東九条マダンに託す願い

朴 実

 

10指指紋の強制

1970年4月某日、京都法務局の一室で「帰化」業務の担当官は「はい、これで書類は揃いました。ここに、住所、氏名、を書いて認め印を押して下さい」と言った。ああこれで、プライバシーも何もかもはがされるようなこの忌々しい書類の山からやっと解放されるのかと、私はほっとした。すると担当官は「指紋を押していただきますので、別室に来て下さい」と言い、私を狭くて薄暗い部屋へ連れて行った。机の上に用意された書類を見て、私は思わず後ずさりをした。そこにはなんと、左右10指と、掌上半分を押す用紙が用意されているではないか。その時、私は忘れ去ろうとしていたある情景を思い出した。その当時の外国人登録法では、14歳になると、左手人差し指に黒いインクで押捺された外国人登録証を常時携帯し、3年ごとに切り替えなければならなかった。1回目の切り替えの高校2年生の時、区役所の外国人係の窓口に行ってみると、奥の方で朝鮮のオモニが役所の若い男性に「あんた、何年日本に住んでいるのや、自分の名前も書かれへんのか!」と怒鳴られていた。たどたどしい日本語で「すみません、すみません」と謝る声に聞き覚えがあるので覗いてみると、なんとそれは私のオモニだった。私は恥ずかしくなり、急いで区役所を後にした。その時のことは、何年も何年も胸の奥深く突き刺さった棘のように、私の胸を突き刺し疼くのだった。私は法務局のこの薄暗い一室から逃れようとしたが、婚約者の父親が私にすがるような眼差しで「『帰化』して欲しい」と言った言葉が忘れられなかった。指紋押捺の用紙を前に呆然と立ちつくしていると、担当官はお構いなしに左側から強引に手首をつかみ、黒いインクで10指と掌上半分の指紋を押していった。黒いインクで、ドアのノブも触れることのできない私に、担当官はドアを開けながら「向こうの洗面所で洗うように」と、私を部屋の外に出した。その時、法務局に来ていた人たちの視線が一斉に私の黒い両手に注がれているような気がした。「私は犯罪人ではない、これは何か間違っている。」私は心の中で叫びながら法務局から逃げるように飛び出して行った。1年後私の「『帰化』申請」は「許可」され、私は日本国籍者となった。

 

小・中学校時代

私の両親は全羅北道出身の農民で、1924年頃先ずアボジが、その2年後オモニが京都東九条に同郷の知人を頼ってやって来た。私は日本の敗戦が濃厚になった1944年9番目の子どもとして生まれたが、既に上の兄弟のうち3人は亡くなっていた。私の後に解放後妹が生まれ、7人兄弟姉妹が育った。解放後のアボジは決まった仕事が無く、民族団体(おそらく「朝連」)の活動をしていたが、何かの抗争に巻き込まれ、身体を壊し活動から離れていった。オモニと長兄が働いていたが、家族が多く食べていくことは出来ず、京都駅の残飯を拾って食べていくのが精一杯だった。長兄は日本人女性と結婚し、新しい日本姓(通名)を作り、家の表札には二つの通名が並んでいた。小学1年生の年の暮れ、アボジは47歳と言う若さで亡くなった。幼い私は、アボジがいつもぶらぶらしていて働かず、夜になると近所の同胞が集まる酒場で飲んでくるのが嫌で、アボジの死を喜んだ。アボジが亡くなってから、家族の中心は長兄夫妻に移っていった。日本の会社の下請け仕事をして生活を支えている長兄は、極度に朝鮮人であることを嫌がり、隠すようになっていった。その当時、私が入学した東九条の山王小学校では、朝鮮人は全員本名(日本読み)を名乗るように指導されたが、朝鮮人であることを隠していた長兄家族は毎日学校へ行き、本名指導に猛烈に反対し、日本名を使えるようにと陳情活動をした。しかしこの主張は通らず、私は小学校6年間だけ日本読みの「朴実(ぼくみのる)」で在籍し、学校の門を出ると名札を外し、通名の「新井実(あらいみのる)」を使った。

小学2年生の終わり頃、上の姉が義務教育を終え、就職試験を受けることになったが、朝鮮人には就職が無く、思いあぐねた担任が姉に本籍を現住所に、通名を本名として用紙に書くように指導し、大きな電気会社を受けさせた。その結果、姉は見事に入社試験に合格したが、1週間ほど後、学校側が姉の記載に間違いがあったと通報したため、姉の就職内定が取り消された。姉はもはや新しい就職先を捜す気力もなく、睡眠薬自殺を図った。幸い未遂に終わったが、数ヶ月後以前より大量の睡眠薬を飲み、また自殺を図った。このときも、たまたま発見が早く命だけは取り止めたが、身体と精神がずたずたになってしまい、病弱なまま後年亡くなってしまった。この事件は幼い私に大きな衝撃となり、この社会では「朝鮮人は生きていけない」と思うようになった。

オモニは私たちのために、昼は日雇い労働、夕方から飲食店の手伝い、夜中は内職など必死に働かれた。それでも食べていけないので、兄や姉は小学生の頃から働き、私も小学2年生から新聞売りの仕事をした。姉の事件以後、私はこの貧しさ苦しさを、自分たちが朝鮮人であることの勢にしようとし、いかにも朝鮮人のにおいがするオモニを遠ざけるようになっていった。このような生活の中で唯一の救いは音楽だった。3人の兄たちも近所や学校で評判の音楽兄弟であり、私もいつの間にか、音楽だけは飛び抜けて出来るようになっていたが、極貧の家庭では誰も音楽の道に進むことなど考えもつかなかった。

中学は地域の陶化中学校へ通ったが、ここも生徒の三分の一以上は朝鮮人だった。中学からは通名の日本名で在籍し、以後本名は使うまいと心に決めた。学校では朝鮮人生徒は毎日のように事件を起こし、先生に暴力を振るい、1年生の時だけで7人も退学処分になった。私も働きながら学校に通わなければならず、いつも遅刻で学校の塀を乗り越えて行けば、生活指導の先生に捕まり出席簿で頭を叩かれた。中学3年生になり、高校へ行くことなど頭からあきらめていたが、担任の先生が奨学金を申し込むように進めてくれた。私も家族も喜んで申し込んだが、後になって担任が家に訪ねてきて「すまなかった、朝鮮人は奨学金を貰えないのや」と伝えに来た。私は今まで先生に暴力を振るうなど考えなかったが、このときほど殴ってやりたいと思ったことはなかった。もう普通に教室で勉強する気も起こらず、授業をさぼっては音楽に夢中になっていった。姉のこともあったので、就職活動は小さな会社を選び、本名で何社も応募書類を書いた。30社近く応募書類を出しただろうか、卒業間近になっても就職試験や面接試験に呼び出されることは無かったが、かろうじて卒業2日前に小さな電気会社に入ることが出来た。

 

「帰化」から民族を取り戻す闘い

4月になり、夜は洛陽高校定制電気科に通い、会社や学校でも日本名で通した。会社は隔週夜勤の勤務態勢で、夜学との並立はきつく、だんだん身体を壊していった。音楽だけがそのような生活から抜け出せる唯一の救いであり、独学ではあるが、ますます音楽の道に歩むようになり、学校の単位はいつもぎりぎりの状態だった。高校4年の卒業前、一か八か思い切って市立音楽大学作曲科を受験し、奇跡のように合格した。大学時代も働きながらの苦しい生活だったが、自分の好きな道を歩んでいるという充実感に満ちていた。あっという間に4年間が過ぎ、先輩がある私学の音楽教師として呼んでくれた。先輩は2年後に辞めるから、私に後を託すつもりだった。幼い頃から音楽の道に進むことを夢見て、それが実現したその時が私の人生の絶頂期だったかもしれない。大学の教授や先輩、同級生誰も私が朝鮮人だと知らなかったし、私もそのことを隠し続けた。しかし、卒業証書や教員免許証などには本名と国籍が記載されてあり、私はその学校を1年で辞めさせられた。

やがて日本女性と出会い、結婚を約束した。しかし、婚約者の両親親戚などは、朝鮮人との結婚などとても考えられないことで、猛反対をし、母親は娘に抗議してガス自殺を図ったが、幸い命に別状無く軽くて済んだ。このような中で彼女の父親が「帰化して欲しい」と頼んできた。これまで「帰化」と言う言葉は知っていたし、兄や姉3人は「帰化」をしていた。しかし、結婚をするのに何故「帰化」しなければ行けないのか、と言う疑問が起こってきた。とりあえず書類だけでもと思って京都法務局へ行ってみると、役所の人間は最初から「国籍を与えてやる」と言う、上から下を見下ろす態度であり、申請者の人権などは無視された。特に「帰化後の氏名」では、今までの通名、新しい日本名、たとえば芸能人の名前など、何でも良いが「日本的氏名」に限り、本名はだめだと言われた。このようにして私は「帰化後の氏名」に通名の新井実と記載した。この名前が持つ歴史的な意味も知らないまま、1年後この名前が私の新しい本名となった。

私が最も朝鮮人であることを意識させられたのは子どもの誕生だった。初めての子どもが妻のお腹に宿ったとき、うれしさと同時に不安でいっぱいだった。小学4年生頃、近所の友達と喧嘩になったとき、例によって「チョーセン、チョーセン帰れ!」と言う罵倒を浴びせかけられ、私は思わず家に帰り、そこにいたオモニに「何で朝鮮人に産んだんや、産まんほうが良かったんや!」と、とんでもない言葉を言ってしまった。私はオモニの顔を見ることが出来なかった。子どもの誕生を知らされたとき、私は真っ先にこのことを思い出した。もし、自分の子どもが父親の私に同じ言葉を投げつけてきたら、一体どのようにすればよいか、天に向かって吐いた唾が自分に降りかかって来るような思いだった。その時私は「そうだ、おまえは紛れもなく朝鮮人である私の子どもであり、日本人である妻の子どもであり」「2つの文化、歴史、言葉を持つ子どもである」ことを伝えていく決心をした。そう決心をしたとき、私は愕然とした。私には朝鮮人といえる何があるのか。既に国籍も名前も日本になり、言葉も、歴史も文化も知らない、何を子どもに伝えていけばよいのか、私には朝鮮人といえる何も持っていないことに気づかされた。その日から私は大韓教会が行っている夜間学校へ通い言葉の勉強をはじめ、また同胞青年団体に入り歴史の勉強を始めた。近代朝・日史の中で、朴慶植先生が書かれた「朝鮮人強制連行の記録」を初めて読んだとき、非常に衝撃を受けた。歴史的事実とはいえ、これほど人間が獣より劣る残酷な存在になるとは、その意味を知りたくなった。今まで知らなかったアボジ・オモニが日本に渡らざるを得なかった理由もわかってきた。特に、「皇民化政策」の中での「創氏改名」を学んだとき、子どもたちには「創氏改名」によって使ってきた「新井」姓を絶対使わせないと誓った。私と3人の子どもは「朴」を名乗り、妻は旧姓の日本名を名乗った。しかし、末の娘が学校で名前のことでいじめに遭い、妻に「私も日本の名前をつけて」とせがんできたことをきっかけに、妻も朴を名乗るようになった。1984年私たち家族は京都家庭裁判所に新井から朴への「氏変更申立」を行ったが、私の「申立」は、「単なる民族感情・民族意思にしか過ぎない」という理由で却下された。この頃全国で同じように闘われた「日本姓から民族姓」への「申立」は同じ理由で総て却下された。1987年1月、私たちは再び京都家庭裁判所に「氏変更申立」を行い、その年の6月朴への氏変更が認められた。日本籍朝鮮人が民族名を取り戻す最初の判例となった。

1991年5月、私は国と法務大臣を被告人とし、黒いインクで強引に採取された10指と掌上半分の指紋の返還を求め、京都地方裁判所に提訴した。当初国側は「指紋は本人確認の唯一の手段」であると言って問題にもしなかったが、「外登法」の指紋撤廃運動とも関連して国側を追い詰めて行った。遂に1993年から「帰化申請」時の指紋もされ、1994年、国側はこれまで採取した指紋を向こう5年間に渡り総て廃棄する約束で「和解」を申し入れてきた。私は総ての指紋が廃棄されるならすぐにでも「和解」を受け入れても良いと思ったが、最後に法務大臣には国を代表して謝罪して欲しかった。しかし、最終的には謝罪を勝ち取れなかったが、1994年4月28日「和解」に応じ、その年の7月から私を含め約22万5千人の指紋は総て廃棄された。

 

東九条マダン実現へ

私は毎日のように出身校である東九条の山王小学校の前を通る。かつて自分が名前のことで苦しみ、悩んだこともあり、ついつい子どもたちの名札を見るのが習慣になっている。20数年前、私は子どもたちの名前のことが気になり、思い切って学校に入って行き、校長に「私はこの学校の出身ですが、当時は約三分の一が朝鮮人で、みな本名でしたが、現在はどうですか」と聞いてみた。すると校長は「今も三分の一は韓国・朝鮮人ですが、本名を名乗っているのは一人だけです」と答えられた。本名を使っている子どもがたった一人であることに私は愕然とした。この子どもたちは一体どのようになるだろう、私のように本名を隠し、民族を隠し、親を恨むようになるのだろうか。それだけはだめだ、これから生きていく子どもたちは、私たち世代を乗り越えて自分を素直に表し、そのままの姿で生きていって欲しい、私はそのように思わずには居られなかった。それから間もなく、私は東九条の児童館を借りて「子どもチャンゴ教室」開き、3人の子どもたちを通わせた。東九条では戦前弾圧され強制解散させられた大韓キリスト教京都南部教会が、1976年36年ぶりに再建され、‘78年から南部教会を会場に1世のオモニたちの識字学級「九条オモニハッキョ」が開かれた。私のオモニのように、文字(日本語)が読めない書けないためにどれだけ悔しい思いをされたことだろう。1年も経たないうちに、100名近いオモニたちが学ばれるようになった。1985年東九条の公園でオモニハッキョの文化祭が開催されることになり、子どもチャンゴ教室の子どもたちもプンムル隊を組み、出演することになった。オモニたち(子どもたちから見るとハルモニ)らはとても喜ばれ、子どもたちといつか九条でもっと大きな祭りをやろうと誓った。’86年秋京都でマダン劇をやろうと仲間たちと「ハンマダン」を結成したが、ここには日本の青年たちも参加した。これに対し大阪の仲間たちから「自分たちが奪われた文化や歴史を取り戻そうとするのに、何故日本人と一緒にやるのか」と、批判が寄せられた。それに対し私たちは、朝鮮人、日本人もこの地域で一緒に活動し、生活する仲間であり、何よりも私たちの子どもの中には2つの民族を引き継ぐ「ダブル」と呼ばれる子どもたちが大勢いる。この子どもたちに朝鮮人・日本人と言って分けるのは、とても残酷であり絶対分けることが出来ないと、反論した。

1992年4月、地域から育った子どもたちが立派な大人になり、私に「東九条マダンをやろう!」と言ってきた。この青年は子どもの頃、学校や大人に反抗して暴れ、何回も警察のやっかいになった青年である。この青年が私の背中を押してくれた。やがて東九条の仲間たちに呼びかけ、希望の家保育園の崔忠植園長を実行委員長とする東九条マダン実行委員会準備会を結成した。しかし、練習場も楽器も衣装も、何もかもない中で始まった運動は困難を極めた。何より一番つらかったことは、子どもたちが練習する音がうるさいと、大人が石を投げつけることだった。当初、第1回東九条マダンは陶化小学校を借りて開催する予定であったが、これも周囲の了解が得られず断念せざるを得なかった。翌年の1993年10月、秋の「陶化祭」の一貫として東九条マダンを陶化中学で開催したらどうかと、校長からありがたい話があり、やっとマダンの実現に向けて動き出した。東九条マダンの趣旨の冒頭にはこう書かれている。「韓国・朝鮮人、日本人をはじめあらゆる民族の人々が、共に主体的にまつりに参加し、そのことを通して、それぞれの自己解放と真の交流の場を作っていきたいと思います。」私はこの「自己解放」と言う言葉を強調したい。「抑圧する民族は自由であり得ない」と言う有名なテーゼがあるが、私は日本人との共同生活の中で、差別される私たちも苦しいが、それ以上に差別する側に位置する者の苦悩を見てきた。そして「ダブル」と言われる子どもたちの解放とは一体何なのか、私たちマダンに集う者たちの課題でもある。

8年前、地域の子どもたちと「もっと大きな祭りをやろうね」と誓ったことが、今まさに実現しようとしている。その子どもたちも高校生になりノンギに大きな文字で「やっと出会えたね!」と書いた。そう、様々な立場の人々がマダンでやっと出会えた。1993年10月9日、雲一つ無い青空の下、陶化中学校の東西の門から入場する100名以上の大プンムル隊の姿がいつしか涙で見えなくなった。

 

(前東九条マダン実行委員長、東九条CANフォーラム代表)