植民主義史観からの脱却へ

植民主義史観からの脱却へ

成大盛

 

はじめに

先日(10/20)、たまたま入手した中沢氏署名のコラムの内容が日本社会の歴史認識をそのまま示していると思われるので紹介する。

【郵政退職者近畿共助會No.208 (平成22年10月1日発行.郵政事業への思い特集号)表紙上に掲載されているコラム(原文のまま)】

「今年は日韓併合100年に当たる。管首相は「植民地支配による多大の損害と苦痛を与え,痛切な反省と心からのお詫びをする」と謝罪を表明した。そもそも何故明治43年から敗戦まで36年間、併合があったのか。明治の中末期、李朝時代の朝鮮は病弊腐敗して内乱がつづいた。これに乗じて清国とロシアは、朝鮮半島を領土とすべく覗っていた。対馬と隣する日本にとっては一大脅威、朝鮮を独立させることを願って日清戦争、日露戦争が起こった。日本は朝鮮を保護国としたが、韓国民の中に自国のみで独立するのは無理との動きが起こり,日韓併合が実現した。ちなみに「併合」とは欧米流の植民地ではなく、対等の合邦であった。朝鮮の近代化は日本の統治によって初めて実現した。文盲率七割の国に、小学校を増設し義務教育とした。福沢諭吉考案によるハングル文字混合文を教えた。鉄道、道路、港湾、空港、水豊ダムなど日本は資金を持ち出し推進した。戦後韓国は独立を果たし、日本は過去の清算として五億ドルの資金を提供、これにより韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を遂げた。現在の韓国は経済、文化、スポーツ、どの方面でも元気である。(中沢)」

このコラムの筆者は、明治維新を契機に日本の西欧化・近代化のための必須要件たる朝鮮植民地化戦略遂行計画と、その実行の正当性を強引に言い立てる自分勝手な論理を露骨に述べている。その主張の骨子は日本国の常識的見解をまとめたものらしい。;

① 併合があった根拠—病弊腐敗し内乱がつづく李朝、清とロシアの策動=日本にとって一大脅威、朝鮮独立願っての日清.日露戦争、朝鮮を保護国としたが韓国民の中に自国のみでの独立は無理との動きが起こり日韓併合実現—「併合」は欧米流の植民地ではなく対等の合邦だ。

② 朝鮮の近代化は日本の統治によって初めて実現した。

—文盲率七割の国に小学校増設し義務教育とした。

—福沢諭吉考案によるハングル文字混合文を教えた。

—鉄道、道路、港湾、空港、水豊ダムなど資金を持ち出し推進した。

③ 戦後韓国の独立、過去清算として五億ドル提供,「漢江の奇跡」高度成長遂げ,現在の韓国の発展(経済,文化、スポーツで元気)

①、③について南北朝鮮を始め世界の学者達の研究によって、日本社会の歴史事実の偽造,隠蔽、狡猾極まる歴史認識など、徹底的に暴露.検証されている。

この小論では筆者自身が植民主義史観の歴史教育の罠に絡めとられていた自戒をこめて、②について次のような順序で考察したい。

1.植民主義史観

2.朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化

3.植民主義史観、日本社会での歴史教育の罠にはまった在日同朋

4.『朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化』という歴史的事実が、どのようにして隠蔽されたのか?

(▲果たして朝鮮の近代化は日本の植民地統治によって初めて実現されたのか?)

1.植民主義史観

植民主義史観とは、(当時の朝鮮は長い間中国の属国であったので自力では独立を維持するのは不可能であったし、また停滞していた社会であったので近代化する意思も能力もなかった。だから日本が朝鮮を併合することで安全を保障し近代化もしてあげたのだと、日本の植民地支配は正しかったとする)朝鮮総督府の御用学者たちによって莫大な費用と長い年月をかけて体系化された論理•歴史観のことである。

19世紀末葉に朝鮮を訪れた西洋人の目に映った印象が概して悪く、奇しくも御用学者たちがでっちあげたように「アジア停滞社会のなかでも最も遅れた社会」であったかのような見聞•印象を書いている朝鮮旅行記が少なからずある。これらだけを見ると日帝がでっち上げた植民主義史観が、単なる史観ではなく事実をそのまま反映しているのではないかと思えるほどである。

例① 例えば日本人がよく引用するイサベラ•バード•ビショップは、1894年1月に朝鮮を訪れ、ソウルの印象を次のように書いている。(時岡敬子訳『朝鮮紀行』図書出版社1995年刊)

「(釜山の)狭くて汚い通りを形づくるのは、骨組みに土を塗って建てた低いあばら屋である。窓はなく、屋根はわらぶきで軒が深く、どの壁にも地面から2フイートのところに黒い排煙用の穴がある。家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり、個体及び液体の汚物やゴミがたまっている。疥癬(かいせん)で毛の抜けた犬や、目がただれ、ほこりでまだらになった半裸か素裸の子供たちが、あたりに充満する悪臭にはまったくおかまいなしに、厚い土ぼこりや泥のなかで転がりまわったり、日なたで息を切らせたり、まばたきしたりしている。」(p22)

「北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都市であり首都であるにしては、その粗末さはじつに形容しがたい。」(p38)

「政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれよりは小さいとはいえ,首都と同質の不正がはびこっており,勤勉実直な階層をしいたげて私服を肥やす悪徳官吏が跋扈((ばっこ)していた。••••••••朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」(p282)

「(週に一度立つ市はあるのだが)通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまりある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入をおこなうこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。このような状態は朝鮮南部,とくに全羅道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して「交易」は存在しない。」(p325)

 例② こんなひどい第1印象を抱いたのは,イザベラ•ビショップだけではなかった。たとえばジョージ•ケナン(George Kennan)は「私の限られた観察によっても、次のように言うことはできる。都市の平均的な朝鮮人は自分の時間の大半を無為に過ごしている。しかもたっぷりある余暇を使って家の清掃をするわけでもなく,満足そうに戸口に腰を下ろして煙草を吸うか,地面に横になって蓋のない溝に鼻を突き出して眠るのである。あまりの悪臭に堪えかねて,禿鷲も溝から飛び上がり、まともな豚ならいやになって逃げ出すほどである。••••••••••••••••••••

政府の役人は,偽り,不正直、無慈悲、平然と人権を無視する残忍ぶりを遺憾なく発揮し、人民を堕落させ,やる気を挫いている。それは現代ではほかに例をみないことである。••••••••この窮状を救うために、教養あるサムライ出身の警官100人と12人か15人の警視を日本から呼んではどうか」(Kennann,”Korean People”—カミングス「現代朝鮮の歴史」明石書店刊p201)

例③ <品物はそれぞれ念入りに磨き上げられ,市場の果実の売り台に小さな山にまとめられて載っていて>「果実の山は種類ごとに,正確に同じ数だけ積まれていた」という1880年代の朝鮮の商業について論じていた観察力が鋭く鋭敏な精神の持ち主であったパーシブアル•ローウエルでさえ次のように書いている。

「朝鮮人は変化から取り残され、時間が止まったままだった。••••まことにもって驚くべき現象だが、生きながらの化石となったのである」•(カミングス「現代朝鮮の歴史」明石書店刊p202~3)

 

2.朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化

ところがその一方で、19世紀末20世紀初頭(1896〜1909)の朝鮮の状況を観察できた西洋人の印象記を見ると、19世紀末までのものとは著しく異なっていると、7年前に翻訳出版された『現代朝鮮の歴史』(明石書店、2003年刊 )でブルース•カミングスは「世紀の変わり目までには、西洋人のなかにも朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化に目を向けるだけの,観察力の鋭い人たちが出てきたと言って以下のように紹介している。」(p205)

例① 1880年代に朝鮮で政府の顧問格であったドイツ人、パウル•フオン•メレンドルフ(Paul•von•Moellendorff)は中国語と朝鮮語の両国語をマスターし、「新しい国際秩序」に慣れようと苦闘している朝鮮人にはどこであろうと援助の手をさしのべたし••••••また彼は、高宗に鉄道建設の促進、機械工業、また朝鮮物産の世界への輸出を強く勧めた。彼の見たところ、両班官僚は容赦なく民衆を搾取していた。それにもかかわらず,彼は「朝鮮人は日本人より優れており,西洋の科学を習得すると言う点で、やがてこの島国の人間を追い越すだろうと堅く信じ」ていた。

他にも長く滞在して、朝鮮人に関して微妙な点まで察知できるようになった人がいた。ヘンリーサベエジランダ−(Henry•Savage•Landor)は、たまたま会った何人かの貴族にすっかり魅了され、彼らを自分と同じ人種だと考えたほどだった。••••••••彼はこうも言っている。「朝鮮人は普通野蛮人のなかに入ると言われているが、偏見にとらわれないで彼らの性質を考えてみると、私はいつも彼らがきわめて知的で知識の習得も速いことにびっくりさせられていることを白状しなければならない。彼らにとって外国語を学ぶのはまったくたやすいことである。••••••••彼らはすばらしく鋭い分析力を持っているだけでなく、理解の速さも驚くほどである。」(p204−5)

例② 引き続いて次のように書いている。

「たとえば、アンガス•ハミルトンは、朝鮮が『まれに見る美しい国』で、ソウルは北京よりも立派なことに気がついていた。ソウルは東アジアで電気、市街電車、上水道、電話、電信を一斉に導入した最初の都市だった。これらの施設はほとんどアメリカ人が設置して運営した。••••••••ハミルトンの書いたものを読むと、これが、ケナンがけなしたのと同じ時期の、同じ都市のことだとはとても思えないのである。」 (p205-6)

  「(ソウル)の通りは壮大で広々としていて、清潔で見事につくられており、排水も十分だった。狭くて汚い路地は広げられ、排水溝にも蓋がかぶせられて、車道の幅も広がった••••••••ソウルは遠からず東洋でもっとも進んだ、興味のある、清潔な都市になるであろう。」(p206)

 「彼にとって、都市においても農村においても、生活条件は中国(日本とまでは言わないにしても)よりも朝鮮の方が「すぐれているのは疑問の余地のないところ」だった。ハミルトンの考えでは高宗は進歩的な君主だった。ソウルにはあらゆる分野の学校—法律、工学、医学—が揃っていた。彼は、高宗が公共事業をすべて親しく監督する気だったと指摘している。彼は、開国以来朝鮮人には『自分たちの生活向上に役立つと思われる制度を自主的に選ぶ』機会が何回となくあったと述べている。」(p206)

 カミングスはまた、19世紀末朝鮮を訪れた西洋人の旅行記を紹介しながら、「世紀の変わり目までには、西洋人のなかにも朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化に目を向けるだけの、観察力の鋭い人たちが出てきた。彼らのおかげで、われわれは、日本の植民地支配は、1910年までは順調に進んでいた進歩への発展を遅らせる以外に、朝鮮に何ものももたらさなかったという、朝鮮人にとってはごく当たり前の考えを理解することができる」(カミングス同上書p205)とまで書いている。

カミングスがここで言っている「朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化」とは何であろうか?

その[重要な変化]とは、ハミルトンが書いている「ソウルは東アジアで電気、市街電車、上水道、電話、電信を一斉に導入した最初の都市」だという事実、「ソウルにはあらゆる分野の学校—法律、工学、医学—が揃っていた」という事実を指しているのだろう。

例③ その[重要な変化]という事実について、1894年1月に朝鮮を訪れ最初の旅行の印象から「ソウルの不衛生きわまる悪臭に反吐した」イサベラ•バード•ビショップも、1896年10月に再訪しての観察を驚愕しながら[朝鮮紀行](明石書店1995年刊)で以下のごとく書いている。

「1897年のソウルについて、「精力的な進歩派市長[漢城府伴尹]李采淵氏の提唱により、ソウル西部区域からは、この都会の大きな特徴だったゴミの山と汚穢(おわい)がその悪臭もろともなくなっていた」(p443)

「不潔さで並ぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている」(p453)

「この3年間に会った朝鮮に有益な変化のうち重要性の高いものをまとめると、清との関係が終結し、••••••••••貴族と平民との区別が少なくとも書類上は廃止され、奴隷制度や庶子を高官の地位に就けなくしていた差別もなくなった。残忍な処罰や拷問は廃止され、使いやすい貨幣が穴あき銭にとってかわり、改善を加えた教育制度が開始された。訓練を受けた軍隊と警察が創設され、科挙はもはや官僚登用にふさわしい試験ではなくなり、司法に若干の改革が行われた。済物浦(チエムルポ)から首都にいたる鉄道敷設が急ピッチで進められており、商業ギルドの圧力はゆるめられ、郵便制度が効率よく機能して郵便に対する信頼は各地方に広がった。国家財政は健全な状態に立て直され、地租はこれまでの物納から土地の評価額に従って金納する方式に変えたことにより、官僚による「搾取」が大幅に減った。広範かつ入念な費用削減が都市および地方行政の大半で実施された。」(p467)

例④ マッケンジーも著書[朝鮮の悲劇](東洋文庫1972年初版刋)で以下のように書いている。

「そこには、たしかに、前進的な多くの徴候がみられた。新たに数多くの学校が発足し、国立病院も設立された。外国駐在の韓国外交官に対する俸給の支払いの滞ることもあるにはあったが、韓国の外交関係は、一時は、多数の強大国との間に維持されていた。ソウルに電灯がつき、電車路線も敷設された。••••さらに韓国は万国郵便連盟に加盟し、主として日本の統制下にはあったが、電信も秩序正しく活動し始めた。ソウル自身も、今では.その旧態から多くの面で脱皮してきた。•••••日没後の門の閉鎖も行われなくなった。首都ソウルには大きな様式の公共施設が立ち並び、イクツかの韓国新聞がはなばなしく活動し、•••••国民生活に著しい影響を与えていた。••••••••••なるほど悪弊はたしかにまだたくさん残存していた。皇帝は、閔妃殺害事件以後、昔のような心の張りを失っているようであった。•••••1890年代の初め、皇帝は、李容翊の権勢掌握を許した。•••••彼は国土のすみずみからまでも憎まれたが、•••••各種の事業を興し、とくに皇帝のために特別の利益をもたらすような形の産業活動は、これを助長促進することにつとめたのであった。•••••しかし改革は優秀な官吏の解任や国内の周期的動乱によって絶えず阻害された。日本やロシアは、韓国が独立かつ自主的に高い能力を発揮するようになることを好まなかった。•••••」(p96〜7)

例⑤日露戦争取材のため来日したスウエーデン人ジャーナリストであるアーソン・グレブストは、最前戦取材拒否され貿易商に仮装し朝鮮を訪れて、その旅行記を出版している。そこに「北と南,東と西を結ぶ大通りに、朝米合作会社が長さ14•4キロの電車レールを敷いた。雇用人は皆朝鮮人であるが、米側の担当幹部らは2年間の電車線運営期間に、朝鮮人が日本人より仕事を速く覚え信用度が高いことを身にしみて判ったとのことだ。」(アーソン・グレブスト著「悲劇の朝鮮」白帝社1989年刊p97)と書いている。

以上見てきたように19世紀末20世紀初頭(1896〜1909)に朝鮮を訪問した数多くの外国人(日本人を除外した)たちが彼らの観察した朝鮮近代化の重要な変化について具体的に指摘しているのだ。

 

3.植民主義史観、日本社会での歴史教育の罠にはまった在日同朋

しかし植民主義史観に毒された多くの在日同胞は、[朝鮮の初期近代化][それがもたらした重要な変化]についてまったく無知であり。近代化がもたらした文明—上下水道、電気電信、電車、鉄道、病院、学校教育制度、等等は1910年以降に日本によってもたらされたという宣伝を鵜呑みしている「体たらく」である。

カミングスは「ソウルは東アジアで電気、市街電車、上水道、電話、電信を一斉に導入した最初の都市」だと言ったハミルトンを紹介して「朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化」という事実認識、「1910年までは順調に進んでいた進歩への発展」という事実認識について書いている。しかも彼は、「彼らのおかげで、われわれは、日本の植民地支配は、1910年までは順調に進んでいた進歩への発展を遅らせる以外に、朝鮮に何ものももたらさなかったという、朝鮮人にとってはごく当たり前の考えを理解することができる」(カミングス同上書p205)とまで書いている。

カミングスがいう「朝鮮人にとってはごく当たり前の考え」という認識を一体どれだけの人が共有しているだろうか?

ほとんどの在日同胞が「朝鮮人にとってはごく当たり前の考え」を持っていなかったのが現状であろう。在日2世である私もそうだったのである。というのはカミングスのこの著書を7年前に読んでいても、何の考えもなしに読み流してしまっていたからだ。今年の3月頃になって、たまたま京都市図書館の書架にあった李泰鎮著『東大生に語った韓国史』を読んでみて自分自身がどんなに植民主義史観に毒されていたのかを痛感したのであった。

1959年3月から2010年3月まで、朝鮮の近現代史に関する南北朝鮮、日本の歴史家たちの研究書、通史を読んでみたが、それまでの日本の学校教育を通じて得られた(植民主義史観にどっぷり浸かった)朝鮮史認識を変えさすものは得られなかった。金日成主席の抗日パルチザン闘争の存在を1959年8月に初めて知って感激し、朝鮮民族の一員としての矜持を持つことができたが、依然として①「特に19世紀朝鮮の支配層がだらしなく国王も国王だが両班官僚たちも党派闘争ばかりして植民地への転落を加速化させてしまった、それも外国頼みで」。②「あらゆる近代的なもの(電灯、電信電話、上下水道,道路整備、電車、鉄道,学校制度、郵便局など)は日帝の植民地になってからもたらされた。」という従来の認識を今年3月まで持ち続けていたのでであった。

この私自身の嘆かわしい現状に痛打を浴びせたのは、偶然目に触れた李泰鎮著『東大生に語った韓国史』(明石書店2006年刊)であった。

この書は、東京大学哲学センターの明治日本の朝鮮侵略史講義要請を受け李泰鎮教授が2004年6月24日から7月15日にかけて総合文化学科大学院生を対象に行われた6回の集中講義と7月15日の特別講演(一般公開)をまとめられたものである。

以下の目次の題目だけを見ても、李泰鎮教授の意図されることは明らかである。

第1回講義;日本による韓国史歪曲の出発点としての高宗時代

第2回講義;韓国の開国に加えられた日本の暴力と歪曲

第3回講義;日清戦争前後に行われた日本の暴力

第4回講義;韓国の自主的近代化に対する中国•日本の妨害

第5回講義;日露戦争と日本の韓国主権奪取工作

第6回講義;韓国併合の強制と不法性

特別講演;東アジアの未来——歴史紛争を越えてー

李泰鎮教授は韓国語版の序文で次のように書いている。「例にないほどの暑さのなかでも受講生

たちは講義を熱心に聴いてくれた。講義室には15〜20名くらいが来ていた。通訳講義なので不便な点がない訳ではなかったが、各回とも4〜5名の教授が参加し真摯な雰囲気を盛り上げてくれた。学生たちの反応は概して初めて聴く話だというものだった。歴史の勉強を一生懸命したというある学生は、提出したレポートで明治時代を批判する講義を初めて聴いたと書いた。明治時代に近代国家をつくるのに優れた力量を発揮したことを知り尊敬していた人物たちが,韓国に対してしたことを知って、歴史像が揺らいでいるという。ある教授はそのようなことをしておいてどうして近代化をしたと言えるのか、恥ずかしい思いだと言った。そして国際法のもとで進行した日韓関係史においてそんなに多くの問題があるのをまったく知らなかったと言い、これからこれについて勉強してみたいという意欲をみせた学生も一人二人ではなかったと聞いた。」(p5)

「1945年、太平洋戦争が日本の敗戦で終わった後、日本は東京裁判を通じて戦争を起こした昭和時代の歴史の失敗を国際的に認めた。しかし明治時代の侵略戦争の場合はこれと異なる。後者に対しては今まで日本が反省の対象にとりあげたことは一度もない。日本人には明治時代はかえって栄光の歴史という認識が支配的だ。明治の日本は優秀な政治指導者たちの活躍によって西欧の近代的文物を早く受容し,アジアでは唯一西欧列強の仲間入りを果たして模範となったのに対して,中国と韓国はそうできず植民地になったり攻撃の対象になったという認識が一般的だ。このような認識のもとに日清戦争、日露戦争の中で韓国を対象として行われた多くに不正と欺瞞、暴力が隠蔽されたまま、韓国併合は勝者の合法的戦利品だという声が公然と出てきている。このような状態でどうして過去の過ちに対する反省が出てくるであろうか? 明治時代の日本に対する批判なくして日本の反省を期待することはできないだろう。」(p6)

「日本の誤った歴史認識は東アジア,ひいては世界人類の平和のために必ず改められるべきだ。そうであれば最大の被害者である韓国がすべきことはあまりにも多い。加害者が過ちを悔やんでくれれば最善だが、それができなければ被害者が率先して加害者の不法と暴力を直接指摘して悟らせなければならない。しかし残念ながら韓国は今までこの点では責任をほとんど放棄してきたと言ってもいいくらいだった。日本の政治家たちの「妄言」に対して興奮するだけで、真実を明らかにして日本人に知らせるための努力を国家的に講じたこともほとんどなかったと言えよう。

私の講義は日本の学生たちだけが聴けばよいといった内容ではなかった。それは韓国人がまず知らなければならない内容だ。近代韓国は無能の時代ではなく,明治日本の侵略に悩まされながらも自修自強(自主的な近代化)の努力を粘り強く追い求めた歴史を残している。韓国を武力で強制的に併合した日本がその歴史を見えないように隠蔽して,日本による近代化を強調したために、他ならぬ韓国人が今でもその歴史を十分に認識しないでいるという状況である。多くの韓国人が、一世紀あまり前に先祖たちが努力して敷設した電気や電車がすべて日本人がしてくれたものだと誤解している程である。まだ日本の植民主義歴史教育の罠から解放されていない体たらくだ。私たち韓国人自身がこのように間違った歴史認識を持っているかぎり,日韓の歴史紛争は解決できないと思う。私たち韓国人が歴史の真実を十分に知らないのにどうして彼らを変えることができるのか。これが『東大生に語った韓国史』を韓国語で出版する最も重要な理由である。」(p7~8)

 

4.『朝鮮の初期近代化がもたらした重要な変化』という歴史的事実が、どのようにして隠蔽されたのか?

明成王妃虐殺の事実を日本が如何にして隠蔽したかについて、F•A•マッケンジーが『朝鮮の悲劇』(東洋文庫1972年刊)第5、6章で以下のように明らかにしている。

「閔妃殺害のニュースは、ソウル在留の外国人たちに、最初はいぶかしい事件として、そしてやがて恐ろしい事件として、うけとられた。日本政府は、その詳報が海外に流れることを極力妨害しょうとした。当時ソウルに駐在していた『ニューヨーク•ヘラルド』紙の著名な通信員コックリルCockerill大佐は、ただちに自社へ打電したが、その通信はとめられ、料金は彼のもとに返還された。この阻害行為は、のちに、日本政府の謝罪するところとなった。事件についての詳報が欧米で公表されたことにより被った日本の損失は,じつに、一つの大きな戦争による損害よりいじょうに大きなものであった。

三浦は、はじめは、自分の責任を回避し、その犯罪行為はまったく朝鮮人によるものだと主張した。しかし、そのような説明が明らかに不可能となったとき、彼は、少数の無責任な壮士どもの援助のもとで朝鮮人たちにより行われたものであると語った。」(p66)

「しかしながら、本当の話を抑圧することはとうていできないことが明らかになってきた。そこで日本政府は、この事件に関してまったく知らなかったと全面的に否定し、そして十分に調査をとげたうえ犯人を厳重に処罰すると約束した。••••••••三浦は、ただちに召還されてその地位と爵位を剥奪され、彼とそのおもだった同調者たちは逮捕され、審問されることとなった。けれども、まもなく、日本政府にはその非行を是正する意図はなく、首謀者逮捕も道化芝居にすぎなかったことが明白となった。伊藤公は、その朝鮮対策のなかでつぎつぎと明らかにしたように、次のことをやがて立証した。すなわち、彼自身の善意に基づく誠実性はともあれ、また彼が一人の人間として朝鮮人に対しどれほど好意をもっていたとしても、結局、自分の輩下の犯した罪悪も、それが日本の国勢の伸張に資するものであるかぎり、彼はそれを喜んで許すのであることを。」(p67〜68)

「あくる年の初め、三浦と二人の共謀者、つまり杉村と岡本をはじめ45名の者が、審問を受けるため、日本の広島控訴院に出頭した。••••••••••••控訴院判事は、被告らつまり三浦とその共謀者たちが、大院君と協力して王妃の殺害を計画し、被告等はその計画のために軍隊と警察を用い、かつその目的遂行のために多数の手下を雇い、王妃をすばやく殺害してしまうよう煽動したばかりでなく、彼らを王宮に侵入させてその目的を果たした,と述べた。さらに判決文は、『同日払暁ノ頃光化門ヨリ一同王城内ニ入リ直ニ後宮マデ抵リタル等ノ事実アリト雖前記ノ被告人中其犯罪ヲ実行シタルモノアリト認ムベキ証憑十分ナラズ••••••以上ノ理由ナルヲ以テ各被告人総テ免訴シ且各放免ス』と述べたのであった。

 

この判決は、日本国中でたいへん人気があった。また、三浦は一躍国民的英雄になってしまった。三浦は、ほどなくして、その爵位や官位のすべてをとりもどし、保持しつづけている。」(p71)

しかし日本がその歴史事実を見えないように隠蔽したとしても,私を含めて多くの在日同朋が、『一世紀あまり前に先祖たちが努力して敷設した電気や電車がすべて日本人がしてくれたものだ』と思いこんでいたのはどうしてなのか!

それは,私を含めて多くの在日同胞が、李泰鎮教授の指摘のごとく未だに『日本の植民主義歴史教育の罠から解放されていない』からだと言えよう。

それはまた、朝鮮民族をあしざまに貶(おとし)める宣伝—党派闘争ばかりやり、外国頼みで主体性がない弱小民族だという宣伝に乗せられ、劣等民族意識にとりこまれたからだと言わねばならない。

 

日本の宣伝が、どれほど狡猾にして強力に深く浸透していたのかは、19世紀末の朝鮮を訪れソウルの不衛生•悪臭に悩まされ、旧弊な社会風俗に驚いた外国人たちの多くは、それでも朝鮮人に同情的であり、日本人の横暴•卑劣さに驚き、反日的であった。

しかしそれにもかかわらず初期近代化の重要な変化を観察し認めたイザベラ•ハード•ビショップでさえ、朝鮮の近代社会への改造のためには朝鮮人に任せてもできないだろうし、日本のリーダシップが必要だという日本の宣伝をそのまま信じていたのであった。

例①「今日の朝鮮人は何世紀にもわたる弱い立場の産物であるとはいえ、それでも朝鮮で一年近くすごし、そこに住む人々を主な研究対象とした結果、わたしは1897年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには二つの条件が不可欠である。1.朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので,外部から改革されねばならないこと。 Ⅱ,国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならないこと。」(イサベラ•バード•ビショップ『朝鮮紀行』p469)

例② あるいはまた1903年4月16日より7月31日まで釜山、ソウル、金剛山、雲山鉱山など二ヶ月以上旅行した医師ベルツは、日記に「朝鮮人は、自体お人好しの国民であるが,無気力の宮廷と、全く泥棒のような役人たちに支配されて、半ば滅亡状態にある。彼らに必要なものは、健全な政府である。恐らく国民にとって一番よいのは、日本がこの国をそのまま引受けることではないだろうか。」(「ベルツの日記」岩波文庫1952年刊p121)と書いている。

今まで見てきたように日帝が捏造歪曲した朝鮮認識は、深く、深く内外に浸透していたし,今も覆い被さっているのである。

だからこそ、19世紀末20世紀初頭の朝鮮近現代史は,無能の時代ではなく、欧米列強の侵略、明治日本の侵略に悩まされながらも『自主的な近代化』の努力を粘り強く追い求めた歴史であることを発見し、正確に知ることが重要であり必要なのだと強調したい。

(科協京都支部会報第12号所収)