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第 八 章 中央農業試験場全員集会

桂応祥博士が元山農大へ出掛けて十日も経たずに帰ってきた時、試験場では夢想だにもしなかった全く意外な事態が、彼を待っていた。

上級の指示によって中央蚕業試験場を順川原蚕種製造所へ移して、車輦洞には十幾人の実験工と桂博士だけを残しておくとのことだった。名目は蚕業中心地に 近い平壌付近へ、中央蚕業試験場を移すのだとしているが、桂博士を場長職から退かせるための処置であることは、あまりにも明白であった。

蚕解剖実験室は閉鎖され、原種部や試験部は人はいうまでもなく実験設備まで全部順川へ移管させられて、みんなは、なにもかもすっかり失って、へたばってしまい、桂博士が帰るのだけを待っていたのだった。

順川へ出掛ける人々を統率することになった李徳鎌だけが、洋服の上に作業服を重ね着て、忙しく行ったり来たりしていた。しかし、何よりも驚いたことは、 桂応祥がもっとも可愛がっていた明吉東が誰にも知らせずに、故郷の家へ帰ってしまったことだった。そうなって初めて、応祥は、近頃、明吉東が彼と李徳鎌と の間に挟まれて、苦しい立場でうろついていたことを思い出した。

「明吉東、はっきりと、自分の意志を持って生きよ。

場長がせよと言うことだといって、やたらにはいはいしていては大変なことになるぞ。君は、すでに彼のひそかな網に引っかかって身震いしている哀れなトンボの運命のようなものだ。」

李徳鎌が試験部に回ってきて、このように脅かしたのだ。

試験場では桂応祥の研究助手達は少なくなかったが、李徳鎌副場長は、もろい土地に棒杭を打つかのように明吉東を誰よりも厳しく扱った。しかし、彼は何か間違いが生じたのだと思って、あらゆる不快なこともぐっと堪えていたのだ。

桂博士は、こんな事情に関係なく彼に複雑な蚕交雑実験を任せて押し進めた。だが、明吉東には桂博士の話が前のようには耳に入らなかった。

桂場長の指示を従順にやれば、李徳鎌副場長が呼び出して反動的な研究方法をそのまま受け入れていると非難するし、副場長の言葉に従おうとすると桂博士が怒った。

間にはさまれた明吉東は右往左往した。

ところで、急に桂応祥博士に背いて順川へ行けとの指示を受けたから、恩人を裏切るには彼の良心があまりにも清らかであって、上部の指示に逆らおうとすれば後難が怖かったのだ。

むしろ、こんなに悶着が多い研究事業をやるよりも、故郷の村へ帰って年取ったオモニを助け一緒に住み、暇を見ては蚕を飼う方がよいだろうと考えたのだった。

桂応祥は、これらすべての詳しい事情を全部知ることはなかった。しかし、彼の予感は、別に大して取り違えて見てはいなかった。明吉東の行いから見て推察した彼は、沈痛な思いで胸を痛めた。 部屋の中は息が詰まるような静寂が占めていた。

机の片側に置かれた懐中時計の秒針が刻む音だけが、いつもの通り時の歩みを急き立てていた。

「面会謝絶」

科学探究のため、自ら進んでつくった厳格な秩序まで、このときだけは、彼自身を窒息させる陥穽となってしまったようだった。

何時いかなる瞬間も、感傷におぼれて研究事業を中断させたことのない彼ではあったが、この日だけは、知恵を湛えた注意深い善良なまなざしに、限りない悲しみをためて長い間庭園を歩いていた。

ハリケヤキの小枝で雀がさえずり、高い白楊の幹の先のこずえでカササギがカッカッと鳴いた。

(多くの鳥が皆消え去り 村の懐かしい鳥 お前だけがいつもこの地を捨てないのだなあ)

散乱した心の癒しの一つを無心の鳥に託して見もした。

日が暮れて桂応祥が家に帰ってくると、中戸を開けて入る下の部屋にいっぱい集まってざわざわとひしめいている息子娘、嫁や孫達が、我先に立って挨拶をするのだった。

前日、長男が妻と子供達を連れて、入って来たから、「お前来たのか?」と普通に思って載寧支場でやっている貯蚕試験情況だけを子細に尋ねて終わったのだが、これを見ると自分達だけで何か相談してこのように集まってきたようだった。

「どうしたのか?」

応祥は、さっぱりした目つきで部屋の中を見回して尋ねた。みんなはもじもじして長男の顔だけを見上げた。長男が、上半身を若干左右に振って丁寧に答えた。

「明日、アボジの誕生日です。それで、私が---」

「誕生日?」

桂応祥は苦笑いした。

「時が時なのに、何の誕生祝いなのか。昔の人は太平の時代に誕生日を大事に記念しようと集まって非常に喜んだのか知らないが、建国事業のため国民が皆忙しく働いているときに、何の誕生日祝いなのか。」

桂応祥は、さっと廊下へ出て書斎に行こうとした。

「アボジ!」

長男が父親の袖をつかんだ。

「これはあんまりです。そうしないで下さい。わが一家親族が、何時一度でも集まったことがありますか。

解放前は、アボジが、いつも異国住まいされて家を出られていたために、誕生日祝いは言うまでもなく、私達はアボジの祝福もなしに結婚して子供達を産み育 て暮らしていました。嫁、婿は勿論、孫達もハラボジの顔すら知らず暮らしたのです。こんな事情をみんなは気兼ねして、アボジには話せなくて、私にだけ腹い せするように話してくるのです。

人の暮らしがこれで成り立ちましょうか。

それで、私がこの度は決断して、みんなをアボジの家に集まるようにしました。」

「そうか。」

桂応祥は、心配で気がかりな様子で下の部屋にいっぱいいる家族を眺めた。

「私の家の親族がこんなにも多かったのか。」

彼は人なつっこく裾にぶら下がる何番目の孫なのか知らない男の子の頭を撫でた。

「本当にそうであった。私が一度踏み込むと到底抜け出せない淵に沈んだかのように自分のことだけに没頭していたから、普通の人らしく暮らせかったなあ。あの子はどの家の子なのか?」

応祥は顔が長くて額が広い四、五歳の男の子を指さした。その子は自分のハラボジの血筋を継いだのか、不思議にも桂博士の容貌に似ていたのであった。

「二番目の息子です。」

長男の嫁が涙ぐんで返事した。

「次男坊か---」

桂応祥の目に、水気がぽつんとうるむように見えた。そうすると約束したかの如く息子娘達が涙をざあざあ流した。解放される年の四年前、アボジの後につい て日本へ渡って医学を学んでいた次男坊が、休みでもないのに水原にある家を訪ねて来たことがあった。本妻との間の三人の息子達は皆聡明でしっかりしていた が、とりわけ次男坊は飛び抜けた秀才であった。小学校を四年で卒業し、五年通学せねばならぬ中学も三年で終えて、日本へ渡って九州大学医学部に首席で入学 したので、大学でも嘱望された学生であった。しかし、異国の土質が身体に合わなかったのか、あるいは学費を充分にやれなかったので貧弱な食生活をしたため なのか、結核に罹り身体を恢復させるため帰ってきたのであった。

彼は父親の性格を知っているから肺炎を病んで安静治療をしにしばらく帰ってきたのだと話した。応祥は挨拶する息子を気にくわないと見下ろして怒った。

「そこに病院がなかったのか。暖かい御飯や自分の家のオンドル部屋だけを捜していて何の勉強が出来ようか。

一晩だけ寝てすぐに帰りなさい。」

息子は恨めしそうにアボジを見上げていたが、彼の厳しい視線の前に怖じ気づいて頭を下げてしまった。妻が今にも泣きだしそうな顔つきで夫に迫って哀願した。

「貴方、貴方の目には病気にかかった子の顔色が見えないの?その身体でどうして勉強できると言うのよ。」

「出しゃばったことを言うな。」

応祥は妻の手を振り払ってさっと決めつけて言った。

「私はきつい覚悟をして学問を究めようとする人に病魔がとりつくのを見たことはない。」

明くる日、応祥の妻は息子を見送ってお金百円を差し出した。

「さあ、お前のアボジがくれたのだ。」

ところが、その息子が三月後に一握りの灰になって骨壺に入れられて故郷に帰って来て埋められることを、どうして知ろうか。

誰よりも大学者になるだろうと嘱望されていた次男坊の客死は、桂応祥の心の中で永遠に癒されることのない傷を残したのである。自分の手落ちで、故国の学 界に彗星のように光り輝く秀才を死なしたようで、次男坊という言葉だけを聞いても目の光が消えぼやっとしてしまう桂応祥であったのだった。しかし、彼は 「次男坊、次男坊と言うのだね。」と言いながら頭を振った。続いて彼はゆっくりと頭を上げて窓へ目を向けた。

「それでは三男坊を除いてみんな集まったと言うのかい?」

南方の窓にかかった灰色の雲の向こうの遠い南の空の下のどこかには、連絡できなくて連れてこられなかった末っ子がいることであろう。

だが、その息子は、何故連れてこられなかったのか。彼が、もう少し関心を持っていれば、再びここへ来られない次男坊に対する胸の痛む未練の上へ、更にもう一つの傷を残しはしなかったであろう。

応祥は、ご馳走が並べられたオンドル部屋の焚き口に座って、息子娘、嫁や婿達が誠意を込めて入れる酒杯を受けた。そしてから彼等に一人一人酒を一杯ずつ注いで言った。

「じゃあ、それでは楽しく遊びなさい。私は試験場へ出てみなければならない。必ずしなければならない仕事があるのだ。お前達も明日は帰って、自分たちに委されている任務を立派にやりなさい。」

桂応祥はふいに立ち上がって試験場へ出掛けた。

息子娘、婿達は唖然として載寧支場の責任者として仕事している長男を見上げた。彼は肩を振るわせて台所へ行き、新しいオモニに気風よく言った。

「じゃあ、もう煮たり焼いたりすることはこれ以上やめて、台所にいる奥さんたちも皆入りなさい。このように一か所に集まり座ることも簡単ではない。父の気持ちも考えて楽しく遊びましょう。」

性格が闊達な長男が、父親のことにこれ以上神経を使うなというようにおおらかに言った。しかし、せっかくアボジの誕生祝いをするのだと遠くから荷物を一個ずつ持ってきて、忙しく準備した嫁や婿達は、失望し意欲がなくなって呆然とした。

応祥は蚕室へ行って、蚕繭を交雑する箕に番号を書いて貼った。この仕事は明吉東がやらねばならなかったのだが、彼が試験場を出ていってしまったので代 わってする人がなかったのだ。だがどうしても後日に延期できない仕事があって、息子娘達と誕生祝いを一緒に出来ないというわけでもなかった。

新しい朝鮮の生物学の運命が、風前の灯のようになっているのを思うと暫しの間でも天下太平に座っていられなかったのであろう。それに性格が剛直な彼は、このような事実が、子供達まで知られて彼等まで心を痛めるのを願わなかったのだ。

夕方ちょっと家へ帰った桂博士は長女がそのまま家にいるのを見て、

「まだ帰っていないのか?」と尋ねた。

長男の嫁や婿達は普段とは違った沈重な父親の気配を見極めて、彼の目につきはしないかと隣の部屋にこもって息も普通にできずじっとしていた。父親の祝福 もなしに結婚式を挙げた彼等は、今度こそはと、よい機会を選んで訪ねてきたのだが、自分達をわざと敬遠視しているようで、大変物足りなく寂しい思いをして いた。

事務室へ出掛けて夜遅く家に帰ってきた応祥は、戸の外で急に立ち止まった。半分ほど開いた戸の中から、涙まじりの長女の声が聞こえてきた。

「兄さん、オモニももういらっしゃらない家へ訪ねてきたのに、アボジがこのように冷遇されるから寂しくて我慢できないわ。

全然知らない人が訪ねてきてもこのように冷遇されないでしょう。アボジは、私達と会うことさえ嫌がっていられるのよ。」

長女は、言いやすい長兄に恨み言を言った。すると、長兄が厳しい表情で叱った。

「そんなことを言うな、お前は、アボジの性格がそうなのを今知ったというのか。子供達への思いは限りがないが、お前達をいちいち相手して、これまで暮らしてきた話を聞いて、孫達の頭を撫でてれば慈愛深い家長の役割をするのはたやすい。

アボジの仕事がどんなに重要であり、忙しいのか知っているのか。教授に博士、 試験場長、アボジに連なっている人が数百名にもなるのだ。」

「分かっています。しかし、私もどこかで聞いたのだが、有名なある博士はそんなにしなくとも大きい仕事をされているそうですよ。」

長女の涙がうるんだ声であった。応祥はつかんでいた戸の取っ手をはなして、裏庭の伊吹の木の下にあった長椅子に座り込んで頭を抱えた。

「お前達の話が正しい。私が何時一度でも、乳臭いお前達を抱き上げ抱きしめたり、おんぶして子守歌を聴かせたりしたことがあろうか。それならば、酒煙草 を一緒に楽しんだろうか。眼を開ければただ科学研究しか知らず、気が狂ったかのようにやって来たが、大きく成功したものがない、ああ。」

頭を振って大きくため息をついた彼は泣きだしそうな声に身体を振るわせた。

「アボジ、分別のない子供の恨み言を悪く思わないで下さい。」

頭を上げて見上げた応祥は、長男と長女が涙を湛えて前に立っているのを見た。

「お前達、このアボジを許してくれ。」

湿った声で言う応祥の目には熱いものが光った。

「アボジ。」長女は父親の胸にぐいと抱かれて、わっとむせび泣くのであった。

夜風が窓を振るわせ、過ぎていった。庭園から小枝の打ち震える音もかすかに響いてきた。夜も深まり、研究士たちに一日の事業報告を聴取する時間になった が、誰一人、彼の部屋を訪れる者はいなかった。応祥は、両手で顎を支えて身体がこわばったように少しも動かなかった。彼は恐ろしい孤独の深淵で、過ぎ去っ た一生を振り返ってみていた。突然、彼の長めの顔が致命傷を受けたようにひどく紅潮した。

応祥には科学よりもそれ以上神聖なものはなかった。祖国と人民の福利のため貢献する科学的成果のためならば、どんな犠牲も喜んで受け入れたし、それをむ しろ幸福と、誇りと、無上の栄光とみなしたのだ。誰が何と言っても、彼は自分のこの信条をいささかたりとも曲げたことはなかった。しかし、今や彼は何に心 を託すればよいのか。彼の唯一の友であり、身体の一部と変わらぬ科学的結実までもが、人々から無用のものと排斥されているではないか。彼は、科学ではなく 自分の全存在を否定されているようであった。

彼は、ふと悪夢を振り払うように頭を振った。突然、目をぱちぱちして驚いて周囲を見回した。確かに、どこからか最も近いところで懐かしい声が響いてくるのだった。

「桂先生、何を考えておられるのですか。今我々には、貧しくてぼろをまとった人民達に、着物をつくって着せることが緊急に必要です。」

応祥は、目をちらっと開けて戸の方へ視線を向けた。誰もいなかった。だが、忘れていた昔の懐かしいオモニの心地よいささやきのような、心の中の最も深いところで響いてくるその声に、心身をそっくりそのまま委ねてみたのだった。

桂応祥は、数日間のうちに目につくほど痩せてしまった。顎がもっと鋭く尖ったようで、黒ずんだ眉毛の下の、そう簡単にびくともしない目はとりわけ鋭く 光っていた。とにかく彼の顔には、何か普通ではない深い刻印が付いたようだった。彼は、前よりももっとねばり強く頑強に研究事業に打ち込んだのであった。

桑畑の上に浮かんだ太陽が少し傾いて窓に顔を突きだした。

窓のむかいの壁をなぞっていた日光が、すっと机の上へ這い上がってきた。外から、がやがやする話し声と、注意深く歩いてくる重い履物の音がした。いつもとは違う騒音であったが、彼は、相変わらず限りない思索の奈落にどっしり入ってしまっていた。

どんなに時間が過ぎたのか。すべり戸が静かに開けられたようだと思ったのに、いつのまにか窓が静かに開けられた。それでも応祥は掌で片方の頬をあてて動かなかった。

「お前さん---」

むせび泣くような妻の声に応祥は頭を上げた。妻が、口もとを引きつらせてやっと言った。

「将軍が試験場へ来られました。」

「?!」

「将軍が、今し方、貴方の事務室の庭まで訪ねてこられました。戸の外で歩みを止められて、入口に書いて張ってある字をちらっと見られ、一緒に来られた人 達におっしゃいました。(桂先生の研究事業を妨げないで、先ず、試験場構内でも見回りましょう。)と言われて、履物で音を立てないように行き先を変えられ ました。」

「将軍が?!」

応祥は言葉尻を濁した。

「しかし、どうして今になって来て話すのか?」彼は妻を叱った。そして慌てて木綿パジチョゴリに毛皮の袖無し胴着を着て、家で仕事する装いそのまま外へ出ようとした。

「お前さん、その着物で。」

応祥は素早く絹のパジチョゴリに着替えて、戸を開けた。

「応祥先生!」

庭で立っていた中年の男が、太い声で呼びながら近づいてきた。縁側にあったコムシンを履いて庭に降り立った応祥は、目もとに小皺を寄せて相手をにらみつけた。そこには農業大学で会った裴副相と崔択民局長がほろ苦く微笑んで手を差し出した。

「お元気ですか?」

応祥は、彼等の大変冷たい手から自分の手を抜き冷たく尋ねた。

「あなた方は、何のために訪ねてきたのか?」

「---」

応祥は二人を鋭い目つきでにらみつけた。裴副相と崔択民は、ほろ苦く微笑んだ。彼等は、いくらか間隔を置いて、押し黙ったまま、庭園へ向かって歩いて行った。

元山農大に対する指導事業を終えて平壌へ帰った裴副相は、自分達のグループの事業報告を上級党へ報告する必要を感じていなかった。 自分の決心によって 断行した仕事が、あまりにも正当なことだと確信していたこともあり、またそんな問題のごときは、上級党の指示を受けなくとも、自分の権限で決心し処理でき ることだと信じて疑わなかったのであろう。

日暮れ頃、事務机の前に置かれた電話機から信号音が強く響いた。受話器を取った彼は不意に緊張した表情をした。

敬愛する金日成同志から、急いで相談することがあるので訪ねてきてくれとの電話連絡が、きたのであった。彼は急いで事務室を出た。

敬愛する金日成同志の机の上には、彼の批准を待っている文書が、いっぱい積まれていた。

ところが、金日成同志は、そのすべての重要な文書を片隅に押しやって、科学雑誌をのぞいておられた。その雑誌や資料の山へ目を移した裴副相は、その瞬間 驚いた。『農業生物学』、『自然』特刊号、しばらく前にスコットランドのバデンバラで行われた、生物学者達の国際大会についての情報資料など---

金日成同志はその雑誌や資料束から視線を外して、慎重なおもむきで尋ねられた。

「君が元山農大へ指導しに行ったとの話を聞きました。昨日、その大学の学長が私のところへ来て帰りました。そして、蚕業局から上がってきた試験場検閲総括報告書も今し方見ました。さあ、君の指導グループが大学へ行きやった事業情況を、少し聞いてみましょう。」

裴副相は、ひときわ緊張してしまった。彼は事業手帳を開けて沈着に説明し始めた。

「---四八年八月、農業科学院総会会議録が知られるようになった後にも、わが教育省では元山農大で最近に至るも正統遺伝学講義が行われているとの驚く べき消息に接したのです。実態があまりにも深刻だったので、緊急に省自体のグループを組織して大学へ出掛けてみたのです。事態は我々が予想していたよりも 悪かったのです。その大学では、生物体を支配する、ある生まれつきの不変の因子が存在するのだという反動的で反革命的な理論が公然と体系的に注入されてい たのでした。彼等は、また大学内に蚕学研究室をつくって、その理論を確証する実験まで行おうと試みていました。その上、この講義を直接担当していた桂応祥 には、あらゆる特恵まで授けるという我慢のならないことまでやっていました。

私達が適時に出掛けてみたからよかったものの、大きな政治的損失を被るところでした。それで、桂応祥を学部長職から解任して、彼がすでに行った講義内容についても正しい見解を持つように訂正講義を何回も組織しました。」

副相の話を最後まで注意深く聴かれた金日成同志は、顔全体厳粛な表情をされた。そして、机の片隅に置かれた蚕業局から上がってきた試験場検閲総括報告書へ再び視線を向けられた。

「---理論的に不純な思想を基礎として行われている中央蚕業試験場での研究事業は、すでに重要な欠陥をあらわしています。純粋に分離された原種は言う までもなく、現在行われている実験も完全にメンデル・モルガン主義をそのまま採用しているために、その結果を予測することは難しい。このすべての事態から 見て、桂応祥がばらまいた毒素を根こそぎ清算しょうとすれば、車輦洞試験場を解散させてしまい---」

金日成同志は、その検閲総括報告書を裴副相に押しやられた。

「見なさい。」

裴副相は総括報告書を上から下まで注意深く見た後で付け加えた。

「私が見たところでも、彼は典型的な資本主義式研究方法を試験場に確立させているようでした。そして彼の常軌を逸した変な生活態度については、首を傾げない人はないようです。事態の深刻さから見て、そのようにするのが当然だと思います。」

金日成同志は、注意深い目つきで裴副相を見渡された。席から立たれて窓辺へ近づかれた将軍の顔に庭園の明かりの奥深い光がゆらいでいた。将軍は、事務机の前へ座られて引き出しから一巻の本を取りだし裴副相に渡しながら言われた。

「この本を見ましたか?」

本の表題に視線をやった副相は眼をまばたいた。それは、北朝鮮人民委員会農林局農林研究部で研究論文第一号として出版された桂応祥の論文『家蚕の遺伝に関する研究』であった。

「まだ見ていません。」

副相は自信なく言った。

「見ていない--」

金日成同志は、残念そうな表情をされて尋ねられた。 「君は蚕が動物系においてどの目どの科に属しているのかを知っていますか?」

「えっ?!」

裴副相は、面食らって、おどおどし、地球上には百五十万種の動物がいるのだが、その内七十万から百万種が昆虫であると調査されているようだと話したが、それがどの科に属するのかについてはよく知らないと申し上げた。

「そういうことでしょう。」

将軍は、依然として緊張した顔色をそのままうなずかれた。

「私も、この度生物学の情況を具体的に調べてみて、こんな問題も正確に知るようになりました。蚕は、身体と足がいくつかの結節で出来ているので節足動物 門であり、成虫は三対の脚があるので六脚類即ち昆虫綱に属し、昆虫綱の中でも羽があるので有翅亜綱に属しまた羽にうろこがあって鱗翅目に属しており,昼に は動かず夜だけ活動するからといって夜型蝶目に入れられています。

私が何故こんなことを列挙するのか分かりますか?現代生物学はずっと前に生物体に共通に存在する細胞を発見しました。ところで、ある科学者が蚕の細胞の 中でその形態と性質を支配する因子があることを確証したとしたら、それはすでに夜型蝶目に属する蚕だけに限られることではなくて節足動物門全体にも該当す る問題、行き着くところあらゆる動植物と関連する問題だということです。

ところで、桂応祥先生はこの論文で、地球上に繁殖している数百種の蚕を出発材料として利用し数千数百万の実験を繰り返しやり終えて、どんな環境でも変化 しない百幾つかの形質を捜し出したと強調しています。ところでそれを見て彼の理論が反動的だと規定することができますか?」

金日成同志は、副相の丸い顔から視線を外されなかった。裴副相は、精いっぱい緊張していた気持を少しゆるめて元気を出して話した。

「勿論、私が、このような決心をしたのは、私自身の科学的実験を通じて得られたものではありません。しかし、問題は明白だと思います。私は数千数万の世界的な科学者集団を持っている他の国で行われたことを慎重に受け入れなければならないと確信しています。」

金日成同志の眼光に厳しい光がただよった。

「この度、わが国でも生物学界で二つの遺伝学でもって複雑な論議がたたかわれているというので私も少し研究して見ました。ところが私が理解したことによ れば、ソ連生物学界で二つの遺伝学が鋭く対立したのには、何よりも先ずその国の特殊な条件で生じたものだということです。」

しばらく話をとめて、将軍は資料綴りをぱらぱらめくりながら続けられた。

「このように見てみると、裴副相は重大な過ちを犯しました。」

「えっ?!」

裴副相の顔は、思いもよらず信じがたい表情をしていた。

「金日成同志、だけれど私は数千名の他国の科学者達が嘘を言うとは想像できません。」

「だが、何時も多数派が真理の体現者となるとは限らないことを記憶しておく必要がある。朝鮮のことわざにも、遠いところにある甘いナズナよりも、近いところの苦いナズナの方がよいと言うではないか。他国でよいものだといって、わが国でもそのままよいとは限らないのだ。」

金日成同志は目をぴかっと光らされた。

「それはそれで、私が言いたいことは、桂応祥先生の理論がどんなものなのかとは、別個の問題だという点なのだ。たとえ彼が、科学研究で誤りを犯したとし ましょう。だが、我々は、科学的論争を社会学的に分析してそれを政治的非難の根拠にすることには反対します。であるから、我々も科学的論争に対しては絶対 に結論を出しません。それはどこまでも認識上の論議と見るのが正しいのです。ところで、君は問題をどのように処理しましたか?」

金日成同志は厳しく話された。

「君は、試験場検閲総括報告と大学検閲グループ事業情況を見て思うことがありませんか?君が、桂博士を学部長職から解任し試験場へ送り返し、蚕業局では 蚕業局で、試験場を解散すると騒ぎ立て、そこでは、桂応祥先生の研究事業が終わってしまったとみなして、彼の指導を受けないように追いつめていったのだろ う。」

「金日成同志!」

副相が低く話を続けた。

「私があまりにも性急しすぎたようです。 しかし、私は桂博士の理論が反動的であれば当然の制裁を加えなければならないと確信しています。」

「?!」

金日成同志は、驚かれたまなざしで裴副相をしばらくじっと見つめられた。それから少しして力強く話された。

「よろしい。事態が、こんなに進んでしまった以上、問題を解明しましょう。他の国で起こっている科学的論争に対しても注意を向けなければならないが、こ のような場合には先ずわが科学者の話を聞かなければならないと思います。裴副相、明朝、蚕業局長も連れて蚕業試験場へ一緒に出掛けてみましょう。」

「はい。」

裴副相は突然意気消沈して席を立とうとしたが、金日成同志は、彼をそのまま座らせて厳しく尋ねられた。

「静かにもう少し座っていなさい。私が慎重にひとこと尋ねてみよう。どうして君は、桂博士を教壇から追い出すような重大な処置をしながら、私にひとことも報告をしなかったのか?」

「私は非常にお忙しい金日成同志が---」

裴副相は言葉尻をにごしてしまった。

「そうか、率直に言いなさい。君は桂応祥博士を私が南半部からお連れして大学に配置したことを知らなくはないはずなのに---」

「---」

裴副相は顔を赤らめて視線を落とした。金日成同志は、彼の動作をつぶさにじっと見つめ重ねて尋ねられた。

「あるいは君は、日帝時代共産主義運動をやりながら派閥に巻き込まれていった癖を未だに捨て去っていないのではないか?」

「な、なんというお話を---」

裴副相は、慌てて性急に弁明しょうとやっきになった。

「そんなことがなければよろしい。試験場まで道が遠いから朝早く出発しましょう。」

金日成同志はおおように話向きを変えられた。

こうして裴副相は、この日の朝、蚕業局長 崔択民とともに金日成同志について、首都から約四百余里離れた蚕業試験場まで訪ねてくることになったのであった。

金日成同志は、淡い初霜がまだ解けずに残っていた試験場庭園の木陰の下をゆっくりと歩いておられた。足を運ばれるごとに、凍ったカシワの枯葉を踏む音が鳴った。

「それだから、君は桂応祥先生を人々から離しておこうとしたというのだね?」

李徳鎌にこのように尋ねられた金日成同志の足もとで、落ち葉が踏みにじられる音がつづけさまに起こった。徳鎌は、面喰らって何の返事もすることが出来なかった。

「よろしい。」

副場長との話を終えられた。この時、桂応祥がつま先で地面から突き出ている石につまずくことも考えず、庭園へあわてて近づいて来ていた。

金日成同志は、真っ直ぐ歩いて行き応祥の手を力強く握って、やつれた彼の顔を見守られた。

「試験場見物に来ました。試験蚕室を少し見まわることが出来ましょうか?」

金日成同志が静かに話されました。応祥はおそれ多くてどうしていいか分からなかったが、ともかく先に立って原種維持室へ案内した。試験場の奥深いところ にあった赤レンガ建ての長い平家では、今し方、氷庫から取りだした蚕卵や繭を広げておき、春を迎える準備に余念がなかった。小さな部屋の棚の上にぎっしり 置いてある蚕箔ごとに、各様各色の蚕繭がしきりにうごめいていた。

雪のように白い繭、青みがかった繭、赤みがかった繭、黄ばんだ繭---一目見ればそれは純種に分離された元原種繭であることが分かった。

これこそ、局長が、試験場を指導した時最初に問題視した対象であった。

「これが交雑原種なのですか?」

金日成同志は鼓形に似た乳色の蚕繭をつまんで、桂博士に尋ねられた。ついてきた裴副相や局長は緊張して桂博士へ視線を向けた。副場長は応祥に責任のある発言をせよと言わんばかり目配りした。

「はい、そうです。」

桂応祥ははっきりと答えた。蚕室に入るや、桂博士は、すぐに態度が自信満々になり、目には光彩が光った。彼は、ポケットに入れて置いた拡大鏡を金日成同志に渡して、各蚕箔の多様な蚕繭や粟粒ほどの蚕卵をひとつひとつ説明するのであった。

「蚕繭は色も各様各色であるばかりか形も千姿万態であります。我々は、この多様な形質の中から、我々に必要なものを思い通りに創るために努力しています。」

桂応祥博士の説明を聞くうちに金日成同志は、きらびやかでまぶしい蚕の世界へ少しずつより深く没入された。金日成同志は、桂応祥博士が興奮して蚕を説明する心情を考えてみられた。

「そうだから、先生は、蚕の純粋な性質を分離してそれらを交雑していけば、色の付いた繭はもちろん鶏卵のような大きい繭も創り出せると言うことですか?」

「そうです。」

桂応祥は、もっと自信をもって答えるのだった。

金日成同志はうなずかれ、桂応祥博士の後ろについて野生蚕繭を維持している次の部屋へ入られました。

「この部屋には世界各地で野生している蚕やわが国の山間地方で収集した蚕がいます。---」

桂博士は蚕について話しているのではなく、自分の身内について自慢するオモニのように、そんな愛情をこめて話すのだった。

ハシバミ、ハンノキの葉を食べ育つ赤い色のハシバミ蚕、ニガキ、カワハジカミの葉を食べ育つ濃い褐色の神樹蚕、姿形が不思議なほど指貫のようだとして指貫蚕、釣り糸や外科手術縫合糸に使うことができる釣り糸蚕---

ここへ来てみると、蚕の種類が数え切れないほど多いことは言うまでもなく、わが国の山に生い茂っている広葉樹で蚕の自然飼料に利用できないものはなかっ た。もしも、山が多いわが国で、この豊富な自然飼料を利用して家蚕と一緒に野生蚕も人工的に飼育できれば、国の富強発展にどんなに大きく寄与できようか。

金日成同志は、際だって草色をした蚕を桂博士が大事にして別途に説明しようとしてさっと通り過ぎようとするのを見逃さず見られて、静かに尋ねられた。

「草色がきれいに出ているあの繭は何なのですか?」

「はい。これが昨年二月に私が将軍にお話しした天蚕という山蚕です。」

「青紬という珍しい絹が織れると言った、その蚕なのですか?」

「そうです。どうにかして手に入れたい蚕なのですが、卵を得るのが難しい品種で、大量的に飼育できません。それで、この蚕を以前にお話しした神樹蚕と交 雑させて、二つの品種のよい点をすべて身につけた特別な蚕品種に育種しようと調査事業をしているところです。ある人は、この二つの品種は種が異なるからし て、我々が種間交雑を試みることは反動的な理論を正当化しようとする策動だと言うが、私は絶対にそのように見ていません。そして、彼等は蚕の純系分離も否 定するのだが、そうならばどうしてこの数多い品種を純粋な形質として維持できるでしようか?」

桂応祥は、裴副相と蚕業局長をちらっと見て挑戦的に話した。

「誰が何と言おうと、蚕から出てくるこれは、否定できない事実なのです。」

金日成同志は、興奮され、驚かれて、蚕室を出られました。さざ波のように用心深く吹いてくる風が構内の小枝を軽く振るわしていた。

さーと高くそびえ立つ白楊の枝から一群の雀が飛んできた。泉のように新鮮味のある空気を大きく吸い込んで歩まれた金日成同志が話された。

「夏には、ここに緑陰が、いっぱいになるでしょう。」

「その通りです。」

金日成同志は、庭園にぎっしり立ち並ぶハリケヤキ、クヌギ、カワハジカミ、ボダイジュなどをじっくり見つめられて、独り言のように話された。

「それら庭園の樹木も皆、蚕と因縁が深い木のようだね。」

「そうです。」

応祥は、淡々とした声で返事をした。

試験場二階の民主宣伝室には、当番をしている蚕室管理工幾人かを除いた試験場全員が集まった。ところがどうしたことか、集会が始まらなかった。試験場構 内を矢のように出ていった将軍の乗用車が風の如く試験場庭へ入ってきた。車からは、驚いたことに唖然とした明吉東が降りてきた。

彼が到着したとの報告を受けてはじめて、金日成同志は、宣伝室へ入られた。自分の横の席に桂応祥を座らせて、将軍は、厳粛な表情で場内を見回された。副場長は頭を下げたまま前の席に座っていた。

「どの人が明吉東君ですか?」

金日成同志が尋ねられた。呼ばれた明吉東は目が丸くなって、「はい。」と返事して立ち上がった。

「家族は皆元気ですか?」

慌てていて興奮した吉東は、将軍に尋ねられたことすらすぐに分からなかった。側にいた人が我先に教えてくれてはじめて、彼は他人のような声で返事した。

「はい、無事でおります。」

「原種部長は休暇から帰ってきましたか?」

金日成同志がまたもや尋ねられた。

「連絡はしましたが、まだ帰ってきておりません。」

副場長が中腰の姿勢で応えた。

そのときはじめて、揺れ動く場内をざっと見渡された金日成同志が、静かにお話しされた。

「---どんな理論であれ、その真理性を確定しょうとすれば、そのように認定されるだけの論拠がなければなりません。ところで、その論拠の中でも実践を 通じて検証され人民達に把握された真理以上の威力あるものはないのです。ところで、桂応祥先生は新しい祖国建設に切実に必要な絹糸蚕品種を数多く育種し て、我々の数百万農民達に持ってきてくれました。副場長トンム!」

金日成同志は、しばし話しをとめて、一番前列に頭を深く垂れていた李徳鎌副場長を呼ばれた。「農村へ、時には出掛けますか?」

「はい、ときたま出掛けます。」

李徳鎌がどもりながら返事した。

「それでは、ひとつ尋ねてみましょう。農民達は桂応祥先生が育種した《国蚕四十七号》や《国蚕四十三号》のような絹糸蚕品種についてどういう風に言っているのか確かめてみましたか?」

「ええー」李徳鎌は、首まで赤らめ答えられなくてぐずぐずしていた。柳智晟老人が、さっと立ち上がった。

「将軍様、私は物覚えつく頃から頭が白くなった今も蚕を飼っていますが、あの蚕のように繭をよく創り活発に育つ蚕ははじめて見ました。農民達も同じようにあの蚕がよいといっております。」

「それ見なさい。《国蚕四十三号》や《国蚕四十七号》を農民達がみんなよいと言っています。農村に行けば、農民達が、私に、こんな蚕卵をもっとたくさん 送ってくれと提起してきます。おそらく、あなた方が休日や祝日に街に出れば、その結果をはっきり解るでしょう。今や、わが人民達は、外出着として絹服一着 ずつ皆準備しています。ところで、どうしてわが人民達が絹服を着て堂々と暮らせるようにするのに功績をあげた科学者を、反動学者と言うのですか?そして、 誰が、蚕業試験場を解散させる醜態を演じたのか?」

裴副相と崔局長は顔が白くなりうなだれており、徳鎌副場長は、重々しく暗い表情で黙って座っていた。金日成同志は、詰襟のボタンを外してゆっくり話を続けられた。

「私は、今日、試験場を回ってみて大きな衝撃を受けました。桂先生は、今、自分の科学研究事業において豊かな収穫期に達していると言えます。 彼は、他 の人が生物学界で数百年間に到達したあらゆる成果をわれわれの代に到達してみようと、わき見ひとつせずに自分の目標に向かって真っ直ぐにひた走るようにし ておられます。今、ある人は、応祥先生の理論では生物体の本性を把握できず育種することもできないと誹謗中傷しています。

ところで事実はどうですか。桂先生は、その理論に基づいて新しい生物育種の無限の可能性を開けているのです。彼等が細胞以外に他の何もないと言う生物体で、それを支配する貴重な因子を毎日のように見ているのです。」

目をじっと閉じて将軍の言葉を静かに心に刻みつけた応祥は、どっと熱くなる胸を沈静させるすべを知らなかった。どうして将軍は、自分が心の中で模索している深い科学の世界を、そんなにも隅々までくまなく推し量って下さるのか。

彼はもうこれ以上何も聞こえなかったし、見えなかった。ただ限りない幸福感に心身を任せたまま、どこか果てしない歓喜の広野へふわりふわり羽ばたいているかのようであった。

金日成同志は、厳しい表情をされて話しを続けられた。

「皆さん、自分自身の心を真っ直ぐに持って主体的な立場に確固と立って我々のものを見ることを知らねばなりません。我々が、応祥先生の研究事業を遅らせ ば、それだけ、貴重な真珠や宝石をあきれたことに失ってしまうのです。彼が究めていく眩しい科学の世界を理解しなければなりません。そのために彼が、どん なに大きな自己犠牲を払ったのかを、考えてみましたか---

彼は、自分の生活に対してはこのように過酷でありながらも、わが人民により幸福な生活を準備するのに少しでも寄与できるならば、百遍でもこのような生活 を繰り返す確固たる覚悟をして科学研究をしているのです。言うに言われぬ血のにじむような苦闘を通じて科学探究に成功した彼には、日帝機関に服務すると心 を入れ替えさえすれば、巨額の財産や安楽な生活が約束されていました。しかし、彼は朝鮮民族の尊厳を守るために断固としてそれを拒絶してしまったのです。

ところが皆さんは、このように清廉潔白な科学者を援助するどころか、弱点をうがち、けちをつけ、彼の足を引っ張り苦しめると言う我慢できない行動をしたのです。」

場内から「しっくしっく」とむせび泣く声がはじけた。金日成同志が、副官に連れて来させた明吉東が両腕に顔を埋めたまま肩を振るわせていた。あっちこっちで、痛切な自責のため息をする音がもれでた。徳鎌副場長も見たくないものを見たように顔をそむけていた---

集会が終わった後で、金日成同志は、裴雲權副相と崔択民局長を庭園の休息場へ別に呼んで置いて厳しく尋ねられた。

「どうだ。今日のことを見て、どう思うか?」

うなだれていた頭を軽く横に振って、非常に重苦しい表情をした裴副相が、最初に言った。

「私が、ことの処理を誤ったようです。」

「すぐに性急に問題を処理しょうとして失策をしでかしました。」

二人をじっと見渡しておられた金日成同士は、非常に威厳を持って重々しく言われた。

「失策程度ではない。君達は、取り返しのつかない重大な過ちを犯したのだ。適時にことを正しく収められたからよかったものの、そうでなかったならば、わ が国の農業科学がどうかなってしまうところだった。しかし、過ちを感じていると言うから、トンム達の言葉を信じましょう。帰ってから、自分達が、しでかし たことを自分の手で、正しく立て直さなければならない。裴副相トンムは、直接桂先生をお連れして、元山農大へ行き教職員、学生達の前で謝らねばならな い。」

「分かりました。」

裴副相は、消え入りそうな声でつぶやいた。

初冬の日としては特別な春の日よりのようなほかほかと暖かい日であった。農学部総合講義室で再び大学に帰ってきた桂応祥学部長の遺伝学講義が終わると、 教員達と学生達は一斉に外へ出てきた。お互い肩をつきあわして庭へ出た学生達は、あっちこっちで集まり興奮して騒いでいた。

「結局、科学が勝ったのさ。」

眼鏡をかけたある大学生が、意味深長にひとこと言った。

「事実とは本当に強情なものなのだから。」

大柄の体躯の大学生が、短髪頭を振りながらやり返した。この時一足遅く講義室から出た崔弼浩が、手に分厚い本を持って彼等の側を急いで通り過ぎようとした。ちらっと彼を見た眼鏡をかけた大学生が声を出して呼んだ。

「弼浩君!復学おめでとう!」

「ところで、講義が終わってすぐ、どこへそんなに急いでいるのか?」

「次の時間に園芸学部総合講義室で韓樹民先生が『新遺伝学』講義をされるのだ。」

弼浩は短く答えた。

「それは、桂先生に仇なす科目ではないか?」

このように話しかけた大柄の体躯の大学生はうなずいた。

「ああ、分かる。今度は新ダーウイン主義講義に意図的に熱心に参加するつもりなのだね。それでは、我々もその講義に欠席できないな。」

集まっていた大学生達が元気よく話し合っていたが、腕時計を見て、次の講義に遅れないように散らばっていった。

一方、桂応祥教授が、講義を終えて廊下へ出ようとしたとき、彼の後ろからかすかに低く呼ぶ声がした。

「応祥先生!」

立ち止まって振り返った桂応祥は、 目を見張った。顔が丸く背がすらっとした韓樹民が、急ぎ近づいてきて、両手で彼の手を包み感極まって言った。

「本当に嬉しい。私は、こんな日が来るのを心から切実に祈っていました。」

韓樹民の目じりには涙が濡れそぼっていた。応祥は、唖然として樹民をぼうっと見渡した。再び大学へ帰った彼は、一番初めに韓樹民を訪ねて彼の頬を殴って叫びたかった。

「この卑怯者!お前は必死に足許を少しずつ掘りこわして私を倒そうとしただろう。だが見よ!私はこのように教壇に再び立ったのだ。」

「驚くなあ。」

「ほう、驚くとは。我々は、すでに二十年間波瀾曲折を経て、科学一筋歩いてきたではないか。」

このように言う彼の態度が、どんなに泰然としていることか。彼が考えるにこんな劇的な瞬間には、樹民がいくら巧みな《世渡り上手」》であっても、頭を下 げて過ちを認めざるを得ないと思った。しかし、自分の存在を正当化するだけの論拠がない人間は生きた人間ではないようだ。こんな人間は肉体的に消滅する前 には、絶対に自分を敗者と認めないものなのだと感じた。しかし、彼は尋ねてみるしかなかった。

「君が次の時間に新遺伝学講義をやるというのかね?」

「そうですよ。古典遺伝学は特殊遺伝だが、新遺伝学は一般生物に普遍的に存在する現象を明らかにした遺伝学であるから。」

「とんでもない。真理は一つで二つではない。」

「本当に性急なのだから。君は善悪に対する判断があまりにも単純なのが問題だ。君の学問と私の学問はお互い異なるが、そうだからといって、それがお互い、友となることを妨げることはないのだ。」

廊下の向こうから次の講義時間を知らせる鐘の音がタンタンと響いてきた。韓樹民は人のよい寛容な笑顔で頼んだ。

「今日の夕方、御夫婦同伴で必ず私の家へ来て下さい。私の年老いた親が、昨日から君を迎える準備で忙しくしている。」

応祥は、きり返す言葉も言えず、威風堂々とゆっくり歩いていく韓樹民の後ろ姿をぼんやりと見送った。一生の間遺伝学を探究するとしてきたが、白髪になっ てもこれと言った結実を成し遂げられず失敗した科学者。だけど彼は、相変わらず先輩ぶる傲慢な姿勢を少しも失わなかった。科学で大成する才能がないと認め たその時から、彼は、学者達に欠けている処世術を巧みに体得するのに満足したように思えた。

知恵や才能が少なくとも、ざっくばらんで謙遜な人間は進歩することもあるが、恥を知らぬこんな人間は、哀れにも死ぬ瞬間まで仮面をつけて自分が一番賢明な人間であったと自惚れるのであろう。

裴雲權副相は、将軍の前では自分の過ちを全部認めると言い、後始末も円満にやると確約したが、桂応祥博士に古典遺伝学講義をさせる一方、別に韓樹民教授 に新遺伝学講義を同じ比重で行うようにしたのだ。彼は、ともかく最後には、古典遺伝学が負け、新遺伝学が勝つと堅く信じていたのだ。発展した大きい国でや ることが絶対に誤っているはずがないと思っていたのだろう。いつの日か、桂応祥としっかり決算をするときがあろう。それで彼は、桂応祥が遺伝学講義でどの ように巧妙な方法を使い、学期ごとにそんな不純な講義をどれほどやったのかをいちいち計算して置くようにした。

一九五〇年六月二十五日早朝、米帝侵略者がわが国で起こした不意の戦争は、学界で日々に深刻化していったこの論争の火花を一時衰えさせた。