[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 62
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/03/31 20:11
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それは小さな動きだった。
誰の目にも止まらないような、ただ、丁寧に丁寧に正確であるようにと綴られた情報の羅列。
テレビで報道される特地の情報。特に、現地の住民達へのインタビューなどにつけられた翻訳の誤りを指摘し、正しくはこうなっていると伝えるブログサイトがあらわれた。
それは『のりこ日記』とタイトルされている。
「誤訳)おっかないね、とっても不安だよ」
「正解)お陰で、安心して暮らしているよ」
「誤訳)自衛隊にはとっとと帰って欲しいよ。こっちは平和に暮らしていたのに、迷惑な話だ」
「正解)はやく終わると良いね。無事に帰って欲しいよ」
ただマスコミの情報は誤りだと貶すだけのものであれば、人々の耳目を引き寄せる力はなかっただろう。多くの人が、きっと見過ごしてしまっただろう。
だけど、そこに記されているのは、女性とおぼしきブロガーが描く日々の暮らしぶりだった。特地の人々との交流は、真実そこにいなければ書けない臨場感があり、まだ特地で用いられている言葉、単語についての解説は詳細な検証にも耐えうる力を持っていた。
何よりも、時折掲載される現地の人々……その中には、日本で発売された写真集にも顔を出すちょっとした有名人達もいる。そんな人々の、未発表でしかも構えてない日常の姿が赤裸々に写しだされていたが故に、読者を信じさせることが出来たのである。
これを読んだ者は、誰もが「アレ?」と思いはじめる。
家に置かれているテレビとか、配達されて来る新聞紙から与えられた情報をこれまで疑うこともなく受け容れてきたけれど、このブログが本当だとすると、それらは全て間違っていたことになる。
例え、間違いではないとしても、割愛されている部分には大切なものがあったのではないか。
伝えられなければならない事実が意図的に、隠されていた。そして、本来は伝えなくても良いようなことが、大げさに語られている。
人々は、少しずつ考え始めた。
コメンテーターが語る言葉の裏にあるものは?
このアナウンサーは、何故この政治家を激しく貶すのか。
このテレビ番組を見ていて、何故このような気持になるのか。その理由は?このテレビ番組は、この出来事をこのような切り口で語っているが、それは物事の一面に過ぎないのではないか?
それは個々に置いて小さな動き。だが、とても広く、深くひろがっていた。
ごく少数だが、『気がついた人々』は、与えられた情報を盲目的に信じるのではなく、その情報がどのような意図で伝えられようとしているのかを、まず疑ってみようと、しはじめたのである。
それは自分が支持する勢力にとって都合が悪い情報が出ると疑う、と言うのとは違う。
自分にとって、都合がよい情報も悪い情報もどちらも、よく噛み砕いてどのよう意図が混ぜ込まれているかを考えるということなのだ。
夜の赤坂の街を、黒塗りのベンツが、煌びやかなネオンや屋外広告の光をボディにきらめかせながら走り抜ける。
車列の間を流れるようにして高級ホテルの玄関前に滑り込んできた。
後部座席はスモークガラスで見えないようにされているが、ホテルの窓からそれを見下ろす駒門には、ターゲットの存在をはっきりと思い浮かべることが出来た。
彼の隣には、現場の映像を残すべくカメラを構えた課員がしきりとシャッターを切っている。
ホテルのドアマンがドアを開くと、紳士然とした70代の男性と、10代前半としか見えない美貌の少女が降り立った。傍目には、おじいさんと孫という関係にしか見えないだろう。
「課長。全員、配置に付きました」
「よし。令状はとれたか?」
「はい間違いなく、すぐに届きます。罪状は予定通り児童福祉法違反です。それに売春の現行犯でひっぱれるでしょう」
「よし、では頃合いまで待つとしましょう」
駒門の指示に、彼の部下達は緊張を解くとそれぞれにコーヒーに手を伸ばしたり、携帯電話に入るテレビの映像に目を落としたりし始めた。
情報本部への出向期間が終わり、古巣の公安に戻った駒門は警視に昇進し、警察官としての任務に就いていた。
自衛隊情報本部への出向期間中に腰を痛めてから、常にステッキを愛用するようになった。さらに腰や膝への負担の軽減のために、医師からダイエットが命じられそれを真剣に遂行して、以前と違ってやせ形の体躯となっている。
その不気味とも言える風貌は、中高齢の部下達にとあるキャラクターを連想させた。そして彼らから死神博士と呼ばれて畏れられることとなったのである。
暫くすると、ドアがノックされる。
入ってきたのは、彼の部下の1人であった。足早に入ってきた部下は、茶色の封筒を背広の内ポケットから取り出すと、差し出した。
「令状です。それとこちらは部屋のカードキーです」
駒門は、封筒の中身を確認するとニヤリと相好を崩した。
「よし。では令状の執行に参りましょう。とは言っても、容疑者はお偉い人です。みな、丁重に振る舞うように」
絨毯が敷き詰められたホテルの廊下を足早にスーツ姿の男達が、群れを為して進む。その光景は一種異様であり、他の客達は脇に避けてこの集団をやり過ごそうとした。その真ん中をステッキを付きながら悠然と歩むのが駒門である。
男達はドアの1つの前に立つと、周囲を固めた。
課員の1人が、駒門の合図を受けてガードキーを素早くスリットに差し入れた。
ドアは抵抗もなく開いて、公安警察の課員達は流れるようにして部屋の中に入っていく。カメラを持った駒門の部下が、現場の様子を証拠として残すために、フラッシュを焚きながらシャッターを連写する。
「読村社長。貴方を児童福祉法違反、並びに売春防止法違反の現行犯で逮捕させていただきます。ちなみに、こちらのお嬢さんが13才未満だったら強姦の容疑もつきます」
警察官達の前に広がっていたのは、ベット上に裸体の老人が仰向けになって、その腰の上で裸体の少女が甘い声で啼泣しながら腰を揺すっているという光景だったのである。
床頭台には、ミネラルウォーターのペットボトルとED薬の錠剤が転がっていた。
驚いて声のでない読村。
少女は、この期に及んでもまだ腰を振り続けている。というより、腰を振ることに没頭していて周りの異変に気づいていないようである。
駒門は、ニヤリと嫌らしい笑み少女の裸体に視線を巡らせた後に、読村に死神のごとき笑みを向ける。
「随分と良い思いをなさっているようだけど、ウチの取り調べは過酷だよ。あんたのテレビ局でやってる刑事ドラマなんか、目じゃないもの……」
「べ、べ、弁護士を呼べ」
読村がようやく口にしたセリフがこれであった。
「ええ、貴方の当然の権利ですから尊重いたします。けどね、手続が済むまでの間、あんたの身柄は俺たち公安警察のもんだ。それをよく弁えておけよ」
「こ、こ、公安?!!」
「そ。公安が出張ることになりそうなこと、身に覚えがあるでしょ?」
「そ、そんなもの、ないっ!」
「さぁて。ま、その辺はゆっくりお話を聞かせて貰います。某国との関わりのこととかね。ゆっくりと、そしてじっくりと」
女性課員が呼ばれ、少女はタオルを被せられて連れ去られていく。
こうして、弛んだ腹の痩せた老人は、服に袖を通すことも許されず、バスローブ一枚を纏っただけの姿で、手錠と腰縄をかけられてホテルの裏口から連行されていくこととなったのである。
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陽の落ちたクナップヌイ。
流れる風が、草や茂る木々の梢をそよがせると、葉の触れ合うざわめきは海岸に寄せる波のようにも聞こえる。これに少し強めの風の音と混じりあったものが、夜の山岳地帯を彩る背景音楽だ。その雰囲気の重苦しさは、うつ病患者なら一発で、症状を悪化させられてしまうだろう。
こんな時は、早々にねぐらに籠もって眠ってしまうのが一番だ。
そのねぐらだが、チヌークを中心に6人用の天幕が4張り展張されていた。
民間人の寝床のあるチヌークを守るように自衛官達が休む天幕が周囲に配置されているのである。
その内の一つ。
天幕内に列ぶ簡易ベットの中から、出入り口近くに配置された一番良い場所を占領し、寝袋を敷いて、戦闘服の上衣だけ脱いだくつろいだ姿となった伊丹は、半長靴からは足も抜かない体勢で横たわっていた。ちなみに靴を脱がないのは、何かあったら素早く行動できるようにする配慮である。
懐中電灯の灯りを頼りに、持ってきた小説のページをめくる。
他の簡易ベットは、荷物だけが置かれた状態。皆任務に就いており、この天幕内にいるのは伊丹だけ。周囲を気にすることなく心おきなく本を読み漁っていられた。
伊丹の本を読む速度は、ライトノベルならおよそ1時間半で一冊読み終えてしまうほどだ。これが早いと言えるかどうかは他者と較べたことがないので何とも言えないが、それだけに旅のお供に数冊の携行が必要となる。
それによって例え荷物の重量が増し、疲労の原因となったとしても、伊丹の背嚢には常に4~5冊、下手をすると10冊にも及ぶ小説が入れられているのだ。
一冊の本を読み終えて、荷物に戻し中から別の本を手探りでひっぱりだす。
カラフルな表紙を汚さないために、自分でつけたOD色(オリーブドラブ)のブックカバーがかけられているため、事情を知らない者はそれを教範の類だと思うだろう。だがその実態は斯くのごとくである。
早速、ページを捲ろうとした彼の手が、ふと止まった。
自然のざわめきの向こうから人の気配が近づいて来るのが感じられたのだ。それは常人では誰も気づけないほどに、小さく、また周囲の雑音に紛れている。
幼い頃から、自分の部屋に籠もって階下の誰かが誰かを殴る気配にじっと聞き耳をたてていた日々が、彼に人一倍敏感な聴力を与えた。それを、ありがたいと思うべきかは今となってもわからない。だが、それが自衛官としての彼を支える才能の1つとなり、身を守るのに役立っているのである。これが特戦をして『逃げの伊丹』と呼ばせ、手を焼かせる理由の一端である。
ちらりと腕時計に視線を送る。
勝本と倉田はまだ不寝番中だから、戻って来るには早い。とすれば、夜空を撮影している笹川か。しかし、近づいて来るのは半長靴の足音ではなかった。裸足で歩いているのに似たその音は、皮革でつくられた特地産編み上げタイプのサンダルだろう。
おそらくヤオ。テュカという可能性もあるが、彼女は最近では外を歩くのに日本製アプローチシューズを愛用している。……そんなことを素早く考えた伊丹は、いつの間にか、握っていた9㎜拳銃から手を離して、ページを捲り読書を再開した。
丈夫な帆布にも似た素材で作られている天幕のファスナーを上げて中を覗き込んできたのは、やはり銀色の髪をもつ褐色のエルフ、ヤオだった。
懐中電灯の灯りに浮かび上がった姿は、鎧も外した軽装で、胴をかるく覆うだけのゆったりとしたチュニックを纏っているだけ。ボトムもショートパンツという有様で、手足はそれぞれ付け根から剥き出し。成熟した女性としての色香が匂い立ち、視線を真っ直ぐに向けるにはいささか眩しすぎる。
ヤオの右肩やや上方には、照明のために呼び出したのか白い輝きを放つ光の精があたかも蛍のように浮かんでいる。懐中電灯に較べれば光量は多くないが、夜の道を歩いていて躓かないほどには明るくなるのだ。
「少し良いだろうか?」
ヤオの発した声は、緊張を伺わせるややうわずった響きがあった。
伊丹は「おぅ」と、横になった姿のまま入って来るようにと促す。だが、彼女は天幕の扉部分を摘み上げたままの姿勢で踏み入ってこない。その瞳をじっとこちらに向けるだけであった。
「どした?」
「少し歩きたい。誰かが戻って来るかも知れないし」
要は二人きりで話したいということか。
伊丹は、本をポンと閉じると懐中電灯と上衣と64小銃へと手を伸ばした。
天幕を出て、上衣に袖を通しながらヤオに「こっちへ」と誘われた方向に踏み出したが、読みかけの本がまだ気になってもいたこともあって早々に用件を済ましたいと、「どうした?何かあったのか?」と話を催促した。
かすかに眉を寄せたヤオの表情は、どこか悲しげにも見えた。そして、大きく息を吸って何かを言おうとするのだが、何かがひっかかっているようで突然脱力して深いため息をついた。
そんな逡巡をまざまざと見せられれば、さすがに伊丹も何か深刻な用件かなと思って真剣に取り合う気持になる。ヤオが口を開くのを待つことにして、彼女の歩みに付き従うようにして進んだ。
2~3分ほど歩いたろうか。黒い霧の押し寄せる死の入り江から、反対方向。まだ生命の溢れる草木の生い茂るところまで来て、ようやく立ち止まったヤオは、周囲に2~3の光の精を放つと、おもむろに振り返った。
「御身とは一度ちゃんと話がしたいと思っていた」
青白い光が薄く照らす中、ヤオは真剣な色彩で輝く瞳を真っ直ぐに向けた。
「何を?」
「炎龍の件では、テュカや御身には随分と酷いことをしてしまった。その事がずうっと気になっていた。機会を得て、きちんと謝罪をしたいと常々考えていた」
「あれか?そんなの気にするなって。俺よりはテュカに謝っておきな」
「彼女にはもう謝罪した。快く許してくれた」
これを聞いた伊丹は満足げに頷く。
「よかった。テュカの奴は、もうすっかり立ち直ったんだな」
そんなところからテュカが快復し精神的にもしっかりと立ち直っていることが感じられて、伊丹は喜ぶ。だが、何が気に入らないのかヤオは「ふん」と唇を尖らせ、強引に話題を元に戻した。
「それで御身だ。此の身の謝罪を受け容れてくれるだろうか?」
「ああ。いいぞ」
「って、早っ?!」
「そりゃそうだろう。何時までも恨に思っててもしょうがないしな。テュカは立ち直った。経緯はどうあれきっかけはお前のお陰だ。しかも、お前にも相応の理由があった。さすがに感謝しようとは思わんが、良い結果が出たんだ。前にも似たようなこと言っていたけど、もう過ぎたこととしてお終いにしようや」
気負っているところがあったのか、伊丹のそんな言葉にヤオは力の入っていた肩を落とした。その姿は罵って欲しがっていたと思えるほどに、どこか残念そうであった。
それでもヤオは謝罪すると申し述べ、伊丹がそれ罪を受けると応じたからには、ヤオは白銀の髪の先を地に垂らすようにして、深々と頭を下げたのである。
暫くして伊丹は、ヤオに頭を上げるように告げた。ほっておけば何時までも頭を下げているようにも思えたからだ。そんな男を女はこう評する。
「お人好しめ」
すると伊丹は肩を竦めて「炎龍を倒した報酬に、いろいろ貰ったからなぁ」と、自分が得た利益を指折り数えだした。
「ダイヤモンドの原石だろ。感状だろう。それに、デュランさんには爵位まで貰った。減俸とかいろいろあったけど、差し引きで言ったら黒字だよ。ここまでしてもらって、いつまでもグズグズ文句を言ったら、それこそ罰が当たるぜ」
ところが、ヤオはそれを聞いて訝しげであった。というよりは、何か重大なものを忘れていないかと伊丹の顔を覗き込む。覗き込まれた伊丹としては、そんなヤオの態度に「なに?」と訊ねざるを得ない。
「あの、もしやと思うが、御身は、此の身を所有していると言うことを忘れていやしないか?」
ヤオに指摘されて、今更のように気がつく伊丹。「あ、そんな事もあったなぁ」と掌を拳でポンと叩いた。
「随分酷い話だ。つれない話だ。というより殆ど侮辱に近い。金銀財宝や地位に及ばずとも、それなりに価値のある報酬だと思っているのに」
ヤオは、憤懣の気持をあからさまにして、エルフの奴隷は精霊魔法が使えるなどの技能があったり、寿命が長いからヒト種のそれの数倍の高値がつくといったことを述べて、どれほどの市場価値があるかをさかんにアピールした。
「悪かった、悪かった。日本には奴隷制度がないから、人間を貰うってことに違和感しかないんだよ。ほら、実際に受け取ったのは紙切れだったし、そんなものと関係なしに、もうヤオを仲間だって思ってたし」
「いや、御身に軽々しく扱われているようで不本意だ。こちらとしても、覚悟を決めて我が身を捧げたつもりだった。それがこの扱いでは……御身の手の内にある財産がどれほどのものか認識を改めて貰う必要性を、此の身はひしひしと感じている」
ヤオはそう言うと、さらに伊丹に向かってじわりじわりと迫った。そんな姿には、何故かはわからないがどこか必死の色があり、悲愴感すら漂っていた。
「ちょっとまてって。どうするつもりだ?」
「今言われたように、紙切れしか受け取っておらぬがゆえに、此の身を所有している実感が湧かないのであろう?料理は食してみて初めてその真価が解る。拾った財布は中身を覗いてこそその価値が解ろうというものだ。やはり、人間は使ってこそその能力が知れる。是非とも、何か用を言いつけて欲しい。御身が命じることならば、それがどんなことであっても、喜んで応ずるだろう。どんなことでもだ……」
迫ってくるヤオの瞳と、「どんなことでも」という言葉に、伊丹は思わず唾を飲み込んでしまった。
妙齢の、しかも容姿の端麗な女性から「どんなことでもOK」と言われて、『女』を意識しない男は少ないと思う。伊丹は、いかにも女というタイプは苦手ではあるが、だからといって決して嫌いなわけではないのだ。視線が豊かな曲線を描く胸とか、剥き出しの手足とか、艶めかしい唇とかに向いてしまうのは仕方のないことと言えるだろう。
だが「好意を感じてくれてなら大歓迎。だけど金ずく、暴力ずくは絶対ダメ。主人と奴隷の関係なんて最悪」という内心の声に従って、頭の中身に冷や水を浴びせて努めて冷静な口調でこう応じた。
「それは、要するに仕事を与えてくれと言っているわけかな?」
「………まさしく、その通り」
こうして伊丹の前で、ヤオは胸を張って頷いたのである。
夜の暗さからか、それとも彼女の態度に気圧されたからか、その時の伊丹はヤオの身体が僅かながら震えていることには気づくことが出来なかった。
ヤオにとって、伊丹が自分を所有しているという意識の無さは、実は結構切実な問題であった。
炎龍を退治してくれるならその報酬に我が身を売り払っても、という覚悟をかためて旅に出て、そして伊丹と巡り会って紆余曲折の末に炎龍を退治して、故郷が救われた報酬として我が身を伊丹へと与えた。だが、伊丹はヤオに何もさせないし求めないという態度をとり続けていた。
伊丹からすれば、身の回りのことは自分で出来るし、特別ヤオに頼まないといけないことはない。現地協力員に、テュカ達と一緒に参加してくれればよい。それぐらいに考えていたからだ。
そんな彼の態度が、ヤオにとっては余所余所しく感じられて寂しいのである。
それに奴隷としての不安もある。
主人に気に入ってもらえなかった奴隷は、何かあれば、別の誰かに売り払われる運命が待ち受けている。奴隷は自分の行き先を選べない。極端な話、買い手が娼館なら不特定多数の男を相手にする毎日が始まってしまう。
しかし、それが伊丹の意志と言うならばヤオはそれを甘んじて受け容れるだろう。伊丹が娼婦になれと言ったなら、最高の高級娼婦をめざすだろう。
ところが、伊丹は何も指図しない。求めても来ないという曖昧で宙ぶらりんな状態が続いていた。
今回のように、現地協力員という立場で彼の指揮下に入って仕事をすることはあるが、それはテュカやロゥリィ、レレイと同じ『雇われ者』と同じ立場だ。ヤオが求めている『奴隷と主人』の関係ではない。奴隷とは所有されるものである。それは、あやふやな恋愛という感情に基づく関係よりも、より強固なものだ。結婚式の前夜に婚約者を亡くしたり、恋人を失い続けて絶望してしまったヤオにとっては、所有されるということにこそ寄る辺となる魅力が感じられるのだ。
だから思う。もっと、自分をしっかりと所有して欲しいと。
もっと、いろいろと用を言いつけて、役に立つ機会を与えて欲しいのである。しかし、今はほとんど放置されている。それが、自分に関心がないように見えるから、とても怖くなる。こっちから積極的にしがみついていかないと置いて行かれてしまいそうである。
伊丹が、そんなそっけない態度をとるのは、きっと自分のしたことへの怒りがおさまっていないからに違いない。ヤオはそう考えた。だから謝罪したかったし、まだ怒りが晴れないというのなら、罰を与えて欲しいと思うのである。その為であれば、どんな責め苦でも、どんな酷い扱いも受け容れるつもりだった。
ところが伊丹は怒ってないと言うのだ。
謝罪に対する態度もあっけらかんとして尾を引かないサッパリとした態度だった。それが、伊丹の良いところと言えば良いところなのだろうが、ヤオからすれば、ますます伊丹の関心が、全く自分に向かっていないことの現れと思えてしまう。
伊丹にとって、自分の存在は無価値。不要物。そんな気持にすらなってしまう。
だから、少ししつっこいほどに「何でも言うことをきく」と強調したのだ。
伊丹に、自分という女を意識させたかった。何としても。
女奴隷が、主人に性的な奉仕を要求される。実によくある話だ。実際、伊丹の視線が自分の肢体を舐めるように走った際は、心臓が高鳴った。
なのに、伊丹はヤオの内心の求めに無頓着に見える。
艶っぽい話を避けるかのように、「仕事を与えてくれ」と言っているのかと訊ねてくる始末だ。
ヤオとしてはやるせない気持を抑えて、「まさしくその通り」と言うしかなかったのだ。
一方、そんなヤオの胸中を知らない伊丹は、顎に手を当てて考えていた。
現地協力員としての仕事はすでにしてもらっているし、隊内の業務を自衛官でもない彼女に任せるわけにはいかない。
だが、ヤオの気持も推し量れなくもないのだ。
仕事を干されたしまった人間が鬱屈した挙げ句の果てに精神的に参ってしまうという話はよく聞く話だからだ。
自衛隊にも、いろいろな理由で、仕事を任せてもらえない人間はいるし、どこぞの少数野党の議員さんが経営していた(現在息子が社長)某運送会社では、不正行為を内部告発した職員を退職までの32年間、ずうっと草むしり程度の仕事しか与えないという報復を徹底的にやったそうだ。
その職員はよくぞ耐えたものである。そう言う会社を経営していた人間が、国民のためとか言って国会議員と神主とかしているのだから世も末と言えるだろう。
いずれにしても、仕事を欲しいと言う気持は伊丹にもわかるから真剣に考える気になった。
「とは言ってもなぁ……とりあえず頼めるとすれば、洗濯とか、半長靴磨きかなぁ?あとは追々考えるしかないだろう」
洗濯、とくにこれに付随するアイロン掛けと靴磨きは自衛官には必須の仕事だ。
この両者は、馴れない人間にやらせるとかえって酷いことになってしまうが、頼むとすれば、まずはそれからだろう。ヤオがアイロン掛けだの靴磨きをしたことがあるとは思えないから、伊丹が手ずから教えることになる。
それを聞いたヤオは満面の笑みで伊丹の両手を握った。
「ホントか。御身が手ずから教えてくれるのか?」
「この程度のことで、こんなに喜んで貰って悪いねぇ」
伊丹は、戸惑うばかりであった。
だが、ヤオにとっては、何もなかった今までに較べたら遙かによいことなのである。
伊丹にもっと自分を意識させるにも、これがとっかりになる。いや、何として意識させてみせると、そんな挑戦的な気持になっていた。
ヤオは嬉しさの余り、勢いづいて伊丹に抱きついたあげく口づけようとした。
だが、伊丹はそっけなくそれを躱しヤオの身体を横に放りだした。受け止めてもらえないヤオは地面に抱きつき、口づけは大地に贈ってしまう。
「…………むぅ」
いくらなんでもこの扱いはないのではないか、と思いつつ顔を起こすと、伊丹は64小銃の槓桿を引いて弾丸を装填して、暗闇の向こう側に銃口を向けていた。
斜面の上方から、風が枝葉をそよがせる音とは違う、何かガサガサと草分ける音が近づいてきている。
見れば、斜面をごろごろと白い塊が転がってくる。
ヤオも状況が変わったことに気づいて、光の精を増やすと周囲を明るく照らした。
斜面を転がり落ちてきた物体には、伊丹は見覚えがあった。ヤオも見覚えがある。
それは深縹(ふかきはなだ)色の肌をもつ竜人族出身の亜神ジゼルだった。ハーディに仕える使徒であり、ロゥリィとも互角に戦うほどの実力を持つ。
そんなジゼルが何故、泥に汚れてこの斜面を転げ落ちてきたのか。
伊丹は、周囲を警戒しつつ仰向けに転がる白ゴスフリルの塊に近寄った。
流石に美形揃いの亜神だ。容姿は彫刻のように整っている。
だが、その美貌も憔悴しきっており色あせていた。息も絶え絶えで浅い。
一時、敵として対峙してその凄まじさを肌で感じている伊丹は、あの敵をここまで消耗させるとは、いったい何事かと警戒心を最大にまでかき立てた。周囲への警戒を密にして、そっと手を伸ばしジゼルの首元に触れようとする。
ヒトで言えばそこは頸動脈が走っている。脈を取るのと同じで、災害被害者などの体調を図るのに用いることが出来る。
だが手が触れるか触れないかのところで、突如ジゼルは瞼が開いた。
光精の薄明かりの中、金色の瞳が輝く。そして、ぷっくりとた唇を開いて、何かを告げようとしていた。伊丹をそれをじっと待つ。
「……………………」
だが、何を言っているか伊丹の耳をしてもよく聞き取れない。
耳を寄せてさらに彼女の声を聞き取ろうとしたところ、ジゼルは蚊の泣くような声でこう言った。
「…………………………腹減った」
ガツガツと飯盒のカレーライスをかっ込むジゼル。
「美味い、美味いぜこりゃ」と瞬く間に二人前、三人前と平らげていく。
白ゴスをまとった女性が、がばっと大股開いて座り込んで、ものすごい勢いで食事をしている姿は、ワイルドとか言う以前に、女性的な何かを完全に放棄しているとしか思えないものである。
容姿が良いだけに、もったいない。そんなことを思いつつ伊丹は振り返るとヤオに言った。
「こりゃ、まだ喰いそうだ。もう一人前追加して温めてくれ。それと、ついでだから白位博士と笹川に珈琲でも入れてやってくれ」
「はい」
伊丹から用を言いつかって嬉々として仕事をするヤオ。よっぽど嬉しいのか、レトルトの戦闘糧食を温めたり、珈琲をいれたりで鼻歌すら聞こえてくる。
「それで、なんだってこんなになるまで食事を摂らなかったわけ?」
伊丹の質問に、ジゼルはスプーンを口に運ぶの、一瞬止めた。
ぼそりと「ちっ、主上さんのお声掛かりがなきゃ、あの時のお返しをしてやれるのによぉ」などと物騒なことを呟きつつ伊丹に向けて「お前らのせいだ」と言い放った。
「なんで俺たちが?」
「龍の件さ。あの件で、主上さんにお叱りの言葉を賜っちまったのさ。罰としてここで黒い霧が山を越えるまで見張ってろってな」
「飯抜きで?食糧の補給とかも無し?」
「雲の上のお人が、こっちの飯のことまで心配するかってんだ。そういうのは、それぞれが自分の才覚でするもんだ。最初は、喰える野草とか、動物を狩ったりしてたさ。けどよ、この辺の生き物はみんな死ぬか、逃げるかして、獲物がまったくかからなくなっちまったんだ」
「死に絶えた?」
「ああ。動物の類はもうこの辺にはいねぇよ。虫すらいねぇ。木も草もどんどん死んでる。土が死んでるからな。お前等もあんましこの辺に長居しねぇ方がいいぞ」
「それにしては、死骸がないね」
「当たり前だ、生き物はカンが鋭いからな。異変を察してみんな逃げちまうんだ。逃げられなかった動物が転がってた所は、もう黒い霧に呑まれてる」
それは伊丹にとっても貴重な情報であった。
「俺たちは、一応、明日には立つ予定だけど大丈夫かな?」
「1日2日なら、心配いらねぇよ。けれど、それより長くいるのは勧められねぇな」
養鳴教授が、ガイガーカウンターで調べた時には何の反応もなかったから、放射線の類ではないはずだ。だが、やはり生命に害のある未知の何かがあるのかも知れない。
「実は学者を連れてきてる。明日、そういった話を聞かせてもらえる?」
「かまわねぇぜ。主上さんから、黒い霧を調べに来る奴がいたら、協力してやれってご下命を受けてる。それに、飯も奢ってもらったことだしな」
ジゼルは、そう言ってヤオから差し出された4杯めのカレーに、スプーンを突き立てたのである。
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あんまり長く寝ていると、かえって寝疲れてしまい体調が悪くなることがある。
レレイもそういうタイプだ。
しかも彼女に与えられたのは帝国の皇宮にある身体が埋まりそうなほどに柔らかな寝台とか、掛けているのかどうか判らないほどに軽い羽毛を詰めた布団。そして首が疲れそうなほどに頼りない枕だったので、横になっていても落ち着かないのである。はっきり言って、気が休まらなかった。
これを貧乏性とも言う。硬いマットと枕、そして重い布団が懐かしい。
身体を起こしてうなじを拳でトントンと叩いていると、ロゥリィが黒ゴスフリルをひらひらさせながら機嫌の良さそうな表情でやってきた。
ここしばらく無表情と言うか人形のようなと言うか、不機嫌を隠さない態度で皇宮内をのし歩いていたので、女官とか、侍従とか、貴族連中は、彼女に近づくことも避けるようになってしまった。
だが今は、花が咲いたような満面の笑みを浮かべている。となれば、何か良いことでもあったのだろう。
「耀司が迎えに来るって、報せがあったわよぉ」
それは、確かに良い報せであった。
いつまでこんなところに居なければならないかと不安に思っていただけに、終わりが見えて来るのは嬉しいことだ。伊丹に会えるのはさらに喜ばしい。
「いつごろ?」
「明日、クナップヌイを出るそうよぉ。だから、早くても2~3日はかかるでしょうねぇ」
「クナップヌイ?」
「そうよぉ。なんでまたぁあんな所に戻ったのかしらぁ」
今頃、門をについての進言のために、東京に行っているとばかり思っていたのである。それがまたぞろ、クナップヌイに行っているという。
ロゥリィは訳が解らないと呟いたが、レレイには薄々事情が理解できた。
「おそらく伊丹の進言は、日本政府の指導者に届いたと思われる。ただ、それで門の取り扱いについて決まるわけではない。多分日本の政府は、クナップヌイの状況を学識者に調べさせようとする」
「そっか。そうよねぇ、いくら士官って言っても、所詮は下っ端だものねぇっ。耀司の報告だけで国が方針を決めるわけにもいかないわねぇ」
「その通り」
「ところで、レレイの方はどうなのぉ?体調はぁ?」
病んでみて、人の情けのありがたみが初めて判ると言うことはよくある話だが、今回はロゥリィの過剰なほどの親身さが、少々意外でもあった。もちろん、ロゥリィが自分を近しい存在と見なしてくれることはとても嬉しく感じているが、まるで肉親のように心配してくれているのだ。
何故と訊ねてみたい誘惑が何度か沸き上がったが、まだ聞くことができなかった。
「吐き気もないし、身体も痛くない。お腹の具合が治れば、もう動ける」
「結局、ハーディのやらかした暴飲暴食が一番レレイの身体に負担を掛けたかぁ。でも、レレイにはぁ適性があったよぉねぇ。……わたしぃの時はもうちょっと酷い状態が続いたから心配したわぁ」
「貴女にも似たような経験が?」
「神官見習いだった頃にぃ、ちょっとねぇ」
神官見習いだった頃と言えば、ロゥリィがまだ亜神になる前のことだ。今から、1000年近くも昔のことになってしまう。いくら自身のこととは言っても、よくぞまぁ憶えているものだとレレイは感心してしまった。
神を自らの身に降ろすということは強烈で鮮烈な体験だ。こうして寝込んでしまったほどに心身に負担がかかったのであるが、それでも軽い方だと言うからには、ロゥリィはもっと凄まじい苦痛を感じたのかも知れない。
きっと、そんな体験がロゥリィが親身になってくれる理由かもしないとレレイは考えた。
「ところで、帝国政府は?」
「ピニャがあっちこっちで説得して回っているわぁ。でも、あんまり芳しくないみたいよぉ。再度『門』を開けば、日本との交易はまだ出来るって強調すれば、耳を貸してくれる議員も増えるでしょうにぃ、日本と繋がる保証はないって言って、門を閉めることばかり言っているのぉ。ねぇレレイ、そんなに門を開くのは難しい?」
「ハーディから下賜される力を使えば門を開くことは難しくはない。問題は、無数にある世界の流れの中から、日本のある世界をみつけだすこと。そして、その世界流とこちらの世界流とが近づく時期を見計らって、門を開くこと。これが難しい」
「どのくらいの時間のずれが出るって言ったかしらぁ?」
「繋いでいる時間が長すぎたので、反動がどれだけ出るか判らない。ハーディは、数年から40年前後と言った」
「40年かぁ。耀司はお爺ちゃんになってるわねぇ」
「それは嫌」
「わたしもぉ嫌よぉ。だから、彼奴はこっちに留まらせる積もりよぉ」
「それは、伊丹それに付随する友人や家族の縁を絶ちきらせることになる」
「じゃぁ、レレイはどうすると言うのぉ?」
「伊丹が居ると言ったところに行く。それだけ」
「ふ~ん。レレイはぁ、日本に行っちゃうのもありなのねぇ?」
ロゥリィはそう言うとレレイに列ぶようにして、寝台に横たわった。二人で列んで天井に描かれた絵を眺めながらロゥリィは言った。
「わたしぃはぁ、この世界の亜神よぉ。だから、この世界を長く離れるつもりはなぃわぁ」
「40年は長い」
「そうよぉ。だから耀司を引き留めるしかないのぉ」
「自分勝手」
「そうねぇ」
「傲慢」
「そうとも言えるわねぇ。でも、愛ってそういうものよぉ」
「伊丹は、この世界でひとりぽっちになってしまう」
「ならないわぁ。わたしぃが一緒にいるものぉ」
「伊丹は、ロゥリィのものではない」」
「今はねぇ」
姉妹のように穏和な雰囲気だった二人の間に、微妙な緊張が走った瞬間であった。二人は互いに視線を合わせる。
ロゥリィはニィと挑戦的な笑みを見せ、レレイは小さな舌をロゥリィにべっと出してから、ほのかに笑みを見せた。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 63
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/03/31 21:02
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執務室に戻ってきたピニャは不機嫌さを隠そうとしなかった。
内心の猛々しさを現すような歩調は、貴婦人の嗜みたる優雅さがかけらもない。人の持つ暴力性を規律という容儀によって治めるべき騎士としての気品もない。
部屋の隅におかれたテーブルにアルヌスから届いた翻訳済み同人誌を積み上げて、ページを捲りながら午後の喫茶を楽しんでいたボーゼスとパナシュの二人は、思わずカップを口に運ぶ手を止めて眉根を寄せた。
「殿下。元老院の方々との会合はいかがでしたか?」
給仕役を引き受けていたハミルトンの問いに、ピニャは砂を吐くかのように言い放った。
「どうもこうもない。誰も彼も、すっかりニホンという国に依存しきっている。門を閉じれば、国境を接する外国が怒濤のごとく攻め寄せて来ると竦み上がっているのだ。軍事的にどうこう、経済的にどうこう、屁理屈と小理屈を立て並べて何もしないための言い訳ばかりだ」
「では、対策は?」
「世界が終わるという聖下の提言を真剣に受け止め、検討を続けるという返事だ………ふんっ、取り返しが付かなくなるまで検討し続けてろっ!!」
為すべき事は、門を閉めること以外無い。何を検討するというのだ、とピニャは怒鳴って足下の屑籠を蹴り上げた。籐を編み上げて作った屑籠は壁に当たって室内に転がり、その中身が周囲に散乱した。
肩で息をして憤りの嵐が過ぎ去るのを待っているピニャの傍らで、冷静な秘書役がすっかり定着したハミルトンは眉ひとつ動かさず、卓上の手鐘を指先で取り上げると軽く降った。
軽快な音を合図に重厚なドアが静かに開く。3人のメイドが一礼した。
「何か、ご用でしょうか?」
「見ての通りです。綺麗になさい」
メイド達は「かしこまりました」と答え、ピニャがまき散らしたゴミを手早く拾い集め、拾うには小さすぎるゴミは箒で掻き集めて手早く片づけていった。
「他に、ご用件はございませんでしょうか?」
「ない。下がって良い」
「かしこまりました」
3人のメイド達は並んで頭を下げた。そして退室しようとしたところで、ピニャが「ちょっと待て」と呼び止めた。閉じかけられたドアが再び開く。
「ご用でしょうか?」
「少し訊ねたい。お前達、ロゥリィ聖下やレレイのお世話にもついているな」
「はい」
「お二人の様子は?」
「ロゥリィ聖下はこれまでと打って変わってご機嫌のご様子です。レレイ閣下も、だいぶお元気になられました。今朝からは、もう床を離れておられます。医師からは、食事も軽いものなら出しても良いとのご指図がありましたので、今朝より召し上がって頂いております」
亜神たるロゥリィが最上の礼遇をもって賓客として遇されるのは当然だが、レレイも貴族と同等の礼遇を与えられている。導師号をうけた者は、宮廷儀礼において閣下と呼ばれる身だからである。
「聖下がご機嫌だと?」
「昨夜使者が参られ、イタミ殿が迎えに来るという報せを伝えられました」
ハミルトンの言葉にピニャは唇を歪めた。またあの男か、の思いとともに舌打ちしたくなる。
「そうだったな……」
ピニャが払うように手を振り、メイド達はそれに従って退いていった。ピニャは自分の席に着くと机に向かってじっと考え込む。
「殿下?」
眉を寄せて親指の爪を噛むピニャの姿にハミルトンは妄執めいた気配が感じられて、すきま風を背に受けたような寒々しさを感じた。
「姫殿下。イタミさまが、ニホン国政府を説得できさえすれば、門の問題は解決するのではありませんこと?」
ボーゼスが初めて口を開いた。
だが、ピニャは机を激しく叩いて怒鳴る。
「我が世界の存亡まで、ニホン頼りと言うのかっ!!?」
その勢いに一瞬気圧されたボーゼスだが、言わなければ行けないことは言うとばかりに気を取り直して椅子を立った。
「ですが、門のあるアルヌスはニホンの制圧下にあり、講和後は日本に割譲されます。帝国の国論を門の閉鎖へと導いても最早わたくしたちの手で、どうこうできる話ではないではありませんか?」
「ボーゼス。お前までそのような事を言うか……よいか、この世界の危機なのだ。直接手を下せずとも、外交交渉で門を閉じる必要性を訴えることは出来るであろう。それを、門はニホンの手にあるのだから、異邦人に任せておけばよいとは楽観的に過ぎる」
「ボーゼス。殿下の言われる通りだぞ」
パナシュの落ち着いた声が、金髪縦巻きロールの令嬢を窘めた。
ボーゼスも、こちらから門についての危険性を説き、門を閉じるように求めることの意義は理解できたのかそれに首肯する。
「確かにそうですわねぇ……まぁ、あの国であれば一時の間、門を閉じることには応じて頂けることでしょう」
「ならぬ。門は閉じてしまいもう二度と開くべきではない」
ピニャのこの言葉には、ボーゼスばかりかパナシュも、そしてハミルトンも目を丸くした。
「そ、そう言われましても。講和の内容からも見て、あの国が帝国、いやこの世界を手放すとは思われません」
「だが、門を開く能力を持つ者は、こちら側にいるのだ。一端、門を閉じてしまえば、開けるかどうかの決定権は我らにあると言えよう」
「つまりニホンを騙すと?しかし、元老院議員方や陛下がそれをお認めになるとは思われませんわ」
パナシュも今度はボーゼスに同調した。
「その通りです。ニホンの軍事力や、交易をあてにしている連中に、門を閉じて開かないなどと言ったら反対されます」
「それに、これらの芸術も入ってこなくなってしまいますわ。我が国の芸術は未熟です。これだけのもの求めても得ることは決してかなわないでしょう」
ボーゼスの指摘をうけたピニャはテーブルに積み上げられた数々の本を見て、はっとなった。
「そう、だったな……」
口中に苦いものでも押し込められたかのごとき、酷い表情となる。
「だが、例えそうだとしても……」
その時、窓の外から空気を連打する激しいローター音が響いて、ピニャの呟きは覆い隠されてしまう。ボーゼスらは窓に駆け寄ると、音の発生源を見上げた。
チヌークは、ゆっくりと高度を下げながら、宮廷の庭先に降りようとするかのごとく姿勢を取った。猛烈なダウンウォッシュが、大地を洗って砂煙を巻き上げる。
「あれは?」
「ニホンのヘリコプターという空を飛ぶ乗り物ですわ。アルヌスで毎日のように見ます」
パナシュの問いに、ボーゼスが解説した。
「凄い。あのような乗り物で城内に直接乗り付けられては、壕も城壁も、そして厳重な警備も意味がない」
近衛の兵士達が慌ただしく走り寄って行く。だが、人数はも少なく、しかも戦う体勢がとれていないことは、パナシュの目から見ても明らかであった。
「ええ、その通りですわ。そしてそれより降り立つニホンの兵士は非常に強力な武器を有しているのはザラの地で貴女も見たでしょう?この皇宮などあっと言う間に占領されてしまいますわ」
「我々はとんでもない敵と戦ってしまったのだな」
「はい。ですが、味方とすればこれほど頼もしい者ないでしょう」
パナシュに、あれにトミタが乗っているといいな?そんな言葉でからかわれたボーゼスは、「嫌だわ。もう」と拗ねたように唇を尖らせた。だが、そんなボーゼスも伊丹の姿を見つけると、声を弾ませた。
「あら、イタミさま」
ボーゼスの声に、パナシュも「おっ、ホントだ」と声を合わせた。
ローターを回したままのヘリの後部から、完全武装の伊丹が降り立って警備の近衛に声を掛けて何か話している。
彼女の記憶では、富田は伊丹の部下であったから、当然彼の姿もそこにあるかも知れないと思う。そうなれば、さらにからかいの色を含んだ視線をボーゼスへと向けるのであるが、その時にはもう豪奢な金髪を縦巻きロールにしている令嬢の姿は無かった。
「行ってしまいましたよ」
ハミルトンの言葉に、呆れるパナシュ。振り返れば、ドアが閉じるところであった。
何事かと慌ただしく集まってきた近衛兵に、伊丹は、ロゥリィとレレイを迎えに来た旨を告げた。すでに帝都事務所を経由して連絡は入れてあるので、問い合わせれば判るはずである。
すると近衛士官が出てきて、「しばらく、こちらでお待ち下さい。上官に、報告して参りますので」と伊丹に此処を動かないことを求めて来た。
当然のことである。ゾルザル反乱の際に味方したとは言っても、やはり他国の兵なのだから。伊丹が向こうの立場になったとしても、自国の中枢たる宮殿内で好き勝手に動き回られてはたまらないと思う。
そんなわけで、伊丹はチヌークを親指で示して「了解です。こいつも降ろす場所が不味ければ、移動させますんで連絡をお願いします」と対応を求めた。
軟らかい物腰に近衛士官も安心したのか、「大丈夫だと思います。どっちかというと、飛び回られる方が厄介ですから」と言い残して、駆け足で報告しに去っていった。
残された彼の部下達は、特に警戒した様子もなく物珍しげな表情でチヌークを遠巻きに眺めている。やはり、空を飛ぶ乗り物という存在に圧倒されているのだろう。
そして、そんな近衛兵達の姿を取材スタッフのカメラが撮影をしていた。
「伊丹さん。見たところ、ここって凄いお城みたいんですけど、どこなんです?」
菜々美にマイクを突きつけられ、伊丹は「ここが、帝国の首都でその宮廷の一角です。日本で言えば皇居ですね」と答えた。
「こ、ここが帝国の首都なんですか?良いんですか?直接皇居なんかに乗り付けてっ!」
「ちょっと、不味いかも知れませんねぇ。でも他に降ろすところなかったし、しょうがないと言うことで勘弁して貰いましょう。あはははは」
そんなやりとりのなか、ディレクターはカメラマンに「撮せ、撮せっ!!」と叫くように指示した。何しろ、敵国の首都である。アルヌスと違ってその風景は、誰も見たことがないわけで、大切なニュース映像となるだろう。
カメラマンは、早速その場所から見える周囲の風景を撮影すべくぐるりと一周しはじめた。ギリシアとローマと、中世のドイツ都市とを混ぜこぜにしたような石造りの都市の景観は、観光名所然とした美しい風景だった。
紀子が、あの建物は何で、あの建物は何とまるでガイドかツアコンのごとく帝都滞在中に得た知識を披露している。ゾルザルの奴隷であったと言っても、籠の鳥のように一カ所に閉じこめられていたわけではなく、テューレと共にあちこち連れ回されたので、帝都の主立った建物が何であるかぐらいの知識は持っているのだ。
学者先生達も窮屈なヘリから降りてきて、身体を伸ばしながらもめったに見ることの出来ない光景をその目に焼き付けるべく、周囲を見渡しており、その様子はすっかりお上りさんである。
「あそこには、日本で言えば国会にあたる議事堂が……あれ……なんだか壊れてますね」
そこだけ、地層から掘り出された遺跡のような惨状となっている。
紀子が、困ったように首を傾げたので、伊丹が横から口を出して付け加えた。
「ああ、あれは空自が空爆して吹っ飛ばしました」
「空爆!?」
「紀子さんを救出した後、まだ拉致被害者がいるという情報がありまして、拉致被害者を返さないとこっちにも覚悟があるぞって示すために、人気のない夜中に空襲したそうです」
別に防衛機密でもなんでもないので、ぺらぺらと喋る伊丹である。
だが、菜々美やディレクターは、日本が帝国の首都の、しかも国会議事堂にあたる建物を吹っ飛ばしたという事実に衝撃を受けているようであった。政府発表では「政府関係の建物を攻撃をした」と言っていた。それがあの残骸である。粉々に粉砕された建物の無惨な姿を直接目にしてみると、いくら戦争中とは言っても思い切ったことをしたと感じてしまうのだ。
「では、その段階では、残されていた拉致被害者はご存命だったのですね」
「そのあたりは、政府の発表の通りでしょう」
事情はもう少しややこしいのであるが、伊丹としては、このあたりは誤魔化す。
「あの時、助けに来てくれたのが、こちらの伊丹隊長さんと、栗林さんと、富田さんだったんですよ。それに外務省の菅原さんがいました」
そう言って、紀子は栗林をひっぱってカメラの前に立った。栗林は、照れたように下を向き、伊丹は「いやぁ、なんともお恥ずかしい限りです」と後ろ頭を掻く。
「あの?富田さんって言うのは、やっぱり?」
「もちろん、あの富田さんです。あなた達を助けるために、最後まで残ったから亡くなったって聞いてますよ。なのにガツーンと村人を鉄砲で叩いているところばっかりテレビに流れちゃって変に風に有名になっちゃったんですよね……」
非常に嫌みったらしい紀子の言い様に二の句が告げられない菜々美とディレクター。だが、それだけのことを言われるのに身に覚えがありすぎて、何も返すことが出来なかった。
マスコミがこぞって悪役に仕立てた無名の自衛官が、実は拉致被害者救出の立て役者だったという事実に、音声担当やカメラマンも、口には出さずとも内心で呻いていた。もし、これがそのままテレビか何かで報道されたらえらいことになる。だが、報道しないわけにもいかない。拉致犠牲者の救出にかかわる出来事は、国民が非常に強い関心を示すからだ。その犠牲者直々の口だ。どうやったって戸の立てようがない。
日本人はただでさえ判官贔屓なのに加えて、人知れず誰かのために頑張っている、あるいは頑張っていたというタイプの人間が大好きだ。まして、今まで悪役だと喧伝されていたのが実は善玉だったと知ればどうなるか。
そんなことを考えながらも、そのまま収録を続ける。どうせ必要な部分だけ残して、都合が悪い部分は編集されると思っているからどうでもよいと思っていたのである。そしてこの映像は、後日アルヌスより各局へと配信されることとなる。
当然のことであるが、各局は『とある意志』の働きかけによってこの部分に編集を施して報じた。だが、社長が児童買春によって逮捕されると言うとんでもないスキャンダルによって、内部の混乱していたテレビ東洋放送社では、次期社長の座をめぐる局内の対立と、人事の混乱から現場に『とある意志』が届かなかった。あるいは現場から意図的に無視されたのかも知れない。必要な処置を講じることなく、報道されてしまうのである。もちろん後々のことであるが。
「やれやれ」
「なるほど、そういう経緯だったのじゃな」
などと真実を知った教授先生達の呆れたような会話が妙に響いたりする。
こうして皆の前を、しばし言葉のない鬆の入った時間が数秒間流れることとなった。だがそれは、慌てふためいた女声によって切り裂かれる。
「どうしたっ!!ボーゼス!ボーゼスっ!!」
皆が振り返ると、気を失って倒れたボーゼスを一生懸命抱え起こそうとしているところだった。
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「殉職とは、任務遂行のために死亡することです。富田は、戦死いたしました」
ベットに運ばれたボーゼスは、意識を取り戻すとすぐさま詳しい説明を求めた。
感情を高ぶらせるのは母体に良くないという医師の忠告に基づいて、ピニャもパナシュも今は身体を休ませることが先決と、説明など後回しにするように説得したのである。
妊娠出産は、女性が挑む命がけの戦いだ。絶対安全な妊娠出産などない。ましてや医学的に条件の悪いこの特地では、さらに初産とあっては、危険性が高くなる。
だが彼女は頑として受け容れなかった。
今のような曖昧な状態では、いてもたってもいられない。かえって落ち着かずこころが休まらないと言うのだ。
「Junsyokuという単語を聞いた時に、何か怖い予感がしたのです。でも、これまで辞書を引くことが怖くて出来ませんでした。聞き間違いだと思い込もうともしました。でも、もうダメです。教えてくださいませ。トミタはどうなったのですか?」
真っ直ぐにそう問われてしまえば、ピニャもパナシュも説得を諦めるしかなかった。二人は無言のまま、事情の説明にふさわしい者を探して視線を周囲に漂わせ、最終的にその視線を伊丹に注ぐこととなる。
告知は、辛い役務である。だが、他に担える者はどこにもいない。
富田の上官であった伊丹がするしかないのだ。
ただ、富田の最期に居合わせた者として、栗林が同席を自ら申し出たので、二人でボーゼスに富田の最期を伝えることとなった。
医師やメイド達、ピニャやパナシュまでもが立ち去って人気の無くなった紫殿の寝室。つい今朝方までレレイが使っていたこの寝台に、今度はボーゼスが横たわっている。
伊丹は、寝台の傍らに椅子を運ぶと、それに座った。
「お久しぶりです」
前置きとも言える伊丹の挨拶に、ボーゼスは羞恥の色を含んだ表情を浮かべながら「はい。以前は失礼いたしました」と応じた。彼女にとって伊丹と出会った時にしたことは、出来ることなら忘れさりたい恥に類するものだからだろう。
さて……。
伊丹は、傍らの栗林とボーゼスとを見やってその様子が落ち着いているのを確認してから口を開いた。
ゆっくりと、だがはっきりと誤解の余地のない直截な表現で、部下の死を彼女に告げたのである。
人形のような玲瓏なボーゼスの顔が、こみ上げてくる悲しみよって歪む様子は正視に耐えない。
全身を小刻みに震えさせ、流れ出てくる涙の熱さで目が真っ赤に灼かれて行こうとしているのに、気丈なボーゼスは、伊丹から目を逸らそうとしない。ために、伊丹もまた彼女から目をそらすことが出来なかったのである。
「富田は…………………どのような死に方をしたのでしょうか?」
その問いに答えたのは栗林だった。
栗林は僚友として、富田が取材班を守るために殿となり、彼らを守るという任を立派に果たしたのだと。その時の様子を克明に告げた。
「そう……」
胸を絞るようにして、沸き上がってくる感情を押し殺しているボーゼスは、それ以上もう何も言うことが出来ないようであった。
何か一言でも口にしようとしたら、懸命になって押さえ込もうとしているものまで一緒に溢れ出てしまう。だから何も言えない、問えない。そんな様子が見て取れた。
かける言葉の持ち合わせがなかった伊丹は、ボーゼスの瞳から「独りにしてくださいませ」という気持を感じ、席を立つと栗林に「行くぞ」と告げた。
「え?でも隊長」
「……いいんだ。いくぞ」
栗林の腕を引くようにして紫殿の部屋を出る。そして戸を閉じた途端、分厚い木製の扉越しに、慟哭を支えていた堤防が決壊する声が響いた。
「ふぅ……」
戸に背中を預けて、深々としたため息を1つ。隣の栗林も流石に緊張していたのかため息をついた。
扉の向こうから聞こえる哭鳴は、暫く耳について離れることがないだろう。伊丹は両膝に手をついて疲れた身体を支え、栗林はずりずりと背中を扉にこすりつけながら、その場にしゃがみ込んだ。
「参ったな」
「参りました」
「おい栗林。お前死ぬなよ、俺、お前の親御さんにこれやるの嫌だからな」
すると、栗林は何を言ってるんですといった口調で伊丹を見た。
「隊長が居てくれれば大丈夫でしょう?」
「それが一番重たいぜ。俺、憶病なだけだからあんましアテにされても困るんだよ」
「そうですかねぇ。わたしは最近、隊長の憶病はいい憶病だって思うようになりましたけど」
「憶病に、いいも悪いもあるもんか」
「知らないんですか?生き残れる憶病が、よい憶病なんです」
栗林は言う。今まで強い男が好きだと思っていたけれど、ただ強いというだけではいけないことに気づいた、と。
どんなことがあっても生きて返って来るという信頼感が必要だ。女を1人残して死んでしまうような奴は最低で、どんな状態になっても、きっと返って来てくれるなら臆病者でも良い、否、臆病者の方がよいのだ、と。
伊丹は、「そんなもんかね」と言いつつ、膝を叩いて身体を起こした。
見れば、廊下の向こうに、ロゥリィとレレイが佇んでこちらを見ていた。
目があって伊丹が「よおっ」と、微笑みかける。すると、ロゥリィとレレイの二人ははじかれたように走り出し伊丹に抱きついた。
白のレレイと黒のロゥリィが並んで伊丹にタックルをかまし、勢い余って押し倒す様を見て栗林は再度嘆息した。
「は~あ、結局は自分に男を見る目がなかったって、ことになっちゃうんだよね~」
「スタート」
「スタート」
正副パイロットの声と共に、モーター音が高鳴りエンジンが始動する。
ローターが回旋し空気を切る音共に、微妙に機体が振動を始めた。しかし、エンジンの出力が高まるとかえって機体の動揺もおさまる。
ダウンウォッシュの凄まじさに、あたりは煙でも立ちこめたかのように視界が失せる。窓から見える景色はたちまち灰色一色となった。やがてふわっとした感覚と同時に、大地が下へと落ちていく。否、機体が上昇を始めたのだ。
近衛の兵士達が見送る中、伊丹達は帝都を後にした。
トイレ休憩には長く、かといって観光を楽しむほどには短かった帝都の滞在で、養鳴、漆畑、白井の3学者は、自分達が見てきたものについての話し合いを始めていた。そして、話し合いが興に乗ったのか、チヌークが飛行を始めても中断することはなかった。
彼らの議論は、結局の所調査で判ったことは、なんだか得体の知れないものがあそこにある、ということだけである。
ただ何かが起こっていることは確かだろう。そして、何が起こっているかを詳しく知るには様々な機材を持ちこみ、腰を据えてじっくりと調査する必要があるのだ。
「それにしても興味深い現象でしたな。今後の調査をどう進めましょう?」
漆畑の発言に養鳴は顎を摘んで唸る。
「うむ。文科省と交渉して、予算を認めさせねばならないじゃろう。儂は、あれの調査を推し進めると余剰次元論もだが、ダークマターの存在についても、一石を投じることとなるように思える」
「重力としてのみ、存在する『何か』ですね」
「そうだ。あれが、余剰次元の影であると考えることができるなら、その影を放つ原因は空間の歪みではなかろうか。そして、もうそうだとするならば、空間の歪みが及ぼす影響の現れは影としてだけじゃろうか?」
白井は「なるほど」と頷いた。
「質量の存在が、空間を歪ませる。空間が歪んでいるから重力が発生する。しかし、もし空間が質量以外の原因で歪むなら、そこには実態はなくとも重力が発生するとも考えられる」
「空間が歪むことが重力?どういうこと?」
突如話しかけて来た銀髪の少女に対して、養鳴は「つまりこういうことじゃよ」と親切にも解説を始めた。
傍らにあった、ゴム製の防水シートを引っ張り出すとその端を、周りにいる自衛官達に持たせて表面が平らになるようにピンと張らせた。
「もっとそこっ、ピンっと張らんか……そうじゃ、そうそう」
伊丹達も、興味深く思ってシートの周りに集まる。テレビ局の取材班達はこんなところでも撮影を始める。
「これを世界とみなす。見てのとおり、なんの歪みもない状態じゃ。ところが、ここに質量のある物が存在したとする」
そう言って養鳴は、傍らの自衛官が胸に下げていた手榴弾を無造作にとりあげるとそこに載せた。手榴弾を奪われた勝本も「あっ」と驚きはしても、ピンが抜かれていないので騒がない。
「物体の質量に従って、このゴム製防水シートは撓むじゃろ?」
実際、手榴弾の重さの分だけ防水シートは少し凹んでいた。
「この凹みが重力なんじゃよ」
養鳴の解説に、周囲に集まっていた自衛官達はみな首を傾げる。よくわかっていないようである。だが、レレイは目を輝かせて何かを悟ったように頷いた。
「物が下に落ちるという現象は、このたわみ……傾斜によって起こる」
「うむ。そうじゃ」
養鳴は、ポケットからゴムシートの上にパチンコ球を放り出す。パチンコ玉は、ゴムシートの表面上をゆっくりと転がり、そして手榴弾が作ったの撓み(凹み)によって、引き寄せられるように落ちて、最後には手榴弾の表面にカチンとぶつかった。
「若いのに、なかなかに聡い子ですな。今日日の学生でもここまで物わかりの良い学生はいませんよ」
などと言って、漆畑はレレイの観察を始めた。
「君、君、この娘、連れて帰っていいかね?」
問われた伊丹は、「本人がいいと言ったら良いですよ。これでもこの世界の学者ですから。と言っても手続とかいろいろ大変でしょうから、今日明日ってわけにもいかないでしょう」と答えた。
「ほほう?じゃが、留学するなら儂の研究室が良かろう?」
「養鳴教授。狡いですよ」
そんな会話をしつつ、養鳴はゴムシート上から手榴弾とパチンコ球を取り除いた。
「さて、何もなければ真っ平らで、なんの歪みもないのが普通なのじゃが。何某かの原因でこれが歪んだとする……」
そう言って養鳴は倉田や笹川といったまわりの自衛官にゴムシートを引っ張る力を緩めるように指示した。
すると平らだったゴム製防水シートにかかる張力は不均衡となり、表面には皺が寄った。
ここに再びバチンコ球を転がす養鳴。
「見ての通りじゃ」
パチンコ玉は、皺の寄った表面に不規則な動きをしつつも一番窪んだところへと吸い寄せられていった。
「重力を発生させる何者もないと言うのに、重力に似た現象が発生するわけじゃ」
「でも、俺等は重力が変だとか感じませんでしたよ」
笹川の言葉に養鳴は笑う。
「そりゃそうじゃ。あの場所では大質量たる大地があるからな。皺が寄っているといっていも非常に微妙じゃ」
そう言って養鳴は再び手榴弾を皺の寄ったゴムシート上に載せた。ゴムシートは手榴弾の重さによって、ピンっと張られて皺が伸びた。だが、手榴弾から少し離れればゴムシート上に皺は寄っている。
「空間の歪みですか。わかりにくいっすよ。こんなゴム布一枚で空間がどうこうとか言われても、なんだかなぁって感じです」
取材スタッフのディレクターの言葉は養鳴によって鼻息で嘲られた。
「ま、頭の悪いお前達には無理じゃろうがな、わははははははははは」
ゴムシートが片づけられ、それぞれが席に戻ってもレレイと取材スタッフ達は養鳴や漆畑に質問を続けていた。
「余剰次元の認識は難しいんじゃよ。儂等はどうしても上下左右前後という3方向と、過去と未来という架空の方向をどうにか認識できる程度じゃ」
「でも、あんな短時間な調査で空間の歪みなんて、どうやって確認できたんですか?」
栗林菜々美の問いを受けて、漆畑はカメラマンに撮影した映像を映し出せるかと訊ねた。
カメラマンは「いいですよ」と応じて、映像を確認用の液晶モニターに収録済みの画像を写しだしていく。
養鳴と漆畑がさまざまな調査機器を扱っている場面が写しだされたが、「もうちょっと先じゃ」という声にどんどん早送りされる。そして「おっ、ここじゃ」という声で、画像が止められた。
「いろいろと高価な機材を持ちこんだんだけどね、これが一番手っ取り早かったよ」
漆畑の説明に、みな液晶画面を食い入るように見入った。
それは、巻き尺で漆畑と養鳴が地面の距離を測っている映像だった。何と何の距離を測っているのかは不明だが、25メートルほど巻き尺を繰り出している様子だ。
「これですか?」
「わからんなぁ」
「教えてくださいよ、教授」
菜々美の問いを無視して、養鳴はレレイに視線を向けた。
「わかるかな、お嬢さん?」
漆畑の問いに、レレイは答えた。
「……2点間の距離を測るなら、計測索は直線になるように張らなければならない。だけど、この絵では計測索はたわんでいる……」
レレイはそう指摘して漆畑と養鳴に視線を向けた。実際映像では、真っ直ぐに張られているはずの巻き尺が、右に弧を描くゆるやかな曲線となっていたのである。
「その通り。儂等はこれでも真っ直ぐピンッと張ったつもりなんじゃよ。だけど、見ての通り曲がって見える、それはいったい何故何じゃろうな。もちろん風になびいていたわけでも、何かにひっかかているわけでもないぞ」
そう言って養鳴はニヤリと笑った。
……結局、この時の映像が報じられ、特地と銀座とを結ぶ『門』の存在が、世界を歪め、これによって様々な影響が出始めていると報じられることとなるのである。
一方、皆が教授達の講義を受けている、その傍らでは。
チヌークの機内にいたジゼルが、ロゥリィに発見されて脂汗を流していた。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 64
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/04/07 20:09
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門が存在することによる、世界への影響。そして、これを防ぐには『門』を閉じなければならない『らしい』という報告は、特地世界に利益を求めようとしていた業界、そしてこれと関わる政治家を巻き込んだ大騒動へと発展した。
門を閉じると言うことは、特地の関わりを断つことに他ならない。
人々は陳腐化し色あせつつあった現在の社会、経済、文化、情報といった様々な分野における行き詰まりの刷新を『特地』という新世界に求めていた。特地は希望と可能性の根源であり、新鮮さの代表となっている。それだけに今更をこれを手放すと言われても、すんなり受け容れることは心理的にも、現実的にも難しくなっていた。
衆議院予算委員会代表質疑では、早速与野党双方から、政府に対する質問が発せられた。
「確かに地震はこのところ頻発しています。浅間山も噴火しました。ですが、これらの災害と門とを結びつける証拠のような物が、何か見つかったとでも言うのでしょうか?」
麻田内閣総理大臣は、答弁する。
「確たる証拠はありません。ですが、同時に全く関連がないという証拠もありません。特地に実地調査に赴いた、養鳴、漆畑、白位といった高名な識者がそれぞれ『通常ではあり得ないような現象が起きている』と報告されていることも、軽んずるべきではないと考えます」
「では、政府としては、門を閉じるお考えということですか?」
「その問題に付きましては、慎重に検討を重ねて結論を出したいと思っております。識者を増員しての、詳細な調査を行って参ります」
「では検討した結果、門を閉じるという結果もありえると言うことですか?」
「その通りです。ですが、門を閉じることは方策の1つでしかありません。現地からの報告に寄れば、今回問題となっている事象は、門を常時開きっぱなしにしていることから起こるとのこと。ならば、適宜開閉することで、予想されうる破綻は回避できる可能性もあります」
「総理。総理は今、門の適宜開閉とおっしゃったが、門を自在に開閉する技術があると言うことでしょうか?」
「特地にはあります」
「それは、我が国のコントロール下にあるのですか?」
「はい。その技術を持つ人物は、我が国に対して非常に協力的ですので、ある程度のコントロールは効くと考えてよいでしょう」
「それを用いれば、門を開け閉めできると?」
「開けられるかも知れない。という報告です」
「かもしれないとはあやふやな話ですね。このあたりもう少し詳細に説明を」
「門を開けることだけなら難しくないそうです。問題は、狙った世界同士を繋ぐことだそうです。無数にある世界の中から、我々の世界を見つけだして繋ぐということが上手く行かない可能性もあるそうです。しかも、うまく門が開いたとしても、二つの世界の間に時間的な差異が生じているだろうということです」
「時間的な差異とは?」
「例えば、向こう側で門を閉じた翌日に開けたとします。ですが、こちら側にとって門が開くのは翌日ではないと言うことです。特に今回は、門を開けていた時間が長いために、両者の歪みの修正に関わる揺り戻しの影響が強く出るだろうと言われております」
「具体的にはどのくらい?」
「長ければ数十年になる恐れがあるそうです」
これには議場内がざわついた。
「では、一度門を閉じたら、少なくともしばしの間、我々は特地との連絡を失うということですね」
「その通りです」
この答弁の直後、議事堂はそれぞれの不規則発言とヤジによって騒然とした。議長が「静粛に」と声をあげたが、しばしのあいだ議事が停止してしまう。
「それでは、特地との連絡、開発、貿易といった期待されていた様々な交流が途絶えてしまうではありませんか?」
「しかし、このまま門を開け続けていると、我々と特地世界の双方に重大な問題が起こるかも知れません。門を閉じたら特地との繋がりは断たれる。再び門が開く保証もなく、開いたとしても先のことになってしまう。これが我々の置かれている現実です。従って、慎重に検討し今後の対応を決めたいと、先ほど答弁させていただいた次第でございます」
この首相の答弁は、様々な議論を内外に巻き起こした。
テレビや雑誌などでも識者やコメンテーター達が様々な発言を繰り広げている。
「かもしれない、かもしれない、と言う可能性だけで特地との関わりを断つはいかがなものか?」
「だが、ただでさえ地震だの火山の噴火だのが起きてきている。もっと酷い災害が起きたらどうするんですか?可能性の問題ですけど、それ無視して阪神淡路や新潟級の災害になったら誰が責任を負うんです?」
「災害と言っても、いつおきるか判らないんでしょ?だったら、暫く様子を見たらどうですかねぇ」
「何時起きるか判らないということは、今日この瞬間にも起きるかも知れない」
「兎に角、いずれは門を閉じざるを得ないなら、それまでは本格的に開発の手を入れるわけにはいかないでしょう。門を開いている時間が長ければ長いほど、門を閉じた際の揺り戻しは大きくなると言うではないですか。だったら先々のことを考えて、今は一刻も早く閉めて、門の安定を目指すべきでは?」
「それで、特地との連絡が途絶えてしまったらどうするんだ」
「その時は、もう仕方ないだろう」
「多大な犠牲の結果として得た、特地との交流をそんな簡単に失って良いのか?」
こうして、人々は門をどうするかという議論に否応なく巻き込まれていった。また、この議論は国内で納まるものでもなかった。
門の開閉についてもだが、海外からの声として特に大きかったのが「門を開閉できるというのなら、門を開く場所も選べるのではないか?だとするなら、日本が門を独占している状況を改善するべきだ」というものであった。
特に『門』の国際的な共同管理を主張していた、中国や韓国、インドといった新興国は、ここぞとばかりに声高にそれを主張をはじめた。それぞれ門の設置場所として中国は天安門広場を、韓国では迎恩門跡を、インドはインド門前を提供すると言いだした。
だが、門を開く技術を日本が掌握している(と見える)状況において、他国がどれだけ叫んだとしても日本が取り合わなければ意味がなく、また、門を移動させるとしても、各国が移転先として自国の地を主張しているような状態では、合意が見られるはずもないため、門の移転論が力を持つことはなかったのである。とは言っても、日本政府にとっては、相当耳障りであったことは言うまでもないが。
このような雑音が飛び交う中で、門をどうするかという議論は、それぞれの合意と言うよりは、諦念に近い形で麻田の決断に任される雰囲気となっていった。
ところが、この状況に強い反発を示したのが北朝鮮である。
北朝鮮の国営放送に所属する例の女性アナウンサーが、普段通りの大仰かつ芝居めいた口調で、三博士の報告に端を発する日本の動きは、特地世界を植民地化しようとする日本の保守反動勢力による謀略であり、帝国主義植民地支配の再来に他ならないと、ヒステリックで偏執狂的な主張を繰り広げた。
これだけだったら、「いつものことだし」と言うことで、バラエティ報道番組のネタで終わったかも知れない。これに中国が同調してみせたことで事態が動き出した。
中国政府は、三博士の報告は信憑性に欠けている。門を閉めなければならない必然性は疑わしい。日本は特地のとの交易や資源の独占を謀っていると非難を開始したのである。
そして、まるで仕組んだかのようなタイミングで上海や北京で学生による大規模な暴力デモが発生。学生達は「愛国無罪」を声高に叫びながら、日本食料理店や日本企業などを襲い窓ガラスや什器設備等を破壊。日本人留学生や観光客に暴力を振るい、また地元民が営業するレストランや商店、あげくに病院では「日本人は侵略を詫びなければ店に入ってはいけない」とする張り紙が張られたりした。
さらに暴徒と化したデモ隊は日本大使館や領事館を襲い、投石やインク、ペットボトル等を投げるという蛮行に及んだ。中国治安当局は、これを制止しなければならない立場であるにもかかわらず、一切制止せず暗に黙認するという態度に出る。もちろんウィーン外交条約違反の行為である。
また、これに呼応するかのように日本国内でもさまざまな動きが起こった。
まず、日本国内最大の野党である民枢党が「政府は、特地利権を一部企業に独占させようとしている。門と国内で起きている災害は無関係だ」と非難を開始。これに合わせて、マスコミによる反政府キャンペーンが始まった。
首相が漢字を読み間違えた。
首相がカップラーメンの値段を知らない。
首相が着ているスーツが高価だ。
首相がオタクだ。
端から見れば、どうでも良いようなことばかりである。これと言った失政のない麻田に対するものとしては、それ以外非難のしようがなかったのだろうが、恣意的と言える非難でも繰り返せばそれなりの効果は得られるものである。口汚い悪口雑言と悪意としか思えない報道の連続によって、政府支持率は瞬く間に下がっていよいよ10%を切るにまで至った。
街頭インタビューでは、マイクを向けられたサラリーマンは、「三博士の報告?嘘なんでしょ?」と返し、買い物客のおばさんは「政府が、特地を独り占めしようとしていたのよね。酷いわよねェ」とコメントするまでになったのである。
民意という暴風に、本来は首相を支えるべき与党議員達までもが狼狽え、麻田降ろしの機運が広がる。
野党は、政権交代を誇らしげに掲げて衆議院の解散総選挙迫った。そして、政権交代を成し遂げたあかつきには、特地を海外にも広く公開し、学術関係者のもならず、観光客などの出入りも自由に認めると公約したのだった。
内外からの圧力と支持率の低下によって、麻田も強気の姿勢でアメリカ、フランス、ドイツ、中国、韓国、ロシアといった国々からの合同調査の申し入れを、はね除け続けることは難しくなってしまう。「何も隠してないのであれば、我が国の研究者にだって公開できるはずだ」という論法をされれば、これを断り続けることは「やはり何かを隠している」と言われてしまうからだ。
こうして、国内研究者だけでなく海外からの学術関係者も含んだ学術調査隊を特地に受け容れ、クナップヌイでの合同調査が行われた。
集まった各国の有名大学に所属する研究者達、31名。
高名な学者達がクナップヌイの黒い霧の畔を調査する様子は、外国からの観光客が物見遊山しているのとそう大差ない風景であった。違うところと言えば、数々の調査機材が持ちこまれ、各国の研究者達が調査の結果や、それぞれの立てた仮説に対して喧々囂々の議論を繰り広げることぐらいだろうか。
宇宙・物理分野の研究者にとっては、それは垂涎ものの学術シンポジウムであった。全世界の最高峰とも言える頭脳が集結したと言っても過言ではないからだ。だが、ツアーコンダクター兼、ホテルの従業員、兼警備員と化した支援担当の自衛官達にとっては、意味不明の会話をしつづける学者達でしかない。食事や寝床の支度、風呂等の準備でそれどころでなかったのだから。
そして調査3日目の夜、学術調査隊の一員であった中国人研究者が、行方不明となった。
慌てた陸上自衛隊は、三日間に渡って延べ1000人を投入してクナップヌイとその周辺の捜索を行ったが、行方不明の中国人研究者を発見をすることが出来なかったのである。
これに対して、中国政府は日本の捜索のあり方が不誠実であると声高に非難した。そして行方不明者捜索を理由に、「我が国の捜索隊を特地に入らせろ」と主張。またアメリカ、韓国、ロシア、フランスも捜索隊派遣を打診してきた。
野党代表の小田は党首討論で「行方不明者の人命こそが尊重されるべきであり、自衛隊だけで行方不明者が発見できないなら、中国からの捜索隊を受け容れることも当然である。いたずらに面子にこだわるべきではない」と政府の対応を非難。
全方位的な圧力と、人命尊重の美名の圧力に屈する形で、政府はアメリカ・フランス・中国・韓国・ロシアから合計で300名にも渡る捜索隊の受け容に同意することとなった。
クナップヌイ南方52㎞地点。
森に覆われる山岳地帯から少しばかり里に下り、そこかしこに人の手の入った畑や森が見えてくる場所。
通常の行方不明者を探す場所としては、そこは、あまりにもかけ離れた場所と言える。
だが、這うようにして進んできた陸上自衛隊の一隊がそこにいた。数は10人に満たない。だが特殊作戦群と名付けられた彼らの任務遂行能力は隊内随一を誇っている。
完全に迷彩で偽装している彼らは、音もなく、言葉もなく、ぬかるんだ地面に何か残されていないかを、慎重に探しながら進んでいた。
ふと、何かを見つけた隊員が、手を挙げる。
『新しい足跡ですね』
忍原陸曹長の手話に対して出雲は頷きで答えた。
静かに歩み寄って、地面の様子を手で触れながら確認する。
『でも、ポーバルバニーって凄いですね。体力も感覚も俺達とは段違いですよ』
出雲も手話で答えた
『平気な顔して、俺たちの任務に付いて来たから、体力が凄いとは思っていたが、これほどとはな。あれで病み上がりだろ?』
出雲3等陸佐率いる特殊作戦群の一隊には現在、現地協力者としてデリラが加わっている。
彼女の役割は、特地の習俗・習慣・言葉のレクチャーと、現地人との交渉等で助言をすることである。そのために、戦闘時は彼女に後ろに控えてもらい、村落や街で住民との接触を伴う雑用……例えば買い出しにはじまり、聞き込み、尋問といった場面に限って手伝って貰うようにしていたのだ。
ところが、今回の捜索任務では、ポーパルバニーの類い希なる才能が発揮された。
軍用犬並の感覚の鋭さによって、デリラは「あっちだよ」「こっちだ」と、隊員達の先導を始めたのである。その速度と正確さは、特殊作戦群の隊員達をして驚嘆させたほどである。獲物を追う猟犬のような彼女の技術は、創隊以来まだ歴史の浅い特殊作戦群にとっては、得るものが大きい。
他の隊員達と同じ迷彩服で身を包み、偽装網とブッシュハットで草葉を纏った彼女は、鼻を鳴らしながら長い兎耳を立てるとレーダーのごとくピクピクと動かして、周辺の気配を探っていた。
伏せては進み、伏せては進む。
その移動も非常に早く、黙ってついて行くだけでも一苦労だった。
「あの娘がいれば、伊丹の野郎を捕まえられるかも知れないな」
赤井の呟いた伊丹という名前に、一瞬だけ耳をピクッとさせたが、デリラはそのまま捜索を続けた。
『しかし、ここまで逃げて来たとなると中国人学者の素性もずいぶんと怪しくなってきますね』
『怪しいっていうか、もう工作員確定だろ?普通の遭難者はこんなところまで逃げてこないって』
やがて、デリラは雑嚢から双眼鏡を取り出すと、目論見をつけた方向へと向けた。
一瞬ムッとした表情で眉を寄せたが、双眼鏡を逆さまに構えていたことに気づいて、改めて双眼鏡を構える。
「イズモのダンナ。あれを見てご覧」
「何かあったか?」
デリラに呼ばれた出雲は、彼女の構える双眼鏡を横から覗き込んだ。
「小屋があるだろう。多分、あそこにいるよ」
「なんでわかる?」
「ダンナ達の使う火筒の臭いがするからね。それに血の臭いが混ざっている……」
「……なるほど」
デリラの報告に出雲は舌打ちした。
中国人研究者に偽装した工作員は、民家を襲ったのだろう。銃の入手方法は今詮索しても始まらない。分解して調査機器などに紛れ込ますなど、方法はいくらでもあるからだ。判っていることは、小火器で武装した工作員が最低で一名、あの建物にいるということだ。
「でも、なんでまた民家を襲ったんだと考える?」
試すような気持で訊ねてみる出雲。
「行方不明になったチュウゴク人って、荷物を持たずに居なくなったんだろ?そろそろまともなものが食べたい頃合いだろうさ」
なんとも判りやすい。故に正しい回答に、思わず笑みを浮かべてしまった出雲は指先の合図で部下達に小屋の包囲を命じた。
剣崎を先頭にした3名が、警戒しながら前に出ていく。
『赤井。狙撃の位置に着け』
『黒松、村崎はそれぞれ左右』
何度も訓練を重ねた想定済みの状況だ。隊員達はそれだけの指示で、左右に展開し小屋へとじわじわと迫った。取り逃がさないように包囲を優先していく。
「どうするんだい?」
「ただの学者だったら保護するところなんだが、あそこにいるのが工作員だとすると素直に捕まってはくれそうもないからな。死体となって見つかりましたって報告するつもりだ。問題は、ウチが殺した痕跡が残るのは不味いんだが、どう料理したらいいと思う?」
訊ねるような言い方にはデリラがどんな回答を出してくるか期待する気持があったのである。案の定、デリラは舌なめずりしてナイフを抜く。
「あたいに良い考えがあるよ。まかしてくれないかい?」
程なくして出雲達は、ポーパルバニーという種が、獰猛な戦闘民族であることを実感することとなる。
防衛省の公式発表では次のようになっている。
「行方不明となっていた中国人研究者は、アフリカのサバンナ並に危険な特地を、彷徨い歩いているところを肉食の大型野獣によって喰い殺されたらしく、発見された時には、原形を留めないまでに無惨な姿となっていた」
こうして行方不明者は遺族が目を背けるような姿で送り返されることとなった。だが、その時にはすでに各国の捜索隊がアルヌスに入った後であった。
テュカとレレイ、ロゥリィの3人から用件があると呼び出された伊丹は1日の業務を終えるいつものようにアルヌスの丘を降りて食堂へとやってきた。
大抵は約束などしなくても自然と会うことが出来るので、改まっての呼び出しは珍しい。何か嫌な予感がしたと言うのも大げさだが、独りで来るのは剣呑な予感がしたので、黒川や栗林に声を掛けることにした。
「奢ってくださるならいいですわ」とは黒川の返事。さらに、テュカと会うと聞いてほのかに頬を紅く染めていそいそと出かける支度をするところを見ると、何かあったな?と邪推したくなるのは伊丹だけではないと思う。
夕方の食堂はいつものように混んでいるが、ここ最近はさらに混んでいた。
先日から客の中にはアメリカ人だの、フランス人だのが混ざるようになったからだ。
アメリカは建国以来の移民社会、フランスも近年になって移民受け容れが進んだために、白人だの黒人だの様々な人種が肩を並べている。捜索隊としてアルヌスに入ってきた連中だ。
「行方不明になってた間抜けは見つかったんだから、とっとと帰れば良いのに」
栗林は、不機嫌そうに舌打ちした。
マイクロな体躯に巨乳という彼女の肢体は、欧米の男性にも大いなる興味を誘うようで、不躾な視線の照射を受けている。まぁ、別に欧米人に限らず新宿だの、高円寺だの人の多いところに行けばいつものことらしいが、自衛官やアルヌスの住民達は栗林の人となりを十分に理解しているので、遠慮と言うものをするのだ。だが、初見の外人さん達にはそれがないから、栗林にとっては久しぶりの感覚とも言える。
「まぁ、まぁ、そう神経を尖らせないで。連中の思惑に乗っちゃダメだよ」
何事もなければ無かったで、トラブルがあればあったで付け込んでくるのが連中のやり方だ。現場の要員としては、政府が困るようなことを起こさないよう、距離を置いて無難に過ごすことが求められているのだ。
そんなことを上司からさんざん言い聞かされていた伊丹は、いきり立つ栗林を宥めながら注文を取りに来たエプロン姿のテューレに、ビールといつもの料理を摘みとして頼んだ。 少し遅れて、ロゥリィやレレイ、テュカ、ヤオもやってくる。
「あらぁ?クリバヤシとクロカワも連れてきたのぉ?」
ロゥリィが唇を尖らせたので、伊丹は「不味かったか?」と訊ねる。
「知らない中じゃないしぃ、別にいいけどねぇ」などと言いながら、注文を「いつものぉ」と告げた。この四人はいつもので、通るらしい。
テューレは注文を繰り返すと「以上で宜しいですか?」と、しめて調理場へと向かった。彼女も今では流れるような足取りで、混雑する店内を不規則に動く客や、テーブルにぶつかったりすることなく素早く抜けていく。しかも、ビールのジョッキを10個ほど抱えても、僅かもこぼすことがないという技を身につけている。何がそうさせたのか、彼女も努力を積んだようであった。
ドワーフの1人が、そしらぬ顔で彼女の臀部に手を伸ばすが、背筋が寒くなりそうな輝きを紅い瞳にたたえた微笑みを向けられて、頬を引きつらせて手を止める。以前、彼女のおどおどとした態度を見ては和んでいた客達も、今では「デリラもおっかなかったけど、テューレも実はおっかない」と陰口をたたいて、ウブだった頃の彼女を懐かしがっていた。
そんなこともあって、アルヌス食堂のアイドル?の座は、今ではテューレから別の娘へと移っていた。新たな店員を観て果たして和めるかどうかはわからないが、別の意味で注目の的なのだ。
「じぜるさ~ん。これ運んで~」
「は、はひぃ~」
白ゴス神官服の上にエプロンつけて、あっちこっちバタバタあたふたと走り回るその姿を初めて見た者は、まず凍り付く。
「あ、あ、あれって、ベルナーゴ神殿の……」
実際、隊商の護衛をして街に帰ってきたばかりの兵士が、目の前の光景に頬を引きつらせていた。
「何も言うなよ。お前の思ったとおりだから、何も言うな」
言い含めようとする同僚に、「おいっ」と兵士は迫った。
「で、でもあり得るのか?あれって、ジゼル聖下だろ?」
「だから何も言うなって。こうなったのには深~い事情があったんだから」
そう。地獄の沙汰も金次第という言葉があるが、亜神たるジゼル聖下も借金という枷に足を取られれば、しがない女給に身を落とさざるを得ないのだ。
日本の食事に味を占めた彼女が、このアルヌスにやってきて最初にやったことは飲み食いだった。それを責めることは、誰にも出来ないだろう。美味い料理がいけないのだから。だが、問題はここがアルヌスだったことにある。
「はい、ごちそうさん」と満腹したジゼルが席を立つと、テューレから勘定書を突きつけられた。
「なんだこれ?」
ハーディがレレイの身体を借りてさんざん飲み食いした時、その支払いを伊丹に押しつけたように、神様や亜神の皆さんは、金銭については良く言えば非常に鷹揚、悪く言えばズボラなところがあるのだ。
ここがベルナーゴだったら、飲み食いの代価が請求されるなんて事はありえない。
ここが他の街でも、亜神たる彼女に請求書をつきつける者はなかったろう。大抵どこの街でもハーディの神殿があったり布教担当の神官が滞在しているから、そちらに回すことになる。
だが、この新興の街アルヌスには、ハーディの神殿どころか神官もない。信者もいない。否、かつてはいたが今は居ないと言うべきか。とにもかくにも、それが現実である。そして、ジゼルの持ち合わせでは請求書に記載された額を全て支払うことは出来なかったのだ。いくら亜神でも無から有は作れない。
冷や汗を流しながらジゼルは言った。
「あ、あのさぁ。お布施と言うことで、どうにかならねぇかなぁ?」
だが、テューレは微笑んだまま彼女に勘定書を突きつけるだけであった。彼女も神様という存在には複雑な思いを抱えている身だし、いずれは接客の責任を負うことになるかもと気負っているから、少しも怯まない。
「だって、ロゥリィのお姉ぇ様だって喰ってたじゃんかよぉぉぉ!!料金を請求してなかったじゃんかよぉぉぉぉ!!!」
そこでジゼルは知らされることとなった。この店はロゥリィの持ち物……厳密にはこの街が、ロゥリィを含めたアルヌス生活者協同組合の持ち物であるという事実を。
彼女の頭の中にかすかによぎっていた「食い逃げ」という選択肢も、これによってばっさりと断たれることとなった。逃げたらどうなるか……ロゥリィのハルバート、そして空から落ちてくる凄まじい攻撃の光景が彼女の脳裏に蘇った。
そんな訳で、ジゼルは飲み食いした代金を支払うために、ここで働くこととなったのである。仕事は接客、料理運び、皿洗いである。
テューレが「お待たせしました」と馴れた手つきでと丁寧な態度で、ビールのジョッキを並べていく。遅れたジゼルがよたよたと料理を運んでくるが、こちらはまだ手慣れないようであちこちの客にぶつかったりしている。
「ジゼルさん、気をつけてくださいね」
テューレに言われて「は、はい」とジゼルはペコペコと平謝りだった。
栗林は、食堂からも見える捜索隊の宿営地を睨みつけつつ、乾杯もしないうちからジョッキを口に運んだ。それに吊られるようにして、伊丹も、黒川もそれぞれジョッキを口に運ぶ。
「隊長、ロシアからの捜索隊は素直に帰ったじゃないですか。なのに、なんだって、他所者にこの場所を荒らされなきゃなんないんです?」
行方不明者発見の報が入った時、ロシアの捜索隊が乗ったアントノフは成田に着陸したばかりだったのである。そのため「わざわざご足労頂き有り難うございます。よかったら、秋葉原でも観光していってください」と、丁重にお引き取り願うことが出来たのである。
「そういうことは、上の方で考えてます。俺等は黙って見ているだけ。いいね」
伊丹はそう繰り返した。同僚が目の前で命を失った場所だけに、栗林は特地を我らが物として見る意識が強いのだろう。
日本政府も、ここは帝国より日本に割譲される領土であり、日本の主権が及ぶので、好き勝手に宿営地をつくるなと抗議しているのである。だがアメリカ、フランス、中国や韓国はそれぞれに、先に入っていた国連視察団と合流して、「貴国の主権を侵害する気は全くない、直ぐに立ち退くつもりで準備中である」と言いつつ抗議を全く無視しつづけている。
「あ~あ、あちこちに好き勝手に旗をたてて……ここは野球のマウンドじゃないんだから」
栗林はそんなことを言ってぐびぐびとビールをあおって空にする。「お代わり!!」
「あ、テューレさん、俺も」
伊丹も追加を注文しながら、枝豆を摘んだ。
実は伊丹も、捜索隊の1人を捕まえて「いったい何時まで居るつもり?」と訊ねてみたのである。すると彼らは「撤収作業中だ。それが済んだら帰る」と答えて来る。昼寝をしていたり、そのへんほっつき歩いていたり煙草をふかしていたり、片づけは愚か何もしてないように見えても、撤収作業中と言うのだ。
やって来た時は「あっ」と言う間に宿営地を作ったわりに、撤収作業が遅れていると言い訳する厚顔無恥さは、呆れると言うよりはもう、見習いたいぐらいだ。こうでなければ世知辛い国際舞台で自国の主張を押し通すことなど無理なのかも知れない。周囲からどう見られようと気にしない図々しさというか、鉄面皮と言うか……非常に強い人々である。
とは言っても、中・韓両国の捜索隊員は……おそらく軍人だろうが……時折物欲しそうに街の売店や食堂のほうに目を向けて来ることがある。アメリカやフランスと違って派遣人数が、それぞれ100人前後と多いから食糧や水が充分ではないのだろう。さらに特地は、元やWonでは買い物できない。皆、軍人で手持ちの現金が少ないのに加えて、特地に入ることばかり急いでいたから両替をする余裕がなかったようである。
空腹なら門を越えて銀座に出ればいいと言われてしまうから、補給を欲しいと言うこともできず、持ってきた食糧だけでなんとか食い繋ごうとしているのだ。
これに対してアメリカやフランスから来た捜索隊員はそれぞれ20人から30人と人数も少ない。真面目に捜索するつもりでいたのか、捜索犬なども引き連れていた。こちらは、食糧等は充分のようで、しかもそれぞれがきちっと日本円へと両替を済ませていたので買い物には困ってない様子。
以前からこちらに来ていた国連の視察団の自国メンバーに案内されて、ふらふらと街を歩き回って買い食いしたり、観光したり、亜人の女の子達をナンパしたりしている。2科の調べによると、どうも門について詳しい者を探しているようだ。
話しかけられる街の住民達は、門の向こうから来たと言っても、話す言葉や物腰態度が日本人とは全く異なる彼らには戸惑い気味で、近づかないようにしているようだ。ただ、客として来られば応じざるを得ないので、双方ともにたどたどしい日本語でなんとか言葉を交わしている。
今も、客として来ているフランス隊の連中にテューレが何か言葉をかけられているが、日本語その物をうまくつかえない彼女とでは注文以外の意志疎通は難しそうである。
「アルヌス生活者協同組合としては、警衛隊と協力して、護衛兵の巡回や警備体制を強めることにした」とはレレイの言である。
「へぇ、槍や弓で武装した兵士の一隊が、あちこち歩いてるのが見えるのはそのためなの?」
栗林が身を乗り出した。やっちゃえやっちゃと今にも嗾けそうな口振りだ。
「彼らには、こちらと馴染もうという意志が感じられない。こちらの隙を窺っている節も見受けられる」
「って言うか、完全に無法者よ」
テュカとヤオの二人に至っては、各国捜索隊が薪を拾うためと称して勝手に樹を切ったり、森を荒らしたり水源を汚したりしたので大変に立腹しているのだ。さんざん注意し、警告したにもかかわらず、今でも隙を見て森に入ろうとしてるので、温厚なテュカも我慢の限界に達しつつあるのだ。
「ねぇ、ヤオ。貴女の伝で獰猛なコボルトとか、オークって集められるかな?」
「なるほど。この地では、獰猛な怪異に襲われて命を落とす者など珍しくないからな。此の身に任されよ、ふふふふふふ」
こんなそら恐ろしい会話まで漏れ聞こえてくる。
伊丹としては、栗林や部下達にはいくらでも抑えるよう命令できるが、テュカ達に対しては「お手柔らかに頼むよ」とお願いすることしかできない。捜索隊の宿営地の方向に向けて、こいつらを怒らせるなことしてくれるなよと祈るだけであった。
「ところで、用件なんだけど」
ピールも2杯目を開けて、料理も半分ほどに減ったところで、テュカが切り出してきた。
「なんだ?」
「はっきり訊ねておきたいんだけど、お父さんは。門を閉める時、どこにいるつもり?」
「どこって言うと?」
「門を閉めたら、下手をすると何年もあたし達と離ればなれ。場合によっては二度と会えないかも知れないのよ」
テュカの言葉にレレイは「努力する」とボソリと応じたが、それでも必ず成果を出せるわけではないのだ。
「でも、こっちに残ったら同じような率で、お祖母様と会えなくなってしまうかも知れないわ……」
「テュカぁ。またそれを言うのぉ?その事は、もう決めたでしょ?耀司を引き留めるって話したじゃない」
ロゥリィの食って掛かるような物言いに、テュカは首を振って抗した。
「だって、あたしはお父さんからお祖母様を取り上げたくないわ。ロゥリィは、肉親と二度と会えなくなるって事を軽々しく考えすぎよ」
ロゥリィはテーブルを強めに叩いた。
「テュカは、耀司のことを愛しているわけじゃないのよぉ。だから、会えなくなっても平気なんだわぁ」
「そんなことない。ロゥリィみたいな直情的な愛し方をしないだけよ」
伊丹は目の前で始まった怒鳴り合いに「ちょっと待った」と手を伸ばして介入した。二人は唇を尖らせて争うことを止めたが、その分の不平不満が、いよいよ伊丹の方へと向かいはじめた。
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都内某所、某ビルの地下駐車場。
黒塗りの高級外車がすらっとの並ぶなか、一台の車が静かにアイドリングを続けていた。運転席周囲以外は、スモークが張られて中がのぞき込めないようになっている。
「駒門課長、検察が動きだします」
「よい。各位は鼠を逃げ道をふさぎなさい」
駐車場へと降りてくる道は階段とエレベーターの二つがある。そのひとつ、エレベーターのドアが開くと、あたりに駐車されていた車から次々と、高級スーツで身を固めた男達が降りて、エレベーターへと向けて歩き出した。
やがて、エレベーターから降りた初老の男が周囲をぐるりと取り囲まれる。事態の急変に気づいた初老の男は、「何だ君たちは?」と険のある態度を示したが、男達は無機的な表情で周囲を固めた。
「田沢さんですね。あなたを収賄、ならびに政治資金規正法違反の疑いで逮捕します」
初老の男は「な、なんだと?」と目を剥くと、示された逮捕状に対して憤怒の表情を見せた。
「ぼ、謀略だ。この選挙の近い時期に逮捕など、国策捜査としか思えないっ!!」
「逮捕状は正式なものです。それだけの容疑があるから判事も逮捕状を出したわけで、言いがかりでも何でもありません。日本の司法当局を馬鹿にしないで頂きたい」
「検察の青年将校化だ!!」
「何時の時代の話ですか?それとも、選挙が近いと政治家やそれに近い人間は、法律を破っていることが判っても捕まえてはいけないんでしょうか?与党の政治家は『疑い』っていうだけで大臣職を辞めたりしてますが、野党だと逮捕状がでるくらいに容疑が固まっても、逮捕する側が非難されるんですか?」
田沢は、しきりに声を張り上げた。周囲にいるかも知れない、一般の誰かの耳にその声が入ることを期待して。検察による謀略的な権力行使であることを印象づけようとして。
「国民の皆さん、民主主義の危機ですっ!政治の腐敗ついにここにまで至りました!」
「あんたが言っているのは、民枢党主義の危機でしょう。政治の腐敗とは、役人や政治家が賄賂をとることじゃない。賄賂をとっても非難できないことを政治の腐敗というんだ。その意味で、あんたが逮捕されないことのほうが政治の腐敗を意味するよ。もちろん与党の政治家だって逮捕状が出るだけの容疑が固まれば我々は逮捕するよ」
そんなやりとりの果てに田沢は手錠をかけられ検察の乗用車に押し込められた。
その騒動の片隅では、自分は巻き込まれまいとメガネの男がこそこそとその場を立ち去ろうとしていた。メガネの男は検察の興味の対象ではなかったために、誰からも制止されることなく駐車場を出ることができそうであった。
しかし、ふと気がつくとメガネの男の周囲は、特捜の検察官達とは毛色の違う違う荒事専門を臭わせる黒服の男達によって取り囲まれていた。
「よう、李順弘。君を外為法違反で逮捕するよ。外国の某機関からの資金の流れを懇切丁寧に吐いて貰うからそのつもりで……」
部下から死神博士とあだ名されるほどの駒門に睨まれた李と呼ばれた男はその顔を蒼白にさせることとなった。駒門は振り返ると部下達に向けて言った。
「さあ、紳士諸君。ペイバックタイムだ!!」
某所で静かにモニターに向かっていた1人の男が、自らの管理する掲示板の書き込みに眉を寄せた。
「随分と酷い書き込みだな。アク禁にするか」
とあるアドレスに対する匿名巨大掲示板のアクセス禁止措置。これによってネット界に蔓延っていた差別的な表現や、顔をしかめたくなるような書き込みが激減してしまう。新聞社によるマッチポンプ的な、ネット工作が暴露された瞬間であった。
これまで、新聞社やマスコミによるこれらの操作を指摘する者は、全てネトウヨと称して貶められつづけていた。偏った思想による根も葉もない中傷とみなされていたからだ。だが、それが事実であったとすると、人はどう思うのだろう。
某テレビ放送局に報道倫理・メディア向上機構の職員が複数枚の書類を届けにはいった。
「御社の報道番組は、放送倫理上、人権を侵害する恐れが強い内容であると見なさざるを得ませんでした。これの改善を強く求めます。それと番組での捏造の件についても、厳重注意処分が下りました」
テレビ局側は、この指摘を受けたことへのコメントを午前四時という視聴している者がほとんどない時間帯に放映するという暴挙に出た。
報道倫理・メディア向上機構の指摘を受けても改善どころか反省の意志もない、つまり倫理違反を指摘された報道が、実は恣意的であったと態度で証明してしまったと言える。この事実を前に、人はどう思うだろうか。
「支持率の低下している首相の著書が、不自然な売れ行きを見せており、出版者側はとまどいを見せております。さて、次のニュースです。特地の拉致被害者と、その救出劇について驚きの新事実です。これまで、特地に拉致されていた被害者は報道機関の前に姿を現すことはありませんでしたが、この度、取材斑の前に通訳として現れました……」
原稿を読み上げる女性アナウンサー姿から、収録された画像に画面がうつりかわった。
『あの時、助けに来てくれたのが、こちらの伊丹隊長さんと、栗林さんと、富田さんだったんですよ。それに外務省の菅原さんがいました』
紀子が、栗林と伊丹をカメラの前につけて立つ。栗林は、照れたように下を向き、伊丹は「いやぁ、なんともお恥ずかしい限りです」と後ろ頭を掻く姿が日本中に流れた。
『あの?富田さんって言うのは、やっぱり?』
『もちろん、あの富田さんです。あなた達を助けるために、最後まで残ったから亡くなったって聞いてますよ。なのにガツーンと村人を鉄砲で叩いているところばっかりテレビに流れちゃって変に風に有名になっちゃったんですよね……』
これに合わせるようにして、村人を64式小銃で殴りつける富田の姿が流される。
だが、それは今までと違って、一連の映像の一部分を切り取ったものではなく、農具や棍棒を手にした農民達が取材班に襲いかかり、それを守ろうとして奮戦した富田が倒れるまでの一部始終であった。
無抵抗な村人への一方的な暴力だと思っていたのに、それが全くの逆だったのだ。
さらに、特地に調査に赴いていた科学者達が合同記者会見を開く。
「特地で起きている現象は確かに異常である。我々の科学水準では、これを推論でしか解釈説明することはできない。従って、養鳴・漆畑・白位博士らの報告のように、門の存在が特地と我々の世界とに重大な問題を引き起こす可能性も否定できない」
アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアといった名だたる国の学者が連名であげた報告である。こうして再び門をめぐる議論は、振り出しに戻ることとなった。