[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 54
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/01/27 20:35
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その日は晴れていた。
蒼天の下、朝霞駐屯地の緑眩しい芝生の営庭に、僅かな狂いもなく整列する101保安隊の隊員達。儀仗を専門とする彼らは、号令に合わせて一斉に弔銃の空砲音を轟かせた。
音楽隊の奏でる重々しい葬送の曲の流れる中、日の丸に覆われた白木の棺が殉職者の僚友6人に担がれ運びだされていく。その数87柱。葬送の列は、何処まで続くのかと思わせる程、長く伸びていた。
参列したのは主立った者で、麻田内閣総理大臣、福下前総理、石場防衛大臣、政務次官、参事官、統合幕僚長などなど。そして泣き崩れる遺族、親族、友人、同僚達だ。
銀座事件の際に発生した陸上自衛官の殉職者数は390名だった。
今回の犠牲は、一度に発生した者としてはそれに次ぐものとなってしまった。もちろん死は数の問題ではない。個人にとって自らの死、そして家族の死は世界の終わりにも等しいものなのだから。だが、死者の数の大きさが、人々の心にも大きな衝撃となり、その悲しみと悼みを一層かきたてるのもまた、確かなのである。
戦争の遂行に犠牲は覚悟の上のはず。しかし、不意に興った銀座事件のそれと違って、アルヌスでの戦いには陸上自衛隊は周到に過ぎるほどの用意をもって挑んだ。
用意周到・頑迷固陋とは元々陸上自衛隊の性格を言い表したものだが、それが圧倒的な文明の格差、戦争の技術、兵器の性能差、個々の戦闘技術によって裏付けられ、一方的過ぎる戦いを遂行して自衛官に被害がほとんど出ない日々が続いていただけなのである。そのために何時しか人々は、犠牲者が出ないのが当たり前と思いこみ、今更ながら味方にも被害の出得る『戦争』をしているのだという事実に気づいて、恐れおののいてるのだ。
結局の所、帝国軍も負けてばかりではないという事である。
戦訓に学び、勝利をたぐり寄せる方法を模索する。まともに互しては戦えないならば、まともに戦わなければ良いと考えるのも、当然の帰結だろう。それによって今回のようなゲリラ戦へと結びついたのも、ある意味必然なのだ。
軍事ロマンチストは、平原に布陣しての堂々たる大会戦を望むかもしれない。だが、真に守りたい物、野心に燃えている者は、戦いの様相なんかに理想を託したりしないものだ。美しく正々堂々たる戦争など、くそ食らえとばかりに、あくまでも勝ちにこだわって、命を手段・道具・武器と見なして徹底的に、阿漕に、卑怯に勝ち残ろうとする。そして、その姿勢こそが、戦争というものに関して見る限りは、絶対的に正しい態度なのだ。故に、孫子は言うのである、「兵は詭道なり」と。
だから、アメリカはベトナムで、イラクで、アフガニスタンで苦戦した。
最新鋭の装備を整え、通信と指揮系統を充実しても、ゲリラ戦に徹されれば、どうにも勝ち切ることが出来ないのだ。勿論、それで「戦争でテロ・ゲリラを撲滅することは出来ない」という定義が成り立つわけではない。ガン細胞のように健康な細胞の間に紛れ込んだ敵を、一人ずつ見つけだして倒す技術的な方法が、「まだ」存在していないだけなのだから。しかし、外科手術をもってこれを摘出しようとすれば、健康な細胞にも大いなる犠牲を強いてしまうのも道理であり、健康なはずの細胞のいくつかは傷ついたが故に癌化してしまう。それが、現実なのである。
だが、日本人は既にこれらの犠牲を受け容れて戦いを遂行することには耐えられない。
マスコミの苛烈な批判、揚げ足取りが連日のように続いて、日本政府・麻田内閣としても、これ以上自衛官、そして民間人に被害を出すことは、許容できなくなってしまったのである。
故に自衛隊は萎縮する。彼らに許された唯一のことは、『門』を守るためにアルヌスに閉じ籠もること、それだけとなってしまった。
しかし、被害の拡大を防ぐという意味では、これが非常に効果があったのだから皮肉と言えよう。
帝国側からすれば、いくら待ち伏せても敵が来ないのだ。人質を取られた村民達も、ただ待ち呆けるばかりで1日過ぎ、2日過ぎて何も起きない。当然戦闘も起きないから、敵味方に被害は出ない。妻や我が子を人質として取られた村人や町民達が、家族の安否に気を揉むだけである。
帝国軍としても、まだ事を起こしてないのに人質を始末するわけには行かない。
何しろ、この戦術は1つの村に一度、1つの街で一度きりの使い捨てとも言える戦術であるから、今後もこの戦術で戦果を挙げるなら、扱いに困ったと言う理由だけで、安易に人質を始末してしまうことも出来ないのだ。
かと言って、人質に顔は見られているしアジトも知られている。今更「用はないからお前達帰れ」と言うわけにも行かないのだ。
それに、さらに困ったことがある。それは報告すべき戦果が挙がらないと言うことだ。
苦慮した三将の筆頭ヘルムは、こう報告することにした。
「我が軍、日本軍を撃退し、被占領地を解放しつつあり」
徽章や旗を外した帝国軍を、煌びやかな軍装と派手な軍旗をたなびかせた帝国軍が追い散らして見せると言う自演劇を人質達に見せつけ、白々しくも解放者を気取って、無主の地となっていた村や、街へ兵馬を進めたのである。
村や街は、これまでも特に圧政を受けていた訳ではなかった。
支配者がおらず、かえって税金がかからないから暮らし向きは楽だったほどだ。盗賊の類だって自衛隊が追い散らしてくれた。だから、再び帝国の支配下に入ると言うことは、内心では歓迎してなかったのである。
とは言っても人質が無事に帰されれば嬉しく思わない者はいないわけであり、考えてみれば昔に戻るだけ。若干というより、かなり怪しむべきところがあったとしても、人々は真実を伝える噂を耳にするまでは、とりあえずは帝国軍を解放者として、受け容れることとしたのである。
これらの報告は、ゾルザルをさらに狂喜乱舞させた。
帝国軍は勝利している。そして、兵を進めていると言う。まさに連日連戦して、連勝しているかのような報告が毎日のように届くのだ。
軍事的な成功ほど人々に判断を誤らせ、自らの力量を過信させるものはない。だから過去の名将は「戦勝は五分をもって上となし、七分を中とし、十を下とする」などと書き残したりするのであるが、このような先人の教えがあったとしても、人間好調な時期には調子に乗ってしまい問題点を顧みないことが多い。ましてやゾルザルならば。
まさに上げ潮に乗ったような勢いを得た彼は、何処へ行っても歓呼をもって軍人や貴族達に迎えられた。また、戦勝の祝宴を開けば、彼の隆盛にあやかろうと多くの者が詰めかけて来る。この世の春を謳歌する毎日である。
「殿下、この度はお招き有り難うございます。それにして連戦連勝、真におめでとうございます。いよいよ殿下の時代が参りましたな」
「うむ、よく来てくれた。この俺も、次代の皇帝として励まねばならん。その方にも、力を貸して頂きたい」
「微力を尽くしまして」
「うむ、今日は楽しんでいってくれ。山海の珍味を用意させたからな」
「殿下の宴席は、料理がとても素晴らしいですから楽しみです。どこで料理人を見つけられましたか」
「真に能力のある者と巡り会えることも、英傑の条件だぞ。そうだ、後で皆に紹介しよう。なかなか気骨のある面白い男だぞ」
次々と集まって来る貴族達、そして軍人達。彼らを前にしたゾルザルも、重々しくも貫禄を感じさせる振る舞いに馴れたようであった。
多くの者に、顔を顰めさせた軽率で粗暴な振る舞いも、今ではすっかりと影をひそめている。おそらく、成功が自信となって来たのだろう。そうなると人々は、彼を成長したと見なして高い評価を与え始めるのだ。
「ふっ」
そんな様に、テューレは人知れずほくそ笑んだ。
ゾルザルが馬脚を現した時に、今褒め称えている帝国貴族達が、どのように態度を一変させるか想像することが出来るからである。
人間というのは難しい。
愚かしそうに見えた人間が、時と場合によって賢者のごとく振る舞い、賢者の如き人間が、時と場合によって愚者となってしまう。経済的な成功を収めた立志伝中の企業家が、中途で道を誤り周囲を失望させながら消えていく羽目に陥ることもある。最高学府を優秀な成績で卒業した者が、自らを律しきれず、どうしてそんな愚かな行為を、と言いたくなるようなことで獄に繋がれたりもする。
これらは、人間というものに与えられた能力値が、ゲーム等と違って日頃から変動し、しかも性格や感情と言った要素も絡んで、賢愚が定まらないからだろう。時と場、そして地位や責任といった変数の影響を受けて、賢愚どちらに針が振れるかわからないのである。
勿論、全体として見れば愚かしい、あるいは賢いと評価できる者も多い。が、それよりも多くの人間が、後になって賢愚どちらと評されるか判らない要素を小脇に抱えて、社会の中に生きているのだ。そしてこれをして、凡人と呼ぶのである。
「要は、今風向きが良いだけのこと。何かあれば、すぐに……うふふ」
テューレの立ち位置も、ゾルザルの変化を受けて最近は少しばかり変わっていた。
身だしなみを整えさせられ、ゾルザルの閣僚や秘書官や、そして取り巻き貴族達からは少し離れた、宴席の隅で控えさせられている。これまでのように犬猫みたいに引き回されることが無くなっただけ楽であったが、ただ待っていると言うのも案外に苦痛である。
何か退屈しのぎになることでもあれば、とも思うが宴席で退屈しのぎと言えば、誰かとの会話か、食事、あるいは余興の類しかない。芸人が招かれるにはまだ早いし、こんな席でポーパルバニーで、しかもゾルザルの所有物であるテューレにちょっかいを出す酔狂はもない。せめて料理や酒をと思って通りかかるメイドに「何か見繕ってちょうだい」と声をかけてみたら、ものの見事に「自分でとってくれば?」とすげなくされて、へこんでしまう。
だからと言っても、貴族達の屯する宴席の真ん中へ行って、彼らのために用意された料理をお手盛りして来るのも憚れる。ゾルザルの傍らにいた時は、手を伸ばせば届くところに料理があったし、別室に控えさせられた時は目の前に料理がなかったから気にもならなかった。今、こうして宴席の隅で、美味そうな料理を前にして空腹に耐えなければならなくなると……これはもしかして、ゾルザルが考え出した新手の責め苦だろうかとも思えて来るのだ。
そんなことを恨めしくも考えていると、突然上がった歓声に我に返る。
歓声の方角に目を向ければ料理人のフルタがゾルザルに肩を抱かれるようにして貴族達に紹介されていた。テューレの見る限り、非常に居心地が悪そうであるが、ゾルザルは気にもしていないで彼の背中をばんばんと叩いていた。
「ほ、本日は、よい魚が、て、て、手に入りました。皆様、どうぞお楽しみ下さい」
フルタはいつものように、緊張の面もちで挨拶をし、貴族達からは拍手と喝采を受けていた。並び居る王侯貴族達の味覚を攻めたてて、全面降伏させた功績は、貴族等をして彼を英雄のごとく扱わせるほどだ。
もちろんそこにはゾルザルの威光も充分に働いている。でなければ料理人風情がどうして貴族達の前に出て来ることができようか。だが喝采を受けているフルタを見て、無邪気に喜んでいるゾルザルの態度は、才能ある市井の料理人を引き立てようとしている鷹揚さとして、貴族達に受け止められたのである。
だがテューレは知っている。ゾルザルは自分の自信の無さから目を逸らすために、真に力量のある者を周囲に置きたがっているだけなのだと。それは大した取り柄のない、金だけはある貴族が、名馬や名品を所有したがる心境に似たものだろう。自分の馬や、身の回りの品はこれだけ凄いと誇ることで、我が身の不足を補いたいと言う心理である。
だが肝心のフルタは、貴族達に褒められても決して喜んでなどいない。テューレはそう確信していた。
フルタはゾルザルに言った。よい材料をふんだんに使えば、よっぽど下手くそが料理するのでなければ、美味い料理が出来るのは当たり前だと。
自分は、安い材料を使って、美味い料理作りたい。
小さな店を構えて、席は目の行き届く12席以内。客の前で料理を拵えていく晒しの板場。働くのは自分。そして客席側には気心の知れた女性に入ってもらいたい。
客は、仕事を終えた人々。自宅に帰る途中で、ふらっと立ち寄り着飾った余所行きではない身の丈にあった料理から、しみじみとした幸せを味わって欲しい。そう語ったのである。
それを聞いた時は、「なんて小さい男」などと思ってしまったくらい、たわいもなく感じられた夢だった。だが、王侯貴族を前にして居心地を悪そうにしている彼と、小さいはずの夢を語った時の違いは一目瞭然だ。
あの時の彼は堂々として言葉も滑らかで、体躯の大きなゾルザルすら圧倒しきって見えた。そしてその迫力によって、暴虐なはずのゾルザルも納得を強いられたのだ。ゾルザルに言えたのは、「ならばそれまでの間、俺の元で働け」くらいであった。
いったい何がフルタの自信の源となっているのか。テューレは、数日の間フルタを観察を続けた。そして解ったことは、フルタという男が1日の仕事を終えた後、一人黙々と包丁を引く練習を繰り返し、塩や調味料を並べて味覚の鍛錬を怠らず、新しい料理を創る努力を続けていると言うことだけだった。だが、そうした日々の積み重ねによって鍛え上げられた魂魄が、柱となるものを持たないゾルザルをいとも簡単に圧倒しきったのである。
フルタの話を聞けば解ってくる。
彼の考える料理とは、きっと食べ物だけでは完成しないだろう、と。
出される料理だけでなく、店の内装や調度品の醸し出す雰囲気、そしてフルタの人柄。そんなものも含めたものを、彼は味わって欲しいと言っているのかも知れない。
挨拶を終えたフルタが、厨房に戻るべくいそいそと、と言うか逃げるように歩いて来る。厨房への入り口はテューレの脇だったから、自然とフルタと目があった。
「どうしました、テューレさん。そんなとこにつっ立って」
テューレは、肩を竦めると自嘲的に言った。
「お預けを喰らっているのよ。ここに控えていろと飼い主からのご命令だ『わんっ!』」
飼い犬の鳴き真似で、おどけるテューレに古田も苦笑いだ。
「そんなの無視して、食べればいいのに」
「お客様の前に出ていって、お客様用に出された料理をとって来るなんて、出来る立場ではないから」
少し寂しげな表情をして見せる。もちろん、古田からの何某かの反応を期待してのお芝居であった。案の定フルタはテューレに対して同情的な態度を示した。
「いいですよ、わかりました。同じ料理がまずいなら、何か賄いをもって来させましょう」
フルタは、テューレに片目を閉じて見せると厨房へと戻って行った。
テューレとしては、餌にありつけるのも、あるいは馬鹿な男が自分に芝居ひっかかったのも両方が嬉しい。だから小さく、としても小さく「やったぁ」と握り拳で喜んだのである。
さて、宴も酣(たけなわ)となって来た頃。会場の扉が大きく開かれ、新たな賓客の入来が告げられた。
「ピニャ・コ・ラーダ殿下、ロー侯爵家令嬢ハミルトン嬢」
この名を耳にすると、宴席の貴族達は万雷の拍手で迎えた。
そこには社交的な意味もあるし、皇族に対する礼儀でもある。だが、それ以上に政治的な意味が存在していた。
ピニャと言えば講和会議の仲介役を担う講和派の重鎮である。その彼女が、ゾルザルの戦勝祝いに駆けつけたと聞けば主戦論者達も、「さすがの彼女も、ゾルザル殿下の指導力の前には、馳せ参ぜざるを得ないということか」と大いに力づけられたのだ。
当然、ゾルザルも取る物もとりあえず、ピニャと彼女の副官を出迎えようと駆け寄った。
「おおっ、よく来てくれた我が妹よ。ハミルトン嬢も相変わらずの美しさだ。妹に酷使されて痩せ細っていないかと心配であったが、健勝そうで何よりだ」
「殿下も、この度はおめでとうございます」
「なに、俺が勝ったわけではない。部下がたまたま勝っただけだ」
そんな風に謙遜できるのも余裕からだろう。
ピニャはゾルザルの自信溢れた態度を見て、兄様とはこれほど威風堂々と振る舞うことが出来るのかと瞠目すると同時に、その兄の自信の根源に思いを馳せて嘆息した。
実際、ゾルザルが、主戦論者達から高く評価されるのに対して、講和論派の元老院議員や閣僚達の彼に対する評価は急落していた。と言うのも、彼らはゾルザル配下のヘルムらが戦地で何をしているかを、ほぼ正確に掴んでいたからだ。
それは講和交渉の席で、日本側から厳重な抗議という形でもたらされた。
「現在も戦争は遂行中である。だから兵を動かすなとか、攻撃して来るなとは言わない。とは言え、村や街に住む無辜の民から女子供を人質にとって、返して欲しくば自衛隊を襲えと嗾ける行為が果たして尋常の戦争と言えるのだろうか。それとも帝国は、そこまで卑劣な存在なのか?猛省を求めるものである」
菅原のこの言葉には流石のカーゼル侯も、キケロ卿も驚いた。
ピニャに至ってはあまりのことに唖然としたまま、ペンを取り落としたことに気づかなかったほどだ。
「そ、そのような根も葉もない中傷で、我が軍の名誉を汚すのはどうぞお控え頂きたい」
と、抗議その物を門前払いしたのであったが、やはり直感的にゾルザルやその配下の将兵が、抗議されたような行為をしたという疑念を、抱かざるを得なかったのだ。キケロやピニャは、日本という国の兵器や将兵について、多少なりと言えども知る機会があったし、日本という国の気質も理解しつつある。ゾルザル配下の将兵が、今誇ってるような功績をあげようとするなら、菅原が言ったような方法でもなければ無理だろうと思えるのだ。
ピニャは兄の手をつかむと、宴席の片隅まで引っぱつて行って事の真相について尋ねることにした。「本当に、そのようなことをしたのか?」と。
問いつめられたゾルザルは、痛いところをつかれたように眉根を寄せた。
答えを選んでいるのか、二、三度口を開け閉めすると、しばしの思案の後こう言った。
「それの何が問題なのだ?それで勝利がもたらされるのなら何ら問題はないだろう」
「ですが、兄様……」
「まさか、正々堂々と戦って負けろと言うのではあるまいな」
「そこまで申してはおりません、ですが……」
「『ですが』は無しだ、ピニャっ!父上を始めとしてお前達は、旧い戦い方に拘泥して破れた。我が兵達は、新たな戦い方をもって勝利し、現に勝利しつつある。これが、時代の流れだろう」
「ですが……」
「くどいっ!」
ゾルザルはそう言い捨てるとピニャに背を向けた。
戦勝に奢ったゾルザルは、もうピニャの意見にも、耳を貸そうとしなかったのである。
皇太子・主戦論派の台頭は、帝国は今や二つに分裂していく様相を見せつつあった。
元老院に連日、「戦勝の勢いに乗って講和交渉を打ち切り、強攻策に打って出るべき」と言う提案が出される。
会期という概念も無く、同じ議題を一定期間論じない「一事不再議」という原則がまだ確立されていないため、その都度多数決で採決をする羽目となっていた。そして採決をとるたびに、講和派の数が減じ、主戦論者の数が増えつつあるという状態であった。
講和派の議員は、どのような法案を提出するにしても末尾には「……とは言え、帝国は矛を収め講和を為すべきである」と言い放ち、主戦論派の議員は「……何であろうとも、講和交渉は中断されなくてはならない」と応じている。
今でこそ、かろうじて講和派が数の上で優勢だが、早晩その量的優勢も逆転されること間違いない。そんな危機意識を抱いたのが、日本にまだ捕虜を出している貴族達である。
家族を取り戻すには、とにかく講和条約の締結にこぎ着けなければならないが、それも日増しに難しくなって行く。ならばいっそのこと、主戦論者が多数を占める前に、条約の締結をしてしまおうと言い出したのだ。キケロやカーゼルといった一般の講和論者も同様の危機感を抱いていたために、これに賛同することとなる。
実のところ、講和会議を加速させるのはそう難しくはないのである。
条約内容で争点となっている事項について譲歩すればいいのだから。実際、日本側も締結を急ごうとしているようで、帝国にとって受け容れがたい要求も今ではそう多くない。精々、賠償の額や、日本の商会が帝国内での商取引した際にかける売上税の利率くらいである。これなど、戦争によって大損害を被ることを考えれば、譲歩したとしても何ほどでもないのだ。
こうして、講和会議は帝国側の大幅の譲歩によって、条約内容の合意がまとまることとなった。そして、いよいよ条約文の作成作業へと入った。
条約文はこれまでの交渉によって定まった内容を、双方の言語で書き下ろすだけである。だが、国と国との約束事は、微妙な言い回し1つで、様々な不利益や問題が起きたりするだけに、書いては訂正し、書いては訂正しという作業の繰り返しだった。特に帝国側通訳であるボーゼスやニコラシカと、菅原達外務官僚の事務方は、まだまだ、翻訳に問題のある文言の選択に、大いに苦しめられたのである。
対するに、白百合やカーゼル、キケロといった代表格の使節はそれぞれに役割の殆どを終えたので、互いに肩の荷が降りたとばかりに和気藹々とした雰囲気で、日本産のお茶をすすりつつ、お茶請けに帝国の果物を摘むといった感じになっていた。
ところが、突然会議場の扉を開いて一人の男が姿を現したことで緊張が走った。
「皆の者、ご苦労である」
全員の視線を浴びたゾルザルは、日本的な表現で言えば風呂敷包みをひとつ抱えていた。彼は、帝国、日本それぞれの使節やピニャ、そして通訳をしているボーゼスや、ニコラシカといった彼女の部下の間を、悠然と歩いて周ると、まるで子供の悪戯現場を見つけたかのような態度で、視線を巡らせた。
「おやおやおや、いったいここで何をしているのかな?」
「殿下、ここは外交交渉の場ですぞ。使節方にご無礼でありましょう。早々にお立ちのき頂きたい」
そんなカーゼル侯爵の言葉を、ゾルザルは鼻で笑い飛ばした。
「これは済まないな、使節方許されよ。だが、俺がここに来たのにも、それなりの理由があってのことだ。聞けば、憂うべき深刻な犯罪がここで行われていると言うではないか。次代の皇帝となる身としては、そんな事を耳にしては、いてもたってもいられなかったのだ」
「その罪とは何でしょうか?」
「それはな、売国の罪だと言うことであった。俺としても信じたくはない。何しろ、ここに集まっているのは、帝国の重鎮方だ。俺の可愛い妹もいる。だが……」
ゾルザルはテーブル上の羊皮紙に書かれている帝国の文字を指でつつくと、残念そうにため息をついた。
「う~む」
何かを堪えるかのように、拳を握り、そして再度ため息をつく。
「これはまだ締結されてない?」
ゾルザルは小声でボーゼスに尋ねた。当然、ボーゼスとしては正直に答えるしかなく、「まだ清書しただけで調印はされてません」と告げた。
「よかった。実によかった」
ゾルザルは安堵したように言った。
「幸いなことに、まだ犯罪行為は為されてはいなかった。俺はとても嬉しい。もし売国などという恐るべき犯罪がなされたあとであれば、俺はここにいる一同を処刑せねばならなかったからだ」
「兄様、いったい何を言っておられるか。これは皇帝陛下より信任を受けた使節がおこなう正当な外交交渉。売国などになるはずがあり得ません」
ゾルザルは、それを聞くとテーブルの羊皮紙を握りつぶした。
手が、怒りに打ち震え、それが腕にそして身体へと伝播していく。そして顔を真っ赤すると、怒鳴ったのである。
「このような条約が売国でなくて!何だと言うのか!?」
ゾルザルは、日本側使節の白百合目がけて、持っていた風呂敷包みを投げつけた。
その包みは、ボールのようには弾まず一度跳ねただけで、すぐに転がりを止めた。勢いで包みの結び目が解けて、中身が日本側使節団達の目に触れる。
「うっぷ」
いきなり口を覆って、嘔吐する外務官僚。
吐きこそしなくても、ある者は目を剥き、顔色を真っ青にした。女性の白百合は失神してしまったほどだ。
床に放り棄てられた包み、その中身は人の頭であった。
「以前から捜索依頼を受けていた行方不明者のマツイフユキだ。残念だが、我が配下の者が見つけ出した時には、このような有様になっておった。所有者に尋ねたところ、鉱山での落盤事故であったということだ。とは言っても、そのままで納得もせんだろうと思って、とりあえず墓を掘り返して首だけ持ってこさせた。持ってかえるがよい」
この蛮行には、日本側も、帝国側も絶句せざるを得なかった。
もう条約文の作成という雰囲気ではなくなって、使節団は気絶した白百合を両脇から抱えるようにして会議室から退散していった。
最後まで残った菅原も、しばしの間ゾルザルと向かい合っていたが、テーブルを拳でゴツと叩くと忌々しさを態度で表すようにして背中を向けた。そんな彼の背中に向けて、ゾルザルは告げる。
「使節殿、忘れ物だ」
放り出されたのは、マツイフユキの頭部の包みであった。拒絶したいが、拒絶する訳にもいかず、菅原をこれを震えながら抱えて議場から逃げ出したのである。
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ゾルザルの行為によって、元老院は紛糾した。
元老院の議場が再建されるまで、仮議場とされた北宮殿の広間は、耳を劈くほどの怒号が飛び交っていた。
「敵側から席を蹴って立ったのなら丁度良いではないか」と主戦論者か怒鳴り、これに対して講和派は「仮初めにも講和交渉の席で、このような無礼な振る舞いをする者が次代の皇帝にふさわしいか」と、やり返して皇太子ゾルザルを激しく弾劾したのである。
「返せと言うから首を返してやっただけではないか」とヤジが飛んで、これに対して「外交には儀礼というものがある。礼儀の解らない者にどうして国が任せられるだろうか」と言う激しい罵倒合戦。一部では掴み合いが始まり、その都度周囲の者が取り押さえて引き離すが、また別のところで掴み合いが始まるという有様である。
ゾルザルは自分のことが槍玉にあげられていると言うのに、皇帝の隣で不敵に笑うだけ。
「いったい、兄様は何を考えておられるのですか?」と詰るピニャに対しても、「さぁ、」何であろうかなぁ」と全く取り合わない。
皇帝モルトはあまりのことに、悄然として打ち震えていることしか出来なかった。
そんな中で第二皇子たるディアボが敢然と立ち上がると、講和派を代表するかのように兄に向かってその指を突きつけた。
「あえて言おう、ゾルザル。お前にはこの国を統治する資格はない。元老院議員方、私は、ゾルザルに対する不信任を動議したい」
ただでさえ、騒がしさに包まれていた仮議場はこれによってもう、誰の声も判別できなくなるほどの騒ぎで満たされてしまった。
講和派はかろうじて過半数を有していたから、粛々と議事が進められればゾルザルに対する元老院最終勧告は可決されたはず。だが、これに抗議する主戦論派も、誰も彼もが立ち上がって講和派と掴み合いの喧嘩が始まってしまう。最早収拾のつけようがなく、議長の声も聞こえず議事を進めることは、困難な状態となってしまったのである。
ゾルザルは、そんな混乱の渦中にある元老院を見下ろすと皮肉そうに笑むと、「最早、元老院に託すものは何もない」と呟き、議場から、そして宮城ばかりか帝都からも立ち去ったのだった。
ゾルザルの背中にピニャは「兄様、どこへ行くのです」と懸命に声を投げかけたが、自分の声すら聞き取れないほどの喧騒の中では、彼女の声が兄の元に届くことはなかったのである。
翌日、改めて呼集された元老院は、ゾルザル不信任の元老院最終勧告を粛々と決議した。主戦論者たる議員達が出席しなかったからである。
これによってゾルザルの廃立が決されることとなったが、ほぼ同時刻、帝都郊外の据えられた皇太子府の軍旗の下には、主戦論者たる貴族の私兵と、ゾルザルに与する帝国軍将兵が続々と集結を始めていたのである。
「皇太子ゾルザルが攻めてくる」
その報せを受けた帝都は、上を下への大混乱に陥ってしまった。とは言っても、恐慌に囚われているのは帝都の貴族達ばかりである。市井の市民達は、別に外国の軍隊が攻めて来る訳でもないし、自分達には関係のない偉い人達の権力争いなどと言って危機感もなく平穏な暮らしを続けていた。実際、危機感を抱いたとしても逃げる場所もないし。いや、逃げ出す場所がない故に、危機から目を背けて平穏な日常に拘泥していた、とも言える。
だが、当事者たる帝都貴族にとっては大問題である。
元老院最終勧告決議をもって、皇太子を廃立し彼の政治生命を断ち切り、帝国の後難を取り去ったはずなのに、帰ってそれが彼に過激な行動を起こさせるきっかけとなってしまったのだから。
帝都を守備していたはずの帝国軍も、近衛を除いた殆どがゾルザルに靡いてしまった。このまま皇太子が攻めて来るに任せておけば衆寡敵せず、帝都は間違いなく失陥する。そうなればゾルザルが権勢を握ることになる。ではその後、彼の廃立に一票を投じた自分達の将来は?それ以前に生命は?
楽観主義者の多い主戦論者と違い、講和派に立つ者は比較的に悲観主義的な傾向があったし、ゾルザルの人柄には様々な点で危惧される部位が多く見られたこともあったから、講和派元老院議員や貴族達は、帝都から脱出を始めたのである。家財や金銀宝石類のことごくを荷馬車に積み込んだ貴族達が、家族や使用人達を引き連れ帝都を落ち延びていく。それぞれが向う先は、各自の所領、農園、郊外の山荘などだ。縁戚や友人が外国にある者は幼い息子や娘をこれに託して、自分達は帝国内に残って様子を見ようとする者もいた。
元老院の仮議場に集まる議員は、こうしてその数を激減させた。まるで櫛の歯が欠けるようで寂寥感を禁じ得ない。客の少ない芝居小屋にも似た雰囲気である。居るのは、事態が此処にいたっても水道橋建設推進の演説をしている議員と、それにパチパチと数個の拍手を送る若干数名の議員。
その光景は、自虐的過ぎる喜劇のようだ。
「何故だ、何故こうなってしまったのか」
長兄の失脚によって、いよいよ次代皇帝の座を手にしたと思ったディアボは、空席ばかりの議席の1つに座って、頭を抱えていた。
「ディアボ兄様。こんなところで何をなさっているのです?」
そんなディアボをまるで蹴飛ばすかのような勢いで迫ったのは、騎士団の武装を隙なく整えたピニャである。
彼女の声が議場に響いて、水道橋建設反対について自説を朗々と語っていた議員も、話途中で止めてしまったほどだ。
数少ない視線が、ピニャとディアボへと集まった。
「兄様、すぐに支度を整えるのです」
「何の支度だ?今更何を支度しろと」
ディアボは顔も上げずに、皮肉そうに唇を歪めた。
「兄様が攻めてくる前に、皇帝陛下とともにここを脱出するのです」
「逃げてどうする?何処へ逃げるというのか?地の果てか?櫨櫂の及ぶ限り、ゾルザルの奴は追って来るぞ。俺は嫌だ、追い立てられ惨めな思いをしながら死んでいくのはな」
「何を弱気なっ!兄様、しっかりなさってください」
自己憐憫に浸り込んでいるディアボに、ピニャは舌打ちすると相手を議場に残っている僅かな数の議員達へと変えた。
「皆よく聞いて欲しい。皇帝陛下のご動座を請い、帝都を脱出するのです。そしてゾルザル兄に対抗しうるだけの戦力を集め、この力を背景にゾルザル兄に翻意と帰順をうながすのです」
「ゾルザルに帰順を促すだぁ?おめでたい奴め、だがその意気やよし。お前一人で勝手にやってくれ」
「ディアボ兄、何もする気がないのならそれはそれで構いませんが、自殺にも似た敗北主義にだけは浸らないで頂きたい。何をしても無駄などと思うくらいならいっそのこと亡命でもなさいませっ!」
「ゾルザルが権力を握れば最後だ。安全な国など、この世界のどこにもない」
「ならば、余所の世界に行かれれば宜しいでしょう」
「ん?」
「日本に参られませ」
ピニャに迫るように言われて今更のように気づくディアボである。
「ニ、ニホンか。確かに、彼の国ならゾルザルも手も足も出まい。だが、お前はどうする?」
「妾は、父上……皇帝陛下と脱出します。そして何としても、ゾルザル兄様を止めます」
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 55
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/02/03 20:48
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ゾルザルは8万の兵を率いると、その数を15万と号して帝都へと迫った。
講和論者の激しい抵抗を予想し、攻城戦の支度を万全に整えての進軍である。攻城槌を拵え、城壁を越えるための梯子を林のように連ねて大軍が進撃する光景は、壮観である。
軍事に置いては数の信奉者であるゾルザルは、大戦力を擁すために麾下に集まった帝国軍や、主戦論貴族の私兵ばかりでなく、傭兵や、山賊めいた者であっても武装をしているなら誰でも、と言った感じで片っ端から自軍に加えた。が、いざ都城の壁に迫ってみれば、矢の1つも飛んでこなければ、鋸壁に見張りの影すらない。
こちらを油断させるつもりであろうかと、兵士達に厳重に警戒するように言い含めて、近づかせて見ても、抵抗する者もなく拍子抜けである。
「蓋を開けてみたら……」という言い回しがあるが、帝都の門をくぐってみれば皇宮を守る近衛兵はおろか、帝都守備の兵士までいない有様である。文字通り猫の子一匹残っていなかったのである。そして帝都に住まう民達は、戦争にならないことをあらかじめ承知していたかのように、相変わらずの日常を営んでいた。
帝都の大通りを突き進んで皇城へとたどり着いてみると、あたかもゾルザルを歓迎するかのように皇宮の城門が大きく開け放たれていた。そのあまりにも無警戒な有様には、空き巣に入られてはいないかと、心配になってしまったくらいである。
宮殿の人気のない長い廊下を、真っ直ぐに突き進むと重厚な飾り付けによって重々しい雰囲気を放つ謁見の間へと行き着ことが出来る。
その途中に見えた閣僚の執務室、閣議室、会議室、官僚達の書記室、浄書室と言ったことごとくは、やはり無人。大陸に覇を唱えた帝国の中枢は、多くの官僚達が政務を取り仕切っていたはずである。しかし、閣僚や貴族達が集っていたサロン。煌びやかな装いをした近衛兵が詰めているはずの警衛所。夜会が開かれた大広間など、居るべきはずの誰も彼もが、父モルトと共にいずこかへと消え去っていた。
無主の皇宮。
空気に動きのない、謁見の間のほぼ中央に玉座が、座る主もなく鎮座ましましている。
これに近づくのは、誰もいないのを見計らって至尊の座に悪戯をしかけるような心持ちのする行為である。その前に立って、いざ座ろうとしても、ふと逡巡を感じてしまった。だが、ゾルザルはそんな躊躇いを勢いで打ち破るようにして腰を下ろした。
何と固い椅子か。何と冷たい椅子か。
大理石で作られたその椅子の座り心地は、これまで想像していたものと違って、お世辞にも良いとは言えないものであった。父は、このような椅子に長年座り続けて居たのかと感心せざるを得ない。
とは言え、これが玉座であるならば、この感触に馴染むべきなのである。冷たいのなら自分の体温で温めればいい。今感じている不快感も、座り馴れていないから感じるだけのこと。今日より、これは自分の座なのだから。
玉座に腰を下ろしたゾルザルは、次々と命令を発した。
最初に行ったことは正式に皇帝に就任することであった。
と言っても、「今日から俺が皇帝だ、文句ないな?」という宣言を、様式を整えて格調高く、煌びやかな装いで行っただけのこと。伽藍堂と化していた元老院仮議場に、主戦論派の元老院議員達をかき集め、自分の皇帝即位や、講和派議員達を国家反逆罪とする法律や、父モルトを帝位から廃する法律などを、次々と決議させたのである。定足数などと言う既定がないからこその荒芸ではあるが、これによってゾルザルが帝国の全権を掌握する形式が整えられたことになった。
だが名に、実が伴っていない。それが現実であった。
幼い頃は、皇帝になれば皆自分に従うと思っていた。皇帝には、誰も彼も従うべきであり、従わなければならないのだと思っていた。しかし、現実はそうではなかった。貴族、閣僚、官僚、そして市民。誰も彼も、力を示さなければ従ってくれない。思った通りにはならないのである。
『前』皇帝モルトは、帝国の全土にゾルザルの行為を反乱と決めつけ、その非を打ち鳴らす檄文を各地に発しながら、閣僚や官僚団を伴い帝都を脱出し行方をくらましている。
帝国の要衝に配された帝国地方軍司令官の殆どは勅任人事だから、ゾルザルの息のかかっていない者ばかり。そんな彼らに新皇帝ゾルザルに従うか、それともモルトに従うかと強引に問い詰めたりすれば、モルトに靡かせてしまう虞が大きい。また、帝国の諸侯や、外国の動向にも気を配らなくてはならない。
ゾルザルの政権は、皇帝位に就いただけでは盤石とはとても言えなかったのである。
前皇帝を放置しておく限り、彼は常に脅かされてしまう。早急に、名に実を近づける努力が必要となった。そのためにはまず、前皇帝を捕らえることだ。ゾルザルは部下の兵を帝都の周囲に放って、父の行方を追わせた。
また帝国の全権を掌握するためにも、早急に政府を立ち上げ政務の掌握を急がなくてはならない。属領に配されている総督も、可及的且つ速やかに、自分の息がかかった者と交代させる必要があるし、諸外国にも皇帝が変わったことを報せて、必要があれば条約などを更新して、これまで同様の関係を維持しなければならないのだ。
ゾルザルは、予定通り皇太子府の人事をそのまま横滑りさせる形でムサベ伯爵(男爵より陞爵)を内務相に命じて、早速政務の掌握と、軍人事の刷新を急がせた。だが、彼の目論見は初っぱなから頓挫する。
累代の皇帝の下にあって政務を支えた官僚団がモルトと共に帝都を立ち去ってしまったため、辞令一通、任命書一通を作成するにも、書式などが解らずに苦労する事態へと陥ってしまったのである。特に文書番号簿と印章を持ち去られたのは痛い。帝国政府発行の正式な文書には全て番号が振られ、公印が捺される。これが入っていないものは体裁が整っておらず、誰の署名があろうとも正式なものと見なされないのだ。
外交文書などは特に国の格式に基づいた厳密な書式があって、慣習や儀礼を間違うと礼を失し外交問題を引き起こしかねない。いや、書類だけなら文書庫に保存されている過去の文書控えなどをひっぱり出してきて、これを参考にすれば良いし、印章も新たなものを作らせればよい。官僚団とて、引退して余生を過ごしている老人を探し出してきて指導させれば体裁は整うのである。だが、彼にはその時間が与えられなかった。
より深刻な問題が、新皇帝とそれを支える閣僚達に襲いかかってきたからである。
なんと、帝都金庫内に蓄えられていたはずの金銀財宝のことごとくが、すっかり持ち逃げされていたのである。
皇族というのは、金銭的には不自由のない立場である。それだけに常人には計り知れない金銭感覚を持ってしまうものだ。例えば、気に入った衣類を扱う店で、同じ服をダース単位で購入したり、目に付いた名画や宝石類、家具調度品を次々と衝動買いするとか、である。
だが、お金を湯水のごとく使うのは、お金に不自由のない立場にある者にとっての責務とも言える。彼らがお金を使うから、腕の良い仕立て屋や、デザイナー、宝石職人や画家、高級家具職人等々……と言った人々は食べて行くことが出来るのだ。
時の宰相が通うようなホテルの高級バーで働く腕の良いバーテンダーも、1杯1600円のカクテルを呑む人がいるからこそ、その技量にふさわしい給料を得ることが出来るわけだ。もし、金持ちが大衆居酒屋へ行って1杯380円の梅サワーなんか呑んでいたら、それこそ吝嗇と貶すべきだ。金を持っている人間が金を使うことを非難するのは、賤しい妬み根性以外の何物でもないことを、我々は知るべきである。
要は、金持ちには生きたお金の使い方をすることが求められていると言うことである。故に、昔の人は言ったのである。「金は天下の回りもの」と。
その意味では、ピニャが騎士団を立ち上げたことは、何ら生産や文化の振興に寄与しないという点で褒められた行為ではない。だが、騎士団の運営は彼女にシビアな金銭感覚を、特に節約という概念を身につけさせる非常に良い経験となった。それに加えて、経済的発展著しいフォルマル伯爵家を後見したことで、ピニャはある種の経済感覚を身につけざるを得なかった。そう、端的に言えばお金の恐ろしさを知っていた。
少しでも経営に関わった者なら解ることであるが、毎回決まった日までにお金を集めて、雇い人達にお金を配ると言うことは、とてつもない重責である。非常に、恐ろしいことなのだ。ピニャも、騎士団がごっこ遊びの範囲を超えたのに、まだ周りに認められずに予算がつかなかった頃、雇った数名ばかりの兵士達にすら支払う金がなかなか集まらず、兵士達に責め苛まれる夢に眠れぬ夜を過ごしたこともある。
そんなピニャだから、帝都を脱出する際に国庫の現金を抱えて逃げるのは当然のことである。だが、その程度ならピニャならずともやることだ。彼女がしたことは、もっと恐ろしくて、悪辣な行為であった。
すなわち皇帝と元老院の名義で手形を振り出して、これから必要となるだろう武器や、食糧を大量に購入したのだ。経済の仕組みを知っているピニャは、それらの品々を抱えてえっちらおっちら移動するなんて事はしない。品物の受け取り場所はちゃんと別の場所を指定していた。手形の決済日は自分達の逃げ去った後の数日後。こちらの支払い場所は当然のごとく帝都であり、支払い義務者はその時点での皇帝と元老院議員である。
さらに、持って逃げるには大きすぎるような美術品、家具や調度品類等、売れそうなものは片っ端から帝都の豪商などに売り払った。これは後で、ゾルザルに資金調達を困難にさせるとともに、帝都内の貨幣を不足させるという二重の効果を狙ったものだ。
こうして、新皇帝に即位したゾルザルが手にしたのは空っぽの国庫と、貨幣の流通量が極端に低下して、一部の市場では物々交換が始まるまでに経済状態の悪化した帝都と、早々に清算しなくてはならない債務となったのである。
手形は自分が出したものではないと無視すればいいと思ってしまうかも知れない。が、皇位を継ぐということは権利と同時に義務を引き継ぐという意味でもあり、ゾルザルが自らの正当性を主張するならば帝国と元老院の名義で為された借金を踏み倒すことは許されないのである。
だが金銭感覚に乏しいゾルザルを始めとする貴族達は、暫くの間これらがどのような攻撃効果を及ぼすのか、全く気づけなかった。もし、早い内に気づいていれば、手近な属領総督府の金庫を抑えるなどの手を打つことも出来ただろう。が、実務に疎い彼らではこれらの問題が、後々どのようなことを引き起こすのか、理解することすら出来なかったのである。そしてピニャの仕掛けた時限爆弾は、ゾルザルが新皇帝に即位して数日後に炸裂した。
「俸給の支払いだと?手形の清算?」
玉座のゾルザルは、脂汗を流しながら恐る恐ると言った体で報告するムサベ伯爵の言葉の意味を理解することに、しばしの時間が必要だった。
数にして8万人。貴族の私兵集団は雇い主たる主人から給料を受け取るから良いとしても、帝国軍の将兵と3万と、数を増やすためだけに掻き集めた雇い兵連中3万人に俸給として支払うデナリ銀貨20万枚が早急に必要だというのである。また、帝国政府に、商人達からも、シンク金貨で6万枚の支払いが求められている。
「払えばよいではないか?」
「恐れながら、払うにもそれだけの金がございません。ことごとく持ち去られてしまいましたので」
「くそっ、そうだったな。では、臨時徴税したらどうか?」
ゾルザルとしてはいろいろと考えた末の言葉であったが、ムサベ伯は「間に合いませぬ」と首を振った。
臨時に税を課すことにもいろいろと問題はあるが、例えそれが出来たとしても、実際に租税が支払われ金庫を満たすまでには、暫しの時間が必要となるのだ。兵士の俸給は、10日毎に現金で支払われるのが原則だ。兵士側からすれば、死んでから俸給を貰っても役に立たないから、どうしても早め早めに、生きてる内に受け取りたがる。
窮したゾルザルは、最後の手段として主戦論派の貴族達から借金をすることで国家を満たすことにした。ただ、金を出せば口も出したくなるのが人情である。ましてや主戦論派の貴族達は、自分達がゾルザルを新皇帝にしたのだと言う意識を強く抱いていたから、これをきっかけに、貴族達はゾルザルの元に集まっては思いつくままに様々な提言をして来るようになってしまったのである。それらは、帝国にとって有益なものもあったが、より多くのものが講和論者の領地や家産を没収して、自分達で分配する提案とか、いなくなった官僚団の変わりに自分の家族や一族の者を官職に就けようという猟官運動の類だったり、裁判で利己的な判決を求める以来だったり、特定の商人と結びついて利益をむさぼろうとするような行為だった。
そんな利己的な提言は、当然の事ながらゾルザルとしては無視したい。ゾルザルは皇帝による独裁体制を志向していたから、講和派元老院議員や貴族の領地や家産は、すべて国庫に納めようと考えていたのだ。だが、金を借りているという負い目が出来てしまうとそうも言えない。
官僚達だって、有能な者ならこちらから頼んでも来て貰いたいところだが、実務能力も見識もないのに名誉と権限と俸給だけは欲しいという連中に、責任を伴う役職を与えられるはずがないのだ。
だが、解決を迫られる問題は山積して、これを処理できる人材は限られているという状態。そしてゾルザルの面前では、欲まみれの有象無象どもが議論を百出させて、話は全くまとまらない。折角借金をして用意した資金も、訳の解らない提案や、我田引水な政策に、どんどん蕩尽されていく。残りも、俸給や債務の返済に充ててしまえば、あっと言う間に無くなってしまう。
そんな状況になれば、果断な判断もなかなか出来るはずもなく、ゾルザルは支払いを惜しむような吝嗇な決断を下してしまうのである。
商人達には支払いの延期を求め、傭兵達には実際には戦闘をしなかったと言う理由で、俸給額1日2ソルダ(4ソルダ=1デナリ)のところを、半分の1ソルダしか渡さないことにしたのだ。
商人達は、支払いの延期を快く受け容れてくれた。もちろん、高額の利息を約束させられてのことであるが、これで支払いは先送りできる。
問題は傭兵達であった。俸給を一方的に半額にまで減らされた彼らは当然の事ながら怒って騒ぎ立てようとした。だが、取り囲むように配された帝国兵貴族の私兵達の槍が自分達に向いていることを察すると、彼らは何も言わずに帝都を後にしたのである。
ゾルザルからしてみれば、彼らは戦闘になった際の矢弾避けの員数合わせであった。戦いが起きないなら、口減らしにもなるから早々に立ち去ってくれて有り難いのである。だがこの出来事は、帝国軍の将兵達にゾルザルの治世に対する不安を抱させることとなった。
帝国兵は、立ち去っていく傭兵達の憎悪に富んだ目を直接目にしているのだ。力で無理矢理ねじ伏せた憤懣は、別の場所で吐き出すものだ。立ち去って行く傭兵達が何らかの形で暴発することは、兵士達には容易に予想することで出来た。
ゾルザルの麾下に集まっている将兵は、その殆どが帝都周辺に駐留し地域の治安と安寧に責任を有していた者である。その彼らが、現場から離れてゾルザルの旗の下に集まって居ると言うことは、帝都周辺の守備は空っぽと言うこと。そして、俸給を半額しか受け取れなかった傭兵や流れ者が、無防備な村落や街へと向かっていく。
穏やかな気持でいられる兵は、一人も居なかった。彼らの動揺は、士気の低下という形で現れることとなったのである。
思ったようにならない状況、貴族達の我が儘勝手、そして兵の動揺。ゾルザルは麻のように乱れる何もかもを前にして、苛立ちを隠すことが出来なかった。
何故、整然と物事が進んでいかないのか?
何故、貴族共は我が儘勝手の好き放題を言ってくるのか?
何故、兵士達は不平不満を抱いて、反抗的な態度を示すのか?
どうして誰も彼も我慢せず、責任を分担しようとしないのか?
ゾルザルには、理解することが出来なかった。
こみ上げてくる憤りをぶつけるようにして閣僚を怒鳴り、兵士達を統率できない将兵を怒鳴り、そしてテューレへと叩きつける。
だが、閣僚達は恐れおののくばかりで、自分達で決断せず、些末なことまでゾルザルの判断を求めて来るようになり、煩わしさが増す一方。兵士達は本来の任務である帝都周辺の警備に戻してくれとしつこい。そして、テューレは、以前耳元で囁いてくれたような、「殿下なら出来ます」、「殿下を理解できない者の方が愚かなのです」と励ますような言葉を一切口にしなくなった。殴れば殴られたまま、責め立て犯し抜いても、ただそれを受け止めるだけだ。何も言わず抵抗すらしない人形のような彼女に、一時征服欲を満たしたような気になっていたが、それが何か重大な不足……そう、自分を満たす何かが失われたように感じらてますます苛立ちが高まるのである。
「何故だ、何故だ、何故だっ!」
ゾルザルの胸中に小さな囁やきがあった。耳を澄ませてじっと聞き入らなければ聞こえないような、とても小さな声だった。
「お前には、能力がないのでは?間違っていたのでは?」
「違うっ!!」玉座のゾルザルは、払いのけるように怒鳴った。
突然の怒声におののく侍従たちの視線を受けて、我に返ると呼吸を整えて玉座に腰を下ろすゾルザル。
自分は間違っていない。父を追い落として皇帝位に就くことにしたのも、父や講和派が帝国を余所の国に売り払うのを止めさせるためである。こうするしか他に手がなかったのだ。それに、自分が皇帝位に就くことは既定事項であった。予定より僅かに早くなっだけだ。
「俺は、間違ってなどいない」
ゾルザルは、問題をいっきに解決する方法を求めて懊悩した。
悪化していく状況、先送りしただけの問題。
物事には、何をどうしようとも事態が悪化していくだけという時がある。
こんな時は、軽挙妄動せず損害を少なくして、目の前の問題を丁寧に片づけながら、全体の風向きが変わるのを待つしかないものである。だが、人はそんな状況を、本来避け得た物であると思いたがり、誰かの失敗が招いた事態だと信じたがるのだ。そして、誰かに責任を押しつけ、状況を一気に好転させる秘策をどこかに求めて、一挙に解決を図ろうとして、かえって事態の混乱を深めてしまう。
そんな彼の元に、モルト皇帝がどこに逃げたかの報せが届く。
「前皇帝モルトは、西方、フォルマル伯爵領方面に向かいつつあり」
その決断は、もしかすると逃避だったのかも知れない。自分の面前に山積した問題から目をそらすための……だが、状況がゾルザルに合理的な理由を与えた。
「父上には、国庫の中身を返して頂かねばなるまい……」
帝都などにいるから、様々なことに煩わされるのだ。
こうして、新皇帝に即位して15日で、前皇帝追討の兵あげる。
しかし、それは前皇帝を追うには遅きに過ぎ、新皇帝としての権力を盤石なものにするためには早きに過ぎる出陣となってしまったのである。
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帝都から、西に向かう直近の道を避けて、わざと名もない間道を進む。
その道は山間部を抜けると、森に入り、川を渡って、谷に向かったのちにまた山岳部に入るという起伏に富んで、しかも蛇行する道であった。帝都から脱出したピニャはこの道を、皇帝モルトと共に、比較的ゆっくりとした速度でイタリカへと向かっていた。
ピニャに付き従うハミルトンは、後ろに長く伸びる荷駄や兵士の列を遠望して、ため息をついた。帝都から付き従う近衛を含んだ1万と2000の兵力と、拉致するかのように連れてきた官僚団達である。兵士は行軍こそが本領であるから文句は出ないが、官僚団の中でも地位が比較的低く徒歩での移動を余儀なくされている者などには、少しばかり不満の色が見えた。
「なんで、こんな道をわざわざ」とか「なんであんな遠くへ」と言った愚痴が耳に入ったこともあって、ハミルトンは周囲に聞こえるような大声で、ピニャの背中に声を投げつけた。
「殿下、どうして西へ?」
ピニャは振り替えもせず前方の山を指さした。すると疲労のために足元ばかり見ていた兵士達や官僚達も釣られるように視線を前へと向けた。
「見るが良い。この道ならば進むのも難しいが、追うのも難しい。もし追いつかれても、横に広がれない故に、小規模の兵力で敵の足止めが可能となる」
「いえ、私が尋ねているのはどうしてイタリカなのかということです。味方……騎士団主力と合流しようという企図は理解できますが、解りやす過ぎてゾルザル殿下から隠れるには不向きではないのでしょうか?もっと近くで安全な場所はないのですか?」
「皆も忘れているかも知れぬが、今帝国は戦争中だ。迂闊に兵力を集結させたり移動させれば、日本の攻撃を受けかねない。元老院の建物を吹き飛ばしたあの攻撃を妾は受けたいとは思わぬ。だが、フォルマル伯爵領ならば協定があるから、日本からの攻撃に関しては心配しないでよいのだ」
「なるほど、そういうことですか」
ハミルトンが大仰に頷くと、不平不満をこぼしていた官僚も自分が納得したような気になったらしく、少なくとも愚痴を口にすることだけは止めた。
ピニャはハミルトンと視線を合わせると、互いに含むような笑みを浮かべた。こんな腹芸めいたことを阿吽の呼吸で出来るのも、騎士団立ち上げから苦労ともに積み重ねてきたからであろう。
ピニャの手招きでハミルトンが馬を寄せると、ピニャは今度は周囲に聞こえないよう音程を下げて告げて来た。
「イタリカへ向かうのには別の理由もある。スガワラ殿から情報によると、兄様の兵が、協定を悪用してフォルマル伯爵領を隠れ蓑に使っているらしい。これの早急な排除が、協定継続の条件になってしまった」
「確かヘルム子爵でしたか」
「ああ」
ヘルムは、ピニャの騎士団の第一期生。
幼い頃から共に泥にまみれ、同じ釜の飯を食った仲なのである。だが、今はゾルザル麾下の将帥である。戦場で出会えば戦わざるを得ないだろう。だから、ハミルトンの「戦うのですか?」という問いに答えるのに、ピニャには少し時間が必要だった。しばしの沈黙を置いて、ようやく「そうせざるを得ないだろう」と答えた。
隊列の進行方向から、ゆったりとした行軍歩調と明らかに違う、けたたましい馬蹄の音が響いて来た。見れば、ボーゼスとニコラシカの二人だ。
「殿下!宿営地に適した場所を見つけましたわ」
1万2000の将兵と官僚千余名を含めた大軍が宿営できる場所を、この山間部で見つけることは容易ではない。ピニャは金髪の部下を「よくやった」と褒めると、彼女に領導させて、宿営地建設のための先遣隊を送り出した。
ハミルトンは、ピニャに命ぜられて、荷駄隊の警備を点検するべく隊列の後方へと走った。
代わるように呼ばれたのが、グレイ・アルドである。
ピニャはグレイに命じて部下を選ばせるとゾルザルの追撃を避けるための障害構築を命じた。この場では、主に倒木を用いた障害を作ることになるだろう。
これまでも橋を渡ればこれを落として、宿営したらそこに鹿砦を構築して道を塞ぐという、地元で生活している民や旅行者にとって実にはた迷惑な行為を繰り返して来たのである。が、場合が場合であるから仕方ない。これによって、追っ手があったとしても随分の時間を稼げたはずである。
「小官の目には、姫殿下のお姿が、何やら嬉しそうに映っておりますぞ」
テキパキと命令を発するピニャ。これに応じて立木を倒す作業に取りかかる兵士達。
軍隊の持つ雰囲気は、指揮官の気質が反映されると言うが、この時の兵士達には、敗走する軍につきものの暗さや悲愴感がなかった。どちらかという、勝ってその勢いに任せて進軍しているかのようにも見えた。高揚しているピニャの気分が伝染したかのようであるが、ならばピニャのその喜色は、どこから来るのかグレイならずとも知りたいと思うところである。
ピニャは自嘲的に笑うと、最も信頼する最先任下士官職に対してはボソッと本音を漏らした。
「妾が帝国軍を率いるなど、こんな時でなければあり得なかっただろうからな」
皇女でしかないピニャが、将軍達を差し置いて帝国軍を指揮を任されるなど帝国の軍制からすれば、本来ありえないことなのだ。だが、ゾルザルの反乱という混乱の事態が、ピニャに指揮権を与えたのである。
グレイは「あまり張り切りすぎては先は続きませぬぞ」と指揮官の補佐役らしい忠言を一言二言吐きながらも、主役の俳優達がこけて、思わぬ形で主役を得た万年助演女優がその力量を遺憾なく発揮できるように力を貸すことにした。
しかし、折角の初の主演舞台の演目が敗亡の悲劇では浮かばれない、とも思った。
「そんなことはない。妾はそもそも戦わずに済ますつもりだ」
「なんと。では、各地に呼びかけて兵を集めているのは何故に?」
ピニャは、ボーゼスから聞いた話だがと前置きして「日本で使われている『漢字』という文字では武力とは『矛を止める力』と書くのだそうだ」と語った。
「つまり相手の振るう武器を止めることが武力の本質だと言うのだ。妾はこれを聞いて、目が開かれたような気がした。今、陛下の御元に兵力を集めるのは、兄様を諫めるためだ。戦うよりは話し合った方が得策だと思って頂く」
「なるほど。ですが、思ったようになりましょうかね?」
「なるやも知れぬ、ならぬやも知れぬ。だが、妾はこれにかけてみたいんだ」
ピニャは、そんなことを言う。だが、もう話し合ってどうこうなる状況ではないことはグレイにすら解ることであった。端的な話、力尽くで帝都を奪うなんて事をしてしまった以上、ゾルザルは引っ込みがつかないはずなのだ。
もちろん、ピニャにもそんなことは解っているはずだ。彼女が諫めるだの、話し合うだの言うのは、祈りにも似た希望なのだ。だから、ここではあえて逆らわず合わせておくことにした。
「問題はゾルザル殿下ですからねぇ」
ピニャは、無言で嘆息すると馬の首を返して隊列の前方へと去ってしまった。
やはり姫様はわかってようだ。アルドはそのことに安心して、障害構築作業の監督に専念した。
ふと、思う。万が一ピニャが勝つようなことがあれば……。
「次期皇帝は女帝ということも」
そうなった暁には、自分が将軍?グレイの脳裏にそんなことが浮かんだが「身の丈に合わない」と、近衛の隊長あたりの自分を想像することに留めた。
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ベルナーゴ。
そこは、冥王ハーディを祀る神殿のある街として知られている。
冥府とは、一般的には死者の赴く地であると定義づけられている。感覚的には「あの世」であろう。場所は地下の奥深くにあると思われている。だが、実際にハーディが管轄する冥府とは「この世以外の全て」である。
「『この世以外』の全てとは、随分と管轄範囲が広いんだねぇ」
「それだけではない。時の神や、商売を司る神もハーデイの眷属神にあたる」
「ハーディは多芸よぉ。賢者で魔導師、そして商人という顔を持っていたそうよぉ」
これを聞いたテュカは「なんだか、レレイみたいね」と感嘆の声をあげた。レレイも、賢者で導師号を有する魔導師にして、アルヌス生活者協同組合の商人である。まぁ、その意味では今やテュカもロゥリィも、商人の枠に当てはまってしまうのであるが。
かつてハーディを主神として帰依する信者であったヤオと、ロゥリィが詳しいということで二人の解説を聞きながら、伊丹等一行は神殿に向かう道筋でベルナーゴの街を見物していた。
ロンデルで夜空を見上げること5日。確かに星がへんてこな動きをすることを確認したことで学会も、世界が歪んで来ていると言う説を受け容れたのであるが、その原因についての議論が紛糾したまままとまらず時間だけが過ぎていった。
10日も過ぎると、流石にこのまま議論につき合っていても意味がない言うことで伊丹とロゥリィは、渋るレレイを強引に説き伏せて次の訪問予定地であるこの街へと、やって来たのである。
宿を確保して車を預け、街に出てみれば神殿前は多くの参拝者でにぎわっていた。
その雰囲気は巣鴨の地蔵通りか、川崎の大師前、あるいは浅草寺の雷門前のように、土産物を扱う商店が立ちならぶ商店街といった感じである。
神殿と言うからどれほどご清潔で居心地の悪いこところかと思ったら、意外や意外、非常に俗世にまみれている。商店の一軒、二軒と覗き込んで見れば、どこにでも売っていそうな木彫りの置物や、金属製のカップなどに、ベルナーゴの神殿の意匠や、風景を刻み込んだレリーフの類が並べられていた。正しく、土産物である。
早速、土産物の物色を始める伊丹である。だが、なんだかこの街に来てから、ロゥリィが妙に気を張っていて、買い物とか、見物なんかは後回しという態度であった。伊丹の袖をぐいぐい引っ張り神殿へ急いでいた。
「おいおい、ロゥリィ。どうしたんだ?」
そんなことを問いながらも伊丹はロゥリィが気を張っている理由については思い当たることがあった。何しろジゼルとか言う竜神娘と、かなり派手にやり合っている。要するに、ここはロゥリィにとって敵地なのだ。構えるなと言う方が無理かも知れない。
神殿は、石造りの巨大な逆ピラミッドであった。つまり、四角錐の巨大な穴だ。そして、その最も底の部分から、さらに地底へと降りていく穴が開いている。
通常の参拝者はそこまでしか入れないと言う。見れば、白ゴスをまとったハーディ神殿の女性神官達が、参拝者に儀式を施したり、言葉を授けたりしていた。見れば男性神官もいるが流石に白ゴスは着ていない。
そんな中に、黒ゴス姿のロゥリィが立ち入っていくのは、坊さんの群れの中にシスターが入っていくようなものなんじゃないだろうかと、伊丹は考えた。しかも一度敵対して交戦している。だから、どれほどの敵を浴びせられるかと警戒したのであるが、ここの神官達や、参拝者も、ロゥリィの姿を見ても少しも驚いたり、倦厭する態度を取らず、慇懃な態度でロィリィの信仰を讃え、時にハーディに対してするのと同じように、敬虔な祈りを捧げたのである。
「冥王様に参拝しに来て、ロゥリィ聖下にまでお目もじ出来るなんて、なんて幸運」
そんな事を言いながら跪く参拝者に、ロゥリィは白ゴス神官と同じように、祈りを受けて、言葉を授けた。ハーディの神殿だからといって臆するところはまったくない。
実際に数多の神様が居る世界では、自分が主神として信仰する神でなくても否定することはないようだ。実際に居るのだから否定しようがないと言うことなのだろう。日本人が、正月を神社に行き、クリスマスを祝い、葬式を仏教であげることを気にしないのとよく似た寛容さが感じられた。
対するに、伊丹やテュカやレレイ、そしてヤオが、参拝するでもなくロゥリィを待っているのを見て、ここに来て祈りもしないとは何だろうと言う、非難めいた視線が浴びせられて実に居心地が悪い。
さらに、逆ピラミッドの底にたどり着いて、地底深くへと潜る階段を覗き込もうとして「近づかないで下さい」と、少し強めの口調で制止されてしまった。
だが、ちょっと見ただけでも、階段の奥は底が見えないくらいに暗く深かった。
「ロゥリィは、地面の下ダメなんじゃなかったか?」
「普段ならダメよぉ。断りもなく他の神が管轄する領域を侵すと、いろいろと問題が生じるわぁ。だけど、今回は大丈夫。ハーディ直々の招待状があるからぁ」
伊丹は、それで思い出したように、図嚢から黒い羊皮紙の手紙を取り出した。
黒いリボンに黒い封蝋で封緘されたそれを取り出すと、男性司祭が慌てたように前に出てきた。
「主上猊下からお召しのあった方とは気づかず、ご無礼を致しました。ささ、どうぞご案内いたします」
ここまで態度が変られるとかえって清々しい。
伊丹達は、ロゥリィを先頭に、長い階段を降り始めた。
伊丹の時計で10分ほど階段を下りただろうか。
そこに巨大な神殿があった。巨大な地下空間に無数の柱が立ち並ぶ光景は、雰囲気と言い、スケールの大きさと言い首都圏外郭放水路内に似ている。
司祭は、最奥の祭壇の前まで進むと、ロゥリィ達へと振り返った。
「主上猊下が、降臨されます」
神官達が、ざざっと膝を着いて祭壇に向かってひれ伏す。
闇を切り裂くスポットライトのような光が祭壇に注がれた。
すると、ロゥリィまでもが片膝をついて頭を垂れた。それを見て、伊丹も吊られるようにして膝を着いた。振り返るまでもなくテュカもレレイもヤオも同じようにしていることがわかる。
やがて、幻灯機で写しだすかのように、光の向こうに長い白銀の髪をもった女性が姿を現したのだった。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 56
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/02/10 19:29
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兵は、神速を尊ぶ。
だが、前皇帝モルトの後を追うには、もう遅きに過ぎていた。
今から急いだとしてもゾルザルが戦場に到着する頃には、モルトは自派の戦力を集結させている。そして5万の戦力があったとしても、長駆して疲労困憊している状態では、充分に休養をとって待ち構えている1万2000に勝つことも難しいことは、誰にでも理解できること。
だからだろうか、ゾルザルはあえて常道に反する方法を選択した。
帝都守備に1万の戦力を残すと、全軍を率いて一旦北へと進んで、あえてイタリカから離れるような進路をとった。そしてグァド、トリポロール、セ・フェルミナといった中小の都市で、それぞれ数日間ずつ宿営しながら、ゆっくりと弧を描くようにして西へと移動したのだ。
何故そのような進路をとったのだろう。
理由の1つは、資金の確保であろう。
帝都を出る段階では、ゾルザルは麾下の大兵力を養うだけの資金と糧食を充分に集めることが出来なかったはずだ。だから、周辺都市で物資の徴発と臨時の徴税を行い、十分に懐を満たした上で戦場に向かう心づもりであったと推測される。
もし、彼に為政者としての責任感があれば、後々のことを考えて、住民から恨みを買うようなことはしないものである。だがゾルザルはあえてそれを行った。勝たなければその先はないのだから、まずは勝つことが全てに優先する、と言う考え方も確かに合理的だ。とは言え、そのような略奪まがいの苛斂誅求が出来るということが、結局のところ権力を得ることそのものが目的であることを露呈することになるのである。何かを成し遂げたり「国や民を守るため」に権力を求めるなら、合理的だからと言っても出来ることに自ずと限界が生じるのだから。
実際に、ゾルザルの行為によって、これらの諸都市群の経済力は徹底的なまでに破壊されてしまい、後の為政者が大変な苦労をすることになるのである。
ところが、これ以降のゾルザルの動きは、資金集めだけで説明することは困難であった。懐を充分に暖めたのに、サイナスという都市近くに宿営地を建設すると、もうイタリカに近づこうとせず、それでいて帝都に戻るわけでもなく、まるで何かを待つかのように、じっと動かなくなった。
これは明らかにおかしい。
時間をかければかけるほど、帝国内の各地に散らばっている前皇帝派はイタリカに集結する。軍事的な解決を志向するなら、時間はゾルザルにとって敵の筈なのだ。ゾルザルにとって最大の勝機とは挙兵直後だった。帝都を脱出したモルトを遮二無二追って捕らえてさえいれば、彼の権力は盤石なものにすることが出来たのである。
しかし、ゾルザルは軍事的な決戦よりも、皇帝としての権力基盤を確立する方法を選んだ。これもまた方法論としては間違ってはない。軍事的な解決は、常に博打的要素を伴うからだ。それよりも確実を期して、帝都を抑え『正統』たる立場を確保することで、各地の地方軍の司令官に恭順か更迭かと迫っていけば、前皇帝モルトとそれに従う者の勢力をそぎ落とすことも可能だ。モルトに従う者が現場を放棄して、その下に駆けつけるということは、帝国の各地におけるモルトの支配力は低下すると言うこと。実効支配力を失えば、前皇帝派は時間と共に立ち枯れて行かざるをえない。最終的に一か八かの軍事的冒険へと追い込まれるのは、モルトの側となるのだ。
ところが、ゾルザルはその手段を徹底することもなく中途で方針を転換し、軍事的な決着を期すことを選んで帝都を出撃した。そして資金や物資の目処もつけた。ならば、もう時間をかける必要はない。決戦を求めて、イタリカに突き進んで来てもよいはず。
「兄様は、いったい何を待っていると言うのだろうか?」
フォルマル伯爵領に到着して、ヘルム伯爵以下のゾルザル軍ゲリラ掃討作戦の指揮をとっていたピニャは目前の地図に描かれた戦況よりも、遙か後方のゾルザルの動向に気を揉んでいた。ゾルザルが何を考えているのか、何をしようとしているのか、そればかりが気になっていた。
ヘルムが、ピニャとの戦闘を避けて逃げてしまい、戦闘らしい戦闘は起きなかったこともあって、幕僚達の醸し出す空気は戦時下のそれにはほど遠いものであった。
余裕というか、おだやかというか……ボーゼスなどは、見ている側の口まで酸っぱくなりそうな柑橘の実を、籠に山盛りにして皮ごと囓っていた。最近、嗜好が変わって酸っぱいものが好きになったと言う。ニコラシカあたりに、妊娠でもしたんじゃないか?と揶揄されて、「そうかしら。だったら面白いわね」などと、軽く流すような態度だったため、かえって皆に大したことではないと受け止められている。
「殿下。ゾルザル様は、戦力の増強に努めてらっしゃるのではないでしょうか?」
ボーゼスは、親指に着いた柑橘の汁を、ぷっくりとした唇でちゅぱっと舐めると、自分の見解を告げた。
「確かに、その可能性は高いな。資金的に余裕が出来たのなら、集められる限りの戦力を集めようとしているのだろう」
「だが、どうやって?兵士は湧いて出てくるわけではないぞ」
パナシュは、ボーゼスから漂う柑橘の香りに酸っぱそうに眉を寄せて唇をすぼめた。そして、ゾルザルが戦力を増強しようにも難しい理由を説明する。
「俸給を契約通りに支払わなかったと言う噂はもうあちこちにまで広まっている。そうなっては、傭兵達はゾルザル殿下を信用しないはずだ」
そんな彼女たちの会話に割って入る太い男声があった。グレイ・アルドである。
彼は最先任下士官として軍議に参加して意見を述べる資格を有していたし、彼の積んだ実戦経験や、兵についての理解を、ピニャ達は貴重なものとして尊重していたから、このような場にも呼ばれる。ただ、女性が圧倒的に多いという場の空気が彼には、どうも居心地が悪いらしく、軍議の時は天幕の片隅で大人しくしているのが常である。そんな彼が珍しく口を開いたものだから、ピニャ等は一斉に彼に注目した。
「小官の記憶によりますと、古来より味方の兵力を増やすには、敵から引き抜くという方法が多用されていたかと思いますな……」
確かにあり得る話である。ゾルザルの現状に当てはめるなら、地方軍の将兵を自派へ引き寄せる工作をしていると言うことになる。
「とは言え、皆父上に任命された者ばかりだ。兄様に従うとは思えないが」
「それを、なんとかするのが調略と申すもの」
確かに、モルトの呼びかけに対する帝国地方軍の司令官達の腰は重かった。
大半が「国境の安全が確認でき次第」とか「帝都の動乱に、地元住民も動揺を強めていて、今軍を動かせば反乱が起こりかねない」といった理由をつけて、動かないでいる。これらが皆、ゾルザルからの調略を受けているために旗幟を鮮明にしていないとするならば……。
ここまで考えたピニャは、モルトの天幕へ赴いた。
だが、彼女の父は、慌てふためく娘を見ると呆れ果てたように告げた。
「ピニャよ。余が座したまま、何もしてないと思うのか?」
「いえ。ですが……」
「うむ。皇女たるそなたに軍事をあえて任せたのは、ゾルザルを廃した後のことを考えてのことだ。だが、何もかもそなたに押しつけて、余がただ伴食の身に徹していると思われたのなら心外な事よ。なあ、マルクス伯」
マルクス伯は「はい、陛下」と恭しく一礼した。
帝国の法制上はすでに廃位されたモルトであるが、マルクス伯からすればモルト以外に皇帝は居ない。依然として皇帝はモルトであり、マルクスは内務を取り仕切る大臣なのだ。
マルクス伯は、皇帝に成り代わってピニャに対して現状の説明を始めた。
「殿下。実のところを申しますと、現在の状況は皇帝陛下が予想した範囲内に、おおむね収まってございます。流石にゾルザル殿下があのような時期に暴発されるとまでは予測できませんでしたが、それ以外については、想定の範囲内でございます故、既に対策を講じ終えております」
「対策と言うと?」
モルトは、にやりと笑うと告げた。
「地方軍の司令官達にはあらかじめ、このような事態に陥った場合どのように振る舞うか指示を下して置いた」
「では、各地の司令官達の腰が重いのはどうしてなのでしょうか?」
「擬態だ。伝令が、ゾルザルに捕らえられる恐れもあるでな。すでに治安維持や、国境守備に必要な戦力は残してこちらに向かっている筈だ。そろそろ近くまで来ておるだろう」
「で、では兄様が、サイナスに留まってままなのは?」
「察するに、地方軍の司令達より、色好い返事を貰ったつもりになって、集結して来るのを待っているのであろう。待ちぼうけになるとも知らずにな」
地方軍が集結すれば、その数は6万に達するだろう。
元からの1万2000に併せれば実に7万2000の戦力となって、ゾルザルの4万を軽く凌駕できることになる。勿論、ゾルザルの戦力が4万のままと言うこともないだろうが、多少増えた程度では戦力的にはほぼ互角だ。そうなれば、戦いは博打の要素がさらに高くなる。どちらかが一方的に勝つという状況でないのなら、ゾルザルとモルトの双方を、話し合いの席に引っ張り出すことも出来るかも知れない。
だが、こうも手回しがよいとなると、どうしても湧いて来る疑念があった。
「父上……いえ、陛下。陛下は、兄様がこのような暴挙を起こされることを知っていて放置されたのですか?」
以前ディアボが推測したことだが、皇帝モルトは、自己の権勢を維持するために、ゾルザルを生贄の羊としているのではないかと思えるのだ。
モルトは、「いくつか予測した状況の1つ、ではある」と重々しく答えた。
ピニャは、皇帝の言葉の裏にある、本音の気配を感じたが、あえてそこまで踏み込まず逆に次のように言葉を投げかけた。
「では兄様が此度のような暴挙を起こすと知っていて、わざと見逃したと言うわけでは無いのですね?」
「備えることは結局不信を告げることになる。そして、それが暴発を誘発する可能性もあった。余としては、何もすることが出来なかったのだ。そして状況だけが、悪い方へ悪い方へと進んでしまい、今日ここに至ったという次第だ」
モルトの深々とした嘆息に、マルクス伯爵も同調したように頷いた。だが大仰なそれがいかにも芝居がかっていてピニャの癇に障った。
「父上から、兄様へ差し伸べる手はないのでしょうか?」
「ゾルザルには、既に機会を与えた」
己を殺して父に素直に従い平穏に皇帝位を継承する機会と、父に逆らって、しかしその実、父の思惑に乗って武力で皇帝位を得ようとする二者択一……と言うことだろう。だがそれは皇帝としてのもので、父としてのものではないように思える。
「妾にはわかりかねます。それが父上からの兄様に対する情愛なのでしょうか?」
「父親が我が子に向ける情愛など、解り難いくらいが丁度良いのだ。余としては与えたつもりだ。それを手にしなかったのは彼の者だ。余にも矜持があるから、これ以上機会を与えるつもりはない」
ピニャとしては、父が皇帝としてそう言う以上、深追いするつもりはなかった。
何を言っても帰って来る言葉は同じだろうし、かえって言いくるめられる結果となりかねない。
それに、モルトの言い様からするならば、この男はピニャにすら選択肢を与えている。この状況で軍権を与えていることがその証左だろう。だが「力ずくで奪うか、それとも素直に従って父から与えられるのを待つか」と言う、二者択一に嵌められること自体、面白くなかった。
皇帝がそのつもりならば、ピニャにも考えがある。皇帝の意表をつく第3の選択肢、ゾルザルとの和解を本気で追求してみたくなった。
ピニャは父の前を退出した後、ハミルトンを呼び寄せる。
「極秘に命じたいことがある」
何事か耳打ちされたハミルトンは「わ、私には無理です。それに、皇帝陛下に知られます」と反駁したが、ピニャは「お前の交渉力なら大丈夫」と安心するように促した。
「しかし、前に上手く行ったのは偶々の偶然で……それに、誰にも気づかれないように出かけるなんて」
「今宵、斥候を多めに放つ。それに紛れれば、目立たずに出られるはずだ。やってくれ」
「か、かしこまりました」
こうしてハミルトンは、慌てて支度を整えると、各地に放たれる斥候達に紛れるようにしてピニャの陣営から姿を消したのである。
多数の部隊が近づきつつあるとの報が、ピニャの元に届きだしたのはその翌日以降である。
当初は、近接する軍の正体が判別せず、緊迫した時が流れた。
斥候から寄せられた報告が「所属を示さない軍勢が、どこそこ街道を南進している。その数1万」と言ったものであり、さらにこれらの報告を集計すると、総戦力で15万、あるいはそれ以上の戦力が、付近を移動していることになってしまうからである。
いくら帝国地方軍が集まるにしても、それは多すぎであった。
だが、しばらくして「あと、数日でそちらに合流できる。所属を示さないのは、反乱軍と不意の遭遇戦とならないようにするため。誤解無きように」と言う地方軍の司令からの連絡が入りはじめたことで正体が判明して、一同は、ホッと胸をなで下ろすことが出来た。
ボーゼスとパナシュの二人は、「きっと、放った斥候が多すぎたんですわ」と苦言を呈し、グレイは「小官が愚慮いたしますと、きっと、同じ軍を見た複数の斥候からの報告が、別々に数えられてしまったのでしょう。何事も過ぎては良くないということですな」などと、求めていない説明をしてくれて、本当のことを言うわけには行かないピニャとしては、平身低頭に平謝りするしかない。
「いや、すまない」
ハミルトンが誰にも気取られず、出発出来たことだけが救いであった。
モルト皇帝の元に地方軍がそろったのは、この4日後。総戦力は予定よりやや多い8万となった。
ピニャは、全戦力をゾルザルが宿営地としているサイナスへと向けた。
これは、いよいよ兄に対する軍事行動という意味でもあるが、同時に、兄が頼りにしている内応者は無く、地方軍のほぼ全てがモルト皇帝に付いたことをはっきりと示して希望を断ち、これによって話し合いの席に兄を座らせようと言う意図もあってのこと。
「兄様は、もう勝てないのです。我を張るのは止めてください」
これがピニャが、兄を観念させるべく突きつける脅しの剣であった。
だが……。
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イタリカを出て3日後。
ザラの平原で、ゾルザル軍と会敵した時、ピニャは己の目を疑った。皇帝モルトすら顔面を蒼白にして、声も出なかったほどである。
平原を埋め尽くす無数の兵の群れ。ゾルザル軍は、およそ15万に達する数となっていた。
ボーゼスとパナシュが、物見の兵を放って敵の構成を調べさせてみると、主力はゾルザル率いる帝国軍5万であるものの、それ以外は、全て帝国周辺諸外国の兵ばかりと言うことである。
裸馬同然の馬にまたがる騎馬民族の軽装騎兵。
重厚な鉄の装甲を絡い突き進む装騎兵。
大空を舞う翼竜に騎乗する竜騎兵が編隊を組んで空を舞う。
毫象が、まるで城壁のごとく連なって進む戦象部隊。
剽悍な南国兵達。
方形の鉄楯を連ね、一糸乱れぬ進軍で進む重装歩兵。
林のように長槍を並べた槍兵。
そして、人馬の間に紛れるように蠢くオークやコボルト。
かつてアルヌスを攻めるために集まった連合諸王国軍の兵達がここに再び集っていた。
「ふふ、父もピニャも今頃驚いているであろう」
ゾルザルは、全軍の作戦指揮官に任じたヘルム伯爵へと語りかける。
ギリギリまで総戦力を見せないように隠し、会敵寸前になってこれを集結するという荒技を成功させたヘルムは、諸侯を前に作戦についての最終確認をしていた。だがゾルザルの言葉を聞くと、それを中断して「モルトも、驚いて言葉もないことでしょう」と応じた。ヘルムばかりではない、集まった諸侯達の視線もゾルザルへと注がれた。
ゾルザルは、あえてヘルムが「モルト」と強い調子で先代皇帝を呼び捨てにした理由を察すると、モルトとはもう今日限り父子の縁を切ったと宣言する。
「ゾルザル陛下」
「陛下」
見渡すと諸侯国の若い王や将軍達が立ち並ぶ。
皆、アルヌス攻略の連合諸王国軍に参加して、無為に死んでいった諸侯や将軍達の子弟達である。
「陛下から、我らの父の死が、実はモルトに謀られたが為と知らされた際は、驚きました。帝国をお恨みも致しました。が、共にこれを討とうと言う呼びかけを頂けましたことは、望外の喜びです」
「先代とは言え、帝国の皇帝の為したことだ。現皇帝として謝罪の言葉を述べなければならぬのに、どうして感謝などもらえようか」
「しかし、陛下の父君を……」
「いや、言うな。モルトは既に我が父ではない」
それぞれ芝居がかった調子のやりとりではあったが、その場に集った者達にとってはそれなりに意味があり、戦う意義の再確認でもある。
作戦はすでに周知されており、あとは戦機を待つばかりだ。
「では、諸君。また後で会おう」
それぞれに挨拶を交わして、諸侯国の王達は自らの軍へと戻っていった。
対するピニャは、自軍の倍近いゾルザルの軍を遠望して暫し呆然自失していた。だが、精神的再建を果たすと、全軍に臨戦態勢をとらせるべく命令を次々と発した。
やられた!!
とは、思っても口にはしない。
弱気は伝染するからだ。ここで、指揮官が動揺した態度を見せれば士気は瞬く間に崩壊してしまう。
既に敵陣に戦意有りを告げる紅幌は舞っており、彼我はすでに指呼の距離にある。今すぐ、後ろを向いて逃げるという選択肢も、確かにあるが、それをしたら再起は永久に不可能となろう。
とは言え8万対15万。普通に考えれば勝てるはずもなく、どうするか一応モルトに尋ねてみるピニャであった。次兄のディアボと同じように、日本に亡命する選択肢もあると付け加えて。
モルト・ソル・アウグスタスの答えは拒絶であった。断じて戦うという。
「内戦で外国の軍を引き入れるとは言語道断。よくぞまぁ、講和論者を売国者などと誹れたものよ。己が一番の売国行為をしているとどうして解らぬか……あそこまで馬鹿とは思っても見なかった。ピニャ、ここで退いてはならぬ。目に物を見せてやれっ」
「いくらなんでも無理ですって……」
唾棄しかけたピニャであるが、逃げないなら戦うしかないのも確かなのである。
これだけの戦力差がついてしまっては、今更講和だの話し合いだの申し出ても、結局は全面降伏でしかないだろう。ピニャとしては、ゾルザルとの講和に未練はあっても、ここはもう断固戦い抜くしかない。
ピニャは、軍を横陣に展開させると、本営を中央後方に据えた。
敵が動き出すのと、展開が終わるのとがほぼ同時ということで冷や冷やしたものの、どうにか間に合わせることに成功したピニャは、全軍に守勢を堅持し、攻勢は控えて損耗を極力防ぐように指示した。
整然と列ぶ兵士達。
皆、戦いの緊張に身を堅くしている。楯を持ち、弓を持ち、剣をもつ。それらに命を託して前後、両隣に列ぶ僚友達を守り、守られて戦うことになる。
「アルグナ!前進!!」
号令を受けた、ゾルザル陣営アルグナ王国軍8000の将兵が行進するかのごとく歩調を合わせ前進を始めた。その頭上すれすれを翼竜にまたがった竜騎兵が翼を連ねて通過していった。
モルト陣営の兵士の顔が判別出来るくらいにまで迫ると、いよいよ敵方にも動きが見られた。立ち並ぶ弓箭兵達が矢をつがえて空に向かって一斉に放つ。
上空に舞った矢によって、空が一旦薄暗くなった。
アルグナ兵達は、楯を天へと向けて空を覆う。その直後まるで土砂降りのごとく降り注いだ矢玉が楯へとぶつかって甲高い音をたてた。その内の数本かは、楯をも貫いて兵士の腕や、顔を傷つけ、そこかしこで苦痛の叫び声が上がった。
アルグナ王国軍の隊列の脇を、モゥドワン王国の軽騎兵が快速を生かして駆け抜けていく。防備の薄い弓兵へと矢を振らせ、攻撃の矛先を逸らそうとする。そして、その間に重騎兵達が槍先を揃えると、果敢に突入して弓兵を蹴散らした。
その隙間を埋めるようにオークやコボルトの群れが嗾けられ、黒蟻の大集団の如き勢いでモルト陣営の戦列に突入した。槍の穂先は陽光に輝いて、剥き出しにされた闘志が圧倒的な破壊力で歩卒の壁に叩きつけられる。
騎馬隊の突撃力を正面から受けては弓兵に抗しようがない。騎馬と剽悍なオークに攻め立てられた弓兵達は、堪らず後方の重装歩兵の列へと逃げ込んだ。
重騎兵とオークを阻んで迎え撃ったのは厚い楯と、長い槍先であった。
重い馬体の突進にモルト陣営の歩兵は長槍を揃えて迎え撃つ。
剣山のごとく並べられた槍は、騎兵集団の鎧にあたってへし折られ、騎馬の馬鎧にはじかれる。だが、その内の数本は馬の脚を払い、馬体を貫き、騎兵の胴を刺し抜いた。
騎兵は馬の重量そのものを武器にして歩兵を踏みつぶし、のしかかっていこうとしたが、互いに傷つけあっては戦いを続けようもなく、砂埃を巻き上げつつ大地へと横たわる。そこへまた後続の騎兵が突入し、後続の重装歩兵が楯を並べてまた防ぐのだ。
モルト陣営の頭上を竜騎兵が飛び交い、投げ槍を投げ下ろす。油の入った壺に火を放ち投げ落とす。
兵士が槍を受けて大地に縫い止められ、火だるまとなった兵士が、地面を掻きむしるようにして悶えた。
弓兵から散発的に反撃の矢が上がってくるが、そうそう当たるものではない。
よしんば当たったとしても、翼竜の鱗は矢など受け付けない。空を舞う竜騎兵は、ほぼ無敵と言われる所以であった。だが、如何せん数が不足していた。アルヌス攻略戦によって、練達の竜騎士と翼竜の双方を多く失ったためである。これによって彼らは戦局を大きく左右する程には、力が発揮することが出来なかったのである。
アルグナ王国軍の隊列は推し進む。
金属の擦れ合う音とともに、兵士達は互いに肩をふれあうほどに密集して、号令が命じるままに歩みを進めた。前に、横に、後ろの僚友に推されるようにして脚を前に出す。僚友の肩の隙間から見える前方には、地平線が広がっていたが、その手前には、敵陣が見えて、敵愾心を剥き出しにしたモルト陣営の兵士達が待ち構えていた。
ピニャ率いる、モルト陣営も負けては居ない。
ゾルザル陣営兵士と楯をぶつけ合い、渾身の力で押し合う。
互いに力が拮抗して前進が止まると、楯を跳ねあげてその下をくぐらせるようにして剣を突きだした。狙うのはゾルザル軍兵士の脚だ。これを切り払って大地を血に染める。
悲鳴をあげて倒れていくゾルザル軍兵士。モルト軍兵士はトドメを刺すべく倒れた敵の胸に剣を突き立てた。その、しゃがみ込んだ隙を狙って後続のゾルザル兵が襲いかかろうとするが、モルト兵にも後続は居る。楯を上から被せるようにして敵の剣から味方を庇うのだ。楯の縁で殴りあい、楯の楯の頭越しに剣先を突き刺す。血しぶきが舞い、鉄錆にも似た臭いが辺り一面へと広がった。
従軍魔導師による炎が、ゾルザル陣営の兵士等に叩きつけられた。
重装歩兵達の列に目立たないように混ぎれている魔導師達は、後方から敵集団の指揮官とおぼしき者を選んで攻撃していく。
人垣に隠れていた指揮官は、炎を浴びせられると周囲を巻き添えにして倒れた。指揮する者を失ったゾルザル陣営の歩兵小隊や騎馬隊は、互いに連携をとることもできなくなり、周囲を取り囲まれて倒れていく。
急激な眠気に戦場の真っ直中だというのに昏倒してしまう者。精神に失調を来して、味方に斬りかかる者。空気の刃によって、首を切り裂かれてしまう者が続発する。
だが、広い戦場の中における、一部の善戦も全体の勢いを変える力はない。数の劣勢はいかんともしがたく、モルト陣営はじりじりと後退を余儀なくされていた。
ピニャは前線の部隊から、自暴自棄にも思える攻撃許可要求を拒絶し固く禁じながら、戦線のほころびは繕い、疲弊した部隊は後ろに下げて控えの部隊を前に出すという作業を淡々と続けていた。
「毫象部隊が前に出てきました」
監視兵の報告に、ピニャは振り返る。
「ボーゼス、パナシュ、ニコラシカ!!マドラスの毫象部隊は、任せるぞ」
「はっ!」
金色の髪をたなびかせたボーゼスが白馬にまたがる。
パナシュがも遅れず黒馬にまたがると、配下の騎兵達を率いて、陣営の右側を大きく迂回するようにして、戦線の右側面へと出た。
見えるのは、大地を轟かせる毫象部隊200頭あまり。
モルト陣営の歩兵は蹴散らされ、毫象にまたがる兵士によって放たれる弓によって次々と射倒されていた。
「黄薔薇隊!!吶喊!!」
快速を生かしたボーゼス率いる騎兵集団が、風のように襲いかかった。
毫象とまともにぶつかっても勝ちようないことは解っている。だから、駆け抜けざまピンヒールの踵で痴漢のつま先を踏み抜くかのごとく、象の足へ槍先を突き立てるである。
いかな毫象とは言え、その巨体を支える脚は僅かに4本。これを傷つけられれば、その重量が災いすることになる。毫象は、我が身を支えられず、土埃をまきあげながら大地へと倒れていった。
倒れた毫象は、もう起きあがることも出来ない。ただの射的の的と化した。投げ槍や、弓矢によってたちまち射殺されていった。
だがそれよりも始末に負えないのが、中途半端に傷つけられて恐慌状態に陥った毫象だ。パナシュ等白薔薇隊によって、追い立てられた毫象は御者を振り落としながら、味方の陣列へと突っ込んでいってしまう。
毫象にまともに突っ込まれたら最後、あらゆる物がはじき飛ばされてしまう。人体などはいかに鎧を纏おうとも、血の入った肉袋となってしまった。
「何をやっているかっ!」
戦場を遠望していたゾルザルが怒鳴った。だが、ヘルムは淡々と語る。
「毫象対策は騎士団ではかなり昔に研究した戦術でした」
「では、こうなると解っていて、何故毫象など用いる」
「使わなければ、ミルダ王の出番がございません。折角遠路はるばる、毫象などを引き連れてお出で頂けたのですから、役に立たないと言って控えさせては、ご機嫌を損ないかねません。ならば、序盤早々に出番を与えまして、早々に退場して頂ければよろしいかと思いました。戦後の外交を考えますれば、致し方ないことかと」
ゾルザルも二の句を告げないヘルムの言い様であった。
ミュドラが困ったよう呻いた。
「被害甚大だな」
「だが、我が方の有利は変わらない」
実際、毫象によって混乱した戦場が再び落ち着きを取り戻すと、ゾルザル陣営の兵士達は数に物を言わせて、再び勢いを取り戻していった。
戦闘が始まっておよそ6時間が過ぎた。
ゾルザル陣営による圧倒的な有利は変わらない。ピニャの陣営は戦闘開始以来、守勢を強いられて、ゾルザル率いる諸王国軍の苛烈な攻撃に晒され続けていた。
それでも、戦線は崩れることなく維持されている。乱戦とならず秩序だった戦いが維持されているしぶとさに、ゾルザルも、実際に兵を指揮するヘルム伯も驚嘆の思いであった。
「敵とは言え、流石は帝国兵といったところでしょうか?実にしぶとい」
戦線を遠望していたカラスタ侯爵は、天幕に戻ると机上に置かれたパンをちぎって口に運んだ。ゾルザルやヘルム、ミュドラなども皆食事をとっていた。
「我が国の兵が弱いはずが無かろう。だが、こうして敵に回すと困ります」
ミュドラの言葉にヘルムは嘆息して干し肉を口に運んだ。
ヘルムとて様々な試みをしてきた。各国の重装騎兵を糾合してこれで中央突破をはかったり、軽騎兵を両翼に走らせて包囲を試みたりである。これによって、ピニャの動揺や戦線の崩壊を狙ったのである。だが、その都度、要所要所に痛撃を受けて、全ての試みが頓挫していた。
短性急に成果を得ようとして損害を出したことに懲りて、現在は手間暇かかっても量の圧力で押し切る方針である。
損耗は、積極的な攻勢に出ているゾルザル陣営にやや多目に出ている。
双方の残存戦力は、モルト陣営約7万3500に対して、ゾルザル陣営約13万9000であった。
一方、モルト陣営も食事時であった。
持久戦に徹するピニャの命令で、待機している兵にも満腹にならない程度のパンと水が配られている。
だが彼女の天幕では、料理人が調理しての本格的な食事が出されていた。戦場に食欲を刺激する炊煙と、香ばしい肉汁と香辛料の香りが漂っていた。給仕には従卒の少女や少年達がついており、食事時の優雅さという点では、ゾルザル陣営を遙かに凌駕する贅沢さである。
幕僚達も相伴して食事をとっているが、会話もなく、皆静かにして手と口とを動かすだけである。ただ、ボーゼスとパナシュが二人して目配せしたりして、何かの役割を押しつけあっている様子に気づいて、ピニャが沈黙を破った。
「どうしたんだ?二人とも」
パナシュは仕方なさそうに告げる。
「殿下、そろそろ、こちらから攻撃をしたりしてはいかがでしょう?側面を衝くとか、迂回して背後に回るとか、食糧を焼くとか、いろいろと手があると思うんですが」
「ダメ」
「なんででしょう?」
「妾は待っているのだ」
「何を待っておられるのですか?」
「内緒だ」
ピニャのつれない態度にボーゼスとパナシュは肩を落とす。
「悪く思うな、妾も、五分の掛けと思っているところなのだ。間に合ってくれれば……」
バッと天幕の戸口が開かれたのは、ピニャがそこまで語った時であった。
「殿下、お待たせいたしました」
見れば、埃まみれた姿のハミルトンが立っていた。ピニャは食卓を立つと、ハミルトンの前まで出て彼女の手を取る。
「待っていたぞ。で、首尾は?」
「なんとか。ただ条件が付けられてしまいましたが……」
「条件とは?」
「実行犯の身柄です。この場合、ヘルム伯らになりましょう」
「この際だ、受け容れよう。よくやってくれた、よくやってくれた」
ピニャはそう言って、ハミルトンの背中を何度も叩いたのだった。
モルト陣営に変化が起きたのは、それから暫くしてのことであった。
戦線で奮闘中の兵を置き去りにするかのように、本営を含んだ控えの兵達が後退を始めて丘を登って稜線の向こう側へと去って行こうとしているのである。
その様子を遠望した、ゾルザルやヘルムは、いよいよ勝ち目無しと見越したモルトが逃げに入ったと思った。卑怯にも戦場で戦い続ける兵を置き去りにして逃げていく。
「モルトを逃がすなっ!追えっ!」
ゾルザルの命令に、カラスタは軽重騎兵のほぼ全てとなる約3万騎を率いると、これを追うべく突進を始めた。
それはまるで突堤を破った瀑布の如き勢いだった。戦線を迂回して、前皇帝モルトを追うべく丘を駆け上がっていく。その勢いは、多少の上り坂でも緩むことがない。騎馬民族の軽装騎兵が快速を生かして、指揮者たるカラスタを追い抜いていくことがまた頼もしい。
竜騎兵が、上空を征く。
「進めっ!進めっ!!モルトを捕らえた者への恩賞は好きなだけやるぞ。一兵卒でも、貴族にとりあげてやるっ!!」
カラスタは声を張り上げて、剣を前へとかざす。
目の色を変えて突き進む諸侯国の騎兵達。
丘を登りきり、今度は下る勢いに任せていよいよ加速しようとする彼らが見たものは、ずらっと鼻先を揃えて待ち構えている百にも届こうという数の、鋼鉄の戦象群であった。