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第 四 章 九州帝国大学

しきりにうごめく広々とした海は、深く立ちこめている海霧のなかに埋まっていた。

「あうっ、あうっ----」

かすかに見える帆の上には、カモメがいそがしく飛んでおり、不安そうに鳴いていた。釜山埠頭で日本の下関へ渡っていく切符を入手した応祥は、まっすぐに海岸の道に向かって歩みを早めた。

ソウル駅を出るとき、見送りしてくれたある友達が、海岸通り×番地に自分の叔父の家があるので自分からのご機嫌伺いを伝えてくれるのと兼ねて、出発を待つ時間に寄ってみて温かい御飯でも一膳食べて出掛けたら、と頼まれた話が思い出されたからであった。

「自分の国で金がなくなれば何とか儲けて食べられようが、他国へ渡って行きポケットが空ではどうするのか。私の頼みを聞いて叔父の家によって、食事でもして小銭を節約し、緊急なときに使ってはどうか。」

はるか遠くの異国に出かける彼に、わずかな金ですら持たせられないことを気にかけて、このように話した友達のことづけが忘れられなかったのだ。恩師の一 生と交換したのかも知れない金を一銭たりとも無駄にしないようにするためには、あつかましいがそうするのが良かろうと思った。

薄っぺらな木綿洋服だけをつんつるてんに着た応祥は、身体をかがめて手を両脇の下にぴったりはさんだ。素早く歩いていくとき、背中に背負った風呂敷包み が軽く揺れた。昨夜、ずっと汽車で苦しめられ、午前の半ばに外へ出た彼は、すっかり凍えていて真っ青な顔をしていた。彼は、寒さに痛みつけられ、こちこち になった体を、少しでも和らげようと大急ぎで歩いた

そのときから半時間が過ぎた。応祥は、青白くやつれた顔を服の襟の中にすぼめて船倉に向かって追われるように歩いていた。彼の穏やかな目には、涙がこぼれそうにたまっていた。

口をきっと閉じた応祥の顔には、言い表せないほどの羞恥と侮蔑を受けた鋭い痛みが強く刻まれていた。友達の挨拶を伝えようと訪ねたのはさておくとして、 仮に見知らぬ人であっても、海を渡って行く旅人が自分の家によって来た以上、御飯を少しでも炊き食べさせて送るのが人情だろうに。犬の餌皿に白米の飯粒を 入れて一杯にするほど富裕なその家では、そんな事情を少しも知らなかった。自分の腹がふくれているから他の人もそうなのだろうとでも思っているのか。

どろんとした目を開けてからから笑いながら夜中酒を飲んでげっぷしながら、下の部屋に向かって「お前、旅の人が来たので、御飯でもちょっと炊けよ」と言った。

「今し方、台所の水を捨てて帰って来て座ったのに、食事時でもないのに。」

女房がぶつぶつ言って不平をこぼすと、「ほほ。そりや、船の出発時間前に御飯を食べる間もないなあ」と銀時計の鎖を内ポケットから引き出して懐中時計をのぞき見て、太った身体を壁にもたれさせて両足をずらりと伸ばした。

「最近、日本へ渡って行った籾米が多くて、不合格になった米があふれてしまい、米商人も景気がよくない。」

ぎこちない雰囲気をほごそうと言い出した話なのだが、旅に出掛ける人を座らせておいて暇つぶし話をするだけであった。空になった腸がねじれ曲がっても、 こんな人に窮迫した話はしたくなかった。応祥は超然と立ち上がってその家を出た。何の気もなしに道端の石ころに足の爪先を引っかけ、ちょっとよろめきなが ら足取りを急き立てた。もう飲食店に寄って空き腹をなだめる暇もなかった。

恐らく、その家では、突然訪ねてきた一人の若者が外へ出てしまえば、そんなことは、すぐに忘れてしまうことだろう。しかし、応祥は、故国と告別して異境へ旅立つ人に冷えた一匙飯すら出さない、腹一杯食べて満ち足りて生活している冷情なその家の人達を永遠に呪った。

他郷暮らしをして空腹がどういうものかをよく味わった人でなければ、こんな時の無性にやるせないもの悲しさがどんなものかわからないだろう。彼等には、 挨拶代わりに接待する暖かい御飯が必要なのでなく、冷や御飯であれ真心のこもった食事でなければならなかったのである。ゆらゆらする梯子を登り、ゆっくり と連絡船に乗った応祥は、お腹が空っぽで気力がでないのをかろうじてなだめて下を見下ろした。

見送りしてくれる人が誰もいない彼は、一方のへさきに一人で寂しく立っていた。

《クンクンクン_》船が振動し始め、錨を巻き上げる鉄鎖のふれあう音がぞんざいに響いた。《ブン----》物寂しい余韻を残して船のエンジンの音が長く響き渡った。

「オーモーニー」へさきの外へすべりおちるほど上半身を出した、長い髪を結った乙女の哀切な叫びが、船客達の胸を痛くえぐったのであった。ゆっくりゆっくり後ずさりして埠頭の一か所に集まって立っていた人々の中から、むせび泣く声がぱっとはじけた。

身もだえしてどんどん足踏みし手を振る人々の様子を、目をこらしてしっかり見ておこうと努力したが、応祥の目の輝きはだんだんより一層くもってきた。

たとえ一時的にせよ、愛する祖国の土地を踏みにじった国へ渡って学業を続けなければならないと思うと、胸がしめつけられるような哀切きわまりない気持ち を抑えられなかった。一体こんな羞恥や侮辱をいつまで甘受しなければならないのか、と彼はどうしても心が騒ぐのであった。

ゆっくりとぐらついた船が陸から遠く離れ大海へ出ると、ぶるぶる船体をふるわして何度も傾いた。応祥はめまいがしてくらくらして、こわごわ船尾の甲板の 三等室へ降りて行った。彼は、船酔いをする前に寝ようと一方の隅の狭い場所に割り込んで入って垢まみれの枕に頭をつけた。図体が大きく重い船は、だんだん もっと強く船体を揺り動かした。船が大波の上に上った時ごとに吐き気をもよおし、目の前で石鹸の泡のような円が回っていった。

「若いの、お腹の加減が悪いのか。」

脚絆を付けた地下足袋の労働者ふうの、かなりの年輩で品のある人が、顔が青白い応祥を見て尋ねた。

引き寄せた膝を両手で抱き、何か一つの考えに没頭していた男が、不安なまなざしでちらっちらっと横で寝ている若者を見回した。応祥の顔はますます青白くなっていった。白い一枚の紙のように白くなった顔に、脂汗がにじみ出ていた。

「これはいかん!」

中年の男は応祥の冷たい手を触ってみて、誰に向かってでもなく叫んだ。

「ここに誰か病気を診る人がいないのか?」

普通の背丈の頬が平べったい老人が、腰を半ば曲げゆらゆらとこっちの方にやって来た。目の縁と眉間に小皺がぎっしり寄っている老人が、寝ている応祥の脈をとってみた。

「ほう----」

いつのまにか老人の口には、嘆息した言葉が出てきた。

「これは大変だ。お腹が空っぽで、激しい空腹感に落ち込んだのだ。」彼は舌打ちした。 船が岸を離れていくらもしないうちに気絶して倒れた応祥を注意深 く見守っていた人々は、それぞれ簡単な腹ごしらえが出来るものを差し出した。頬が平べったい老人が、はったい粉を水に混ぜて応祥の口の中に含ませた。

一粒の飯粒が鬼神千名を追い払うという昔のことわざが間違ってはいなかった。穀物粒の精気が身体にゆき渡ると、はじめて応祥が、しずかに目を開けた。

「気持ちが少し落ち着いたか?」心配そうに尋ねる言葉に、応祥は、そうだという風に目を閉じて開いた。その様子を、涙ぐんで見下ろしていた若い女が、リンゴを剥いて差し出した。「さあ、少し食べなさい。」

「これも少し食べてみなさい。」

黍飴板を差し出す老人もいた。彼等のうち誰ひとり、この若者が立派な科学者になって、この国を世界に輝かせる大きな抱負を抱いて海外へ出かけることを 知っている人はいかった。しかし、他国へ出かける船に乗っていながら、暖かい御飯一膳充分に食べないで激しい空腹感に落ち込んだ若者のことが、他人のこと のようには思えなかったのであろう。

困難なことに会えば先を争って助けようとする、人情が深くて素朴な、こんな人達がいなかったならば、応祥はどうなっていただろうか。

その時、応祥の懐の中には、李徳求が送ってくれた三百円の金が入っていた。しかし応祥は、その金を、砂漠を横断する商人が水袋を取り扱うように、しっかり包んで胸の中に大事に保管していた。

彼にとっては、たったの一銭でも黄金ように貴重であった。一生で二度と再び得られないその貴重な金で、彼は新聞配達をしながら十年間異国生活をする計画を立てていた。

桂応祥は、生まれてから二十四年目の春を、このように異国へ渡って行く荒れた波濤の上で、ひりひりする苦痛を強いられ、意地で堪え忍んで迎えたのである。

日本の土地に着いた彼は、当時、西欧の先進科学技術を習得しょうとする青年ならば普通経なければならぬ東京の一年制正則英語学校に通った。

応祥が家を出て他郷暮らしをしたのはこれが初めてではなかったが、東京での苦学生活は、彼にとって堪え忍びがたい苦悩を強いたのであった。

西欧文明を受容するのに先駆者の役割を果たそうとする学校の使命とは違って、校内学生達の中では、朝鮮人学生を「鮮人」、「半島人」と見下げて呼びながら未開人に対するようにした。

こんな民族的侮蔑は、むしろ応祥をして、こみあがる敵愾心を抱いて死にものぐるいで学業に猛進させた。

彼は断然第一席のずば抜けた成績で正則英語学校を卒業することによって、敢えて「半島人」と大声でしゃべり散らしていた者達の口に砂利を食わせたのであった。

次の年の春、応祥は、朝鮮独立を渇望して立ち上がった我が人民の三・一人民蜂起を煮えたぎる義憤を抱いて迎えた。彼が自分の自叙伝に次のように書いたのは、決して偶然なことではなかった。

「私は、一九一九年三月一日、独立運動当時、朝鮮独立を扇動したという嫌疑で、東京日比谷警察署に十日間拘禁されて全州日本憲兵隊に移送され、そこで再び三十日間の拘留生活をさせられた後に釈放された。」

桂応祥博士と面識がある人々のなかで、たまに、彼を科学以外の他の生活とは完全に垣根を作って生活している人と見る場合が少なくない。し かし、それは桂応祥に対する完全に一面的な見解である。彼は、自分が悠久な歴史を持つ朝鮮の息子だということを、何時いかなる時も忘れたことはなかった。

彼は頭を刈って中学校に通い、日本へ渡って行き十年間も勉強をしたが、民族的な志操だけはほんの少しの譲歩もしなかった。日帝が創氏改名を強要したときにも、彼は最後まで父母がつけてくれた自分の名前を変えなかった。

自分の最初の科学論文を発表するときには、本名を朝鮮式に明らかにすることができなくなるやKという略字をつけはしたが、桂という日本式の名前はつけな かった。K字は、父母がつけたくれた彼の姓名の頭文字を英語で表示したものではあったが、それが朝鮮の英文(Korea)の頭文字と一致していたからで あった。

桂応祥が日本へ渡って行った次の年に三・一運動が起こり、その後三年過ぎて、またもや関東大地震事件が勃発した。世間に広く知られているように、その時日本では、朝鮮人を探し出して突き殺し焼き殺す野蛮な行為が起こった。

身の毛がよだつ殺人狂奔は、日本本土は言うまでもなく、桂応祥が東京正則英語学校を経て上野養蚕専門を卒業して渡って行った九州でも事情は同じであった。

ある日、東京からかろうじて逃れ応祥を訪ねてきた友達の一人が、桂応祥を見てびっくり仰天して周囲をきょろきょろ見回しながら言った。

「君、気が狂ったのではないのか?この世情が怪しいときに、朝鮮のパジチョゴリを堂々と着ているとは、自分を捕まえ殺してくれと広告しているようなものではないか。」

「気は確かで正気だ。東京で地震があったとしても、私の精神まで揺り動かせられるか。」

応祥は正々堂々と返事した。彼のこんな行動は向こう見ずではあったが、勇敢な行動でないことはなかった。彼は、民族的良心を売って学問を買う、そんな流 の学生ではなかった。三・一蜂起のとき、祖国の父母兄弟達の闘争に呼応して正則英語学校朝鮮人学生達が立ち上がるとき、応祥はやたらに騒ぐ心を抑えられ ず、夜を徹して朝鮮独立を渇望して叫ぶスローガンを任されて書いたのであった。

桂応祥は、日本九州帝大本科に入学試験を受け、第一席の成績で合格した。しかし、大学学務課では上野養蚕専門のような実業専門を卒業した者は官立大学本 科に入学させられないので、専科にでも入って授業を受けたかったら受けよ、と本科入学を許可できないと突っ撥ねるのだった。

この大学には本科と専科があって、本科には五年制中学や二年制高等学校を卒業した証書を持った学生だけが入学資格がある、となっていたのである。専科で は、このような正規学校課程を体系的に経ていない学生達を受け入れて勉強させ、卒業するときには本科学生達に授ける学士証とは異なる修了証を授けたのであ る。

それで、朝鮮で三年制私立中学校を終え日本に渡ってきて二年制実業専門を卒業した彼が、規定された卒業証書を提出できないのは当然のことであった。当時、朝鮮人学生として、こんな厳格な教育制度に応ずることができる正規学校修了者が何名いただろうか。

応祥はこの入学規定があることを知らないわけではなかったが、万が一自分が試験を受けて合格しても、本科で修業できないことをよく知っていた。しかし、 敢えて入学試験を受けたし、実力として本科に在籍できることを堂々と示したのであった。一種の反発心を抱いて学務課を訪ね、発表された無視できない高成績 を持って突っかかり、本科入学を要求した。日本でも蚕学部がある大学は、この大学だけであった。そんな意味から見ても、応祥が自分の目的を達成するのに、 この大学を経ることは重要な意義を持っていたのである。

だが、学務部長は、神聖な教育機関に訪ねてきて生意気な態度をとると大声でしかった。この時、学務部長と応祥がやりとりする話を注意深く聞いていた人がいた。彼は、当時、日本遺伝学界の第一人者と言われた田中義麿博士であった。

彼は、元来、新入生達の入学試験に関与していなかった。しかし、蚕学部から動員されて入学試験用紙の採点をした教員が、彼に、試験を受けた一人の学生の特出した答案用紙を見せてくれた。受験全科目一〇〇点満点であった。

自分が指導する学部に、優秀な学生を受け入れるのについて格別な関心を持っていた田中義麿は、その答案用紙の当人の名前を記憶に留めていたのだ。偶然耳にした、学務部で問題にしている学生が、他でもないその答案用紙の当の本人ではないか。

「学務部長先生!私が少し調べてみましょう。」

背が低いが、身体はすんなりしていて目に英知をただよわせた田中義麿は、学務部長を連れて隣の部屋へ入った。田中は立ったまま尋ねた。

「その学生の名前は桂応祥でしょう?」

「そうです。」

「私は、この度、その学生の答案用紙を見る機会がありました。私の見るところ、彼は間違いなく秀才型の学生です。」

「知らない訳ではないのです。」

「それでも、必要な卒業証写本が必ず添付されなければならないというのですか?そうであるならば、私が彼の学力を保証します。」

学務部長は、敬意を払うかのよううなずいた。彼は、嫌気がさした顔色になって冷静に言った。

「実は、それは口実に過ぎなくてまったく他の問題、政治的な問題のためにそうしているのです。」

「ああ、朝鮮人だという、そのためだと言うのですか?」

田中義麿は口もとに苦笑を浮かべた。

彼は、自分達のような大学で、内地人か外地人かを問題にして受験応試者に制裁をしょうとする教育行政官吏の近視眼的な仕打ちに対して、嫌悪感を抱いてい た。こんな差別行為こそが人間の知性に対する野蛮な暴挙であるばかりか、それはむしろ、彼等をして日本を憎悪し反対するように教える結果となるだけだと確 信していたのである。

自分の感情を隠せない田中の激した表情を冷淡に直視した学務部長は、こちこちの語調で言った。

「もちろん、そのことも全く問題にならないこともないのですが、重要なことは、彼が日本へ渡って来て独立運動を扇動する行動をしていて、東京日比谷警察署の世話になったという点なのです。」

「ふむ」田中義麿は、大きく瞬きして眉間に皺を寄せた。

「部長先生は、朝鮮人が引き起こした三・一運動の時、その学生が関与したことを念頭において、そういう処置をしょうというのですね。」

「勿論、そうです。」

「そうであれば、それは論議の対象にもなりません。大学は、学生達の過去の生活を調査し暴く刑事機関ではないのです。わが大学で、そのような秀才を入学 させないならば、たいへんな恥となることを肝に銘じてもらいたい。実地に度量があり力がある人は大声で怒鳴らないでしょう。」

応祥が学務部待機室の椅子に坐っていたその時、隣の部屋で二人はこんな話をやりとりしてした。何日かたって、その論争がどんな方向に深められたのかはわ からないが、応祥には九州帝大農学部本科入学通知書が伝達された。このようになったのは、おそらく田中義麿博士の主張が大きく影響したことと思って差し支 えなかろう。

応祥は、湿り気がある海霧が押し寄せる異国の都市を深い考えに耽って歩いていた。彼は日本の大学の中で一つしかない蚕学部に初めて入学した朝鮮人となっ た。これは、わが国の蚕業界で初めて高等教育を受けることになったことを意味するのだ。応祥は、自分がこの大学の蚕学部で朝鮮を代表することを格別に深く 感じざるを得なかった。

この時から、桂応祥は、自分の学業が自分自身のための前に、朝鮮のためのものとならざるを得ないと鋭く感得した。

彼は、大学が位置している福岡郊外に安い下宿部屋を一つ借りた。家主は人参、白菜、ネギのような野菜農業をやっている純朴で勤勉な農民であった。娘一人と寂しく暮らしている家主夫妻は、大学生を自分の家の二階に住まわせることが都合がよいと考えた。

別に使わない部屋を、賃貸すれば小遣いもできるし、家を管理する労力もいくらか減らせると考えたようであった。しかし、何よりも桂応祥が気に入ったことは、家主が朝鮮人だと差別しないで人間対人間として暖かく対応してくれたことだ。

応祥が初めて訪ねたとき、家主夫妻はおだやかに話した。

「窓が、野菜畑の方に出ているので静かではあるが、冬に暖炉がない部屋なので心配です。」

ぶっきらぼうであるが、おとなしい風貌と節くれ立った彼等の手を見て、故郷の父母が思い出され、自分の手で土地を耕す人の心は、どこでも、うわべを飾ら ぬ真心でたやすく通じるようであった。家主夫婦のざっくばらんな態度に、おおらかな気持ちになった応祥は、冗談で言った。

「ゆたんぽを恋人として抱いて暮らせば、いいでしょう。」

二階の部屋は、畳四畳を敷いた小さな部屋であった。荷物を解き部屋の中を簡単に整頓した応祥は、家主の奥さんが上へ上げて置いてくれた小さな机の前に座って、何年かぶりに初めて故郷の家に消息を伝えようと便箋を取り出して置いた。

思えば、三年前のちょうどこの時期に、東京日比谷警察署から定州憲兵隊へ移送されて一月たってから放免され、彼は、故郷の家に帰ることができた。日本に 勉強しに行くと家を出た息子が定州憲兵隊に監禁されたという通告を受けて、父がどんなにも驚いたことか。しばしば、田舎者が新式勉強しに行けば怪我をして 上出来だという話を聞いてはいたが、時卿にはそれがどんな意味なのか知らなかったことであろう。だが、本当に自分の息子が突然思いがけなく定州憲兵隊に監 禁されているとの通告を受けた時、胸ががたんがたんと崩れるようであったであろう。

面会室で何も言わないで、応祥の好物である小豆飯にノビルの和え物と鮒の煮物を差し出して黙って坐っていた父親の姿が、どんなに重苦しかったことか。しかし、応祥が監獄から放免されて家に帰ってきたとき、父親は彼にこうせよ、ああせよと訓示する言葉を言わなかった。

もう息子も一人前の青年であると認めていたこともあるが、三・一運動のとき独立万歳を叫ばなかった人がどこにいるのか。それが罪科となって故郷へ送還さ れたのなら恥ずかしいことではないと思ったのかも---いくら田舎の隅で炭を焼き百姓していた父親であっても、そんなことぐらいは十分に理解していたの だ。

そのとき初めて、応祥は、父親が自分を自立的な一人前の成人として応対してくれたと感じた。

「さて、これからどうするつもりなのか?今や、お前の家族も、もう三人になっている。」

アボジはそうっとこのようにほのめかすだけだった。彼が故郷の家でしばらくの間農作業に携わり、日本へ渡って行っている間に、また次男坊が生まれていたのであった。

「ここから十五里ほど離れた、トッタリ谷間の入り口に、少し手入れすれば古びてはいるが釜を設けて住める家が一軒あるのだが。

三家族が一軒の家で、入り交じりぎくしゃくしている。どうしてもそれぞれ所帯をもたなくては。それで、お前の妻をそちらへ移して別所帯で暮らすようにしょうと思うのだが、お前の考えはどうだろうか?」

アボジは、注意深く息子の意向をそれとなく探っていた。応祥は頭を深く下げた。家庭事情を見るとまさに事態は窮迫していた。今やただの一月でも、家を出て勉強できる状態ではなかった。

しかし、まさに本格的な科学探究の大門へ入ろうとするときに、家の暮らしのために座り込んでしまうならば、それはあまりにも恐ろしいことではないか。

「お父さん!」

応祥は、気が気でなく痛切な気持ちを込めて言った。

「決心して行った道を中途でやめるわけにはいきません。」

「ふむ」強情に口をきっと閉じている応祥をのぞき見て、桂時卿はゆっくりうなずいた。

「そうだろう。どうせ出かけた道だから、最後まで行くのが正しいことなのであろう。」

その日の夕方、応祥の妻は、何度もぐずぐずためらってからひとこと言うのだった。

「あなたがまた勉強しに行っても、どうしても私は子供達をつれてトッタリ谷間へ行きますよ。」

応祥は、複雑な心境になって妻をじっと見つめた。ずっと続けざまに夫がいない結婚生活をしてきても、まだ一度たりとも自分の考えを言わなかった妻であった。だから、これは妻が彼にした最初の頼みごとだと言えた。

「嫁入り暮らしがそれほど苦しいのか?」

「ほんとにまあ、そんなこととは違います。」

「それでは、子供達を連れて一人でどのように生活していくのか。」

「同じことですよ。」

「何が同じなのか?」

「あなたは何にも知らないのよ。」妻は泣きべそをかき涙声で話した。応祥は、哀れで痛ましい眼差しで妻を見た。家族達は、皆一様に、彼の妻は気だてが優 しく気持ちが美しいと、口を極めて称賛していた。なみはずれて長い嫁入り暮らしをしていても、今まで一度も眉をひそめたことがないと。しかし、いかに彼の 妻とて、別所帯を持って自分なりの暮らしをしてみたいと思わないであろうか。

誰も何も言わなくても息一つ大きく吸ったこともなく、黙々と暮らしてきた素朴な妻の哀れむべき状態が、今さらのように胸をつくように痛んだ。今も応祥の 目には、トッタリ谷間に移って一人で小作をして子供達を育てるのだと苦労している妻の姿が、目の前にありありと映るのであった。

(ああ、私は何のためにいち早く結婚して、人の心までずたずた傷つけているのか。どうして、あの時決断を下し、心にもない結婚式を退けてしまえなかったのか!)

応祥は自分の軟弱な心を呪った。今も目をつぶれば、別のお膳を整えて居間に入ってきて自分を注意深く見上げていた妻の姿が浮かぶのである。

「おまえさん!あなたは、何時になれば我が家で普通の人のように暮らされるのですか?!」妻の眼差しには、このような切実な思いがこもっていた。妻は、 日の当たる山の麓に藁葺きの三間家を建てて自分の土地で農耕して、子供達を立派に育て暮らすことを、この上ない幸福と思っていたのである。

彼もまた、故郷に帰り父母に仕えて、素朴で一家団欒して暮らしたかった。今や、もう他国暮らしに疲れ果てていた。朝日が昇る前に、露に濡れて畑へ出かけ 鍬で耕し、間食時間になれば、出来立ての大根の辛漬けを酒の肴にやや甘いどぶろくを腹一杯飲み、日暮れには、農夫歌を鼻歌混じりに歌いながら家へ帰り、食 後の眠気に誘われ早々に眠りをむさぼりたい。

以前とは違って、他人の土地を耕していた苦しい農作業でさえ、骨身にしみて懐かしかった。しかし、応祥は突然唇をぎゅっと噛みしめて手紙を書いた。

「なつかしい御両親様!ついに私は蚕糸専門学校を卒業しました。恐らく御両親は、もうそれだけ勉強したのだから、それ以上望むことは何なのかと思われる かも知れません。私は、ムルコルで山の木の葉に釜墨で字を書いていた日々を思い出して、私がどんなに高い所に上ったのかを知って今更のように驚いていま す。しかし、私は今、私の前後左右から学究の道を急いで行く人々を振り返って見ない訳にはいきません。

驚いたことに、蚕業という学問を探究する道で、私が這い上がった所まで到達した人は、わが国では私一人だけだという事実です。

しかるに、今日本はどんなふうなのか知っておられますか。有能な学者が教えている大学で、数百人の学生が生物学を専門科目として学んでおり、その上にま た、その数百人の中で選抜された優れた者達を資本家が引き抜いて、莫大な費用をかけて利息がつく研究をさせるのです。また、西洋人達は、私が第一歩を踏み 入れた学問を科学として研究をしてすでに百年も経っています。しかるに、わが朝鮮の現状はどうでしょうか。

お金持ちの裕福な家の子弟達は、努力して学ばなくともただで与えられる幸福に満足して力にあまる学究の道を歩もうとしないし、貧しい人達は、食べて生き ていくのに忙しくてその暇がないと敢えて高い山頂を見上げようともしないのです。我々が、このように各自それぞれ自分の暮らしの算段だけをするのに汲々と していれば、この国の将来はどうなるでしょう?

私が家を出るときには、こんな蚕糸専門を卒業すれば相当なものだと考えていたことは事実です。しかし、今や、自分自身だけのためではなく、わが祖国のために必ずやらなければならないという、重い責任があると切実に感じざるを得ないのです。

お父さん、どうか許して下さい。私は、これから十年は、またも他国暮らしをしなければならないようです。なにとぞ、お元気で、私が成功して帰ってくるその日を見てほしいと思います。---」

小道に出てポストへ手紙を投げ入れた応祥はゆっくり下宿に帰って来た。雨も降らず、空はどんより曇っていて、冷たい風だけが強く吹いていた。

頭を下げて歩いていた応祥は、はっと道端に立ち止まってしまった。顔のここかしこ黒い斑点のある男の子が道端に捨てられた屑の前でかがみこみ、何かを ひっきりなしに垢まみれた着物の裾でこすって拭き食べていた。注意深く見れば食べ残して捨てられていた桃であった。そこまでするとは、どんなに食べたかっ たのであろうか!

応祥、不意に、故郷に寄ったとき家の後ろの小川で石を利用して釜を掛けオヤマソバの煮物を作って食べていた二人の息子達の細い首をまざまざと思い出した。

「アボジ食べよう、おいしいよ。」

垢まみれの手で酸っぱいオヤマソバの煮物を差し出す長男の細い手やそれを口いっぱい頬張って食べていた子供達の様子が、ありありと思い出され消えないの だ。応祥は、ぼうっとした視線を移して少年達の方へ近づいた。自分の子供が他人の食べ残した桃を洗って食べるのを見れば、父である私の胸がどんなに痛むこ とか!

「お前達。」

彼は、我知らず少年の腕をつかんで揺さぶった。

「今すぐそれを捨てなさい。捨てなさい。」

少年はぴくっと驚いて応祥を見上げ、腕を振りほどいた

「はなして。どうしてなのですか。」

「向こうへ行こう、私が桃を買ってあげよう。」

彼は少年を果物屋へ連れて行き、さっと食べごろの桃を一袋買って持たせてやった。

「さあ、早く飽きるほど食べてごらん。うむ。」

訳が分からず面食らって応祥を見上げた少年は、目だけぱちぱち瞬きした。それでも、まだ胸に抱いた果物袋が自分のものになったとは信じられないのか、安心できないという目つきで周囲を見渡した。

「お前は何歳なのか?」

応祥は震え声で尋ねた。

「七つ。」

「七つ?---」

応祥は言葉尻をぼうっと濁してしまった。故郷に置いてきた長男の年齢がすでに七つになっているという考えが起こると同時に、長男もこの子に負けないぐらい腕白坊主に育っていることだろうと目の前で見るように感じたのであった。

首を深く下げため息をついて歩いて行く彼のやや長めの顔には、いつもとは違って心配でたまらないといった気配がうかがわれた。応祥が下宿代を払おうと一 銭の間違いもなくきっちり準備してあった金が二十銭も少なくなっていることに気づいたのは、着物を着た家主のおかみが庭で迎えてくれるのを見たときであっ た。

数日後、応祥は家主のおかみさんに下宿代を払いながら、すこぶる慎重な態度で話した。

「おかみさん、大事な頼み事が一つあるのですが聴いてもらえますか?」

「何ですの?」

家主のおかみは、口もとに微笑を浮かべていた。

「たやすいと言えばたやすいのですが、難しいと言えば非常に難しい頼みなのです。」

応祥は言いにくそうに話を続けた。

「他でもないのですが、これから来る手紙は全部おかみさんに預かってもらって、私が大学を卒業するときに渡して欲しいのですが。」

「どういうことですか?」家主のおかみは、応祥の話の意図が理解できないと何回も聞いた。

「これから私に来る郵便物は、手紙であれ電報であれ、全部おかみさんが預かって置いてもらい大学を卒業するときに渡して欲しいということです。」

「はあ?しかし、どうしてそんなことを?どうかして故郷から送ってくる手紙は、必ず伝えなければならない急な消息だろうに---そして、待っている恋人の手紙もあるでしょうに。」

「勿論そうだろうと思います。だから、このように特別に頼んでいるのではありませんか。」

家主のおかみは彼の言葉が本当なのかを確認するかのように、応祥をあからさまに眺めた。応祥の顔には、その何か冷静で沈着な表情が出ていた。それは、普通の人間の感情を超越した人だけがかもしだせる、そんな格別なものであった。

「そのようにしましょう。桂さんの手紙を預かって置いて渡すのは難しいことは何もないことです。しかし、あまりにも見たことも聞いたこともないことなので---」

「それでは、そのようにお願いします。」

応祥は家主のおかみの疑問に満ちた視線をはずして、おおように繰り返し言った。家主のおかみは、夫が畑仕事を終えて帰ってくると、若い下宿生が頼んできた理解できない話をした。

「どうみてもこみ入った事情がある若者のようだ。どうして、数万里離れた他国に来ていながら、父母妻子が送ってくる手紙をそのまま預かって置いてくれと言うのでしよう。」

「黙って家を出てきて勉強する人達+の中で、しばしば見られることだ。彼の家では桂君が勉強するのを理解する人がいないのであろう。」

家主は、妻が持ってきた茶盆の上の湯飲み茶碗を取り自信たっぷり話した。

「それでも、家から送ってくる手紙には両親や家族の中で不幸なことが起こったという消息もあり得るでしょうに。」

「おい、他人のことになんのかのと度が過ぎる関心を持っては、頭の毛が早く白くなるよ。ただ、そのくらい知っておればよいのだ。これが島国の人々の一番大きい長所でもあり、致命的な弱点なのだから。」

「あれまあ貴方、お話も出来ないの。あまりにも珍しいことなので尋ねたのではないの。」

おかみはすねて口をゆがめて夫を見つめたが、口もとには微笑が浮かんでいた。いかにしても、彼等には、冷徹な桂応祥の処置にひそむ傷ついた涙を理解できなかったのである。

大学から帰ってきた応祥は、煉瓦建て家屋の角に張ってあった一枚の広告から目を離せなかった。××映画会社で、次の日朝から映画撮影をするのに、群衆役を募集するというのだった。

一日一回出演して一円。停車場の荷下ろし場に出て終日石炭を汲み入れても、一円稼ぐのが難しいのに、群衆役にちょっと顔を出して一円ならば、やる価値がある仕事ではないか。

四年前李徳求先生が喜捨された金は、爪に火をともすように節約して使ったけれど、夏の氷塊のようにまたたくまに少なくなり、もう数十円しか残っていな かった。三百円で一年間下宿生活をしたといっても、別にゆとりのある生活でなく、いかに日々の生活費をきりつめたものなのかは明白なことであった。しか し、その金でほぼ四年間勉強して数十円残したというから、彼がどのように暮らしたのかはうかがい知れない謎であった。

応祥は、午前の講義に出た帰り道に百貨店の横の映画製作所を訪ねた。がらんとしたからっぽの空き地に、列をつくった人達がかなり長い列をつくって立ち並んでいた。

「一日に何人ほど採用するのですか?」

「わからないのだ。ある日は十名あまり、運がいい日には三、四十名選ぶときもあるし。」

このように話してくれた人も、二日間も立ち並んだが一度もひっかからなかったとのことだった。監督が出てきて、人々の身なりや人相をじっくり見て、気に入る人だけを選んで使うだけのことだそうだ。でたらめなやり方らしかったが、応祥も最後尾について立った。

待つのにくたびれた人々は、敷物を敷いた床にべたっと足を崩して坐り、包んできた昼食を食べるのであった。応祥は唾を飲み込み喉仏が上下するさまを見ら れないように後ろ向きに坐った。日が沈む頃になって、碁盤模様のシャツを着てホームスパン帽子を眉毛の上まで深く下げてかぶった映画監督が現れた。集まっ ていた人々は、ばらばらと立ち上がった。

監督は、前から人々をずっとじろじろ見て気に入る人が目に付くと、彼の肩をこつんと突くのだそうだ。すると、彼の後ろについている助監督が、丸い札を一つずつ投げてくれるのだそうだ。

この日も映画監督は前から人々をじろじろ見て、十名ほどしか選ばなかった。応祥は失望して帰ろうとした。しかし、その瞬間、視線を合わした鼻が高い監督が、にたり笑って彼の肩をこつんと突くのだった。

「カチャン」めんくらっている彼の足もとに、金属片が転がり落ちた。意外な幸運にめんくらった応祥は、急いで札を拾って監督についていった。一緒に選抜 された人々を見渡した応祥は、顔色をくもらせた。不思議なほど奇妙に身なりが汚くて、病気に罹っているかのような大変痩せた人達ばかりであった。職業紹介 所の庭下で力が尽きはてて倒れている群衆役に選ばれたのであった。

彼等には他の身なりをさせる必要がなかった。着ている着物や埃っぽい履物、首に掛けている手拭や擦りへった帽子がそのまま誂え向きであったのだ。撮影が終わると、監督は視線も向けないですぱっと言い渡した。「お前達はもう来てはならない。」

金一円を受け取って街路に出た応祥は、寂しく笑い髭面の顔を手でさすってなでた。彼は鏡の前で自分の姿を映してみるのも久方ぶりであった。

ところで、今し方一緒に選ばれ仕事をした人々、背中を曲げて咳をごほんしていた老人や、頬骨に皮を付けたような黄色い顔をした男の姿と自分の姿が同じだというのか。そうでなければ、どうして彼がこんな人達の中に入り込めたであろうか。

しかし、鏡をのぞいてみたくなかった。そんな暇もなかったが、たとえ鏡の前で自分のなげかわしくもっさりした格好が現れたとしても、どうしたというのだろうか。

ある日、農学部合同講義室で講義を受けて階段を急いで下りていた彼は、背中で布地が破ける音がしたのでびくっと驚いた。驚きあわてて外へ出て、静かな家の角に入って上着を脱いでみると、木綿の洋服がもう手直しの効かないほどになっていた。

寿命がすでに尽きていた古い上着を、ミシンで縫って刺し縫いしたりして、かろうじて着て外出していたのである。金がかかっても新しい着物を買って着なければならなかった。応祥は、布地屋に行って安くて強い黒色のギャバジン布地を買って、近所の洋服屋を訪ねた。

頬肉がうすっぺらで風采がすんなりした裁断士は、鼻に掛けた眼鏡を上げて、応祥が差し出した洋服地と裏地を見下ろした。

習慣的に巻き尺を取り出してお客の体つきを見極めた裁断士は、やや長めの顔を軽く左右に振った。

「学生さんは洋服も作らなければならないが、先ず脂っこいものを食べ続けなければならないでしょう。」

初対面のお客にこんな言葉をかけることが失礼なことだと知らない訳でもなかろうが、このように話しかけてくる裁断士を眺めて、応祥は、自分の哀れむべき状態がどの位まで来ているのかを思い知ったのであった。だが、彼はきっぱり言い切った。

「私のことは私が、どうにかするから、構わないで下さい。」

窓の外では、ざあざあ雨が降っていた。学校から帰ってきた応祥は、むしょうに気がくしゃくしゃしてうっとうしく、雨足のために白みがかった窓を見つめていた。

故郷を出ていつの間にか三、四年、船に乗って玄界灘を渡る時には直ちに世間をあっといわす大きな業績をあげられるかのように信念が堅く意気盛んであった が、どうしてか年が変わる度ごとに、重なり合う山々が前に立ちふさがるかのように将来の展望は暗澹たるもののように思われた。

果たして自分が成功出来ると思って、こんな苦労をしているのだろうか。たとえ農学士か農学博士になったとしても、自分の国がないのだから召使の運命から免れるのは難しいのではないか。そうであれば、何のためにこのように進んで苦労をしているのか。

暗澹たる思いに耽ってしまい感覚が鈍っていた彼は、戸が開いた音も聞こえなかった。

「桂応祥君!」

低く呼ぶ声が後ろから続けさま聞こえてきて、初めて応祥は振り返った。

家主のおかみが戸口に立っていた。「どうしたのですか?」と尋ねようとした応祥は、電気に感電したかのようにぴくっとした身体を振るわしてその場に立ちすくんだ。顔が丸くて人情味のある家主のおかみの手に、一通の手紙があるのが見えたのであった。

「書留手紙が来ましたの。いくら約束をしたからと言っても、とてもそのまま預かっておれなくて---」

「家から書留手紙が?」

応祥は目をぱっちり開いた。そうなってみて、応祥は、近頃彼が抜け出る道のない憂鬱症にかかった原因を見つけた。人の自然な感情を自ら無理に抑えつけた ため、容赦なく抑えつけておいても必死に出てくる、その思いにそっぽを向けた自分自身のむごい態度のため、恐ろしい罰を受けざるを得なくなってしまったこ とが分かったのであった。

いくら忙しく遠い道を行く人であっても、足やすみもせず食事もしないで、ただの一度のわき見もせず道を急き立てて行けないはずである。人間が木石でない以上、どうしてそんなことがありえようか。

農学士の資格を取るまでは肉親との日常的な連絡まできっぱり切ってしまおうとの思いが、偏狭で思慮の浅い考えのように思われた。彼は、大またで出て行き手紙を受けとり読んで見ようとした。

こんなに故郷の家と長い間遠く離れて暮らしていても、彼には家の事情があまりにもよくわかっていた。彼等は、手紙という文明の発明品を利用する人ではな かった。ムルコルの人達には、普通手紙が送られてくることは例外なく不吉なことが訪れることであったし、手紙を送るのも、同じように家族に大きい災難が起 きたときか、あるいは難破船で救助信号を送るようにほんとうにやむを得ず援助を請い願う時だけだった。しかも、この手紙は普通の手紙でなく書留である場合 では、これ以上言ってどうなるものか。山奥の炭焼き屋から遠く離れた他国に出ている子息へ書留手紙を送る!これは前例のない思いもよらない珍しいことなの だ。家族に不幸なことが起こったのだ!それも、他国へ行っている子息にまで知らせなくてはならないそんな大事なことが。

応祥はこのように確信した。彼は、我知らず前へ走って行き手紙を奪い取るように取りたかった。しかし、青い日付印がはっきりと付いている手紙から急いで目をそらした。あたかも解いてはならぬフイルムの一齣をひもといたかのように顔の表情が青ざめ真っ青になった。

それはできない。万が一、私がこの不幸な消息が書かれている手紙を開けてみて、どうするつもりなのか。大学を終えられる唯一の希望のように懐の中に大切 に持っている数十円の金を、きれいに旅費として使い果たして故郷に行って帰ってこられるだろうか。それは、中途で大学授業を放棄するのと変わらない、恐ろ しい結果以外に何ももたらさないだろう。

そうすることは出来ない。そんなことなら、何のためにこんな学問への険しい山道を這い上って来たというのか。

事情がこうなので、手紙を開けてみても彼は胸を打って涙を流すだけで、他にどうしようもないだろう。そうすれば、手紙を開けてみて得ることは何なのか。 不幸な消息を知っても、歳月が流れても何のすべもなく手をこまねいて座り込み、心配ばかりする哀れな状態になるだけではないか。それは、人並みはずれて鋭 敏な感情を持つ彼にとって、本当にひどい拷問になるだろう。

間違いなく混乱した感情に覆われて勉強も出来なくなるというならば、むしろ手紙を開けてみないのが賢明なことであろう。どんな状況が起こっても、それを 即座に深く開明するだけでなく素早く結論を下し出口を捜して行動するのが、桂応祥の心理の特性であった。こんな物事の処理能力は、遠くの海外で孤立無援の 生活をしている彼にとって、難しいことが生ずるときごとに、自ら難関を打開して自身を救出するのに少なからず力となった。

応祥は、唇をじっと噛みしめてさっと話した。

「おかみさん、約束をどうか守って下さい。」

このようなことがあった後、彼は目立って憂鬱になってはいたが、相変わらず食事を一日二回しかとらなかったし、「ゆたんぽ」以上の暖かい暖房を望まなかった。彼は相変わらず一日四時間しか寝ないで、勉強をして寝る前には必ず冷水摩擦をした。

緊張をちょっとやそっとで弛緩させないことのみが、想像することすら困難な貧困の中で、最大限の時間を絞り出し学業に専念することができる唯一の突破口なのであった。

応祥は、夕方には何時も、学部実験室の一方の隅で最後まで坐っていた。気の向くまま実験室に現れ学生達の実験過程を注意深く見回っていた田中義麿は、桂 応祥の横に歩みを止めてしばらくの間留まっていた。応祥は、シャーレ上で蚕を解剖しておいて薄赤くなった蚕の間接を執拗にのぞき見ていた。それは、田中教 授が学生達に指摘した実験課題ではなかった。

彼は学生達に観察力を育てる目的で、蚕の皮膚に出来た気管の薄い細かい毛を観察してそれを図面に写す課題を与えたのだ。応祥は、気管に生えた薄い細かい 毛を顕微鏡で観察して絵まで描いて隅に置いていた。そして、新しい組織片をシャーレ上に置いて顕微鏡をのぞき見ていた。

「今何をしていますか?」

田中教授は、実験中の他の学生達に邪魔になることを怖れて声を低くした。そうなってはじめて田中教授が自分の横に立っているのに気づいた応祥が静かに答えた。

「蚕の胴部間接運動を観察しています。」

鋭い顎を軽く振った教授が、落ち着いた声で尋ねた。

「そして?」

「小論文を書いてみようかと思っています。」

応祥は顔をぱっと赤らめた。田中教授が発表した蚕解剖論文には蚕の胴部間接運動についても詳細に記録されていた。それなのに、今そこから何をまた発見で きようか。教授はこれ以上話を交わさなかった。自分の力で選択した解剖対象としては、つまらないものだった。科学者の資質は、先ず研究テーマを選択するに 当たってはっきり現れるのである。

独自に新しいことを取り上げる、それ自体が、すでに斬新な思考活動をしている徴候となるからだ。

しかし、応祥が選択した資料は、廃坑になった坑口で粘り強く頑張る鉱夫の所行というか、蚕の解剖をした人達が同じようにしてみたことがあることであって、もはや期待する余地もない問題であったのである。

人並みはずれて頑強で探求心の高いこの学生に田中が望んだのは、こんなことではなかった。失望感が強く如何ともしがたいが、そんな気配はおくびにも出さ なかった。しっかりやりなさいと鼓舞することを忘れないで、その場を離れた。とにかく顕微鏡で蚕の内部をひとつひとつ掘り返し見ることは、無益なことでは なかった。

田中教授は学生達の実験過程を指導する何の責任もなかった。それは若い教員達にすべて任されていた仕事であった。しかし、彼は、蚕学部の全学生達を何時 も視野の中に入れて彼等の成長過程をつぶさに知っていた。彼等の中で才能ある科学者を捜し出すことだけは、誰にも譲歩できない自分の仕事だと見なしていた のであった。そのために、彼は、このようにしばしば解剖実験をしている学生達の中で時間を過ごすのだった

夜の十二時も過ぎた深夜であった。自分の部屋に坐って、春夏までにした蚕交雑実験資料を分析してみて、家に帰ろうと田中教授は実験室の前で立ち止まった。実験室の窓はすべて閉まっているのに、隅の部屋だけは真っ赤な光が物静かに流れ出ていた。

教授は、新しい期待で胸を弾ませその実験室へ上がって行った。よく知っている場所に桂応祥が一人坐っていた。彼は、田中教授が背中の後ろまで近づいてき たことに全く気がつかないで、一心に顕微鏡だけをのぞき見ていた。ちらっと見ると、彼は前と同じように蚕の胴部間接運動を観察していた。田中教授は、何も 話しかけないで静かに外へ出た。

数日後、彼は、桂応祥が部屋に訪ねてきて蚕の解剖についての小論文を書いたので一度見て下さいと提出したときも、別に満足しなかった。

彼は、応祥の論文を十日間経っても机の隅に押しやったまま見向きもしなかった。そうしたある日、机を整理していて英文原書の下に敷かれていた応祥の論文 を、つかの間にさっと見て安楽椅子に座ってぱらぱらと見てみた。性急に何枚かめくって見ていた彼は、意外な文句に視線が引きつけられた。

「蚕の背脈管運動で血が前に出るのが正常であるが、時々さかさに逆行するのが観察された。このことは---」

田中は目が揺れ動いた。彼は安楽椅子から起きあがって事務机の前に行って坐り、応祥の論文を最初のページから注意深く読み始めた。原稿を全部読んだ田中 義麿は、興奮して部屋の中を行ったり来たりした。蚕を材料にして遺伝学を研究してきた科学者達は、例外なく蚕の解剖に第一番目の関心を向けてきたのであ る。田中も蚕の解剖観察に一・二年だけ力を入れてきたのではなかった。

しかし、誰も蚕の胴部間接運動からこのような異常現象があることを発見できなかった。他の人達が数千数万回観察した、そこで新しいことを探し出すことを やり遂げたこと、このことそれ自体がどんなに貴重な科学者の資質であろうか。彼は、その場で応祥の小論文を修正加筆しないで発表することができると推薦文 を書いた。(この論文は、その後九州帝大学芸雑誌一卷五号に発表された、一九二五)

そうしておいて、そのまますぐに蚕解剖実験室を訪ねていった。応祥は、椅子の上に綿入の上っ張りを掛けて鼾をかいて熟睡していた。

田中教授は応祥を揺り動かしおこした。その場でむっくり起きた応祥は、何が起こったのかと上気している師の顔を眺めた。田中は、応祥の手をぎゅっとつかみ振りながら真心込めて言った。

「私は 、ついさっき君の小論文を見たよ。率直に言って、私は蚕の背脈管運動で、君が新しい何かを探し出すとは期待しなかった。

応祥君が観察対象につまらないものを選択したと失望していたほどだった。君を平凡な学生と見なした私を許してくれ。」

応祥は胸がどっと熱くなった。田中は、著名な科学者である前に真の人間であった。

彼は新しい科学的真実を探求する人の前では、朝鮮人学生であれ、その前で白髪まじりの頭を下げるのを決して恥ずかしく思わなかったのだ。

「有り難うございます。」

応祥は頭を下げた。

「そんなことを言わないでくれ。実は、私は君にお願いが一つあって、このように訪ねてきたのだ。将来大学研究院に残って、私の研究助手として仕事をしてみないか?」

大学を終えて研究院に残ることは、日本学生達でもたやすく得られない特典であった。これは、将来この分野で研究事業をする人にとって、これ以上のないすばらしいチャンスをくれることであった。

田中義麿は、後日、世界遺伝学会副会長になった著名な科学者であり、当時でも、日本遺伝学会で第一番目に数えられる科学者だった。応祥は感謝の気持で師の要請を受け入れた。

まさに、彼の目の前に、自分が足を踏み入れた遺伝学分野で世界的な水準へ上ることができる道が開けたのだ。喉が乾いた人が泉を捜すように、みすぼらしい股引きを身につけソウル五星中学校を訪ねていったその時から、彼がどんなに苦難の学問の道を歩んできたことか。

しかし、そのすべてが決して無駄ではなかった。ついに、彼は、他の人達が何百年前に上ったその頂上をすぐそこに眺められるようになったのだ。応祥は、さらに自信を持って学業に専念した。

桂応祥は卒業夜会に参加して夜遅くなって下宿に帰ってきた。家主夫婦は、その時まで寝ないで応祥を待っていた。

戸を開ける音を聞いて外に出てきた家主夫婦は、順番にお祝いの挨拶をするのだった。

「 応祥君、第一席の成績で農学士になったのを祝賀します。」

「さあ、今日は、私どもの居間へ行ってお話しましょう。」

「有り難うございます。この間、本当に迷惑をたくさんおかけしました。」家主のごつごつした手に連れられて居間へ入った応祥はまた驚いた。膳の上に、うどんやキムチ、モヤシのような朝鮮料理が素朴に準備されていたのだ。

「家に居られる御両親が、このことを聞かれたらどんなに喜ばれることでしょう.」

彼等は、むしろ自分達の誠意が足らなくて応祥をわずらわせたことが何回もあったろうとあやまるのであった。家主夫婦も、その昔、口に言えないほどの貧乏 をして人生の甘い辛いもすべて見て、今も何段もない野菜畑から得る収入では生計を立てられず、いくらもならない下宿料を足して暮らさざるを得ない状態で あった。

「さあ、早く召し上がれ。味噌や醤油のようなものがないと朝鮮料理ではないそうだが、独特の香りがするニンニクすらないので、どうしょうもないのです。」

家主夫婦は、応祥の父母の心情を、たぶん、いくらかでも代わってあげようと格別に気を使うのだった。

卒業夜会を済ましてきた後なので、これ以上料理を口にしたくなかったが、家主夫婦の誠意を退けられないで応祥は、朝鮮式の具を入れたうどんをおいしくいただいた。

応祥が大学研究院に残るようになったと言うと、家主夫婦は我が事のように喜んだ。続いて家主のおかみが二階に上がっていき、小さな木箱を持って降りてきた。

彼女はそれを応祥の前に注意深く差し出した。

「さあ、約束を守りましたよ。もう、これを出してもいいでしょう。」

それは応祥が大学で勉強をする四年間、故郷から来る手紙を家主のおかみさんが預かり入れておいた箱であった。応祥は手紙箱を大切に受け取った。しかし、震える手で木箱をさわるだけで、すぐ開けてみようとしなかった。

「一つだけ聞いてみたいの。」

家主のおかみさんが唾をのんで、言いにくそうに口を開いた。

「応祥君は故郷に居られる御両親・妻子達が恋しくありませんの?」

「---」

急に応祥の顔から血の気がさっと消えて、口もとに、微笑なのか哀愁なのか分からない細い皺を寄せた。家主のおかみは、応祥に無礼だと言えるむごい言葉をしたと感じたように心苦しい表情をした。

「失礼しました。」

「いや、あたりまえな質問です。私はそんなにもむごい人間なのです。」応祥の声はつぶれて出た。暗い窓の外を茫然と見ていた彼の目には、つらい苦痛の光がちらついた。

かすかに見える月の光が流れてくる垣根の中に、ユズの木の葉が夜風にさらさらとそよいでいた。その木の葉の間に見える明けの明星は、格別にきらきら光っていた。

故郷の家でも、夜明けに戸を開ければ、最初に目につくなつかしい星だった。故郷の夜空を広げてみせる明けの明星! いつになれば、その星光を額に受けて故郷の野原の道を軽やかに歩けるのか。応祥の細めの顔には、焦がれるような渇望の光が歴然とあらわれていた。

「これからは、故郷へも一度行って来なくてはならないでしょう。」

家主夫婦は、ぎこちない雰囲気をつくろおうと話題を変えたのだが、くもった彼の気分を回復させられなかった。応祥はゆっくり立ち上がり、壁際においてあったオルガンの前に行って坐った。

そのやるせない心情をたどるかのように、すぼめた目を前の壁のある一点に釘づけしていた応祥は、静かにオルガンを弾き始めた。_

堆積した落ち葉の下を流れている小川がささやいているかのように、さらさら心に染みるように響いた旋律は、抑えられない喜びを吹き出しているかのごとく 流れ、また哀愁に包まれ静かに流れた。家主夫婦は、 珍しいものだという眼差しで桂応祥を眺め、オルガンの音に耳を傾けた。

彼等は、応祥が口に出して言わなかったが、彼の胸の中で激しく渦巻いている悲哀の激流を、胸熱く感じざるを得なかった。そして、心の底から驚嘆してしまった。

わずかな人間的な感情もきっぱり抑えて立ち向かう彼の行動には、目的達成のためがむしゃらに猛進する剛毅な性質と品格がうかがわれたのだ。日本人は、巷 で他人に負け悔しくて腹ただしいことをされたときには、死でもって恥辱を贖うため腹を切ることも当然の義とみなす気強く猛々しい民族だと自負している。だ が、朝鮮人みんなが桂応祥のような人ならば、この人達はどんなに強靱で意志が固く屈強な民族であろうか。

家主夫婦はこんな考えをせざるを得なかった。

家主の家から手紙箱を持ってきて自分の部屋に上がった応祥は、ランプを灯してその前に坐った。彼は焦りと不安な気持ちをじっと抑えて、しばしの間回想するかのように坐っていた。

本当に手紙箱を開けてみようとすると胸がふるえた。彼は、ちょうど、時限爆弾を解体する人のように不安で焦る心をじっと抑えて手紙箱の蓋を開けた。その中には、十何通の手紙が入っていた。

彼はふるえる手で一番上においてある普通の手紙を先ず取りだした。日付印が付いている活字を見ると、二年前に応観兄から送ってきた手紙であった。

見なれた筆跡を見ると胸が揺れた。ぼうっとかすむ視線を集めて文章をなぞった。

「お前が家を出ていって、すでに三年が過ぎた。消息一つないが、その間にも、お前がどんなに血のにじむような努力で勉強しているのかよく分かっているつもりだ。 切手一枚買う金も不自由なのだろう。しかし、あまりにも何の消息もないから無情な考えが起こるのだ。

すっかり永久に家族を忘れてしまったのではないかという疑惑さえ起こるときがある。一年に一度ではなくても、二年に一遍ぐらいは消息を伝えてくれなくてはならないじゃないか。消息はないが、訃報が来ないから、生きているのだなあと思うだけなのだ---

数日前、祖父が逝去された。息を引き取られる前に、親戚達みんなが訪ねてきて最後の別れの挨拶をした。祖父は言葉を話せなくなった後でも、始終指を二本広げて見せてそのまま二番目の孫を見たいとおっしゃった。

家で暮らしている人にとって、他国にいる家族に普通以上の思いが行くのは当然なのだが、生命があまり残っていない人にはそんな思いがもっと切実なものであったろう。_」

応祥は胸が痛くなった。いくら貴重な家族でも年をとればいずれ死ぬわけだが、小さい時からこの上ない誠意で大事にしてくれた祖父がもう会うことのできぬ 世界へ永遠に逝かれたと思うと、散り乱れる心をどうすることもできなかった。この私が、肉親の情も先祖伝来続いた礼儀風習も勝手気ままに投げ捨てた、あま りにもひどすぎる不孝者になっているのではないか。

家を出るとき、かろうじて身体をおこして少しずつ塀の外まで出てこられ、応祥が山裾へまわりこむまで道しるべの杭のように立っておられた祖父の姿が、忘れられなかった。その時すでに、祖父は、彼と再び会えないかも知れないと予感されたのだろうか。

彼は、そんな祖父のもの悲しい眼差しにも気づかないで、意気揚々と出掛けたのではなかったのか。二番目の手紙は妻からの手紙であった。彼が家庭を持った 後、家を出て他郷暮らしするのもいつの間にか十年になろうとしているが、妻に手紙を出したことがなかったし、妻もまた彼に手紙をよこしたことは一度もな かった。そうしてみると、この手紙は、彼の妻が生まれて初めて彼に書いて送ってきた手紙だと言えた。

しかし、彼の妻は全然字を知らない女であった。果たして本家の村を訪ねて字を知っている有識者に頼んで、手紙を書いてもらい送って来たようだ。毛筆で古い常套句を使って漢字とハングルをまぜて書き下ろしているのを見て、そうだと分かった。

彼が家を出た後、何か月しないうちにトッタリ谷間へ引っ越したこと、四隅の棟木に藁を編んで作った覆いをかぶせた草葺きの家ではあったが自分の家で暮ら している、と。子供達を連れて別所帯で暮らすと、このように他人の手を借りてまでして手紙をよこしたのだった。そして驚くべき消息は、彼が定州憲兵隊から 放免され家に帰って出てきた後、妻にまた妊娠のきざしがあって息子を生んだということだ。

指を折ってみると、その時から六年もすぎているので、その子も知らぬ間に大きくなり、どんどん走り回っていることだろう。

期待しなかった子供が続けて増えていくのが何か不安でもあり、子供達が元気に大きくなっていくと思うと、肩の荷が重くなってきもした。

最後に取りだした手紙は、住所も名前も全く見知らぬ所から来た分厚い書留の手紙であった。京畿道江華郡の、ある寂しい孤島の村の文鮮姫という女からきた ものであった。頭を振りながら封を切った。きちんきちんとハングルで書かれた便箋を取りだして読んだ応祥は「あっ」と低く叫んだ。

それは、故国を離れるとき、彼が一生懸命になって捜そうとした、李徳求先生が自筆で書かれた手紙であった。

「応祥君、君がこの手紙を受け取るときには、私はすでに死んだ体になっていることだろう。私が急にソウルから十数里離れた孤島に渡ったのは、私を取りま く息が詰まるような雰囲気から抜け出て、病院も学校もない孤島で汚い世の中の埃に汚染されていない素朴な人達と一緒に、私の理想を実現してみようという特 別な思いがあったからなのだ。私がこんな夢を見たのは、ビクトル ユーゴーの『レ ミゼラブル』の主人公ジャンバルジャンの浪漫主義に心酔してしまったた めなのか。違うとすれば、鋭敏な私の感情としては到底堪えられない不正義に対する逃避であったのか。どちらにしろ、父親が残してくれた家を売ってソウルを 出て行かなかったならば、私は窒息して息がつまり死ぬか、高層家屋から投身自殺する瀬戸際だった。

私は、仁川埠頭で連絡船に乗って行き草芝鎭で降りて、まっすぐに鼎足山城に登った。わが祖先達の人より優れた知恵の創造物である八万大蔵経の一部を見て 回り、丙寅洋擾(一八六六年フランス艦隊の江華島侵犯)のとき西洋人達を痛快にやっつけた楊献守将軍の戦勝碑や斥和碑(外国の侵入を警戒せよと公布した 碑)も感懐深く見て回った。

それだけ私の気持ちには余裕もあったし、新しい決意に燃えていたのだ。私が渡って行った島は、江華島から西方へ一里あまり離れた孤島であった。

海辺に建っていた船乗りの別棟に寝て、狭い居間で島の子供達を教え始めたのだが、心はまたとなく平安であった。子供達を家へ帰して、村を回って病んでいる人の病気を治療してあげたりもした。

島で新医者としては私一人しかいなかったから、船主達も仕方なく私の所にきたものだ。私には金や財産はなかったが、うらやむべきものは何ひとつなかった。

船窓に近づけば、船乗り達が船室に呼んでくれて貝の刺身にどんぶり酒を勧められ、三度の食事が切れた家では、親しい間柄だからと坐らせて、御飯の代わり にカニの天ぷらを鉢一杯入れてくれるのだ。畑の番小屋に行けば、いつでも真桑瓜を食べたいだけ食べられたし、子供達と一緒に砂地に寝転がったり、焼いた ジャガイモで三度の食事を済ましたりしたこともあった。

しかし、この国では、どんな無人孤島でも別天地ではなかった。ある日、船乗り達が全身血まみれになった漁夫を私の所へ連れてきた。漁夫達が海に出て魚取りをしている間に船主の奴が若い漁夫のお嫁さんを強かんしたというのだ。

魚取りから帰ってこのことを知った若い漁夫が、激努し船主を訪ねていき抗議した。しかし、船主の奴は、かえって主人の顔に泥をぬり、恥をかかすと、かっかっ逆上し小刀を振り回して漁夫の胸を突き刺したのだ。この事件で島は大騒ぎになった。

漁夫の傷は深くはなかった。しかし、応急処置をした私は、漁夫達と一緒に船主の家を訪ねた。

こんな分別のない蛮行が懲罰を受けないならば、島の人達はどうして心おきなく暮らすことが出来ようか。

しかし、傲慢無礼な船主の奴は厚かましくも知らないふりして、かえって被害を受けた漁夫や彼に同情した我々を、法に則って告訴するというではないか。漁夫達は、こいつの悪い性癖を直してやらずにはいられなかった。

我々は、船主の奴を引き出して座らせて置いて、被害者の漁夫に巨額の治療費と被害補償金を支払うとの文書に印鑑を捺さした。

しかし、船主の奴は郡警察署に行って、私が漁夫達を扇動して自分の財産を強奪したと告発した。ある日、郡警察署から巡査達が船に乗り群をなして島へ入っ てきて、漁夫達と一緒に私を逮捕した。奴らは、にせの証人までつくって私の罪行を強制的に認定させ、三年懲役を宣告したのだ。

この世にこんなめちゃくちゃなねつ造がどこにあろうか。

愚直で融通が利かないこの古風な先生は、背骨が折れるまで拷問されても、最後まで、判決を拒否した。今になって、私は、真実かどうかが法的判決の根拠になるのではなくて、誰が値打ちのある賄賂を贈るのかにすべてがかかっていたことが分かったのであった。

しかし、すでに時遅し。奴らは死体同然の私に、もうこれ以上監獄飯を食べさせる必要がないとみて仮釈放し解き放した。

応祥君、私の身体については、誰よりも私がよく知っている。すでに死の影が、私の身体を蝕んでいる。

有り難いことに、島で知り合いになった一人の女が、私の唯一の外出着をきれいに洗濯してくれている。

遠くなく土の中へ行く旅の準備としては、あまりにも身分に過ぎるではないか。

唯一の私の貴重な応祥君。私の人生は完全に破たんし、粉々に砕けてしまった。私は失敗した。取り返すことの出来ない人生の苦悩を抱いてあの世に逝くことが何よりも苦しい。

しかし、君は必ず成功する人になれ。少しもためらったり後ろを振り返ったりせずに、前へだけ猛進せよ。私が君に頼みたいことはこれだけだ---」文鮮姫は、徳求先生と島で知り合って長くはない期間、彼と家庭を作り暮らした素朴な女性であった。

涙で染みがついている彼女の手紙には、師が応祥に手紙を出した二日後の夕方、病床で身もだえして息を引き取ってしまったという悲痛な消息が含まれていた。---

応祥の目から、取り返しがつかない深い自責の涙が止めどなく流れ落ちた。唯一の忘れられざる師が彼に手紙を送ってくれた時から、いつの間にか二年の歳月が流れていた。

ああ。私が、どうして国から送ってくる手紙を全部しまっておくようにしたのか。苦しい自責の念に胸をかきむしった。彼の師は弟子の未来のために先祖の遺 産まですべて投げ出してくれたのに、彼は、師が悲惨な試練の地獄に陥っているとき、慰労の手紙一通すら送らずじまいになったではないか。

(ああ、師よ!安らかに眠って下さい。私は、きっと師がそんなにも願っておられた朝鮮の星となり、百倍千倍厚意に報います!)

桂応祥は、田中義麿の助手として大学研究院で研究した五年間の間に、「幾つかの鱗翩目幼虫の腹脚嚢状体について」、「皮膚をきり裂いた後の蚕及び蛾気管の運動について」等、五編の科学論文を発表した。

田中義麿は、桂応祥の科学的資質について知人達に惜しみない讃辞を呈していた。

数多くの人の口を通じて伝えられた話によれば、当時、田中義麿は、自分には弟子が一人半いるのだが、一人は桂応祥で、半は日本人弟子××だと言っていた そうだ。しかし、その半分の位置にあった日本人弟子が後日、日本遺伝学界で著名な学者になったことを念頭におくとき、田中義麿が桂応祥の才能と頑強な探求 心をどれだけ高く評価していたのかは推察するにあまりある。

田中義麿教授がこんな風に言ったのかどうか、その真偽のほどは定かではない。しかし、後日、彼が書いた遺伝学に関する大著作に、桂応祥の実験資料を節ご とに引用している事実は、彼が桂応祥の研究成果をどんなに深く信頼し評価していたのかを十分に立証していると言える。

この時期、蚕の解剖生理についての田中教授の論文集がドイツで出版された。ドイツ語での論文集を入手して読んだ応祥は、彼が何年間か田中の指導下に観察 した蚕の解剖観察結果がその本にそっくりそのまま収録されているのを見た。研究助手の地位とは当然こんなものであるが、この時初めて彼は、自立的な研究事 業の必要性を強く感じざるを得なかった。

日が暮れ暗くなり、外では霧雨がしとしとと降っていた。風が吹き込むごとに、庭にあるネムノキや真竹ががさがさ揺れ動き、障子の外枠の戸が、がたんがたんきしんだ。そのたびごとに、中国人の梁潘傑研究生は耳を傾け、窓の外を見下ろすのだった。

ところが、どうしたことなのか、応祥は夜が更けていくのに大学から帰ってこなかった。

応祥と梁潘傑が、実験室から出てくるときであった。一人の若い教員がついて出ながら、田中義麿が応祥君を呼んでいると知らしてくれたのだ。

応祥は、梁潘傑に先に行ってくれと言って若い教員について行った。

桂応祥と梁潘傑は、同じ日の同じ時に大学院での研究生活を終えた。

南中国広東市中山大学教員をしていて、この大学研究院へ留学してきた梁潘傑の将来はすでに決まっているのと同じことであった。彼は、最初の目的どおり祖 国に帰れば中山大学で教鞭を執るであろう。 しかし、応祥の将来はまだ決まらなくて不安で判然としなかった。簡単に考えれば、彼は深く考えるまでもなく故 郷へ帰らなければならなかった。

だが、彼はそんなにも恋しく思っている祖国へ帰る思いをさっと出せないでいた。応祥は研究院授業が終わると、よく梁潘傑に話していた。

「今、朝鮮では、蚕業機関を全部日本総督府が直接取り仕切っている。水原にある農事試験場をはじめ北朝鮮や西朝鮮地区に置かれている支場などの雇員達まで、蚕業機関の管理人員や技術人員を日本人だけで配置したそうだ。

これは何を意味するのか分かるかい。《内鮮一体》とは空言であって、実利があり重要だとみなす部門には朝鮮人を絶対に採用しないのが、日本人達の政策なのだよ---。それなのに私だけを例外にしてくれようか。」

応祥は、こんな話を一、二度だけ言ったのではなかった。

「まさか、日本の有名大学研究院まで卒業した農学士を試験場雇員に配置することすら、拒むだろうか?」

「ひょっとして、私にだけ特典を与え雇員に配置してくれるかも分からない。そうなったとしても、私が持っている学識にあう仕事は絶対にくれないだろう。果たして、私が、同等でない日本人技師達の指示を受けて、彼等の要求する研究事業をやれるだろうか。」

こんな話を聞いたとき、梁潘傑は深く考え込んでしまうのであった。彼は、まだ他人の侮蔑を受けながら働いたことがなかったので、応祥の話を具体的に生々 しく感じ取れなかった。 しかし、知性人が精神的束縛を受けながら生活することは、アントン・チェホフの小説『六号病室』に出てくる生活と同じように胸が 張り裂けるように苦しいことであろう。竹を割ったように一本気な気性の桂応祥が、そんな屈辱的な条件で研究事業をやっていけようか。 梁潘傑は応祥に深く 同情するのでであった。 桂応祥は、田中義麿の研究助手として約五年間仕事しながら、田中が到達した科学的水準と研究方法を体得して、ずっと前から独 自の科学研究の道に行くことを渇望していた。鋭敏な観察結果としての彼の何編かの蚕解剖論文や新しい蚕を育種するため飼育棚を直接管理した経験などが、彼 のこんな志向をそのまま示していた。

今や、桂応祥には、自分の科学的才能を十分に発揮できる広い舞台と独自に研究事業をやれる充分な研究条件が保証されなければならない。ところで、研究院卒業の時期に、突然田中義麿博士が応祥君を呼んでいるというのだ。

瞬間視線を交わした二人は、今や桂応祥の将来と関連した大事な話があるのだと直ちに直感した。梁潘傑は、日本人の若い教員についていく応祥を立ちどまらせ、彼だけが分かるように低くささやいた。

「君の下宿に行って待っているよ。」

「分かった。」

応祥は、部屋の鍵を梁潘傑に取りだして預けた。

「本でも読みながら待っていてくれ。」

梁潘傑は、七輪に火をつけて中国料理である白菜を入れた豚肉炒めと餃子を作って置き、その上パイカル(中国北部の蒸留酒)まで準備して応祥を待った。しかるに、どうしたことか、夜が更けていくのに応祥は帰らなかった。

梁潘傑が、桂応祥を初めて知ったのは、今から四年前の一九二六年四月初旬頃、日本九州帝大研究院実験室であった。中国広東の中山大学の農学部教員である 梁潘傑は、東洋で有名な蚕の遺伝学者として知られはじめた田中義麿博士の指導の下で研究しようと、九州を訪ねてきた。

世界最大の蚕繭生産国の中国では、この近年、発展した国の生物学界で遺伝学の成果を利用し生産性の高い新しい一代雑種蚕を育種していることに、大きな関 心を持ちはじめた。養蚕学が専門の、若くて知識欲が強い梁潘傑は、中国の蚕業の未来は遺伝学をどれだけ早く受け入れるかに大きくかかっていることを見通し ていた。

彼は、世界生物学界の最新成果を中国に受け入れる仕事の先駆者になるとの大きな望みを持って、九州帝大にやってきた。ところが、この大学実験遺伝学研究室では、すでに桂応祥を初めとする多くの研究生達が緊張した研究事業をしていた。

田中義麿は、梁潘傑に解剖実験室を定めながら、あっさりした声で付け加えた。

「---その部屋には朝鮮から来たカツラ(桂の日本式発音)君が仕事をしている。」

尋ねもしていない話をこのようにした田中の語調には、敬虔な態度までうかがわれた。

下宿で一緒に暮らすことになった南京出身の羅君は、潘傑が遺伝研究室で研究事業をすることになったという話を聞くと、「そこには朝鮮から来た桂応祥という有名な研究生がいるよ。」と言って、彼についてのいろんなエピソードを聞かしてくれるのであった。

桂応祥には自ら決めた厳格な戒律があるらしい。先ず、彼は酒、煙草と縁を切った。この二つは人の心を汚す麻薬と同じもので、学問の道を極めようとする人は、必ず第一番の禁忌物としなくてはならないと言うのだ。

また、彼は、一生を忙しく緊張して暮らす人だけが長寿することができて、睡眠を沢山とり怠惰に暮らす人は短命だと堅く信じているに違いない。

彼は、夜明けの五時に起きて夜一時に寝床に入るのを違えることのできぬ鉄則としているし、あおむけになったり、もたれかかったり、寝ころんだりして、本 を読んだり字を書くことを許さず、必ずきちんと坐って勉強しているのは、このような信念からくる行動であろうと言われている。

下宿から大学までは歩いて三十分かかるのだが、半分の距離まで行く間は鞄を右手に持って行き、残りの区間には鞄を左手で持って行くのだそうだ。彼が英語、日語以外にドイツ語を習得したのは、本当に大学に通学する道で、ものにした知識だという。

彼の一挙一動は、時間表によって一分一秒も間違いなく、定時定刻に走る列車のごとく綿密な理性的判断に基づいて決められていたのである。

結局、彼には、一生の間自分が到着しなければならない正確な目的地が設定されているので、そこへ少しでも早く着くためには、しばしのわき見もせず恐ろしいほど疾走しているということなのだ。

「学究的熱情には感服させられる人だ。しかし、彼の理解しがたい行動をいかがわしいと見る人も少なくはない。」

羅君は、こんな言葉で桂応祥についての話を結論づけるように終えた。

(果たしてその特別な研究生はどんな容貌をしている人なのか?)梁潘傑は、こんな格別の好奇心を抱いて、大学の後庭の付属建物にある解剖実験室を訪ねていった。

静かな実験室の作業卓の前に、三十代の美男子が座っていた。彼が桂応祥であった。顕微鏡をのぞいていた桂応祥は、梁潘傑が部屋に入ってきたのも全然気づかなかった。

半分ほど抜けあがってさっぱりした額の下で静かに光る瞳は、単純ではあるが深く澄んでいて、見くびれなく持ち上がったとがった鼻や贅肉一つない青白い顔は、沈着且つ鋭かった。

鼻の下のみぞや鋭い顎のあたりには髭をぼうぼう生やしているが、それは美貌のためではなくて、髭をととのえるのに費やす時間を惜しんだがために自然に生 い茂ってしまったようであった。 よく知られているのは、左の目のまつげの上に幸運の印と言われる小豆ほどの斑点が浮き上がっていることだ。き りっとした姿勢をそのままびくっともせず顕微鏡をのぞいていた桂応祥は、縫い針のような解剖針をすばやく持ち、ちょっと動かしたようだったが、いつの間に か、ごみのような組織片をきり出して顕微鏡の下に載せたのであった。

そうして目を離さないで、手に持った鉛筆をくるくる回しながら、白い紙の上に解剖図を描いていった。まつげ一筋、手先ひとつの動きにも、思想や感情をこめる俳優の演技と同じく洗練されたしっかりした動作であった。

彼は、目の疲労をいやすため、しばし作業をやめる瞬間すらなかった。視線を外して蚕組織をきり取るとか、組織片に色をつけるため手元に置いてある試薬を利用する極めて短い時間を、疲労回復の手段としていた。

かたわらで爆弾が破裂したとしても、びくりともせず顕微鏡をのぞいているような鋭いまなざしや厳粛なその姿には、一身を捧げて敵の砲火を止めずには帰らないと突進する人にだけ見られる、何かそのすさまじいものが見てとれた。

何ともいえない衝撃に、胸をどきどきさせて桂応祥を眺めた梁潘傑は、爪先歩きで彼の椅子の後ろを通り、試薬台で区分されていた反対側作業卓の前に行って 坐った。彼は実験用に持ってきた蚕をシャーレの上に載せてアルコール注射をし、完全に麻酔させ解剖鋏で蚕をきり始めた。---

試薬瓶がぶっつかる音がした。ひょっとした拍子にそちらに視線を向けた梁潘傑は、自分に注意深い視線を向けている桂応祥と目を合わせた。

その瞬間、二人は同時にあたたかく微笑んだ。

早く今やりかけの仕事をしょうと無言の約束を交わして席に着いた。

日が暮れ暗くなってから、二人は解剖実験室を出た。彼等は、人があまり来ない大学街の裏道をゆっくりと歩いて行った。

終日、顕微鏡をのぞいた後、このように街に出ると、海の方から吹いてくる湿り気のある風を皮膚で感じられ、雲が浮かんでいる青黒い空から、かぼそく明滅する星の光に視線を向けるのも大きな享楽のように思われた。

いつのまにか赤ん坊の手のひらのように可愛い青葉を広げてそよぐネムノキやイチジクの葉っぱのそよぐ音に耳を傾けられるのも、二度とない幸福だと思われた。

「何年目ですか?」

梁潘傑は日本語で尋ねた。応祥は首を回し潘傑の平たくてやや広い顔に視線を向けた。意味深長な彼の表情や語調を見て、祖国を出て何年になるのかを尋ねているのだ。応祥もまた日本語で答えた。

「八年目だ。」

「八年?年は?」

「三十三.」

「貴方も私と同じですね。」

「何が?」

「年を取った後になって科学の道に足を踏み入れたことも。」

「そうでしたか?!」

お互い視線を合わした二人は再び微笑んだ。応祥は知らぬ間に立ちどまった。潘傑もまた立ちどまって、応祥が眺めていた庭園に視線を向けた。

苔桃や腕のような真竹が青い葉を垂らしている庭園の真ん中に、屋根が尖った一軒の上品なトタン葺きの家が建っていた。

「田中義麿先生の家ですよ。」

「そうですか!」

老いた教授は、退勤して自分の部屋で坐っておられるのか、南方に出ている居間だけでなく書斎や応接室の窓にまで明かりがついていた。応祥は、その窓から絹糸のようにもれてくる柔らかい光をじっと見つめていた。

彼は指導教授の家が目につき立ちどまったのではなかった。他国暮らしに疲れた旅人の目には、いつも懐かしく暖かい光がもれてくるそんな窓を眺めれば、置いてきた故郷の家や妻子への思いがつのって感極まるものなのだ。

潘傑も、祖国にいるときには、一度たりとも散歩道で他人の家の窓からもれてくる明かりを見て胸がつかえたことはなかった。しかし、今やいついかなる時も、明かりが洩れてくる窓の下を何の思いもなしに通り過ぎることはできなかった。

遊びに夢中になっている子供達を晩御飯へ呼んでいる女の声を耳にすると、武強県の郷村の家の庭で飛び跳ねている子供の様子を、まのあたりにありありと思 い浮かべないときがなかった。そんなときには、何時になれば異国暮らしを終えて郷村のわが家へ帰り、家族みんなが丸い食卓にぐるり坐って夕食を囲めるのか という思いで、胸がびりびりとしびれるのであった。

家の庭でそよそよと枝をふるわせていたミカンの木も、その上でいつも盛んにさえずっていた雀の声までも、むやみやたら懐かしかった。 郷愁の情に胸がしびれればしびれるほど、刻みつけられる心の痕跡も深くなるようであった。

ここに来てひと月ほどしか経っていない彼の心情がこのようなものならば、異国暮らしが十年近くなる桂応祥の心情が、いかほどか察するにあまりあった。

「茶でも一杯飲んでいきましょう。」

潘傑が中国茶喫茶店の前で立ち止まった。

応祥がうなずいた。二人は向かい合って坐れる小さな円卓の前で静かに坐って、可愛い中国娘の給仕が持ってきてくれた紅茶に角砂糖を一粒ずつ入れてかき混ぜ、蓄音機から流れてくる歌に耳を傾けた。

あなた 私のあなたよ

梅雨空のお日様よ

秋のはじめの夕立よ

そんな風に来るのなら 来なくてよい

うら悲しい中国のその流行歌は何を詠じているのであろうか。

「研究院に入って三年間、一度も故郷に帰らなかったとは、あんまりではありませんか。」

梁潘傑は茶匙を茶の中で音のしないようにかき混ぜながら、応祥の瞳から視線を外さなかった。応祥は、暖かい茶をゆっくりと一口ずつ飲みながら静かに微笑んだ。

「行って来る時でないから、そうなったまでのことよ。」

「時でないと?」

「ははは、特別なことではない。ただ偏屈だからそうしているのだろう_」

応祥の応答には釈然としないものがあった。梁潘傑は自分なりに考えて言った。

「待っている人がいないようですね。」

「いや、そうではないのだ。正反対だよ。祖国では私が帰ってくる日を指折り数えて待っている人がたくさんいるよ。」

応祥は熱情的に叫ぶように言った。彼の声は、近くの食卓に坐っていた人達の視線が二人に集中するほど、意外にも高かった。応祥は目の下をほんの少し赤らめた。

「ごめん。私が大変興奮したようだ。」

「いや、私こそ。貴方の痛いところにふれたようですね。」

「そうではない。胸の痛いことを思い出したので、そうなったのですよ。」

応祥は、初めて会った梁潘傑に、自分一人の胸にしまっておくにはあまりにも苦しい故郷に対する思いをすっかり話した。心臓の門を開ける人には、熱い心臓でだけで、相対することができるのだろう。

この時から、彼等は二年間も研究院生活を一緒にして、嬉しいことも悲しいこともお互い分け合う、並はずれて親密な友としてつきあうようになったのであった。---

梁潘傑は、隅に畳んであった布団にもたれてうとうと居眠りしていたのだが、急に目を開けた。木の階段を上ってくる足音がした。梁潘傑は起きて戸を開けた。

雨にぐっしょりぬれた応祥が、うなだれて部屋に入ってきた。部屋の隅に新聞紙で覆ってある食膳が置いてあるのを見た応祥は、口もとでぎこちなく微笑んだ。

梁潘傑は、自分がこの部屋の主人のように七輪の上に焼き肉をのせ、ギョウザを温め、杯を差し出した。彼は、その時までも気が抜けたように立っている応祥を見つめた。

「早く坐れよ。」

二人は焼き肉を焼く七輪を真ん中にして座った。梁潘傑はコップにパイカルをそそぎ入れた。

「さあ飲もう。」

梁潘傑が大声で勧めたが、応祥は持ったコップをぼんやり見下ろしていた。

そして深いため息をつくのだった。その様子をそれとなく見ていた梁潘傑は、頭を振った。肩をだらりと垂らしてうなだれている応祥の顔には、悲惨だと言うほかない深い苦悩の影が浮かんでいた。

あんなにも強靱だった応祥の顔に、破滅直前に立たされた人のような絶望的な気配がただよっていたのであった。応祥は、梁潘傑が勧める杯をがぶ飲みしてしんどそうに話し出した。---

田中義麿の呼び出しを受けた応祥の胸は、急にどきどきしだした。ついに、彼がひそかに期待しながらも、何か不安であったその日が来たのだと感じたからであった。研究院生活が終わろうとしたときから、応祥は予期しなかった不安感におそわれた。

今や、遺伝学分野で先頭に立つ科学者達がごく近い所に眺められた。もう少しだけ拍車をかけて前進すれば、先進国の科学者達と堂々と肩を並べて行けるとの自信も出てきた。

だが、彼がそこに到達しょうと努力してきた地点が目の前に見えるのだが、やるせなくて煩わしい考えだけがどうしてか深まるのであった。単純で純真な考えにとらえられたというか。研究院を卒業してしまえば、彼が期待したことがなしとげられたと言えた。

果たしてこれは並はずれた英才でないといえようか。しかし、今になって振り返ってみれば、それは自分が成就したいことの極めて小さい一部分でしかなかった。彼は普通の科学者になろうとしたのではなく、他ならぬ祖国朝鮮の科学者になろうと渇望してきたのであった。

だが、彼が、そんなに望んだ祖国はどこにあるのか。結局、彼は、祖国を強奪した日帝どもに仕えるために気苦労して科学探究をしてきたというのであろうか---。

応祥は、錯雑な考えをとりまとめられないまま教授の部屋へ入った。

「坐りなさい。」

田中教授はいつもとは違ってやさしくて暖かく微笑んだ。応祥は静かに椅子に座った。

きっとした姿勢で端正に坐っている応祥をしばらく見つめていた田中がそっと尋ねた。

「故郷の家には年取った御両親がいられるのでしたね?」

「はい。」

「子供達はみんなで何人ですか?」

「すでに四人です。」

「ふむ、奥さんの苦労が大変でしょう。」

しかし、教授が応祥を呼んだのはこんな個人的な話をするためではなかった。しかし、彼もまた話そうとすることをすぐに口に出せなかったのだ。

しばらくして、田中義麿が低い声で話をきりだした。

「私は、君がずっと前から独自的な科学探究の道に入ろうとしていることを感じていた。当然のことだと思う。君もそれについて考えていたことでしょう?」

「はい。」

「そうか、将来どのようにするつもりですか?」

教授は目を細めて応祥を見渡した。

応祥はうなだれたまま黙って坐っていた。田中教授が彼に投げた質問は、先ず彼自身が自らに問いかけたのが一、二度ではなかった。しかし、あらためて教授から正式にこんな質問を受けてみると、どういう風に答えればよいのかはっきりしなかった。

逆にこれからの彼の希望が何なのかと尋ねられたならば、ためらわず自分の所見を述べ討論できたであろう。一九三〇年初葉のこの時期、遺伝学はまだ幼年期だと見ることができた。遺伝研究は、この時までも、実験室的研究の範囲を大きく抜け出してはいなかった。

しかし、先見の明がある科学者は、遺伝の秘密をいかに解明するかによって、人類に尽くす未来の生物学の前途が広く開けられると、また久しからずして人間 は自分が望むそんな生物体を自由に育種することだろうと予言した。各国の生物学者達は、先を争って遺伝学研究に熱を上げていたのである。

西洋の科学発展に敏感な日本の生物学者達は、アジアで初めて遺伝の法則を利用した蚕飼育で一代雑種体系を導入していた。

ソ連や米国、西ヨーロッパ諸国では、世代反復が早いショウジョウバエを基本材料として遺伝学研究をしていた。しかし、桂応祥はこれから蚕を出発材料として実験遺伝学に専念することによって、まだ解明されていない遺伝の秘密を新しく解明したかった。

また、地球上に存在する数百種の蚕品種を全部収集して、それらを支配する遺伝の調和を完全に解明して、わが国の気候風土にあう新しい蚕品種を創り出してみたかった。しかし、それに必要な研究資金は誰から保障してもらえるだろうか。

これが、何よりも先ず、桂応祥を苦しめていた主たる問題であった。それでは、当時彼が帰る祖国の状態はどうであったか。

日帝は、朝鮮の農業を科学的に研究するという名目の下にソウルから遠くない水原に農事試験場というものを設置して、その下にいくつかの道に一か所ずつ支 場を置いた。そこには技術とは関連のない一般雇員に至るまで全部日本人を採用していたし、試験場は勿論支場まで朝鮮総督府で管轄していた。

試験場には、蚕糸部があり、そこで日本蚕品種を持ってきて地方原種場へ渡して蚕卵を生産して、農民達に売っていたのである。生産された蚕繭は、日本人が 全部買い占めた。その代わり農民達に布地やコムシンのようなものを持っていき、買い入れた蚕繭を日本へ積んで行き絹を生産したのであった。

数千年の歴史を持つ朝鮮の絹はあとかたもなくなり、昔日本人に絹の織り方を教えた朝鮮人が、日本で織られた絹を高い金を出して買って使う羽目になったのである。彼がこのような祖国へ帰って何ができると言えようか。

今でも、自分の国があり、自分の力で管理運営できる研究機関や大学があれば、他の科学者達についていき追い越そうと奮起できるのだが、日本人達が自分勝 手に取り仕切っている祖国に行って彼に何ができようか。桂応祥が祖国へ帰り学んだことを使う道は、唯一日本官吏の前でぺこぺこして暮らす道以外に他の道は なかった。

彼の名前は、いつの間にか、日本へ渡ってきて勉強している学生の中で、朝鮮人の才能の象徴のように話されていた。人々は彼の一挙一動を見つめていた。それで彼がどうして日本人の召使いになれようか。彼は長い間沈黙していたが、遂に曖昧にひとこと言った。

「そうですね。」

田中義麿は、尖った顎で軽くうなずいて憐憫の情をたたえた目つきで応祥を見た。彼は、少し前に、朝鮮総督府官吏として仕事をしている弟子を通じ、桂応祥の進路問題をひそかに打診してみたのだ。弟子が送ってきた手紙を見た田中教授は憤慨せざるを得かった。

半島ではいくら才能がある博士や学士といえども、朝鮮人を日本官吏の上へ絶対に立たせられないというのだ。こんな偏狭な行動は、努力して育てた人材を間 違いなく使い物にならなくする結果以外の何ももたらさないではないか。 田中義麿は、深刻で暗い気分でゆっくり話した。

「君がどのように考えているのか知らないが、私は問題を現実的に考えようと思うのだ。元来、科学者とは政治に無関心な人間で、科学研究事業を通して人類の進歩と繁栄に寄与できればそれ以上望むことはない。

最近、わが国では、満州の新京に大きな農事試験場をひとつ設立している最中だ。私がそこの試験場場長に任命されて行く同僚に、君を重要な職責で仕事でき るように推挙してみるからそうしてみてはどうか。先日、その同僚が私のところへ来て、必要な専門家を得られなくて心配だとこぼしていた。」

応祥の顔に深い疑惑の影が走った。彼もまた、教授の援助を受けて研究事業を継続するところを決めようとは考えなかった。彼は、どこまでも田中教授を日本 のような社会ではまれにみる清廉潔白な科学者と思って尊敬してきた。だが、彼が応祥を満州試験場へ推挙するとの言葉を聞いて、驚いて顔が青くならざるを得 なかった。

満州は梁潘傑の祖国の一部分だ。それなのに、応祥が、どうして日本人と同じ仲間になってその土地に行き、日本人の召使いの役割をはたすことができようか。そうすることは、自ら自分自身を辱めるようなだらしない行動ではないのか。

もしや、田中教授も?いや、そんなことはない。恐らく教授は彼に合う職責を斡旋するために気遣うあまり、そうなったのであろう、

応祥は、一瞬ではあるが田中教授について疑惑の感情を持ったことに、大変申し訳なく思った。けれど、教授が推挙したところだといって、そのまま応ずる訳にはいかなかった。彼は明確な言葉で自分の決心を言った。

「満州には行きたくありません。」

田中教授は顔をくもらせた。

「それでは、どうするつもりなのか?」

「もう少し考えてみます。」

「ふむ。」教授は、またもや頭を上下に振った。

桂応祥が話を終えると、梁潘傑は「有り難う。」と言って彼の手を力強くにぎった。

「とんでもない。」応祥は頭を横に振った。

「私はただ自分の良心を汚したくなかっただけなのだ。」

雨はやんで、外では風が吹いていた。寒気で身震いするように吹きすさぶ風の音は、夜が更けて行くにつれてますます激しくなった。風がぶっつかるように激 しく吹きつけるごとに、木造建ての家はぎしぎし揺り動き、今にも倒れるかのように悲鳴を上げた。それは、落ち着かなくて不安な応祥の気持ちをもっとあおり たてた。奥歯をぎゅうっと噛んで窓の外を見ていた応祥の目は、あやしく光っていた。落とし穴にはまった人のようにうめき声をあげた。これまでは、一身の熱 情を出し尽くして噴水のようにほとばしれば、民族の誇りとなり自分の国のため何か大きな仕事ができると堅く信じてきた。たとえ日本へ渡ってきて勉強しても 自分の魂を失わないならば、必ず努力しただけ報われるときがあるものと信じていたのだ。このために彼は、十数年歳月の間、あらゆる苦しみを甘んじて受け剛 直に生きてきた。だが結局、彼にもたらされたものは何だったのか。

「梁君、今、私の胸では、一生の間真心こめてきちんと重ね積み上げた貴重なもの全部が、一時にこわれてしまった心情だ。」

応祥の痛切な話を聞いた梁潘傑は、どんな言葉で彼に慰安と同情を言い表せばよいのか分からなかった。彼は、富裕な家庭で育ったおかげで、桂応祥のように 苦難な苦学生活をしなくとも高等教育をうけられたし、動乱に巻き込まれて気が散って落ち着かなくはなかったが、それでも自分の祖国があり、その祖国の支援 で日本へ留学する幸運をつかんだのであった。しかし、彼もまた、自分の祖国を外来侵略者に奪われた民族の運命がどんなものかは察することはできた。

日本を含むいわゆる「八か国連合国」が、中国の首都北京を占領して婦人や娘達を強かんし貴重な国宝を手当たり次第略奪していったとの消息を聞いたとき、 彼はどんなに胸が張り裂けるような憤怒に身もだえしたことか。恥辱されたからには死をもって立ち向かおうと決心して古都の井戸や沼を埋めた彼女たちこそ は、彼の妻や妹達とどこが異なろうか。

鬼畜のような敵どもが北京で略奪していった歴史画と花瓶、家具などが、彼の家で装飾品として保存していた先祖から譲り受けた遺物でなくて何であろうか。

しかしながら、自分の祖国がすでに二十余年も日本の奴らに蹂躙された桂応祥の心情は、これ以上話してもどうなろうか。彼はわれ知らず急に話をきりだした。

「応祥君。私と南中国広東へ行こう。」

「広東へ?」

「そうだよ。」

梁潘傑は生き生きと元気になって話した。

「勿論、わがふるさとに行っても他国暮らしは同じことだが。しかし、君が望む研究条件だけは見劣りなく充分に保障することができる。新中国を建設するた めの中山大学でも、遺伝学講座を設けようとしているときだ。 君がそこに行けば、大学で遺伝学、解剖生理学、蚕糸学などの講義をすることができる。そし て、わが広東は四季を通じて蚕を飼える暖かい所であるから、君が出発資料としている蚕で季節に関係なく遺伝実験をするのにちょうど都合がよい所だと思われ る。」

まことに嬉しかった。潘傑の話を聞いてみれば、彼が将来やろうとしている科学研究のためには、これ以上言うことのない理想的な所ではないか。南中国の広 東地域は、中国だけでなく世界的にも指折りの蚕産地だ。そんな広々した蚕産地を活動舞台にして独自的な科学研究をしていくことは、どんなに魅惑的なこと か。

突然訪れた幸運に胸がどきどき打った。今の彼の境遇で、これ以上の満足できる研究条件や学究的な環境を期待することはできなかったであろう。

しかし、不意に応祥の顔に暗い影が横切った。家を出て十数年、またも彼は万里遠く他郷で苦しまねばならないのか。応祥はどうしても即答しかねた。

「梁君、私に考える余裕を少しくれ。」

彼の語調は懇願に近いものであった。梁潘傑はうなずいた。

この時、桂応祥の故郷の父母は年老いて農作業もできなくなり、初老の兄は息子娘達が五人もいて食べて生きていくのに精一杯で、家を出た桂応祥を考えてやる余裕が全然なかった。今では、まず彼を念頭に置いて物事を考える習慣さえ消えてなくなったのかも知れない。

書堂時代から数えるとおよそ二十余年も、家のことに関与しないでほっつきまわっている人を、どうして家族の一員と見なせようか。彼の父母は、トッタリで 別所帯の暮らしをしている応祥の妻や幼い子供達を世話する余裕が全然なかった。 彼の妻は、寡婦のように一人で暮らす女だと、他の人のように 小作権も完全に持てなかった。だが、日本に行き勉強する夫が帰ってくれば、金儲けの道ができると思って、わずかばかりの泥田と段々畑を小作させてくれる人 がいて、彼の妻は死にものぐるいで働き、四名の子供を食べさせ、かろうじて暮らしていた。

しばらく前の故郷からの手紙によれば、すでに十二才になった長男が山へ行き、枯れ枝や枯れた松葉をカササギの巣のようにつくって街で売ってこなければ、 御飯も食べられないのが彼の家の状況であった。いつかは、霜が降りた後屋根の瓢箪を採りカマスの中で充分に熟させ乾して置いたのだが、子供達が、そのフク ベを一つずつ抱いて「やあ、このフクベに砂利御飯でも沢山入れて、腹一杯食べられたらよいのに。」と話すのを聞いて、孫を見に行ったオモニが後ろ向きに 坐って声を立てず泣いたそうだ。

「応祥や、今や、これ以上、お前を待つ力さえなさそうだ。何の価値もないこの老人にもう望むことはないが、お前の幼い息子がくらくらするような木のてっ ぺんまで上がって行きぶるぶる震えながら枯れ枝をとろうとする光景は、ひかがみがしびれ大変気をもまされて、もう見ていられない!

よちよち歩き出したお前の幼い娘も、薪のためにオモニが困っているのをどうして知ったのか、生えたばかりの松の木の下へ這って行き、松葉をかき集めてい て蛇に噛まれ、すんでのことにアボジの顔も見ないで死んでしまうところだった。それでも、ちょうど折よく物知りの老人に会って、腐っていくふくらはぎに犬 山椒の葉をつきくだいて傷口に詰め込んで置いたら、幸運にも毒をしぼり出し命拾いした。だが、自分の子供がこんなになっているのに、どうして他郷へ出て一 日中本だけ読んでいられるのか_」

いっそのこと、大学課程を終えるときのように手紙の封を切らなかったならば、 気持ちが安らかであったかも知れない。それで、以前のあの角立った気持ち はどこへ行ったのか、家主のおかみが部屋の中に入れて置いた手紙をもう見ているだけでは済まなくなり封を切ったのが、こんなに思いわずらわされるとは。そ れでも応観兄は、身体が弱ってきた父母に代わって家族の多い本家を維持していこうと苦労が大変だけれど、不平一つこぼさなかった。夕食はカボチャ汁で済ま せ砂利御飯でも腹一杯食べていればそれなりに安心できる弟嫁の暮らしを見ないふりができなくて、時々荷車を引っ張っていき弟嫁に粟を運び入れるのだった。

父母には言わずもがな、兄や兄嫁にも面目丸つぶれであった。今までたいして気にもかけなかった妻にも、大変申し訳ない気持ちを抑えられなかった。

しかし、死刑に値する罪を犯したとしても、家族達には理解してもらえるだろう。だが、恩師からもらった千万金にも比べられぬ恩恵だけは、どんなことをし ても必ず報いなければと考えた応祥ではあった。しかし、一番困難なときに彼を援助した師は、哀しいことにあの世に逝かれてしまっているではないか。

彼は、故国の大事な人々にあまりにも多くの借りをした。何時になれば、この借りを胸がすくように報いられようか。

ひっそりとした蚕桑学部の長い廊下を急いで歩いていた応祥は、不意に自分の部屋から出てきた田中教授とばったり出会った。挨拶をして行き過ぎようとしたのだが、教授が彼を立ちどまらせた。

「応祥君、私の所へちょっと来なさい。」

応祥は黙って教授について彼の部屋へ入っていった。

「さあ、坐りなさい。」

抱えてきた原稿の束を机の上に置いて、立ったまま万年筆を取りだして原稿の余白に何かを素早く書き記した教授は、安楽椅子に座った。

「私は、数日後に満州へ出張する。」

田中教授は応祥を意味ありげに見て話をきりだした。しばらく前に自分が言った勧告について、どんな風に考えたのかと尋ねるのだった。

「私の進路について、格別な関心を持っていただき、どんなに感謝すればよいのか分かりません。しかし_」

「そんな挨拶言葉はやめなさい。」

田中教授は応祥の話に割って入り興奮した声で続けた。

「満州農事試験場に、わが本土の蚕業試験場よりもっと大きい蚕業試験場を設置しようと計画しているそうだ。緯度上から見ると北満に設置される今度の試験 場は、寒帯に属する最初の試験場となる。聞けば、そこにはめったにない珍しい山の蚕品種が数えられないほど多いそうだ。大掴みに計算したものによれば絹糸 を出す蚕を飼えるブナの樹海だけでも数百万町歩に達するというのだ。ちょうど新京に設置した軍用飛行場で、私の親友の息子が隊長職であるので、彼に頼めば 飛行機に乗って広い蚕の自然飼育地帯も廻ってみられるだろう。私と同行してみないか?」

田中教授は、ぼうぼうたる大海のような満州密林を飛行機で探査する爽快な情景を見ているかのように、やや細い目には生気があふれていた。名望のある科学 者達は例外なく、未知の大陸を探査する過程で偉大な新しい発見をした。世界を一周し数多くのめったにない珍しい化石や動植物を収集したチャールス`ダーウ インがまさしくそうであったし、リンネもそうだった。田中教授も、彼等のようにまだ科学者によって探査されていない満州をくまなく調査して、実験遺伝のた めの新しい資料を得ようとしているのだ。

応祥は、田中教授が興奮して出発を急いでいる今度の旅行が純粋な科学的目的を追求していることをつゆほども疑わなかった。だが、もしも中国の学生達がこ の話を聞けば、何と思うだろう。前の日の晩にも、彼等はほんの少し前に入手した南京政府の檄文を回し読みして各自憤激していた。

「『日本軍に抵抗するな。忍耐性を堅持せよ。』日本軍が東北の都市を一つ一つ占領して行っているというのに、このように呼びかけるなんて、どだい何という話だ。」

「それが大陸人の大きく深みのある『自制力』だというのだろう。」

断片的に聞こえてくる消息だけを聞いても、東北の状況は日本が朝鮮を少しずつ侵食して来た近世紀初頭の行動とあまりにも似通っていた。 その時にも、日 帝どもは、朝鮮に渡ってきた日本居留民の生命保護や京仁鉄道利権保護など、それらしい口実でもって軍隊を引き入れて兵営を建てた。その時とそのまま同じ方 法で、日本人は、《満州開発》の利権を守るとの人聞きのよい話をしながら軍隊を大々的に押し込んでいた。

そうなのに、その軍隊の迅速な活動を保障する軍用飛行機に乗って満州密林に対する探査をやるというのだ。あきらかに田中教授は、日本の新聞に紹介されて いる満州開発や振興という言葉の意味をそのまま信じているか、満州の所々で上がっている銃砲の音を全然聞いていないかであろう。

どちらにしても、彼の話しぶりには、日本帝国が広い満州を自分の手中に入れたおかげでその土地を自由に踏査できるようになった誇りがありありと見てとれた。

応祥が日本に渡ってきて十余年経っても前と変わらぬ朝鮮人であるように、田中教授もまた日本の利害関係に少しも無関心な人ではなかった。だから、教授が 近頃彼の才能を惜しみ大事に思ってくれるのは、彼を将来日本のために働かせたい望みから来ていたというのであろうか。もしもそれが事実であれば、信じてい た田中教授とはどんな人なのか。

(ああ、人をよく見極められなかったのか。)

桂応祥は、全身に戦慄が走るのをじっとおさえて田中に静かに話した。

「私は寒帯地方試験場に別に興味がありません。それよりも、季節に関係なく研究事業をすることができる南方地帯にもっと心がひかれています。」

「そんなところがどこにある?」

「南中国の広東。」

「広東?そこは中国本土ではないか。」

「そうです。そこは中国養蚕業の中心地です。」

「うむ。」教授の顔には、隠すことの出来ない失望の影が濃く落ちていた。

勿論、彼は、応祥が自分の申し出をそっくりそのまま受け入れるとは思わなかった。

しかし、彼は、桂応祥を手放すことは日本にとって大きな損失だということを悟ったというよりも全身で感じたのだ。

だから、昨日は満州農事試験場に長距離電話をかけ、朝鮮人農学士桂応祥の採用問題を再び相談したのだ。田中教授がそのように信任する人ならば拒む理由が あろうか。しかし、満州での事業条件は特殊なのだ。今すぐには、研究事業も事業ではあるが-----どちらにしても一度連れてきなさい。満州の密林こそ は、田中教授が何時も天然宝庫の誘惑的な踏査地とみなしていたところではないか。ちょうど田中義麿教授は、計画していた蚕学についての新しい本の執筆も終 えていた。しかし、独りで出掛けるのは寂しい。桂応祥のような鋭敏な観察力を持つ弟子と同行するならば、それこそ、この上もない話し相手となるだけでな く、探査成果もより一層確固たるものが保障されるだろう。

田中教授は、通りすがりの話のように応祥を自分の部屋へ呼んだのだが、彼に対する期待はずっと前から大きかったのであろう。彼は残念な心情を禁じられない思いで話した。

「私は、君の複雑な心情を分からないわけではない。しかし、君が我々と一緒に研究事業を続けて科学の巨匠になれば、日本人になれると思う。だが、とんでもない。私はそんな狭隘な観念についてはもうとっくに卒業している。

今、世界の知性人が何のためにフランスのパリーよ、ドイツのベルリンよ、英国のロンドンよと、群がって押しかけるのか。全人類的なことをなしとげようと すれば、世俗的な垣根を越えなければならない。我々と一緒にいれば君は米国のモルガン研究所か英国の遺伝研究所のようなところへも学術交流者として行き来 するだろうし、それらの国の財団の研究補助金も受けられるように援助してあげられる。

だが、君が広東へ行けば、誰と競争して誰から新しいことを摂取できるだろうか?自分を台無しにしたくないならば、どうかこの白髪老人の話を注意深く聴いてくれ。そうしてくれるね?」

応祥は一瞬、動揺した。田中義麿の切々たる頼みは応祥の最後の支えまで完全に揺り動かしたかのようだった。世界の最先端技術を日常的に摂取できるところにいてこそ、科学の一番高い峰に登るのにも決定的に有利であることは事実ではないか。

しかし、田中義麿の助言を聞けば、先ず日本の利益のため『満州開発』に従事しなければならない。そこに、どんな全人類的なことがあり、名実ともに科学的なことがあり得るというのか。

「違います。」

応祥は傲然と頭を上げて断固として話した。

「私は、新しい土地に行って難関をくぐり抜け科学研究をする過程を通じて、自分の探求能力を試して見ようと思います。」 田中 義麿は、自分の弟子に科学知識は教えられたが生きる方法は教えられなかったと痛感せざるを得なかった。十年歳月努力してきたことが無駄になったと思うと、 胸が張り裂けそうで下顎が細かくふるえ、いてもたってもいられなかった。しかしほどなく、彼は、桂応祥と自分の間には飛び越えられない深淵が横たわってい たことを感得して、苦しそうに低くうめいた。田中教授もまた、自分の祖国日本と特に自分の利益や名誉のためには何でもやる、そんな人であったのである。

「それでは先生。」桂応祥は立ち上がって頭を深く下げて挨拶した。

「今後の科学研究事業での新しい成果を心から期待します。」

「気をつけて行きなさい。私は、君が独自的な科学研究事業で特出した業績をあげるだろうと信じてやまない。」

「有り難うございます。」応祥は、もう一度師と熱く握手して部屋を出た。このように別れた田中義麿と桂応祥は二度と会うことはなかった。

その時から一か月たった一九三〇年五月初めのある日、下関港を出た船体がどす黒い中国貨物船「光明」号の船尾で、色あせた黒い洋服に灰色のコートを着た一人の中年の男が、船の縁にもたれて立ち、白い波が砕け落ちる広大な海を心うつろに眺めていた。

白みがかった海霧に覆われて、ぼやけてはっきり見えない水平線の彼方を目が痛いほど眺めているその男のまなざしには、数え切れないほどの錯雑な光がちらちらしていた。

「大きな不幸にあった人だな。」

丸い船室の窓から下の船の縁に堅くなって立っている男を見下ろして、年寄りの甲板長は断定するようにつぶやいた。肩をいからした年寄りの船員と並んで 立っていた梁潘傑もまた、そっちの方に視線を向けたまま平べったい顔に深い憐憫の情をただよわしていた。 彼は年寄りの船員に煙草を勧めながら言った。

「貴方は他郷暮らしの切なさがどんなものかを誰よりもよく知っているのでしょう?」

「そうだと言えるでしょう。」

「あの人は、桂応祥という朝鮮で第一番目に指折られる蚕学科学者です。八年間も日本で他郷暮らしをしていたのだが、別れの挨拶をするために故郷へ一週間の間行って帰ってきて、今度は自分の国から海と大陸を隔てて遠く離れたわが国に渡っていくのです。」

「そうでしたか。」

年寄りの船員は大きな目をぱちぱちさせてうなずいた。5月の暖かい太陽の光は、果てしない海を柔らかく包みこんでいた。オモニの愛撫に身体を預けた赤ん坊のように、海は世の中の苦労を知らないで天下太平に横たわり、静かで軽やかに揺れていた。

しかし、太陽が黒い雲の中へ姿を隠すと、周囲は急に物寂しく見えた。いつ優しく微笑んだのかと思われるほど、海は意地悪く激しく波立った。

真っ黒な波濤は白い歯をむき出しはじめ、つつましやかな婦人のさしのべる手のような風模様にも棘が出てきた。甲板の上には、ひえびえした冷気がうろつき廻っていた。

船の縁に立っていた桂応祥は、コートの襟を立てその中に中折れ帽をかぶったやや長めの顔をうずめた。大波を起こし立ち上がらせる荒々しい風は、彼のコートの裾や着物の袖をやたらにつかんでゆり動かしていた。

「お客さんを船室へ案内してきましょうか?」

甲板長が梁潘傑に振り返って尋ねた。

「そのままにしておきなさい。別れの挨拶をさせてあげましょう。ここが、この航路で、彼の祖国に一番近い所だと思われる。」

静かに言う梁潘傑の声はふるえた。彼は、ぼうっとしてきた視線をひそかに回して自分自身に問いかけた。

「果たして私が桂応祥をわが国へ招聘していくのはよいことなのか?」