桂応祥博士の生涯
『実験遺伝学者 桂応祥の生涯』の梗概
朝鮮民主主義人民共和国で発刊された長編実話小説「探求社の生涯」(1989年文芸出版社)の日本語翻訳本(成 大盛 訳)の梗概です。
前編 さすらいの旅人
(第一章~第六章、一~一四七頁)
桂応祥は、十九世紀末、日本帝国主義勢力の度重なる侵略によって国権が踏みにじられ、朝鮮の隅々まで日帝の植民地化政策が浸透していく頃、北朝鮮の僻村で貧農の次男として生まれた。彼は一八九九年から一九一一年まで書堂で漢学を学び、ムルコルの神童と噂され、十九才で書堂塾長にと村の長老達から推挙された。
しかし、彼は、苦学の果て事故死した親友の悲報を聞きはしたがソウル遊学を決断して、血のにじむような探求の道へと踏み出したのであった。
町はずれの下宿屋の屋根裏を無料で借りた桂応祥は、教職員がみんな朝鮮人であった私立五星中学校に入学した。とても側で見るに忍びないほどの苦学をやりとげ中学を首席で卒業した彼は、生物学、遺伝学を究め朝鮮の遺伝学研究を世界水準に引き上げようと決心していた。そのためには上級学校へ進学せねばならないが、中学すら苦学の末かろうじて出た彼にとって無理な願望であった。
故郷の近くに住む遠い親戚に借金を申し込み断られ、約一年間農作業をしながら悶々と暮らしていた。そんなときに五星中学校の理科教員・李徳求先生が、彼自身の事情もあって、自宅など全財産を売り払って日本留学資金にと三百円の大金を用立てて下さったのであった。
桂応祥は、恩師が準備してくれた貴重な三百円で十年間異国生活をする計画を立て、二四才の春に日本へ渡ったのであった。
先ず東京の一年制正則英語学校に通い、次いで二年制の上野養蚕専門学校を卒業した。この頃起こった三・一独立運動のとき、朝鮮独立を扇動したとの嫌疑で東京日比谷警察署に十日間拘禁され、全州日本憲兵隊に移送され三十日間の拘留の後、釈放された。
はからずも故郷に帰った桂応祥は、《決心して行った道を中途でやめる訳にはいかない》と次男まで生まれていた家族と涙をのんで別れ、再び日本へ渡り、九州帝大入学試験を受け首席で合格した。本科入学に当たっては、彼が朝鮮人であること、特に三・一運動のとき拘禁拘留されたことなどを一部で問題視したが、無事入学できた。
・桂応祥は、朝鮮人としては初めて蚕業の高等教育を受ける
のだと、自分の学業が自分自身のための前に朝鮮のための
ものとならざるを得ないと鋭く感じたのであった。
桂応祥は、学業の継続を最優先するために、先ず最初に、故郷からの手紙、電報など郵便物が来てもそのまま預かって貰い、四年後卒業するときに渡して欲しいと下宿のおかみさんに特別に頼んだ。 次に、五星中学時期から続けている日課《一日二食、睡眠四時間、寝る前に必ず冷水摩擦》を厳守した。このようにして緊張を弛緩させないことが、想像することすら困難な貧困の中で、最大限の時間を絞り出し学業に専念出来る唯一の突破口なのであった。
このような苦学生活の結果、桂応祥は九州帝大蚕学部を首席で卒業し、田中義麿教授に請われ、研究助手として研究院に残った。
・学部卒業年(一九二五)に初めての小論文「蚕の背脈管運
動について」(九州帝大学芸雑誌一巻五号)発表し、また
研究院在籍五年間に五編の論文を発表した。
田中教授は、桂応祥の科学的資質を高く評価し第一番の弟子と認めたが、彼に合うポストを斡旋できず、満州の新京に新しく設立される農事試験場に推挙した。
・桂応祥は、教授が推挙したところだとしても、満州は中国
の一部分であって、どうして自分が日本人と同じ仲間に
なってそこへ行き召使いの役割をはたせようかと断った。
中国人留学生梁播傑は「南中国広東に一緒に行こう」と誘った。
・この申し出に桂応祥は、将来、彼がやろうとする独自的科
学研究にとってはこれ以上言うことのない理想的な所だと
認めたが、家を出て数十年経っており、またもや遠く離れ
た異国で、家族を放っておき他郷暮らしせねばならないと
思うと胸が張り裂けそうであった。
《満州試験場に行き我々と一緒に研究してこそ世界の最先端を究められるのだ》と勧告する田中教授の推挙を断って、一九三〇年五月広東に到着した桂応祥は、それから八年三か月もの長期間、この南中国最大の港湾都市・広東で科学研究事業に従事した。
中山大学農学部教授として「遺伝学」「蚕解剖生理学」などを教えると共に、中介農工学校蚕育種実験室を拠点にして中国各地で飼育されている数百種の蚕品種を収集し純系に分離した。そして、世界生物学界で達成された最新成果を利用し南中国に適応する蚕品種を数多く育種し、広く普及させた。同時に、先進的な蚕一代雑種体系を中国に全般的に導入するのに従事する新しい人材を育てた。
・こうして中介農工学校の実験蚕室は広東一帯の養蚕業を一
代雑種体系に転換させるのに重要な役割を果たした。
・中国で執筆された桂応祥の科学論文は中介農工学校研
究報告に体系的に発表された。
この時期、南京大虐殺の報に接するや広東市民達は激怒して、《日帝を打倒しよう!》のスロ-ガンを叫んで毎日のようにデモをやり、日本人商店を燃やし、日本人が目に付きさえすれば捕らえ火求めてあぶりにして殺すという報復行為までやってのけていた。
このような騒然たる雰囲気の中で桂応祥が大学の講義に出掛けようとして学生達に日本人教授と誤認され捕まり、《日帝の反動教授だ!間諜だ!》と火あぶりにされようとした。所用で出張していた
梁播傑が電報を受け取り、急遽帰ってきて、桂応祥が縛られていた薪丸太の山へ這い上がり身を挺してかばい救出した。
一九三八年夏、間近に迫った日本軍の広東侵入や中国四方で国内戦争ののろしが燃えたぎっている状態で、中介農工学校も安全地帯へ疎開せざるを得なくなった。日本軍の侵入を目前にして、桂応祥も梁播傑との協同研究を中止して故郷へ帰ることとなった。
・日本軍艦の広東港封鎖のため朝鮮行きの安全な船便を求
めてハイフオン、ハノイと渡り歩き、遂に香港で仁川行
き貨物船を捕まえた。
一九三九年二月、二十年ぶりに故郷へ帰ってきた桂応祥を待ち受けていたのは絶望だけであった。
・仁川埠頭に上がるやいなや日本官憲の黒い影にまつわり
つかれ、ソウル駅改札口で朝鮮総督府刑事に捕まって平
安北道警察部予審監房に移送された。中国で反日運動に
参加したとの嫌疑で、一か月半ばかり監禁され審問を受
けた後、釈放された。
・当局の意を受けた定州市内の紳士有志、官吏達が桂応祥
を駅前で大々的に歓迎し、歓迎宴会まで設けて定州原種
場技術主任就任を要請した。しかし、桂応祥はこれを
きっぱり断り、一人で研究事業をやるつもりだと宣言し
た。
一九四〇年初春、桂応祥は京畿道水原八達山の麓に小さな家を構えて研究事業を始めた。すると全国各地から蚕学科学を志す人が多数訪ねて来たのだが、その中に高等蚕糸専門の二年後輩である安相吉という青年もいた。彼は桂応祥の弟子になるんだと暇を見つけては訪ねて来ては、あれこれ手助けしてくれるのであった。
一九四三年夏、桂応祥は遂に生命力の強い新しい品種の家蚕育種に成功し《国蚕四三号》と命名した。だが、この《国蚕四三号》は水原農事試験場で開かれた優良品種選定審査会で、当局の圧力と安相吉の思いがけない背信もあって、《内鮮一体》をぼかしてしまう有害無益な品種だと烙印を押された。
科学で闘うしかないと思った桂応祥は、日本や中国で約十年間蚕を実験材料としてきた研究事業を総合して《桑蚕の繭の色と卵形の遺伝に関する研究》という論文を執筆し、九州帝大博士院に提出した。九州帝大教授協議会では桂応祥に農学博士学位を授けた。
しかし、桂応祥は、研究を続けるために必要な蚕に充分なだけ桑の葉さえやることが出来ないところまで追いつめられ、植民地科学者の悲哀を激しく嘆くばかりであった。
後編 宝石は輝いた
(第一章~第十、終章、一四八-三〇七頁)
解放直後、水原農事試験場で組織された自治委員会委員の総意によって場長に選挙された桂応祥は、大きな希望と抱負を抱き学究的な雰囲気で能率的に仕事できるよう試験場事業を組織運営していた。
・解放前、十年刑で西大門監獄に拘禁されてもメンデル・
モルガンの著書を手放さず勉強していた安東高等学校生
物教員鄭泰然を蚕糸部長に、小作しながら稗と稲を交雑
させる研究を重ね新しい稲品種を創っていた崔権を稲
栽培育種部長に迎えた。
・解放前、桂応祥を踏み台にして水原農事試験場雇員に朝
鮮人としてはただ一人抜擢採用され、蜂山場長に《一等
日本人》と称賛されるほど仕えた安相吉も自治委員全員
の反対にも拘わらず、彼もある意味では日帝の被害者な
ので寛大に改心する機会を上げようと庶務係長に採用し
た。
ところが解放後二ヶ月も経たないうちに、米軍が南朝鮮に進駐してきて、新しい国造りに邁進していた朝鮮人民に冷水を浴びせかけた。各地に澎湃として組織された人民委員会を解散させ軍政を布き、農事試験場も敵産として接収し、ジェイムス顧問を派遣してきた。
・解放後、鳴りをひそめ震えていた者達が救援者に会った
かのようにジェイムスにぶら下がり、安相吉もいつの間
にかジェイムスの通訳兼書記として振る舞いだした。
・ジェイムスは、自治委員会を解散させ鄭泰然、崔鶴権な
ど誠実にやってきた人達を追放して、安相吉を副場長に
任命した。
桂応祥は、こんな事態を李承晩に訴えれば解決できると信じソウルへ行くが、二日間もねばっても面会できず意識的に避けていると感じざるを得なかった。帰りに立ち寄ったソウル大学で李升基博士が教授職を解任されていたことを知って茫然自失してしまった。
南朝鮮がアメリカの軍政により日帝時代に逆戻って行く中で、自由な研究を続けられないと思った桂応祥は、父母妻子の居る北へ行く考えを何度もしたのだが、果たして共産制度がインテリを歓迎するだろうかとためらい動揺していた。
傲慢で自尊心の強いジェイムスは自分の手法に屈しない桂応祥の一挙一動を監視して網の目を張り巡らし束縛し支配しようと策動した。
・李承晩をして桂応祥に直接働きかけさせ桂応祥を取り込
む妥協点を探り出させようとしたが、きっぱり拒絶され
た。
・北から逃げてきて試験場を訪ねてきた蠡糺〔一緒に書
堂に通った幼友達)が桂応祥を訪問し、桂応祥の妻が土
地改革で土地を全部没収され義姉の家に身を寄せている
し、北へ行けば叩き出されるはずだ。今からでも君を
待っているようだから米国顧問官と和解してはどうかと
忠告するのであった。
・ジェイムス自身も桂応祥に米国製缶詰、粉ミルク、高級
バタ-などの贈り物を送ったり、ルイセンコの『遺伝性
とその変異性』という書籍を読ませようとしたりした。
・桂応祥の友達である樹民が訪ねてきて、ルイセンコの
本を読んでみたのかと感想を聞き、桂応祥の古典遺伝学
は北でも許容されないものであることは明白だから、
ジェイムスと妥協するしかないのだと忠告した。
・最後に安相吉が来て蚕糸部長の椅子を空けているので出
勤し、混乱に陥っている蚕業試験事業を収拾させて欲し
いと懇請したが、解放された国で科学研究事業をやろう
と努力していた鄭泰然のような人々を監獄に入れたり追
放したりした者とは一緒に仕事できないと、ジェイムス
の所へ行ってそう言えと拒絶した。
ジェイムスの最後の勧告もきっぱり斥けた桂応祥ではあったが、
動揺する気持を依然として払拭できなかった。
桂応祥は、八・一五解放まで自分自身が正しいと思い真実で正当だと確信した通りに生きてきた自分が、どうして解放後になって心が揺れ、自分自身の立場を確固たるものとさせられない状態になってしまったのかと思い悩むのであった。
こんなときに桂応祥は、金日成将軍が直接彼に送ってくれた総合大学教授招請の委嘱状を手にして、越北することを決断した。
・耳にたこができるほど聞いた反共宣伝によって、社会主義
制度とは打倒と清算、ぞっとするほど恐ろしい独裁と人間
の個性を踏みにじる缶詰のような共同生活などが支配する
社会なのだと、歪曲された漠然としたイメ-ジしか思い浮
かぶものはなかった。
だがこれらは風聞にすぎないもので、確実なことは倭奴
どもが話だけ聞いても怖れおののき震えた伝説的な名将金
日成将軍が委嘱状を直接彼に送ってくれたことだ。
・金日成将軍が政治に携わられ、労働者農民が主人公となっ
た制度だというから、そこでは倭奴の代わりに洋奴どもを
据えておき此奴らの威張りくさった仕草通りぺこぺこする
ような、そんな姿は見なくてすむだろう。
・ルイセンコの学説が北で採用されたとしても、自分がやっ
ている学問が朝鮮の蚕業のためのものだから投げ捨てられ
るわけがない。
越北した桂応祥は、総合大学教授に任命されると同時に国立中央蚕業試験場・場長の仕事まで兼務することとなった。
・金日成将軍は、桂応祥が百五十余種の蚕品種を持ち帰って
きたことを高く評価されながら朝鮮の蚕業発展のための方
策について訊ねられた。そして《国の蚕業をわが人民自身
の力でやらねばならない》と強調し、一科学者に国の蚕業
の将来を任せるとまで言われ、《協力して一緒に仕事しよ
う》と激励された。
・桂応祥は熱くなったまなざしで将軍を仰ぎ見た。わが人民
自身の力でやらねばならないと力をこめて強調される将軍
の言葉が、応祥の胸を容赦なく揺り動かしたのだ。まさに
この言葉の中に彼の畢生の願いが込められていたのであっ
た。
今や、煩悩と苦悶いっぱいで身震いしていた植民地イン
テリの身の上から完全に解放され、これから思う存分安心
して仕事できると確信した。
・春秋には中央蚕業試験場で研究事業をやり、冬には大学に
行き教授として学生達を教えた。
・日帝時代のヨヲヤラ蚕業出張所を国立中央蚕業試験場に改編
する大々的な改築工事を直接指揮して中央蚕業究機関を現
代的水準で建築するようにした。
試験場で育種して把握できたオモニ種子だけを原種場を
通じて農民達に普及する科学研究機関を中枢とする蚕種唯
一普及体系が整えられ、把握されない乱雑な雑種などが姿
を隠し、勢いの良い一代雑種蚕だけが農民の手に入り始め
た。
・一九四八年二月、共和国博士学位第一号を授与され、同時
に《国蚕四三号、四七号》など蚕品種改良での功績により
模範働き手一級表彰状も授与された。
一部の事大主義者たちは、ソ連農業科学院総会(一九四八年七月三一日~八月七日)でテ、デ、ルイセンコが勝利宣言をして以来、
このソ連でのルイセンコ旋風を共和国に持ち込み、桂応祥を頑固なメンデル・モルガン主義者だと攻撃してきて、桂応祥の研究事業と中央蚕業試験場は一大危機に陥った。
・ソ連では古典遺伝学的方法が完全に除去され、教育分野で
は古典遺伝学講義は禁止されミチュ-リン主義だけが教え
られた。
農業省蚕業局崔レネ局長を責任者として筴民教授(中央蚕業取締所長兼任)を副責任者とする検閲グル-プが中央蚕業試験場にやってきて、桂応祥によってメンデル・モルガン式《反動学説》がどれほど広められているのかを明らかにして、至急に対策を立てなければどんな事態が起こるかわからない反動の巣窟だという総括報告書を作成し、中央試験場を解体しようとした。
その一方で、ロム鵁マウ育省副相を責任者とする指導グル-プは元山農大を指導し、桂応祥の講義内容を政治的に問題にして訂正講義を組織し学生のノ-トまで回収し、桂応祥を学部長職から解任した。ラン�獻学長は、《桂応祥教授は金日成将軍が自ら南へ人を派遣され任命された人であるから、将軍以外には彼を解任することはでない》と言って、身を挺して抵抗し教育省令発給の解任通知書を破り捨てた。
指導グル-プは、学部教職員学生全員参加の研究討論会を開き思想闘争を組織した。
・先ず最初にロム副相が、最近二年間農学部で《反動学説》が
おおっぴらに講義された内容を指摘しその後遺症として学
生達の中に現れた不純な傾向を暴露した。その不純な傾向
の代表的な実例として挙げられた崔弼浩学生が最初の討論
者として指名された。
・崔弼浩学生は、桂応祥教授の仕事を検討してみようと中央
試験場まで出掛けて行き、メンデル・モルガン主義巣窟の
正体を暴こうと蚕解剖生理室や原種部に入り自分の目で確
かめたのだが、反動的なものは何もなかった。むしろ百余
種の蚕品種を純粋の品種に分離している素晴らしい光景に
感動してしまったと言って、試験場に行き自分の目で見て
桂応祥教授が反動なのか愛国者なのかを論じてもらいたい
と結んだ。
・指導グル-プは、唖然として顔色を変えたがどうすること
も出来ず、討論会は目的したもととは異なり完全に破綻し
てしまった。次の日、大学正門掲示板には省指導グル-プ
名義で崔弼浩学生を退学させるとの公示が張られた。
ラン�獻学長の話を聞かれた金日成将軍は、蚕業局から上がってきた試験場検閲総括報告書も見た後、ロム副相を呼んで元山農大へ行き指導した事業報告を求められた。副相の話を最後まで注意深く聴かれた将軍は、私も少し研究してみたと言って、ソ連生物学界で二つの遺伝学が鋭く対立したのはその国の特殊な事情で生じたのものであって、そのことと桂応祥先生の理論がどんなものなのかとは別個の問題なのだ。科学的論争を社会学的に分析して政治的非難の根拠にすることには反対する。科学的論争に対してはどこまでも認識論的な論議と見るのが正しいのだ、と言われた。
・ロム副相は依然として桂応祥の理論が反動的であれば当然の
制裁を加えなければならないと主張した。
将軍は、それでは問題を解明するため蚕業局長も連れて
試験場へ一緒に出掛けようと言われた。
金日成将軍は、試験場を桂応祥教授の案内で見まわり深く感動された。桂応祥教授の理論では生物体の本性を把握できず育種することもできないと誹謗中傷した人もいるが、事実はその理論に基づいて新しい生物育種の無限の可能性が開かれており、実際試験場で育種された《国蚕四三号、四七号》が農民達から絶賛されている。このような功績を上げた科学者をどうして反動学者というのか、とロム副相達を鋭く追及された。
・桂応祥学部長は、再び大学に帰って遺伝学講義をすること
になり、崔弼浩学生も復学した。
・ロム副相は、将軍の前では自分の過ちを全部認めると言った
が、最後には新遺伝学が勝つと堅く信じて筴民教授に新
遺伝学講義を同じ比重でするようにした。
一九五〇年六月二十五日早朝、米帝侵略者がわが国で引き起こした戦争は、学界で日々に深刻化していったこの論争の火花を一時衰えさせた。
・七月中旬のある日、米軍爆撃機三畿が遉ラ」ヘ鱇」方面から
まっすぐヨヲヤラ街路へ急降下し試験場にロケット砲弾を撃
ち込んだ。そのため二棟の火に包まれ一瞬のうちに灰に
なってしまった。桂応祥は蚕原種や実験設備などを疎開さ
せた。
・桂応祥も、疎開した村はずれの農家を借りてただの一日も
欠かさず研究事業を続けた。
例年通り元山農大へ講義しに出掛けた桂応祥は、敵の爆撃による清川江鉄橋の破壊と籤、价への敵落下傘部隊の投下によって、行くことも戻ることもできず包囲されて、山をつたって定州に住む兄の家へ逃げ込んだ。
・その頃米軍情報将校ジェイムス(水原試験場顧問)は安相
吉を連れ北進する米軍に従って、桂応祥博士を掴まえよう
と《治安隊》を道案内に定州に迫っていた。
平安北道党委員長は、金日成将軍から桂応祥博士救出命令を受けて、直ちに道安全局内務員達を派遣し、間一髪の差で安相吉どもが捕まえ桂応祥を救出した。
・桂応祥は、戦時中も研究事業を続け国蚕新一一五号、柞蚕
五四号などを育種して戦後の養蚕業発展に備えたし、『柞
蚕学』執筆も続けていた。
一九五二年十二月一日、科学院開院式が開かれた平壌モランボン地下劇場は全国各地から集まってきた科学者達で活気に満ちていたた。
・桂応祥は、ソウル解放後、将軍の招請を受けて越北し平安
北道に準備された研究室でビナロン工業化の研究をねばり
強く展開していた�羂ミ試mと六年ぶりに会い、深い感懐
に浸って話を交わしていた。
・解放後大学を終えた最初の世代の科学者である崔弼浩達も
集まっていた。
・会場の隅には、傍聴者として参加していたロム鵁マ尅鰍ニ
尺縞カノトケ、ャ、メ、ス、メ、スマテ、靴討い拭?錣?颪能蕕瓩徳反イbr> れる農業科学研究所長に将軍の教示により桂応祥博士が任
命されると聞いて、他の社会主義国では新遺伝学者が任命
されているのにと驚くのであった。その後も、大国の権威
を信じて、必死に桂博士の主張を敬遠視し中学校や高等教
育機関で《新遺伝学》を教えるようにした彼等はその職責
から解任された。
一九五四年初秋、蚕学研究所長桂応祥博士と蚕業局長肓�、蚕
業局技師長は、内閣庁舎会議室で金日成将軍と同席して戦後の蚕業を急速に発展させるための問題を討議していた。二年内に操業される絹紡織工場で必要な蚕繭量確保の問題であった。現在の家蚕と柞蚕生産量を最大限に引き上げる対策と同時に、トウゴマ蚕をわが国で飼育することが重要な鍵であることが討議された。
・蚕業局長は、温泉周辺に温室をつくるとかトウゴマ蚕飼育
に必要な条件をみな整えれば、直ちに生産に導入すること
は可能だと思うと話した。
・桂応祥は、蚕に必要な条件を作ってやることだけでは十
分ではないのであって、わが国で適応した生活力の強い
蚕にしてのみ群として育てられると主張した。
金日成将軍は、それでは先ず家蚕と柞蚕に集中し、トウゴマ蚕も研究事業を深化させ、一日も早くわが国の蚕を創るために力を入れなければならないと結論された。局長に、桂応祥先生とよく討論して蚕繭生産をぐんと高めるよう仕事を組織せよ、と言われた。
・局長は、将軍が一枚のトウゴマ蚕を飼って十二キロ五百グ
ラムの繭を採られたこと---将軍のその飼育資料はどんな
科学実験よりも貴重だ。将軍が望まれることについては出
来るかでないかを論じるのではなくて、どうしたらそれを
やり遂げられるかを論じなければならないと言って、今年
からトウゴマ蚕を大々的に飼うようにすると断言した。
・桂応祥は、もちろん局長が決断すればトウゴマ蚕を飼うよ
うに決定できるだろうが、自分は決定的に反対すると非常
に厳しい表情をした。将軍が送ってくれた貴重な蚕である
からこそ科学的に厳密に検証して、一点の疑問もなくして
初めて生産に導入できるのだと主張した。
局長は、桂応祥の反対にも拘わらず、行政権によって順川原種場にトウゴマ蚕の元原種を多量生産させ協同農場や農民達に送るように指示した。
原種場で局の指示で本格的に出し始めたトウゴマ蚕卵が初期しばらくの間は、協同農場などでよく育っていた。だが、何日か経つとトウゴマ蚕が軟化病に罹り死んいっているとの報告が各地から伝えられてきた。
局長は、将軍の前で蚕業部門にうち立てられた科学技術指導体系を無視して自分の主観的欲望をその上に上げてしまうという情けない行動をとったと自己批判した。
その時から二年後、ついに桂応祥博士は、染色体数が互いに異なる蚕の性質を一つに集めて原産地のトウゴマ蚕にはない、さなぎで冬を越すことのできる新しい蚕を育種するのに成功した。将軍は、この貴重な研究成果をたいそう喜ばれ、トウゴマ蚕を大々的に飼育することについての内閣決定第十八号を採択するようにされた。
戦後年間は桂応祥博士の生涯において豊饒な時期であった。
・一九五七年、桂応祥博士はある国の農業科学院の招請を受
けて帰ってくる途中、モスクワに立ち寄りルイセンコと会
い遺伝学についての見解を率直に話し合い論戦しょうとし
たが、ルイセンコは育種事業で雑種強勢現象を利用するこ
とに反対しないと言い、桂応祥がやっている研究事業につ
いて一言も否定しなかったばかりか、今後それに注目し重
視すると言った。
桂応祥博士は、国蚕二〇八号、五六号、一四七号、一四五号など世界で最も優秀な一代雑種の家蚕新品種を育種してきたし、最初の原種に比べて一倍半の重さがある一代雑種の柞蚕五八号も育種した。何よりも原産地がインドのアッサムである熱帯地方のトウゴマ蚕をわが国の柞蚕と交雑させる種間交雑に成功して、温帯地方に適応したトウゴマ蚕を初めて創りあげたのだ。
・一九六〇年九月九日、桂博士は《人民賞》を受賞した。
桂応祥博士は、六六才の老年になって、彼の研究事業が年が経つにつれて党の活動と深く連結されていったことを認識して朝鮮労働党に入党した。
・一九六四年、中国北京での世界生物学者大会に参加して、
蚕体解剖論文発表し高く評価された。
一九六四年十一月、桂博士の古稀に当たって《労力英雄》称号が授与され、金日成将軍から古稀を祝賀して祝膳が親筆を添え贈られてきた。親筆には、次のように書かれていた。
『ひたすら祖国と人民のための桂応祥先生の高貴な科学研究事業で、より一層の成果を上げられんことを衷心から望んでいます。』
一九六七年四月二五日、最高人民会議常任委員会第三期七次会議に参加した桂応祥博士は、試験場へ帰っていく途中、彼の乗った乗用車が曲がり角の横道から急に出てきた雄牛に引かれた荷車を避けきれず衝突し、荷車のくびきが思索に耽っていた桂応祥博士の額を容赦なく打った。享年七三才であった。
『実験遺伝学者 桂応祥の生涯
|植民地・解放・自立民族経済建設のはざまで|』
前編 さすらいの旅人(一~一四七)
後編 宝石は輝いた(一四八~三〇七)