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第 五 章 中国広東にて

紀元八世紀初め、世界的な大旅行家であるマルコポーロやコロンブスよりも五百〜六百年も前に、新羅の人であった慧超が世界旅行をしていて、中国広東も訪 れていた。彼が朝鮮人の中では何番目にこの暖かくて美しい港口都市を訪れたのか、そして、桂応祥は何番目なのかは知る由もなかった。

しかし、桂応祥のようにこの町に長い間留まって中国の遺伝学と蚕業の発展のため献身的に働いた人は他にはなかったであろう。

《光明号》に乗って香港を経由して広東に到着した桂応祥は、八年三か月間も、この南中国最大の港口都市で科学研究事業に従事した。

自立的な科学研究事業にはじめて最初の情熱を傾けたこの地で、桂応祥が何をしたのかについては、詳細な内容を知るすべがない。もう桂博士が逝去されて二 十余年になり、彼がときたま昔の生活についてとぎれとぎれに話したのを記憶していた人々も、消えかかった記憶をたどって少しずつ話すだけである。

一人の科学者が歩んだ一生を誇張せず事実ありのままに話すために、やむを得ず、その時から二十余年の歳月をさかのぼっって見るのがよさそうだと思われる。

一九五三年初秋、桂応祥の長男、桂元参がわが国の農業省代表団の一員として中国を訪問したことがあった。元参は、父の意志通り蚕業部門学校を卒業し、解放後には載寧支場責任者として働いていた。

代表団一行は、中国同志達の真しで同志的な歓待を受けて、長春、審陽、北京を経て南中国の広東へ到着した。元参は、飛行場に出迎えた市政府農業副責任者 達を通じて、父の忘れられぬ親友である梁潘傑教授が中山大学蚕桑学部主任として以前と変わらず教鞭を執っていることを知った。

桂元参は宵の口に梁潘傑教授の家を訪問した。夕日は山を越えて行ったが、庭園には真昼に暖められた空気が濃くたちおおっていた。大切なお客様が訪ねて来 るとの知らせを受けて、庭まで出てきた梁潘傑は、車から降りてきた元参を熱く抱擁した。元気で丈夫であったが、頭は真っ白で目の下の皺が垂れはじめた梁潘 傑は、感極まって話した。

「私は、若かりし桂応祥が生き返って、再び現れたのかと思った。不思議なほど君は、父親そっくりだ。」

「先生!」元参は梁潘傑の両手をぐっと力をこめてつかんで話した。「私が祖国を出るとき、父に、広東を訪ね梁潘傑先生に必ずお会いして、挨拶を伝えて欲しいと言われました。」

「有り難う、有り難う。」

梁潘傑教授は過ぎ去った過去を懐かしんで、客を応接室へ案内した。丸い食卓には、この地方特有の焼いたアヒルや蓮根の揚げ物、筍料理など、一番大切な客にだけもてなすものがいっぱい並べられていた。四名の大学教員達がまた一行を喜んで迎えてくれ、食卓についた。

「さあ召し上がって下さい。この料理は、アヒルに赤土を塗って半日間焼いてつくる、わがふるさとの有名な料理です。」

梁潘傑は杯に酒をなみなみと注ぎながら、大きな箸で焼いたアヒルの肉料理を桂元参の受け皿に次々と置くのであった。

「今日は、自分の家に帰って旅の疲れをとるのだと思って、心置きなく飲んでくつろいで下さい。」

静かで柔らかい梁潘傑の語調には、肉親だけに感じる 暖かい人情味が満ちあふれていた。二十余年前のその時にも、梁潘傑は広東に来た父をこのように真心を尽くして世話されたのだ、と思うと感慨無量であった。

南方の熱い太陽がまぶしい光をまき散らしていた朝方であった。梁潘傑は、元参一行を広東中心街からかなり離れた所にある中介農工学校へ案内した。

背高く育った真竹やコケモモの木が密生している学校後園を奥深く入っていくと、赤煉瓦の単層建物が一軒現われた。木が涼しい陰をつくっていた庭角には、 花崗岩の碑石が立っていた。石の表面に丁寧に彫って建てられた碑石には、『一九三〇年春から一九三八年十月まで、朝鮮の蚕業科学者桂応祥がこの家で科学研 究事業を行い、広東地区に適合する新しい蚕品種を十数種も育種した。』という文章が刻みつけられていた。

熱いまなざしで碑文の文章をなぞっていた梁潘傑は、丸顔に粛然とした表情をした。

「君の父親は、超人間的な意志を持った、まれにみる科学者であった。その頃、桂先生がここで新しく育種された蚕品種は、今でもわが広東地区で広く飼育されている。我々はこのことを永遠に忘れないであろう。」

碑文の前でなかなか離れようとしない梁潘傑の姿は、彼が、その頃ここで生活していた桂応祥をどんなに貴重に思い大事にし、末永く追憶していることがうかがわれて非常に感動的であった。

梁潘傑教授は一行を家の中へ案内した。南方へ突き出た窓から、銀色の荒い絹糸のようなまぶしい太陽の光が静かに流れてきていた。部屋の一方の隅には、真竹で編んだ椅子が置いてあり、そこから少し間隔をとったところには、栗色の対のずっしり重い机があった。

その机の上に、きめが細かくて美しい木の彫刻品のように整えられた標札が置いてあったが、その標札には次のような文章が書かれていた。

『朝鮮の蚕学科学者桂応祥博士が使われた机。』

一行はすっかり開け放たれた窓下の円卓にずらりと並んで坐って、独特な香りをかもし出す紅茶を一口ずつ飲みながら梁潘傑教授の話を聞いていた。

「桂応祥先生は、この部屋で生活されているときには、そこの部屋の戸の上の壁に真っ青の龍傑剣がつるされていました。---」

---広東は中国の南の関門である。朝鮮の大旅行家・慧超の「往五天竺国伝」(インド旅行記)にはペルシャ語で書かれた文章のある箇所で、次のように指摘されている部分があった。「---船の航路を通って中国広州に行って絹、糸類を持って来た。」

古代から、中国の絹は、広東を経てシンガポール、インド、イラン、遠くはヨーロッパまで輸出された。しかし、桂応祥が広東へ来たとき、この地帯の養蚕業 は先祖伝来の方法から大きく抜け出ていなかったようで、現代的な科学的土台に基づく蚕繭生産を広める事業はまさに始まったばかりであった。

梁潘傑と一緒に広東に着いた桂応祥は、先ず、中国各地で飼育されている数百種の蚕品種を収集して純系に分離する事業に着手した。従来では、養蚕業者は、同じ品種同士の蚕を掛合わせることは品種の退化だけをもたらすと考えられてきた。それは事実であった。

しかし、特有の性質を持った品種を取り出すことこそが、遺伝の法則を利用して優秀な一代雑種の品種を得るための決定的な条件であった。梁潘傑は、中介農 工学校に蚕育種実験室をつくっておいて、新しい蚕品種を育種出来る条件を急いで準備して置いたのだ。そんなに知られていないこの学校の実験室が、大きな科 学研究機関の研究室に負けないぐらい立派に設備が整えられていることについて、特別に言及する必要がある。

梁潘傑と桂応祥の抱負は大きかった。彼等は、最近年間に世界生物学界で達成された最新成果を利用して、この研究室で南中国に適応する生活力が強く生産性 が高い優良な蚕品種を数多く育種して、広く普及させることを計画したのだ。また、この学校の蚕桑学科は、先進的な蚕一代雑種体系を全般的に導入するのに従 事する新しい働き手を育てることを目的としたのであった。

一方、桂応祥は、中山大学農学部教授として招聘されて、全国各地から入学した才能ある学生達に「遺伝学」や「蚕解剖生理」などを教え始めた。これもまた、中国で独自に一世代の遺伝学者を育成するための事業中の一部分であったと言えた。

彼が、中山大学総合講義室で現代科学がなしとげた大発見の一つである遺伝子や染色体についての講義をし、ショウジョウバエで染色体の正体を学生達に見せる時間には、講義室がいつも新しい知識欲に燃えた大学生達で超満員となった。

いつの日か、梁潘傑が他の大学教員達と一緒に桂応祥の蚕解剖生理時間に教授参観をしに、講義室に入ったことがあった。

桂応祥は、前のテーブルの上に顕微鏡を置いて鋏と小刀で蚕を解剖して、その組織片をきり取っておいた。彼は、学生を一人ずつ呼んで蚕の組織片を子細に観察させていた。指先ほどの小さい蚕のなかに広げられた神秘の世界は、学生達を驚嘆させた。

この時、ある学生が座席からすっと立ち上がった。

「先生!蟻蚕でも絹糸を紡ぎ出す繭糸腺を観察することが出来ますか?」

しばしば、新しく現れた教授の実力を試してみるために、大学生達がしてみる質問であった。梁潘傑は緊張した。蚤ほどの蟻蚕から繭糸腺をきりだし学生達に 見せることは、何年間も蚕解剖をやって来た彼にしても、今初めて聞くことであった。しかし、桂応祥は落ち着いた態度で学生達を見回した。

「蚕の繭糸腺は、蟻蚕の時からはっきりと見られます。関心のある学生は、拡大鏡を持って前に出てきなさい。」

質問をした学生と何人かの学生達が、前に出てきた。桂応祥は解剖針を取りだして、ごみほどの蟻蚕の頭の周囲を別に狙いもしないで突き刺して取りだし、学生達の目の近くにかざし見せた。

「さあ、拡大鏡で解剖針の先を見なさい。」

学生達は忙しく拡大鏡で解剖針をのぞき見た。瞬間、彼等は各自驚嘆して叫んだ。「はい。確かにはっきりと絹糸がちらちらしています。」

自信満々で正確な彼の知識は、講義のとき、何時も学生達の心を完全に捕まえた。桂応祥は、何時でも、自分の講義案を各国の生物学者達があげた新しい成果で補充し、豊富で生き生きとしたものになるように精力と時間を惜しまなかった。

彼の机の上には、いつも世界各国の生物学雑誌が山のように積まれていた。特に、自分の専攻分野である実験遺伝学分野については、日本の田中や永本が何を していて、フランスの誰かは何をしているのかについて詳細に知っていた。彼の講義を聴けば、世界生物学界の動きを手のひらの筋のように詳しくのぞき見るよ うであった。その頃には、中介農工学校では、先進国の生物学界で最新科学を開拓していた遺伝学はすでに神秘なものではなかった。好奇心いっぱいの学生達の 前でされる、蚕の交配やそこから分離して出てくる蚕を数えることは、普通飼育工達もやるありふれた実験となっており、特異な広東蚕の形質を支配している遺 伝因子を解明して新しい蚕品種を育種する事業が活発に行われていた。

桂応祥は梁潘傑と相談して、独自に育種し始めた蚕品種を中介一、二,三_と名前をつけた。中介農工学校では、独自に科学論文集をだす必要性が提起され た。梁潘傑の段取りで、中介農工学校研究報告という科学雑誌が発刊されはじめた。この研究報告には中国で執筆された桂応祥の科学論文が体系的にのせられて いた。

梁潘傑には、ある日、桂応祥がシャーレに蚕をのせ興奮して彼の部屋へ訪ねてきたことが忘れられない。

「梁先生、これを見てくれ。『台召』品種を純系分離する過程で、こんな新しい系統を発見しましたよ。」

机の上には、以前に見られなかった赤い蚕や黒い蚕、油蚕などが置いてあった。赤い蚕は温帯種として知られている品種と似ていたが、黒い蚕はどこにもない完全に新しいものであった。

桂応祥と一緒に、おおよそ二百余種の蚕品種を純系分離し固定させることができたとき、梁潘傑の喜びは推し量れないほど大きかった。それは、将来、中国各 地で散在している蚕を純系分離してそれらをうまく組み合わせれば、今まで夢に描いていた立派な蚕品種を数多く創り出せる無限の可能性が大きく開かれたから だった。まだ科学者の手が届いていない南中国の広い蚕産地は、新しい蚕品種を育種出来る無限の可能性があるのであった。

記憶も新しい一九三三年、蚕の一飼育期を目前にしたある日、中介農工学校には、広東市周辺はもちろん湖南省や淅江省のひとかどの養蚕業者二十余名が集まった。

梁潘傑は応接室へお客達を招き入れてお茶をもてなしながら話した。

「わが中国は、歴史始まって以来今日まで、第一番の絹生産国として知られていました。しかし、最近年間に中国の蚕繭生産は足踏みしている反面、日本やフ ランスの蚕繭生産量が相対的に高くなっています。勿論、これは、わが国の政局が安定せず桑畑が荒廃化し農民達が安全な生活を営めなくなったことに重要な原 因がありますが、旧態依然たる古い生産方法にしがみついていることにも大きな原因があります。みなさん達も、商取引のため各国に往来されて知っておられる ように、今、西洋の国とか日本などは蚕品種を生産性が高い新しい品種に改良しています。

我々は、それがどんな品種なのかを言葉で説明しようとしません。関心のある方々は、我々の蚕室で育てている新しい蚕品種を見て下さい。」

梁潘傑はお客達を蚕室へ連れて行った。金持ちで傲慢な養蚕業者達は、ここで何か新しいものを見られるとは根っから信じないで、後ろ手を組んで外股歩きで のろのろと蚕室に入っていった。棚の台上に置いてある蚕箔ごとに純系分離された珍奇な蚕を見た養蚕業者達は、声をひそめて早口で一言二言ささやきあうので あった。

彼等も中東やヨーロッパまで出掛けていろんな蚕品種を見て歩き、種卵場で交配実験もしたこともあったが、こんなにも形態が純粋で色彩が明確な蚕を初めて見たのであった。

「これが間違いなくあなた方が飼っている『台召』と『崙越』品種です。そして、こっちの蚕箔にいるのが一代雑種として新しく育種した蚕品種なのです。」

梁潘傑の紹介を受けて対比試験をしている蚕室に入った養蚕業者達は、もっと驚かずにはいられなかった。新しい蚕品種は、ともかく見た目にも繭が大きくて 動きが活発であった。繭収穫量も従来のものと比べるまでもなかった。新しい蚕品種が優れていることは言うまでもないことであった。

こんなことがあってから以後、中介農工学校で珍しい蚕品種が生産されているとの噂がぱっと広がった。種卵場で彼等が新しく育種した品種を、原種として 買っていく人々の数がぐんと増えた。中介農工学校の実験蚕室は、この一帯の養蚕業を一代雑種体系に転換させるのに重要な役割を果たしたのだ。

ちょっと見ると、桂応祥は、広東で遺伝研究や遺伝学を普及する事業にだけ、ひたすら力をそそいでいたかのようだった。だが彼は、いかなる瞬間も、残してきた祖国や故郷を忘れたことはなかった。

実験蚕室の片側にある部屋には、彼が特別な関心を持ち管理している蚕品種があった。それらは、わが国では見られない蚕品種であった。

広東蚕品種を収集し整理しながら、応祥はこれら蚕の飼育期日が5日も早いのに注目したのだ。昔、朝鮮の蚕は春秋蚕を基本にしていたので、夏に適合した蚕 品種がなかった。もしも、この広東蚕品種とわが国の在来種蚕品種を正しく交配させ淘汰育種を合目的的にやれば、夏にも飼育でき生活力の強い収穫性が高い蚕 を創り出せるのではないか。

彼は、自分がいつ祖国へ帰れるのか約束されていない身体であることを知らないわけではなかった。しかし、応祥は特異な面白い蚕品種に出合えば、いつもこれを祖国の蚕に創りたい強い衝動にかられるのであった。

彼が浙江省のある県に出かけたときのことであった。彼は、大金持ちのある官吏が運営している種卵場で、特別に図体が大きいヒマシ蚕を見つけた。気候が温 和な広東地区ではどこでもトウゴマの木を栽培していた。桂応祥は南方地方でだけ育つこの蚕に格別な興味を感じたのであった。

朝鮮では、日本の官吏達が農村にやって来て、農民に農家周辺の良い土地に桑の木を植えよと強要していた。しかし、農民はこれに必死に反対した。桑の木か ら桑の葉を採るのに六〜七年もかかるので、その間、何で暮らしを立てよというのかと反対したのだ。ところが、トウゴマの木は、空き地に植えてその年に葉を 蚕の飼料として使い、実から油をしぼりだし茎は繊維原料となるというのだ。

もしも、この蚕を朝鮮の蚕に創れれば農民がどんなに喜ぶだろうか。こんな考えから、トウゴマの木にとりわけ関心を持って、なんとしてもやらねばと気持ちが焦ったのである。

彼は、浙江省で入手した図体が大きい薄く青みがかったヒマシ蚕に、これもまた南方から入ってきた金色蚕繭をかけあわせて、飼育期間が早い新しいヒマシ蚕 品種を育種した。この蚕が広東郊外の農村で普及されると、農民達の中で大好評であった。新しいヒマシ品種を十余帳も飼って大金儲けをしたある農民が、柔ら かくて弾力性があり暖かいヒマシ蚕繭から糸を紡いで二組の上っ張りをつってきて、梁潘傑と桂応祥に感謝の気持ちをあらわした。

その農民は、親指を振って見せながら、何度も「これが一番よい」というのだった。応祥は梁潘傑と一緒にその農民と昼食を食べたのだが、本当にうれしかっ た。しかし、桂応祥は、その時にも、その農民の喜びをそっくりそのまま故郷の人々にも味わせられたら、どんなによかろうにとの思いでやるせなかった。

インドから入ってきた金色の繭を手にしたとき、そして、武強県の山奥の村で釣り糸として使用できる網繭を収集したときも、彼は、それらを新しい品種に育 種するための貴重な出発材料として使っただけではなく、いつかはそのような蚕を祖国ででも育てられるとの期待を強く持っていたのであった。

桂応祥の机上には、古代や中世に朝鮮の詩人達が書いた漢詩集が一、二冊置かれていた。数年間少しの消息も知ることが出来ず、父母妻子や故郷への思いが積もりつのったとき、出入り口の門の上に掲げてある龍青剣を見上げて、昔の先祖の詩を一首ずつ読んでみるのであった。

海の向こうの あの遠い国から

お前は 恐らく 今し方 吹いてきたのであろう

困るなあ ときたま 書斎に入り

せわしく カーテンを 揺り動かす

花の季節が 近づいてくると

遠い 故国の消息を伝えるかのように_

応祥が低い声で詩を吟じているのを聞くとき、梁潘傑は、他人のこととは思えないでちぢむ胸をかき抱くのであった。そんなときには、応祥はうら悲しい表情 で門の上に掲げてある真っ青の龍青剣を見上げた。それは、まるで、音も立てず胸の中に刻まれる軟弱な思いを龍青剣で切ってしまい、我慢強い心で精神を集中 しているかのようだった。

中山大学や中介農工学校で講義がない日には、桂応祥は、郊外にある実験蚕室へ行っていた。その日も、応祥は手に実験分析表を持って宿所を出た。郊外へ出 て馬車道に沿ってしばらくの間歩くと、小さな川が現れる。川向こうの桑の木が整然と育っている低い土手の真ん中に平屋の実験蚕室があった。

川岸には、小舟が一そう波に軽く揺られていたのだが、その船の上でスタイルのよい女性が櫓を握っていた。桂応祥教授を待っているのであった。

教授が川辺に着くと、その女性が頭を下げ挨拶をした。しかし、手に持った分析表に目を奪われていた応祥は、何にも言わないで小舟に上って横に置いてある板の上に坐った。

桂応祥は、この女性が漕ぐ小舟に乗って、およそ八年もの間、この川を渡って往来した。しかし、彼は、何時いかなる時も、手から本を放して視線を他に向けた時はただの一度もなかった。

娘の時から毎日小舟を漕いで桂応祥を乗せていたこの女性が、ある日、道端で応祥教授と会って大変嬉しがって挨拶をした。「先生、ご機嫌いかがですか?」

急に立ちどまってこの女性をじっと見つめた桂応祥は、いぶかしげに尋ねた。

「どなたですか?」

その女性は、たき火でほてったように顔がさっと赤らめ急いで走り去った。

応祥は軽い近視なので、すこし遠くにいる人もよく見分けられない場合があった。

しかし、この土地の人々は、このような事実も、朝鮮の科学者桂応祥がどんなに一生懸命科学研究に打ち込んでいるのかというエピソードとして繰り返し話していた。

「梁先生、これを少し見て下さい。」

夕方桂応祥の部屋を訪ねると、彼は、何時も読んでいた本を閉じて興奮した語調で東西の遺伝学者達が科学研究で達成した成果を話すのだった。

「(遺伝学説)を発表したモルガンが遂にノーベル賞をもらったよ。そしてマルリとステトルリは、ショウジョウバエや小麦にエックス線を照射して人為的に 突然変異を起こせることを証明したよ。ところが、我々は、蚕に化学物質を使って突然変異を起こさせようとしている程度だからな_」

「だけど、とにかく、それは我々の研究方向が正しいということを示しているのではないか。」

「自信を持つことはいいが、自慢しうぬぼれれば有害だと思う。田中先生も、最近は、『遺伝学』という大作を執筆しようと非常に緊張した日々を過ごされているようだ---」

桂応祥は、自分の前後左右で行われている世界各国の遺伝学者達の動きをいつも自分のことのように知っていた。

この頃、中日戦争が起こり、広東市に日本の飛行機が飛んできて、むやみやたらに爆弾を落とし始めた。

中介農工学校付近にも焼夷弾が落ちて恐ろしい火災が起こった。しかし、そんな混乱した渦中でも、桂応祥は一時たりとも科学研究事業を中断しなかった。

「ヨーロッパでは二十世紀になってから遺伝学は長足の発展を遂げたのだが、わが中国では、全国各地で明けの明星のように輩出した個々の遺伝学者達や桂応 祥のような学者によって、最初の種子が播かれはじめられたと言えよう。このように芽生え育った遺伝学者達がいたので、我々は、全国を統一した後すぐに、生 物学を世界的水準で発展させることができたのだと思います。」

夜もだいぶ更けた。桂元参は、コケモモの葉がさらさらとそよぐ庭園をゆっくり歩いた。梁潘傑は、元参を朝鮮の公式代表団の中の一人としてよりも、長い間別れていた肉親に出会ったかのように極めて親しく迎えてくれたのだ。

「今晩は、君のお父さんが逗留されていたこの家で、昔の話しでもして一緒に休もう。私は、ここで君のお父さんと寝食をともにして科学論文を執筆もし、徹夜して論争したのも一、二度ではなかったのだよ。」

梁潘傑は穏やかで思いやり深い顔には、心から昔の親友を忘れられないという粛然たる趣がただよっていた。蒲団を敷いて寝たのだが、元参はなかなか寝付かれなかった。

「寝床が思わしくないようだね。」

側で寝ている梁潘傑が気遣って言った。

「違うのです。どうしてか、この地方のあらゆるものが、私には、昔から見なれたもののように大変親しいものと思われてくるのです。父は、私達に、ここで 起こった忘れられない話をよく聞かせてくれたました。本当に、あの時、梁潘傑先生がお出ででなかったなら私の父の運命がどんなになっていたでしょうか?」

「やあ何の話をするのか。そのことは思い出すのも我慢がならない。」

梁潘傑は、知らぬ間に、身ぶるいして丸窓の向こうに果てしなく広がった青黒い空を見上げた。あたかも、その果てしない空間の中に、永遠にくり返してはならない悲惨な歴史の一瞬間を連想しているかのごとく---

桂元参の目の前にも、父が何度目のときだかわからないが話してくれた、あの忘れられない話が生き生きとしたシーンとなってくり広げられた。

一九三八年春のある日の朝、外出の服装をした梁潘傑が応祥の部屋を訪ねてきた。どうしたのか、彼は、今まで見たこともないほど心配でたまらないといった顔をしていた。

彼は、応祥の側に置かれた椅子に座って重苦しい表情をして言った。

「桂先生、私は、今日南京へちょっと行って来るよ。」

「南京へ?」

応祥は驚かざるを得なかった。北京西南方の廬溝橋で中国軍隊を攻撃して中日戦争を挑発した日本軍隊は、天津、上海を占領し次いで南京を占領したのだ。新聞を通じて、南京に侵入した日本軍の蛮行を知って、応祥は歯軋しりした。

日本華中派遣軍司令官松井石根麾下の六師団は、南京和平門近所に集まった中国人数百名を一人残らず虐殺したのだ。六師団長の谷は、兵士達に各自、中国人百名を殺す競争をやれと命令して、それをやりとげた者には賞をやるとまで言ったとのことだった。

「また、どうしてそんな危険な所へ行くのか?」

「安全に行って来る道があるので、心配しないように。」

梁潘傑は笑いながらと言った。

彼が急に南京へ行って来るというのは、こんな事態が起こるとは知らないで、南京の××商会と契約した数十万元分の実験器具や科学試薬を持ち帰りたいためであった。倍率が高い新しい顕微鏡や乾燥器、冷凍機、試薬など---。

交雑の方法で新しい蚕を育成する事業は限界点に達したようであった。新しい方法で育種事業をやり遺伝実験をしていくのに、現代的な化学器具を購入する問 題は、これ以上遅らすことのできない問題であった。しかるに、この混乱の中で、実験器具などが破壊焼却されてしまったかも知れないのだ。しかし、今出かけ ようとして、梁潘傑が心配しているのは、そのことだけではなかった。

日本軍隊が南京に侵入し数十万人の中国人を蠅よりももっと無慈悲に殺しているとの消息を聞いた広東市民の怒りは、頂点に達していた。

街頭では、市民達や学生達が、毎日のように「日帝を打倒しょう!」のスローガンを叫んで示威デモをやっていた。激怒した市民達は、日本人商店を燃やし、 日本人が目につきさえすれば捕まえ火あぶりにして殺す報復行為へ走っていた。その中には、あいまいに日本人と間違われ命を落とした外国人もないことはな かった。梁潘傑はいささか深刻な表情で言った。

「当分の間、大学の講義に出ることも慎むのがよいでしょう。」

「ほほう、梁先生も、どうして大学講義をやめられよう。」

「笑いごとではないのですよ。考えてみなさい。隣の都市で、数十万の無辜の同胞達が日本の奴らの銃剣で突き殺されたのです。今、広東市民は理性を失って います。日本人に似た人を見ただけで復讐心がこみあがり、彼等に腹いせをする極端な青年達もいるのです。どうか私に約束して下さい、絶対に街に出かけない と。そうしてくれなければ、私は旅行に出かけません。」

「約束しません。だから、当分の間、梁先生も出張しないようにして下さい。」

桂応祥は強情をはった。梁潘傑は椅子にばたんと座りこんでしまった。

「我々がこれ以上一つ所で留まっていてはならないことは、桂先生が私よりももっとよく知っていられるじゃないですか。私には信頼できる案内者がいるので、何ともないのですよ。これで約束できますか?」

「わかりました。」

応祥はこれ以上我をはれず承諾した。梁潘傑は、応祥からこのような返事をもらっても安心できず、家事を世話している王爺さんに静かに頼んだ。

「お爺さん、桂応祥先生が、当分の間絶対に街に出かけないように、よく手助けしてあげて下さい。私の言っていることがおわかりになりますね?」

「わかりました。ところで、桂先生は剛直な方なので、一度やると考えたことは頑としてやってしまわれるので、それが本当に大変です。」

「だから、王爺さんにこのように頼んでいるのです。お爺さんも、最近、街がどんなに騒がしく混乱しているかを知っておられるでしょう。万一思いがけない ことが起これば、この紙片に書いておく住所に連絡して下さい。私は、南京に行ってすぐに武漢を経て広東に帰ってくるつもりですから。」

梁潘傑がそんなにも念を入れ頼みはしたが、講義する日が近づくと、応祥は、そわそわして落ち着かなかった。彼は、激怒した群衆が街へどっと出てきて途方 もなくひどいことをしでかしていたことを知らないわけではなかった。しかし、朝鮮人である自分が気兼ねする必要は少しもないと思った。彼は、朝の太陽が昇 る頃、何時もと変わらず小さな革鞄に講義案を入れてひそかに外へ出た。

その少し後で王爺さんは、桂応祥が部屋にいないことを知ったのであった。彼は、市場へ出かけ野菜を買ってきた後で、この事実を知ってあわててしまい、どうしてよいのか分からなかった。日にちを調べてみると、講義をする日に間違いなかった。

彼は、あわてふためき急いで家を出た。前日も、市の中心広場で、大学生達が、日本人の商売人を間諜だと捕まえて吊し上げをしたとのことだ。彼等の中に は、間諜行為をやった者もいないことはなかった。ところで、桂応祥は中山大学で初期には日本語で遺伝学講義をしていたから、ある学生達は彼を日本人教授と 誤認しているかも知れなかったのだ。

王爺さんは、桂応祥が大学に行くときいつも行く道を、あちこち、辺りを見まわしながら急いだ。中山大学がある街の最初のロータリに入った王爺さんは、びくりと立ちどまった。

混雑を極めた向こうの道路で、大学生達が人を捕まえて、わあわあ騒いで押して行くのであった。彼等の中にちらっと白いワイシャツを見た王爺さんは、胸が どきんとした。学生達に引っ張られていく人の姿が、どこか桂応祥によく似ているように思われたからであった。彼は両手のこぶしをぎゅっとにぎって、交通整 理員が吹きたてる笛の音もかまわないで、疾走する自動車の前を通ってそっちの方へ走っていった。

「日本人の手先だ。」

「日本人教授だ!」

大学生達は落ち着かない目をぴかっと光らせ、前後の見境もなく激しく騒ぎたてた。

「みなさん、大学生さん達!この方はそんな人ではありません。そんな人ではないのです。」

王爺さんは向こう見ずに走っていって、学生達の腕にぶら下がって叫んだ。彼は、喉がつまり全身がぶるぶるふるえ、言葉も正しく使えなかった。あるグルー プの大学生達に両腕をぎゅっと捕まえられた桂応祥は、裂かれた筋模様のワイシャツを風にひらめかせて公園の方へ引っ張られていった。王爺さんは学生達をか き分けて、喉がつまった重苦しい声で「青年達よ!この方は日本人ではない。日本人ではないというのです。」と続けて言ったが、興奮していた学生達は、彼を 容赦なく押しのけてしまった。道端で倒れたが、頑として再び学生達の腕にぶら下がって狂ったかのようにぶつぶつ言い出すと、ある学生がたけだけしくにらみ つけ脅かして言った。

「日本間諜を弁護すれば、老人も痛めつけられるのを知らないのか?」

王爺さんが道端に押しのけられて気がついたときには、大学生達の群はすでに公園の向こうで喊声を上げていた。

「日本の手先を火あぶりせよ!」

「末代までの仇敵日本人を殺せ!」

王爺さんは、目の前で起きた事態が自分の力では到底どうすることもできないことなのだと感じた。その時になって、彼は、梁潘傑が出かけるとき書いてくれた紙片が思い出されて、それを懐から取りだして郵便局へ大急ぎで走って行った。

桂応祥は、年間一、二度、中山大学総合講義室で世界遺伝学の発展趨勢についての講義をしたことがあった。その時、講義を受けたある男子学生は桂応祥を日 本人教員と思っていた。まさしく、その学生が自分達の学科学生達と共に校門を出てロータリへ出たとき、鞄を持った桂応祥をさっと見つけたのだ。急に立ち止 まった彼は、桂応祥を指さして叫んだ。

「日帝の反動教授だ!」

彼は、学生達を扇動して走りながら、桂応祥の遺伝学講義がドイツ人の提唱している優生学とどこが違うのか、と大きな声で早口でしゃべりちらした。その学 生は、ドイツ人が採用した優生学が五十万のドイツ市民達を「精神病者」、「結核患者」、「アルコール中毒者」、「怠け者」などのレッテルをはり去勢するこ とを主張したパンフレットを見て、この優生学こそが遺伝学の支えを受けている学問であり、桂応祥の遺伝学講義は中国人抹殺政策を実施した日帝の思想をひそ かに宣伝していたのだと話していたようだ。生物体を支配する自然の法則を真理と説明しただけの桂応祥の講義は、ヒットラー徒輩が人種論を主張したこととは 何の因縁もないのだが、大学生達は事の道理を明らかにする時間もくれないで、わっと走ってきて桂応祥を処刑しょうと引っ張っていくのであった。

一方、梁潘傑は案内者について南京へ入るのに成功したのだが、街は廃墟となっており人の往来さえほとんどなかった。日本軍隊が狂ったように行った放火に よって、市内の大半の建物が燃えてしまっていた。約束した商会があった道端には、灰と燃えて黒くなった柱だけがごたごた絡まっているだけであった。

梁潘傑は非常に気を落として武漢へ行き先を変えた。ところが、彼が古くからの親友の家を訪ねて行くと、そこではまたもや青天の霹靂のような知らせが彼を待っていたのだ。

「桂応祥先生、 逮捕拘引サレル。梁潘傑先生、 急イデ帰ラレタシ。」

梁潘傑は目の前が真っ暗になって、その場でどっかと座りこんでしまった。気を取り直して電報発信時間を見てみると、電報は昼前に打ったものであった。そ の時から二時間半も経過しているから、すべてが終わってしまったかも知れなかった。そうだからといって、このように座りこんでしまってはどうなるというの か。彼は、びっくりして身ぶるいし起き上がり、急いで乗用車を呼んで乗り、飛行場に向かった。

一時間後、梁潘傑が旅客飛行機に乗り広東へ飛び市の中心公園に走って行った時、日が暗くなりかかっている頃であった。公園では、激怒した群衆の一団が いっぱい群がっていた。何重にも人垣をつくり騒いでいる人々の中をかき分け、やっと前に出た梁潘傑は、目の前で広げられている光景を見て、あきれて口がき けないほど驚いてしまった。

「日本の手先を打倒しよう!」

「南京兄弟達の血の代価をあがなおう!」

激怒した群衆の叫び声が上がっているなかで、公園の真ん中に高く積み上げられた丸太の上に一人の男が縛られていた。一人の青年が揮発油缶を持ってきて丸太にそそぐと、たいまつを持った身体がどっしりして大きい青年がガラガラ声で叫んだ。

「教授の仮面をつけて神聖なわが中山大学に入りこみ、学生達に人種論を説教した日帝の間諜だ。笑顔の中に刀をしのばせたこのような狡猾な奴の静かな策動によって、我々の愛する同胞兄弟達が血を流しているのだ。だから、こんな奸悪な敵を生かしておけようか?」

「奸悪無道の日帝の奴らに死を与えよ!」

群衆の叫び声は天地を振動させた。梁潘傑は、丸太の上に立っている男が、誰なのか、全く分からなかった。上着の裾がずたずたに破れすっかり血塗れになっ たその男が、桂応祥とはとうてい信じられなかった。しかし、我知らずためらいがちに少しずつ前に行き丸太の上を見上げた梁潘傑は、全身がぶるぶる震えた。 最後を覚悟したように悲惨な表情でうら哀しい目で蒼空を見上げている男は、まさに桂応祥ではないか!梁潘傑の目に熱い涙がぐっとあふれ出た。彼は、つまず いて倒れるかのようにあたふたと前に走って行き、桂応祥が縛られている丸太へ這い上がった。

ざっと回りを囲んで立っていた群衆は意外な光景を見て、当惑してがやがや騒いだ。梁潘傑は桂応祥を腕で抱いて、悲憤にあふれた目で群衆を眺めた。

「梁潘傑先生、降りろ。」

「どうして日帝の間諜をかばうのか?」

「梁潘傑をひき下ろせ!」

だが梁潘傑は、びくともせず丸太の上で剛直に立っていた。湯が煮えたぎっているような叫び声がだんだん小さくなると、梁潘傑が涙ぐみながら話した。

「みなさん、あなた方が日本の間諜だと言われる桂応祥先生は、日本人ではありません。この先生は、わが中国人と同じく邪悪であくどい日帝に自分の国を奪 われ、父母妻子もいない遠い他国に来て科学研究と教育事業をして、わが中国を心から援助してくれている方です。自分の国の独立万歳を叫んだとことで日本人 に捕まり監獄生活までした方です。たとえ日本へ行き勉強をしても、日本人の下で顔色をうかがい卑屈になって仕事したくないので、父母妻子が待っている故郷 の山河を後にして、わが中国に訪ねてきたのです。

この先生は、広東に来て十余種の新しい蚕品種をつくり、中国の蚕業発展と遺伝学の基礎を築くのに大きな貢献をされました。我々は、この教授先生に当然の 感謝をしなければなりません。しかるに、恩恵に報いないまでもこんな濡れ衣を着せて処刑しようとするとは、世の中にこんな礼儀にはずれたことがどこにあり ますか?誰が、この先生を、日本の間諜だとしたのですか?」

応祥を日本の間諜だと告発した青年が素早く前に出てきた。

「私がそうしました。私の知るところでは、彼がそんなにも提唱している遺伝の法則とは、ヒットラーが高唱している優生学と一脈あい通じたものだと思います。_」

いくらか狼狽してはいたが、声を高くして挑発的に言い返すのだ。梁潘傑は胸がふるえ、急に彼にどのように説明すればいいのか分からなかった。

「ここには、私と面識のある方や弟子達もいることと思います。私の言葉を信じられないならば、桂応祥先生と一緒に私も処刑して下さい。」

集まっていた人々の中がざわざわしだした。

勢いづいていた大学生達が、面食らって騒ぎ立てた。その時、一人の青年が前にかけよってきた。

「諸君!」

彼は興奮してふるえ声で叫んだ。

「私は、桂応祥教授先生に遺伝学を学んでいる学生です。あの先生は日本人ではないし、私達に人種論を説教したこともなかったのです。」

「そうだ。」

群衆の中で、何人かの大学生達が声をそろえて呼応した。そうなって、梁潘傑は激した気持ちをしずめ学生達を見渡した。

「この先生は、我々がまだ知っていない自然の法則を学生に教えようと努力してきただけなのです。今日も、この先生は、学生に約束した講義をするために大学に行こうとして、こんな災難にあったのです。---」

桂応祥教授を告発した青年の手から、たいまつが地面に落ちた。応祥の弟子達が、我先に丸太に上がって、縛られていた彼を解き放って謝罪した。

「先生、無知蒙昧な私達の行動を許して下さい。----」

介添えを受けてやっと丸太から地面に降りた桂応祥は、回りを取り囲んだ人々を元気なく見渡して、倒れるように座りこんで意識を失った。

「おまえさん!」

梁潘傑は、悲しみに満ちたふるえ声で王爺さんの裾をつかんでふった。

「私がなんと言いましたか、ええ?」

担架に乗せられて病院へ行く桂応祥の後を、気が触れたように歩く梁潘傑の目には、二筋の涙がそのまま流れ落ちていた。

桂応祥は病院の寝台で寝たまま、なかなか意識が回復しなかった。あまりにも大きな精神的衝撃を受けたのと、積もりつもった疲労や再三の災難の重みに勝てなかったようであった。

梁潘傑は、少しの間も彼の側から離れなかった。

二日目になって意識がもどった桂応祥は、心配そうに自分を見下ろしている梁潘傑に微笑んで、かぼそい声で言った。

「あまり心配しないで下さい。私はみんな理解できます。これは、すべて日本人のためなのだから----」

こんなことがあった後も、桂応祥は、身体が快復するや、再び大学に出て遺伝学講義を続けた。

三八年夏になると、日本軍隊が広東へ侵入してくるとの穏やかでないニュースが聞こえはじめた。

海岸に日本の軍艦が出没するとの新聞報道が出ていた。市街地では、毎日、数万人が内陸の山間地帯へ出かけていた。

中介農工学校でも、安全な地帯に疎開するための荷造りをしていた。梁潘傑の顔には、日々沈痛な面差しが深まった。彼は何時までも桂応祥と一緒に仕事をし たかった。しかし、世の中の流れは、刻々、それを許さないと暗示していた。果てしない動乱におおわれ身もだえするこの土地に、桂応祥を必死に捕まえて置く ような分別のない行動がどこにあろうか。何時出くわすかも知れない日本軍隊に対する危険も危険ではあるが、四方から国内戦争ののろしがひどく燃えたぎって いる状態で、将来どんな事態が起こるか予測しがたかった。

こんな混乱した中で、科学研究はさておいて、一身の生命を保つこともむずかしかった。

夜露がしめっぽく降りる晩であった。桂応祥と梁潘傑は、庭園のイチジクの木の下にある椅子に並んで座って夜空に瞬く星をやるせなくうつろに眺めていた。

小鳥どものさえずりももはや聞こえなかった。周囲はしんと静まり返っていた。誰も最初に口に出して言わなかったが、彼等がこれ以上一緒に研究事業を続けられなくなったことは、実験室から荷物を運ぶ馬車を引き続き出発させている事実がそれをそのまま伝えてくれていた。

彼等の研究事業は、非常に実り多き時期にさしかかっていた。新しく育種した蚕品種は、農民達の中で好評を博しており、実験遺伝研究でも日々新しい成果を上げていた。

遠からずして遺伝研究で新しい境地を開拓できるとの確かな展望も見えていた。しかるに、彼等はこれらすべてを放り出して、方向も定まらないのにまたもや、旅に出かけなくてはならなくなったのである。

桂応祥はほんとうに忘れがたい親友と別れなくてはならないと思うと、胸が張り裂けるような切ない心情をどうすることもできなかった。しかし、これから旅 立とうとしてもどこへ行けるのか。気持は言うまでもなく懐かしい父母妻子が待っている故郷へ行かねばと百編以上も切なく叫んでいてはいたが、理性はそうは 言っていなかった。

中国に滞在した期間、彼は人から侮蔑され科学研究をする苦痛とはどんなのかを知らなかった。物質生活も不満に思ったことはなかった。

もの足りない点があったとすれば、時々胸を熱く焼く郷愁や父母妻子に対する恋しい思いであった。

だが、今故国へ帰れば知性人にとって空気のように必要な自由な活動が不可能になると思うと、自然に憂鬱になるのであった。

ああ。何時になれば、わが祖国へ帰り思いのまま科学研究し次代を育てることができるだろうか。応祥は重苦しいため息をついた。

応祥は梁潘傑と研究助手に蚕育種研究室事業を引き継ぎしはじめた。蚕室では、四日間寝た蚕が盛んに桑を食べていた。

応祥は、目をじっと閉じて蚕室の廊下でぼんやり立っていた。休みなく降る春雨のようにおっとりした音が蚕室のなかに充満した。「中介一号」から『中介五八五号』までの蚕品種達と本当に別れると思うと、熱いものが胸の中でいっぱいにこみ上がってくるのであった。

彼は、広東へ来たその年から今日の日まで、ずっと三十八代までくり返し淘汰育種してきた蚕の前から離れられなかった。彼は、その蚕箔から身体の弱そうな 蚕四、五匹を選び出して空の蚕箔に移して置いて、壁に吊した飼育日誌を手に取った。日誌に吊された鉛筆が軽く揺れ動いた。それも、以前、彼が自ら吊した鉛 筆ではないか。

彼はその鉛筆を持って今し方選び出した蚕の数を日誌につけた。そして、若い助手に顔を向けた。

「この蚕は、まだ淘汰育種の限界点に達していないようだ。」

「分かりました。先生がいられた時と同じように世代交替を繰り返し、淘汰育種も継続_」

若い研究助手はどうしても言葉の終わりまで話し続けられなかった。

「シエシエ(有り難う)」

彼は中年の飼育工女性に親しく挨拶した。

「はい。」

中年の女飼育工は恐縮して頭の手拭いを取って深くお辞儀をした。いつぞや、その飼育工が蚕室管理を怠ってネズミの穴が空いていることも知らなかったこと があった。何日か経ってハツカネズミが出入りし四、五匹の蚕を運んでいった事実を見つけた飼育工は、怖くなって一般蚕室で育てている同じ年齢期の蚕を黒い 布に隠して置き、後で補充したことがあった。

実験蚕室を見まわっていた桂応祥は、その蚕箔の前で立ち止まった。普通の飼育工達の目には紛れ込んだ蚕がわからなかったが、応祥はそれをすぐさま見分けた。彼は何にも言わないで、その蚕を選び出して空の蚕箔の上にあげておいて出ていった。

その飼育工はびくっとしてどうすればよいのか分からなかった。何日か経ったある日のことだった。飼育工達が集まる休憩室に現れた桂応祥が、何の予告もなく流暢な中国語で昔話を披露した。

「昔、ある時、ある山奥の農家に父親と息子二人が暮らしていました。ある日、父は長男を座らせて言いました。(私は最近頭痛があんまりにもひどいので医 院を訪ねたのだが、この薬草をくれて、きつい酒のなかに浸けて食べなさいと言われた。おまえ、台所の戸棚に酒があるのか捜してみなさい。)

長男は台所へ行って戸棚を開けて酒瓶を取りだし、底に少し残っていた酒を盃に注ぎました。ところが、惜しいことに半分ほどしかなかったのです。少し考え ていた長男はかめから真水をさっと汲んで盃いっぱいにして父に持ってきたのでした。盃に薬草を浸けて飲んだ父は眉間に皺を寄せました。

次の日、父は二番目の息子を呼んで、前の日長男に言ったのと全く同じ話をしました。次男は台所へ行って棚の酒瓶を取りだし、底に残っていた酒を盃に注ぎました。だが、やはり半分ほどしかありませんでした。少し考えてみもしたが、次男は頭を横に振るばかりであった。

次男は、半分にも満たない酒盃をそのまま持って父の前に出てきて、恐れ入って言いました。(この上ない親不孝者でございます。酒がこれだけしかありませんでした。)(ふむ)父は、大きくうなずいてその盃に薬草の根を浸けて飲みながら話しました。

(やっぱり、お前が親孝行なのだ!)」

かの中年の飼育工は耳朶を真っ赤にしてもじもじしていた。桂応祥教授はそれ以上何も言わなかったが、その女性はこのことを永久に忘れられなかった。ひと つの蚕箔に二百匹ずつ入れておき育てる実験蚕箔で、一匹だけでも混じれば0.5%の差が出て、その0.5%のために努力して積み重ねてきた多年間の科学研 究が全部御破算になり五里霧中に陥ってしまうことを彼女は骨身にしみて感じた。この時から、この女性は、嘘を知らない一番責任感の強い飼育工と言われはじ めた。自分を無言で新しい生活へと進ませてくれた、異国の科学者を永遠に忘れられないかのように、彼女は蚕室の入り口の外に立ったまま長い間じっと動かな かった。

彼は他の蚕室に入って、今、変態期にさしかかった新しく育種した蚕箔の前にしゃがんで坐った。蚕箔の上に、同じように広げられた丈夫で堅く熟した蚕繭を選び出した。

ちょっとした間にひとつの蚕箔から少し膨れた繭や弱そうな繭を選び出して、再び次の蚕箔から蚕繭を選別して行った。摘み取った蚕繭を選別する時、桂応祥は、何日でも蚕箔の前に坐りこみ自分の手で最後の繭まで選ぶのであった。

機械のように素早く動く彼の手は、ただ一個のいたんだ繭も見逃すことはなかった。このように彼がいちいち選び出して育てた蚕は、何十何百万匹であろうか。

「呉君!」

応祥は、若い助手に際だって丈夫に見える蚕繭を手に持たせて尋ねた。

「繭がどうだろう?」

呉君は尖った手先で繭をつまむと特別に考えもしないで返事した。

「繭が尖っている前の方が厚く一方が薄いので、皮が均一でないから、選び出さねばならないようです。」

応祥は口もとに満足した微笑を浮かべた。彼は、自分がやっていた品種淘汰もこの人に安心して任せられると思ったのである。この十四個の蚕室を見まわるのにちょうど一日かかった。最後に、応祥は梁潘傑と一緒に蚕室最後の部屋へ入っていった。

二人は足休めも兼ねて飼育工が日誌を書く小さな机に向かい合って坐った。

「梁先生、頼みたいことがひとつあります。」

桂応祥がゆっくり話し出した。

「中国では、昔から自分の国の蚕種子を他国へ持ち出すことを厳しく処罰する法があることは知っています。だけれど、私はこの蚕種子を故国に持ち帰りたいのです。

他人がわかってくれようがくれまいと自分がやる仕事はやるのだという詩句があるように、私の国は奪われたが、私の心の中に祖国がある以上、私は何の土産もなしに帰郷したくないのです。」

応祥が話を終えるのを待たないで、梁潘傑は急いで返答した。

「どうしてそんなことを言うのですか。ここにある少なくない蚕種子は、先生がわが国へ来られるとき持ってこられたものだし、そして、残りのものもわが国の各地数万里をあちこち広く歩き回って収集してきて純系に分離し新しい品種に育種されたものではないですか。

昔の法がどうであれ、道理を守るためにも、先生が研究された蚕品種はひとつ残らず送らなければならないと思っています。」

梁潘傑は細心で抜かりのない人であった。彼は、一番信頼していた飼育工に頼んで蚕卵を品種別に全部革トランクの中に納めさせ準備して置いて、さっと差し出すのであった。

応祥は十余年間つきあってきた友の信義にあらためて胸があつくなった。

彼は、万一の場合を考えて、蚕卵を葦束の中に大事に入れトランクにきちんと置いた。

その時から一週間経った八月のある日。広東からベトナム方面行きの夜の旅客車のすっかり開かれた車窓側席に、灰色の洋服に青い筋が細かく入った白ワイ シャツを着た中年の男が座っていた。人の目に触れないように荷台上に置いたトランクを見ている人は、ほかでもない桂応祥であった。広東港を日本軍艦が封鎖 したので、ハイフンかハノイ港から朝鮮へ渡る安全な船便があるかも知れないと南行列車に乗ったのだ。

彼は重い気持ちで後に流れ去る灰黒色の広野を見下ろしていた。彼が梁潘傑や親しい弟子達の見送りを受けて広東駅を出発したのは、前日の夕方のことであった。応祥は、出発の汽笛が鳴るときまで、梁潘傑の手をぎゅっとにぎって離そうとしなかった。

十余年前に異国で会ってから一度も離れたことのない彼等ではあったが、今度の別れは再びまみえることを約束できないように思われて、こみ上がる気持ちをおさえられなかったのだ。

「また会いましょう。」

「必ずまた会いましょう。」

湧き出る涙をじっとこらえながら、お互いに何度もこんな風に確認しあったが、それは別れのつらさを軽くしたいとの切実な願いでしかないことをどうして知らないことがあろうか。

汽車が広東駅を出発してそんなに経っていない時であった。

出発してきた駅の方で、飛行機の爆音と砲撃の発射音や破烈音が神経を逆なでするように響き、ぞっとするほど恐ろしい火炎が空高く突き上るごとくわき上がった。

彼は、汽車が中間駅に止まると外に飛び出して、鈍重な爆音がひっきりなしに響いてくる広東方面をやるせなく眺めた。彼自身も、不確かではっきりしない果 てしない旅に出ているが、多年間生死苦楽を共にしてきた友を、爆煙深くたちおおう中に残しては出発できない気持であった。このように意に反して急に出かけ た旅が、梁潘傑と二度と再び会えない離別の旅であったことをどうして知ることができようか。

汽車は、いつの間にか、ベトナム国境の近くに来ていた。彼は革トランクに入っている蚕のため、気持ちがいらいらしていた。

長い旅行を予見して蚕卵だけを葦束の中に入れておいたのだが、こんな暑い日には一月もしないうちに蟻蚕に孵化するかも知れなかったからだ。

それで、広東を経つ前に、王爺さんが市場へ出かけて冷血動物の蛇を買ってきて麻布を噛ませ毒針を抜き袋に盛ってトランクに入れた。それでも安心できなくて、ゴム袋に氷をいっぱい入れて低い温度で卵を維持しようとしたが、安心できなかったのだ。

その上、向かい側に坐った阿片をひどく吸う二人の老人のため神経がいらだっていた。窓を広く開けたが、煙草の黄色い煙は天井に雲のように這って消え去らなかった。

有毒な煙草の煙は、こぎれいで鋭敏な蚕が非常に嫌がる有毒物質であった。落ち着かなくて、客室の中をただよう煙草の煙に神経を使っていた応祥は、遂に革トランクを下ろして乗降口に出た。夜風が口笛を吹きながら通りすぎる乗降口は、車内よりもひときわ涼しかった。

しかし、応祥は、ベトナムの首都ハノイが近づくにつれて、不安な気持を静められなかった。二十余日内に船便がなければ、蚕卵は全部蟻蚕になり孵化するのではないか、そう考えるだけでも息がつまることであった。

ハノイに到着した桂応祥は、港の近くの旅館に泊まって半月ばかり飛び歩いたが、何の成果もなかった。落胆した応祥は、中国飲食店の隅の丸い食卓にぼんやり坐っていた。

気が気でない心情を一緒に相談する人が、どこにもいないのが何よりもやるせなかった。それでも、耳慣れた中国語を聞き、慣れ親しんだ中国料理を食べるのが唯一の慰めだった。

ここに坐っていれば、時たまやってくる中国貨物船船員達が騒ぐ声を聞いて、朝鮮へ渡る船便を知ることが出来るのではないかと思ったのだ。

しかし、この頃、朝鮮に行く船便は完全になくなったようであった。

「今晩は?」

三十才ほどの気さくな中国人の男子従業員が、とても嬉しそうに近づいてきた。

「何を召し上がりますか?」

「御飯と野菜料理何品か下さい。ところで、頼んだことは分かったの?」

「はい。いますぐ申しあげます。」

接待員は、応祥の好きな、胡瓜の千きりや安南米を炊いた御飯と野菜炒めを持ってきた。

彼は、騒がしく話している中国船員達の方へ視線をやりながら、低い声で話してくれた。

「香港から来た『太香山』号の船員達です。南方へ行こうとして、日本軍艦に引っかかって怖い目に遭ったそうで す。カンボジアを経て真っ直ぐにジャカルタに渡って、生ゴムを積んでくるのだそうです。

帰るときも、ハノイに寄って香港へ渡って行くそうです。」

応祥の顔には、暗い影がたれた。彼は飲食をするかしないうちに立ち上がった。接待員青年が爪先歩きで素早く近づいた。

「どうして、もう席を立たれるのですか?」

「よく食べたよ。」

応祥は飲食代金を沢山あげて再び頼んだ。

「私は海岸通からぽつんと離れたところの宿屋に泊まっている。もしも船便があれば、必ずちょっと知らしてくれないか。」

「はい、分かりました。」

接待員は腰をかがめて返事した。応祥は肩をだらりと下げてとぼとぼ歩いて行った。入り口近くの食卓でわあわあ大声出して急き立てる客達に酒や料理を運ん で、振り返った接待員は、すでに十日も訪ねてきて心配でたまらぬといった様子で帰っていく中年の朝鮮人の後ろ姿をじっと見守った。

何度かわからぬほど氷袋を取り替えたが、時が経つと、蚕は革トランクの中で孵化してあちこち動き始めた。前日、海岸区域の中国料理屋の接待員が訪ねてきて、何日か後に仁川へ渡っていく船便があるとの話を聞いた応祥の気持ちは、せわしくなった。

しかし、彼は、蚕を生かすために桑畑があるハノイ郊外に出掛けた。葦で屋根を葺き真竹の垣根をめぐらした農家で部屋を一間借りて、竹で蚕箔を作って置いて、蚕を飼うのに懸命になっていた。

木綿三尺を織るにしても機織り機は規格どおり準備しなくてはならないように、ひとつの品種に百匹ほどしかなかったが、百五十余種を別々にきり離して育て ようとするから、少しも蚕の側を離れられなかった。蚕が生まれて幼いときは桑の葉もそんなにいらなかったが、蚕が四回目の睡眠を終えて起きると、目が回る ほど忙しかった。

出入口にぎっしり詰まっている網の目模様の簾を置いたが、蠅や蚊がやって来てむごたらしく蚕を食べるので、傷つく蚕が少なくなかった。すんでのことで、ほぼ十余年間維持してきた珍しい蚕品種を、種ひとつ残さないで失ってしまうのではと怖くて身震いした。

彼は、蚕箔をぎっしり詰めて置いてある部屋の隅におがくずを敷いて不寝番もした。蚕は、桑を餓鬼のように食べるのだった。金を出して家主の奥さんに頼んで、山の桑を取ってきてもらって食べさせもした。睡眠も正常にとれず、白眼に薄赤い血筋が浮き出ていた。

しかし、応祥は、蚕をそれぞれ同じように食べさせて、同日同時刻に一斉に育て上げようと夜も普通に寝られなかった。

続けて四日間も暴雨が降った。応祥は竹篭を背負い裏山に登った。家主の家で蓑を借りたが、全身が一瞬のうちにずぶぬれになった。

彼は、草むらが腰までくる山の中で、一枚ずつ山の桑の木の葉を採り、鬼ぐるみの葉を摘みとった。竹篭に桑の葉をいっぱいにした時には、日は暮れて暗くなっており、全身が寒気でがたがたふるえた。

彼は奥歯をぎゅっと噛んで道を急いだ。時間が経つにつれて気がせわしくなり焦った。家を出るとき桑の葉を沢山やれなかったが、四回目の睡眠を終え起きた 蚕は桑の葉を飢えた雄牛のように呑みこむように食べるのだ。桑の葉を全部食いつくした蚕は、這いだしてくるのが普通であった。そうなれば、トウゴマ蚕や金 色蚕のような体色がよく知られているのは選んで、それぞれの蚕箔に入れることができるが、体色のはっきりしないのは全部混ざりあってしまうのではないか。

不安な気持ちを抑えられないまま竹の柴戸を開けて部屋に入った応祥は、茫然自失して身じろぎもせず立ち続けた。部屋の床に、白い蚕が一枚の敷物が敷かれ たように忙しくうごめいていたのだ。ついて走ってきた家主夫婦が、部屋の床でうごめく蚕をやにわに捕まえ、蚕箔の上に置こうとした。応祥は、腕を上げて彼 等の行動を止めた。手伝ってくれるなら、今し方摘み取ってきた桑の葉から水分を抜いて欲しいという仕草をした。家主夫婦は何度もうなずいた。

応祥は、泣きべそをかきながら、標識がはっきりしている蚕から順々に選んで元の蚕箔に入れたのである。品種を鑑別することのできる、繊細で鋭敏な目を 持っていたからよかったものの、そうでなかったならどんなになっていたことか。しかし惜しかったが、明確でない数十匹の蚕は、あじかに入れてほかさなけれ ばならなかった。

散らばった蚕をようやく収拾して、ぬれた桑を乾いた雑巾でさっとこすって拭きとり蚕箔の上に置いたとき、夜はすでに深まっていた。家主の家からもらってきた膳の上の饅頭や筍炒めも冷たくひえ切っていた---

半々日かけて摘みとってきた桑は、蚕達が一晩のうちにすっかり食いつくした。応祥は、夜明けに自転車を借り三里あまりも離れた村を訪ねていって、桑を買い荷台にどっさり積んで帰ってきた。

遅い朝飯を食べてものうげに壁にもたれてうたた寝していると、外で人の気配がした。家主夫婦と何かしら話し交わしているようであったが、戸が開かれた。 頭を上げた応祥は眼をぱっちり開いた。全身雨にぬれてうちしおれた、海岸街中国料理店の接待員が、にこにこ笑って彼の前に立っていたのだ。

「えー、やっと捜しました。ちょうど今日は休みの日だったので---」

興奮して身をふるわせ、せき込んで話のいとぐちをつけた青年は、すばやく話した。

「先生、船便がありました。明日の朝、八時頃、朝鮮釜山へ安南米を積んでいく香港貨物船がハノイ二埠頭から出帆します。私が甲板長と交渉もしてきました。」

「明日の朝八時に?」

桂応祥は、目の前でしきりにうごめく数万匹の蚕を見下ろして、後ろにしりぞいてどっかと座り込んでしまった。彼は、小声でささやいた。

「この蚕はどうしたらよいのか?」

「まあ。先生も、こんな虫のために船便を逃すとは話になりますか?こんな船便はめったにないものなのですよ。」

応祥は両手で頭を抱えて、しばらくの間、びくっともしないでその場に坐っていた。あらゆる苦難をして保全した、この蚕品種をこんなに大事に生かし祖国へ 持って帰っても喜んで迎えてくれる人がいないことを、彼はよく知っていた。しかし、彼は、この蚕を遠い異国に置いて身ひとつで帰ることはできなかった。

彼は頭を上げて、胸がこがれるように切実な目つきで接待員青年を見上げた。

「本当に有り難う。しかし、私は蚕を飼う旅人なのだ。この蚕と離れては、私の生活なんて考えられない。私は、ベトナムで年を越しても、この蚕から卵を得てから朝鮮へ行きます。」

接待員青年は、理解できないと頭を横にふった。しかし、この中年の男が、ただ蚕を飼う平凡な人ではないことだけは推察できたらしく、黙って軽くうなずき帰っていった。

翌朝の朝方、目が覚めるとすぐに裏山に登った応祥は、ニワウルシやトウゴマの葉を布袋にいっぱい摘んで農家に降りてきた。蚕の糞掃除をして出てきた応祥 は、艶のないマンゴの木に背中をもたれかけて、霧にすっぽり包まれた埠頭の方を見下ろした。朝の8時であった。息をひそめて耳を傾けた。気苦労して待つこ ともなくなり虚脱状態に陥った彼は、川辺でよろよろと座り込んだ。

その時《ブウー》と、にぶい汽笛が埠頭の方からかすかに響いてきた。いらだつ気持ちをかい抱き、容赦なくゆすぶる汽笛の音をしかと聞いた彼の目には、白みがかった霧が現れた。いつの間にか、彼の目の縁には、熱い涙が流れ落ちた。

《ざあざあ》海岸にうち寄せ砕かれはじける大波の音は、またどんなに懐かしいことか。《あうーあうー》忙しく飛入り乱れて飛ぶカモメの叫び声も、限りなく懐かしかった。応祥は、いらだって胸がかきむしられる気持で身震いした。

ああ、何時になれば、道端にタンポポが咲いており、垣根で雀の群がしきりに鳴きつづける懐かしい故郷に行けるのか。川辺にたち並ぶ柳のそよぐ音を聞き、あらゆる心配を忘れてその上の枝でさえずる懐かしいカササギの鳴き声を聞けようか。

いつの間にか、蚕は繭を作り蛾になり卵を生みはしたが、ハノイではもう故国へ行く船便を捜す道がなかった。幸いにも、親切な中国飲食店の接待員が忘れな いで何日かして、ハイフンから済州島へ渡っていく船便があるとの知らせを持って訪ねてきた。応祥が彼にチップをあげようとすると、彼は怒った表情をした。

「そんなことをしないで下さい。私も、父母妻子を遠いところに置いて異国暮らしをしている者なのです。---」

応祥は彼の手をつかんで長い間離さなかった。

次の日、応祥は、また荷物をつくって、汽車に乗りハイフンへ行き、手当たり次第に馬車を捕まえ乗って、ハノイ飲食店接待員が教えてくれた通りに海岸通り の小さな中国料理店を訪ねていった。ここにも、港に出入りする船の情報をよく知っている接待員がいた。しかし、残念なことに済州島に行く船は、急に彼が着 く前日に行ってしまったとのことであった。

応祥は、力なく食卓の前で倒れるように坐ってしまった。決心してここまでやって来た意地のひとかけらも、全部抜け出てしまったかのようだった。

「どんなものを召し上がりますか?」

娘のように体つきがすらりとした青年が、何回も尋ねる声を聞いてはじめて、つぶっていた目をそっと開いた。彼は、よいようにしてくれというように腕を 振った。接待員は自分の考えで蛸炒めとビールを持ってきて置いたが、応祥は腕を食卓の上に置いたままびくともしなかった。水を浴びた綿のように柔らかく なった身体が地面の中にしみこまれるようで、目の光彩が白みがかってきた。

応祥は、ハイフン港から一里ぐらい離れた海辺の村の中のある漁夫の家を宿所にして、船便を捜すことにした。だが、またもや、繭から蛾が出てくるときまでに船便は現れなかった。仕方なく孵化を急がせるしかなかった。

あっちこっち引き回して蚕に正常に餌をやって育てられなかったためなのか、蛾は同日同時刻に出てこなかった。差が甚だしく、最後の孵化を終わるのに十日もかかった。葦の中に蚕卵を差し入れて旅支度は終わったが、依然として船便はなかった。

ここでぐずぐずしていると、またもや他国の見知らぬ海辺の村で蚕を飼い空しく歳月を送らねばならないかと思うと、あせる気持ちをしずめられなかった。そうであっても、なすすべもなく座り込み、あせって落ち着かず、あれこれ気だけ使うこともできないことだった。

応祥は、毎日、家主の子供に頼んで紙切れに書いた手紙を中国飲食店接待員に送って、船便があるかどうかを問い合わせた。そのたびごとに船便がないと知らせてきた。貴重な時間をこれ以上浪費することもたええられなかった。

彼は、蚕卵を分別して漁業会社の冷凍庫に入れ、その発育を抑制する実験に着手した。貴重な蚕卵を故国に持っていくためにも、この実験は極めて重要であっ た。後日、彼の選集に入った、冷蔵法による蚕卵孵化の調節法は、こんな不遇な放浪の旅で科学的解決策を探し求めて得られたものであった。

蚕の休眠期はどうしょうもなく過ぎていくのに、依然として船便は現れなかった。これ以上待ちきれないで、応祥は、遂に旅支度をして香港に向かって北行列車に乗った。

車窓の外には、馬鍬(土を砕いたりならしたりする在来農具)をつけられた水牛がのろのろ帰っていき、マンゴーの木やパンの木の下の陰でのんきに坐っている農夫達の姿がちらっちらっと流れていった。飽き飽きする旅も終わって、応祥は目指した香港港に帰って来た。

彼が南方の果実を積んで仁川に行く船便を捕まえたのは、その時から十日も過ぎてからであった。果実を入れた箱をぎっしり積んだ積み荷倉庫の隅に居場所をつくったのだが、応祥は、枕元に置いたトランクに気を取られて、ずっとはらはらし通しであった。

他の蚕種子はまだ休眠期が少し残っていたので大して問題はなかったが、極度の多化性であるヒマシ蚕は、またもや孵化する時期を迎えていたのだ。

このような事情を考慮して、船に乗る前に氷を五斤も買ってトランクに入れ蚕卵を冷やしてその働きを抑えようとしたが、すでに卵の殻が薄くなっているのがはっきりと分かったのであった。

貨物船が台湾海峡を過ぎて白波がうずまく海原へ出ると、大波が荒々しく起こった。真っ黒になった空から大雨がざっと降りそそぐと、すぐに北風が容赦なく吹きすさぶのだ。

応祥は、だんだんひどくなる船酔いにうち勝とうと窓を押し開き、甲板に上がった。貨物船は波濤の上に登りつめるごとに船体をぶるぶるふるわした。

《ざあっ、ぴしゃり_》

大波の水しぶきは、船縁を越え甲板の上へ激しく吹き流れ駆け回った。塩っ辛い海の水をかぶって、ぼやけていた精神がいくらかはっきりしてきたようだった。彼は、激しく投げつけるような波濤の泡沫に襟をぬらし、船縁にぐっと捕まっていた。

身体が冷たく凍えてきた。窓を開けて厚い積み荷倉庫に降りると、またもやめまいがして頭がくらくらし、奥歯をぐっと噛んで空箱の上で横になった。何時ま でもこんなに横になっているわけにはいかなかった。トランクから氷袋や窒息して死んだ蛇を海へ投げ捨てて二日も経っていた。

彼は、身体をおこして不安な予感をどうすることもできなくて、トランクを注意深く開けた。その瞬間、彼の口はぶるぶるふるえた。四、五匹の蟻蚕が葦束でうごめいているのが目に入ったのである。

応祥は、素早く鳥の羽毛を捜して蟻蚕を紙の上に落とした。その時、葦の中から蟻蚕が真っ黒な帯状になって這い出てきた。ヒマシ蚕卵が全部孵化したのだ。

彼は急いで梯子を駆け上り甲板へ上がった。すぐさま食堂へ走っていき、前掛けをして昼御飯を炊いている炊事員に頼み込んだ。

「チシャがあれば少し下さい。お金は、くれと言うだけ上げます。」

「チシャ?飯を包んで食べ船酔いをさまそうとされるのですか、いくらかあります。お金を出しなさい。」

炊事員は、隅からしおれたチシャを何束か出してくれた。応祥は、くれと言うだけ金をにぎらせ、チシャを両手でわしづかみにして積み荷倉庫へ降りて行った。ヒマシ蚕は、チシャを食べるのだ。だがチシャが沢山あったとしても、それだけではからの繭を作ってしまうのだ。

チシャを細かく切って蟻蚕を受けて置いた紙の上に一様にばらまくと、よちよちうごめきながら見えない口を忙しく動かしているのが確かめられた。しかし、 それだけのチシャも二日経てば茎だけになってしまった。その間にも倍ほど大きくなった蚕が、餌を食べるのだと頭を上げて立ち回るのであった。餌をくれと声 がつぶれるほど叫んでいるようで、両手で耳を塞いだ。

必死になって紙をなめ回す蚕を見下ろすだけではいたたまれなくて、甲板へ走って上がり、狂ったようにあっちこっち捜して、ちらっと目にしたミカンの皮を前掛けいっぱい拾って降りてきた。

無駄だと分かっていたが、ミカンの皮をきざんでやってみた。飢えた蚕は小さい口を動かしミカンの皮を食べているようだったが、すぐ頭をふってあちこち激しく動き回った。

膝を折って坐って、ぐったりしているヒマシ蚕を見下ろした応祥の目に、涙がこぼれたまっていた。積み荷倉庫の外では、真っ青な大波が果てしなくうねって いた。何処へでもやみくもに走っていって蚕の餌を一抱え積んできたかったが、見えるのは無情な大海原だけであった。彼は両手で胸をかきむしった。(ああ、 お前達をここまで引っ張ってきて死なせてしまうとは。)

十年歳月、異国の土地をさまよい、ひとつひとつ収集した蚕種子は、どれ一つ、貴重でないものはなかった。だが、このヒマシ蚕には格別な思いを持っている彼であった。

というのは、この蚕に強く惹かれるだけの特性を持っていて、わが国の気候に適応させさえすれば、どこででも思う存分育てられる可能性を持っていたからだったかも知れない。また、この蚕は山で育つニワウルシの葉もよく食べる。

ところが、このニワウルシは朝鮮の山にはどこででもよく育っていた。こんな特色のある蚕をわが国で飼えるようにしておけば、農民達がどんなに喜ぶだろうか。

風は止み、海は処女のようにおとなしくなった。どこを見回しても、おだやかな海が果てしなく横たわっていた。太陽の光が広がり、海霧がゆっくりと晴れて いった。だんだん広く開く空間の間に、おおしい山なみがありありと浮かび上がってきた。夢にも忘れられない故国の山々であった。

「この、かわいそうな奴!」

「お前達もよい人にめぐり会えず、荒れた海の上の旅先で死ぬ羽目になってしまった!」

応祥は、音も立てず涙を流して、飢え死んだ蚕を包んだ紙を海へ投げた。死んだのはずっと前であったが、故国の山神にしたかったというやるせない心情をなだめる方法がなく、ここまで持ってきてやっと水葬することができたのかも知れない。

太陽の光を背負った故国の山並は、沈鬱で重苦しい気配をただよわせていた。冷たく、ひややかな雰囲気がただよう仲秋の冷え冷えした空の下で、青い光をなくした大地は言葉もなかった。

応祥の胸は、言うに言われぬ不安とこみ上がる激情で高鳴った。