禹長春 (ウ ジャンチュン)博士の生涯

禹長春 (ウ ジャンチュン)博士の生涯

(角田房子、わが祖国-禹博士の運命の種-、新潮社刊、1990年)

1898年4月8日 三浦梧楼の閔妃暗殺の実行隊と行動を共にした朝鮮王朝末期の軍人で、事件後日本に亡命した禹範善と日本人女性(酒井ナカ)との間に長男として広島安芸郡で生まれた。

*閔妃暗殺(1895.10.8)

*禹範善は中人の出であったが開化派に属し、金玉均、朴泳孝とも面識があり、特に朴泳孝は、庇護者的立場で親しく交わり、範善の死後は彼の遺児長春の養育費や学費を日本政府に働きかけるほどの好意を持ち続けた。

*長男の出生届を本籍地(京畿道京城府薫陶坊冷井洞四統一戸)で以前の部下である康元達を通じて提出した。(光武2年4月9日 生男 命傅--但し1911年3月8日付戸籍謄本には『命傅』という文字には2本の線で消され『禹長春』と書かれていた。)

*日本で『私生児認知届』を出したのは、長春の誕生から2年余後のことであった。(出しておかなければ小学校に入学できない、というのが理由)

1903年11月 父範善が閔泳翊の家僕であった高永根によって呉で殺害されたとき、禹長春はわずか5才であった。翌年春、弟が生まれ、生活はますます苦しくなった。

*長春は東京の喜運寺(かって父と母の結婚の仲人をつとめた住職が経営する孤児院)にあずけられた。(父の死の直後から1年半、8-11才までの3年)

*次男は、母ナカの遠縁にあたるM家の実子として入籍された。(従って戸籍面では完全に日本人である)しかしこの次男も、兄と共に母の手許で育てられた。

*母ナカの賢夫人伝説

--『あなたは朝鮮人ではないの?』

『朝鮮人が朝鮮人だと言われて、なぜ泣いたりするのですか。そうだよ、

僕は朝鮮人だと胸を張って答えればいいのです。』

--『たんぽぽの教訓』

--夫の墓地を売り払って子供の学費に当てた。

*高永根--家僕から次第に出世して官職。独立協会に対抗して皇国協会副会長、

独立協会や万民共同会をさぐる密命、離脱して万民共同会の会長となる

政治犯として追われ日本へ亡命、逆賊禹範善誅殺、その功で身柄送還

12才の時、韓日併合条約調印(1910.8.22)によって朝鮮は日本の植民地となり、朝鮮総督府が設置された。(初代総督-寺内陸軍大将)朴泳孝の働きかけで朝鮮総督府から長春の養育費が支給された。

*1911年 広島県立呉中学校(現 三津田高校)入学--目立つことも、話題になることもない学生であった。

*1916年 朝鮮総督府の指示により東京帝国大学農科大学実科へ進学

1919年 実科卒業して農林省西ケ原農事試験場に就職した。(雇、月俸25円)

*3.1運動が始まった年、21才の禹長春--全く関心がなかったとは考えられないが、傍観者であった。(在日留学生の独立宣言が2月8日に行われ、 3月1日以後の本国の状況を知った留学生達は3月9日、同盟休校して帰国し

本国の運動に合流することをアピ--ルしている。この期間帰国した在日朝鮮人総数491人中、 留学生数359人。)

*康元達(禹範善に深く信頼されその娘と結婚し、妻の母と姉を引き取って死ぬまで世話した)の家へ学生の時から再度訪問していた。

--禹範善の次女(禹姫命)との結婚の許可をもらうため訪日

--『禹先生は、おばあさんに大変やさしく尽くしてくれた』(禹姫命)

--禹長春とナカを含む一家全員で徐吉善の墓まいりに行った。(康祐昌)

--禹長春は、義兄の姪(康玉順)と金鐘との縁談をまとめた。

--しかし禹さんは『母が、父は偉い人だった。父の国の役に立つ人間になれと言って私を育てた。私は父を尊敬している』と、はっきり言われた。金重華)

*就職の3年後(1922)、最初の論文『種子によりて鑑別しうる朝顔品種の特性について』を発表。その後も熱心に朝顔の研究を続けてゆく。

*1923年9月1日関東大震災--長春の弟Mの話

--地震の当日は、兄と一緒にあちこちの火事を見て回りました。おいしいブドうを食べたのを覚えていますよ(たくさんの朝鮮人が殺されましたが)

ああ、そんな事件がありましたね--と、彼の言葉はそれだけであった。当時8才の私でさえ、東京に住んでいたというだけで朝鮮人虐殺事件には鮮明な記憶がある。--あの事件について、母や兄と話し合ったという記憶は全くありません--と断言されては、取材をあきらめるほかなかった。(角田房子)

1924年 禹長春(26)は、隣家の未亡人-富田せつの妹-渡辺小春(22)と結婚した。小春の両親や兄達がこぞって反対し、籍を渡さないというので小春は生家との縁を自分の意思で切った。

*禹範善を尊敬し終生変わらず禹家の保護者であった須永元は『この際君達は須永家の夫婦養子となり、将来にわたって家族全員が須永家を名乗ってはどうか』と提案し、禹長春は受け入れた。

長女-智子が生まれ(1926.3.17)、出生届けも出せない窮地に追い込まれた後、やっと小春の実家から籍を渡せられ小春の須永家への養女入籍ができ

長春の入夫婚姻も出来たのが、実際の結婚から2年も過ぎてからであった。

『父須永長春届出大正十五年八月十六日受付入籍』--入夫婚姻の一週間後。

*禹長春はこうして正式に『須永長春』となったが、その後も生涯にわたってかたくななまでに『禹』という実父の姓を名乗り続けてゆくのであった。

英語論文--「NAGAHARU U」, 日本語論文-「禹長春」

1926年 禹長春は鴻巣試験場物品取扱主任に任じられて生後五か月の長女智子を連れて鴻巣試験地に移った。母ナカは、東京帝大学生であった次男Mと共に本郷に残った。

*須永元が紋付きの羽織、袴の正装で試験地の官舎をまわり、父としての挨拶 をして人々を驚かせたという。

*1927年 朝顔についての三つの論文発表(『遺伝学雑誌6』)

『朝顔における突然変異の発現に関する研究』(寺尾博主任との連名)

『朝顔松葉型の常変性突然変異について』

『朝顔におけるハプロイド植物の発生』

*次女昌子生まれる(1928.9.23)

*鴻巣に移った後の禹長春--周囲の人々に鮮明な印象を残す人物

-線の太い、頼もしい、オリジナリテイの豊かな人。太っ腹、公平無私。

-碁、将棋、マージヤンなど勝負ごとなら何でも好きな禹長春

1930年秋 本館の火災で禹長春の朝顔の遺伝に関する学位論文が焼けてしまった。

このとき火事場に駆けつけた禹長春はいきなり燃えさかる火の中へとびこみ、学位論文を助けようとした。(資料も全部焼けてもう一度作り直せなかった)

*3女葉子出生(1931.10.30)

*4女朝子出生(1934.3.1)

1936年5月4日 禹長春は東京帝国大学より農学博士の学位を授与される。

*1931年から鴻巣試験地『なたね研究室』(室長-禹長春)では主な研究の一つとして『菜種の品種改良』に取り組んでいた。

種間交雑である菜種の雑種は種子が採れないのだが、たまに少し種子が採れる。それに西洋菜種の花粉を配する--という方法を考えたのが禹長春である。

この方法を確立するため、永松土己と水島宇三郎の協力のもと、ほぼ4年費やして完成したのが学位論文『種の合成』(1935年7月)であった。

キヤベツ(9)+在来ナタネ(10)==両親とは異なる新しい植物(19)

禹長春が作ったこの植物は、既存の西洋なたね(19)と細胞学的に一致する西洋なたね、キャベツ、在来なたねの三者の細胞学的関係を明らかにするゲノム分析に成功したのだ。--禹長春のトライアングル(三角形)として世界的に高く評価されている。

*博士学位を取得したが、「長く室長を勤めたのに、いつまでも技手のままでした」(戸苅義次--大学出でなくても優秀な人が博士になれば高等官技師)

1937年春 禹長春は、高等官技師になれるなら外地に出てもいいと、自分から提案して中国の青島へ出張した。「青島の綿花は非常にやり甲斐のある仕事だ」と言って元気よく帰ってきた。

*しばらくたったある日、禹長春は、「俺はもうダメだ」と珍しく感情的に投げつけるように言った。農林省の反対で場長就任の許可が出なかったのだ。

--なぜああまで肩書きにこだわったのか、彼個人の名誉や欲だったとは思えません。<朝鮮人への差別は許せぬ>という気持ちだったのではないでしょうか、彼は、一度もそんなことを言いはしませんでしたが--(戸苅義次)

*何気なく<お子さん---次は男の子だといいですね>と言うと、「いや、全部女の子で満足だよ。男の子なら、また俺のような思いをすることになろう。こんな悩みは俺一人でたくさんだ」と言われました。(戸苅義次)

*「鴻巣をやめる」ことを前提に、”瞬間的な”高等官技師任命。

1937.8.25 叙従七位 宮内省」 任農事試験場技師 叙高等官七等 内閣」

1937.8.26 依願免本官 内閣」 鴻巣試験地物品取扱主任ヲ免ス 農事試験場」 手当トシテ金千五百円給与ス 農林省」

禹長春は黙って鴻巣を去った。39才の転機であった。

(9/7)明治勲章 勲八等、瑞宝賞 (11/30)恩給年額金六百三拾四円

1937年9月11日 禹長春はタキイ種苗株式会社 技師長就任(年俸三千円)して

タキイ長岡農場の基礎固めに尽力して、初代場長としての責任を果たした。

*天才育種家や長年の経験に基ずく老練篤農家の選抜眼に頼らず、理論に基いた育種体系を確立することを急務としていた。「温室やガラス室、フレーム、網室などが立ち並び、三つの灌漑池を控えた農場では主にアブラナ科植物の育成が行われていた。」

*雑誌「園芸と育種」「育種と園芸」の出版(1942.7-1944.7)

--この雑誌の編集担当者(金鐘-義兄の姪の夫 中国出張のとき婚約さす)

*研究所の奇宿舎にいる朝鮮の青年達に週に一度(農学)講義をしていた。

昭和20年頃、興奮した青年達の激しい言葉が聞こえた。(高橋一成)

昭和19年には試験場は農業指導所と改称され、園芸作物や不急作物の試験、実験は禁止された。研究農場の維持運営は決して容易なものではなかったが研究はなおも継続 されていた。

*「蔬菜の育種技術」(1、2)--「農業及園芸」昭和20年5月号、6月号 に発表--育種の科学化を説く蔬菜育種に関する重要理論として蔬菜育種全般にわたる広範囲のもので訪韓後の禹長春の仕事の基礎となるものであった。

1945年9月初旬 禹長春はタキイ種苗会社をやめた。

「タキイの社長から朝鮮にあるタキイの土地が没収されないようにすぐ現地へ行って運動してくれと依頼されたのを父がおことわりしたようです」(次女昌子)

*タキイの社宅を出た禹長春は長法寺住職の川西夫妻の好意で寺の離れを借りて家族と共に移った。農地改革により、自作農となって日々を過ごした。

沼崎製作所社長-沼崎外男が研究所を建てるといって地主の佐藤さんが提供いてくれた竹薮の整地までしたが途中で倒産したため実現しなかった。

訪韓までの4年半、全く ”鳴かず、飛ばず”無為のうちに過ごした。

*8.15以後、解放の喜びにすさまじいばかりの興奮を巻き起こしていた在日朝鮮人の動きとは全く無関係であった。

「朝鮮人蔑視の強い時代でも私たち一家に対して非常に好意的な日本人が多かったこと。これら日本の方々にに心から感謝し、日本は大好きだと言っておりました」(次女昌子)

1948年7月に南朝鮮単独選挙によって李承晩が大統領に選出され、大韓民国が樹立されたころから、「禹長春博士呼び寄せ運動」が芽をふき始めた。

*8.15前-日本のための米麦増産(朝鮮の一人当り消費量は減少)大根、白菜など蔬莱の育種、採取については放置--1943頃から日本蔬菜種子輸入困難--朝鮮での種子生産企画(総督府が長春に推薦依頼-金鐘を推薦-成果なく8.15を迎えた)

1945年8.15以後3年間-政治経済全てに大混乱-食料不足、農村は種子、肥料、農薬などの欠乏-被害甚大-苦しい外貨で日本から蔬菜種子を密輸入、優良種子の生産自給要請--金鐘が禹長春に帰国要請文送付して承諾返事を受けとる。

*禹長春は母ナカの姉スミが嫁いだ藤野家の養子であった藤野早苗(5才上の呉中の先輩で大阪帝大医学部卒梅田病院勤務)に4、5回相談していた。

-行くべきか否か。-人でか家族全員を連れて行くか。

-妻小春だけ一緒に行くか(7才の末っ子季春、娘達の結婚問題)

-才能のある夫が無為に過ごす姿を見るのがつらい、父の国へ行って存分の働きをさせたいという願いと子供達への責任を果たすことで日本に残る決意

*韓国側は、早速「禹長春博士還国推進委員会」を設立した。

-中心となったのは、釜山、東莱地方の人望家金ワシミ・をはじめ知識層の集まりムス酳会の幹部達と東莱園芸高等学校校長金興洙、そして金鐘であった。

-大々的に募金運動、韓国農業科学研究所創設(1949.4.30)

-禹長春に韓国籍を証明する戸籍謄本が届けられた。

-娘昌子を<この人物ならと>みきわめた新関宏夫と婚約させた。(挙式は1950年12月と決まった)

-禹長春は、渡韓の一ヵ月半前(1950.1.17)広島呉の神応院へいき、父禹範善の墓参をした。このとき呉一中の同期生達と旧交を温めた席で、彼は「今後の韓国は東洋の種苗地として大いに外国に種苗を輸出し外貨を獲得すべきであるという。----従来、日本政府が抑制してきたこの方面の将来性を高く評価すべきである、と語った。(同窓誌ゆかり第五号)

1950年3月8日 禹長春(52)を乗せた新興丸は釜山に入港した。

-長崎の乗船地で韓国の不安定な現状を語り渡韓を思い止まるようにすすめられると、韓国からの戸籍謄本を示して「この通り私は韓国人だ。祖国へ帰る権利はあるはず」と出張し、強引に乗船した。

-禹長春は、モーニングの礼装で下船した。

*3月18日東莱園芸高校校庭で盛大な歓迎会

禹長春は衣服、かぶり物、靴に至まで、すべて韓国式の礼装である。

「私はこれまで母の国日本のために、日本人に負けないほど努力してきました。しかしこれからは父の国である韓国のために働く覚悟であります。」

「わたしはこの国に骨を埋めることを、皆さんにお約束します。」

-禹長春の住居は、かって日本人所有の家を修理したもので、炊事洗濯係の若い娘もすでに決まっていて、金鐘夫婦がこの家に同居した。

*禹長春は、環国推進委員会が家族の生活費の一部にもと送金してきた百万円で、育種関係の書籍、実兼用機器、各種の種子などを購入し持ってきた。

*5月10日韓国農業研究所所長就任。研究所開所式(5月20日)

(創立初期の職員--福所長 金鐘、その他11名)

*ソウル大農科大学 金浩植教授と共に全国各地の農業試験場を巡回し、また農村も視察して「このままの状態では、韓国の農村は国民の食生活を支える力を失う」と語った。

禹長春は所員一同に向かって、「この研究所は本来、農業全般の研究が目的だが、まず国民にとって絶対に必要な白菜、大根の種子作りから始める」と、言った。そのためには育種学を育てねばならぬ、と説いた。「育種学」の何たるかを知らない者もいたが、年ごとに疲弊してゆく農村を救うという使命感に燃えて一丸となって蔬菜の種子作りの第一歩を踏み出そうとしたとき、突然戦争が起こった。長春が釜山に着いて三か月半後だった。

1950.6.25.朝鮮動乱-釜山に膨大な数の避難民の流入-住居.食料不足、インフレ

長春は、戦争の影響で研究が遅れてはならないと研究の具体的計画を示し、連日作業服姿で職員たちを励ました。

第一段階の目標--蔬菜の優良な固定品種をつくり、その種子を大量生産して一般農民の手に渡すこと。(5年間)

第2段階の目標--品種間交雑を行い、雑種強勢の強く現われる雑種第一代(F1)品種を育成すること(7、8年かかる)

*12人の職員の中で召集令状の来た職員を連れて軍の責任者に会い延期要請--その都度聞き入れられた。

*異母姉(禹命姫)とその息子(康右昌)と同居し、金鐘夫婦は他へ移した

1951年10月 禹長春は蔬菜原種生産と一般普及種子大量生産の適地を求めて済州島を訪れた。(「不適当」という結論が出たが蜜柑の大生産地とする起点となった。)

*東莱園芸高校高校教頭であった李澤雨--日韓関係の歴史に非常に関心を持っておられて、日本の新聞の切り抜きを出してよく質問されました。

*陳正基の手許に有る一枚の写真(豊臣秀吉の侵略軍と闘って討死した宋象賢の墓前に、深くぬかずく禹長春の韓服を着たうしろ姿)

1952年6月 禹長春は蔬菜種子の生産適地を求めて、全南の珍島に出張し、調査の結果珍島に試験菜種を委託した。

1953年5月20日 韓国農業科学研究所は中央園芸技術院と改称され、禹長春はその院長に就任した。この機会に釜山近郊の金海果樹育苗支場が禹長春の管轄下に移った。

ここで果樹の育苗事業と南部地域の果樹、特に蜜柑栽培についての基礎調査を本格的に始めることを決意する。

*その後、済州島の南部の西帰浦東紅里に千五百坪の試験地を設けて、さらに品種、栽培の研究を進めた。この試験地は済州島の蜜柑栽培技術の体系化に大きく貢献し、慶南、全南の南部海岸島嶼地域がみかんの大生産地となる上で大きな役割を果たした。

1953年6月 禹長春は再び珍島へ行き、生産状態を確認した上で、この島を原種採集地と決定した。

*珍島で生産した原種の大量生産事業を扱うため「韓国農業科学協会」が設立されて、蔬菜種子の自給態勢が整えられた。

*ようやく戦争も終わり、蔬菜種子の研究に拍車をかけねばと、弟子達を励ましていた時、「母、重態」の電報--出国願--許可はいっこうに来ない--大統領にも頼んだが応答なし。1953年8月18日 ついに「母、死す」の電報(母ナカは弟Mの家で永眠81才)*禹長春の母の慰霊祭、農場の講堂で行われた。禹長春は白麻の韓服姿で、かぶりものもすべて韓国式の喪の正装であった。異母姉禹姫命も麻の白衣でつつましく控えていた。

*釜山東莱の「禹長春博士遺跡地」にある”慈乳泉”

案内板「この地域は世界的な育種学者.禹長春博士が1950年に還国し、園芸試験場を創設して直接働いた所である。1953年には日本におられる母堂の臨終に参席できず、ここで慰霊祭を行った。そのとき各界からよせられた香典を家族には送らず、飲料水の乏しいこの地に井戸を掘り、試験場はもとより近くの住民までをうるおした。井戸は”慈愛深き母の乳”という意味で「慈乳泉」と名づけ、自筆の碑を立てて母堂を追慕された。1959年、禹博士は韓国農業発展に多くの功績を残して62才で亡くなり、子の地の園芸試験場も水原に移転することとなったため、釜山市は1973年にこの地に銅像をたて、禹長春博士遺跡地として長く保存しようとロータリーを造るに至った。

1988年11月1日 園友会会長」

*1954年4月初 �羆リケは禹長春を呼び寄せ水耕栽培のイチゴの話をして、「韓国でもやれないか」と訊ねた--「施設、管理にかなり費用がかかり貧しい韓国ではやる必要がありません。それよりも清浄野菜の栽培を普及させた方が国民の役に立ちます。ソウル近くですでに指導を始めています。」

*1957年にはさらに研究を進めた珍島の固定品種によって蔬菜種子の生産自給は完全に達せられた。

*1957年--禹長春に農林部長官就任依頼

--高等考試第三回技術科委員に任命された。その頃Hという若い研究者の学位論文の審査で委員長として「これだけ努力しているのだから、学位をやることにしよう。韓国の農学の水準を高めようとする意欲を持たせることに重点をおくべき時だから。」

--同年12月、釜山市第一回文化賞(科学部門)受賞する。

1958年 白菜や大根の種子が自給自足の状態に達した1957年の末頃から、禹長春は食糧不足の対策として、南部水田地帯の裏作に麦の代わりに馬鈴薯を取り入れることを考え始めた。農家で栽培されていた種薯はウイルス病がひどく、それまで北海道から年間大量の種薯を輸入していたことを知った禹長春は、韓国に適した品種を無病状態で増殖貯蔵する方法を確立しようと決心した。

*1958年4月8日禹長春の還暦祝いがソウルの国際ホテルで盛大に開催

*その後すぐ日本に行き、3女葉子の金田忠吉(農林省試験場勤務)との見合いに出席している。結婚は1959年4月)

*4女朝子の結婚式(1958年12月)には出席していないが、その前に婚約者稲盛和夫(京セラ創業者)を紹介されている。

その後、研究費を得た禹長春は、さっそく無病種薯の生産に着手した。基礎研究も順調に進んでいよいよ大関嶺で試験栽培を始めることのなったのは1959年であった。

「ここまで進んだ時に、禹先生はお亡くなりになりました」(��)

1958年4月 3女葉子の見合いに出席したのち釜山に戻った禹長春は、また研究に没頭した。職員や研究員の数も増えたこのころの研究も多岐にわたっていたが、中でも稲の研究に異常なまでの熱意を注いでいた。

稲の専門家ではないが、独自の目標を目指して数年前から試験栽培まで始めていた。

(季節をずらして二度植えるのではなく、一度収穫した切り株からさらに茎や葉をのばして、もう一度稲穂を実らせようという狙いである。一植二収という。)

1959年5月20日 園芸試験場の創立十周年記念祭--運動場で表彰式で職員に十年勤続賞(��,陳正基,玄永柱、金英実など7人)

「禹先生は十周年記念祭のあとまももなく、用事でソウルに行かれ、そのついでに健康検査を受けられました。その結果、手術を受けることになったと聞いて、体力があるだろうかと強い不安にかられました。」(陳正基)

*禹長春の宇宙観--『「種」はそれ自体が一つの宇宙だ』

「地球上に生存する動物、植物などあらゆる生物は、宇宙の意思によって「永生」できるように創られている。その「永生」は『種子』の形態を通じてつながってゆく」

「卵から蚕の幼虫が生まれ、それが蛹となり、さらに蛾となって卵を生む--というように、この連鎖方式には複雑、単純の差はあるが、いずれも種を通して永生してゆく方式で、これが宇宙の大原則である」

「意識が眠っている時が『種』であり、意識が活動している時が人間としての存在だ」

1959年6月9日 ソウルのメデイカル.センタ-に入院-胃と十二指腸の潰瘍と診断

第一回の手術-6月29日

「私は(数えで)62才、生きるだけ生きたのだから、いま死んでも不満はない。人として生まれ、悲しいこと、嬉しいこと、苦しいことはみな経験した」

--間もなく二回目、三回目の手術、衰弱、病状の悪化--禹長春の妻に「重態」通知

--根のついた稲を禹長春の目の前に差し出すと「よく育った---よく見える所に」

--7月26日 妻小春のソウル到着「二人は感激のあまり言葉を失い、博士は長い間夫人を見つめるばかり。非常に印象的な場面でした」(看護婦)

夫婦の会話は常に明るく、なごやかであったという。

「韓国の生活も俺が来た頃ににくらべれば、ずっとよくなった。----この国で一緒に暮らそう。もう少し待ってくれ」

「ええ、ええ、待ちますとも、もう少し待てばいいのですもの。その日が早く来るように、一日も早く元気になって下さい」

--8月7日 「禹長春博士に大韓民国文化褒章を授与するため、本日午後、政府を代表して農林部長官がメデイカル.センターを訪れる」との通知。

午後3時半、長官が禹長春の胸に文化褒章をのせ、短く祝詞を述べた。

禹長春は目を閉じ、震える手でそっと褒章に触れて、「ありがたい----祖国は----私をわかってくれた」と述べて、涙を流したという。

--この安らぎと悦びの中で、禹長春はなお三日を生きた。訪問者が来る度に、彼は褒章にそっと片手をのせ、かすれた声で「国は私をわかってくれた」と言い、また「もう思い残すことはない」「満足だ、嬉しい」などと、とぎれとぎれにもらしたという。

1959年8月10日午前3時10分 医師、看護婦のほかには小春だけにみとられて、息をひきとった。享年61才

農家大学初代学長趙白の書いた『禹長春博士追悼文』

「わが国植物遺伝育種学界の第一人者として、海外にまで広く名を知られた世界的学者である学術院会員、園芸試験場長の禹長治博士の突然の訃報は実に青天霹靂であった

博士の尊父は周知の如く、旧韓末の志士として、再び故国の土を踏めない亡命の身で、博士が幼い時に日本で他界し、博士はその根は韓国人であるが、母堂は日本人であり、日本で教育を受け、日本で就職して半生を日本の社会で活躍し、成長した子女もあり、日本で安定した生活を送ることは容易であった。

それにも拘わらず、言語も通じない道の世界に等しい故国に帰り最も困難の時に最も意義ある事業を担って努力の限りを尽くしたことは、実に賛嘆おくあたわざるものがある。博士が、遺伝育種学界に貢献した業績については詳細な説明は省略する。

博士の血のにじむような努力により多くの隘路を克服した結果、今日では蔬菜種子は自給自足の域に達し、もう一歩で輸出さえ出来るという段階になった時に逝去された」