[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 51
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/01/13 21:05
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「喧嘩だ、喧嘩だっ!!リンドン派の魔導師同士の喧嘩だっ!」
「しかも二人とも女だってよ」
「片方はあのアルペジオ女史だ!」
「なんだって、それホントかよ!?」
こんな感じで、リンドン派の魔導師二人が対峙しているという噂は、街の学徒達に風のごとく、瞬く間に駆けめぐった。
しかも当事者の片方は、いろいろな意味で鉄楯と称されるアルペであり、学徒達の興味を惹かないはずがない。期せずして戦場として選ばれたマリナの店前路上は、次から次へと集まって来る物見高い野次馬学徒達で溢れるかえることとなったのである。
ウェスタン映画の決闘シーンのような感じで、一本の道路の東側に立つはその美貌と抜群のスタイルで名高いアルペジオ・エル・レレーナ。カトー先生にボン、キュ、ボンと形容された肢体は見事なまでの曲線を描いて、男性一般の視線を理不尽なまでの魅力で惹き寄せている。
対する一方の西に杖を立てたのは、この街ではまだ知る者の殆どない15才(もう少しで16才)の新人レレイ・ラ・レレーナ。今までは「まだまだこれから」と称してきた性徴もいよいよ本格化して、肢体のラインは日々艶めきを強めている。その手の趣味がない男性でも、今ではそれなりの魅力を感じるだろう。
歩いて10歩ほどの距離を開いて対峙する姉妹の間を、砂塵が風にふかれて舞う。ちょうどいい感じで、藁球なんかがコロコロと転がっていった。
両者の背後では、往来の荷馬車が立ち往生している。
すなわち、はっきり言って通行妨害なのだ。しかし御者達はちょうどよい見せ物だくらいに思ってか、かえって喜んでいる様子。いろいろな意味で世知辛い、どこかの世界の人々と較べて、実におおらかで余裕の態度と言えるだろう。
「あの子、誰だ?お前知っているか?」
人々は、高名なアルペに対峙する、無名の少女についての情報を求め、ひそひそと語りあった。
「あの子の着てる服、法服だろ?なんだって、あんなに汚れてるんだ。学会は明日じゃないか」
白いローブの意味はこの街に住まう者なら誰でも知っている。ドロでも跳ねて汚しては大変と、近づくことすら躊躇するくらいなのだ。なのに少女の着ている白いローブは、真っ赤なシミが大きく広がっている。学会で汚れたなら、審査に不合格であったという恥辱を意味するが、今日の時点で汚れているのは話が違うのである。
「なんでもスープを頭からぶっかけられたらしいぜ。やったのはアルペジオ女史だってさ」
レレイのローブについたシミの正体は、真っ赤な果実野菜を煮込んだスープであった。肉と野菜がとろけるほどに一昼夜かけてじっくり煮込まれ、骨からにじみ出たダシの味が深い旨味たっぷりのスープである。その滋味深さは、ちょっとやそっと洗ったくらいではシミが落ちないばかりか、かえって広がるほど。
「そりゃ怒るわ。決闘にだってなるだろうさ」
学会で導師号の審査に挑む者は、寸毫の汚れもない法服を纏っていくことがしきたりである。厳正な学会に汚れの付いた法服など纏うことは許されない。そして白い法服は成人式の晴れ着、あるいはノーベル賞授賞式の燕尾服みたいなものの為、高価であり、通常は一張羅として予備など用意しないものなのだ。よしんば、金銭的な余裕があったとしても、今から手配していては間に合うものではない。
「でも、なんだってアルペジオ女史、そんな酷いことしたんだ?」
「妬いたんじゃないの?」
自分より遙かに若い少女が、導師号に挑もうとしていることに対する嫉妬であるというのが、人々の推察した決闘に至る事情である。確かに、その通りなのだが、そのように簡単に切って棄てた言い方は、アルペジオとしては実に不愉快であった。
何故なら、彼女がそのような暴挙に至る原因が嫉妬だとしても、やはりそれなりの理由が経緯というものがあったからである。
アルペジオ・エル・レレーナは、妹の無表情の向こうにある頑固な気性をよく知っていた。嘘やはったりも言わない子だ。だから本人がそう言う以上、三日夜の儀は終えているのだろうと考えた。となれば、今更言ってもせんのないことである。
三日夜の儀、(あるいは「ならわし」)とは、成人男女が『連続して三日間同衾』することで内縁関係が開始されるという土着の習慣である。もちろん、帝国の法では婚姻についての取り扱いは別に定められているから、無視しようとすればできないものではないのである。しかし、この手のことはどこかの誰かが勝手な都合で決めた法律よりも、古くからの習慣の方が根強く人々の生活を支配するものである。また女性保護という意味でもあるため、男の側から一方的にそれを無視するような行為は、土地の者などからは非常に白眼視される。
見れば、男に動揺の様子はない。本来修羅場にもなりかねない場面で実に平然としている姿は、アルペには全てを理解して受け容れているように見えていた。
「学問でも、男でも、妹に先を越されるとは……」
ぱさついた髪を、爪を立てた手でわっしわっしと盛大に掻きあげて「ちっ」と舌をうっつ。そして、どっかりと椅子に腰掛ける。体重を預けた時に椅子の継ぎ目から小さな悲鳴が上がったことが、なんだかとっても気に障った。
「ま、レレイにも男の1人や2人いてもおかしくない年頃だしね」
アルペは、呟いた。「あたしだって、これくらいの頃にはもう男いたし」、と。
もちろん悔し紛れの捨てゼリフみたいなものだ。でも、言葉だけでは気が収まらなかったので、レレイの頭を拳で軽くこづくことにした。
彼女の妹は、痛いとも言わず叩かれた頭を掌で抑えただけだった。
この娘はいつだってそう。くすぐりっこしても、盛大に悶えるだけで絶対に声をあげない。指を噛んで声を押し殺して、絶対に笑ったり悲鳴を上げたりしなかったのだ。
レレイの恨みがましい視線に、アルペは答えた。
「それで、いろいろな無礼をコミで許してやるんだから、有り難く思え」
アルペはそう言って、度量の太いところを示したつもりだった。そう、これは全てを終わらせるための儀式みたいなものだ。これでよし、全てよし、恨み言は言うまい、完了、もう過ぎたことである。
とは言っても、やはり釈然としない気分は残っていた。これはレレイがどうこうと言うより、これまで胸の奥に押し込めて、考えまいとしていた焦りが、妹のことをきっかけに妙に刺激されてしまったからであろう。
この世界では、男女共に15才で成人として扱われる。女性の婚期はそれぐらいから約10年間の20代前半までが普通だ。その意味では24才という年齢は非常に微妙なラインに達していると言える。心の奥で魂が大合唱をしている。曰く「そろそろ、嫁ぎ遅れだぞ」と。
女という種には、男にはない様々なタイムリミットがある。しかも結構深刻である。
その代表的なものが出産であろう。男と番(つがい)となって健康な子供を産む。とある世界では誤解されているようだが、出産とは基本的に命を失う虞のある大変危険な事なのだ。従って安全性と言う意味でも、子供の健康、育児と言う意味からも、一定年齢の範囲であることが望ましい。
だが学徒として、いよいよ導師号へ挑もうとしている今、アルペには妊娠・出産・子育てなどしている暇はなかった。女にだって名誉心もあれば、何かを成し遂げたいという欲もあるのだ。だが、先ほど言ったような女であるという前提が、学問に打ち込むことを許してくれない。故に理不尽な言いがかりであるとは判っていても、思っちゃうし口にするのだ。「男は狡い」と。
それでも、もう決まった男がいるならまだマシだったかも知れない。
男に、もう少し待って欲しいと願えばいいのだから。心優しい男なら、笑顔で待ってくれるだろう。と言うより、こっちが必死で頼んでいるのに待ってくれないような男なら、願い下げだ。
だが、残念なことにアルペには特定の男は居なかった。居たことはあったが、いろいろと煩わしくなって、別れてしまったのだ。以来、いろいろな方面からの誘はあっても避けるようにしていた。だが、婚期もいよいよ終り近い今あらためて気づく、誘いのある内が華だと。
その悩みは、身を裂かれるほどにまで高まった。このまま学問一途に進むべきか、一次中断すべきか……しかし、いや、だが、しかし、しかし、しかし。
ふと、金髪エルフと黒肌エルフが視界に入った。
エルフはいいなぁと羨む。嫉む。
金髪は、見た目はヒト種なら10代後半、黒い方は30代前半くらいだ。でも実際は、100才くらいだろうか、それとも200才ぐらいか。くそっ。むやみやたらに長い寿命を持ってるんだから100年ぐらい分けてほしい。そうしたら、結婚もして出産子育てもして、ついでに導師号をとれるような研究を50年くらいかけてやっちゃるというのに……。ヒト種の身に産まれたのが、なんとも恨めしい。
こうした思考の果てに、レレイが選択した生き方が実に理に適っていることに気づいてしまう。
15才で男を作る。いささか早すぎるように思えるが、もう男を探す必要はないのだ。婚期半ばを過ぎた頃になると、知人や友人が口にしはじめる「貴女も、そろそろいい人を見つけないとね」というセリフに、頬を引きつらせる必要もない。
しかも男は、多妻主義者のようで、いろんな女を侍らせている。これだったら男にかかりきりならずに済む。鬱陶しくなったら、男の相手は他の女に振ればいいのだ。それならやりたい研究にも時間を割けるはず。
亜神のロゥリィは子供が出来ないはずだし、エルフはヒト種よりも子供が出来る可能性は低い種族だから、万が一妊娠出産しても乳幼児の泣き声大合唱ということにはならないだろう。子育てに他の女連中の協力も得ることが出来れば、万々歳と言えるのだ。
「ちっ、うまくやりやがって」と本音が思わず出てしまった。いやいや待て待て、これは長所ばかり並べた見方だった。物事の長所はそのまま裏返せば、すなわち短所だと改めて考え直す。
例えば、多妻主義者の家庭で女同士の仲が悪かったり、嫉妬によるいじめが横行しているようならそれは不幸だろう。さらに男に甲斐性があるかと言う問題もある。
「見たところうらぶれた感じの男だから、甲斐性なんてないんじゃなかろうか。と言うよりヒモ?」
伊丹に対する感想としては実に素直且つ正直なものではあるが、アルペは自分の世界に入り込んでいたため、思考を口に出していることに気づかなかった。
歯に衣着せぬ直截な物言いには、さすがの伊丹も傷ついたようで、悲しげな表情をして胸を押さえた。
「もしかして、僕のことを言ってます?それって僕ですか?」
「ごめんなさいね、でも悪い子ではないのよ。ただ、考えていることを口にしてしまうという欠点のある子なの」
ミモザ先生は、愛弟子を弁護するように言った。もちろん、全く持って弁護になっていないのであるが。
アルペはレレイの頭をがっしと掴むと、ぐいっと引き寄せて耳元に口を寄せた。視線は伊丹に注がれている。
「この男の経済状況は?軍人だって言うけど下っ端じゃないの?」
全然ひそひそ話になっていない音量であった。その声は、彼女の思いの丈を示すがごとく伊丹にも、テュカにもヤオの耳にも届くようなものであった。だから、レレイは答えるより前に耳を押さえて「あふぅ」と呻く羽目に陥る。
仕方なくレレイに代わってヤオが答えた。
「イタミ殿には、とある功績により、我が部族よりこのぐらいのサイズの金剛石を贈らせてもらった。さらには、エルべ藩王国国王より卿の称号を賜ったそうだ」
アルペはヤオが両手で示した人の頭サイズを見て、思わず絶句。
「領地が買える」
金剛石の品質にもよるが、あの大きさなら例え2級品でも荘園の十か二十は買えるくらいにはなる。つまり経済的にはまったく心配がないのである。
アルペジオは夢想した。研究費には困らず、家事なんかの雑用にはメイドを雇ったり、奴隷を買って任せることが出来る生活を。しかも夫は軍人だ。軍人と言うからには、ほとんど家にいないだろう。つまり「亭主元気で留守が良い」という、アルペジオ的には非常に住み心地の良い、男的には夢も希望もない家庭である。
まさに、お買い得物件。
アルペは、どうやら妹が幸せな結婚生活が出来そうだと思って安堵した。が、同時に何か複雑で表現の難しい感情を感じていた。
この気持は何だろう。いったいどこから来るのだろう。
それぞれ両親の連れ子同士の義姉妹。だが両親亡き後、カトー先生の元で二人は身を寄せ合うようにして暮らしてきたのである。血は繋がってなくとも、そんなものよりも濃い絆がある。
9才下の妹の面倒を見て過ごした日々。
それは、寂しいと言って泣く幼いレレイに添い寝してやった記憶であった。文字や算学を教えてやった日々の記憶だった。
そんな風に手塩にかけて面倒を見た妹が、姉たる自分を差し置いて幸せになろうとしているのである。自分が羨むような男を見つけて、しかも自分を追い越して導師号に挑もうとしているのである。ならば、「ここは、喜ぶべきところではないか」と思うのだが、悲しみとも何とも表現できないこの気持は、いったい何か。
「アルペ、お顔が引きつっているわよ」
ミモザ先生の言葉に、アルペは「なんでもありません」と言い訳て、顔を両手で擦った。
料理が運ばれてきて、食事が始まる。
楽しい会話に、美味しい料理のはずだが空虚に感じられた。
ミモザ先生は、お客相手に講義みたいな話を始め、お酒を飲んで、笑ったり、喜んだり、ミモザの昔語りにロゥリィが慌てて、それを金髪エルフがからかったり。
「アルペ、少しも食事が進んでないようね。どうしたの?」
ふと気がつくと、周囲の視線がアルペに注がれていた。
「いえ、なんでもありせん」
とは言いながらも、アルペの皿には料理がまるまる残っている。
慌てて匙に手を伸ばしてひと掬い、ふた掬い口に入れる。が、殆ど味がしない。感じない。
「お加減が悪いようですが、大丈夫ですか?」
伊丹のそんな言葉に、ミモザ先生は「この年頃には、いろいろあるのよ」などと言って心配しないように告げていた。アルペも誤魔化すように「ホント、大丈夫です」と答えて「そんなことより、コダ村のみんなは元気?」と話題を変えることにした。
すると空気は少し重くなった。
ここで初めてアルペは、レレイの口からコダ村を襲った悲劇を知らされた。
コダ村からこの学都は離れている。しかも自分の研究にかかわること以外に関心はなく、世間の出来事には疎いのがこの街の学徒の特徴と言える。炎龍の出現に関する話は、まったく初耳であったのだ。
村からの脱出行、その途上での炎龍襲撃。これによってアルペは故郷の友人達が少なからず死んだことを知った。本来なら悲しいことだ。だがその悲しみ以上の感情がアルペの胸中に居座っていたためにそれを今は感じなかった。
やがて、身寄りを失った孤児や怪我をしたお年寄りとともにアルヌスで伊丹達に保護されたことに話が及ぶ。
「なるほど、それが馴れ初めか」
などと思って聞いていたのだが、話がアルヌス生活者協同組合の設立に至り、その成功と発展を聞かされて、アルペの表情筋は、その引きつりが限界に達した。
「つまり、あんたお金持ちになった?」
「ただのお金持ちではない。大富豪と言える」というレレイの淡々とした表現を受けて、アルペは自分の胸中に籠もっていた表現の難しい感情の正体を知る。
ああ、自分は妬いているのだ。
我が身と妹と間に開いた格差に、この世の無情というか哀れというか、口惜しい気持がこみ上げて来ているのだ。
学徒は総じて貧乏だ。研究をするには金がかかる。パトロンとなってくれる貴族や商人の子供相手に、家庭教師をしたりしている。「愛人になれば金をだしてあげる」などと言い出すヒヒ爺に、にっこり笑って角が立たないようにお断りすることにも馴れたくらいだ。
だから、レレイがしたであろう苦労とか、努力とか、辛酸を舐めたりの経験も脇に置いて、頭に来てしまったのである。今勝っているのは、美貌だけ。これだって今から自分は下り坂、レレイはこれから上り坂と思うと、歯噛みしたくなる。と言うか、する。
気がついたら、レレイの頭上にスープの皿を持ち上げてドバっと彼女にかけていた。
周囲の驚愕の視線の中で思う。しまった、思わずやってしまった。だが後悔してない。非常にすっきりとした、と。
こうして話の場面は、冒頭へと戻ることになるのである。
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対峙する二人の魔導師。
見守る野次馬学徒達は息を呑んで、戦いの始まりを待った。
何しろ、魔法戦闘の大家とも言うべきリンドン派の二人だ。どのような戦闘魔法が繰り広げられるか興味深いのである。もしかして、門外不出となっている技や魔法を見ることが出来るかも知れないと期待している。
そんな姉妹のほぼ中間点間で、黒い神官服を纏ったロゥリィがハルバートを立てた。
「おほん。この戦いにおけるルールを述べるわぁ。条件は不殺よぉ。女ゆえに相手の顔に傷を付けないことぉ。他については好きになさぁい。敗北条件はぁ、ルールに反した時ぃ。降伏あるいは倒されて10カウント以内に戦闘態勢をとることが出来なかった時ぃ。終了後調停に従うぅ。以上4点にぃ同意するぅ?」
戦いの神エムロイ。その使徒たるロゥリィの言葉に異議などありよう筈もなくレレイは頷いた。アルペも、しっかりと頷く。
「ではぁ、レレーナ家第一回ロンデル姉妹会戦の開始をぉ、エムロイの使徒ロゥリィ・マーキュリーの名において宣言するぅ!!」
ロゥリィの声が号砲となった。
先に動いたのはアルペジオだった。
ローブの下から取り出したのはボーラと呼ばれる複数の分銅に縄をつけた武器であった。元来狩猟用、しかも原始的な投擲武器であるが、これが熟練した者にかかると変幻自在な使用法で、様々な戦闘場面で用いることが出来る。
対するに、レレイは自身の大杖を構えるだけ。姉の攻撃をまず見極めようという算段だろうか。
ボーラを振り回して機を窺うアルペに対して、レレイは無造作に距離を詰めた。
間合いに入ったと見るやボーラの分銅を叩きつけるアルペ。必殺の破壊力を秘めた一撃はレレイの腹部に見事に直撃した。
「おおっ!」
どよめく群衆。手も足も出ずに吹っ飛ばされた少女に対する同情と、手加減という言葉もない冷酷なアルペに対する非難という二色のどよめきは、それに続いたアルペの声で静まりかえった。
「レレイ。いつまで寝てるつもり」
仰向けに倒れたレレイが、むくっと起きあがる。まるでダメージを感じさせない。
「ローブの下に着込んだ鎧に、気づかないと思ってるの?」
見破られたレレイは、スープで汚れたローブをゆっくりと脱ぎ落とした。
その下から現れたのは白く塗装された翼竜の鎧であった。テュカやロゥリィが纏っているのと同じ物、アルヌスの子供達が売り物にするには小さかったり欠けている鱗を集めて紡いだものである。打撃による衝撃は、鱗が『面』で受け止めさらに裏地のなめし革とセームを張り合わせたもので緩衝し分散する仕組みとなっている。
「油断させようたってそうはいかないよ」
アルペはそう言うと再びボーラを振り始めた。
魔導師同士の戦いが、こうして魔法とは別の次元で始まったことに、人々は驚愕した。まるで野蛮な剣闘士の戦いのようではないか。だが、まだ戦いは序盤である。次は少女の番だろう。彼女からどのような攻撃が行われるのかと、人々は期待して待った。
しばし続く静寂。
アルペの振るボーラが風を切る音だけが、妙に大きく聞こえた。
「ロゥリィさん。この戦いをどう見ますか?早々に膠着状態になりましたが……」
伊丹は突如始まった壮絶な姉妹喧嘩を見て、いつ止めたものかと呟きつつもロゥリィに状況を尋ねる。
「今ぁ、何もしてないように見えるでしょ。でももう魔法が飛び交ってるわぁ」
「ええっ」
「レレイがぁ空気の刃を投擲して、アルペがそれを透明な楯で受けてるぅ」
これが聞こえたのか、群衆は再度どよめいた。
ボーラが空気を切る音に紛れて聞こえないが、既に熾烈な戦いが繰り広げられていると言うのである。
「見たところぉレレイは攻撃専念。アルペジオは防御に専念してるみたいねぇ。だからぁアルペジオは武器を使うってところかなぁ?」
「アルペは、この街では鉄楯の異名をとってます。彼女の障壁魔法は非常に強力ですよ。でも、防御だけだと侮ると酷いことになるでしょう。あの娘もリンドン派の魔導師なのですよ」
ミモザが笑顔で説明した。
これが耳に入ったのか、「先生っ、ばらさないでくださいっ!」とアルペは苦情顔だ。
ミモザは「あらあら、ごめんなさい。ついうっかりしていたわ」と悪びれるところがない。
「なるほど、防御に特化してると思わせる欺瞞ということか。我らダークエルフの欺瞞や詐術を用いた戦いに通じるものがあるな」
ヤオが感心したように頷いた。
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姉妹の戦いは、レレイが意地を張って投擲する風の刃を大きく、目に見えるほどのものにして行くことで、単純な力比べの様相を呈して来た。
レレイが投擲する刃を大きくする。アルペジオも、打ち抜かれまいと面前に形成する障壁を厚く大きくして行くのである。
「どう?あんたなんかのへなちょこ魔法じゃ、この楯を打ち抜くことは無理よ。要するに、導師号なんて審問を受ける前から無理ってこと。学会で大恥をかく前に、アルヌスに帰りなさい」
レレイは「すぅ」と大きく息を吸って投擲すべき空気の刃をさらに大きくしようとしていたが、これを聞いて肩を落とすと、力が抜けたかのように大きなため息をついた。
「あら、諦めたの?」
「違う、方法を変える」
レレイはそう告げると、金色に輝く三角錐状のもの取り出して、地面に放り投げた。子供の遊具の独楽(コマ)にも見えるそれは、地面を軽やかな音を立てて転がった。
「あれは……漏斗(ろうと)」
そう。伊丹と共に東京に出た際、立ち寄った金物屋……鍋ややかんなどを売っている店で大量に買ってきた、直径約5㎝前後の真鍮製漏斗であった。ちなみに、決して英語に翻訳してはいけない。いけないったらいけないのである。
「これで撃ち抜いてみせる」
レレイはそう宣言すると漏斗を、空中に浮かせた。尖っている方を自分に向け、喉歌にも似た呪文を唱えて漏斗の錐体部にHEATの光輪を纏わせる。
「これによってわたしは、カトー先生より導師号への挑戦が許された。我が姉よ、全力で防げ」
レレイはそう言うと、漏斗を飛ばした。
それを見た伊丹は「やばいっ」と、血相を変えて走った。
レレイの魔法は、剣を射出させたら炎龍の鱗さえ穿つ力があった。それほどの爆速ならば、ノイマン効果が発揮されることは目に見えている。頭に血が上っているレレイは、下手をすれば姉を死なせかねないほどの魔法をぶっばなそうとしているのだ。
飛翔した漏斗はアルペジオの展開した障壁に阻まれて止まった。
どれほどのものかと息を呑んで待ち構えていたアルペは、レレイが渾身の一撃と呼ぶもののあっけない感触に、気の抜ける思いであった。
だが、レレイがアルペの嘲笑とほぼ同時に指を鳴らす。
漏斗を覆っていた光輪は炸裂し、真鍮製の漏斗はその高圧下で液体同様のメタルジェットと化し魔法の障壁を浸食し貫通する。
アルペジオが拡げた障壁は見事なまでに貫通され、その内側で爆発は広がった。
その爆煙と衝撃の凄まじさには観衆は度肝を抜かれた。
道が空くのを待っていた荷馬車の馬は驚いて嘶いては竿立ち、御者はそれを抑えようと慌てる。しばし大混乱があたりを覆ったほどだ。
煙が晴れた後、そこには伊丹に押し倒されてその下敷きとなったアルペの姿があった。
「たかが姉妹喧嘩で殺す気かっ!!」
むくりと起きて思わず怒る伊丹。だが、レレイは「邪魔をされては困る」と平然としていた。
「姉とて楯を破られた際の防御を考えてないはずがない。邪魔が入らなければ、二つ目の障壁で身を守っていたはず……」
そう嘯くレレイに対して、アルペシオは真っ青となった顔を左右にブンブンと振った。見たところ、すっかり腰が抜けて立てないようである。
「だから、二つ目の……」
さらに首を振るアルペジオ。
「………なかったらしい」
レレイはそう言うと、伊丹にぺこりと頭を下げたのだった。
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レレーナ家第一回ロンデル姉妹会戦の結末は、ロゥリィ・マーキュリーから第三者の介入による引き分けが宣言されて終了となった。ハルバートによって強制的に終了させられたのである。だが、双方共に我こそが、勝利者であると誇っている。
レレイは姉の防御障壁を貫通させたことで、自分の勝利であると主張し、姉は伊丹が介入しなければ自分が死んでいたかもしれないので、妹はルールに背いたと主張している。
「まあ、まあ、まあ、二人とも、その辺でやめておきなさいな」
ミモザ先生はそんなことを言って二人を宥めようとする。が、対立する二人は互いに視線を合わせようともしなかった。レレイからすれば、姉のせいで明日の学会に参加できないのだから、許せないことには変わりはない。
「レレイ。ちょっとこれを着てみなさい」
ミモザの研究室に戻ると、先生は自分のクローゼットへと向かった。中から取り出してきたのは、白いローブである。
「これはね、私が学会で審査をうける際に着たものよ。レレイにサイズが合うかしら」
「あっ、それは……」
お古だけど、よかったら着て欲しいという言葉にレレイは、喜びの眼差しで頷いた。
アルペジオは「そ、それは私が狙ってたのに……」などと言って取りすがる。
師匠の法服を預けられるということは、弟子がこれを決して汚さないだろうという信頼を示すのだ。法服を代々受け継いで行くことで、その系統の流派は歴史と伝統の重みを増すことになり、そこに権威が生まれるのである。
「貴女の気持ちはわかるけど、スープを頭からかけたのは流石にやり過ぎよ。我慢なさい」
優しくはあっても、ミモザのきっぱりとした言い様を受けてアルペジオは「せんせぇ~」と涙目で叫ぶことしか出来なかった。
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翌日、レレイは学会に出席すると、列席の長老達を前に見事なまでの発表を行った。
前日の姉妹対決騒ぎで、彼女の魔法に対する評判はすでに街中の学徒に広まっていた。その威力と効果の絶大さは、リンドン派のみならず多くの魔導師達の関心を引き寄せざるを得なかったのだ。学会での発表となればその魔法の秘密が公開されるのだ。
そのために、レレイはそれまでに無いほどの数の聴衆を前に喋る羽目に陥ったのである。
レレイは言葉数が少ない。
だが少ないが故に、その言葉は要点のみをまとめていた。それは、聞く者にとっては非常に受け容れやすいものとなった。内容の是非はともかく、多くの説明をしようとするが故に、言葉を長々と連ねすぎて結局何が言いたいのかわからない発表も多いのである。
だがレレイは多くを語らない。簡潔で単刀直入だった。
疑問に対して実証をもって答え、判らないことは判らないとそのままに答えている。
何よりも長老達が感銘を覚えたのは、彼女の発表は、その根幹となる考え方が異世界で立てられたものであることを正直に告げたことにあった。異世界に行ったことがある者など、この場にはレレイ達しかいない。黙っていれば、自分が考えた。自分の発見だ、自分が元祖だと主張しても誰も否定できないのである。当然のことのようだが、功を焦るが為に、実験結果を捏造する者すらいてしまうのが現実なのだ。にもかかわらず、自分は異世界の理論を取り入れ、これを応用したものでしかないことを告げた潔さには誰しも好感を抱いたのである。
そして、それで彼女の発表の価値が下がることはなかった。いかに異世界の理論を取り入れたとしても、それを魔法で実現した功績はまた別なのだから。
こうして、レレイは長老達は大いなる賞賛を受けながら、その法服を少しも汚すことなく壇上から降りることが出来たのだった。
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「でも、レレイ。完全に公開して良かったのぉ。一応、貴女の必殺技でしょぉ?
「大丈夫。今回は、燃焼と爆轟の関係を説明し、それを魔法で引き起こす方法を発表しただけ。モンロー効果とノイマン効果については黙っていた。いずれ皆が知ることになるけれど、それは先のこと」
「結構ちゃっかりしてるな」
「手の内を全部明かす必要はない」
こんな会話をしながら、レレイは発表者たる立場から聴衆の一人となったのだが、彼女に続いた次の発表が、伊丹達の運命に大きな影響を及ぼすこととなるのである。
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みなさん、「あけまして、おめでとうございます」(←よし、今年は誤字はないな)
今年も宜しくお願いします。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 52
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/01/13 21:10
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日本語を相当なレベルで習得して、パソコンを購入し、アルヌスからでもネットにアクセスできるとなれば、そこから得られる知識や情報を元に、この世界の学会をひっくり返すような発表をして、名を残すことも出来るだろうに、何故それをしないのか。
そんな疑問をレレイにぶつけた伊丹は、こんな回答を得た。
学徒として、初めてカトー先生からの受けた教えは、学問が人々に与える影響についてだったと言うのである。
それは、天文学の発達史であった。
古き時代、家もなく纏う服も粗末だった時、人々は、闇を背景に浮かぶ星々を見上げながら、大地を床として眠っただろう。
夜空を彩る星々がつくりあげる幻想的な情景。それらを背景にさまざまな夢を見て物語として紡いでいったに違いない。そうなれば、星々の作り上げる情景と、季節と結びつきを知ることもそう遠くない話だったろう。
農耕という生活手段を手に入れると、季節と星々の関係を知った人間は、物語をより細かく、そして壮大にしていったはずだ。
種を撒く時季に空に登場するのは心優しい農耕の神。
だが、それを追うようにして荒々しい雨の神が現れ、これと激しく戦う。飛び交う雷、ふきあれる嵐。優しい神はその勢いに押されて、西へと追いやられて退場していく。
そして空にしばし居座る雨の神。
季節は雨季となって天気の悪い日々が続く。だが、これに耐えなければならないのは、僅かな間だ。地母神の加護を受けた、農耕の神が再び奮い立って天主の座を廻って戦いを挑むのである。
やがて訪れる農耕の神の勝利。
それによって雨雲は去って作物はたわわに実って、木々には果実が色づくのである。収穫の季節の到来である。
天文と季節の関係を、かつての人々はこのような素朴な形で理解していた。
しかし学徒という存在はそれで満足しないものだ。
星々の運行を支配する法則を解き明かそうと挑戦し続ける。精密な観測の積み重ね、そこから正確な暦を導き出していったのである。そして、天文学という学問の一分野が成立して『学問世界』の重要な地位を占めるようになる。
それまでの定説を覆して、大地が球形をしている説明されたのが今より2000年ほど昔である。
世界の構造や、物事の仕組みについてこの世界の神々は黙したまま決して語ることがない。なぞなぞの出題者のように「解き明かしてご覧」と微笑むだけでヒントすら教えてくれない意地悪さだ。故に、素朴な民衆は円盤状の大地にぽっかりと太陽が浮かんでいると考えいたし、学徒達もそれを基礎とした理解の仕方をしていたのである。
太陽の通り道たる赤道の真下は、太陽との距離も近くなるので暑いのも当然。赤道から北へと離れれば離れるほど、太陽との距離もひらくから寒くなるし、大地と太陽とがつくる角度も小さくなって低くなる。学徒達は、投げかけられる世界についての疑問に対して、このような説明をしていたのだ。
ある時、天文学者パッソルは、地図を作る際に用いられる三角測量の技術を用いれば、太陽と大地の距離を正確に導き出すことが出来るのではないかと考えた。そして、南北の各地10カ所に弟子を派遣すると、同日同時刻に大地と太陽とが作る角度を観測させたのである。
その結果は驚くべき物であった。
何度やっても、大地と太陽との距離が算出できないのである。
誤差による物かと観測点を10カ所から20カ所にまで増やしてみた。だが、観測点の数を増やせば増やすほど、観測点の距離を離せば離すほど、太陽と大地がつくりだす角度は説明が出来なくなってしまう結果となった。
やがて、パッソルはひとつの恐ろしい考えに行き着く。それは赤道から離れれば離れるほど大地はなだらかに傾いていく、つまり大地は弧を描いており、すなわち球形であるというものであった。
学徒達は、パッソルが恐る恐る提示した考えに、驚愕すると共に恐怖した。
彼の説を受け容れれば、球状の大地は何者にも支えられることなく宙に浮かんでいることになってしまうからだ。
そんなあやふやで恐ろしいことは、素朴な人々にとって、とても恐ろしく受け容れがたい物であった。もし、大地が球形をしているなら、その縁にいる人間は、人間ばかりか何もかもが下方向に落ちて行ってしまう。いや、そもそも何の支えもない大地そのものが落ちてしまう。今こうしている瞬間も落ちているなら、その先は何がある。どこに、何に向かって落ちていると言うのか?!
人々は、地平線の向こう側で建物も何もかもが滑り落ち、崩れていく幻影を見てしまった。あるいは取り落とした果物が床に落ちて割れる姿と、大地の崩壊する情景と重ね合わせてしまった。
学会の場は、鋤や鍬を手にした民衆によって取り囲まれた。
人々は、大地が球体であるという説に怒り狂った。そしてその証拠とした観測が誤っていたと認めろと迫ったのである。パッソルが、そうしたと言う訳でないのに、人々は彼の学説こそが世界を滅ぼすような錯覚に囚われたのかも知れない。
学問は、世界観を変える。それは下手をすれば民心を脅かし、時と場合によっては人々をここまでさせるという威力に、学徒達が気づいた瞬間であった。
議場の門を激しく叩きうち砕こうとする群衆。響き渡る怒号。その激しい怒りに、学徒達は恐れおののきながらも、精密な観測とそれが示した事実を歪めることだけはしなかった。それは学徒としての矜持でもあったからだ。だから、その代わりとして、彼らは民衆に告げた。
「大地は球状だが、どこにも落ちない。それは我々の住む世界が全ての中心であるからだ。『下』という方向も、果物の実のごとく球状の大地の中心に存在するのだ。従って大地は不動にして、けっして揺るがない。諸君は何一つ心配することなく母なる大地の表面で暮らしていけるのだ」、と。
民衆はこれに騙された。いや進んで信じたと言っていい。
自分達の住む大地が世界の中心、文字通り世界を支える大地であるという考えが自尊心を満足させ、それが恐怖をうち払ったからである。
「わたしは、この講義を受けた夜、恐ろしくて震えた」
幼いレレイは、意気揚々と大発見を報告する自分が、群衆によって罵声を浴び、棍棒でたたきのめされる夢を何度も見たという。
「学徒は、自分の発明や発見が、人々に何をもたらすか考えなければならない。わたしの発表は、爆発という現象を魔法でつくりだすもの。だから広まるとしても限定的。それを言い訳にして、わたしは自らの欲に従った。だけどそこから先には踏み込めなかった。本来なら、火薬の製法を発表するべきだと判っている。火薬の善用の効果を知る以上そう考える。だけど、火薬の悪用が何を引き起こすか知るわたしは恐怖する。自衛隊は戦いに火薬を使う。アルヌスの門を挟んだ交流が進めば、遅かれ早かれ、この世界の人々も火薬の製法を知り、その使用方法学ぶはず。知らないで居られない。だけど、わたしは出来なかった」
レレイは、そんな事を言いながら軟弱者と貶してくれてもいいと肩を落とした。
もちろん、伊丹はそんなレレイを貶したり誹謗したりすることもしなかった。
そしておもむろに気がついた。
レレイが、門を挟んだ交易を独占するアルヌス生活者協同組合が、極めて限定的にしか日本の文物を持ち込まないのは、これが理由なのではないかと思ったのである。
アルヌス生活者協同組合は、何かの製品は持ちこむが、決して何かを作る機械は持ちこまない。例えば衣類の材料となる布地は仕入れても、決してミシンは入れない。布地を安く大量に作る高性能な織機の存在は知っているのに、決して仕入れようとはない。それさえあれば、産業革命を起こすことだって出来るのに、そうしないのだ。
それはただ偶然などではなかったのだ。レレイを始めテュカやロゥリィ、そして後見足るカトー先生らの意志が働いているのかも知れない。
さて、天文学が、この世界を揺り動かした出来事は、しばしの時を隔ててさらにもう一度起こった。
太陽中心説の登場である。
天体観測を進めていくと、空を瞬く星には、さまざまな種類があることがわかってくる。特に目立つのが、天球に貼り付けられたごとく輝く恒なる星と異なって、見ている者を惑わす様に居場所を変える星、惑星である。
観測の結果、赤星、黄星、蒼星、白星の4惑星は、どうやら太陽や月の仲間であり、天球の内側にあって、全ての中心である大地のまわりを廻っていると考えられた。
だが、そのような解釈では惑星の運動はどう見ても説明できない部分があった。惑星は観測者の右から左へと運行している。だが、時折左から右へと遡航するかのごとく動く時があるのだ。動き方の大きな赤星や黄星ばかりでなく、蒼星や白星までも数百年の観測記録によって、そのような動き方をすることがわかっていた。
当時の天文学者はその現象をこう説明していた。
全ての惑星は、透明な球にくっついており、これが回転しながらそれぞれの軌道を廻っていると。これならば途中で後戻りするように見えることも説明できるし、惑星の位置予報がある程度可能となる。実際、当時の観測技術や装置のレベルは低く、これで説明しきれないような問題は、誤差の範囲と見なされてしまったのである。
しかし、観測の技術が進むにつれて、これでは説明の難しい現象が数多く認められてきた。そこで、天文学者のモクリは、これらの問題を解決するために、新しい世界観の構築に挑んだのである。
そして彼が唱えたのが、太陽中心説である。
我々の住む大地も実は、他の4惑星と同じであり、太陽の中心を廻る惑星に過ぎない。だがこれならば、他の惑星が時折遡航するかのような運行を示す理由が説明できる。つまり、内側の軌道をまわる大地が、他の惑星を追い越す発生する、見かけ上の現象であると言えるのだ。
当然の事ながら、この考えには大きな反発があった。
大地は不動にして、決して揺らぐことがない。それが大地球体説誕生以降、人々の心に根付いた考えだったからである。
また、学徒の大半もモクリの説に対しては懐疑的であった。
大地が移動すると言うのなら、どうして月が取り残されないのかと。また大地が太陽の周りを廻るなら、天球にある星々の位置も、僅かにしても見かけ上は動いて見えなければおかしい、と言うものである。
これに対する回答としてモクリは次のように説明している。
「大地と月との間には、目に見えない虚理が働いており、これによって繋ぎ止められているから」と。
海の満ち引きも、これの影響によると説明できることからも、かなりの賛同者を得ているのだが、魔導師ではない学徒達からは「魔導師連中は、説明の難しいことになると、何でもかんでも魔法の力を言い訳にする」と言われ、魔導師達からは「虚理は現実を支配する現理のなかでは存在し得ない。法理によって開豁された陣においてのみ発動されるという原則を忘れたか」と批判されて今のところ定説となるまでは至っていないのが現状である。
太陽中心説と天動説の論争は、より精密な観測機器や、技術が現れるまでは解決不可能な案件としてみなされて、現在のところ、天動説が有力である。と言うより、問題は先送りされていた。
大半の学徒達がそのような態度であるため、民衆も今のところ大人しい。だが、学徒達が太陽中心説を受け容れれば、民衆がいよいよ怒り猛ることは間違いない。従って、太陽中心説に好意的な学徒も弟子には天動説を基本として教え、太陽中心説は「こんな、とんでもない考え方もある」と参考程度教えるに留まっていたのである。迂闊な発表ひとつで民衆に襲われかねない天文学の研究は、多くの賢者がやっかいごとと見なして見放してしまっていた。
そんな背景があったために、フラット・エル・コーダが壇上に現れた時、学徒達はまたぞろ天文学徒がしょうもない理論をぶちあげるために来たかと警戒した。
彼は以前「世界の中心は球体である大地の中心にあるが、その大地はやはり太陽のまわりを廻る」などと発表して、会場のほとんどからインク壺を投げられて這々の体で逃げ出している。太陽中心説云々などよりも、世界の中心が動き回るという説を、姑息に過ぎると批判されたのだ。
レレイに続いて壇上に上がった、その青年は見た目は30代になるかならないか。丸いメガネをかけた風貌は、あまりパッとしない苦学生的雰囲気で、伊丹的には大いに親近感が湧いてくる。
「あの、馬鹿」
伊丹達と共に聴衆の一人となっていたアルペジオは、その姿を見ると唾を吐くように呟いた。
「お知り合いですか?」
伊丹の問いに、「いいえ」とすげない態度のアルペ。ミモザ先生は窘めるように言った。
「何を言うの、彼にプロポーズされてるんでしょ?」
「あの話は断りましたから。まったくの無関係の関係です」
「……という関係よ。わかる?」
茶化すようなミモザ先生の口振りに、伊丹は大いに納得したのである。
やがて、レレイが壇上から戻って来た。
伊丹やテュカ、ロゥリィ、ヤオ達は彼女の凱旋を周囲に迷惑にならない程度の、小さな拍手で迎える。だがレレイの顔には、本当にささやかだが、何か苦い物でも噛んだような苦渋の色があった。滅多に見られないレレイの変化に伊丹達は一様に驚いた。
そんな中で「どうしたのぉ?」とロゥリィが声をかける。
レレイは、小さく、誰にも聞こえないようにロゥリイの耳に唇を寄せて「できることなら、教えてあげたい」と言って、発表を始める前からヤジを飛ばされている壇上の男性を振り返ったのである。
レレイは、引力というものの存在を、伊丹と関わることで知ることが出来た。
だが、まだこの世界では「物は上から下に向かって落ちるという性質がある」という考え方で物事を理解していた。だから下という方向、すなわち世界の中心点がどこにあるかにこだわってしまうのだ。
もし、引力という考え方を持ちこめば、太陽中心説の説明は非常に上手く行く。さらに、日本から精巧な観測機器を仕入れれば、公転に伴って発生する恒星の年周視差も測定できるだろう。そうすれば世界はひっくり返せるのである。だが、それをしてしまえば、民心が受ける衝撃はとてつもないものとなるだろう。
もちろん世界の成り立ちについての解釈は、唯一絶対神が作ったなどという信仰に基づいた頑迷なものではないから、大地が『平』から『球体』に、そして『下』という方向の概念が、『大地の中心たる一点に向かった方向』、という形で変更も可能なものである。
しかし、新しい考え方や、世界観が民衆に受け容れられるには、それだけの準備と時間が必要なのだ。そんな中で、余所から持ってきた知識を並べても、多くの者は消化できないだろう。下手すると食あたりをおこしねない。
実は、似たようなことは我々の世界に置いても起こってる。
アメリカの福音派キリスト教徒は、21世紀の今でも、学校教育にて天地創造を教えさせようと圧力をかけていると言う。世界は神が「光あれ」と命じた瞬間に始まり、7日かかって世界は誕生し、人類は神がアダムをつくり、彼の肋骨からイブがつくられたという神話を『学問』として教えよと言い、博物館までつくっちゃったりしているのである。そこで彼らは恐竜とアダムとイブが展示されている姿をみて「ふむふむ、天地創造は本当にあったのだな」と信仰心をより深めるのだ。当然のことながら、彼らは進化論を排撃し、進化論を教える学校教育に反論して裁判まで起こしている。
ちなみにバチカンが、地動説を受け容れたのは1992年と最近のことだ。好意的に考えるなら、それによって信徒の信仰が揺らいだり、誰かが困ったりしなくなるまで、待ったとも言える。
従ってレレイとしては迂闊なことは出来ないのだ。故に今は黙って見ているしかないのであるが、それは一人の学徒を見捨てることでもあって、辛いと感じている。
「あたしもぉ、似たような経験があるわぁ」
優しげなロゥリィの声をうけて、レレイは嘆息した。
やはり神々は世界の仕組みを知っていて黙っているのだな、と理解した。
「わたしたち亜神は、世界の庭木を守る庭師でもあるのよぉ。必要ならぁ、伸びすぎた枝や木の芽を刈り取ることもあるわぁ」
だから、今はアルヌスに居着いている。ロゥリィはレレイ向かってはっきりそう告げた。
「だから………?」
自分の家の庭木ですら、変な伸び方をしたら切り取ると言う。そんな風にして管理している庭に、隣の家から大木の枝が侵入してきたらどうするか。
「だから」に込められた言葉の意味に、何かそら恐ろしい気配を感じたレレイは背筋に寒さを感じて身震いしたのだった。
さて30分ほどの時間をかけて、フラット・エル・コーダが行った発表は、端的に言えば『なんか、来た。世界が歪んできてる』と言うものであった。
聴衆たる学徒達も、審問する長老達も最初は、太陽中心説に関わる話だと思ったから、拍子抜けである。と、同時に「こいつ何言ってるんだろう」と、あきれ顔になった。世界が歪んできていると言われても、どういう事が理解できなかったからだ。
「みなさんご存じのように、私は太陽中心説の研究するために、天体の観測を続けてました。ですが最近、目的とは違う別の星を観測するという間違いをしてしまいました。惑星である白星と、恒星である天狐星とを取り間違ってたんです」
会場の学徒達は一斉にげんなりしたような声をあげた。天文について発表しようと言う学徒が、星を取り間違うなどあってはならないことだからだ。
「でも、その理由は天狐星が、不可解な動きをしていたからでした。これをご覧下さい」
そうしてフラットは背後にある黒石の壁に、蝋石で観測の結果を図示していく。
霧月、優月……1ヶ月ごとに天狐星はゆっくりと移動していくのが図示される。これは、季節の移り変わりとともにおこるもので、自然の現象である。雨期には雨期の空があり、乾期には乾期の空があるのだ。だが、穣月、湿月、雨月、涼月と月日がたつにつれて、その動きに異常が現れた。本来動くべき方向とは、別の方向に引き寄せられて、惑星の1つ白星の軌道に交差してしまった。
「このせいで、私はこの星を白星と勘違いしていたのです。間違いに気づいた私は、本来観測すべき白星を探しました。すると、こんなところにありました」
図示された白星の位置は天狐星と同様に、異常な場所に移っていた。
人を惑わすように動くから惑星と呼ぶのだが、どのような軌道で動くかは長年の観測の結果ある程度判っている。いくらなんでも、その範囲から大きく逸脱することはあり得ないのだ。
「これはどうしたことか、思ってその周辺の星をほとんど記録しておくことにしました。そして1ヶ月ほど観測した結果、次のことがわかりました」
天を一枚の布に例えると、その一カ所を摘んで、ぐいっと引き寄せたかのような状態であったのだ。星々の軌跡はその皺というか、ひずみの影響で、南南西の方向に引き寄せられ、そこを通り過ぎると再び元の軌道へと戻っていく。
つまり空の一部が歪んでいるかのよう見える。これをして世界が歪んでいるのではないかとフラットは言うのだった。
「こうした現象が過去にあったという例は、私の調べた範囲では有りませんでした。しかもこの現象は日増しに強く、大きくなっています」
当然のごとく、会場からは質問が飛ぶ。
「それは、観測の道具が古すぎるとか、そういった類の間違いではないか?」
「ええ、古いことは確かです。最新の物を買いそろえるほど、お金がありませんから。ですが、こんな結果が出るようなことはないと思います」
「蜃気楼の一種という可能性はどうかな?」
砂漠や海で、遠くにある都市や島が、地平線・水平線に浮き上がって見えると言う現象は、すでによく知られている。
「一ヶ月間にわたってずっと、ですか?」
蜃気楼は天候の影響を受ける。しかも、夜間になんて記録がない。あり得たとしても、一ヶ月間続けてと言うのは考えにくいことであった。同じ理由で、雲や天候の影響というのも説得力に欠けた。
「天変地異の前触れかとと、いろいろと調べましたら、帝都では、地揺れという珍しい現象があったとも聞きます。炎龍まで出没を始めたという話です。晴れてさえいれば今夜も観測は可能ですから、みなさんにも是非、観測して頂いて、原因をつきとめることにご協力いただきたいのです」
こうして、その日の夜から学徒達が一斉に夜空を見上げることとなったのである。
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マンハッタン
世界経済の中心地として栄えるその地は、世界の富を司る巨大財閥の代表が集う地でもある。
世界的な財閥として高名なロックフォラー家、ロスチルド家の企業は勿論、デュパン、サッスーラ、クローンエブ、モルガルン、ヴァハロフなどもこの地に本社、あるいは本社級の機能をおいて、世界経済の動向を見据えている。
彼らは、時に対立し、時に強力して世界経済における覇を競う仲ではあるが、時として自らの支配力を維持するために、秘密裏に談合し株価暴落、すなわち金融恐慌を意図的に起こすことがある。これによって新興の財閥や企業を、ふるい落とすのだ。勿論多くの企業が倒産し、世界経済は自分達も含めて大打撃を受けることとなるのだが、自ら事を起こす以上、彼らはその資産を安全な不動産や企業の株、そして金地金等に移し終えているので被害は少ない。さらに、倒産する企業から放出される旨味のある部門や資産を二束三文で買取ることで、財閥はさらに肥え太るという仕組である。これに付随して戦争が起これば、軍需産業が肥え太って二度美味しい。
そんな財閥の一族が集まるパーティーに招待されるのは、もちろん彼らの一族、あるいは彼らに忠実な者、実力の認められた人物だ。例えば次期大統領候補の上院議員とか、成長著しい企業のトップ、そして各界の名士、著名人など。
世界的な女優サラ・ヴィーンもその一人だ。
主演女優としてオスカー賞をうけるほどの演技力とその美貌は、世界中の多くのファンを魅了する。だが競争の激しい芸能界は、僅かな油断ですぐに追い抜かれてしまう。これを避けるには、常に有力者の協力を得て、コマーシャルや映画、ドラマといった作品で好意的に扱われ続けなければならないのだ。マスコミ対策や、イエロージャ-ナリズムに対抗するにも、スポンサーたる有力者とのコネクションは不可欠と言えるだろう。
そんな彼女の元に舞い込んだ一通の招待状。世界経済を牛耳る大財閥のパーティーに彼女は迷うことなく参加した。そこには、大財閥の当主やその跡継ぎ達、すなわち本物のセレブリティが大勢集っているのだ。それはチャンスを意味する。
「この度は、ご招待下さり有り難うございます」
カクテルドレスで身を包んだサラは、ホストであるロックフォーラー財閥の三男坊バジュリに、挨拶として婀娜っぽい艶を含みつつも礼儀を失わない程度の笑み贈った。
タキシードに身を包んだバジュリは、外見的には本当に良いところのお坊っちゃま風の男である。見た目も平凡。学校などでもあまり目立たない、教室の片隅にいるタイプと言えるだろう。だが、芸能界の常でサラの周囲には野心に溢れすぎた男達が日常的に集まっているから、気の抜けた印象のバジュリが案外に新鮮な印象であった。
考えてみれば、野心家というのは所詮持たざる者だ。このバジュリは既に持てる者であり、野心を抱く必要がないのかも知れない。それゆえの人の良さ、温厚さだろう。
「実は僕はあなたのファンなんですよ。不躾な招待で、ご迷惑ではなかったですか?」
「いいえ。このような席に及び頂けて光栄ですわ」
サラはバジュリの案内で、彼の邸宅のあちこちを案内された。
このパーティには高名な映画監督や、小説家なども招かれていたから、早速名前と顔を売る機会とばかりサラは挨拶をしまくる。もちろん、彼女のことを知らない者はいなかったが『面識がある』と『知っている』との間には大きな溝が広がっている。この溝を越える努力が必要だ。その不躾とも言える売り込みに、バジュリも流石に苦笑した。
「随分と積極的ですね」
「確かに積極性は恥をかいたり失笑を買う虞もありますが、得るものもあります。物怖じと消極は、自分を守るだけで何も生み出さず、機会を失いますわ」
「なるほど、貴女は素晴らしいですね」
「はい。頑張っています」
「頑張っているのですか?」
「ええ。心に何の負担もなく、前に出ていける性格なら良かったのですが。でも、ビジネスのチャンスは前に出なければ掴めません」
「ああ、安心しました。貴女が、そのようにものごとをきっぱりと割り切ってらしゃる方なら、何かとお願いとかもしやすいですね」
そんな会話をしていると、パジュリよりも少し年かさなくらいに見える男性が、声をかけて来た。もちろんサラなどにではない。街に出れば、サラのまわりにはたくさんの一般民間人が集まるだろう。だが、ここでは逆だ。彼女こそ一般民間人であり歯牙にもかけられない存在なのだ。だから大人しく黙って二人が会話を終えるのを待つことにした。
「バジュリ、聞いてくれ。トウキョウ・ギンザにある古い宝石商から持ち込まれた話なんだが、2万カラット(4㎏)を越えるダイヤモンドの原石があるらしいぞ」
何気なく耳に入った2万カラットのダイヤという言葉にサラは目を丸くした。
彼女が持つ最大ダイヤの指輪が精々23カラット。比較の対象に差がありすぎて想像も出来ないほどである。
「おじさん、いくらなんでもその大きさはあり得ないでしょう。人の頭くらいのサイズにはなってしまいますよ」
「最初は俺もそう思ってたんだが、だけど写真付きのメールが届いた。話の出所も確かなんで信憑性が高い。『特地』からの出土品らしい。紛れもない天然物だ」
「そ、それは…」
「おかげでこっちは大騒ぎだ。とにかく、その原石だけは何とか確保したいんで、現金が要る、とりあえず50億ドル分の日本円を融通してくれ。華僑が動いているという情報もあって競争になるぞ。幸い、宝石商は話のわかった人物で、大きさも価値だから細かくして売るなんてしないよう説得してくれた。持ち主も納得したらしい。だが一個出た以上は、まだまだ出てくる可能性もある。これはなんとしても抑えなければな。ついでにこいつは知っているか?日本は、特地でガワール級の油田も抑えたらしいぞ。地面を掘るまでもなく、行ったら原油の湖だったとか……」
「そっちの情報は、既に入ってきてます。推定埋蔵量1000億バレルだそうですね。でもダイヤの話は知らなかったなあ」
「ま、宝石関係の情報は、こっちの領分だからな。で、どうするんだ。手をこまねいて見てるのか?」
「まさか、その為に、彼女を招いてるんですよ」
バジュリは、そう言って庭園の一角で各界の名士から挨拶攻勢を受けている少女を指さした。サラも釣られて目を向けたが、それは東洋人の少女であった。いや、東洋人は成人していても若く見えるから少女という歳ではないかも知れない。
「誰だ?」
「日本の皇室、高円寺家のプリンセスですよ。こちらのにホームスティしていると聞いてね、早速ご招待したってわけです。ちなみに、彼女は女優サラ・ヴィーンの大ファンなんだそうですよ」
この言葉と二人の男性の視線でサラは、面識もコネもなかった自分が招待された理由を知った。
だが、そんなことでつむじを曲げるようでは世の中渡っていけない。自分に期待された役割を果たしてみせることで、役に立つ人間であることをアピールする。それによって仕事の機会も得られるのだから。実際、二人の会話には、サラの欲望をかき立てる強烈な香りがぷんぷん漂っている。
「お前、ホントにやり手だな」
「特地の重要度を考えればこそですよ、おじさん。特地の存在は、僕等が抱えていた問題の殆どを先延ばししてくれます。資源、エネルギー、安価な労働力、二酸化炭素、人口問題……どれもこれも、特地を前提に考えれば、対応も楽になります」
二人から、言い聞かせられるような言葉の数々。二人が何をしようとしているのか、その背景、目的、理由。サラはこの会話が、何かを自分に注ぎこむためになされていることに、今更ながら気づいた。
「そのためには、まず日本との関係強化だな。非常に大切な仕事だぞ。どんな手を使っても特地開発に食い込むんだ。いいな」
「任せて置いて下さいよ。既に、日本の議会にも手を回してます。企業との連携強化、メディア操作のいろいろは僕の十八番ですからね。ダイヤモンドの件もこっちで細工しますか。価格交渉しやすくなりますよ」
「そっちは遠慮しておく。ダイヤの取引価格は高くなければならないからな。何故なら、それが市場価値の安定に繋がるからだ。大切なことは、問題のダイヤを我が社が入手すること。そして、その価値を世の人が知ることだ。メディアを使うなら、その価値を大々的に宣伝するほうに使ってくれよ、いいな」
「では、そのダイヤを身につけるモデルには、サラに頼むことにしましょう」
おもむろに提示された成功報酬。
サラは、バジュリを人の良いおぼっちゃんと思っていたが、どうやら自分の目が曇っていたことを認めなければならないようであった。野心家には二種類あるのだ。飢えた狼のような存在と、静かな野心をうちに秘めて確実に進んでいく人間だ。後者とは、バジュリのような人間なのかも知れない。この男の存在を知ると、芸能界にひしめく前者のような連中がただのハイエナで、粗暴なだけの存在に思えてしまう。
バジュリの手が親しげに腰に回ってきたが、サラは気にも留めなかった。
そしてサラはバジュリに日本のプリンセスの一人に引きあわされる。
「プリンセス夢子、ご紹介します。こちらがサラ・ヴィーン」
バジュリはサラと離れる際にこう囁いた。「よろしく頼むよ。君の役割は、彼女をとにかく楽しませること。我々に好意を抱いて貰うことだ。さして難しくないだろう?」と
サラは、背筋を伸ばすと少しばかり緊張に身を固くして恭しくお辞儀した。何しろ相手は2000年の歴史を誇る皇室だ。神秘性と高貴さで比類する者は非常に少ないのである。
富を手にした者は次に名誉や格式を欲しがると言うが、アメリカ人では逆立ちしても手に入らないのものがそれである。議員や知事、あるいは大統領になれたとしても、それは任期の間であって終生のものではない。だから(彼らは決して認めたがらないだろうが)、爵位や皇族と言った身分に対する憧れめいたものが彼らの中にはあるのだ。そしてそんなものの塊みたいな存在を前にして、どう対処して良いのか一芸能人に判るはずもなく、サラは丁寧に、慎重にと会話を進めるほかなかったのである。だが、ほどなくしてその緊張もおおいに緩むこととなる。
意外と言うべきか、それともファンならば当然と言うべきか、高円寺家の2女、夢子女王殿下の関心事は、サラの映画や出演した俳優達のこと、これまでの苦労話や、次の芝居といったものばかりであったのだ。
それは、まるで、どこにでもいる普通の大学生と話しているような印象であった。違いと言えば、市井の市民に見られない気品と自然なまでに身に付いた礼儀正しさだろう。そして殿下の日常について尋ねると、もっぱら大学での生活についてが中心になった。サラは大学に入らずに芸能界へと入ったので、実は大学生活についての憧れもあって、プリンセスがどのような勉強をしていて、学校にはどのような教授がいて……そんな話を大いに楽しんだのである。
いずれにしても、日本の皇室に対して神秘的で閉鎖的という先入観を抱いていたサラは、夢子殿下を前にして「なんだか、普通の女の子なのね」という感想を抱いたのである。
そんなこともあって話に一区切り付いた辺りで「お話ししてみて、安心しました。もう少しかしこまった話題でないと、いけないかなと緊張していたんです」と告白する。すると夢子殿下は苦笑した。
「わたくしたちも、それほど特別ではないのですよ。趣味と言えば登山、フィギュアスケートをしている娘もいます。それに自転車に、時にはコンサートなんかに出かけたりしてますわ。実は、サラさまが出演されている映画も、映画館に行って拝見したんです。妹の玲子は、最近ではコミケなんかにも、足を運んだりしたそうです」
こんな風に夢子は屈託のない上機嫌さを見せてくれたから、サラは自分の役割をきちんとこなせているな、と考えていた。
そんなサラと夢子を少し離れたところから覗き見る者達が居る。
パーティの開かれた豪邸の最上階。ここに、それぞれの財閥のトップたる7人の老人達が集まってた。合衆国を、そして世界を実質的に支配するのが彼らなのである。彼らは見下ろすようにして、庭園を眺めていた。
「どうだ?」
安楽椅子に腰掛け、高級ブランデーを入れたグラスを傾けつつ尋ねる。窓際から外を眺めていた老人は、カーテンを閉じると両手を開いて告げた。
「ゲストは上機嫌だ。お前の所の3男坊は実に上手くやっているようだ」
「全く忌々しい話だ。日本人なんぞの機嫌をとらねばならんとは……」と伝導車いすの老人が鼻息荒く言い放った。
窓際の老人は宥めるように言う。
「だが、特地開発に企業連合を組んで参入することはほぼ決まった。プリンセスに繋がる人脈は大いに役に立ったぞ。なんといっても彼女の母は丸菱に繋がる閨閥だ」
執事がグラスの中身を継ぎ足してくれるのを満足げに頷いた老人は、厚い縁の老眼鏡を輝かせながら説明する。
「おかげ日本政府与党との交渉も上手く行ってる。どうも日本側としては、最初から我々を巻き込みたかったようで、件(くだん)の油田でも開発資金と技術協力を持ちかけたら諸手で歓迎されたよ。だが議会の野党がどうにもいかんようだ。我が国やEUに、分配が偏りすぎだと噛みついているらしい」
「まったく話にならん。中国や韓国にどんな開発技術があるという?」と電動車いすの老人は肩を竦めた。
「国務長官から聞いたんだが、こんな話がある。中国の軍高官が太平洋の西を中国が、東をアメリカが支配することにしてはどうかと持ちかけてきたらしい。もちろん、話にならないと一蹴したそうだが、おそらく連中は本気だろう。特地においても、下手すると半分ずつ支配しないかとか言い出すぞ」
そんなことを言いながら、ビリヤードのキューを手にしていた長身の老人が球を撞くと、小気味よい音がなった。
「我らとしては、中国をどう牽制するかだな。分配される範囲で満足するように中国やEUを説得するしかないか」
厚い縁の老眼鏡の言葉に、窓際の老人が肩を竦める。
「かと言って、我らも日本から分け与えられた分で満足することはできん。合弁ばかりでなく、単独での特地参入の手かがりを得ねばな」
「そのあたりは、ホワイトハウスに任せておけばよい。我らとしては、今得られる物を確実の物とすることだ。だがな、大丈夫なのか日本は」
「そうだ。明らかに異常な状態だぞ」
そう、世界経済を支配する財閥当主達が心配するような事態、それが日本を襲っていたのである。
[1507] 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり /正式版 53
Name: とどく=たくさん◆20b68893 E-MAIL ID:5eba37fb
Date: 2009/01/20 19:31
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『特地ブームは、今や社会現象とまで、なりつつあります』
テレビ局は、ほぼ毎日『特地』についての情報を流していた。
きっかけは以前から発売されていた、アルヌスで働いている様々な種族の女性達の写真集だった。写真週刊誌や雑誌で「特地の女の子特集」といった記事が掲載されて、それらをまとめた写真集が作られたのである。
もちろん、最初にこれらに手を伸ばしたのはごく一部のコアなファン達である。写真の主題も、見目麗しい女性達ばかりであったから、判りやすいと言えば判りやすい。だが、それらに掲載された写真は、男性の性的好奇心ばかりを追求したグラビア的なものばかりではなかったことから、次第に一般の男女までもが手を伸ばすようになっていった。
例えば、ハイエルフ。美しいテュカが泥だらけになって樹海を守り育てる姿。
例えば、亜神ロゥリィ。彼女が墓地で鎮魂の儀式を行っている神秘的な姿を、茜色の夕陽を背景にシルエットだけで映し出していた。
例えばヒト種。レレイが魔法を演じている姿は、本物の迫力を見事なまでに伝えていたのである。
PXの猫耳店員が、日だまりの中で丸くなって昼寝している姿からは「くぅ~」という寝息が聞こえそうで見る者を大いに和ませたし、ポーパルバニーのデリラが、客と談笑していた時の屈託のない姿からは、彼女の躍動するかのような活気が感じられた。
すこしやさぐれた感じの翼人ミザリィが、薄暗い悪所の街角でキセルをくゆらせながら客待ちしている姿も、なかなかに妖艶な雰囲気である。
そんな彼女たちの活き活きとした姿を映したのは、写真趣味の自衛官達。
第三偵察隊の笹川を始めとした彼らの作品は、アマチュア写真家に対するものとしては比較的権威ある賞が与えられた程の出来となっていた。そして、その余勢をかうようにして『特地』の写真集は第二弾、三弾と間髪を置かずに出版された。
写真集の購買層が大きく広がり、流行と呼ばれるまでになったのは第四弾の動物写真である。
これまでも、日本では様々な動物が愛され、しばしの間流行した。
記憶にあるだけで、パンダ、エリマキトカゲ、ウーパールーパー、シベリアンハスキー、チワワあるいはローカル路線の駅長に任命されたネコなどなど。
特地の第四弾写真集は、それらに負けじと劣らぬインパクトを見る者に与えた。
何しろ、それまで幻想種としておとぎ話かアニメ、あるいはゲームの中でしか存在しなかった動物たちの姿が、そこに写しだされていたのだから。これによって第四弾写真集は大人から子供まで広く、手にとられることとなったのである。
荒野を疾駆するサーベルタイガー。
群れを為してこれから逃げる一角獣。
愛くるしいケットシー。
両腕に翼をもつハーピーの飛ぶ姿。
逞しいケンタウロス等々の様々な獣人、モンスター達。
さらには翼竜。それも、自衛隊を空から襲おうとする翼竜を下方から撮影したものは迫力満点である。
そして炎龍。残念なことに、写真として捉えられた段階で炎龍はすでに死体となりはてていたが、その巨体に感じられる畏怖は少しも損なわれていなかった。
これらの写真は、映画の特殊効果やゲームのCGなどには無い、独特の雰囲気があったのだ。そしてその迫力、あるいは愛らしさに子供も大人も目を奪われたのであった。
これらの動物が実在することを知れば、多くの人は実際に見てみたいと思うだろう。適うことなら触れてみたいと思うだろう。その代償行為として、炎龍や翼竜、幻想種の動物たちを象った様々なキャラクターグッズが作られ、飛ぶように売れていった。
しかし、ここまでなら、ただの一過性の流行で終わりやがて静まっていったはずだ。だが、火に油とでも言うべき出来事が、これに続いた。
『特地』で大規模な油田の存在が確認され、それに続くようにして多くの鉱山の権益が確保されたことから今度は、経済界が色めき立ったのである。
以前からじりじりとあげつつあった石油、重化学工業、鉱物関連の株価は大暴騰を起こして連日のストップ高。海外の投資家がこぞって資金を投じたために、急激な円高が起こってしまう。
こうなると経済界からの特地への実地調査を希望する声は、ひっきりなしとなって抑えが効かない。以前から新聞やテレビといったメディア関係者は特地へ取材を求めていたが、これに続いて動・植物の学者達、開発業者、観光業者などが特地の民間への開放を求めて激しく迫ったのである。気の早い開発業者などは、特地に別荘地の開発する計画を発表するという有様である。労働団体も特地開発計画を、職にあぶれた失業者にとっての福音と受け取っていた。
防衛省には連日のごとく資料の公開請求が出された。
それによって開示された現地の地図や写真、各種の資料、自衛官達の報告書など、面白くも何ともないはずのお堅いお役所文書がまとめられて出版されたり、ネット上で公開されて、様々な形で人々の目に触れていった。
これらの資料の中に、これまで一部の者しか知ることがなかった『アルヌス生活者協同組合』についての記述があったことから、人々は特地の物産を入手するには、どこに連絡すればいいかを知ってしまう。
こうして特地産の新鮮な果物や珍しい民芸品などが『門』を越えて日本側へと輸入されはじめたのである。厳密に言えば、これらの輸出入には関税あるいは検疫といった様々な問題が絡んでいたはずだが、かつての今泉総理の答弁が災いした。
「強弁と呼ばれるのも覚悟で『特別地域』を日本国内と考えることにする」だ。
この答弁と、政界官界、さまざまなルートにかけられた圧力によって、それまで暗黙の了解で静かになされていた交易が、公然と行われることとなってしまったのである。
だが特地は、今なお戦地である。物の往来は許しても、一般人に門をくぐることだけは、まだまだ許されなかった。そんな中で特地へと入ることを切望する者はどうするか。自衛隊に入るしかない。
大勢の若者達が、各地の自衛隊地方連絡部や募集事務所へと殺到して列を成した。そのお祭り騒ぎのような情景はテレビ各局によって全国へと報道された。
「希望の動機はなんですか?」
向けられたカメラに対して、若者達はそれぞれに動機を答えた。
「いや、特地に行ってみたくて」
「エルフと結婚したいからです」
「ろ、ロゥリイ聖下に、帰依したいと思ってます」
「わたしはぁ、ケットシーを飼ってみたくてぇ。ユニコーンとかも見てみたいんです」
このようなことは極端な例だと思いたい。思いたいが真実でもあった。
実際に多くの志願者達が、今から自衛隊に入っても特地に派遣される隊員は主に陸曹あるいは陸士長といった中堅隊員ばかりで、入隊してもすぐに特地に派遣されることは無いと説明されると、口々に不平不満と言いながら帰って行ってしまったのだ。
しかし、それほどにまで人々の特地に対する憧れめいた熱望は、高まっていた。
戦地であるという理由で、民間人が立ち入れないのなら早く戦争を終わらせろ。そう言う要求が平和団体や野党などから突きつけられたとしても、自然の成り行きと言えるだろう。また、それとは別に、戦地だとしても門の周辺はすでに制圧しているのだから、門の近辺に限っては、民間人の立ち入りを許可するべきだという意見も出てきてしまった。
まだ戦争が終わってもいないのに、ここしばらく戦闘がないという理由で、武器使用の制限や自衛隊の活動の抑制すら語られはじめた。そして、これに多くのマスコミや知識人達が同調し、あたかもそれが大勢であるかのごとく報道されたのだ。
勿論、現在講和交渉中の微妙な時期だから政府の選択肢に制限を加えるようなことをすべきではないという健全な意見も出された。だが、これらの声は、どういう訳かマスコミによつて無視されてしまったのである。
こうして、政府の手足は様々な形で縛られていった。
そのために講和交渉の席でも、強気に事を推し進めることが出来ず、結果として会議の進展が妨げられてしまうのだから、皮肉と言えるだろう。
にも関わらず、マスコミは進展しない状況にますますいきり立ったのである。「政府は何をやっているのか」、と。
そんな中で、国連視察団が特地へと入る。これに随行する形で取材カメラも入ることとなって、いよいよ特地の映像がライブ中継される。
多くの人が、テレビに釘付けになっていた。
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「みなさん、わたしは今特別地域、通称『特地』へと立っています。ここは、地元民の方々がアルヌスと呼ぶ丘の頂き近くです。銀座にある『門』は、こんな場所へと繋がっていました。ここに来て最初に思ったことは大変に空気の澄んだところと言うことでしょうか。実は私は、花粉症持ちなのですが、ここでは全く症状が出ません。陽射しは少し強めで、まるで地中海のようです。ですが風がからっと乾いていてしかも涼しいので、大変過ごしやすく思えます」
本番前のリハーサル。
栗林菜々美はカメラへの映り方や立ち位置などを微妙に調整しながら、ティレクターから手渡された台本に若干のアドリブを加えて時間調整を試みていた。手中のストップウォッチをチェックすると、定められた時間内にはちょっど収まるようだ。
「しかし…」と、台本を読んで思う。
マスコミという存在は、なんだか中世暗黒時代のキリスト教会に似ているな、と。
かつて、教会は「神との周旋は教会が独占する」と聖書の何処にも書いてないことを声高に主張し、あたかも自らが神の代理人であるかのごとき権威をふるった。当時の支配者は「王権は神より与えられた」と称して己の支配を正当化していた。故に、神を代行する教会には、靡かざるを得なかったのである。
腐敗した教会は、自らの意思を神の意志と偽って専横の限りを尽くした。自分は今、大衆を代表しているかのごとく振る舞い、『誰か』の意向をまるで大衆のもののごとく語っている。
けれど、『誰か』って誰だろう。
教会なら法王だろう。ではテレビ局では、放送作家?局長?ディレクター?スポンサー?それとも広告代理店。あるいはもっと別の何かだろうか。
栗林は、そんなことを考えながらも背後の風景を紹介するかのように振り返って、大仰に手を広げた。アナウンサーとして訓練された栗林菜々美は、考え事をしていても、自然な笑顔を形作り、なめらかに言葉を発することが可能となっている。
「門を越えた異世界がこんなところだとは思ってみませんでした。この丘には、現在陸上自衛隊の特地派遣部隊が駐屯して門を守っています。ここから麓を見下ろすと、航空自衛隊の滑走路が見えます。また、あちら側……南側の麓には、地元の人達が暮らす街があります」
カメラが、ゆっくりと旋回して丘から街の風景を映し出す。対比するように自衛隊の施設が映し出される。台本によると、ここでスタジオのキャスターが感想を述べることになっている。
『ずいぶんと威圧的な雰囲気ですね』
そのコメントに続くようにコメンテーター達も口々に、平和的な風景にそぐわない施設だ、とか、地元の人が生活している場所の近くに戦闘が起こるかも知れない施設をつくるのは、非常識、言語道断などと続けることとなっている。
最近売れてきているグラビアアイドルに与えられたセリフに至っては、「こわ~い、鉄砲があるよ~」(大仰に怖がって見せて)とまで書いてあった。
それに続いて栗林がこの中継がはじまる前に、街の様子を取材した映像があることを告げると、生中継の画面は撮り溜めた映像へと変わる予定だ。
それは2時間ほど前の映像で、栗林菜々美が街を歩く姿から始まる。
カメラは、荷物を積んだ荷車や、建設中の建物などの様子を紹介して進む。
「街の近くで、自衛隊が駐屯することをどう思いますか?」
露天のような食堂の料理場で肉を焼いていた料理長は、つきつけられたマイクに戸惑った様子を見せた。
映像は、栗林菜々美が質問しそれに料理長が答えるという構成になっている。
通訳をしている自衛官の姿や声は映像からはさりげなくカットされている。だから画面では、料理長が引きつったような表情で現地語で答える場面が流され、それにテレビ局のつけた日本語音声が被されて流れるのだ。
「同時通訳の日本語音声)おっかないね、とっても不安だよ。(かすかに聞こえる現地語→お陰で、安心して暮らしているよ」
「戦争についてはどうお考えですか?」
「同時通訳の日本語音声→自衛隊にはとっとと帰って欲しいよ。こっちは平和に暮らしていたのに、迷惑な話だ。(かすかに聞こえる現地語→はやく終わると良いね。無事に帰って欲しいよ」
編集の終わった画像を下見して、菜々美は諦念にも似た心境で唇を噛んだ。
これがマスコミのやることだ。これが現実だった。
例え嘘でないにしても、都合の悪い出来事は伝えない。丘の麓にある街が、避難所から発展したものだということを知っているはずなのに、あえて触れないことで視聴者に意図的に誤解させようとしているのだ。
あるいは、同じ出来事をしつこく報道する。
関係のない二つのことを並べて、見る者に関係あるかのごとく印象づけようとする。
さらには、長い文脈で語られたことの、一部分のみを抽出して伝える。
「この街で働いている、女性をどう思いますか?」という自衛官に向けられた質問に対するコメントは、一言だけを切り取られて作られていた。
「……可愛い……」
「……ちょっと、ドジ。だが、それがいい……」
「……俺の嫁……」
これらの手法を駆使してマスコミは真実を、誰かにとって都合良く加工するのだ。
実際には、とある食品がダイエットに効くというコメントを、あたかも海外の研究者がしたかごとく日本語音声を被せて流し視聴者を騙したり、海外からのレポートでは、インタビューの内容を改変して報道したりという前科がある。
他の例を挙げれば、医療ミスとも言えない事故を医療事故と声高に叫び、医師達にはドラマかマンガにしか現れないような、超人たることを要求して、現場で働く者の士気や熱意を阻喪させる。結果として、救急医療体制を支える人材は逃散していく。そりゃそうだ、全力を尽くした、でもダメだったということは医療に置いてはいくらでも転がっている。それを責められて、はげしく詰られ、時に逮捕されると言うのでは割に合わない、やってられないのだ。
後に残るのは、救急現場が患者を受け容れることができないという現実。
それでも現場に残って必死で現状を支えているスタッフを、さらに鞭打ち非難する。「たらい回し」「受け容れ拒否」などとレッテルづけて。
現実は違う。たらいまわしではない。拒否でもない。ただベットが空いてない、診察する人材、看護する人材がいないというだけなのだ。この現状のA級戦犯は果たして誰だろうか。しかし、彼らは、自ら認めることは決してない。
やがて鞭打つべき相手が弱って来て、叩き甲斐がなくなって来ると、最後には非難の矛先を政府へと向ける。結局、自らの罪を省みると言うことはしないのだ。
栗林菜々美のマイクはPXで働いている猫耳娘達にも向けられた。
何がどうなってるのか判らない猫耳メイドは、いきなりのことで困惑していた。その表情が、怯えているようにも見えた。
「日本の男性をどう思いますか?」
「同時通訳の日本語音声→ちょっと怖いかな。変な目で見るのは止めて欲しいです(かすかに聞こえる現地語→親切で、とても礼儀正しいと思うニャ」
「自衛官に言いたいことがありますか」
「同時通訳の日本語音声→とっとと、どっかに行って欲しいです(現地語→みんな、無事に帰ってきて欲しいニャ)」
これらの映像を流し終えたあと、再び菜々美のバストショットに画面が戻ることとなっている。
菜々美は、再びストップウォッチを押すと予定されているセリフを、ゆっくりと語り始めた。
特地の現状を、今後の国連視察団の活動予定、そして自衛官達の様子を。菜々美なりに努めて冷静に、客観的に、事実のみを……しかし。
「よし、そこまでにしよう。もう少しで本番だからなスタンバッておけよ」
ディレクターの声で、リハーサルは終わった。
台本のページを捲れば、コメンテーター達のセリフは以下のように続く。
「まったく自衛隊の連中は何をやってるんやろ。歴史教育をきちんとやっとらんから、現地の人を怯えさせるようなことになるんや。過去を反省してないからや」
マスコミは、学校や教師に自己中心的で、過剰な要求を突きつける親をモンスター・ペアレントとレッテルづけた。
病院や医療従事者に自己中心的で過剰な要求を突きつける患者をモンスター・ペイシェントと名付けた。
ならば、現状のメディアはどうか。モンスター・マスゴミと称するのがふさわしいかも知れない。
彼らの行動原理に公正という言葉はない。映画「靖国」の公開が中止されようと言う時は、言論の自由、報道の自由に対する挑戦だと息巻いた癖に、某国の圧力には腰砕けになってヘタリアを放送中止にする有様だ。
「わたし、何やってるんだろう」
菜々美はそう呟いて、小さく嘆息した。
台本を思い起こしながら、本番を待つ。
あと数秒で本番が始まる。カメラが構えられ、音声がボリュームを確認し、ディレクターが時計を読み上げる。
「3、2、1、キュ!」
中継が始まった。
テレビ画面が『特地』の風景へと変わり、菜々美は台本通り話し始めようとした。
だが、その瞬間に各家庭に配信されたのは、予定していたような画像ではなかった。
台本も予定表も吹っ飛んだ。人々は、衝撃的な映像に視聴者は息を呑み、慌てて子供達の目を塞ぐ。
轟音をまき散らして舞い降りてきたヘリ。
そこから担ぎ出される担架。慌てふためく自衛官達。
喧騒と怒号が響く中で、傷つき、血にまみれた自衛官達が次々と病院へと運ばれていく。その血の惨状をテレビは余すことなく、日本中に知らしめてしまったのである。
皇太子ゾルザルの意向を受けた、ヘムル、ミュドラ、カラスタの3将の打った手は、悪辣と呼ぶべき領域をさらに、踏み越えたものであった。
彼らは、兵士達の装備から所属を示す全ての徽章類を外させた。
今となっては知るよしもないが、自分達のする行為が明らかに不名誉な振る舞いであることを承知していたのだろう。徽章類を外すことで、帝国の名誉を守ろうとしたのかもしれない。だが、実際には彼らの行為は後世に末永く語り継がれていくこととなる。
彼らは配下の舞台を、少人数に細かく分けると、商人や巡礼に扮してアルヌス近辺に潜入させ、村落や、街を襲わせたのである。そして、まず最初に女性や子供を人質にすると、残された男や年寄り達にこう宣言した。
「人質を無事に返して欲しければ、ニホン人を殺して、首を差し出せ」と。
抗するべき手段を持たない村人達は、自分の家族を救うために、仕方なく農具や、包丁を手にするしかなかった。
そんな中、事情を知らない自衛官達が定時パトロールで村落に入る。
既に、地元民達とは顔見知りとも言えるくらいになっていたから、いつもの調子で近づいて気さくに声をかけた。
「何か、変わったこと無い?」
重々しい雰囲気に、一瞬何があったのだろうと思ったが、もうその時には遅かった。
気がついた時には、周囲を取り囲まれて四方八方から襲われてしまったのだ。
一度、このような衝突が起これば、疑心暗鬼が起こり誰が敵で誰が味方か見分けようがない。
「近づくな、撃つぞっ!」
「待ってくれ、待ってくれ。俺たちは違う」
そう言いながらも後ろ手に包丁を隠して近づいてくる町民達。
自衛官は、躊躇った者から殺されていき、隊員達は生き残るためには引き金を引くしかなかったのである。
「仕方ない。撃て、撃て、撃てっ!!」
自衛官達は無差別に発砲するしか選択肢がなくなっていた。
こうして、折り重なるように倒れていく農民達。街の住民達。
それを、遠方から眺めて嘲るようにして笑う帝国兵。彼らの足下には、人質とした女や子供の骸が転がっていた。
自衛隊の反撃が始まれば、街や村は瞬く間に制圧される。
そして、僅かに生き残った住民達から事の真相が知らされたのであるが、時は既に遅く、各地で自衛隊、住民双方に甚大な被害が発生してしまったのである。
マスコミは、動転してしまった。
そして自分達がそれまで、どんな要求をし、どんな批判をしていたのかもすっかり棚に上げ、自衛隊の手ぬるさを批判し、政府の対応に激しい非難を始めた。
このような状況下で、福下総理は政権を投げるようにして辞職を宣言。
「麻田さん、貧乏籤を引かせることになりましたねぇ」
「しょうがねぇさ、これも何かの縁って奴だろからな。福下さん、これまでご苦労さんでした」
こうして与党は、麻田太郎に内閣総理大臣の椅子を託すことにしたのである。
だが、マスコミにとって麻田総理は不倶戴天の敵であった。
その理由はいくつもある。代表的な物としてはタカ派として、日本を取り巻く諸外国に対して厳しい態度でとることや、ネット世論の支持を受けていることなどがあげられるだろう。
マスコミは、インターネットに対して激烈なまでの憎悪を抱いている。『ネット』とはマスコミからすれば『大衆』と『個』との仲介者としての権益を脅かす存在であったからだ。
それはあたかも、かつてのカトリックが、プロテスタントを見るような心情と言えばよいだろう。前述したように、中世の教会は神との仲介役を独占していた。これによって教会は様々な権益を得ていたのだ。
民主主義の体制下では、政権は国民から託される。故に政府は『大衆』と『個』とを結びつけるマスメディアに靡かざるを得ない。マスコミは情報を独占することで、第4の権力と呼ばれるまでになったのだ。だが、ネットワークの存在はそれを脅かす。ネットワークは真実を暴き、マスコミの恣意的報道や、腐敗の現実を浮き彫りにしてしまった。故にこれを憎み、貶めようとする。
だから、ネットの嘘を検証すると称しながら、自ら嘘の内容を垂れ流すWEBサイトを作り、あるいは新聞社が、日本人女性を非常に冒涜する内容の捏造報道をネットで垂れ流したりする。こうした行動の底辺には、そのようなルサンチマン(妬みから来る憎悪)があると思えば理解できるだろう。
だからマスコミは麻田が政権を執る機会が廻るたびに、ネガティブキャンペーンを繰り広げてこれを妨害したのだ。そして麻田政権が誕生したなら徹底的に叩くのである。
麻田は、まだ何もしない内に逆風に晒された。
どこで酒を呑もうと、本人の懐から金を出すなら当人の勝手だろうに、それが非難される。
手を挙げたら手を挙げたと非難され、手を下ろせば手を下ろしたと非難される。
何かを言えば軽率に物を言うと非難され、口を閉ざせば黙っていて何も言わないと非難される。
思案中の考えを開陳すれば、独り善がりと非難され、いろいろな意見を聞いて、それを修正すると今度はブレたと非難される。しかも、長い話の脈絡を無視して、一部分だけを切り取ってそれを流布するという阿漕さ。
度重なる批判も繰り返されれば、メディア・リテラシーを持たない大衆は、麻田とはこんな悪い奴だ。あるいは頼りにならないという気になってしまうだろう。大衆とは、大勢に従ってしまうものなのだから。
さらに、マスコミは麻田政権に対して、旧き教会の大司教のごとく破門状を突きつける。曰く、民心からかけ離れていると称して。
「派遣切りにあって職がない。今日明日を何とかしなければならない困ってる人がいる」とアナウンサーは叫ぶ。今何かしなければと、政治が求められていると叫ぶ。しかし、その裏で、地方自治体の臨時職員募集定員に対する応募者が、実は1割にも満たないという現状については殆ど報じない。職がないのではないという現状を全く報じないのだ。
マスコミ・特定の政治思想を持つ者・そして日本にタカ派の対応をとられると困る海外勢力。これら複合体の共同意図は達成され政府の支持率は右肩さがりに下がっていった。その調査の結果ですら、疑わしい物であったが人々は妄信して疑わない。
そんな連中が作り上げた雰囲気に乗じて、野党は無責任に叫ぶ。
「不景気の問題なんですが……」
「政権交代すれば上手く行きます」
「医療問題……」
「政権交代すれば上手く行きます」
「失業もんだ…」
「政権交代すれば上手く行きます」
「外交もん…」
「政権交代すれば上手く行きます」
「お小遣い」
「政権交代すれば上手く行きます」
「メタボ」
「政権交代すれは上手く行きます」
「恋人ができないんですけど」
「政権交代すれは上手く行きます」
このような事態に動揺したのか、野党の批判に呼応するかのように、麻田を支えるべき与党の政治家すら日和見して批判を始める。
彼らは、批判することで、責任から、義務から、罪から逃れられると思い込んだかのように批判する。そう、彼らが批判者という立場に身を置きたがる心底は、結局の所、責任逃れの免罪符を得る為でしかないのだ。
腐敗した教会が免罪符を売ったように、マスコミは『批判』という名の免罪符を売って歩いた。増税についても不評に決まっている。だが、結局は国のために必要だと思うからあえてそれをするのである。だが、責任感に欠けた連中は、来るべき選挙の際にこう言いたいのであろう。
「その件については、私は反対だった」
野党も反対反対と言いながらも、麻田が不人気な増税などの施策を済ませてしまうことを内心で望んだ。そうすれば、自分達が政権を執った際にその成果だけを自分の物とすることができるからだ。故に、審議拒否する。政府与党が強行採決することを望んでいるからだ。
もし本当に反対なら、どうすれば良いのかを提案しなければならない。しかし、提案するからにはその提案に責任が生じる。しかし責任はとりたくないが故に批判しか出来ない。提案したとしても、実現不可能な空論ばかり。
誰もが責任から逃れたがっている状況。
急激に泥沼化を始めた『特地』の戦況。
こんな混乱の中で、全てを救う術はない。誰かを助けようとすれば、何かを取りこぼすのだ。それでも、あえてそれをしなければならないのが政治だ。取りこぼす事への非難を恐れては、政治など出来ない。全てを救う正義の味方は物語の中にしかいないのだから。
政治家麻田は、猛烈な逆境の中で歯を食いしばって、情勢の推移を見据えていた。
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一方、帝都のゾルザルは、有頂天となっていた。
早馬を連ねて届けられたヘムル将軍からの第一次戦果詳報が、彼の期待を遙かに越えたものとなっていたからだ。
その報告の文言は、戦果報告の常とでも言うべき過剰な修飾と麗句によって彩られたものであった。当然、戦果その物も、僅かしかない肉にどろどろに溶かしたダンボールを混ぜて水増しされた肉まんじゅうであることを疑わねばならないのだが、ゾルザルは、報告文をそのままに信じてしまった。
「ピニャ。これを見ろっ!」
届いた文書を振り回すようにして、まるて己が功績のごとく言い立てるゾルザルの姿は、ピニャの目に、無邪気な子供が喜んでいるかのように映った。
その戦果が、どのような方法でもたらされたものかを知ることが出来たなら、ピニャとしてももう少し違った感想の抱きようもあったろう。実際、後に真相を知ったピニャは、あの時にこのことを知っていたら、後の悲劇は回避できたかも知れないという後悔に責め苛まれるのである。だが、この時点ではピニャにそれを知るよしもなく、ゾルザルが動員可能な戦力の規模から推察して、小部隊が不意の遭遇戦で、まぐれ勝ちした程度に考えたのである。
当然、その報告に過剰な修飾や水増しがあることも見抜いている。とは言え、水増し分をさっ引いても、戦果は戦果だ。アルヌス攻略戦以来負けっ放しだった帝国が日本国に一矢報いたと聞けば爽快な気分になれる。(尋常に戦ったのなら、だが)
勿論、これで戦況を完全に逆伝出来ると思うほど楽天的ではない。ただ、小規模にしても勝利を重ねることが出来れば、講和交渉においても帝国側にとって有利な材料になるのではないかと思うのである。
現在、会議は大項目で合意を見ており、現在細目を詰めている段階だ。
議題となっているものとしては、貨幣の持ち出し制限、関税、刑事・民事・商法の整備とそれが整うまでの移行期間等についての話し合いだ。その中の一つに、日本企業が帝国内で得た利益に、帝国が税金をかける権利を有するかどうかがあった。日本側としては当然免税権を、帝国側としては自由な課税権を保有することを求めて対立していた。
ピニャの見たところ、最近の日本は講和を急いでいる。だがらギリギリのところで譲歩して来て、一定の率の範囲内で決着するように思えた。ただ、その一定の範囲となる数字がどうなるかが問題なのだ。
日本が帝国で行おうとしている経済活動の規模がどれほどのものかはまだ判らない。だがイタリカ経済の活況から見ても、利率が「1」違うだけで、どれほどの利益が帝国にもたらされるか予測できるのである。
それだけに、帝国側に有利な条件がそろうことは、とても良いことなのだ。
ゾルザルの自慢は、ほぼ1日をかけて講和派の元老院議員や、閣僚達の前で繰り広げられた。そんな中には、これが日本との戦争の反撃の狼煙になると勇気づけられ、息巻いた者も多い。講和その物を苦々しく思っていた勢力には、日本、恐れるに足らずという雰囲気が広がりだした。
こうして主戦論派はゾルザルの強行姿勢を高く評価し、大々的な反撃に打って出るべきだという意見が俄に勢いを得たのである。
これに批判的なのが、まだ日本に家族が捕虜となっている貴族、あるいは講和派の貴族達であった。特にキケロなどは、ピニャ同様に日本の兵器などを、見せつけられたこともあってまともに戦ったら勝てるわけがないと見ている。だが、そんな彼の姿勢を主戦論者は「怯懦」「売国」と激しく非難したのである。
また家族が捕虜となっている者も「家族のために国を売るのか」という論調で激しく詰られれば、講和を強く主張できないでいた。
日本政府が激しいバッシングの中にあるのと同様に、帝国政府も主戦論派と講和派の対立が浮き彫りとなっていったのである。
テューレは、ゾルザルの執務室の脇に座り、俯いていた。
傍目からは、意気消沈しているかのようにも見える姿だ。
実際、ゾルザルはテューレの希望をうち砕くように、緑の人の噂を流す者の抹殺がなされたことや、ニホン軍をどれだけ苦しめたかを自慢げに語った。
テューレが悲しみ、心を閉ざすような態度を取ればとるほどゾルザルは、喜び悦に入り、彼女をさらに苦しめ、悲しめようと絶望を囁いたのである。
そんな風に苦しめられるテューレの姿を見て、ポーパルバニーを蔑む貴族達も流石に痛ましく思った程である。
だが、誰も知らない。俯いたテューレが暗い喜びで充ち満ちていたことに。
悲しみに打ち拉がれているかのように、両手で覆うその顔には、満面の笑みで彩られていたのである。
帝国と日本とが激しく戦い、多くの死者が出たという知らせは彼女にとって喜びだったからだ。更に戦争が激化して、多くの死者が出て、ゾルザルが、そして帝国が滅ぶことをテューレは望んでいたのだ。
とは言え、テューレにも気がかりなことがないわけではない。
以前命じた紀子暗殺について、失敗したのか成功したのか、いずれの報告もないからである。そもそも、ボウロがまったく顔を見せないという事態はこれまで無かったことだ。テューレとしても、何かゆゆしき事態が起こっていると考えざるを得ない。だが、テューレからボウロに連絡を取る術はない。ただ、ひたすらじっと待つしかないのである。
何とか、こちらからボウロに連絡を取る術はないか。
テューレがそんなことに思いをめぐらせていると、そんな彼女に声をかける者があった。
「テューレさん。どうしました」
見れば、料理人のフルタであった。
ゾルザルが皇太子府を開府した際に、専属の料理人として指名されたのだ。彼の料理は大変に評判が良く、テューレ自身も彼のにんじん料理は気に入っていた。
そのフルタが、自分の姿を見るたびに、何かと声をかけて来ることにテューレも当然気がついていた。料理の味見と称して、何かと差し入れてきたり、ゾルザルの好みを測るためと称してテューレからいろいろと話を聞きたがりもするのだ。
テューレとしても、好意的な態度を取られて悪い気はしない。それに、いずれ何か利用価値があるかも知れない。そう考えるとこれまでの態度を改めて、可能な限り相手をするように心懸けていた。
「フルタか……何?殿下なら、小用で席を外されているわ」
わざと、目を擦ったりして泣き顔を見せまいとしているように振る舞うテューレ。その芝居にフルタは騙されたのか、心配そうな表情を見せた。
「もしかして泣いてました?」
「ううん。気にしないで」
「気にしますよ。また虐められたんですか?」
「お願い。優しくしないでっ!」
惨めになるから。そう言ってテューレはそっぽを向いて見せる。案の定、フルタはテューレが期待したような、同情的な態度をいっそう強めた。
テューレは内心で「チョロい奴」と思いつつも、自分自身でも芝居なんだか本心なんだか判らなくなるほどの名演技で、戦争でニホン人がたくさん死んだこと、ゾルザルがそれを自慢げに語って、それが悲しいことなどと告げたのである。
フルタは「そう……ですか。殿下がそのようなことを」と、腹の底から声を響かせた。
この男、怒ってる。しかも心底怒っているとテューレは感じた。
何というお人好しだろうか。この男は、自分の境遇に同情して、腹を立てているのだ。
この時、テューレに天啓がひらめく。このお人好しを利用すれば、ボウロと連絡をとれるかも知れない。いや大したことではない。ただ、手紙を届けさせるだけでもいいのだから。
そう思うと、テューレは健気に元気を取り戻したような表情を作るとフルタに手を伸ばして手を取った。
「ありがとう。慰めてくれて」
「いいえ。でも、大丈夫ですか?」
「ううん、元気出たわ。よかったら、また貴方の夢の話を聞かせてくれる?」
ゾルザルに専属の料理人になれと命じられた時、フルタは最初、いずれ自分の店を持ちたいからと言って断った。まさか断られるとは思っても見なかったゾルザルは、これに激昂したのであるが、自分の店についての夢を真摯に語るフルタの決心を聞いて何かを感じたらしく、素直に要求を取り下げた。そして、当面の間という条件で互いに納得したのである。
その場に同席していたテューレもこれには驚いた。
ゾルザルの求めに平民風情が面と向かって刃向かい、しかもそれをゾルザルに納得させた例は寡聞にして知らない。
フルタの語った何が、ゾルザルに要求を引っ込ませたのか、テューレには理解できなかったのである。ゾルザルを操り災厄をまき散らそうと考える身としては、それが以前から気になっていたのだ。