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第 二 章 一通の委嘱状

夜中にあたり一帯、露が雨のように降りていた。桂応祥は雑草が生い茂っている家の後ろの桑畑をぶらぶらして、朝やけが映えてきてから庭へ入ってきた。この時、庭に見知らぬ客がひとり彼を待っていた。

意外にもその人は、故郷 定州から来た昌述であった。

部屋に入った昌述は、眉毛まで深くかぶっていたキャップを脱いで食卓の上に投げて騒ぎ立てた。

「これはどうしたことか。お前を訪ねたら係長職でもひとつもらえると思ったのに、何だって授かった福の神を投げ捨て家に座り込んでいるのか?」

昌述は、昔と変わらず真っ赤な顔にあつかましい表情でしゃべりまくった。

「お前がここへ、どうして出てきたのか?」

桂応祥は文机に広げた原稿を片隅にかたづけた。

「や、言ってくれるな。」

昌述は腕を振り回した。

「北はみな修羅場だ。晴天に雷に遭ったごとく土地改革令だ、 産業国有化令だといって騒々しく騒ぎ立てて、先祖代々受け継いできた土地を、主人には一銭 もくれず強奪し乞食どもに分け与え、昔の債務などはすべて無効だと宣布するのだ。そのために私はすっかり一文無しになった。

お前の家も話にならない。あれがどんなにして得た土地なのか。異国に渡って行き苦労して儲けたお金で、お前の妻が一反二反買った土地なのだ。しかし、そ の土地を一坪も残さず、全部没収してしまった。お前の妻は、家まで奪われ放り出されお前の妹の家に身を寄せていて、ただ南からの消息がくるのだけを待って いるのだ。」

「それは本当か?」

「もう、お前は、私がいつも法螺を吹いているから胡散臭いと思っているな。えい、南に行く前にお前の妹の家に寄ったら、お前の末娘がこの手紙をくれたよ。」

揚昌述は、内ポケットから一通の手紙を取り出すのであった。応祥は、急にどきどきする胸をやっと落ち着かせ、急いで手紙を受け取り読んだ。きれいな字体で一画一画きちんと書かれていたこの手紙は、末娘が書いたものに間違いなかった。

「尊敬するお父様!

この手紙がお父様にそのまま着くのかどうか分からないのですが、このように書いてみます。新聞を読まれて推察されたでしょうが、私達の村でも三月初旬 に、土地改革がありました。自分の手で耕していない土地は皆没収されました。どうして不相応な土地を買って、こんな災難にあうのでしょうか。

近所ではお父様が、南で高官になっていると噂しており、大物の反動の家だと思われています。

会う人ごとにお父様について話されます。炭を焼いて売りながら苦労して勉強し成功した人なのに、どうして米軍の奴らにくっついているのか、どうした訳なのかさっぱり分からない、と。そんな時、私は、何と返事をすればいいのか分かりません。

この手紙を受け取られたならば、急ぎ消息を知らして下さい。私達は、お父様を離れては生きられないのでお父様の言いつけ通りにするつもりです。」

応祥は、娘の手紙を手に持ったまま緊張し堅くなって少しも動けなかった。応祥の挙動をじっと見ていた揚昌述が話しかけてきた。

「ここへ来て話を全部聞いたよ。李承晩博士とも渡り合い仲違いしたそうな?そんな自尊心が何になるのか。ほんとうにまあ、とにかく、どう言ってもお前は他には行くところがないのだ。我々と運命を一緒に託するしか道はないのだ。」

揚昌述が興奮してまくし立てた。桂応祥は、じっと目を閉じたまま指尺の長さほどの顎髭をしごくのであった。

はたして彼が、揚昌述のような無為徒食の無頼漢や善人ずらして背信行為をする安相吉のような卑劣な奴等と同じ馬車に乗って、運命を共にしなければならぬそんな人生のどん詰まりに到着したというのか。

自分の主張や立場は投げ捨て、スイッチを押せば動くロボットのように上部の指令によってのみ行動する人間として生きる道しか他にないというのか。

「試験場に行って米国顧問官と和解しては。あの人達はまだ君が現れるのをひどく待っているようだ。公然と権力にたてついても得することは何もない。ただ、あの人達がしようとする通り、そろりそろりしながら実質をうまくやっていけばいいじゃないか。」

揚昌述は精一杯の誠意を尽くして応祥の気持ちを思い直させようと一生懸命であった。

しかし、桂応祥が必死に頭を左右に振ると、昌述は急に怒りだした。

「それでは早く荷物を作って北へ行ってみな。おそらく定州郡に着けば、すぐあの無知で荒っぽい赤どもが棒を持って走ってきてお前を叩き、けりをつけてしまうことだろう。」

昌述は、このように一くさり脅しておいて出てしまった。試験場に行って就職しょうとするらしかった。

昌述がいなくなった後も桂応祥は、いつもの通り机に向かって原稿執筆を続けようとしたが、取り乱された気持ちに堪えられなく、ついに立ち上がってしまった。

揚昌述が持ってきた思いがけない消息は、桂応祥の最後の望みまでもちりぢりに飛び散らしてしまった。彼は、わが国が日帝の統治から解放され、自分の手で自分の国を立派にうち立てる日をどれだけ首を長くして待ち焦がれていたことか。

その日が来れば、昼夜関係なくただ科学研究にだけ心身をかたむけてひたすら力をそそぎ、他の人達が数百年の間積み上げてきた科学の最高峰を何十年間内に究めてしまおうと堅く決心していたのだ。しかし、ああ、何という混乱なのか。

解放されたわが国には、良心と信念を持つ学者を寛大に受け入れる所がもうないというのか。実は、解放直後から妻子のいる故郷の方へ行く考えを彼は何回も したのだ。しかし、彼は、朝鮮に統一政府が樹立されればソウルが国の中心になると思ってここに居座ったのだ。彼は政治的にどれほど知らなさすぎ、愚かで あったことか。

しかし、彼には自分の土地が必要なのではなく、一生を捧げ従事する科学研究事業が必要であった。彼が一生かけて心血をそそいできた遺伝学を研究できる条 件だけ保障されれば、自分の土地を没収した北へ行くことを拒む考えはなかった。以北では金日成将軍が率いる抗日遊撃隊が国を治める核心となっていることを 噂で聞いて知ってはいたが、そこにまだソ連軍隊が進駐していることに思い至ると、彼の少し長めの顔に錯綜した表情が漂った。

科学の基礎が弱い北では、南で米国の統治を受けるのと同じように、どうせソ連が達成した科学的成果や経験をその通り採用するのは間違いないだろうとの考えがしたのであった。

彼は机の隅に置いてある英文、日文の生物学雑誌やソ連の科学について論じたいろんな国の科学者達の小冊子を深い関心を持ってページをめくりはじめた。

オーストラリヤの植物学者ヤシュビの単行本『ソビエトの科学者』には桂応祥の関心を引くような問題が少なくなかった。彼は植物学に対するヤシュビの興味 ある著書を何度も見たことがあったので、何かしらソ連の科学に対する彼の見解に注目する必要があると思った。ソ独戦争がソ連の勝利へと決着しはじめていた 一九四四年にモスクワを訪問したブルジョア自由世界の典型的な科学者であるヤシュビは非常に鋭い批評家であったが、どうしようもない事実についても言及す ることをためらわなかった。

「_ソ連科学院は一七二五年ピョートル帝政時代に創立され発展してきたが、十月革命を経て一九二五年に再編成され今日に至った。この科学院には---科 学院傘下の各分野で厳選された院士百九十八名の席がある。院士の平均年齢は六十五以上であるから大部分老大家達だ。----院士となれば、院士だというだ けでも一か月に五千ルーブルが支払われ、特別な商店で物資を買う自由があり、乗用自動車が支給され、住宅に対する恩典もあり、夏には特別な避暑地も提供さ れる。----

農業科学院は、戦争前に三百五十六万ルーブルの予算で百余個の研究所、八百六十五個の試験場が運営されていた。そこで仕事をしている研究士と研究所助手数は二十四万名に達する。

これら研究所で新しい品種、例えば《極北圏 ジャガイモ》とか、《砂漠用羊》《多収穫小麦》のようなものを創り出せば、研究者に五万ルーブルの賞金がでる。等々_」

これらの資料は、ソ連科学の幅と基礎の深さを総体的に理解するのには、あまりにも貧弱な資料だと言えよう。しかし、ソ連で科学が社会的にどんな地位にあるのかを判断できる一端の資料であることは間違いなかった。桂応祥はこの点に注意を向けた。

彼は雑誌『科学』に掲載された米国の遺伝学者ダンの論文を開いた。ダンは一九二七年にソ連を訪問した人なのだが、彼はソ連の科学界を回ってみた感想を驚嘆して話していた。

「---ソ連科学界で受けた一番大きい印象は、研究者達が精力的で活動的で事物に対する追求欲が旺盛な点であった。これらの情景を見て、外来者達は一致して科学界の文芸復興的な雰囲気、躍動する若さを強く感じるのだが、同じ時期の日本でもこんな現象が見られた。

---一方、応用を離れた純粋科学に対する研究が不振なのかというと、そうではなかった。一九二七年に私が訪問したいくつかの国々の中で、純粋科学の一番活発な中心が旧大陸ではソ連だと思えた。

ヨーロッパまたは米国の社会とソ連社会とは構造的に異なり、このことが学者達の態度にそのまま反映されていた。また、ここでは社会的伝統の意義も他の国 々と同じでないから、彼等がやる方式には特異なものがあった。西ヨーロッパの学者は普通伝統に従って前門を開けようと努力するのだが、彼等がやる方式は後 門から飛び出し地面を穿って出てきもする式だ。---」

桂応祥は格別の関心を持ってダンが書いたこのような文章を何度も読み返してみた。

(分からないことだ。分からない!)桂応祥は続けて頭を振った。

ソ連が世界的な大科学者であるメンデレエブやロモノソブ、チオコフスキーやパブロフを輩出した国だと言わなくとも、世界制覇をもくろんだフアシスト・ドイツに打ち勝った国だと見れば、この国の科学も非常に大きな力と幅を持っていることは推して知るにやぶさかでなかった。

第二次大戦の重荷を一身に受けとめたようなソ連の不思議な威力の前で、桂応祥も驚嘆せずにはいられなかった。フアッショ・ドイツを戦慄させた無敵のタンク部隊を編成しカチュウシャを作り前線に送った、そこにたぐいまれな科学者達の大軍団が存在しているのは自明のことだ。

しかるに、ソ連生物学会でどうしてそんな驚くべきことがありうるのだろうか。

桂応祥は田中義麿が最近ソ連の《新遺伝》を批評した論文『所謂新しい遺伝学説』を心穏やかでない視線で読み下した。

田中義麿は書いていた。

「_ルイセンコ(ツローピン・デニソビチ一八九八ー)は、ウクライナ農民の息子として生まれキエフの農業専門学校を卒業しただけだが、花粉科の豆科植物 で発育段階についての研究をして、春蒔き準備処理(ヤロビザチヤ)を考案し南部地方でのジャガイモ退化防止等を研究導入することによって、農業生産に寄与 した。

しかし、彼自身の独創的な実験は思ったよりも少なく、特に一九四〇年頃からは全的に部下、協力者の手によって実験がなされている。それにもかかわらず、 彼は今農業科学院院長、科学院常務委員会委員等の要職にあり、ソ連の農業科学界で飛ぶ鳥を撃ち落とす勢力を持つに至った。---」

彼は何例かの実例を挙げてルイセンコ説が根拠のない荒唐無稽だと批判し、日本でルイセンコ説を支持する科学者達の論文を非難して、最後に辛辣な語調で否認した。

「---この論文で《新しい遺伝学》を歓迎している人々について長すぎるほど叙述したのかも知れない。著者は、数年後にこの文章がただ歴史的興味以外には省みられないものとなるのを期待するが、現在は必要上何ページかを費やす次第である。---」

桂応祥博士はずっと前からひそかにソ連の科学について格別な関心を持っていた。彼は、西方世界でソ連に対していろんな手段や方法を動員して誹謗しよう と、どうしてなのか分からないがその国の制度を羨望の感情で眺めていたのであった。おそらく彼自身が涙ぐましい苦学生活をし、不条理だらけの資本主義制度 に身の毛がよだつ思いをした事情のためであるかも知れない。

ところで、彼が中国へ渡って研究事業をしたときから、西方国家ではソ連の生物学界で起こっている動きについて我先にああだ、こうだと言う声が聞こえてきていた。

それは、あたかも異端の世界に敵意を持って見ていて、そこに傷がつき、ほころびてくると、歓声を上げて一斉に非難の大合唱をしているようだった。

植物生理学者であるテ・デ・ルイセンコはオデッサ農事試験場で研究事業をして植物の発育段階説のような思いもかけない問題を持ち出していたが、その試験 場の場長であった著名な遺伝学者バビロフは彼の才能を格別にいつくしんでいた。それは、一九三に年にあった国際遺伝学会の席上でバビロフがルイセンコの仕 事を各国の遺伝学者達に紹介して、この仕事と遺伝学を結合させる方向に将来の遺伝学の発展が期待できると話していたことだけからでも推察できだ。桂応祥が 入手して見た資料によってみても、ルイセンコがソ連国内で自分の研究と遺伝学の関係を初めて発表したのは、一九二九年レニングラードで開かれたソ連遺伝育 種学会であった。この会議にはソ連各地から集まってきた千四百名の会員が参加し、三百四十余名の研究者達が研究報告をした。春蒔き準備処理化に関する若い ルイセンコの研究及び遺伝に対する新しい見解は学会参加者達の注意を引きはしたが、これがその後ソ連の国内だけでなく外国の遺伝学者達の中で物議を醸す学 説に発展するとは、当時誰も思っていなかったのだ。

ルイセンコは一九三二年にオデッサの淘汰遺伝研究所に赴任して、そこでジャガイモの退化防止研究に着手した。この研究が予想外の成功を上げた。この時ぐ らいからルイセンコの『発育段階説』に共感し同調する研究者達の数がだんだん増えてきた。その中でもレニングラード大学生物哲学教授プレジェントは積極的 に手助けして、ルイセンコの仕事に理論的な裏付けをしたのであった。

一九三五年にモスクワで発表された二人の共同論文は、ソ連国内で従来の遺伝学に対する《宣戦布告》となった。機関雑誌としては「ヤロビザチヤ」が一番強 力にルイセンコ学説の普及に努力していたのだが、これに呼応する育種、園芸、林業等に関する雑誌の数が次第に増えていった。こうして、一九三六年の学界論 争を頂点として一九三九年末『マルクス主義の旗の下に』編集部が主催した討論会で、ルイセンコ-プレジェント等が決定的に勝利した結果、ソ連の国内で二陣 営間の闘争の大勢が決定してしまった。一九四〇年に農業科学院の院長は、バビロフの席にルイセンコが座ることとなったのであった。

「今までの遺伝学は将棋やサッカーのような遊びだ」、これが一九三七年ニューヨークタイムス紙にルイセンコが世界の遺伝学者達に向かってぶんなげた最初 の挑戦状であった。この時からルイセンコとバビロフの科学的論議は、到底どうすることもできない深刻な問題として提起された。

一九三七年にはモスクワで国際遺伝学会が開かれる予定であった。ニューヨークタイムス紙には、上に引用されたルイセンコの挑戦状と一緒にバビロフの逮捕に関する報道が掲載された。

広東にいたとき、日本に行って来た中山大学教授を通じてこの消息を初めて聞いた桂応祥は大きな衝撃を受けた。彼はバビロフと知り合いになる機会を持たなかった。

しかし、バビロフはソ連で十月革命以後に遺伝学者になった人ではなく、名声が高い遺伝学者達であるコルチョフ、セレブロンスキー、チェトウエリコフと同じように帝政ロシヤ時代から遺伝学を深く研究してきた大学者として、世界に広く知られた人であった。

桂応祥は彼の科学活動について誰よりも深い関心を持っていた。エン・イ・バビロフが自国の境界を抜け出て、アフリカや南アメリカ、米国を初め海外で科学 活動を割合やっていることや実験遺伝学に特別な関心を向けていたことは、多年間海外で科学研究をやって来た桂博士の科学活動と一面合い通ずる点が多かった のだ。

しかし、近頃になって桂博士が彼について格別の関心を持つのは、バビロフが、過去のインテリとして共産主義政権に服務する科学者だという点であった。

ソ連での出版物で紹介されているのによれば、バビロフは、社会主義ソ連で二つの機関、全連盟農業科学院と全連盟植物育種研究所院長として働いていた。こ の科学研究機関にはソ連の全域に展開されている百余個の試験農場が所属しており、そこでは、広大なソ連のそれぞれ異なる気候や土壌に適合した栽培品種を育 種する実験をしているとのことであった。

また、バビロフと彼の助手達は、全世界の農業国で収集した二十万種を越える栽培植物の種子を研究事業に利用しているとのことだ。

バビロフには、第一次五か年計画や第二次五か年計画時期、ソ連の農業を科学的に指導する大きな責任が負わされた。当然これは、国の全ての財富が国家の所 有、全人民的所有となっているソ連のような社会主義国の科学者だけが授かる職責であり権限だと思われた。しかるに彼が逮捕されたとは---

しばらくして、ニューヨークタイムス紙にバビロフ自身が書いた書簡が発表され、彼の逮捕は、デマだったことが明らかにされた。ところで、その後バビロフはどうなったのか。

一九三九年8月には第7次国際遺伝学会がスコットランドのバヂンバラで開かれたのだが、その会長としてバビロフが選挙された。開会が差し迫ったある日、 バビロフから一通の手紙が準備委員会事務室へ届いた。「ソ連の遺伝学者や育種家達は学会に出席できないだろう。」というのだった。

聞こえてくる噂から判断したことだが、バビロフの身上に尋常でないことが起こったことだけは事実のようであった。

しかし、桂応祥は、中国中山大学でもそうだったが、故国に帰ってきて生物学者たちが集まった席で他の人達がこれについて熱を上げて騒いでいるときでも、堅く沈黙を守っていた。

すべてが金で始まり金で終わるこの制度下では、自分の目で見て確認したもの以外に本当の話を捜すことは難しい。だから、彼は、いつも他人の話を聞いてそれについての自分の所信を披露したことはただの一度もなかった。今度もそうであった。

彼は、ルイセンコの『新遺伝学』を批評した西方科学者達の論文をそのまま受け入れる考えは少しもなかった。しかし、すべてを一笑に付してしまうには、彼が、五十を越えるまで帝国主義統治下で生きてきて耳にし、心の底にしみついたものがあまりにも多かった。

西湖のほとりへ出かけ、夕方の散策を終えて帰ってきた桂応祥は、天から落ちてきたかのように机の上に、一九四三年米国で英語出版されたルイセンコの『遺伝性とその変異性』という書籍が置かれているのを見つけた。

彼はこの本を手に入れようと大変努力してきた。この本は、遺伝学博士ドブザンスキーができるだけ多くの生物学者達にこの世のものでない《非開花論》の真 相を知らせる必要を感じて、翻訳し海外へ送ってきたものであったこと、また出版されるとすぐ西方世界の遺伝学者の中で猛烈な非難を呼び起こした本であった からだ。

彼は台所で夕食準備を急いでいた小母さんに尋ねた。

「誰か訪ねてきましたか?」

「試験場の用務員が来ましたよ。先生の机の上に本があるでしょう。米国顧問官が、先生にあげてくれと言われ、お使いで来たと言っていましたよ。」

「ふむ。」応祥は見えない鋭い触手に刺されたように眉間に皺を寄せた。驚くべきことは、彼が決別したジェイムスが彼に本を送ってきたという事実よりも、唯一彼自身だけが、心の中で読んでみたいと思っていた本を、どうして分かって送ってきたのかということであった。

此奴等は、彼の一挙一動だけでなく、内心の変化に対してまで鋭く観察して究明していたことを感じざるを得なかった。試験場を出た後、此奴等とはこれ以上 何のつながりもないと確信した彼の考えが、どんなに単純で間抜けなものであったろうか。決して此奴等は彼を排斥してしまったのではなく、此奴等に屈服しな いと打撃を与え、どうかして自分らにぺこぺこ追従するようにさせようと執拗に工作しているのだった。笑止千万であった。

しかし、応祥は、ルイセンコの本を見たい強烈な誘惑をしりぞけられなかった。彼は息をこらして真夜中過ぎまで『遺伝性とその変異性』を読んで最後のペー ジまでめくった彼は、胸が息苦しくてどうすればいいのか分からなかった。芸術においてと同じように科学においても、直感は問題の本質をつかむのに重要な働 きをする。しかし、彼がこの本を読んで感じた最初の感想は、受け入れられないことがあまりにも多いという点であった。科学とは絶対的に客観的な事業なの だ。厳密な実験科学の見地からみて、彼の理論には深刻な問題があると思えた。先ず理論的な側面で、彼はメンデルーモルガン系の遺伝学者が環境の影響を完全 に無視しているものと決めつけているのだが、これは大きな誤解であった。遺伝学者であるコンクリンも『遺伝と環境』で環境の重要性を提唱しており、彼自身 も多年間の実験を通じて実践では遺伝と環境の結合が必要不可欠だと認めていたのである。ルイセンコは従来の遺伝学者が遺伝の不変性を信じていることを弁証 法に食い違う有神的なものと鋭く批判しているのだが、遺伝学者達は決して遺伝子が恒久不変なものと考えていないのである。

また、彼は、伝統遺伝学が数学をひろく適用しているのを非難して、数学は無生物系で適用できるもので、生物系の現象は機械的な数学を持って解釈できるものではないと断定している。

応祥は、数万回の蚕交雑実験を通じてこれらの分離比に数学的な法則性があることを完全に確認していたのだ。

理論的な側面でだけではなく、実験的な側面でも問題があった。ルイセンコは、外界と無関係に安定している遺伝形質は存在せず、動植物の変異は全的に環境に依存しており環境を変化させて希望する変化を引き起こせるとしている。

即ち後天性遺伝肯定論なのだ。これを証明するために彼が提示した実験成績の中で一番大きく言及しているのは、秋蒔き小麦を春蒔き準備処理すると漸次春蒔 き小麦の性質が増大して三〜四世代まで行けば春蒔き小麦となり、反対に春蒔き小麦を低い温度処理を繰り返しすれば従来のどんな秋蒔き小麦よりも寒さに耐え る力が強い秋蒔き小麦を創り出せるとのことである。彼は、遺伝という意味を、生物体は生存のため一定の条件を要求しており、またこれらのいろんな条件に対 してそれぞれ一定の反応を見せる性質だと解いている。彼はこのような現象を、唯物弁証法で最も重要な原理、客観的な物質世界は環境の影響を受けて変化発展 するのだという真理に適応する実例と見て、これと食い違うすべてのものは異端的なものとみなしたのであった。

どのように見ても、自分の理論を立証しうるだけの材料が妥当ではないし、実験的な証明も不足である感を強く感じた。

しかし、ルイセンコは、自分の学説に対して世界的な植物発育の法則だと主張しているのである。応祥は、鈍い棒で後頭部を叩かれたように頭にがんと響い た。いまだに彼は、真正な科学の原則に忠実な数多くのソ連科学者達の中で、こんな途方もない科学者が現れたのが理解できなかった。今日世界が公認するソビ エト科学の立派な成果は、このような非正常的な事態を受け入れられないことを物語っているのではないか。

しかし、現在ソ連生物学界の状態は、世界の生物学者達が非難するような事態が存在していることは全然無根拠なことではないと如実に物語っているのではな いか。桂応祥は錯雑な考えにふけってしまった。こんな状態で彼が北へ訪ねていくことはあまりにも分別がない振舞いとなるであろう。

それでは、この地で彼が依拠して科学研究をするところは果たして一体どこなのか。

彼は寝床で横になりはしたが、一晩中抜け出る道のない悪夢の中へ陥り、しきりにもがいて目を開けた。頭が痛く身体がひどく重かった。

彼は、うっとうしい気分を快い気分に転換させてみようと、剪定バサミを持って桑の木が立ち並ぶ家の後ろへゆっくり上って行った。

六年前中国から帰り山の中腹にあるこの家を買ったとき、応祥は家よりも家の周囲にぐるりと植えてあった桑の木にひかれたのであった。科学研究事業でこれ からは誰の手助けも受けられないことが確実になったとき、彼は、李朝末期の不遇な学者のように「安貧楽道(貧しくとも心安らかにして天分を守ること)」を 掲げてこの黄金の木を養い育てて、欲するまま研究事業に余生を送ろうと決心したのだ。しかし、彼の夢は、追放された人間が自分を慰めるためのつまらない虚 勢に他ならなかった。黄金の木を養い育てることも無為徒食の学者の暇つぶしに似たようなものであった。本当にこの国を立ち上げるのに貢献する研究事業をや ろうとすれば、大きな財力の支援がなければ不可能であった。

遅れた国の科学を発展させるためには死にものぐるいで恐ろしい気勢でまっしぐらに走っても、発展した国々に追いつくのが精いっぱいであろう。

ついにチャンス到来して、失った全てを挽回するため不死身のように走らなければならない時に、見えない鉄鎖に縛られた身体になった応祥の胸はかっかっ燃 えたぎった。桂博士が剪定バサミを持つ手を動かすたびに「たったっ_」という音が休みなく響いた。昨秋には試験場の仕事を任されていたので忙しく追い肥も やれなかったので、その年に出た芽をほうっておいて長い枝をいっぱい作っておかなければならなかった。

桂博士は取っ手に力をこめて剪定をしていった。

「ご苦労さんです。」

抑揚がはっきりしていて礼儀正しい声が近くで響いた。振り返った応祥は、「ああ、君か。」なつかしげに言葉をかけた。韓樹民が久しぶりに訪ねてきたのだ。

八・一五解放後、 樹民はしばらく家にこもってじっとしていた。日帝末期に倭奴のひとかどの機関で優遇され暮らしてきたから、大きい顔をして歩くには面目が立たなかったのだろう。しかし、人々に別段害を与えたことがなかったので、誰も彼をどうこうしょうとしなかった。

そうこうするうちに、新しい人生転換をしたかのように新聞雑誌などに彼の署名入りの左翼的な傾向が濃い生物哲学論文が掲載されはじめた。しばらくして、 ソウル大学に就職し遺伝学講義をするようになり、最近世界生物学の成果を紹介する彼の文章がひんぱんに発表された。特に、彼がソ連の新遺伝学を東亜日報に 紹介すると、一定の階層の中で彼の人気が大きくなった。

桂応祥は剪定をやめてゆっくり道に出てきた。

「さあ、家に入りましょう。」

軟褐色のスプリングコートをきて中折れ帽をかぶった彼は、ゆっくり応祥についていった。

小母さんさんが持ってきてくれた朝御飯を食べた彼等は、書斎として使われている隣の部屋に上がった。愛煙家らしく煙草を口にくわえ、ほうほうと吐き出した煙を細目をあけ眺めていた韓樹民が、そうっと話をきりだした。

「李承晩博士にみごと背負い投げを食わしたそうな?」

「誰がそんなことを?」

「ほほう、ある人は君が水原城に降りてきた李承晩に会って彼の耳朶をぶん殴ったように話す人までいると言っている。それで、いったいどんなになったのだい、 ん?」

「どうなったのかと。 たまり水も踏めば勢いよく跳ね上がるというだろう---」

桂博士は、普通にさりげなくその間にあったことをゆっくり話しておいて付け加えた。

「それで世の中はどうなって行くようなのか?さっぱり物事の分別がつかないのだ。」

目を少し細めにあけて桂応祥の話を全部聞いて韓樹は、ちぇっちぇっと舌打ちをした。

「君のその愚直で融通の利かない剛直な性格が、また問題を引き起こしたのだ。状況をみれば李承晩がそういう人だとわからなかったのかい。ジェイムス顧問 官は言うまでもなく安相吉のような詐欺漢を相手にしたこともそうだし、こんな奴らをうまくあしらえられないというのかね?うわべだけはいはいと言ってうな ずいているようなふりをして、自分のする仕事はすればいいじゃないか。」

韓樹民は真心から不憫に思った。

「それでは、私に、此奴等をどのように相手せよと言うのか?」

「ほほほう_」

樹民は、桂応祥の子供のような質問にあきれたかのようにうつろに笑った。

「此奴等がするざまを見るだけにしたらよいというのだ。見て考え、いろいろ手だてを考えめぐらせばよいのだ。何故、此奴らにまともに対抗して複雑な旋風 に巻き込まれるのか。それが科学者のやる仕事であろうか?私は、君がやることが心配で見ていられない。公然と知られた出来事で高い代価を支払わせられるよ うになったではないか。」

応祥は、韓樹民のとがった目尻を眺めて、彼が真心を込めて言う話の要点をつかもうとしてみたが、最後まで分からずじまいであった。見て考えめぐらしはし ても、出しゃばるな。しかし、 どうして出しゃばらないでいられようか。愛する弟子泰然を捕まえていっても黙り鶴釧を追い出しても知らないふりをするとい うことは、他人の家に押し入り何かと命令をされても笑ってはいはいと言って、結局安相吉のように生きよと言うのと同じ話しなのだが、ロボットでない以上、 人がどうしてそのように生きられるというのか。目をじっと閉じて顎髭をなでていた桂応祥は頭を横に振った。

「いや、私はそんなふうにできない。かえってこれよりももっと過酷な代価を支払っても、そうはできない。君はあたかも見て判断だけ正確にすれば志操を守 れるかのように思っているのだが、そうはできないと思う。一つ譲歩すれば十、百まで譲歩する道しか他の道がないのだ。心のうちで考えることとそれを表現す ることが、ちょっと見れば大きな差違がないように思えるが、それは質的に違うのだ。」

韓樹民の目尻がブルブル震えた。どんな言葉をもってしても桂応祥を説得でなかった樹民は、やるせなくてどうしてよいのか分からなかった。

「おまえさん、誰かは、君のようにはできなくて此奴等にはいはいしていると思うのか。君だけが正義感があり志操が堅い人のように振る舞わないでもらいた い。それで君が、そのように行動したおかげでどうなったのだ。朝鮮の誇りだと言える遺伝学者が武装解除された軍人のように情けないざまになってしまったで はないか。」

応祥は、韓樹民が自分の才能を貴重に思い、真心から科学研究事業を手助けするためにソウルからここまで訪ねてきて、このような切々たる忠告をしてくれて いることだと少しも疑わなかった。彼は誰よりも桂応祥が科学研究機関から追い出されたことを残念だと思ったのであろう。しかし、韓樹民が深くため息をつい て、

「おまえさん、今からでもジェイムス顧問官を訪ねていき、謝罪しているふりをして試験場を再び引き継ぐようにしたら。」と勧めるのを聞くと、たいへん驚いた目つきで彼を見つめた。

樹民は、応祥にとって最も近いと言えば近く、遠いと言えば遠い人であった。近いというのは彼が一緒に遺伝学を研究する多くはない同業者であり、生活でも 他の人よりも交際が多かったためであるし、遠いというのはお互いの人生観において大きな差違があったからである。しかし、意外にも彼の口から卑劣漢どもが ほざく言葉と別段違わない忠告の言葉が出ると、顔色をかえてしまった。しかし、韓樹民は、応祥の錯綜した思いを自分流に解釈してもう一言付け加えるのだっ た。

「君がこのようによく考えもしないで行動するから、おのずから自分が退く位置に落とし穴を掘ったようになってしまった。率直に言って欲しい。おそらく君は、南で研究できないのならば、北へでも行く考えをしているだろう。そうではないのか?」

「君には何を隠すことがあろう。北では土地改革が実施され、妻が持っていた土地を全部没収してしまったようだ。しかし、私は科学研究だけできるならばそっちへ行くことを拒みはしない。」

「それも君が思っているようにそんなに順調に事が運ばないようだ。君が自身の未来の姿のように考えていたソ連の著名な遺伝学者バビロフの運命がどうなったのかを君も知っているだろう?」

「似たような話を聞くには聞いたが、それが事実なのかどうかは正確ではないと思う。」

応祥は相手の顔に視線を離さず低く言った。

「ほほう、純真な人らしいな。」

韓樹民はまたもや口もとで苦笑いしてすばやく話の矛先を変えた。

「君も自分の目でルイセンコの『遺伝とその変異性』を見たであろう?」

「見たよ。」

「世界生物学者達の中でそのように大きな論議を引き起こした本を見て、君はどんな感想をもったのか。」

韓樹民は細い目で応祥を見つめた。桂応祥はゆっくり話した。

「何というか、一言で言えば彼の説は後天性遺伝論だと思う。生物体は直接環境の影響によって受けた獲得形質を遺伝させるということだ。その説の通りなら ば、農民たちがしばしば言うように家畜飼育では全的に最善の管理が重要だということではないか。これこそは《農民の科学》であり、ある程度の実践的効果の ある思考方式だと言えよう。だから、現在の農業を指導するにはそのような主張は、理解されやすく受け入れられやすいが、厳密な意味で見るとき、それを科学 的なことだとするわけにはいかないと思う。」

「不思議なことに君はルイセンコ説を猛烈に攻撃する西方の遺伝学者達と全く同じことを言うのだね。」

「私は自分の見解を言ったまでだ。」

応祥は本気で力強く言った。室内に沈鬱な雰囲気が重くよどんでいた。韓樹民は、かなり苦しい表情で話した。

「私が君のことを心配したのが無益なことではなかった。だから、君の学問は共産主義政権が樹立されている北でも許容されないものであることが明白だと言 えよう。自信持って言うが、北では君のような遺伝学者を絶対に歓迎しないであろう。だから、君のことはどうしたらよいのだろうか、ん?」

桂応祥は口をぎゅっと閉じてしまった。しかし、韓樹民は断念しないで、やや低い声で誠意を尽くすように立て続けにたくさんの話をした。応祥はその話をど の一つもはっきり理解できなかった。しかし、驚いたことは、今まで古典遺伝学を宣伝し普及させるのにあんなにも熱を上げていた彼が、いつの間にか新遺伝学 の擁護者となっていた点であった。

彼は、話をする過程で、ルイセンコの主張が伝統遺伝学の不備な点をついているとしたこととか、従来の遺伝学は遺伝性がはっきりしているもの、即ち特殊な 遺伝現象を解明したに過ぎず、新遺伝学はそうではない一連の生物体に普遍的に作用する遺伝現象をはっきりさせているとしていることから見て、二つの遺伝学 に対して自分流の論拠を立ててこんな風に言うのだと推察された。

とにかく、今問題になっている「二つの遺伝学」は不幸にも政治的に二つに分かれた世界を背景にしているので、問題が往々政治的側面でだけ論議される点が 少なくなかった。しかし、従来の遺伝学や新遺伝学のどちらも、政治的なものである前に生物学的な問題なのだという見地で論争をして初めて正しいと言えるの ではないか。

応祥は、胸の中に綿の塊がいっぱい詰め込まれたように息を吸うことすら苦しかった。隠し立てしないで言えば、彼は、この日この時まで、ただ科学研究にだ け没頭してきて素朴に飾らず誠実に生きるのに強情を押し通してきただけなのだ。しかし、結局このように生きてきたあげく、彼にもたらされたものは抜け出る 道のない迷宮に落ち込んだだけではないか。静かに目を閉じて過ぎ去った日々をたどってみると、彼の生活にはどんな時でもいっときも安定や平穏が訪れた時は なかった。平穏はすでに非正常だと思えるぐらい、彼は受難を迎えるのに慣れていたのだ。

だが、自分個人が困難な境遇にあることはどうあろうと我慢できたが、今からでも血眼になって、急いで行かねばとても立ち上がれないような我が祖国の科学の将来を思うと、胸が張り裂けるように苦しかった。

裏山には栗の花が白く咲いて、空気を吸うたびごとに寒々としているが、何か暖かみのある栗の花の香りがぐっと鼻についた。世の中万事を我関せずと書斎に 閉じこもって『朝鮮の蚕業』を執筆していた応祥は、頭を冷やそうと裏山に登った。昨晩降った雨をどっさりかぶった草や木々は、みずみずしい葉を振りながら 風にそよいでいた。

静かに耳を傾けると、呼べば応じるようなとめどなく繰りかえす森のざわめきが、甘ったるい追憶のように響いてきた。

草むらに少しもたれかかって座り香ばしい木の葉を噛みしめ、白い雲が、ゆったりたなびいている青い空を見上げた応祥の目には涙がかすんだ。

何日か前、試験場用務員の子供がジェイムス顧問官に言いつけられたと、かなり重いダンボール箱二個を応祥の家に運び込んで行った。小母さんさんがどんな 珍しいものかと開けてみると、一つの箱にはいろんな種類の米国製缶詰やコナミルクが入っていて、もう一つには黒砂糖や高級バターが入っていたのであった。 応祥にもてなす副食物の材料がなくてやきもきしていた小母さんさんは、大喜びであったが、応祥は厳しい表情でその箱に手を出さずそのままにしておくように と厳しく言いつけた。

ところが、ある日、安相吉が彼の家に現れた。いつもとは違ってうやうやしい態度で部屋に入ってきた安相吉は、過去自分が無礼な行動をしたことを寛大に許 して欲しいと言ってまだ蚕糸部長の椅子を空けているので、出勤して混乱に陥っている蚕業試験事業を収拾させてほしいと懇請するのだった。

「もちろん、私達の仕事で先生の気にさわることが少なからずあると思います。しかし、そのために国の科学発展や蚕業が損害を被ってはならないのではありませんか?」

きちんと行儀正しく、へりくだって普通の表情をして、誠意のこもった語調でこのように話す安相吉の態度がどんなに真面目に見えたものか。しかし、狼が化けて絶世の美人となって目の前に現れちらついたとしても、応祥は、もはやごまかされまいと決心した。

「お前が私にそんなにも気をつかい尽くしてくれようとするのは本気なのか?」

応祥は、鋭い目つきで安相吉をにらんで、はっきりと力をこめて尋ねた。

「まあ、先生も何ということを、そんなに言われるのですか?いくらなんでも私が、二度も先生をだませましょうか。私がした話を証明するため、この場で証文でも書けと言われるなら書きます。」

相吉は、細い目を強くまばたきさせて、こざかしく言ってのけた。

「証文は必要ない。その代わり鄭泰淵を釈放させ元の職務で仕事をするようにすれば、お前の話を信じよう。」

「だが、それは難しいです。そんな問題がどうして私の権限に属していましょうか?」

「そんな話では私をもはや納得させられない。どうあっても、私を蚕糸部長に任命することも蚕糸部係員に解任させたジェイムスの許可なしには出来ないことなのだろう?」

「---」

「なぜ返事がないのか。それではお前とこれ以上話すこともない。私は、お前のような親米分子でもないし、共産主義者でもない。だけれど、日帝時代民族的 良心を守って此奴等の監房に捕まえられ監獄飯を食べて出てきた人を、それも解放された国で、望んでいた科学研究事業をやろうと努力している人を監房に詰め 込んだ者とは一緒にいることは出来ない。分かったか。ジェイムスの所へ行って、そう言いなさい。」

安相吉は口もとにけわしく微笑みながら応祥を毒々しく見上げていたが、極めて冷ややかに言い放った。

「先生が共産主義者であろうとなかろうと、どちらにしろ先生は、悪質な共産主義者と同じ行動をしています。我々は、先生の一挙一動を鋭く見守っていきましょう。」

「さっさとそのようにすれば、いくらでも---」

このようにジェイムスの最後の勧告を斥けて、彼は、国が亡かった過ぎし日のごとく孤立無援状態で完全に独りで、科学研究事業をやらざるを得なくなってしまったのであった。

今まで何時人の援助を受けて科学研究事業をしてきたことがあろうか。まだこの世には絶対的に理想的な世界がない以上、科学者にも最も理想的な研究条件が 準備された、そんなところは永久に存在しないのだ。もうこれ以上、人の力を借りる考えをやめよう。一歩進むのも自分の力で道をきり開こう。だから、歩みは 遅いだろう。

しかし、どうしょうもない。これが私に与えられた運命であるから---ある日の夕方には、心のぜんまいがひとつひとつゆるんで、指先一つ動かしたくない 時もあった。分と秒を刻みながら血眼になって歩いてきた過ぎし日々がむなしく思えた時もあった。このような虚脱状態に陥り、朝から晩までかかって二、三 ページの文章も書けない日もあった。

しかし、いつまでもこのようにだらけて座り込んでしまうことはできなかった。

一生かけて積み重ねてきた知識が、あまりにも惜しかった。

彼が踏み出したこの道は、誰かに呼ばれて入った道ではなく、自ら請うて足を入れた運命の道であった。

ムルコルの田舎っぺが家出して、チョッキを着てパジの紐を結んであてもなくソウルの道へ旅立つときには、ひもじい思いをするのが普通のことであった。 しかし、その時でも、気を落とさないばかりか拳をぎゅうっと握りしめて前へだけずっと走った。空き腹をわしず かみにして玄界灘を渡ろうとして急にめまいを起こして倒れ、やっと正気にもどったときも、心苦しい後悔で胸をたたく前に、生きて必ず成功してみせると反発 心が波打ったのだ。たとえ日本へ渡って日本天皇に忠誠をつくすことを強要する帝国大学で勉強しはしたが、彼の心の中には塵一つない澄みわたった故国の空だ けがあったのだ。火あぶりの刑の薪の山も冷ややかな監房も彼の歩みを留めてしまうことはできなかった。五十二才、八・一五解放を迎えたこの日この時まで、 自分自身が正しいと思い、真実で正当だと確信した通りに生きてきたし、違う生き方を知らなかった。どんな帝王も敢えて彼に自分の意志を強要することはでき なかった。

しかるに、この時期になって心が揺れに揺れ、自分自身の立場を確固たるものとさせられない状態になってしまうとは、嘆かわしいことこのうえない。

「ちっちっ_」コゴメウツギの草むらの上で一羽のシメが軽やかに飛んでおり、栗の木の花のなかでウグイスのなまめかしい歌声が響いてきた。深い瞑想にふけってキノコの匂いがにおっている静かな木陰の下を歩いていた桂応祥は、びくっとしてその場に立ちどまった。

その向こうにりりしく並んで立っているハンの木の下から、麻織りズボンに薄緑色の線のあるワイシャツ姿の男が、手に小さな鞄を持ってあわてずにゆっくりとこっちの方に歩いて来ていた。

一見、春に暑さを避けてソウルから避暑に来た人の身なりであった。青葉の茂った蔭が満ちあふれている情景を悠然と見渡している、その中年の男の視線は沈 着で、どこともなく注意深いところがあった。ゆったりと横へ過ぎていくと思ったこの男が急に歩みを止めて丁重に黙礼した。

「農学博士桂応祥先生ではありませんか?」

「そうです。ところで、貴方はどなたですか?」

応祥はいぶかしげに頭を上げた。中年の男は応祥の手を両手でおもむろに力強くつかんで低い声で話した。

「私は北から来た者です。」

「北から?」

応祥は緊張した目で相手を見つめた。

「これまで心労が大変多かったでしょう。昨日来てあらかた聞きました。」

「?!」

応祥は何も言わず、だまって見知らぬ人をただ見つめていた。その人は小さな鞄を開けて、白い模造紙で作られた長い封筒を取りだして両手で丁重に差し出した。

「金日成将軍から、先生に、直接送られた手紙です。」

「金日成将軍からですと?」

応祥の目は一つの所でびくっともしなかった。

「白頭山の虎と呼ばれている金将軍が私に!」応祥の声は、言葉の内容を言い尽きせぬまま濁してしまった。

「そうです。」

応祥は、低いが威厳のある声を聞いたというよりも、心臓で受け止めて手紙を受け取った。彼は、いささかいぶかしくて気にかかりもし、心が乱れもした、ご たごたした心情を落ち着かせられないまま、外側の封筒を注意深くはがして手紙を取りだした。白い紙に毛筆で書かれた委嘱状という文章がさっと目に映った。

桂応祥先生 貴下

尊敬する博士先生を平壌に新しく創立される本大学教授として招請いたしたく、これを受諾されることを深甚にお願いする次第です。

総合大学創立準備委員会 委員長 金日成。

冷たく凍っていた胸が堪えようもなく波打ち、心臓がどきどき打った。桂応祥は、目をじっと閉じて長い顎髭を静かになでおろした。

一通の委嘱状に心を引きつけられて、それにさっと応じるにはあまりにも多くのことを体験した応祥であった。彼は淡々たる声で中年の客に尋ねた。

「金日成将軍は、今、北でどんな職責で仕事をされておられるのですか?」

「北朝鮮では、人民達の創意によっていたる所に人民委員会が組織されたのだが、将軍は北朝鮮臨時人民委員会委員長として選挙され、人民のための政事を任され働いておられます。」

うなずいた応祥はしばらく沈黙していたが、話の矛先を変えて言った。

「ひょっとして、先生は、李升基という化学博士を訪ねる考えはされなかったのですか?」

「率直に言いますと、その先生の故郷である潭陽にまで訪ねて行って、そこから真っ直ぐにここへ来たのです。」

「そうですか。李先生は最近家でどんな仕事をされておられましたか?」

応祥は、気遣わしい思いを振り切れず尋ねた。中年の連絡員が、沈痛な顔色をして返事した。

「私は、彼が大学から追われて故郷へ帰ったとしても、どこまでも科学者であるからに独りででも研究事業を継続されておられると思っていました。しかし、 意外にも、李升基先生は居間で田舎の老人のように、もろこしきびの穂をはたいて箒をこしらえておられました。あまりにもびっくりして自分の身分も明らかに しもしないで、先生の両手をむんずと握りしめました。

(それほどまで高名な先生がこれはどうしたことですか)と言うと、李升基先生は寂しげな様子で言われるのでした。(科学研究事業を自由にさせてくれないこの地で、私のような者に何ができようか。)

私はいきりたつ気持を抑えられず、敬愛する金日成将軍が李先生をお迎えして来いと、このように訪ねてきたのだと言いました。すると李先生は感極まっておっしゃいました。

(あの方は、どのようにして南の寂しい田舎村の隅で住んでいる私ごとぎ者の心情を推察されて、親しく人まで派遣して下さるのですか。私はすでに北を訪ねて行こうと決心していました。)」

「それでは李升基先生はすでに出発されてしまったのですか?」

桂応祥は興奮した語調で尋ねた。連絡員はかなり落ち着いた声で言った。

「だけど、折り悪く困った事情がありました。八十才になられた高齢のお父さんが老衰病のため臨終を目前にして病床に横たわっておられました。それで李先生はお父さんが目を閉じられるのを見てすぐに後を追うとのことでした。」

「あ、そうでしたか。」

桂応祥はうなずいた。心ある学者達が我先に北を訪ねて行っているのだ。しかし、彼の状況は他の人達とはあまりにも違うと考えると、寂しい気持ちになった。

「このように無名の学者を遠くまで人を派遣して呼んで下さるのを、どんな風に感謝の言葉を表せばよいのか分かりません。しかし、私が専攻する遺伝学はもんちゃくが多い学問なのです。それで、人生の末年を目前にしている私がそちらに行って何ができましょうか?」

「何の話を、そのようにされるのですか。もんちゃくが多い学問とは、また何を念頭に置いてされる話なのですか?」

顔がほころび、まなざしが柔らかい客は何のことなのか分からないと桂応祥を見つめた。応祥は冷静な態度を失うまいとつとめながら反問した。

「先生は本来職業が何なのですか?」

「私は平壌農業学校で学生達に化学を教えていた者です。率直に言って、私は遺伝学については全く何も知らないと言えるでしょう。しかし、新しく創立され る総合大学農学部に蚕学講座が設けられるのだが、その講座を任せられる適任者として先生を内定していることだけは確信しています。」

応祥は古い栗の木に背中をもたれかけたまま目をじっと閉じた。

中年の客は木のきり株に腰を下ろして煙草をくわえた。彼もまた桂博士からすぐに返事をもらえるとは思わなかったようで、落ち着き払って周囲を見回した。

桂応祥の心情は複雑であった。彼が南の土地で留まっていれば、何の価値もない人間のくずのような安相吉の下で蚕糸部を任されて、研究事業をやるのがやっ とのことであろう。それでは、一生の間堅持して生きてきた自分の精神、良心や志操などはどうにでもなれと放り出して、ひたすらそいつらにぺこぺこして生き る道以外に他の道はない。

毎日いつも羞恥と侮辱をぐっと堪え、目が見えず耳が遠い人のように振舞ってのみ、同じ空気を吸う存在として残ることができよう。人間は各自自分の世界を 持っているから人間なのではないのだ。そうだから、他の国の領土を占領した侵略者達は、その土地の完全な統治者になるためにその国の民族の魂を支配しょう と、どんな悪辣なことでも少しもためらわずにやるのであろう。

日帝の奴等がわが国の土地を三十六年間も併呑していたが、最後まで朝鮮民族の根深い魂を支配することはできなかった。人間の世界、それは宇宙よりも広大で無限大なのだ。だから、どうしてあんな無頼漢の奴等に限りなく高貴なこの世界をまかせられようか。

それでは、これからは見知らぬこの中年の男について共産主義政権が建てられている北へ行く道だけが残っているのではなかろうか。一体全体、それはどんな制度なのか?

半世紀を資本主義制度下で暮らした彼には、耳にたこができるほど聞いた反共宣伝によって、社会主義制度とは打倒と清算、ぞっとするほど恐ろしい独裁と人 間の個性を踏みにじる缶詰のような共同生活などが支配する社会なのだと、歪曲された漠然としたイメージしか思い浮かぶものはなかった。

北へ行くのは狼を避けようとして虎に会う式になりはしないかとの心配もないことはなかった。しかし、これらすべては見当もつかないのにあれこれ騒いでい る風聞にすぎないもので、確実なことは、倭奴どもが話だけ聞いても怖れおののき震えた伝説的な名将金日成将軍が直接彼に送ってきた委嘱状が彼自身の手に握 られているということであった。

彼は、目を細めて一枚の紙をひろげて一字一字を穴が空くほど見つめた。

尊敬する博士先生を---教授として招請いたしたく、これを受諾されることを深甚にお願いする次第です。

総合大学創立準備委員会 委員長 金日成。

丁重で威厳のある文章が新しい意味を持ってさっと目に映った。礼儀正しく話しかける挨拶の修飾語もなく、抜け目のない美辞麗句もなく、簡単明瞭に用件を ぽんと言っているのがとりわけ強い印象を与えた。それに、八道江山いたる所から指折られる人材を捜して人材育成から着実にやろうとする真摯な態度に、どう しょうもなくひかれていくのをどうすることもできなかった。

どうであれ、彼が一番苦しい状況に陥っているときに、教え導こうと遠くから訪ねてきて手を差し出したのはこの人だけではないか。彼は共産主義者達がどん な神聖な教理よりももっと貴重に思っている唯物弁証法を通読したことはないが、それが物質を観念よりも重視することだけは間違いないと見た。そうならば彼 等も食べて着て消費して暮らす問題を重視するだろうし、そうなれば絹を紡ぎ出す仕事に従事する科学者をさげすむ理由があろうか。どうあろうとも白頭密林で 倭奴どもと血を流して闘った金日成将軍が政事にたずさわられ、労働者、農民が主人公となった制度だというのだから、そこでは我が家へ倭奴の代わりに洋奴 (西洋人の卑称)どもを据え置き此奴どもの威張りくさった仕草通りぺこぺこせざるを得ないような、そんなしゃくにさわる姿はもう見なくてすむのではない か。そして、国の財富が国家所有であるその地では科学者が孤立無援独りで研究事業をしなければならない弊害ももうなくなるのではないか。

だが、本当に決断しょうとすると、それはあまりにも大きい冒険だと自認せざるを得なかった。これは蚕交雑実験のように失敗すればまた繰り返し実験してもよいというようなものではなかった。

しかし、いくら『新遺伝学』が北に入ってきたとしても、古典遺伝学を全く使い道のない学説と投げ捨ててしまうとは思えなかったし、まして彼がやっている 学問が朝鮮の蚕業のためのものだと思うと、自分が無益な老婆心に捕らわれたように思えたのだった。それに、いまでは他の出口がないではないか。静かに目を 開けた桂応祥は低いが心の中から出てくる慇懃な声で言った。

「分かりました。将軍の意志に従います。」

「有り難うございます。しかし今、敵はひそかに先生を夜も昼も監視しています。私の考えでは先生の身辺安全のため、このようにすればよいと思います。---」

中年の客は声を低めた。緊張して彼がささやくのをしっかり聞いた桂応祥は何も言わずにうなずくのであった。

何日もひどく降った雨も止み、空は青く晴れてきた。八達山の谷間には、泥水が大きな音を立てて轟々と流れ落ちていた。

桂応祥博士は、肩バンドを掛けた黄ばんだ麻織ズボンをはき、散策でもするかのようにワイシャツ姿で家を出た。久しぶりに外へ出てきた彼を見て、通りすぎる人々が挨拶をした。

「昨晩はよく寝られましたか?」

「外の風に当たりながら散歩ですか。」

「うっとうしいので水原城でも一回りしてみようかと、このように出てきました。」

手に蒲の茎で編んだうちわを持ち、頭の上にはお気に入りの密陽麦わら帽子をかぶり、のろのろと坂道をくだる彼を見て、豆柿の木がある家の勝手口から顔を 出していた刑事らも苦笑いしていた。しかし、これが、ともかく桂応祥博士が多難な何年間なじみ暮らした所との最後の別れをした時なのを感づいた人は誰もい なかった。

彼が試験場から自ら身を引いた後も、昔と変わらず往来していた弟子達が前日の夜にも桂博士の家に訪ねてきて、研究事業でひっかかっている問題について質 問しもし、混乱した時局についても言いあったが、その夜が忘れられない師との最後の夜なのであることを知る人はなおさらいなかった。

桑畑に身体を隠して夜ごと桂応祥博士の家を監視していた刑事らも、たいそう早い朝明けに桂応祥が音もしない影のごとく山の中腹の家へ入り、大きな革トラ ンクをさげて消えていくのを感づきさえもしなかった。ところで、そのトランクには桂博士の唯一無二の宝物だと言える百数十種の蚕卵や科学論文など、未完成 原稿などがぎっしり詰まっていたのであった。

桂博士は停留所を遠くから回り道して、静かな野山の細道を踏んで水原山城に上った。終日山城を見て回り、林の中で山蚕まで数十余匹収集した彼は、人の目 に触れないように近道を通って駅へ下りて、準備して置いた切符を見せて改札口を通り過ぎた。その時にはもはや日が暮れて、近くの人達の顔もよく見えなかっ た。桂博士は、電灯の明かりがついていない通勤車に上がって隅の方の椅子に座った。

約束どおり、ソウル駅ホームの2番線一番端の電柱の下には、あの中年の男が待っていた。彼等はしばらくの間ホームでうろうろして、その場から開城の方へ行くその日の最終車に乗った。

次の日の午前、太陽が昇った頃、暇のある観光客姿の二人は開城市街の善竹橋の上に立って橋に染みついているという血痕を見下ろして昔の詩に節を付けて吟じたりして、ゆっくりと高麗王室跡地へ歩いていった。

夜中激しい雨が降った後なので、細かい砂が敷かれた大通りは、洗われたかのようにこぎれいであった。雲の隙間からもれる一筋の陽差しを斜めに受けて、高 麗時期の官庁があったという昔の城跡をゆっくり見まわった後で、昔の宮殿への階段であった花崗岩の上に並んで座り足やすめをした。

しばらくしてから、彼等は手に持ったうちわでそよそよ扇ぎながら山頂へ上って、高くそり上がった隅木の端が見える向こうの老松の間の安崋寺を望んで、ゆっくり歩みをすすめた。彼等こそ、案内人を待って休息のひとときを送っていた桂応祥一行であった。

桂応祥博士が突然姿を隠したとの部下の報告を受けた ジェイムスは、青い空から落ちる雷に当たったように顔が白く血の気が引くようで引かず真っ黒になった。気を取り直した彼は、目に毒気をたたえて叫んだ。

「いや、絶対にそんなことはない。どうあっても彼が私の手から抜け出せるとは思えない。絶対抜けだせない筈だ。」

彼は安相吉を呼び出し、桂応祥が行きそうな所をもれなくつぶさに探して見よと命じた。彼は桂応祥のようなインテリが共産主義側へ行くなんてことを信じられなかったのであろう。

ジェイムスは、胸の内を深く隠して陰険な蛇のように実務処理をやれる《米国紳士》流の人間ではなかった。

彼の年齢は二十八才で、貧弱な知性しかない者が早く出世した場合おおむね皆そうであるように、いつも硬い姿勢で上半身を後へ傲慢にそらして手下の人間に高圧的に対していた。

ジェイムスは、初めから朝鮮人を未開の輩と見下して威圧的に振る舞うことで、彼等がおびえて卑屈にこびへつらうようにしょうとしたのだ。彼は、紳士のふりをして朝鮮人を丁重にあつかい彼等を制御しようとする同僚達を嘲笑した。

「そんな芝居はヨーロッパへでも渡って行き演出しなさい。アジア人を扱うには、インデアンを支配する手法以外に他のやり方など必要ないよ。銃と剣、これ で全部だ。彼等は我々よりも手法が拙劣で、甚だしく無知な日本人に約四十年間も頭を下げて暮らすのに慣れている輩なのだから。」

彼は、自分の手法の正当性を安相吉のような人間の行動を見て深く確信した。しかるに、意外にも桂応祥が彼の手法に全面的に挑戦してきた。目に火花が散った。ぼうぼうとこみ上がってくる征服欲を抑えられず、桂応祥の〈腕と足〉を無慈悲に切って投げ捨てたのだ。

ところが、むしろそれは反作用を引き起こして、桂応祥は辞職を宣布して隠退する結果をもたらしてしまったのだ。

面白い実験過程を見守っていたかのごとく、ジェイムスの手法を注意深く注視していた彼の上官はあからさまにジェイムスを非難した。

「日本人が朝鮮人を拙劣に支配したと思っている君の見解は、たいへん間違っているのだ。日本人達が口癖のようにほざく《内鮮一体》とは何なのかを知って、彼等の手法を学ぶ必要があるのだ。」

若くて自尊心が強いジェイムスは、自分の上役の訓示が陳腐で不快きわまる狭量なものと断罪してあざ笑った。しかし、心の中では朝鮮人をあまりにも速断し て軽率に取り扱ったと認めて、もう少し巧みな《武器》を使うようにした。こうして桂応祥の事務机の上に持っていき置いておいた本は、彼が投げた二番目の 《刀》であった。彼は安相吉に今度こそは桂博士を少しも動けないように束縛し支配してしまうと大言壮語した。しかるに、またもや彼の期待とは違い驚くべき 結果を招いてしまった。しかし、傲慢で自尊心の強い彼は、今度もある運命のいたずらで矢が的からそれたのだとみなして、ますますものすごく居丈高に桂応祥 を捕まえてこいと安相吉を追い立て急き立てた。

だが、安相吉は相吉で満たされない野欲が胸につかえて身もだえしたい心情であった。

何よりも彼が不安に思ったのは、この世で自分の乱れた心の中をすみずみまでくまなく知り尽くした者がどこかで生きており、何時の日にか、懲罰の刃を持つ かも知れないと心配になったのであろう。彼は、試験場《大韓青年団員》達の中で金だけ握らせば水、火をものとせず走る、愚かではあるが力のある手下ども 四、五名を選抜して前金を何万円ずつ握らせ、どんなことをしても桂応祥を捕まえてこいと三・八沿線の開城、春川地方へ派遣した。此奴等は当時警察の援助も 受けて越北する路の要所を塞いだが、一週間もして徒労に終わって元気なくうちしおれて帰ってきてしまった。

安相吉は、完全に捕まえて置いていたと思った鳥を取り逃がしたかのように、あまりにも激憤して四日間も家に引きこもって寝込んでしまった。

上官からひどい追究を受け自尊心を傷つけられ踏みにじられたジェイムスは、くやしくて気が塞ぎ晴れずいらいらしていたが、相吉をなだめすかした。 「あの老いぼれ博士を教える機会が必ず来るはずだ。失敗を認めるにはまだ早い。」

主人の意味深長な言葉を吟味した安相吉は、心を引き締めて必ず来るその機会に、この地の果てまでも訪ねて桂応祥との最後の決算をしょうと決心したのだった。そうしないことには決して自分が心安らかに生きられないと感じていたのであろう。