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終 章 古稀祝膳

戦後年間は、桂応祥博士の生涯において豊饒な時期だと言える。彼は、解放後約十五年にわたって全力を尽くしてきた蚕体解剖論文をついに完成した。桂博士は、一九六四年に中国北京で開かれた世界生物学者大会に参加してこの論文を発表した。

各国の生物学者達は、彼の研究報告が蚕を解剖しその生理現象を詳細に究明した論文としては世界で最も豊富で奥深いものだと感嘆したのであった。彼等は、 遺伝及び育種理論の基礎がこのように幅広くて深みがあるから、朝鮮の現代生物学が世界的水準にまでどんなに着実に発展することができたのかを推察するにや ぶさかではないと言った。

彼等のこのような推察は、それだけの根拠を持っていた。この頃、桂応祥博士は、国蚕二〇八号、五六号、一四七号、一四五号など世界的に最も優秀な一代雑 種の家蚕新品種を次々と育種してきたし、最初の原種に比べて、おおよそ一倍半の重さがある一代雑種の柞蚕五八号も育種していた。また前に言及したように、 原産地がインドのアッサムである熱帯地方蚕・トウゴマ蚕をわが国のエキョンスという柞蚕と交雑させる種間交雑に成功して、温帯地方に適応したトウゴマ蚕を 初めて創りあげたのである。

また、中央蚕業試験場には、毎年、中国、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーの科学者達が絶え間なく訪ねてきて桂応祥の助言をもらっていた。わが国で新 しく育種された温帯地方トウゴマ蚕を普及するため、試験部の研究士達がルーマニアへ派遣された。その国では、果てしなく広いトウナイ江の川辺に、ただ油を 得るため数万町歩のトウゴマを栽培しているというのだ。その無尽蔵なトウゴマ畑で、油だけではなく絹糸繭も採れればどんなによいことであろうか。

桂応祥は、一九五七年に、ある外国の農業科学院の招請を受けて行き、その国の科学者達と生物学発展で得たお互いの経験を虚心坦懐に取り交わして、帰ってくる途中モスクワに滞在することになった。

桂応祥は、迎え出てきたソ連農業科学院の人にルイセンコと会いたいと要請して、赤い広場近くにあるモスクワホテルに泊まった。

彼は、夕日が射す窓辺に立って、鳩の群が群がって下りる広場の一方の曲がり角を考えに耽って見下ろしていた。いまだに祖国の科学界の人々の中には大国で やっていることだから無条件にあがめ尊び、彼がやっている研究事業を疑惑に満ちた目で見て陰口を言う人が多いので、ルイセンコに会って遺伝学についての見 解を率直に話し合うのも非常に重要なことだと思ったからである。

彼は、ルイセンコとの会見を待ちながら、モスクワ市内の科学文化機関などを見まわった。そして、夕方には、ルイセンコと会い話し合う内容をきちょうめんに準備した。

桂応祥は、実験遺伝学者として自分が一生の間、蚕を材料としてやってきた実験結果を持ってルイセンコと論争をするつもりであった。彼は手帳をとりだして 十二箇条になる問題を一つ一つはっきりと書いておいた。それは、蚕に存在するものでありながら同時にあらゆる生物体に支配する一般性を持つ、そのようなも のであった。-----

桂応祥博士がモスクワホテルに泊まっているとの消息を聞いて、ソ連に留学している若い弟子達が我先に訪ねてきた。

ある日、彼が入っているホテルの貴賓室にチミリャチェブ名称農業アカデミヤに留学している弟子が訪ねてきた。彼等はボルショイ劇場が真下に見下ろせる大きな窓の下の円卓に向かい合って座っていた。

おとなしい暗灰色の毛織り洋服にネクタイを締めきちんと座っている弟子をじっと眺めていた桂応は、突拍子もなく言った。

「君の年はいくつなのか?」

「 二十四才です。」

「二十四才!」こう言って桂応祥は、深い感慨に耽った。受難に満ちた自分自身の若い頃が、瞬く間に目の前に浮かぶのであった。その年令には、彼は中学を 終えて上級学校へ行く学費を準備する方法がなくて、ホミを持ちムルコルの傾斜地畑で雑草取りをしていたのではなかったのか。しかし、彼の若い弟子は、その 年令で、国の負担でモスクワの一流大学アカデミヤに来て先進科学や技術を思う存分探求しているのである。

桂応祥は、モスクワに滞在して全連盟農業展覧会をはじめ科学研究機関を見回って、ソ連科学者達が達成した成果や経験を学ぶために可能なあらゆる努力を尽 くした。四十周年を迎えたソ連は、去る世界大戦で最も大きな被害を被ったにも拘わらず、社会主義城塞の雄大な姿をはっきりと見せていた。

桂応祥は、ツアーロシヤの時、遅れた農業国家であったソ連が、巨大な科学技術的潜在力を持つ世界でも最も発展した国に飛躍したのを感じた。

-----一九〇四年《教育通報》は、ロシヤのヨーロッパ部門住民が初歩的な知識を持とうとすれば百二十年かかり、シベリヤやカフカーズ地方では四百三 十年、そして、封建制度が栄えていた中央アジア地方では四千年もかかるだろうと予測していた。しかし、社会主義は過去の人々の計算方法では考えられない前 代未聞の発展速度を持っていたのだ。

だが、西方国家などでは、ロシヤ人達が相変わらず教育や科学分野で《文明国》よりもけた外れに遅れているとの見解が長い間執拗に残っていた。しばらく 前、ソ連の人工地球衛星が世界で初めて地球周囲の軌道に乗り、ユーリ・ガガーリンが地球人として第一番目に宇宙旅行をやってのけ、モスクワ近郊で世界最初 の原子力発電所が操業を開始すると、あらゆることが再評価され始めたのである。

米国のエプニール教授は書いている。

「我々はボルシェビキ革命以来のソ連の大事変や現象のほとんど全部を間違って評価してきた。」

米国大統領であったジョン・ケネデイも次のように言っている。

「我々は、ロシヤ人達の知能について、自分自身を騙してきて彼等の仮想的な無知について誤解してきた。他の国々、近東やアフリカ、アジアやロシヤの情勢やその文化について、まさしく我々が驚くほど無知であった。」

一九四〇年には、ソ連の科学関係の人材はすでに十万名を越えていた。その後、この部門に属するソ連インテリ層は世界のいかなる国よりもはるかに早く発展 した。今日、世界のどの部門においても、科学者達の中で四名のうち一人は、ソ連の科学者である。そのことは社会主義制度こそ、人類が今まで想像できなかっ た超人間的な大胆な構想も実現できる無限の可能性を持っていたことを深く確信させるものであった。-----

全連盟農業科学院では、ルイセンコが、地方に出張しているので桂応祥博士の要請にすぐに応えられなくなったと知らせてきた。そうして、桂博士にソ連の蚕業中心地であるトユクメニヤ加盟共和国の蚕学研究所や養蚕飼育地を見て回るようにした。

ルイセンコは、正当遺伝学者と会うことを好まなかった。ソ連の著名な物理学者であり科学院士であるセミョノブが、科学雑誌紙面を通じて言ったように、ルイセンコは、自分の敵手、科学的見解を異にする人を寄せつけない独断的な人であった。

ルイセンコとの面談は、桂応祥がトユクメニヤから飛行機でモスクワへ帰ってきた次の日になって実現された。その日でさえ、ルイセンコに会いたいという外国客達が何人もいるので、桂博士との面談も三十分だけ予定されているとあらかじめ知らせてきた。

桂応祥が板の間の広い部屋に入ると、事務机の前に座って疲労した面もちで字を書いていたルイセンコが、ゆっくり身体を起こし、手を差し出した。---

その時ルイセンコの部屋でどんな談話がなされたかについては、桂応祥博士自身も、後に詳しく言及されたことが特別にない。しかし、三十分を予定された面談がおおよそ二時間半も続けられた点に留意する必要があると思われる。

そして、幾日か経って帰国し研究所に帰ってきた桂博士は、面談席上でルイセンコが、彼に贈呈した書物にさわりながら、あれこれとりとめなく一言ずつ言った。その言葉を総合してみると、ルイセンコは桂博士に非常に親切に穏やかに応対したことが分かる。

しかし、桂応祥は、一般的な話題は避けて必死に長い間準備した科学的論題にルイセンコを引き入れた。先ず、彼は自分達の研究所で染色体数がお互い異なる蚕を交雑して新しい蚕品種を育種した事実に言及した。

これこそは、ルイセンコが遺伝学者は生物体の変化発展を認めていないと非難していることに対する挑戦であると言えた。だが、ルイセンコは外交的な態度 で、桂博士の研究成果を喜ばしいと言って、これから二つの国の農業科学院相互の交流を、活発にしょうと他の話をしたのだった。

桂応祥は唖然とした。これまでルイセンコが公式的に示した見解と、彼の前でした話があまりにも差があったからであった。

桂応祥は、深刻な気配をただよわせて、自分が雑種強勢現象を利用して生産性の高い優秀な蚕品種を数多く育種したことを事実的な資料をあげて話した後、これからもこの線で蚕育種事業をやっていく決心だと言明した。

だが、驚いたことに、ルイセンコは、育種事業で強勢現象を利用することに自分は反対しないと言って、今後蚕学研究で達成している研究業績に対して注目していこうと確約した。

ルイセンコと激烈な論戦をやるつもりで訪ねてきた応祥は、あまりのことに気勢がそがれ気が抜けてしまった。

桂応祥が聞いていたのは、ルイセンコが、ものすごく独断的であり傲慢で不遜な人だというのであった。しかし、彼は、桂応祥が提起した十二箇条の問題の中 のどの一つも否認しなかったばかりか、それを認めて重視すると約束までしたのであった。面談を終えて外へ出た応祥は、今ひとつ物足りなく苦笑せざるを得な かった。

ともかく、ルイセンコは、桂応祥を自分の部屋で迎えたのとは正反対に、彼を見送るときには庭までついて出て親切に見送ったのである。

「ルイセンコはどんな人でしたか?」

後になって研究所の弟子達が、このように尋ねると、桂応祥は、瞬きして気に入らないと言い返すのだった。

「ルイセンコという人は科学者と言うよりは思弁哲学家だった。」

「彼は、我々がやっている研究事業について、一言も否定する言葉を言えなかった---」

幾年か経って、ソ連雑誌『科学と生活』に掲載されたセミョノブ院士の文章《科学は主観主義を許さない。》があまねく知られるようになると、人々は桂応祥が、あの時ルイセンコについてどうしてそれほどまでひどい評価をしたのかを知ったのである。

その日、研究所成員達は、実験工まで所長の部屋に入ってきて、桂博士の書記が声を上げて読むセミョノブ院士の文章に耳を傾けていた。

---たいへん遺憾ではあるが、生物学の重要な一連の分野では、テ.デ.ルイセンコと彼の助手達の活動の結果非常に特異な情勢がかもし出されて、四分の 一世紀の間、健全な科学建設原則が露骨に蹂躙されてきたのだ。これは、前例のない不当な見解の普及と多くの現代生物学分野での発展の遅延、教育機関での生 物教育の質低下などをもたらしたのであった。-----

この分野で非正常的な状態があまりにも長い間持続されたので、今になって我々は、生物学と関連する科学教育実践事業を改造することについて論議せざるを 得なくなった。一時、そんな可能性を持てなかった数千名の教員、農業技師、科学関係の働き手達が、現代生物学の成果を完全に習得できる条件を保障しなけれ ばならない。

党は、わが科学者達が、自分の分野で主観主義のどんな些細な要素も許容しないで、いついかなる所でも正確な実験によって固められた資料に厳格に立脚することを要求している。-----

深く感動した研究所成員達は興奮して叫んだ。

「そうだね、そう、そうだとも。それ以外になるはずがない。」書記が次の項目を大声で読んだ。

---ルイセンコのグループが長い間生物学で支配的な地位を占めていられたことは、どのように説明できるだろうか。それは、先ず、ルイセンコとプレジェ ントのような支持者達が、自分達と異なる見解を持つ人々との争いを、科学的討論の見地からデマと政治的非難の見地へと移してしまい、そこで大きく成功した ことで説明できる。-----

テ.デ.ルイセンコと彼のグループは、一九四八年の全聯盟農業科学院総会を頂点としていわゆる生物学討論の全期間にわたってよくない方法を利用した。専 門的な生物学的理論を観念論的に描写することは、自然科学の分析に対するマルクスーレーニン主義的態度に深く矛盾するものだ。-----

セミョノブ院士の文章を、注意深く聞いた桂応祥は、胸がすっとする感じがした。これこそ、本当のソビェト科学者達の精神だということ、何よりも兄弟的なソ連生物学界に新鮮な風が吹きはじめたこと、彼等に対する信頼と信任を回復できたことが本当に嬉しかった。-----

「私は、一九五七年八月、光栄にも最高人民会議代議員として選挙され、続いて行われた最高人民会議で最高人民会議常任委員会委員に選ばれて、国の仕事に 直接参与することになった。そして、戦後に祖国統一民主主義戦線中央委員会が組織されると、同委員会委員に、朝ソ親善協会中央委員会委員、朝中親善協会委 員、朝仏文化親善協会副委員長、農林水産技術連盟中央委員会委員、人民賞受賞委員会学位学識授与委員会委員の職責等を兼職して委され、活動した。---」

桂応祥博士が、自叙伝にこのように書いたのは当然のことであった。彼は、一九四七年最初の代議員選挙の時、道代議員立候補者として推薦されたのを辞退し た。自分自身はそんな人民の信任を受けるほどやり遂げたことがないと謙遜した態度を見せもしたが、身のほどをわきまえない職責に関与して科学研究に支障を きたしてはと怖れていたのであろう。

しかし、晩年になって彼は、こんな重責を担うことを大きな栄誉と考えた。彼が、脳血栓に軽くかかって約三か月間病院の寝台で寝て初めて退院し家に帰って いたとき、最高人民会議常任委員会に参加せよとの通知が来ていた。いつもはこんな通知が来ても、ありきたりなものとみなしていたが、この時にはどうしたこ とか会議に遅れると非常に焦って、運転手を急き立てて平壌へ出掛けた。彼は、将軍の配慮でこのような職責で仕事することが、科学活動に大いに必要なのを徐 々に理解しはじめたのであった。

最高人民会議に参加し老抗日闘士達と交際して、彼は、彼等から有益な助言や援助を少なからず受けたのだ。

ある時、抗日闘士崔賢同志と並んで座り会議に参加したことがあった。桂博士は、休憩時間に崔賢大将に自分の研究事業で感じている苦衷について話した。

「私は、今、青紬という珍しい絹布を紡ぐ貴重な蚕をつくるために努力しているのだが、レントゲン撮影機がなくて困っています。」

「なんと、そんなことがありますか。先生が、金日成同志が喜ばれる蚕をつくるのに必要なのならば、何を惜しみますか。私が将軍に申し上げて、わが軍医局で使っているものでも送ってあげます。」

    要点を絞って欣然と話した崔賢は、蚕業と自分自身が仕事している貿易部門とは何の関わり合いもなかったが、会議を終えて帰ってから半月も経たず、軍用車に レントゲン撮影機を載せて研究所まで送ってくれた。将軍は、国の蚕業発展に関して討論されるときには言うまでもなく、三か年人民経済計画や第一次五か年計 画を作成されながら展望計画期間の蚕業発展規模を確定されるときにも、必ず桂応祥博士を呼んで、彼の意見を最初に聞かれた。

桂応祥博士は、何のために一人の科学者を重要な国事を討議決定する職責に推挙したのかを胸が熱くなるほど感じた。日帝時期、彼は政治の棍棒を振り回す権 力者を妖怪の匂いのように嫌った。だから、そんな者からはできる限り垣根をつくって暮らそうと努力した。しかし、社会的人間である人は決して政治の外で自 由に暮らすことはできなかった。いくら世の中すべてを我関せずと暮らそうとしけこんでみても、日帝官憲どもは、彼を決して静かに放って置かず監獄飯を食わ すことも度々あった。

解放の日を迎えたが、彼は、依然として以南当局者を敬遠視したし、北半部へ入ってきた後も、政治を遠ざけ試験場党組織の活動に対して、垣根の向こうの他人の家の内側をのぞき見るように遠くで見ているだけであった。

それがどうあろうと、彼の研究事業は、年が経つにつれて党の活動と深く連結されていった。彼は、その頃になって自問自答した。

「私は、今、敬愛する金日成同志の教示を直接受けて仕事する特典を授けられているのだが、それはそのまま党の指示を貫徹する事業ではないか。」

研究所内の党員達は、夕方になると、いつも宣伝室に集まり、彼の研究事業をどうすればもっとよく手助けできるのかについて討論していた。そんなとき、いつも彼は、独りで部屋に座って将軍の著作選集を読み、あれこれ考えるのであった。

私は、党の重要な決定を執行するのに、いつまでこのように党の外に立たねばならないのか。彼は、人民が主人公であるわが国では、党こそは、鋼鉄の意志で あり無敵の力なのを認識せざるを得なかったし、決定的に政治と堅く手を握ってこそ科学研究を順調にやっていけるのだと痛切に感じた。

それで、彼は、六十六才の老年になって入党請願書をかいた。

「自分は、頭に白髪が生えるこの時になって初めて、わが国の科学に、もっと積極的に尽くすためには、英明なる金日成同志が領導される朝鮮労働党組織の一 員にならなくてはならぬと悟りました。祖国の隆盛繁栄に一生を捧げる私の理想も、朝鮮労働党の指導下でのみ成し遂げられると、堅く確信するようになりまし た。今からでも、年老いたこの私を党に受け入れてくれるならば、最後の瞬間まで党と領袖に限りなく忠誠を尽くします。」

桂博士の請願は、党組織で即時に喜んで承諾された。党では、ずっと前から彼が自ら進んでこのような決心を下すのを待っていたのであった。

郡東委員会へ入党審議を受けに行く日の朝であった。研究所初級党副委員長は桂博士の家の前に乗用車を待機させておいて、準備して出てきた彼を丁重に迎えた。

「天気が悪いです。さあ車に乗って下さい。」

ところが、桂博士は、「副委員長トンム!今日は歩いて行きます。」と言って、乗用車の側を通って真っ直ぐ正門の外へ歩いていくのだった。

郡東委員会庁舎は研究所から半里ほど離れたところにあった。風が激しく吹き荒れ、道には埃が白く浮き出ていた。桂博士は、白髪を風にしきりに飛び散らし、うつむきながらやみくもに郡党へと歩いて行った。

郡党委員長も、自転車に乗って通勤していた時であった。しばしの時間も黄金のように貴重な桂博士の仕事を手助けするために、将軍から送られた乗用車は行 かない所はなかった。桂応祥博士は、仕事の用務でこの乗用車に乗って最高人民会議や内閣にも堂々と行き来した。しかし、彼はその乗用車に乗って郡党正門へ 入るのを慎んだのだ。

この日だけは、一人の入党請願者として、謙遜に頭を下げて自分の足で歩いて郡党を訪ねなければならないと思ったのであろう。

このようにして、桂応祥は、生涯の末年になって初めて、チュチェ型の共産主義者達の戦闘的組織体である朝鮮労働党の一員となった。彼が参加して最初に行 われた研究所初級党総会では、《新しい夏蚕育種での党員達の課題》という案件を討論することになったのだが、党組織では、彼に、この案件を討論するための 報告をするよう委任した。

桂応祥博士は、以前にはなかった新しい熱情にかられて党総会報告を準備した。自分が一生の間やって来た仕事の連続であったが、この時からは、それがすでに社会主義偉業に直接的に寄与する組織的で党的な仕事に転換したことを意識したのであった。

日が経つにつれて、桂応祥博士は、将軍が自分に直接与えられる慈しみ深い配慮に感動して、もっと大きな科学的成果を上げようと今まで以上ひたすら励むのだった。

桂応祥博士の自宅を立派に建てよと将軍が指示され、木材やセメント、ガラスがコンテナ車にいっぱい運ばれてきたときも、その資材を冬に天蚕を研究するた めの温室を建てるのにそっくりそのまま使うようにした。一九六〇年九月九日、彼に人民賞が授与され三十万円の賞金が出たときも、賞金全額を研究所近くに建 設していた蚕業技術学校建設に寄付した。

戦争が終わった次の年の十一月二十七日は桂応祥博士の還暦の日であった。元山農大と試験場では、互いに連絡しあってひそかに彼の還暦祝いの準備をしてい た。こんな気配を感じた桂博士は、不意に黄海南道白川温室(当時白川にはトウゴマ蚕研究分室があった)へ出掛けるときっぱり断った。

「今、私が、どんな顔をして祝宴の席に座れようか。この歳まで将軍の過分な配慮だけを受けて何の成果も上げていないのに、還暦の祝宴を受けて私が喜べま しょうか。おそれ多くてどうしてよいのか分からない、そんな席に座ってどんな楽しみを得られようか。十年後を見てみましょう。」

桂博士がこのように言われたのは、もう少し顕著な研究業績をあげて古稀の時まで待って欲しいということだった。その時から、十年の歳月が過ぎ去った。そ の間に、桂応祥博士は国の蚕業発展にぬきんでた寄与をした功労で人民賞を受賞したし、最高人民会議常任委員会委員、農業科学院院長として国の仕事にも積極 的に参与しながら本当に多くの仕事をしたのである。

しかし、ほんとうに古稀の日が近づいてくると、桂応祥博士は、いらだち焦って不安な気持ちを抑えられなかった。彼は、晩年になって世界蚕業界で未知の問題とみなしている二つの問題を解決しようとあらゆる力を尽くして努力していた。

その中の一つが、蚕卵の色合いによって蚕の雌雄を選別して蚕飼育を雄蚕だけですることであった。雄蚕は生活力が強いばかりか、繭も雌蚕に比べてはるかに 大きくて重いのをつくった。だから、養蚕業者は誰でも雄蚕だけ別に卵を孵して飼えないものかと望んでいた。この問題は、抗日闘士崔賢大将が将軍に報告して 試験場へ送ってくれたレントゲン撮影機を利用して、研究事業を推し進め突然変異体を得てから、すぐに引っかかっていた点が解決されついに成功した。

しかし、二番目の研究課題と設定した天蚕と柞蚕との遠親交雑による新しい蚕育種事業には、どうしても成功のきざしすら見られなかった。歳月は空しく過ぎ ていくのに、研究事業には取り立てて言うほどの前進もなかった。桂応祥博士は、還暦を終えた身体ではあったが、黄海南道九月山に登り仮小屋で暮らして、新 しく考案した数十種類の方法で交雑実験をしてみたのである。この過程で、類縁の遠い二匹の蚕ではどうしても次の世代を得られないとしてきたが、彼は二つの 種の間から完全に新しい次世代を得るのに成功した。彼はこの蚕に《絆》という名前を付けた。しかし、天蚕のように糸ほどきがよくて柞蚕のように卵を多く産 む品種に固定させるためには、まだ多くの問題を解決しなければならなかった。

どうしたら完全な種間交雑を実現して新品種を得られるのか。寝ても覚めても、彼の頭のなかはこの考えしかなかった。汽車に乗って平壌へ行くときも、彼は車窓に複雑な図式を描いてただそれだけを見つめてそれについての考えに没頭していた。

(敬愛する将軍に謹んで成功の報告をしょうと決心した貴重な蚕をまだ創っていないのに、どんな顔をして古稀の祝いを受けられようか!)

桂応祥は今度も祝いを受けないように秘かに旅支度をしていた。正午が近づく頃、夜中降った雪がたくさん積もった研究所庭園に一台の乗用車が音もなく滑るように入ってきた。意外にも車の中から旧知の農業委員会委員長が下りてきた。

庭園を歩いていた桂応祥は、いぶかしげにたじろぎながらもそちらへ近づいて行った。

普通の背丈の穏やかでおとなしい農業委員会委員長が桂応祥の手を暖かくつかんだ。 「偉大なる将軍が先生の古稀を祝賀しょうと親しく祝膳を準備し送って下さいました。」

農業委員会委員長の声は深い感動に溢れていた。

「古稀祝膳ですか?」

桂応祥は、その場でたちすくんだまま、中年の農業委員会委員長をまじまじ見つめた。農業委員会委員長は丁重に話を続けた。

「昨日の朝、偉大な将軍は政治委員達と一緒に農業科学院を現地指導されました。休憩時間に、我々は、桂先生の古稀の日が近づいたので幾人か集まって祝賀もし国家表彰もやればいいでしょうと申し上げました。

将軍は〈もう桂応祥先生の古稀ですか?どんな表彰をあげればよいですか。〉と言って周りを見回されました。我々はすぐさま返答できませんでした。将軍はしばらく考えられて力強く言われました。

〈桂応祥先生は、わが国の科学発展に大きな功労がある主体性の強固な科学者です。今わが国で飼育されている一代雑種の優秀な蚕は、みんな彼が解放後新しく育種し普及させたものであります。

特に、世界生物学界で難しい課題として残っていた種間交雑を実現させ南方地方でだけで飼育されていたトウゴマ蚕を朝鮮の蚕につくってしまったことをはじめ、天蚕を育種するために努力している遺伝学者としての彼の理論実践的な功績は誇るに足るものです。

桂応祥先生は何をもらいましたか。最高人民会議代議員で、最高人民会議常任委員会委員であり、博士、教授、院士であり、人民賞桂冠人でしょう。わが国の 最高栄誉はみんな受けていますね。私の考えでは労力英雄称号をあげるのがよいと思います。ここには政治委員達が、みな参加しているので、移動政治委員会を 開きましょう。〉

そうしてその場で、移動政治委員会を開いて、先生に労力英雄称号を授与すると決定しました。そうしてから、将軍は、桂応祥先生の選集を早く出版しなければならないと力強く言われました。」

桂応祥は静かに頭を上げて、青い空が限りなく開かれた南方の空をつつしんで仰ぎ見た。

眩しい太陽の光につつまれた空の下の何処かに将軍がおられる。まさに将軍がこの土地の中心に立っておられなかったならば、明るい空であってもどうして太陽があのように暖かい光を燦々とそそげたであろうか。

彼は、晩年こんな大きな栄光に包まれて静かに年取っていくとは、夢にも思っていなかった。

ついさっき不意に農業委員会委員長が、庭園に現れたときも、彼は、何の用事でたずねてきたのかと考えてみたが推察できなかった。ところが、将軍はいつも 彼の生を見守っておられ、彼自身も思ってもいないそんな贈り物を一抱えも下さるのだ。老年にも生の熱情で煮えたぎる熱い心臓を下さるのではないか。

昔から古稀祝膳は、子供達が老いた父母の長寿を祝賀して孝行息子の真心でたてまつるものだ。しかし、桂応祥の古稀祝膳は、民族の太陽である金日成元帥が自ら整えて送られたものである。

膳の真ん中には、千古の密林をかきわける苔むす二双の鹿の角が丁重に置かれており、その左右には百年ものの山参を入れた長生不老酒二瓶が光り輝いていた。

皿の上に、大同江のボラや水豊湖の鯉、宣川の栗と甕津の柿、深海から引き上げてきた西海のナマコ、妙香山のタラノメ等が盛られていた。

山海珍味が全部上っていた異彩を放つ膳も見応えがあったが、偉大なる将軍の親筆である一編の文章が人々の視線を釘づけにした。

『ひたすら祖国と人民のための桂応祥先生の高貴な科学研究事業で、より一層の成果を上げられんことを衷心から望んでいます。』

我先に桂応祥に杯を勧める弟子達が、入れ替わりたちかわり引き続き現れる中で、桂博士の息子娘達は、小さくなって片隅に退いてしまわねばならぬ始末であった。

どうしてもそうならざるを得なかった。その頃、蚕学界で桂博士が育てた準博士だけでも十余名にもなっていた。彼等を代表して崔弼浩が、桂応祥博士に酒をなみなみと注いだ杯を両手でもって捧げた。

白い顎髭を撫で下ろして杯を受けた桂応祥は、深い感懐にかられて、胸中深くしまい込んでいたことをゆっくり噛みしめるように話した。

「皆さん!

小さな蚕を扱う学者にも、宇宙のような無限大の自由な空間と、引力牽のような巨大な力が必要でした。

しかし、私は、蚕に真理を探す前に、数百数千億を数える銀河系で新しい星を探す天体物理学者のように、人々が生活しているこの世で先ず真理を探索しなければなりませんでした。

私はついに非常な磁力圏を持っている神秘な別天地に到達しました。最も栄光的な科学探究の世界、偉大なる金日成将軍の懐に抱かれ生きているからであります。---」

桂応祥の目には宝石のような涙がうるんでいた。

×

「何故こんなにゆっくり行くのか?」

乗用車の速度計は百を越えていたのに、桂応祥博士はすでに何度目になるのも分からず急き立てた。

一九六七年四月二十五日、平壌で開かれた最高人民会議常任委員会第三期七次会議に参加して試験場へ帰っていく桂応祥博士の顔には、ずっとじりじり焦る気配が消えなかった。

若い運転手は、全速で走る乗用車ものろいと言って、何度も急き立てる桂博士を不安なまなざしで見ながらアクセルを踏んだ。

頭を高く上げた桂応祥は、目をじっとつぶっていた。彼は、会議に出掛けていた期間に農業出版社に寄って、彼の選集一巻と二巻、一分冊、二分冊が印刷に回 されたことを知った。選集三巻も執筆をほとんど終えていた。ところが、仕事がどうしてものろいように思われて、焦燥感にかられるのをどうすることもできな かった。どうしてそのようにならざるを得なかったのか。

とうとう、彼の目の前に霧の中に包まれていた千姿万態の蚕の世界が、その正体を完全にさらけだし始めた。応祥は、それらを手のひらの筋のようにのぞいてみただけではなくて、手で触って見もしたのだ。

そうだ。研究所に着けばすぐに試験部へ先ず行こう。天蚕の頑固な意地っ張りをなだめすかすためには、普通の方法ではできない。衝撃的な、そういった刺激 が必要だ。閃光のように頭にひらめいた、あまりにも奇抜な考えに彼は息が苦しくなった。そして、今年の春、最初の飼育期からこれまで惜しんで蓄積してきた あらゆる交雑結果を総合して、赤くて青い黄色い天然の蚕繭をてきぱき作ってしまおう。

桂博士の口もとには、限りなく幸福で感じやすい穏やかな微笑がたたえられた。彼の目の前には眩しい太陽の光を受けてきらびやかに光る宝石がざっと敷かれ ていた。彼はどれを最初に拾って篭に入れればよいのか分からなくなっていた。一個も逃さず全部拾って入れなければならないのに-----

彼の年令はすでに七十五才になっていたが、厳密な摂生のおかげでまだ眼鏡をかけることもなく、欠けた歯もなく丈夫な歯で食欲も旺盛であり、一日十二時間仕事しても疲労することを知らなかった。

しかし、目の前にたくさん敷かれている素晴らしい宝石を日が沈む前にとうてい全部拾いつくせないと思った彼は、惜しくてならなかった。

いけない。こんな風にしていては貴重な宝石をとうてい全部拾い集められない。分と秒を惜しんで勤勉に仕事をしなければならない。

「運転手トンム、もうちょっと早く、行けないかね?」

桂応祥がこのように言おうとした瞬間、曲がり角の横道から急に雄牛に引かれた荷車が乗用車の前に現れた。慌ててハンドルをまわした運転手は驚いて気を失った。

「ぐあーん」

どうこうする間もなく、荒削りのくびきが車窓を突き抜け入ってきて、思索にふけっていた桂博士の額を容赦なく打った。おそらくその刹那、桂博士が深い想 念に陥って目をつぶっていなかったならば、思いがけない事故がこんなにまで致命的ものにはならなかったであろう。ああ、哀しいかな。彼は一生をかけて捕ま えようとした黄金の門の取っ手を持ったまま、最後の敷居を越えられなくなってしまったのだ。

彼の死後二十余年が過ぎた今日、桂応祥博士が完成させられなかった天蚕は世界市場で、金でも買えない最も高価な蚕繭となった。

桂応祥博士は、わが人民達に最も多い著作と科学的業績を残した著名な学者であった。しかし、彼が死亡して若い妻と子供達に残したお金は、貯金までみな合わせて、七十二円五十銭で全部だった。

彼は、決してお金をないがしろする清教徒ではなかった。付言すれば、彼が若い頃南中国へ渡っていくとき、そこで将来自立的な科学研究のための元手を準備 できるとの保障がなかったならば、あのように欣然として旅立てられただろうか。しかし、彼は母なる祖国の懐では、あらゆることを超越した人間として清らか に生きて行けたのである。

一九七〇年十一月二日、平壌万寿台議事堂で歴史的な朝鮮労働党第五次大会が開かれた。午前、定刻九時、満場の激烈な歓呼を受けて演壇の前に出られた偉大 なる領袖金日成同志は、場内いっぱいに満ちた代表達を厳かなまなざしで一瞥されて、しわがれた声で開会の辞を述べられた。

「---わが党第四次大会から五次大会に至る期間、党と祖国に限りなく忠実であり革命のために命を捧げて闘争した---桂応祥同志---達が我々のもとから逝きました。

私は、本大会を始める前に、大会の名において、祖国と革命のために自己の高貴な生命を捧げた革命同志達を追慕して黙想することを提起します。」

偉大なる将軍に続いて千数百余名の代表達が厳粛に頭を下げた。母なる大地の上で深くうなだれた黄金色に実った稲穂のように。