無題

「広辞苑」の歴史認識を問う(その2)

~朝鮮関係の記載記事•解説における偽造、隠蔽~

 

 

成大盛

はじめに

前号(社協京都会報13号)で<豊臣秀吉の朝鮮侵略>事項の掲載にあたって,その見出し語「朝鮮征伐」「朝鮮出兵」の解説文を第1版(1955年刊)から最新の第6版(2008年刊)までを検討して得た結論は、「広辞苑」が朝鮮蔑視を核とする皇国史観にどっぷり浸かっているということであった。

今回(その2)として、ひき続き朝鮮関連項目を検討する。

1.「任那」

「辞苑」(1935年刊)での説明文;

古代朝鮮半島の南部にあった一国。隣国新羅の為に圧迫され,崇神天皇の

朝,使いを以て日本の救援を求めた。日本は鹽乗津彦命を任那に駐在せし

めて、これを保護し、神功皇后の三韓征伐後日本府を任那に置かれた。然し

それ以後任那は次第に蠶色され、日本府も権威を失い,欽明天皇の23年

日本府は滅亡し、日本の半島政策は空に帰して了った。

 

*1955年に第1版が初めて刊行されて以来2008年に第6版まで一貫しているのは、このような皇国史観による任那•日本府の存在,任那滅亡の説明文を基本的には肯定し、説明•表現の仕方をいろいろと工夫したりしてきただけだと言える。第1版からの説明文を順次に以下に見てみる。

 

第1版;上代、朝鮮半島の南部にあった一国。始祖は金首露。隣国新羅に圧迫され、

崇神天皇の代,我国の救援を求めたので塩乗津彦命遣わしてこれを保護。

神功皇后の三韓征伐後、日本府を置く。後に任那は外敵に攻め込まれ、

欽明天皇の23年日本府滅亡.伽羅. 伽椰

 

第2版;3〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった国。崇神天皇の代に我が国は

塩乗津彦命遣わしてこれを保護国とし、日本府を置いた。のち次第に

高句麗•新羅などに圧迫され、562年滅亡。伽羅. 伽椰.→日本府。

第2補訂版;(第2版と同じ)

 

第3版;4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった国。加羅の諸小国の連合国家で、

任那加羅ともいい、4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り,日本府という

軍政府を置いたというが、やがて北の高句麗矢東の新羅などに圧迫され、

562年滅亡。加羅. 伽椰。

 

第4版;4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった国。加羅の諸小国の連合国家で、

任那加羅(金官)ともいい、4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本

書記によれば、日本府という軍政府を置いたというが、これについては定

説がない。やがて北の高句麗や東の新羅などに圧迫され、562年滅亡。

伽羅。伽椰。にんな。

第5版;4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。実際

には同諸国うちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書

記では4世紀後半に大和朝廷の支配下に入り、日本府という軍政府を置

いたとされる。この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同

盟を結んだ倭•大和朝廷の使節団を指すものと考えられる。にんな。

→伽耶

第6版:(第5版と同じ)

 

*以上、一読して解るように、皇国史観による、「辞苑」での説明文を、あれこれ加工し、あたかも史実であるかのように書き変え、「日本書紀では」とか,「定

説ではないが]を挿入することで少なくとも史実の一端ぐらいは反映されてる

かのような印象づけしているだけである。

 

2.「耳塚」

*1955年刊の「広辞苑」第1版から第8版(2008年刊)まで,「辞苑」(1935年刊)の説明文で事足れりと以下のごとく転用している。

 

「辞苑」;京都市東山区の豊国神社の前にある塚。朝鮮の役に、諸将が討ち取った 敵の耳(実際は鼻とも伝う)を切り取り、これを塩漬けにして秀吉の検分に供したのを秀吉が命じて埋めさせ、供養したものであるという。

「第1版」;京都市東山区の豊国廟の前にある塚。文禄•慶長の朝鮮の役に諸将が敵の耳(鼻とも伝う)を切り取り塩漬けにして秀吉の検分に供したのを、秀吉

が命じて埋めさせ供養したという。

*「第2版」からは「先行の版」の説明文の中で改変している語句だけを記す。

「第2版」;文禄•慶長の朝鮮の役⇒文禄•慶長の朝鮮征伐。

「第2版補訂、第3版」;文禄•慶長の朝鮮征伐⇒文禄•慶長の役。敵⇒敵兵。

「第4、5版」;秀吉が命じて埋めさせ供養したという⇒埋めて供養したという。

「第6版」;(辞苑との比較のため全文掲載する)

京都市東山区の豊国廟の前にある塚。文禄•慶長の役に、諸将が敵兵の耳

(鼻とも伝う)を切り取り塩漬けにしたものを秀吉が検分し、埋めて供養

したという。

 

*「辞苑」(1935年刊)と「第6版」(2008年刊)の説明文の変化比較。

①豊国神社⇒豊国廟、

②朝鮮の役⇒文禄•慶長の役

 

③諸将が討ち取った敵の耳(実際は鼻とも伝う)を切り取り

⇒諸将が敵兵の耳(鼻とも伝う)を切り取り

④これを塩漬けにして秀吉の検分に供したのを秀吉が命じて埋めさせ、供養したものであるという。⇒塩漬けにしたものを秀吉が検分し、埋めて供養したという。

 

*以上の説明文変化の意味するところ

①神社とは,<神道の神を祀るところ>で、廟とは<祖先の霊を祭る所>なので,豊臣秀吉を<神道の神>の位置から<祖先の霊>に戻したのだ。(「第1版」から)

②<役>とは<(人民を徴発するからいう)戦争>なので<朝鮮の役>とは、朝鮮の戦争を意味する。<朝鮮の役>がいつ?文禄•慶長のときなので<文禄•慶長の朝鮮の役>としたのが「第1版」である。「第2版」では<文禄•慶長の朝鮮の役⇒文禄•慶長の朝鮮征伐>としたが、「第2版補訂版」から「第6版」まで<文禄•慶長の役>としている。

<朝鮮の役>では、朝鮮での戦争なのか,朝鮮との戦争なのか。また侵略戦争なのか、防衛戦なのかが明確でない.それ故「第2版」で<文禄•慶長の朝鮮征伐>と修正したのだろう。

これで文禄•慶長時代の朝鮮侵略だと明確になったとは言える。

しかし、この説明文では、侵略の不法•不当性という観念はなく「侵略」したことを誇示している。第2版での「長曺我部元親」項目で、「辞苑」では「文禄の役で功あり」と記されているのを「文禄の朝鮮征伐で功あり」と、<⇒朝鮮征伐>と徹底さしている。「第2版補訂版」で秀吉の朝鮮侵略項目を「朝鮮征伐」から「朝鮮出兵」に修正し、「豊臣秀吉の領土的野心よる,両度の朝鮮への侵攻」と解説したが、「日本では朝鮮征伐、朝鮮では壬辰•丁酉の倭乱と呼ぶ」と続けている。「朝鮮征伐」という語句を何としても残したいということなのであろう。「日本では朝鮮征伐」というならば何故、見出し語「朝鮮征伐」を「朝鮮出兵」に修正したのか(「朝鮮征伐」とはあからさまな朝鮮蔑視表現であるからか?)、見出し語<朝鮮出兵>、解説での<朝鮮征伐>というパターンは「第6版」までそのまま固執している。

広辞苑で見出し語「皇国」は,•「辞苑」での説明文「天皇の統治し給う我が日本帝国。すめらみくに。」を基本的に踏襲している。

「第1版」;我国の異称。天皇の統治の国の意。すめらみくに。

「第2版」;わが国の異称。天皇が統治の国の意。すめらみくに。

「第3版」;(天皇が統治の国の意)わが国の旧称。すめらみくに。

「第4版」;(天皇が統治の国の意)わが国の旧称。すめらみくに。

「第5、6版」;天皇の統治の国の意。すめらみくに。

そして「第4版」から、(「第5版」、[第6版]でも同じく)小見出し[皇国史観]が添付され、以下の如く解説されている。

「国家神道に基づき,日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観。(「近世の国学などを基礎にして」([第6版]のみ)15年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め,国民の統合•動員に大きな役割を演じた。)

この皇国史観に基づき編纂され、国民の統合•動員に大きな役割を演じた「辞苑」であったからこそ、昭和10(1935)刊行の「初版」から重版に重版を重ねたのだ。この認識が広辞苑には欠如していると思われる。

広辞苑は,これまでみてきた項目「朝鮮征伐、朝鮮出兵」「任那」,「耳塚」の説明文は皆、基本的に「辞苑」に依拠しており,文章をいじって表現方法を変え、「ことがら」の本質を曖昧にしたものが多い。

だから,この「耳塚」項目での③<諸将が討ち取った敵の耳(実際は鼻とも伝う)を切り取り>を検討してみると、「敵」とは具体的に誰なのか、向かい合って闘った朝鮮兵だけなのか、逃げ惑う朝鮮民衆も含まれているのか,日本や朝鮮に残された資料(軍記、日記など)•研究書などから解るものと思われるが、広辞苑は「敵」は「敵兵」だとしている。<敵兵の耳(鼻とも伝う)を切り取り塩漬けにしたものを秀吉が検分し、埋めて塚を築くのは秀吉の力を誇示したいからではないか。だが④<供養したという。>のでは、秀吉の朝鮮侵略の非道、残酷さを隠蔽していると断ぜざるを得ない。

 

3.「日清戦争」

 

「辞苑」では皇国史観そのまま、清国との戦争は朝鮮の独立と東洋平和のためだとうそぶき,連勝し3国干渉で遼東半島は還付せざるをえなかったが、清国から台湾•澎湖島など領土を割譲させ賠償金(庫平銀2億両)をせしめたことを誇示している。原文そのまま以下に引用する。

 

「辞苑」;明治27年から28年に亘って我が国と清国との間に行われた戦争。清国が韓国を属邦視し、駐韓公使袁世凱が東学党の乱に救援の兵を出したのに原因し、我が国は朝鮮の独立と東洋平和の為に止むなく出兵開戦した。即ち明治27年7月25日の豊島沖の海戦,同27日の牙山の戦となり、遂に同8月1日宣戦の大詔煥発。我が国は陸に海に連戦連捷、北京を衝くの勢を示したので,敵は和を請ふに至り,翌明治28年4月17日下関に於いて講和条約(下関条約)を締結した。その要点は、清国は、朝鮮の独立国たるを承認し,遼東半島•台湾•澎湖島を割譲し,庫平銀2億両を日本国に支払うことであった。ただし遼東半島割譲は、独•仏•露の干渉によって之を清国に還付することとなった。

 

*この「辞苑」の「皇国史観そのまま」の説明文を、日本敗戦後10年も経過して(「戦後その改訂版の長所を保存し、短所を除去し,内容形態共に新時代の要求に応ずる必要上、根本的修正と増補とを施」(自序)したという1955年刊行の「第1版」で、どんな「根本的修正」がなされたであろうか?表現方法を変えただけで基本的に同一内容なのだ。「根本的修正」する必要を感じなかったのだ。「辞苑」と同じ歴史認識だということである。原文は以下の如し。

  

「第1版」;明治27、8年、我国と清国との間に行われた戦役。韓国の東学党の乱に清国が出兵したのに対し,我国もまた韓国の独立と東洋平和のためとして出兵、27年7月の豊島沖海戦、及び牙山の戦となり、同8月1日宣戦。連勝して北京を衝く勢を示した結果、清国は和を請い、翌28年4月下関で講和条約を締結。清国は、韓国の独立を承認し,遼東半島•台湾•澎湖島を割譲し,庫平銀2億両を支払った。

 

 

*「第1版」刊行から14年後に「第2版と言いながら全く新しい辞典」(p5)だとして刊行された「第2版」(1969年刊)、それから7年後「内外社会の変動に応じて—最小限度の補訂(p5)をした「第2版補訂版」(1976年刊)、「第2版発刊以後さらに10余年間の諸科学の成果を吸収•集約し、社会生活の変動を反映して面目を一新した」(p7)と自負された「第3版」(1983年刊)、それから8年後「第3版所収項目に全面的な加筆訂正を施し」(p9)たとされた「第4版」(1991年刊)、またその後7年経過して「国語項目、百科項目とも社会生活上の大きな変動に即応した全面的改定」(p8)がなされたという「第5版」(1998年刊)、それから10年後、「第5版刊行後10年を経て新版を世に問う」(p3045)とした「第6版」(2008年刊)が

刊行された。(ページ数は各版の序文•後記)

以上のように「第1版」刊行から実に53年間に6度も改版されたが、「辞苑」での説明文を基本的に固守し,この53年間の研究の成果(内外研究者による新資料の発掘、その究明による皇国史観克服成果など)を反映させているかのように、「韓国の独立と東洋平和のため」を削除(第2版から)し、「居留民保護などを名目」(第3版から)に変更したが、「第5、6版」では削除し戦争の経過だけを記述している。この戦争の原因•結果を曖昧にしている。下関条約を繙いたとしても日清戦争が朝鮮を穫るための帝国主義戦争だと認識できようか!? 以下に原文をそのまま引用する。

 

「第2版」;明治27〜8年、わが国と清国との間に行われた戦争。韓国の東学党の乱に清国が出兵したのに対し,わが国もまた居留民保護などを名目に出兵、27年7月の豊島沖の海戦となり、同8月1日宣戦。わが国は平壌•大連などで勝利し、翌28年4月講和条約を締結。→下関条約•三国干渉。

 

「第3版」;1894〜95年(明治27〜8)わが国と清国との間に行われた戦争。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)に清国が出兵したのに対し,わが国も居留民保護などを名目に出兵、94年7月の豊島沖海戦となり、同8月1日宣戦。わが国は平壌大連などで勝利し、翌95年4月講和条約を締結。→下関条約•三国干渉。

 

「第4版」;1894〜95年(明治27〜8)わが国と清国との間に行われた戦争。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)に清国が出兵したのに対し,わが国も居留民保護などを名目に出兵、94年7月の豊島沖海戦となり、同8月1日宣戦。わが国は平壌•黄海•大連などで勝利し、翌95年4月講和条約を締結。→下関条約•三国干渉。

 

「第5版」;1894〜95年(明治27〜8)わが国と清国との間に行われた戦争。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに94年6月日本は朝鮮に出兵し、同じく出兵した清軍と7月豊島沖海戦で戦闘を開始、同8月2日宣戦布告。日本は平壌•黄海•旅順などで勝利し、翌95年4月講和条約を締結。→下関条約•三国干渉。

 

「第6版」;「第5版」と同文

 

4.「竹島」

 

—「辞苑」(1935年刊)には記載されていなかったが、その「辞苑」を「根本的修正」したという1955年刊の「広辞苑」第1版から領土問題係争中の「竹島」が採択記載され、日本の固有領土なのだと印象づけようと以下の如く解説している。

 

—「広辞苑」第1版から領土問題係争中の「竹島」が日本領土だと印象づけるための説明文は①、②に分けられている。各版でその①がまた第1、2段に分けられている。

*大見出し「竹島」の説明文の構造 ①—第1段

-第2段

②鬱陵島の別称。

 

大見出し「竹島」の説明文の構造のうち ①の第1段の説明文をみる。

「第1版」 <隠岐国(島根県)の属島。二つの小島と数十の小磯から成る。>

「第2版」「第2版補訂版」<隠岐の島北西方,日本海にある島。>

「第3、4、5、6版」では、<隠岐諸島北西方、日本海にある島。わが国では古くから知られ>

*「第1版」では<隠岐国(島根県)の属島>と解説してみたが,島根県に属していないことが明白なので「第2版」「第2版補訂版」では<隠岐の島北西方,日本海にある島>と説明することによって<日本海>にある島なのだから日本の島だと言うのであろう。また2段目の解説とも関連させ、「第3、4、5、6版」では<わが国では古くから知られ>ている日本海にある島だと強弁しているのだ。

①の第2段では

「第1版」<嘉永2年フランス船リアンクール号発見、リアンクール岩と命名したが,明治38年我国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。>

「第2版」「第2版補訂版」では、< 1849年フランス船リアンクール号が発見、リアンクール岩と命名したが,1905年わが国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。>

「第3、4、5、6版」では、<また、1849年フランス船リアンクール号が発見、リアンクール岩と命名したことにより,ヨーロッパにも知られた。1905年(明治38)島根県に編入。大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。>

*この①の第2段では、1849年フランス船が来て「日本海にある」「日本では古くから知られた日本海にある」島を新発見したかのようにリアンクール岩と命名」したので1905年(明治38)島根県に編入した。朝鮮の日本帝国による植民地化完成段階であった1905年に、島根県に編入したということになり,かって植民地であった国と係争中なのであるから日本領土だという根拠づけとしては弱すぎる。

、と思ったのか、第2版からは「竹島」の解説の二つ目として②「鬱陵島の別称」だと解説し,その上「竹島」の小見出しに第1、2版にあった「竹島百合」に加え第3版から第6版まで「竹島事件」を記載説明している、以下の如く。

「竹島」(第2版)

①隠岐の島北西方,日本海にある島。1849年フランス船リアンクール号が発見、リアンクール岩と命名したが,1905年わが国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。②鬱陵島の別称。——ゆり(竹島百合)ユリ科の多年草。鬱陵島の原産。地下の鱗茎から1メートルに達する茎を出し、数花を頂生する。花は少しく下向、黄色で内面に暗紅色の細毛がある。観賞用。

以上の第2版での「竹島」記載説明文に加えて第3版では、「竹島」のなかの小見出しをもうひとつ追加し②鬱陵島の別称。に続けて以下の如く、小見出し「竹島事件」を記載し解説している。

——じけん(竹島事件)竹島(鬱陵島)に渡航した石見浜田の廻船問屋会津屋八右衛門が異国渡海の罪で1836年(天保7)で死刑となり、藩主松平康定は奥州棚倉に左遷された事件。

 

*大見出し「竹島」の説明文の構造 ①—第1段

-第2段

②鬱陵島の別称。

(小見出し)——じけん(竹島事件)

——ゆり(竹島百合)

こうして出来上がった大見出し「竹島」の説明文の①②、とりわけ②で竹島が鬱陵島の別称だと言い、次いで小見出し<竹島事件>の説明文;「——じけん(竹島事件)竹島(鬱陵島)に渡航した石見浜田————————」を読むと,竹島は日本と古くから関わりのある日本の固有領土だなあと印象づけられる。竹島が鬱陵島の別称であり鬱陵島が日本の固有領土であれば,その通りなのだ。ところが、広辞苑の第1版から第6版まで鬱陵島が日本の固有領土であると説明していない。

*「第1版」[鬱陵島] 朝鮮半島の東方、日本海にある火山島。主島の面積73方キロメートル、人口1万。附近は漁業の中心。

*「第2版」「第2補訂版」「第3版」[鬱陵島] (Ul-rung)朝鮮半島の東岸から東方約160キロメートルにある火山島。漁業の根拠地。わが国では磯竹島•竹島•松島などと呼んだ。

*「第4版」[鬱陵島] (Ullrungdo)朝鮮半島の東岸から東方約140キロメートルにある火山島。漁業の根拠地。わが国では磯竹島•竹島•松島などと呼んだ。

*「第5版」「第6版」[鬱陵島]⇒ウルルン•ド

*「第5版」「第6版」ウルルン•ド[鬱陵島] (Ullrungdo)朝鮮半島の東岸から東方約140キロメートルにある火山島。慶尚北道に属する漁業の根拠地。日本では時代により磯竹島•竹島•松島など異なった名称で呼んだ。

以上、広辞苑は何とかして竹島が日本固有の領土なのだと言い繕うがため、いろいろ工夫をこらして説明しょうとしたが失敗したのである。

そして仕方なく広辞苑「第5版」で、やっと鬱陵島が「慶尚北道に属する」と記したのである。ところが「竹島」の記載説明文では、①説明の最後部分「——大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。」に続いて「面積0•2平方キロメートル」を挿入し、そのすぐ後に②鬱陵島の別称と続けている。「面積0•2平方キロメートル」を書き加えれば、鬱陵島が慶尚北道に属しても、隠岐国(島根県)の属島でもないが、日本の固有領土だと印象づけられるということなのか?!日本的な、あまりにも日本的な所作というほかない。

(科協京都支部常任顧問)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5.「明成皇后」

 

 

 

*「広辞苑」第(1、2,2補訂版、3、4,5、6)版を ⑴、⑵、(2補)、⑶、⑷、⑸、⑹と記す。

 

 

 

 

明成皇后

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「竹島百合」;ユリ科の多年草。鬱陵島の原産。

「竹島事件」;竹島(鬱陵島)に渡航した石見浜田の廻船問屋

会津屋八右衛門が異国渡海の罪で1836年(天保7)で死刑

となり、藩主松平康定は奥州棚倉に左遷された事件。

 

 

 

 

「竹島百合」;ユリ科の多年草。鬱陵島の原産。

「竹島事件」;竹島(鬱陵島)に渡航した石見浜田の廻船問屋

会津屋八右衛門が異国渡海の罪で1836年(天保7)で死刑

となり、藩主松平康定は奥州棚倉に左遷された事件。

 

 

 

 

 

 

「竹島」が鬱陵島の別称

「竹島事件」

 

②(第1版)嘉永2年フランス船リアンクール号発見、リアンクール岩と命名

したが、明治38年我国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。

(第2版)1849年フランス船リアンクール号が発見、リアンクール岩と

命名したが、1905年わが国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。

③(第1版)大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。

(第2版)大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。

ここまでは、ほぼ同じのようであるが,以上3点に加えて,第2版では新しく④点目「欝陵島の別称」を付け加えている。しかも第2版以降「面目を一新した新版」だとして版を重ねてきた第6版(2008年第1刷刊)まで引続き挿入されている。

欝陵島が日本国に属する島なのであれば、①のように「もってまわった言い方」をする必要がないし、②のようにフランス船リアンクール号がどうこうしても慌てて[わが国では古くから知られ]とか、「改名して隠岐に属せしめ」る必要がないのである。また第3版(1983年刊)から付け加えられた竹島事件の記載も必要がないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1版(1955年刊)と第2版(1969年刊)の解説を較べてみれば,ほぼ同じようである。その要点は,

①(第1版)隠岐国(島根県)の属島。二つの小島と数十の小礁から成る。

(第2版)隠岐の島北西方、日本海にある島。

②(第1版)嘉永2年フランス船リアンクール号発見、リアンクール岩と命名したが、明治38年我国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。

(第2版)1849年フランス船リアンクール号が発見、リアンクール岩と命名したが、1905年わが国は竹島と改名して隠岐に属せしめた。

③(第1版)大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。

(第2版)大韓民国独立後、その領土権を主張して係争中。

ここまでは、ほぼ同じのようであるが,以上3点に加えて,第2版では新しく④点目「欝陵島の別称」を付け加えている。しかも第2版以降「面目を一新した新版」だとして版を重ねてきた第6版(2008年第1刷刊)まで引続き挿入されている。

「竹島」は欝陵島の別称だと追加解説されたため、竹島事件という歴史事件も起こっていたことと重ねて考察すれば日本では「古くから知られていた」ことなのだと納得できるということだ。

欝陵島が日本国に属する島なのであれば、①のように「もってまわった言い方」をする必要がないし、②のようにフランス船リアンクール号がどうこうしても慌てて[わが国では古くから知られ]とか、「改名して隠岐に属せしめ」る必要がないのである。また第3版(1983年刊)から付け加えられた竹島事件の記載も必要がないのである。

ところが欝陵島は、日本の固有領土ではないのである。かって日本帝国の朝鮮植民地として朝鮮本土と共に領有していたこともあったが、古来 朝鮮に属していたのである。それ故に「広辞苑第1版」で,「辞苑」で記載されてない「竹島」「欝陵島」を取り上げ「竹島」記載説明を上記の如くしながらも、「欝陵島」については「朝鮮半島の東方、日本海にある火山島。主島の面積73方キロメートル、人口1万。附近は漁業の中心。」と解説している。この解説の基調は変わりないが、第2版から第4版では第1版説明文の中から主島の面積と人口を削除して<わが国では磯竹島、竹島、松島などと呼んだ>を追加説明とし挿入している。 これは恐らく第2版からの「竹島」記載説明文の変更や第3版からの「竹島事件」の新記載と関連していることなのであろう。しかし、第5、6版では「欝陵島」記載説明文が一変する。「⇒ウルルン•ド」となっており、「ウルルン•ド」の説明文は「[欝陵島](Ullung•do)朝鮮半島の東岸から東方約140キロメートルにある火山島。慶尚北道に属する。漁業の根拠地。日本では時代により磯竹島、竹島、松島など異なった名称で呼んだ。」となっている。

*「欝陵島」記載説明文の変遷を原文のまま上げておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

▲3「耳塚」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲2「任那」の記載説明文について言えば「辞苑」(1930年刊)での皇国史観による解説が、第1版(1955年刊)から第6版(2008年刊)まで基本的にそのまま踏襲されている。

*第1版、第2版(1969年刊)、第2補訂版(1976年刊)では字句も言い方も「辞苑」と同じである。

 

 

 

 

 

 

 

 

*第3版(1983年刊)、第4版(1991年刊)第5版(1998年刊)第6版(2008年刊)では、「…というが」とか「日本書紀によれば…と言うが,これについては定説がない」「定説がないが、…を指すものと考えられる」以上、言い回しを変えただけである。