をつきつけられることになるのである。
「これに乗せてくれるのか?」
「皆様を帝都の城門近くまでお送りいたします。人気の少ない、南東門で申し訳有りませんが、スリルあるドライブをお楽しみいただけると思いますよ」
南東門は、森に面した小さな戸口程度の出入り口で、道も薄暗くて、人通りも滅多にないところとして知られていた。東と南にそびえる城壁によって陽当たりも悪く、水はけなどの生活環境も劣悪だった。必然的に住む人間も下層階級に属する者ばかりで貧民街が形成されている。それだけに、治安も悪く『悪所』とされている。少なくとも、まっとうな人間がうろつくところではないのである。
だから、目立つことなく帝都へと出入りすることも可能だった。
実は、自衛官達も帝都への出入りには南東門を使っている。既に、そのあたりの地理も把握済みだし、門番等も、金銭ならびに、日本の品物等でちゃんと買収済みである。悪所に蔓延る無法者集団も、同様の挨拶をして手懐けてあったりするのだ。
倉田の案内で、20余の議員達は次々と高機動車に分乗した。
そして、高機動車がエンジンの咆哮とともに駆け出すと、皆、ジェットコースターに初めて乗ったお年寄りのような声をあげたのだった。
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ゾルザルが、取り巻き連中と共に、帝都郊外の森林公園にたどり着くのと、高機動車が走り去るのは、ほぼ同じタイミングだった。間一髪と言って良い。ちょっと耳を澄ませば、森へと消えていくエンジン音が聞こえたはずである。(何の音か、判別することはできないとしても、何かが遠ざかっていくのは判ったはずである)
ところが、ゾルザルが見た風景は、料理や、果汁飲料がふんだんに振る舞われ、様々な遊具で楽しむ子ども達と、その親、あるいは着飾ったドレス等の華を競うご婦人達。耳に入るのは軽快な音楽であって、マルクス伯から陰謀めいた会合が開かれていると聞かされていた分、その陽気な様には毒気を抜かれてしまった。
「なんだ、これは…」
招待を受けた身ではないが、制止する者がないのでゾルザルは進んだ。皆も、馬で乗り付けてきたゾルザル達に、怪訝そうな表情と視線を向ける。
ここにいる女性は、よくよく見れば貴族のご婦人あるいは令嬢だった。中には宮廷などで見知った顔もあった。そんな女性達は突然の闖入者に驚きこそしても、それが皇帝の第1皇子であると知れば、「皇子様もご招待されていたのね」と勘違いして、みんな恭しくお辞儀で迎えた。何しろホストの1人が皇女なのだから、その兄の皇子が招かれたとしても変とは言えない。それだけ格式の高い催しだと認識するだけである。
ゾルザルも、その取り巻き連中も、粗野ではあるが乱暴に振る舞ってはいけない相手と場はわきまえている。陰謀と関わりのない貴族やその家族というのは、当然のことながら礼節を持って相対すべき存在であり、まして、足下を小さな子ども達が走り回っているとなれば、「どうしてくれようか」と猛っていた気持ちをまずは落ち着けて、馬から下り、手頃な者に声をかけて事情の把握につとめるのだった。
「ここでは、今何をしているのだ?」
「ピニャ殿下と、スガワラ閣下共催の園遊会でございます。気取った集まりではなく、みなご一族や子ども達も招いて、垣根を取り払った楽しい一時を送りましょうという趣向でございます。殿下もお呼ばれで参られましたのではないのですか?」
答えたのは老メイド長だった。歳は取っているが、凛と背筋が伸びて受け答えも堂に入ったもの。また、異母妹ピニャの名が出てきたことに気を取られて、スガワラという聞き覚えのない名前もそのままに聞き流してしまった。
メイド達が、ゾルザルや取り巻き達にも酒や各種の料理を振る舞った。トレイの盛りつけられた各種の料理…例えばゼラチン質を含んだ肉汁を冷やして出来た塊(各種の食材が混ざり込んでいる)を切り分けた「煮凝り」という料理や、マ・ヌガ肉、果物、小麦を延ばして焼いた薄いパンで、各種の野菜や肉を包んだもの等が、それこそ山のように彼らの前に差し出される。
あっけに取られたゾルザル達はそれをそのまま受け取って、口にしてみて、皆顔色を変えた。
「美味い…」
煮凝りの弾力が有りつつも、口中でとろけていく食感、そしてじわっと広がるうま味は快感とも言えた。偉大なる作曲家は飲み物の味を1000のキスに例えたと言うが、この舌触りは、恋人と舌をからめる感覚にも似ていた。サイズ、弾力、味付けともに料理人古田が工夫を凝らした、渾身の一品である。
瞬く間に貰った料理を平らげて、取り巻き連中はそれぞれに気に入った料理のお代わりを貰いに散ってしまった。
「う~む」
一方、ゾルザルは不可解な有様に首を傾げていた。マルクス伯が嘘を言ったとも思えない。そんな人を騙すようなことをしても内務相には何の利益にも成らないはずだからだ。自分をこの催しに参加させるために、あえて嘘を言ったということもあり得るが、それならばもっと別の言い様も有ろうと言うものだ。
少なくとも、このお祭りめいた場では、マルクスの言ったような陰謀が行われているとも思えない。何かの間違い、あるいは場所を間違ったかと思いながら、怪しむべきものを探すために園遊会を見て歩いた。
もちろん、時折見かける珍しい料理や飲み物が目に入れば手を出してみたりする。
「………う」
どれもこれも帝室の料理人が作る美食に馴れたゾルザルをして、唸らせる味であった。
スープもただのごった煮のようだが、非常に味が深い。黄金のごとく透き通った琥珀色をして、芳醇な香りが沸き立つようだ。
マ・ヌガ肉も、かぶりついた時の食感が違った。プリプリした歯ごたえが堪らない。それも、ただ焼いただけに見えながら火の通し方が絶妙なのだ。さらに塩や独特の風味(香辛料)の使い方も見事としか言いようがなく、これまで食べてきたマ・ヌガ肉と比較しようとすること自体おこがましくも思えてくる。
ゾルザルは肉にガツガツとかぶりつく。その、じわっと口中に流れ込む脂と肉汁の旨みを堪能して、お代わりへと手を伸ばす。瞬く間に、二つ三つと平らげてしまった。
「兄様!!」
自分を兄様と呼ばう女声は、この場に置いてはピニャしかない。ゾルザルは食い終えた肉の骨をポイと道ばたに捨てると、声の主に顔を向けた。
見れば足早にピニャがやってくる。ゾルザルには彼女が騎士団ごっこの従者達を連れていないことを「おや?」と思いつつも、この催しがピニャ主宰のものであるならマルクス伯の注進も、やはり誤りだったと結論づけた。
ゾルザルの知るピニャは、騎士団ごっこに興じるだけあって軍事主義者でありバリバリの主戦論者でもあったからだ。その彼女が講和交渉の仲介役になっているなど、思いもよらないことである。
「兄様、今日は何のご用でありましょう?」
ゾルザルは「なんだ、来てはいけなかったような口振りだな」と、ピニャに応えながらも、手は四つ目のマ・ヌガ肉へと伸ばしている。
ピニャとして見れば、もちろん来ないで欲しかったのだが、社交辞令としても色々な立場的にも、そうはっきりと口にするわけにもいかないから、「何をおっしゃいますか。兄様を拒む門などどこにもございません。ですが、兄様は以前からこのような催しには無関心でらっしゃられたので……あ、これを使うと美味いですよ」と、これまた古田謹製のマスタードをゾルザルの手にしたマ・ヌガ肉に振りかけつつ、言い訳した。
ゾルザルは、そのマスタードというソースの色合いと、鼻を突くように香りに少しばかり「うっ」と躊躇いつつも、かぶりついた時の辛みを伴った味わいにさらに目を白黒させた。
「ピニャ、ここで出している料理を作ったのは、誰だ?どこで見つけてきた」
五つ目のマ・ヌガ肉に手を伸ばしたゾルザルは、今度は自ら肉が真っ黄色になるほどのマスタードをかけた。どうやら気に入ったらしい。
ピニャも、目の前で真っ黄色になっていく肉の塊に、若干退き気味になりつつも「ひょんな事で縁がありまして…」とぼやかして応えた。直接料理をしたのはこちら側の料理人だが、香辛料やら調味料の手配や調理の指揮采配をしたのは自衛隊のフルタだ。ゾルザルなどに縁が出来て良い立場ではないのである。
「今度、宮廷に招いて晩餐を作らせたいな。皇帝陛下も喜ばれるだろう」
「兄様。いくら兄様の希望とは言え、そういうわけにも参りますまい」
宮廷では、料理人と言えどもガチガチな序列の中に置かれている。どこの誰かわからない料理人を連れてきて食事を作らせるというのは無理な話なのである。だが我が儘勝手や、傍若無人な振る舞いに馴れているゾルザルは、ちょっと肩を竦めただけで裏技を編み出した。
「なぁに、それならば宮中で料理をさせなければよいのだろう?どこぞの貴族の家を借りればよい。そこへ遊行という形を取れば、晩餐の問題は解決だな」
ピニャは一瞬、これを機会に兄にニホンの真実を伝えることは出来ないかと考えた。だが、すぐに無理だと結論づける。彼女の長兄は、感情の人であり、その手の人物は理性を超越したところで行動を決めているので冷静な判断というものが出来ないのである。
そう。彼女の長兄は、ある意味で『自己を満たすファンタジーな認識世界』で生きているのだ。ありとあらゆる存在が自己を祝福し、エゴを満たすもので世界は充ち満ちていると感じている。それを否定するものは、例え真実…いや真実だからこそ敵だった。と同時に、自己を満たすものなら嘘でも信じて主張しちゃう人なのである。
そんなこともあってピニャの兄貴は、ありとあらゆる文明文化の遺産が、実は自分達が元祖であり、歴史上の偉人は、実は自分達の祖先であったとか、本気で信じちゃっている。遂に野球まで、自分達が元祖だと言い始めちゃった某半島の住民みたいに。そんな人に、門の向こうは帝国を遙かに越えた文明国である、我が国はボロ負けしていて、絶対に勝てないと説明しても、見せても、言い聞かせても、理解しないだろう。というより、真実を知らせる人間は敵だと見なされるのがオチである。
実際に保護され、学校に通わせて貰って、育てて貰って置きながら、養い親に対して、あんたみたいな親に育てられなくても、俺は立派な大人になれた。今みたいな自分になれた。生きて来ることが出来た、と言い放つ(そのくせ、自分の欠点については、あんたみたいに親に育てられたからだ。責任を取れとか言い出したりする…)タイプである。
だからピニャはゾルザルに真実を伝えることは早々に諦めた。
問題は、どうして兄貴がここに来たのである。ただの偶然ならいいのだが。そんな思いを込めて、尋ねてみると「マルクス伯から、ここに行ってみろと言われた」と言う。
「マルクス伯が、そのように言っていたのですか?」
「いや、そのような意味合いのことを言っていたのだ」
「では、なんと言ったのです?」
しつっこく詰め寄るピニャに対して、ゾルザルは舌打ちして「ここで陰謀の集まりが開かれているとか、そんなことだ。間違いだ、間違い。気にするな!!」と振り払うように言った。
そして、取り巻きと共に、さらなる料理の攻略へと突進していく。アイスクリームにいたっては子ども達を押し退けていたほどである。
それを見送ったピニャは、「マルクス伯か…」と、その名を反芻するのだった。
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さんざん喰い漁った上に、さらに両手で抱えるように料理をかっさらっていったゾルザル達。この手の園遊会の料理は、普通余るように用意するものだが、予期せぬ闖入者のおかげで、料理は少しばかり足りないという事態に陥った。アイスクリームに至っては、バケツごと(危うくメイドさんごと持ち去られるところであった)持ち去られ、皇帝の第1皇子は少年少女達から大いなる不評を買っていた。
お陰で食べ損なったのは、ピニャや菅原、伊丹達自衛官と、メイドさん達である。ちゃっかりと隙を見てつまみ食いしていたメイドさん達や、味見と称して料理を口にしていた料理人達は良いとしても、楽士達や、伊丹達は空腹からかいささかご機嫌斜めである。
それでも、彼らは笑顔をつくって貴族とそのご一族が、手みやげを貰ってほくほくの笑顔で帰って行くのを見送った。けなげである。浦安にあるアメリカ鼠ランドの着ぐるみの中の人の気持ちが、多少は理解できようというものだ。
ピニャと菅原達は、一転して寂しくなった森林公園の一隅で、メイド達が伊丹達自衛官の手伝いを得て後かたづけに働いているのを後目に、老メイド長の入れてくれた香茶を傾けつつ、古田がわずかに残った魚の骨を揚げて拵えた菓子(塩胡椒を効かせると結構食えることにピニャは大いに驚いていた)を摘みながらゾルザルがここに突然やって来た意味について話し合っていた。
「これは、マルクス伯からの警告と考えるのが妥当であろう」
「威力偵察とは考えられませんか?何か行われてるみたいだから、踏み込ませて確かめると言う感じで」
「それもあり得るが、威力偵察に兄様を使うというのは解せない。兄様は、すぐに血が頭に上るからな…取り巻きも似たような者でな、威力偵察と言うより、ただの襲撃になってしまうぞ」
「冷えた頭の持ち主はあの中にいませんでしたか。ならば威力偵察には向きませんね。とにかく引っかき回すと言う意味では、警告と考えるのも妥当です。でも、お兄さまの人柄から考えるなら、殿下ご自身が言われたように、攻撃のつもりだったと考えてもよいのでは?」
「確かに、今日の集まりが元老院議員達が陰鬱な表情でひそひそと話し合うと言うものだったら、兄様は嬉々として蹴散らして、ひっとらえた上で帝都中に触れて回ったろう…本来、議員達が会合して話し合うことは罪ではない。だから普通ならそれを告発することは出来ない。だが兄様は血の上りやすいからな、そんなこと考えもしないで、やらかしてしまうだろう。それを知っていてあえて兄様を使ったか…」
法的には告発できないが、それとは関係なくゾルザルは議員達を公開の場へと引きずり出し、売国奴と罵り、その行為を陰謀と称して声高らかに弾劾しただろう。
もちろん、議員達も反論するだろう。ゾルザルの行為も反論の余地が多すぎる振る舞いだ。手続に寄らない議員の拘束、告発。なによりも、議員達が国の行く末を案じて議論することを否定しては元老院の機能を果たせない。水面下で敵国の使節と接触して交渉を持つことだって、外交上は至極当たり前に行われることであり、それを否定したら戦争はどちらかが滅びるまで永遠に終わらない。
が、こうなると手続の正当性よりも、どちらの言葉が聴衆の感情を刺激するかということになる。
ものと言うのは常に『言いよう』なのだ。売国行為、敗北主義…ゾルザルによる煽動を受けて、主戦論者の感情は沸騰するだろう。
その勢いに負けて、講和論者を含めた元老院派の意見は封殺されかねない。皇帝派・主戦論者は、より勢いを増すことになったはず。
「なるほど、マルクス伯はそれを狙ったと言うことか」
だが、それだけでは弱すぎた。この手の煽動による熱狂は、強い酒を飲み過ぎた時にも似て、翌朝、2日酔いと共に目が醒めてみれば、酔っていた時の醜態に恥ずかしくなるだけだからだ。流石に酒のように翌日とまではいかないが、続いたとしても数日がいいところだろう。
興奮が醒めれば、講和派の元老院議員達は、法に反することは何もしていないと言う事実に気がついて、処罰を求める声も小さくなってしまう。逆にゾルザルを非難する声が大きくなる。ただでさえ日頃の振る舞いに、元老院議員も眉を顰めている。そうなれば、ゾルザルを排斥して、次兄のディアボを次期皇帝にと、推す声が強くなるはずだ。ゾルザル排斥はかまわないとしても、次兄ディアボは元老院派に属しているから、これはマルクス伯にとって面白いはずがない。
ピニャは香草の鎮静作用に頼りながら、冷静に思考の糸を紡ごうとしていた。一本の精緻な糸を、切れないように丁寧に紡いで、それをさらに考察と言う名の錦へと織り上げていく作業は、非常に疲れるものであった。
「いずれにせよ、我らの動きはマルクス伯に察知されているとみなさなければならぬな。と、なれば今回の失敗を受けて彼の者がどんな形で巻き返して来るか、だ」
「和平への動きを頓挫させるとすればいろいろと考えられますが、この場合に最よく用いられる手段は、一般だと要人暗殺ですね。体制側のとる手法としては、反対意見をもつ要人、知識人、マスコミ関係者を一斉に捕らえるなどでしょうか?あと、世論に対しては、軍事活動を活発化させて戦果発表で戦意をあおるという方法があります」
菅原が提示した手法の中で、ピニャの思考の琴線に触れるものがあった。
「要人を一斉に捕らえる?」(ちなみにマスコミと言う単語は理解できずにスルーしている)
国家反逆罪という罪名が頭に浮かぶ。「まさか…」という思いと同時に、不安が立ち上る。帝国の歴史を見ても、よくある話だったからだ。
「それぞれの議員に、身辺の警護に心を配るように伝えなくてはならぬな」
もし、マルクス伯が本気で『国家反逆罪』の適用を狙っているなら身辺に気をつける程度では意味がないのであるが、国家(皇帝)に対する反逆の罪で、逮捕し、告発して、処罰すると言う過程においては、それなりに証拠なり証人が必要である以上、言いがかりに付け入る隙を見せない配慮は意味をもつ。
そこまで考えて、はたと、ゾルザルの件と、国家反逆罪の二つが繋がっている可能性に気付いた。
「嫌…ちがう。今回の兄様による襲撃は、マルクス伯による粛正の序章と、位置づけられていたのかも知れぬ」
主戦論者の感情が沸騰しているうちに、矢継ぎ早に国家反逆罪で元老院派や講和論者を捕らえて、一気に処断してしまう。熱狂が醒めた時には、既に後の祭り…。
「殿下は、マルクス伯が今回は見送って次の機会を窺って来ると見ますか。それとも、国家反逆罪という宝刀をふるって粛正を強行してくると思いますか?」
菅原の言葉に、ピニャは肩を竦める。
「無理だ。陪審員は、元老院議員が担当する。いかな皇帝派とは言え、頭が冷えている状態では、国家反逆罪での有罪を認める者はいないだろう。偽の証拠などまつりあげても、長期に渡ってそれを検分し、論証していく作業に耐えることは難しいだろう。マルクス伯の陰謀がうまくいくには、議員達が冷静さを欠いている時期を選んで、一気にことを決してしまうことが必要なのだ」
ピニャは忌々しそうに髪を掻きむしりながら吐き捨てた。
「妾は仲介役に過ぎぬと言うのに…なんでこんな事まで」
様々な負い目から解放されたことで、これまで心の底に押しとどめていた不満が急にわき出てきた。事態の面倒くささ、また皇帝派の頑迷さ、マルクス伯の陰湿な手口、そしてそれに容易に乗せられるゾルザルの馬鹿さ加減等々と、嫌になる要素てんこ盛りである。
だが、事は国の行く末にかかわることだ。ピニャはこの帝国の、しかも帝室の一員である。だから自らには、それにふさわしい責任があると思っていた。事態を把握できる立場にいて、何もしないのは罪だと考えるのである。
折角、ストレスから解放されたと思ったら、またストレスを抱える羽目になるピニャである。だが、その分、彼女の頭脳は冴え始める。
「とにかく、今日の所は大丈夫だろう。だが、マルクス伯の狙いが国家反逆罪を適用しての粛正ならば、時期をさほどおかずに二の矢、三の矢を放ってくるはずだ。妾達は、それをかわしつつ、講和交渉の準備を進めなくてはならぬ」
ピニャは、菅原に告げた。
「至急、カーゼル侯爵と会談をもつ必要があるだろう。早急に、元老院派の意見をとりまとめ、伯爵の目論見を封じなければならぬ。だが、これは仲介役たる妾や、敵国の使節たるスガワラ殿の役割ではないな…」
「では、誰に?」
「うむ。キケロ卿がいいだろう」
ピニャはそう言うと腰を上げた。
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「ゾルザルは、森の中で餌を漁ってきただけか。あやつらしい…」
薄暗い謁見の間にて、玉座の皇帝は平伏するように頭を下げているマルクス伯に視線を向けると、ため息をひとつついた。
「まぁ、良い。機会はまだある。焦る必要はない」
「ですが、元老院内で講和論が高まりますと、いささかやりにくい事態にとなりますが…」
「誤解するなよマルクス伯。余も、講和交渉そのものを否定するつもりはない。話し合うならいくらでも話し合えばよい。だが、1ビタの金も、1ロムロの土地も譲ってはならぬ」
「しかし、現状ではいささか難しいことで」
「なぁに、結論を望むから譲らねばならなくなるのだ。敵が交渉を望むなら、永遠に交渉していれば良い。交渉の準備のため交渉、交渉をいつ開くかを決めるための会議、条件を決めるための会議。物事と言うのは、きちんと詰めていこうとすればするほど、話が進まなくなるものだ。いずれ敵の方から交渉を打ちきって来よう」
「陛下の遠謀には、感服つかまつります」
「伯にも、それなりの考えが有ろう。好きにやってみるがよい。ただ、いずれにせよ軍事的な勝利が必要となろう。負けは許されまいぞ」
「一命を懸けましても」
マルクスは再度頭を下げた。
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永田町 首相官邸
「首相。特地へ派遣している菅原からの報告書です」
外務省から派遣されている、事務秘書官が首相の下に書類を届けた。
内閣総理大臣 福下は、メガネのずれを直すと書類を受け取って、素早く斜め読みする。
「なるほど。講和会談の根回しが進みましたか?大変に結構なことです。早速、白百合玲子補佐官に特地入りして貰いましょう。事務方も、外務省では選抜が済んでいるのでしょう?」
「はい。ただ、講和に反対する勢力に動きを察知されたという内容も、その報告には含まれています。安全面で心配がありますが」
「ほう?」
福下は書類を数ページ捲った。パラパラと数枚捲って…まるで他人事のように言う。
「大丈夫でしょう。なんとかなりますよ」
「いや。そこには、帝国側の軍事活動が活発化するおそれについての提言も含まれていますが…」
「その為の自衛隊でしょ」
「確かにそうなんですが…」
外務省派遣の事務秘書官は、歯切れの悪い、なんだか大丈夫かなという思いと共に、首相の執務室を後にした。この首相の下で仕事を始めてまだ数ヶ月だが、時折感じる成り行き任せの思考というか、他人事のような言動に、常に戸惑うのである。その裏側にあると思いたい深慮遠謀を期待するのだが、外見的な言動はその片鱗を少しも感じさせてくれない。
「問題は中国、ロシア、アメリカですね…」
「EUもお忘れ無く」
「特地問題は、サミットの議題に取り上げられることは間違いないね」
「先日開かれたG8でも、特地についての情報開示を迫られました」
「いっそのこと、開示しちゃいますかね?」
「はい?本気ですか?」
どこに何があって、どんな地下資源があって…それを知ったら、ロシアやアメリカ、中国、EU各国の活動は、今よりもなお活発化するだろう。
地球一個分に等しい資源がほぼ手つかず。それはもう、無尽蔵と呼んでも良いほどだ。ぶんどり合戦が始まらないのも、特地への唯一の出入り口たる門を日本が抑えているからに他ならない。そして、諸外国からの外交圧力をかわしていられるのも、門を日本が抑えて、中身を公開しないからである。日本も、本格的に盗りに行っていないという事実も、そんな状況を支えていた。どちらかというと、抑制的とも言える日本の態度が、周辺各国のアプローチを落ち着かせたものとさせているのだ。
そこへ、門の向こうにやっぱり良い物がいっぱいあると教えたら、開けろ開けろの大合唱が始まるに決まっている。グルジアやチベット、ウィグルを見てわかるように、物事を唯一最終的に解決するのは暴力だ。そして強大な暴力を前に、正論や、理性はまったく通用しない。平和を唱えたところで、オセチアのグルジア人は収容所に放り込まれ、あるいは南オセチアから放り出されているという事実を変えることは出来ないのだから。
我々は忘れてはいけない。現実が先にあり、理屈は後からついてくると言うことを。
もし、迂闊なことをすれば敵は、より強大な暴力を結集して、門を横取りに来るだろう。そうなってまえば、正論とか国際法規などは、全く役に立たないのだ。事実、イスラエルは国連決議の認めた領土を越えた範囲を領土として、現在も中東にあるし、韓国はサンフランシスコ講和条約が認めた日本の領土たる竹島を未だに不法に占拠している。もしこれを解決しようとするなら、最早暴力が必要なのだ。話し合いでは決しない。
現在、日本と諸外国の外交は、こんな感じになっている。
外国(どこでも良い)「やい、門を開けろ。中を見せろ。中身をよこせ」
日本「やだよ。この門を俺の所にあるんだから、俺のだ。門の中身に酷い目にあったのも俺たちなんだぞ」
外国「うるさい、良い物を独り占めする奴は許さない」
日本「かってにほざいてろ。それに独り占めするつもりはないって言ってるでしょ」
外国「よし、そっちがそのつもりなら、力ずくで盗ってやる」
日本「そっちがそのつもりなら、こっちは、味方してくれる奴と門の中身を分け合うことにする…敵には当然分けてやらない。味方してくれる人いる~?」
アメリカ「同盟条約有るし」と、手をあげる。(分け前は、当然期待できるよな)
EUも、それを見て、なんとなく手を半分挙げる。
それを見て、誰も彼もが「俺も味方するから、中身を見せてよ、分けてよ~」と言い出して、結局敵が居なくなる。
日本「だから、黙ってみててよ。まだ中身のことよく判ってないんだから…」
その繰り返し……。最初に戻る。
外務省の役割は、「あいつ、やっぱり独り占めするつもりだから、みんなでやっつけて、門はみんなで管理しょう」と、国際社会の誰かが言い出さないように、そしてそれに同意しないようにすることなのである。
そのためには、門の中身についての情報を抑えておくことは、絶対的に必要なことなのだ。管理しながら、現在はこうなってますよ、このくらい判ってます…と、味方してくれることを約束する国に伝えて、分け前を期待させるのである。
アメリカには『特地』にある帝国という国と、その周辺各国の状態を伝えて、軍事的な方法で完全支配を試みるより、帝国による平和を維持させつつ、通商条約によって、その資源や利益を得られるようにするという方針を提案して、既に同意を得ていた。
日本と帝国の間に通商条約が成立すれば、日本に支店を置いている企業は国籍を問わずごく普通に『特地』での経済活動をすることが出来るからだ。その意味では、EUも反対する理由はない。
イラクやアフガニスタンで手がいっぱいで、ロシアに黒海沿岸でやられっぱなし(その代わり、東ヨーロッパでMDの展開に成功して、しかも外資がロシアから大量に逃げ出して、ロシア経済は少なからず打撃を受けたので、一勝一敗という感じだろうか?)のディレル大統領は、レームダック化したことが理由でもないだろうが、『特地』の問題でも慎重になりつつあった。
実は、狭い『門』と、普段でも交通渋滞気味の銀座、東京とその周辺の交通状態から見ても、大規模な軍事力を、門の向こうに置いて展開することは不可能であるという予測が国防省から上がってきたからである。
『門』は中途ハンパに小さい。戦闘機が一機通れる程度である。大型トラックなら三~四台ならんで何とか通れるかどうかだろう。
米軍が消費する武器、弾薬、食糧、そして燃料は全てに置いて大量だ。大規模に軍事活動を起こすなら、東京の道路を完全に封鎖して専用道路化する必要がある。それでも『門』しか通り道がないのだから、家庭用の蛇口で50メートルプールに水を満たそうとするようなものなのだ。手間暇時間がかかりすぎる。そしてコストも。
しかも、大量輸送力の要である輸送機は入らない。(完全に分解して現地で組み立てるなら可能かも知れないが…)精々戦闘車両とヘリがやっと。
その意味では、自衛隊が門の周辺に留まって、あまり広範囲に活動しないと言うのも、正解なのだということが知らされたのである。じっくりと物資を蓄えて、要となる場所に一撃を加えて抑える。それが最良な選択なのだ。
この問題は、『特地』からこっち側に資源や物をもって来る際にも当てはまるので、日本国政府としても頭を悩ましているところである。銀座の一等地に、道路を拡げる余裕など皆無なのだから。地下や、高架の道路を作ったらどうかという話が出ているが、各種の問題が噴出して方針が立たないでいる。
余談が長くなったが、そんなことなので、「いっそのこと開示しちゃおうか」という福下の言葉は、事務秘書官としては正気の沙汰ではないのである。
流石に不味いと思ったのか、福下は言葉を翻す。
「本気ではありません。そういう考えがあると言うだけです」
なんだか後先考えず、めんどくさいから開示しちゃえと言ってるような気がする、事務秘書官であった。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 36
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2008/09/23 15:31
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陸上自衛隊が帝都内に儲けた活動拠点は、アルヌス生活者協同組合の帝都支店の倉庫、あるいは、街の居酒屋の二階などと数カ所であるが、その最も大きな物は帝都の『南東門』界隈・貧民街の一角にあった。
そこは、雑多な人種、獣人が混在して住んでいる街である。
数歩進むならスリが懐に手を突っ込んで来て、暗い路地に入ったらまず強盗から声がかかる。金目の物を持っていると見られれば、後からゾロゾロとおっかない連中が着いてくる。例えるなら、今はなき香港の九龍城みたいなところであろう。
軒を連ねる店にしても、いかがわしく無いものの方が少ない。
何に使うか判らないような淫猥な道具から、各種の薬物、その辺りから攫ってきたんじゃないかと思いたくなる奴隷等々と、なんでも扱っているのだ。もちろん、人が生活する限り食料品や衣類を扱う店だって必要なのだが、商品の出所が怪し過ぎた。衣類なんて血が付いていたり、斬られた痕跡の残る物もあったりする。八百屋は路傍の雑草を売っているようにも見えなくもないし、肉屋に列ぶ商品なら何の肉か疑ってかかる必要がある。
そんな『悪所』であるが故に、たむろするのも剣呑な風体の男達、殺気と狂気を混じらせた抜き身の刀剣のようなワーウルフなどの獣人やアント(六肢族)。オークや、ゴブリンなんかの姿もあった。連合諸王国軍の敗残兵も流れ込んで来ている。
女だと、婀娜っぽい視線を向けてくる娘、あるいは荒んだ雰囲気と芥子の香りを漂わせて中空にあるはずのないものをボーッと眺めている娘などがいたりする。堅気な仕事(厳密な意味で、この街には堅気な仕事などないが比較的と言う意味で…)に就いている者もいなくはないが、その殆どは街娼、あるいは双方を兼ねている者だ。
種族としては、ヒト種あり、ポーパルバニー、キャットウーマン、犬耳、蛇、角が生えていたり、翼を持つハーピィや、翼人なんかもいたりする。そんな女達が、男達の嫌らしく舐めるような視線に妖しい笑顔を返して「遊んでいかない?」と誘い、料金の交渉をしている。
弱ければ食い物にされる。ここではそれが当然だった。だから人々の気風も路上に死体が転がっていたとしても、それって昨日のこと?それとも今日のこと?明日でも、誰も気にしないよ毎日だから、という態度だ。そこはアルヌスとは違う負の方向性に置いて、帝都の澱みを吸収して発展し続ける場所なのである。
陸上自衛隊が、そんな場所にある建物を一軒、銀貨の袋を積み上げて匿名希望で買い取ったのも、人種の坩堝と言える場所ならば目立たないと考えたからである。出入りしやすい南東門もあることだし。
実際、この悪所と呼ばれる街で起きたことの殆どは、外に伝わらなかった。その意味では隠蔽が効いて良かったのであるが、逆の意味で彼らは悪目立ちして、悪所内では非常に知られる存在となっていた。
何しろ、金の払いがよい。口止め料とか、ちょっとした仕事を引き受けた時の支払いは、その辺の顔役がくれる額の倍は行っていたのだから。
当然、古くから街を仕切っている顔役連中…ゴンゾーリ、メデューサ、パラマウンテ、ベッサーラといった連中は面白くない。
他所者の奴ら、建物を一軒買い切って何やらコソコソとやっている。新参者の癖に挨拶にも来ようとしない。着ているものも不揃いだが、妙にあか抜けたものが多い。街の秩序とか顔役の権威など、気にも留めないありさまだ。しかも、遣い走りにすら高い駄賃を払ったりするから、自分達を恐れ靡いてた連中が最近反抗的になりつつある。
そんなことの積み重ねが、この街を仕切る顔役の怒りを募らせてしまった。
そしてその内の一人ベッサーラは「金払いが良いなら大層な金持ちなんだろう。ちょいと行って、頂いて来ようじゃないか…」などと考えて、子分や街の無頼漢達を集めて襲撃したのである。
が、そんな彼らを迎えたのは、鉛玉の洗礼だった。
H&K MP7、FN P90、伊丹らが鹵獲して持ち込んだ銃砲火器がこんなところで役に立っている。勿論、官品の装備もてんこ盛りだ。不正規戦である以上、交戦規則も非常にシンプル。敵と見たら討て。ややこしい法的うんたらかんたらは一切気にしないでよかった。
こうして、帝都事務所開設に携わった第5偵察隊の猛者達が、使い勝手の良い火器を与えられ圧倒的な戦闘力で反撃したものだから、ベッサーラ配下の無法者共は瞬くに殺戮されて、その死骸の山を路上に築く羽目に陥った。
しかも、反撃はそれでは終わらない。
ベッサーラは、子分の殆どを失った上に、その住処すら爆破されてしまった(住民達からは落雷と勘違いされている)のである。家も子分も、その悉くを失ったベッサーラは、身を守る武力と権威の双方を失って無力となった瞬間、それまで行ってきた無法のツケを支払わされることとなる。
悪所の住民達からどれほどの恨みを買っていたのか…妻と複数人の愛人と子ども、そして自らをも、全身を大小様々な刀剣でハリネズミのように刺された死体が、悪所の片隅に転がったのである。
その無惨な姿を見て、街の者はひそひそと語り合った。「あの連中に手を出すな」と。
何もしなかったが故に生き残ったゴンゾーリ、メデューサ、パラマウンテの3家も、自衛隊がベッサーラが手にしていた利権とか縄張りとか、店や娼婦からの所場代といった収入源に手を延ばさないことに、安堵のため息をつきながら連中にはとにかく手を出さず、そっとしておく、と言うことを決めたのだった。商売の相手と考えればこれほど良い客もなかったからでもある。
自衛官達が求める商品は、もっぱら情報であり、また情報を拾い集める目端の利く手駒であった。自衛隊の依頼を受けた顔役達は、スリや泥棒といった連中を集めて金をやり、貴族の家を見張らせたり人の動きを観察させたり、時には屋敷に侵入させて書簡等を盗ませると言ったことを繰り広げて利益を得ていた。
害意さえ向けなければ自衛官達は、大層礼儀正しく、無礼も働かない。
無法な行為を目撃して眉こそ顰めるが、そのあたりは他所者としての立場をわきまえて煩い態度もとらないようにしていることが見受けられる。
そんなことをから『悪所』の男達は種族を問わず、自衛官達の存在を畏怖と畏敬の念をもって受け容れたのである。
それに対して、女達の自衛官に対する視線は、いささか複雑であった。
はっきり言えば、好意的な感情を抱くことが出来なかった。いくら声をかけてもちっとも靡かないからである。金回りがよいのなら、自分達にだってお金を落としてくれて良いんだろうに、どれほど色目を使っても、猫なで声でくすぐっても、愛想を良くし損で、客になってくれないのだ。
「ホントに男かい!インポ野郎っ!」と徴発しても、肩を竦めるだけなのだ。
ところが、その代わりとばかりに、数日毎に交代する看護師と称する女が建物の一角に開いた部屋で、健康とか、妊娠検査とか避妊とかの相談を受けている。
特に、避妊についての画期的な道具については、彼女たちの仕事の上では、今や無くてはならないものと成りつつあった。
「なんだ、今夜はクロカワが当番なのかい?」
大麻の混じっていそうな煙草を、キセルでくゆらせてる女が相談室に入ってくる。街に立っている時のように構えた様子もなく、精神的な武装を解いている様子が見えた。
なにしろこの街にあって、この建物の中は絶対的な安全地帯である。唯一気を抜ける場所かもしれない。
迂闊に手を出せばどれほどの権勢を誇った悪党でも一族郎党皆殺しにされる。自衛官達が直接手を下したわけではないが、結果としてそうなったので、街の人間達はそう思っているのだ。
動きやすいようにジーンズとタンクトップという出で立ちの黒川は白い翼を持つ「ミザリィ」という女に、小さな銅貨二枚と引き替えに、日本製ゴム製品の小箱を手渡した。代金を取るのは、「施しをするわけではない」という意味がある。こんな悪所であるが故に、生き抜いてきた者はみなそれなりの誇りをもってる。それを尊重してのことだ。
『自称良識的な人間』から見れば、悪事の助長に見えて眉を顰めるかも知れないが、この手の活動は社会福祉という観点に置いても非常に重要な意味合いをもっている。
貧困の世界に置いては、お為ごかしや綺麗事より、まずは今日のメシなのだ。身体を売って何が悪い。誰に迷惑をかけているわけでもないし…という理屈は確かに存在する。それを倫理の剣を持って真正面から斬りかかるのもいいが、彼女たちがまず困らないようにすることも大切なのである。彼女たちを困らせ、心身両面で追い詰めるの、第1の問題は不意の妊娠なのだから。
この特地の医療水準では、妊娠中絶は死と隣り合わせの上に、健康を害すること間違いなしの行為なのである。(現代日本でも同じであるが…)
ちなみにこの世界の性感染症については、まだ存在は確認されていない。(実は、黒川たちの、娼婦に対する支援活動もその観点から厚生労働省が予算を出した。「早急にその有無を確認せよ」と言うことである。新大陸を発見した上に、梅毒を持って帰ってヨーロッパに蔓延させたコロンブスの真似はしたくないということである。男性の自衛官達にもその意味では非常に厳しい通達が出ている…)
「クロカワは、煙草を止めろとか言わないんだねえ」
他のWACには止めろと口やかましく言われているらしい。特に煙草に混ぜている魔薬については、肌に悪いとか、内臓に悪い等々と糞味噌に言われているとのこと。
だが、黒川は「でも、必要なのでしょう?」と肩を竦めた。
「わかってるじゃないか?もしかして経験があるのかい?」
娼婦という仕事についてである。
「いいえ。想像力を逞しくしたまでですわ。素面ではやってられないでしょうから…」
翼を持つ女は、唇をいびつに歪めてそっぽを向いた。
「ちっ、あんたみたいな、お高く止まっている女は嫌いだね」
「それは結構なことですわ。好かれたいと思ってませんから」
ミザリィは、憎々しげに黒川にあかんべしてみせる。黒川も負けじと、イッーと口角を横にひっぱった。とたんに、空気が緩む。ミザリィが笑ったのだ。
「ガキかい、あたしらは」
「似たようなものですわ。昨日のわたくしと今日のわたくしに大差がないように、20年前のわたくしと今のわたくしにも、そう大差はないと思いますから」
そんな理屈をミザリィは鼻で笑い「さてと、稼ぎに行かないとね…」と腰を上げて、黒川に向けて煙草の紫煙をふきかけた。黒川は、両手をぶんぶん振り回して煙を振り払う。
「もし、そんなものを吸わなくてもよい仕事があったらどうします?」
「あたしらみたいなのに、そんな仕事あるわけないだろさ。男に股ぐらひらいて、よがってみせてナンボ。そんなもんさね」
「アルヌスの噂は聞きませんか?」
「ああ、あそこね。天国みたいなところなんだってね。でも、紹介が必要なんだろ?それに特に能があるわけでなし、行った先でも出来ることは同じだろうしね?」
「非常に強力なコネがあると言ったら、どうします?」…この一言が、黒川の喉元まで出かかった。が、別の女性相手にこのセリフを言った時、伊丹から「お前何様のつもり?」と散々に叱られたことを思い出す。その時は、伊丹に対する反感だけが残ったのだが、ミザリィが口にした「特に能があるわけでなし」というセリフには、言葉の意味だけではない様々な何かが含まれているような気がしたのである。もし、まともな職を世話してアルヌスに送ったとしても、ミザリィは夜になるとあの街の暗がりに立ってしまうのではないか、そんな気がするのだ。
言葉に詰まった黒川に、ミザリィは何を思ったのか勝ち誇ったような笑みを浮かべると、キセルをくゆらせながら仕事モードの腰を振る歩き方で去っていくのだった。
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そのミザリィが、再び黒川の元を尋ねてきたのは、夜半も過ぎた頃である。
羽振りの良い街娼なら夕刻に1人、夜に1人と客をとり、調子が良ければ3人目と思う頃合いだが、夜もここまで更けてくると街をうろつく男も少なくなる。
まだ全く稼げていない女は必死になって、男を追っているが、とりあえずノルマを果たした女達は、そこまでガツガツはしないから、そろそろ寝るかと自分の部屋に戻ろうとする時間帯となる。このあたりが娼婦でも、要領の良い女と、悪い女の別れるところと言えよう。
そんな頃合いに、ミザリィが街娼達をぞろぞろと引き連れてきた。
「クロカワ。ちょっと話がある」
きょろきょろと何かに怯えるようにも見える。息せき切った姿は慌てていて、そして明らかに冷静さを欠いていた。
「どういたしましたか?」
夜の仕事の女性を相手にしているだけあって、黒川も夜間に勤務時間帯を置いていた。地下に設置した発電機からまわってくる電気による明るい照明に迎えられて、ミザリィ達はびっくりしつつも「鳥目にはありがたいねぇ」と、診察用にベットとか、椅子とか適当なところへと腰掛けたり壁によりかかったり、床に座ったりする。
「で、どうしたのでしょう?」
ミザリィは単刀直入に切り出した。
「あたし等は、あんた等がこの街で、いんや、この帝都で何をしようとしているか、うすうす感づいてる。だけどあたしらには関係のない世界の話さ。だから何も、言わず、聞かず、見なかったで通してきている」
ミザリィの傍らには、ミザリィと同じような白い翼をもった女が身を震わせていた。彼女に限らず、ここに集まった女達はみな何かに怯えている。
その様に容易ならないものを感じた黒川は、机の引き出しから拳銃とりだして、ズボンのベルトに挟み込む。自衛官である以上、黒川もその使用法について熟知している。
「この娘の名前は、テュワル。この子の話を聴いて、あたしらを助けて欲しいんだ」
黒川は眉を寄せると、話の飛躍についていけず、説明を求めた。
「ああっ、まどろっこしぃねぇ!!あたし等を助けてくれれば、あんたらにとって大事な情報を教えてやるって言ってるのさっ!」
黒川は、これは自分1人では対処できない判断して、桑原曹長を叩き起こすことにしたのである。
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その夜、帝都は地震に襲われた。
遠くから地響きのような音が大地を走ったかと思うと、突如として前後左右に大きく揺れた。
その揺れは激烈なものではなく、耐震性など全く考えられていない石を積み上げただけの建物であっても、強度の劣るところがわずかに崩れるだけで済んだ。その意味では、帝都のインフラを徹底破壊するに至らなかったのである。が、人心に与えたダメージは深刻であった。
震度計が無いため正確にはわからないが、おそらくは震度は5強あるいは6弱。
深夜のことであり、帝都の人々はまったくの不意を突かれた。
熟睡中の地震に寝台から蹴り出され、安らかな眠りを破られて驚く間もないままに漆喰が崩れて振ってきたり、天井からぶら下げていたものが落ちてくる。
タンスや棚の物が落ちて、床に転がり、素焼きの食器や花瓶は割れてその破片が散らばった。
大地とは決して動かないものであった。盤石不動の象徴である。
水は流れ、風は走り、火は燃え上がり、木々は生い茂る。そして大地は動かない。それが世界の法則であった。それが破られた瞬間、人々は世界の終わりを感じた。その恐怖と絶望によって人々の魂には、精神的外傷が深く刻み込まれたのである。
このような天災の到来をあらかじめ知ることは、科学の進んだ日本でも難事である。不可能と言って良い。
だが、この『特地』に置いては、災害の到来を予想した者があった。
ハーピィのテュワルは、客となった2人目の男を見送ったあと、突然の寒気と震えに襲われた。
最初は風邪かなと思った。汗をやたらと掻いたのもある。
2人目の客はしつこくて、払った金の元を取ろうと汗をぬぐう暇もないままにテュワルを数度にわたって責め立てたので、疲労困憊してしばらく動く気力もなく、肌が冷えるに任せてしまったのだ。
だが、身体の奥から沸き上がる震えは、風邪のものとはいささか違った。
後ろ髪がチリチリとする緊張。そして、足腰から力が抜けるような感触。それは、恐怖感にも似たものだった。
思い当たることがある。テュワルには以前似たような経験があったのだ。
南方の火山地帯に住んでいた彼女は、噴火の寸前に大地が揺れる体験をしていた。そう、この感触は『地揺れ』の前触れであったことを思い出したのだ。
とは言っても、この帝都の近くには火山などない。
ここに来て日は浅いが、過去に地揺れがあったという話は聞いたこともない。だから、ただの勘違いではないかと思った。しかし、心の底にくすぶる焦燥感と恐怖感はぬぐい去ることが出来ない。そこで、テュワルは、娼婦としても先輩格で何かというと頼りとしているミザリィに相談したのである。
実は、ミザリィや他の街娼達も漠然とした恐怖感を受けていた。
だだ彼女たちには地揺れなど聞いたことも体験したことも無く、不安と恐怖の正体がわからなかったのである。それが、テュワルによって明らかにされことで彼女たちはそれぞれが用心棒としている男達へと相談した。日頃、女達の稼ぎの上前をはねているのだから、こんな時ぐらい役に立てと言う訳である。
ところが男達は面倒くさがるばかりで、まともに請け合おうとしなかった。地揺れ?なんだそりゃ?地面が揺れるなんて事あるわきゃないだろう…そんなことより、さっさと客を取って稼げ、と。
不安や焦燥感は強くなっていく一方。そこで、彼女たちは頼りにならない男達を見捨てて、黒川の許へと駆け込むことにしたのである。
陸上自衛隊・帝都事務所の所長、新田原3佐は、黒川と桑原曹長の報告に、当然ながらどうしようかと悩んだ。地震の予知連絡を受けた際の対応など、誰にも経験がなかったからだ。その信憑性だって疑ってしかるべきだ。
だが、テュワルという女性は、いわゆる鳥に似た種族である。彼女に対して失礼ではあったが、姫路駐屯地と新潟の新発田駐屯地で勤務経験のある新田原は、地震の前に駐屯地近郊から野鳥が1羽もいなくなってしまった記憶が鮮烈に残っていた。もし、鳥と言葉が交わせたら、警告を聞くことができたかもしれないと思っていた。
彼女達は、人より勘が鋭いのかも知れない。もし、話が間違いであったらそれはそれでいい。あとで笑えば済む。だから、本当だったらという前提で対策を取っても良いんじゃないか。そう思ったのだ。そして決断を下す。
来ると判って待っていれば、地震国に産まれ育った自衛官達にとって、それは大したものではない。小さい頃からすり込みに近い形で、対応策も身につけている。帝都内の各所にいる隊員達に無線で事態を連絡をして、とりあえず装備、武器、食糧、医薬品をまとめ、頭上から物が降り注いで来ることのない、広い場所に出るだけだ。
非常に単純なことである。だが、地震について経験も知識もない者にとっては、こんなことだって思いつくことは難しかったのである。
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熟睡中を菅原に叩き起こされたピニャは、城館を出て外の森へと引っ張り出され不機嫌を隠さずにブツブツ言っていた。ハミルトンなどは、半分眠りながら歩いている有様だ。書類仕事で疲れが溜まっているのだろう。
菅原の護衛として、ピニャの館に滞在していた伊丹、栗林、富田は、新田原からの無線連絡をうけて半信半疑ながらも、とりあえずピニャを安全と思われる場所へと誘導していた。ちなみに伊丹は制服姿。富田と栗林は戦闘服に小銃を手にした完全武装である。
メイド達や、松明を掲げ持つピニャの警護兵達も、とまどいを隠せない。ピニャが従っているからと言う理由で、とりあえず応じているだけである。
いくら大地が揺れると言われても、それが具体的にどんな事態なのか、彼らにはイメージできなかったのだ。我々が、空が落ちてくると言われても具体的などんなことを意味するのか、判らないのと同じなのかも知れない。
だから、彼らの受けたショックは凄まじいものとなった。
まず、初期微動と言われる小さな揺れが起きる。
その異様な長さに伊丹は「これはでかいぞ」と漏らした。初期微動の長さは震源地の遠さを意味しているのだ。そして、その距離が遠いと判断されるにもかかわらず初期微動は大きかった。やがて到来する本格的な揺れ。
ガッンと叩かれるような衝撃に始まり、グシャと大地が揺れた。
それは終わってみればわずか30秒~40秒程度の事でしかなかった。だが産まれて初めて地揺れを経験する帝都の人々にとって、永遠に等しい時間となった。
ピニャは悲鳴を上げた。世界が壊れたとすら感じた。なのに、菅原や伊丹は「おおっ、ホントに来ましたね…」などとのんきに言い合っている。
伊丹、栗林、富田といった自衛官達の平然とした様は、ピニャの目に彼らがまるで何ものも恐れない不屈の勇気を有しているかのように映った。この者等は寄って立つ大地を失ってなお平然としてるのではないかとすら思った。
面倒くさがりで、何かとさぼる。嫌なことからはすぐに逃げたがるのが見て判るという意味で、戦士としての『人柄』(力量ではなく…)に不安を感じさせる伊丹ですら、このような時には凛然として動じないのだ。
メイドも兵士達も、恐怖に打ちひしがれて大地に伏していた。
大地に根を下ろす木々が揺れ、梢の擦れ合う音が、巨大な化け物が駆け抜けていく様にも思えた。メイドの泣き声や悲鳴が、そして兵士達のわめく声があたりに響いた。
だが、そんな彼ら、彼女らが目にしたのは、周囲を見渡して被害の有無を見ている伊丹であり、富田であり、栗林である。
その頼もしさは、さながら神を見るかのごとくなる。
メイド達はあたふたと跪きながら伊丹達の脚にすがり、兵士達は戦場で不敗の英雄を見るような憧目を彼らに向けたのである。
「この程度なら問題有りませんね。城壁とか弱いところは崩れてるかも知れませんが、大したことはないでしょう。震源地は凄いことになってるかも知れないですけどね」
揺れが収まった後。
呆然とした虚脱感に浸る中で伊丹の冷静な状況判断に、思考停止状態のピニャはただ「うんうん」と頷くことしか出来なかった。
警備兵達は、富田や栗林の「大丈夫。怪我をしたものはないか?」という言葉を受けて、それを大英雄の言葉を受けたがごとく背筋を伸ばして立ち上がった。完全に心服状態である。
繰り返して言うが、全く経験したことのない者が地震によってうける精神的な衝撃というものは、それほどに大きかったのである。
悪所に置いても、状況は似たようなものであった。
娼婦達を引き連れていよいよ南東門から外へ避難しようというタイミングで、それは起きた。街のそこかしこから、悲鳴と恐怖からの叫びが広まった。
周囲は狭い悪所だけに、家の屋根などからいろいろなものが落ちて来る。
新田原は大声を上げて、皆に道の真ん中に寄るようにと指示を飛ばし、それを桑原や黒川達が通訳して繰り返した。
女達は、言われるがままに悲鳴を上げて道の真ん中に集まって頭を抱えた。そして悲鳴を上げながら大地にしゃがみ込む。
桑原達が「おお、来ましたね」「ホントだよ。すげぇ」「テュワルさんには是非日本に来て、気象庁に勤めて貰いたいぐらいだ」などと冗談を言い合う声に、やはり頼もしさを感じてか誰も彼もが、彼らの脚にすがりつく。
男達は、役得役得と嬉しがった。
倉田にいたっては獣系のお姉さま達に取りすがられて、「この身が嬉しい」「この脚が嬉しい」と感動に浸っている。
女性趣味のない黒川はあんまり嬉しそうではなかったが、頼られることは嫌ではないので黒川に取り縋って泣いてるミザリィの背中を掌で軽くポンポンと叩いてやるのだった。
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伊丹等の保護と避難のおかけで、精神的な再建を素早く果たすことが出来たピニャは、大きな地震の後には大抵、もう一度の揺り戻し、すなわち余震が起きるということを知らされて、「ただちに皇帝陛下の許へと参らなくてはならない」と言い出した。父の身を心配してのことだ。宮廷内がどうなっているかも気になる。
ピニャがそう言うのであれば、伊丹等としては反対する理由はないので「そうですか。では気をつけて行ってらっしゃい」と告げる。ところが、その言葉を聞いたピニャはこの世の終わりか、あるいは恋人に別れを告げられた少女のごとく、顔面を蒼白にして伊丹に取りすがった。
「い、一緒に来てくれぬのか?」
「いや、だって、皇帝…もとい、皇帝陛下のところへ行くのでしょう?不味くないですか」
ピニャから見れば、伊丹達は敵国の兵士のはずである。皇帝の傍にそんな者を連れて行くなんて、将棋であれば王手飛車取り。戦略・戦術シミュレーションゲームなら、首都(総司令部)に敵歩兵ユニットが入った状態と言えるだろう。
まあ実際には伊丹達は、使節として帝都に赴いている菅原の護衛という立場である以上、皇帝に銃を突きつけるということは許されないし、しないのだが、それはこちらの都合だ。ピニャの立場としては警戒してしかるべき事のはず。
なのに一緒に来てくれと言うのだから、伊丹としては菅原と顔を見合わせて、どうしようかと困った。
「イタミ殿、お願いだ。傍にいて欲しい」
要するに、彼女の本音は「恐いから一緒に来て」なのだ。
ハミルトンなども顔面蒼白のままうんうんと頷いている。今まさに恐い思いをしたばかりで、しかももう一度地震があることを予告されている。ここで伊丹達に去って行かれたら恐くてしょうがない。メイド達も、その背後でうんうんと頷いて、警備の兵に至っては胸を反らして伊丹の背後に整列して、行かさないという態度である。
こうして、ピニャとその護衛兵とメイドと、そして伊丹達は、皇帝の皇宮へと向かうことになってしまったのである。
ピニャの案内で、皇宮に入ってみると、そこは大混乱にすらなっていなかった。
しんと静まりかえっている中、見渡せば調度品や家具が倒れ床に散乱していた。
廷吏達はそれらを元に戻そうともせず、おろおろとうろつき、近衛の兵は我を失ってただ呆然としていた。地面にはいつくばって、頭を抱えて祈っている者もいた。
当然、ピニャや菅原は誰何(すいか)すら受けない。堂々と歩む彼女達を止める者は1人として居なかった。
そのあまりの惨状に頭を抱えたピニャは、自分の警備兵に命じて、宮廷内の主だった者、例えば当直の指揮官や官吏等を、謁見の間に呼び集めるように命じた。とにかく、混乱し崩壊した秩序を取り戻さなければならない。
警備兵達は、ただちに駆けだしていった。
「う~む、兵の連度が落ちているな」
そのへんで、何もせずにぼやっとしている兵士を見て、ピニャは嘆息を禁じ得ない。
自分自身ですらこの始末なのだから、古今未曾有の天災にあっては仕方ないとは思うが、それでも近衛兵の秩序が崩壊したままというのは失望してしまうのである。
国軍再建のために近衛から多くの士官、下士官が引き抜かれ、替わりに配された兵士は、練度や実戦経験の少ない者ばかり。そんなことの悪影響が出ているのだ。
こうしてピニャ達は、ついに皇帝の寝室前まで来てしまった。来れてしまったのである。
見渡してみても皇帝の寝室に配されているべき、警護の近衛がいないという驚くべき事態である。逃げてしまったのか、それとも何かあったのか。ピニャは、脱力感を感じつつも、深いため息とともに改めて気構えた。
「スガワラ殿。まず、妾が陛下にそなたを紹介する。それまでは、口を開かないでいただけるか?」
宮廷儀礼上必要なことと言われれば、当然のこととして菅原はこれに従う。その確認をとった上で、ピニャは寝室の戸をメイド達に開かせたのである。
「ほう?最初に来るのは、ディアボかゾルザルあたりかと思っておったが、まさかお前とはな。ピニャ」
戸口に立ったピニャを寝台の皇帝は、顔を冷や汗でいっぱいにしながら、ひきつる表情で迎えた。
どうやら皇帝は、自らの子の内、誰が真っ先に駆けつけてくるかを計っていたようだ。期待を裏切ってやったという意味では小気味よい気分だが、宮廷内を見て惨憺たる思いであった。
ピニャはメイド達に命じて、皇帝の身支度をさせる。そして、警備の兵に周囲を固めさせ、父を伴って謁見の間へと向かったのである。皇帝は腰が抜けたのか歩くのに、ピニャの肩を借りていた。
謁見の間に入ると、慌てふためいた様子の文武の官僚達が、ピニャと皇帝に救いを求めるように駆け寄って来た。
ピニャは皇帝を玉座に収めると振り返った。
「まずは慌てるな。文官はただちに大臣を始めとする、主だった者を招集するがよい。」
「武官は、直ちに兵を掌握し、臨戦態勢を整えよ。皇宮の守りを固めるのだ。また、伝令を走らせ帝都在住の将軍達には参内を命じよ。急げ」
ピニャの叱咤の声に、文武の官僚達もその役割を思い出してか動き始めた。
改めて見渡せば、謁見の間のは調度品や燭台は倒れ、額縁は落下してその砕けた破片が床に散らばっている有様。その惨状に額を抑えつつ、メイド達にとりあえず綺麗にするように命じた。
謁見の間を整えることは、本来は皇帝付きの内宰の仕事である。ピニャにつけられているメイド程度では、この部屋に近づくことすら許されないのである。だからこのようなことは宮廷の序列を無視する行為であった。だが、このような危急の時に、正常に働けるのが彼女達だけだったから仕方がないのである。
こういう場において…いやこういう時だからこそ威儀を正すということは意味を持つのだ。慌てて駆けつけてきた者も、謁見の間が厳粛に整っているのを見れば、安心するだろう。もし逆に、なにもかも乱れ果てていたら、その精神的な動揺も著しくなるはず。
「ピニャよ、そなた一皮むけたな」
皇帝の言葉に何を言われているのかわからないピニャは、皮など剥けていません。怪我はありませんと、勘違いな返答をしていた。
「時にピニャ、見慣れぬ者を側に置いておるな。将軍等が集まるまで、まだしばし時がかかろう、その間に紹介してくれぬか?」
ピニャは首を竦めつつ、少しばかり声を低くして菅原に掌尖を向けた。
「紹介いたします。ニホン国使節のスガワラ殿です」
菅原は帝国の皇帝に対して、胸を張って一歩前に出ると、頭を垂れる礼を持って敬意を表した。その背後では伊丹等も、菅原に合わせるようにして挙手の敬礼を行う。そのそろった様は、宮廷の典礼の優美さとは違う独特の色香があった。
「ニホン国?なるほど、そなたは、たしか彼の国と我が帝国との仲介の任を引き受けていたのだったな。だが、何故このような時にお連れしたのか?折角お越し頂いたのに、もてなすことすら適わぬではないか」
「申し訳ありません、父上。ですが、この者らは此度のような地揺れに大層詳しく、聞けば、これより揺れ戻しがあると申しております。傍で助言を頂ければと思っておりました」
「…ま、また、揺れると申すか?」
「はい。そのため、是非にとお願いして同道して頂いた次第です」
皇帝は鼻かしらに冷や汗の粒をたらしながら頷いた。
「よかろう。使節殿、歓迎申し上げる」
ようやくの紹介を得た菅原は、あらかじめ脳内で用意した挨拶の口上述べた。
「陛下に置かれましては、ご機嫌麗しく」
「天変地異の直後に、麗しいはずなかろう。が、お陰で我が娘の意外なる成長を見届けることが出来た。礼を言うぞ?」
「いいえ。殿下の日頃から研鑽の結果とお見受けいたします」
「戦ごっこと思っておったのだがな」
「既にごっこ遊びは卒業されました。殿下は実戦をくぐり抜けた優秀な指揮官でらっしゃいます」
会話に割って入った女声はハミルトンのものだった。
彼女は皇帝と外交使節との会話に、声を荒げて割って入るという無礼をしてしまった事に気付いて、顔を真っ赤にして小さくなっている。皇帝も、菅原もそんなハミルトンを無視した。そうしないなら、彼女の無礼を咎めなければならないからだ。無かったことにするのが一番である。
「使節殿。生憎と、今は忙しくてもてなすことは適わぬが、時と所を変えてならば、歓迎の宴などで歓待したいと思う。今宵の所は勘弁してもらいたい」
「はい、陛下。我が国と帝国との将来について、お話しする機会をいただきたく思います」
菅原は一礼してピニャの後ろに下がった。本来ならここで謁見は終わりである。だが、皇帝は引き下がった菅原に対して、さらに言葉をかけた。
「そういえばニホンと言う国にも、王がいるのであったな?」
菅原は良く知っているな?と思いつつ質問に応じた。日本側が帝国について情報を集めているように、帝国側も日本について何某かの知識を得ようとしていたと言うことか…。
「いいえ、我が国の象徴たるお方は王などではなく、天皇…すなわち皇帝位に就いておいでです」
「ほう?象徴と申したか。皇帝たる者が、臣下に国権のことごとくを奪われてそれでよしとする国など恐れるには足りぬと思うていたが、…考えてみれば『門』の向こうは異世界。その世界には、またその世界における君臨の有りようがあってもしかるべきか。対等の相手など、これまで無かっただけに、どのように遇するべきか判らぬ。無礼などがあってもご容赦頂きたい」
そんな形で会話が途切れる頃、廊下から大音声が響いて来た。
「父上、父上っ、ご無事か?!!」
ゾルザルが、まるで暴れ馬のごとく謁見の間に駆け込んできたのである。
彼の取り巻き達も、それこそ胸甲を前後ろ逆につけたり、サンダルを左右逆に履いていたり、剣の鞘を提げていても肝心の剣がないと言う者ばかりで、慌てて出てきたことがわかる有様だった。
ゾルザルは手にチェーンを引きずっていて、その端は首輪をつけたテューレや、他の女達が一荷釣りの魚のように引きずられていた。白ウサギの如きテューレは裸身のまま床を引きずり回されたようで息も絶え絶えとなって転がっていた。その隣の黒髪の娘や金髪、赤毛の娘達も、全裸で引きずり回されたためか擦り傷だらけになっていて、生きているかどうか心配になってくる。
その光景に思わず絶句する伊丹、富田、栗林。
流石に外交官たる菅原は顔色を変えないが、小さな舌打ちが彼の苛立ちを感じさせた。
「父上、ご無事でしたか?さぁ、逃げましょう」
「どこへ行くというのか?」
「とにかく、ここから離れるのです」
皇帝に迫る第1皇子に対してピニャは、「兄様。ただいま、大臣及び将軍に招集をかけたところです。動座するにしても、主立った者が集まってからでなければ、宮廷は混乱いたします」と、とりなそうとした。
だがゾルザルは言う。
「何を悠長なことを言っているか。ノリコの言によれば、もう一度、地震があると言うではないか。すぐにでも逃げるのだ」
このままでは玉座ごと皇帝を抱えて走り出しかねない勢いだ。
とにもかくにも、兄を落ち着かせなければと思ったピニャは、なんとか兄が応じてくれそうな話題を探して、迎合口調で話しかけた。
「兄上、それにしてもよくぞ再度、地揺れがあるとご存じですな。妾も、ついさっき知人より聞いて知ったばかりだと言うのに…」
「今言ったろう。ノリコがそう言っておったのだ」
「ノリコとは?」
ピニャの問いに、ゾルザルは手にした鎖の一本をぐいっと引っ張った。
「きゃっ」と、小さな悲鳴を上げて、テューレやその他の女達が呻く。
「黒髪の女だ。門の向こうから攫ってきた内の生き残りよ…」
ゾルザルがそういって、顎で示す。示した途端
「馬鹿野郎っ!!!ぶっ殺してやるっ!!」
雷光のごとき勢いで放たれた伊丹の拳が、ゾルザルの顎を抉っていた。
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「馬鹿野郎っ!!!ぶっ殺してやるっ!!」
雷光のごとく勢いで放たれた伊丹の拳が、ゾルザルの顎を抉った。
吹き飛ばされた大男は、床を転がり、拳を受けた頬を抑えながら怒鳴った。「殴ったな、貴様。父上にも殴られたことはないのに」と伊丹を睨みつける。
伊丹は伊丹で、殴った右拳を抱えて「おお痛てぇ。なんちゅう堅さ。馴れないことするもんじゃないぜ」と涙目になって呻いている。
「この無礼者め。皇子殿下に手を挙げるなど、一族郎党皆殺しにしてくれるぞ」
ゾルザルの取り巻き達はそれぞれに手にした剣を抜いて身構えた。
皇帝の前で剣を抜くなど本来は重罪だが、それ以前に謁見の間で、さらに皇族に暴力を振るうことも許されることではなかった。だが宮廷は現在地震によって完全に機能停止状態。近衛の兵も秩序を失っていて、どこにも居ないという有様。
事態を収拾する者がいないために、皇帝の前は一発触発の状態となっていた。
目を座らせた富田は64式小銃の安全装置をレ(連発)の位置に併せ、栗林は、倒れているテューレや黒髪の娘の様子を確かめていた。
「大丈夫?」
日本語での声かけに、黒髪の女性はがばっと顔を上げる。
「私たちは陸上自衛隊よ。あなた日本人ね?」
黒髪の女性は、滝のように涙をこぼした。そして栗林の手に取りすがった。これまでどれだけの苦しみを味わってきたのか。それを思うが故に、栗林の身体に力がみなぎった。栗林はナイフを抜くと女性の首につけられていた革製首輪を斬りとって捨てた。
「助けに来てくれたの?」
「ええ。必ず連れて帰ってあげる」
このような娘が捕らわれていることなど知らなかったのだから、嘘である。だが、日本人がここにいて酷い目に遭っていると知れば決して放置して帰ることはない。絶対に連れて帰る。その決意で伊丹以下は、完全に戦闘態勢にあった。もし立ちはだかる者がいれば誰であろうと殺す。そういう覚悟となっていた。
菅原は、完全に火がついている伊丹等の姿に嘆息しつつも、不敵な笑みを浮かべて皇帝に尋ねた。
「門の向こうから攫ってきたとおっしゃられましたが、これはいったいどういう事でしょうか、皇帝陛下。そしてピニャ殿下、この件、ご存じでしたか?」
「ス、スガワラ殿?」
ピニャには、わからない。何故伊丹や菅原が、これまでとがらっと雰囲気を変えている理由が理解できなかった。とは言っても、もしかしたらと思い当たることがないわけではない。捕虜の取り扱いにしても、何にしてもニホン人は力の及ぶ範囲で、人命をとても大切にしたがると言うことを感じていたからだ。
が、ここまで苦労して準備した講和交渉をぶちこわしにするほどのこととは思えなかった。だが、伊丹は懐中から9㎜拳銃を抜いて、ゾルザルへと向けている。
銃の威力を知るピニャは、万が一を思って皇帝を守るように玉座の前に身体を運んだ。
「イタミ殿、止めてくだされっ!!皆も武器を収めよ。何かの手違いじゃ。ここは妾に免じて武器を収めよっ!!」
だが、ゾルザルの取り巻き達はそれぞれに剣を手に、少しずつ包囲の輪を拡げていた。その数全部で15名。彼らからすれば無勢に多勢。何を遠慮する必要があるだろうか。戦えば勝つのだから、叩き斬って場を収めれば良いと考えていたのである。
ゾルザルも殴られて倒れた姿のまま、殴った男が八つ裂きにされる様を思ってほくそ笑んだ。
「いずこの国の使節かは知らぬが、これでお前の国の運命は決したな。悉くを殺し、全てを焼き尽くしてくれる。すべてはお前の罪だ。我が身の罪深さを思い、苦しんで死ね」
これに対して伊丹の指示は「栗林。富田。構わない、自分の判断で撃って良し」だった。
栗林は腰から銃剣を抜いて、着剣すると小銃の安全装置を連発にあわせつつ前に出る。
「また銃を廃棄にするなよ」
富田の声に、栗林は笑った。
踊り手、栗林。介添え、富田、伊丹による死の舞が始まろうとしていた。
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銃剣格闘(銃剣道ではない)は、現代に置いてもなお進歩し続ける戦闘技術である。
航空戦においてミサイルが発達した今日でも、音速で飛ぶ戦闘機に機銃が装備されるように、地上に置いて普通科、すなわち歩兵が相対して戦闘を行う限り、白兵戦は決して廃れることはない。
実際にフォークランド、そして今日のイラク・アフガニスタン戦において、銃剣突撃は決戦手段として用いられた事実がある。
従って、剣道等のスボーツ格技と違って、その訓練はあくまでも実戦を想定しており、実戦でのみ使うことを前提としている。よく、物持ち3倍段と言われるが、銃剣突撃の前には剣道や空手等とどれほどの段位を有していても子どもも同然である。何故なら手強いと思えば、距離を置いて銃撃するからだ。ずるいと思うなかれ、それが『戦闘』なのだ。審判が横にいる試合ではない。
栗林は、空重量で4.3㎏の64式小銃を鈍器として振り回すと共に、その鋭い銃剣の切っ先を槍の如く、そして研ぎあげられた刀身を、長刀のごとく扱った。
彼女の軽快で敏捷な身のこなしに、ついてこられる者は少ない。まして、隊列を組んで前面に楯を構え、そして前進するという戦闘技術で凝り固まったこの地の兵は、左右に軽快に跳ねる栗林を捕らえることは出来ない。彼らの戦闘は、あくまでも正面からぶつかってくる敵と戦うものだったからだ。楯でぶつかり、剣を振る。
だが、栗林はぶつからない。
楯で身構えていれば銃撃し、剣を振ろうとすれば、素早く横に交わして、脇の下に銃剣を刺突する。
近づけば銃床で打撃し、これを堪えきれず少しでも下がれば、斬撃で頸動脈を断ち切られる。
どれほどの腕力を誇ろうとも、どれほど研ぎあげた剣を振るおうとも、触れることすら適わなければ、全くの無意味。
それほど努力したわけではなかろうが、暴力を誇示するために必要とする分の鍛錬は惜しまなかった日々を、栗林は嘲笑するかのように無駄扱い。
栗林の背中は、富田が守る。
回り込もうとした途端、富田は冷淡に引き金を引く。7.62㎜弾は、男の胸部にあたり、うすっぺらいながらも金属の胸甲を貫いたがために、体内に侵入した時にはマッシュルーム状に変形していた。そして、おもちゃのスクリューのようになった銃弾は、体内の組織を巻き込み、引きちぎり、その背後へと抜けていく。
たった一発で倒れ伏した仲間に、ゾルザルの仲間達は、栗林の後背に回り込むことは諦めざるを得なかった。
目前にいるのは、まさに手のつけられない猛獣。
謁見の間に8体ほどの死体を製造した栗林は「次は誰?」と舌なめずりしつつ、取り巻き達を見渡す。だが、誰1人として前に出ようとする者は居なかった。
「やる気がないなら、武器を捨てなさい」
取り巻き達は、ばっちいものでも放り捨てるように剣を投げた。
その様子がいたく気に入ったらしい栗林は、笑みを浮かべながら「よろしい」と頷きつつ、男達に謁見の間から出ていくように告げた。
取り巻き達は、一瞬ゾルザルに視線を送るが、栗林が銃の槓桿(こうかん)をあからさまに引いて見せると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
ゾルザルは、目の前で繰り広げられた殺戮劇と、取り巻き達の遁走を信じられない物のように見ていた。
がくがくと震えながら、伊丹が自分に向けている、得体の知れない道具を見つめる。これも、仲間を撃ち殺したような火を吐くのだろう。そして、自分に向かって放たれるのだろうか。何故、どうしてと思う。
皇帝の第1皇子だる自分に、このような無礼が許されるはずがない。
帝国の次期皇帝たる自分に、そのようなことをして済む者などありえるはずがないのだ。
そんなゾルザルに対して、伊丹は「さて、皇子殿下に伺います。あなたは今さっき、この女性を、門の向こうから攫ってきた『生き残り』と言われましたが、それはつまり、他にも攫ってきたと言うことでしょうか?」と尋ねた。
「ふ、ふんっ。無礼者に答える口などないわ」
せめてもの虚勢なのか、ゾルザルはそう言い張った。
伊丹は嘆息しつつ「栗林君。喋りたくなるようにしてあげなさい」と命じる。
「はい、隊長♪」
栗林が、伊丹の命令をこれほどまでに嬉しそうに聞いたことなど、これまで一度もなかった。
この後の情景はあまりにもグロく、写実的に表現すると18禁間違いないので、擬音表現で勘弁して頂きたい。
バキッ、グチャ、ドスッ、ガン、バン、ゴツッ、ドスッ、グチャ…、ポキッ。
当然その間に、ゾルザル自身の悲鳴というか、わめく声が轟いた。
「やめよっ、まて、止めてくれ。まてっ、痛い、ぐひっ、あべっっ、ぐふっ…ゆ、指を折るな。勘弁してくれっ、ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ」
その余りのおぞましさに、ピニャや皇帝は、目を背けた。
割ってはいるとか止めるという発想はどこにもなかった。迂闊に手を出せば、伊丹達の怒りの矛先が自分に向くような気がしたからだ。
ピニャはイタリカの体験でわずかながら耐性を持っていたが、皇帝はこの時、怒らせるとやばい相手というもの存在を初めて知った。ハミルトンやメイド達などは、壁際に固まってしゃがみ込んで地震にあった時のようにガタガタと震えている。
この時、謁見の間の戸が開いた。
マルクス伯を始めとした大臣や将軍達、そして秩序を取り戻した近衛の兵士達がようやく到着したのである。彼らは入ってきた瞬間、玉座の前の惨状に凍り付いた。
見れば、死体が床に転がり、その間をゾルザルが血を塗装するかのようにのたうち回っている。第1皇子の前歯は全て折れて、床に転がっていた。その顔は鼻血と口から出た血で真っ赤だ。
伊丹は、今更ながらやってきた近衛達にチラと視線を送ったあと、子どもが昆虫を棒きれでつついて弄ぶ時のような感じにしゃがみ込むと、その銃口を突きつけた。
すると、テューレが横合いから伊丹との間に割り込んで、ゾルザルを庇うように両手を拡げた。傷だらけ、痣だらけの裸体が、艶めかしさを感じさせる前に、痛ましさを感じさせた。
「殿下を、殺さないで」
伊丹は、健気にも庇ってくれる女性が居るんだから、首輪をはめたり鎖で引きずったりしないで大切にすればいいのにと思う。そして、その健気さに免じて銃口は下げたが、質問は続けた。
「殿下。あなたは今さっき、この女性を、門の向こうから攫ってきた『生き残り』と言われましたが、それはつまり、他にも攫ってきたと言うことでしょうか?」
体中の激痛に呻吟するゾルザルから返事こそなかったが、盛んに首を縦に振って肯定の合図を示す。そうしながらテューレの背中に隠れるようにしていくのがなんとも情けなく見える。
「裕樹よ、裕樹はどうなったの?」
ノリコと呼ばれた娘が、口を挟んできた。一緒にいたところを一緒に拉致されたと言うのである。則ち、少なくとも1人いると言うことだ。
「男は、奴隷市場に流した…後のことは知らん」
息も絶え絶えとなったゾルザルがそれだけなんとか答えると「なんで俺がこんな目にあわねばならぬのだ」とぼやいた。
伊丹と栗林と富田は心と声を一つにそろえて言い放つ。『坊やだからさ』と。
菅原はピニャと皇帝へと顔を向けた。
「皇帝陛下。講和交渉は、我が国より拉致された者をお返し頂いてからとなります。どのような神を信仰されているかは存じませんが、彼らが生きていることをどうぞお祈り下さい。ピニャ殿下、あとでその者達の消息と、どのように返していただけるかを聞かせていただけるものと期待しております」
これだけ告げると、菅原は伊丹と視線を交わして、この場から立ち去ることにした。
だが
「待て、貴様等!!」
このような暴挙を許したままでは帝国の威信は地に落ちてしまう。将軍らの命令に近衛の兵達は一斉に抜剣した。
「止めっ」
だが皇帝の声が、それを止めた。ようやく皇帝は理解した。また死体の山を築くだけで終わってしまうと言うことを。
「スガワラ殿。認めよう、ニホンの兵は確かに強い。だがな、戦いに強いばかりでは戦争には勝てぬもの。貴国には大いなる弱点があるぞ」
「我が国の弱点とは?」
「民を愛し過ぎることよ、おおいに煩わされることとなろう。義に過ぎることよ、その動きが手に取るように予測できるぞ。信に過ぎることよ、大いに損をするであろう。強い敵とは戦わねば良いのだ。剣の切っ先は鋭くとも、柄は弱点となる。その刃は鋭利でも、その峰は討てばよい。無敵を誇った軍が奔命に疲れ、いたずらに兵を損ない、国力を蕩尽し、ついには高度な文明を誇った国が、蛮族によって亡ぼされたのはそう古い話ではない」
菅原は応じた。
「我が国は、その弱点をして国是としています。そして我が国の自衛隊は、その国是を守るべく鍛えられています。いっそ、お試しなされますか?」
「なんの、そなた等に抗せるはずもなし。和平の交渉を始めるのが良いだろう」
「皇帝陛下。私たちも充分に弁えているつもりです。平和とは戦の準備期間であると言うことを。まして、和平の交渉は戦争を止める理由には成りませんぞ。我が国は、そして我が世界は、帝国をはるかに越える年月を血塗られた歴史の上に積み上げているのです。和平の交渉中に、この帝都を失うことを是非、恐れて頂きたい」
どこぞの国みたいに、だらだらと交渉を引き延ばすような真似はするなよという、念押しである。皇帝はこれに小さく舌打ちで応じた。
「だが、其処許らは和平の呼びかけを拒絶することはできぬ。違うか?」
「確かに。しかし、それが故に、虚言に下す鉄槌は、凄まじいものとなることをご覚悟いただきたい」
「おおっ、信じておるな。信じるのが国是なら当然だろう。だが、後で損をしなければ良いな?」
皇帝がこの言葉を口にした途端、余震が襲ってきた。
再度の揺れ。漆喰が粉となって降ってくる。
その恐怖に、皇帝は顔面を蒼白にし、将軍や大臣、そして近衛の兵達も、みなしゃがみ込んでは壁に縋った。
そんな無様な様子を後目に、菅原や伊丹達、ノリコという娘を連れては、近衛兵達の間をどうどうと抜けて謁見の間を後にしたのだった。
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菅原と伊丹、そしてその後ろを、栗林、ノリコという拉致被害者、そして最後尾を富田という列で歩いている。裸のノリコには伊丹の制服上衣が着せられていた。
しばらく皆、口を噤んでいる。
10分から20分ほど歩いて皇宮を出たところで、伊丹はため息と同時に、おろおろと言った。
「不味ったぁ。やっちまったよぉ!!」
菅原も、頭を抱えている。
「やっちっゃた。どう報告しよう?」
つい、頭に血が上ってやりすぎてしまった。伊丹と菅原は、どう言い訳したものかと頭を悩ませたのだった。