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第 三 章 留学資金

翌日の朝、京義線普通列車の三等室窓際に、色あせた学生服を着た青年が一人、正しい姿勢で坐り、列車の揺れも車内の騒音にも関係なく、新しく入手した生物学読本を熱心に読んでいた。帰郷する桂応祥であった。

「学生さん、どこまで行くのかね?」

向かいに坐っている中年の男が、かなり大きな声で話しかけてきたが、応祥は、頭も上げず短く返事した。出発駅から向かい合ったこの中年の紳士が、話し相 手にしょうと応祥に話しかけてきたが、いつも見当違いな返事を仕方なく一言返しておいて、相変わらず本にだけ集中してきた。

そうなればなるほど、中年の男は、応祥の挙動に注意を向けてきた。だが応祥は、ソウルからここまで来る間、前のテーブルの上に置いた鉛筆が床に転がり落 ちたときに、視線を離し鉛筆を取り上げただけであった。それ以外には、一瞬たりともみだりに視線をそらさないで、本に目を釘づけにしていた。 「ポオッ ----」

甲高く鋭い汽笛が響いた。列車が定州駅へ入っていった。はじめて応祥は、本から視線を離し棚から荷物を下ろし、乗降台へ出た。考えにふけりながら降りた 彼の目に、もの悲しい光が現れた。家を出る前に、彼の父親は、誠を尽くした語調で、人は自分の分に合うように生きなければならないと教えた。結局、父親の 話が理にかなっていたのだ。分に合わないことをやってみたが、炭焼きである彼が、仕方なく炭焼きの家へ帰って来ざるを得なかったのであろうか。

応祥はゆっくり駅前広場に出た。三年前、この駅をしょんぼり一人で出発した、その時と同じように痩せ衰えたみすぼらしい姿ではあったが、ただ、背中のリュックサックいっぱいに本を背負っているのが、違うと言えば違っているのであった。

大手を振って駅前に出てきた彼は、急に立ち止まった。

その間、定州の町は大きく変わっていた。以前には町と停車場の間に畑が広がっていたのに、今や、その間の大通りの左右側には、亜鉛メッキ鉄板でふいた急 な傾斜屋根の日本人の店舗や中国人の飲食店、開城人の商店などが連なって立ち並び、往来する人々の数もぐっと増えていた。

赤煉瓦建ての十字路郵便局を回って、大きなガラス窓のあるヘダン理髪所の前を行くと、すべり戸がさっと開けられて、「おっ、これは 誰か?」といぶかしげに呼ぶ声がした。揚昌述であった。

酒のため顔が赤く腫れた彼は、セル洋服に銀縁眼鏡をかけていた。それに比べて、応祥の身なりはあまりにもみすぼらしかった。安物で黒ずんだ中学制服に古い運動靴_。

三年間ソウル遊学して帰郷する身ではあったが、特別に着ていく着物もなかったし、そんな気持ちもなかったようだ。

後日、彼が我が国の著名な教授・博士となってからも、家の付近や研究所では木綿パジチョゴリに藁靴を履いて行き来したことは、広く知られた事実だ。ある 人達は、このような彼の行動をいかがわしく喜劇的な行動とまで見なしたが、彼には少しも特別な考えはなかった。むしろ、彼を変だと見る人達こそ変人だと見 なしていた。

応祥は農民の息子であったし、彼自身もまた農民であった。だから、自分が農民であったことを見せるのを、いかなるときでも恥ずかしく思ったことはなかっ た。彼は、身体に余裕を持たせるパジチョゴリよりも便利で着慣れた装いを知らなかった。しかし、帰郷するのに農民の身なりと変わらない応祥の様子をちらっ と見た昌述が、驚いたのは当然のことだと言えた。

「お前どうしたのか、うん?」

揚昌述は、応祥の身なりを上から下までずうっとつぶさに見て、目をぱちぱちさせた。応祥はそんな気配は無視して簡単に返事した。

「どうしたって?中学を終えて家に帰る道だよ。お宅の人達みんな達者ですか?」

「なんと、こんなことがあるのか。お前、暗行御史(李朝時代、地方を潜行する勅使)にでもなったのではないのか?ははは。」

泰然としておうように冗談を言い極まり悪さをごまかした。応祥は寂しく笑った。

「昌述兄さんは景気がよさそうですね。」

昌述は、中折れ帽を持ち上げて、訳もなく豪快に笑い出した。現在の自分の生活にこの上なく満足した表情だ。彼は、応祥に日本飲食店で昼食でも食べようと誘った。その飲食店は、自分が経営する食堂だとひそかに暗示しながら。

応祥は、ありがとうと簡単に言っておいて、歩みを急がせた。町を出た応祥は、肩をだらり垂らして、春草が青々と芽を出している小川の土手に沿って歩いていった。しばらくの間歩いた彼は、土手に座り込んで足を休ませた。それから、ぐっと身体を起こして一心に歩いた。

ムルコルでは、ソウル遊学を終えて帰ってきた応祥を、科挙に及第して帰郷した学者のように喜んで迎えた。

「東側家に幸運が舞い込んだよ。息子が郡庁官吏にでもなれば運が開けるだろう。」

「うまくいかなくとも、町に出来た新式学校の先生にはなるだろう。」

隣近所の人達が奥の部屋にいっぱい集まって、あれこれ言って騒いでいることを聞いて、応祥はぎこちない微笑をした。村の人々の話は聞き流せばそれまでであった。しかし、父母・妻子達までもが大きな期待をして彼を見上げるのには、あきれて胸がつまって苦しくなった。

「応祥や、今までお前の妻に苦労をかけたことを考えても、これからは自分で一家をなして普通の人のように生きなくてはならないだろう?」

桂時卿は、家族達だけだから遠慮して話すことはないというように、ぼそっと何のわだかまりもなく話した。

「急き立てないようにしましょう。弟が自ら悟って処理するでしょうから。」

応観が側で耳打ちした。時卿はこっくりうなずいた。応祥は伏し目がちになって、敷物の耳のささくれをむしりとっていた。彼は、家族にどんなふうに話せば よいのか分からなかった。彼が、今、勉強をもっと深めてはじめて何か少しできると言えば、一体みんなはそれを理解するだろうか。この世で一番近い家族達に すら自分が行く道を秘密にして、これから誰の援助を受ければよいのか。

「お父さん!」応祥は、少し深刻に話をきりだした。「我が国で初めて絹を織ったのは何時だったのか、知っておられますか?」

家族みんなが、じっと待っている問いには答えないで、あまりにもへだたりが大きすぎる話を引き出してきたので、みんなは面食らってしまった。そんなことはお構いなしに、応祥は落ち着いて話を続けた。

「昔の本を読んだのですが、我が国では今からおよそ三千年前にすでに刺繍をした美しい鉗布(絹の名前)を織ったそうです。高句麗時代の昔の墓の壁に描か れた絵に絹の着物の裾をなびかせて天に昇る仙女を描いていることを見ても、わが先祖達が世界で一番早く珍しい特色のある絹を織っていたことが分かります。

昔、新羅の人々が唐の国に旅行したことがあるのですが、その国の人々は、新羅の人達が着ていた夏服を見て、蝉の羽のように美しいと感嘆したそうです。

このように昔から、繊細で美しいわが国の絹は外国へも沢山輸出されたそうです。高句麗の雲布錦、詰文錦、五色錦のような絹はとても珍奇ですてきなので、 唐の国に金と同じぐらいの値段で売られました。この世紀が始まった初期だけでも、わが国では絹が一万五千余匹も中国へ輸出されたといいます。 そして、大 昔、百済の人は日本に渡り、クレハトリ(呉織)という絹を持っていって絹を織る方法を教えてやったそうですよ。現在、日本の法隆寺に大切に保管されている 絹の多くも、日本へ渡っていったわが先祖達が織ったものなのです。日本人達は、百済人が創った絹服を着てみて、絹が非常に柔らかくて暖かい感じがすると いって、日本に来た朝鮮人を皮膚と同じように柔らかいという意味で呼んだくらいだそうです。

また、高句麗人達は、お祭りにはみんなが自分で織った貴重な絹で絹服を縫って着ていたとのことです。こんなに才幹があったわが人民が、今は、日本から入る絹を買わないことには絹服をあつらえ着ることも出来ない状態になっています。これが憤慨せずにいられますか?」

「ふむ、お前がそんなに志が高い考えをしたというのかい。」

桂時卿は目を瞬いて息子を見渡した。身も心もはるかに成長した息子に対してみると、嬉しくもあったが怖くもあった。

応祥はゆっくり話を続けた。

「私は、将来、わが国が絹の国となるのに貢献できる深い学問を研究しょうと思っています。」

「それでは、いかにしてその仕事をやり遂げようというのか?」

応祥はうなだれて重々しい気分に陥った。悠久な歴史を持っているこの地の養蚕業を、本当に優秀なものにしょうとすれば、生物学界で世界が到達したすべての成果を消化しなければならない。そのためには、海を渡ってでも学業を継続しなければならない。

だけど、まだ一銭の学費も準備していない彼は、あえてこんな意向を口に出して言えなかった。しかし、いくらその道に行くことが苦しく難しくとも、是が非でもやらなくてはならないことなのははっきりしていた。彼は、決心して、はっきり言った。

「また家を出て遠くへ行き、学問をもっと究めなくてはならないのです。」

「客地生活をまた?」

時卿は口に長いキセルをくわえて葉煙草に火をつけ、押し黙って坐っていた。

「お前」

親子が話し合っている言葉を一言も聞きもらさずじっと聞いていた尹氏が、部屋の隅で頭を深く下げて坐っている嫁の方に目を向けた。

「今度また家を出るならば、お前の妻や子供達を連れて行かねばならんとよ。一生そのように離れて暮らしていてはいけないだろう。」尹氏は自分の言葉がた わいのないことだとよく分かっていたが、そう言わずにはいられなかったのだ。今まで、いつ次男坊が父母の言葉を聞いて書堂へ行き、家出してソウルへ行き勉 強をしたのか。彼女には、今度も応祥が家を出ると言えば、他のどんな方法もないということは分かっていた。

しかし、二番目の嫁が居間で一人寝て婚家で暮らしているのをもうこれ以上見ていられなかった。一方、応祥はこんな話には非常に鈍感で、心して聞こうともしないで、南京虫の血のついた壁紙をじっと見つめているだけであった。

あたりには、昨年の古い草だけが黄色く広がっていた。風が吹くごとに、前の山の松林の揺れ動く音がそよそよと響いた。渡り鳥もまだ飛んで来ず、家の界隈には、例年のように雀の群が鳴いている声だけが楽しそうに響いていた。

早めに朝食を済ませた家族達は、夜露が晴れる前に鋤を持って家を出た。応祥も土まみれの股引をひっかけて家を出た。

「あなたは家にいなさいよ。村の人々の目にふれば、格好が悪いよ。」兄嫁は、応祥が持って行こうとする鍬を取り上げて懇願して言った。

「私が、なにか他人によく見られるようと仕事をするのですか。土の匂いをうんと味わいたいからですよ。家にだけいたら、なんか落ち着かなくて我慢できないですよ。私がどうしても畝間に足首を浸したいのですよ。」応祥は、意気揚々と家族の後について行った。

よく日光があたる小川の岸に立ち並んでいる柳の木には、新芽が黄ばんで生えていた。注意深く見下ろせば、道の側にもナズナやオオバコ、ノビルなどが、新 しい葉を突きだしていた。着物の裾に入ってくる風の気配も、また、どんなに爽快な肌触りであろうか!背中を柔らかくなでてくれる太陽の光も、間違いなく他 郷で受けたものとは異なっていた。 一瞬間ではあったが、自然の懐かしい風景に浸った応祥は、あらゆる心配を忘れた。頭を振る子牛を急き立てて、熊手を背 負い篭に背負って向こうの小道を降りてきた西側家の裏に住む人が、応祥を見て言葉をかけた。

「ソウルで勉強してきた学者が、どうしたのですか?」

「あらまあ、手に水膨れができますよ、さあ、家に帰って本でも読みなさいよ。」

その家の妻君も一言いった。

「ほほう。香ばしい故郷の風を味わおうというのですよ。村がどんなによい所なのか分からないでしょう。ソウルはぜんぶ埃だらけで、ごたごたした騒音だけですよ。」

「いや、下の家(西側家の意)の昌述坊ちゃんを見れば、ソウルへ行って来るごとに別世界に行って来たように身なりが変わってくるのに。」

応祥達と別れて山裾に入っていった西側家の裏に住む人達は、どうしても東側家次男坊の振舞いが分からないと頭を横に振るのであった。

村の人々は、ソウルから帰ってきてすぐに農民の服装をして農作業をする応祥について、一言ずついうのだった。

「本当に、ソウル遊学帰りが農作業をするとは_なんとも分からない話しだ。」

「それが人間修業だそうな。勉強をあまりしすぎると、馬鹿になるらしい。」

山里の人々には、各自の家の居間に集まって藁靴を編む春の夜に噂する話題もたいしてなかった。だから、東側家次男坊の話なんかは、さぞよい話の種であったのだろう。

終日、谷間の傾斜地畑で鍬仕事をして帰ってきた応祥は、晩御飯を食べると、すぐにだるい眠気におそわれ、服も脱がずそのまま寝床へ倒れ込んだ。人の気配 を感じて驚いて目を覚ましてみると、もう薄暗かった。妻が部屋の戸を開けて静かに外へ出て行き、母屋の台所に入っていく音がした。

頭ががーんと響いた。にぶいが、ぐったりする疲労が全身をめぐり、あらゆるごたごたした考えを呼び起こしているようだ。ひどく急き立てる都市のせわしい生活も遠く後ろに退き、時間を惜しんで頭の中に刻みつけた外国語の単語までもぼやっと消えていくようだ。

応祥は我知らず身震いした。恐ろしい絶望が彼の心身をつかんだ。朝御飯を食べようと母屋の台所に入った応祥は、父親に言った。

「今日は亀城郡へちょっと行って来ます。」

「どうしてそこに行こうとするのか?」

「亀城郡に我々と同じ姓氏の桂卿参という長者がいるでしょう?」

「同じ姓氏であるだけでなく、族譜を調べてみればお前とは親戚関係が遠いには遠いが、叔父に当たる人なのだ。急にどうして訪ねるのか?」

「この次に話します。」

「ひょっとしてお前、その人の援助を受けて勉強をもっとやってみる考えをしたのなら、やめた方がよい。」

「どうしてですか?」

「その人は、金鉱掘りに飛び込んで俄成金になるまでは、我が家とも往来が頻繁にあった。だが、お金の味を知ってからは、まったく別人のようになってしまったよ。」

応祥のやや長めの顔に、失望の影がちらっと通りすぎた。しかし、家族達が皆仕事に出掛けると、オモニに冷や飯をにぎってもらい風呂敷に包んで家を出た。

まだ一度も会ったことはないが、血が流れ感情がある人間だから、彼の切々たる訴えをどうして無視できようか。礼儀正しく丁寧に挨拶して、私がソウルへ行 き勉強した話をして卒業証書をみせよう。そして、これから十年だけ勉強をもっとやれば学者になれるということ、そうなれば受けた恩恵の百倍も報いられると 真心をつくして話してみよう。

「喉が乾いた人が水を捜すように切実に援助を懇願するとき、惜しみなく施されるその恩恵は死んでも忘れられない真の恩恵だと、どうして分からないだろう か。私が人間であることをやめない限り百倍千倍も報いることを堅く約束しますので、どうかご援助されるよう、お願い致します---。」

そして、状況を見ながら彼の民族的良心にも訴えてみよう。彼は亀城郡に醸造場や織物工場までもっているのだから、金千円ほどを貸すことはとりたてて言う 程のことではないはずだ。 胸の底からわき上がる考えを次々と浮かべた応祥の顔には、安堵の光がただよった。彼が心魂を傾けて真心を尽くして訴えたなら、 鉄の塊でない限り、どうして心が動かされないことがあろうか。

定州から亀城まで大通りを行けば、四日間以上かかる道であった。しかし、森を突き抜けて山の峠を越え脇道を行けば、おおよそ一日で行けよう。応祥はきこり達に道を尋ねながら、草がからまって生えている小道を必死に歩いた。

亀城郡が目前に見えると、彼の歩き方がだんだん遅くなった。彼は度をこした独り善がりにおちいって、万事を性急に自分の思い通りにしょうとしているので はないかと感じたのである。理性を取りもどし冷静に考えてみれば、今までこまごまと考えめぐらした心積もりは、少しの価値もないあさはかな願望のように思 えた。そして、その人は亀城郡で第一番に一進会に加盟した人であるから、彼に民族の魂を云々し心を動かそうとするのも、塀の壁に向かってお辞儀をするよう な間抜けたことなのだ。そうだとするとその人から道理に合った人間的な取り扱いを望んでも、どうなるか分かっていることではないのか。

十余年前まで賭博や酒色におぼれていた放蕩者が急に俄成金になるには、日本人について回り、腹黒く利益を貪る詐欺行為をしないことには、到底そんな大金 をかき集められなかったはずだ。土地調査事業が施行されたとき、目ざとく日本語を少しかじって測量士の道案内をして、数十町歩の河川台地や山をただで横領 したというではないか。良心のようなものは、売春婦の純潔のようなものとしか見なさない彼から、どうして他人を救い恵む心を期待できようか。

それでは、そんな偽紳士の、ならず者につかの間の夢を託して、から景気で十里の道を訪ねてきたお前は、またどんなに荒唐無稽な人間なのか。

だんだん遅くなった彼の歩みは、完全にとまってしまった。恥をかくだろうから、今からでも後悔しないように引き返した方がよいのではないのか、という思いがしたのだ。

しかし、応祥は憤然と立ち上がって一気に亀城郡へと足を早めた。日が暮れる頃にどうにか到着し、桂卿三の表玄関の大門を力一杯たたいた。

打算的に世渡りする人には打算的な条件を出してやればよいのではないかという気持になったのだ。下男が半斤以上もある鉄の取っ手をちゃりんちゃりんと音 を立てて大門を開けたので、応祥は、やっと歩き疲れた身体を引きずって中に入った。中門の前には、耳をピンと立てた子牛ほど大きい犬が、両脇を守っていて 白い歯を出し、すぐにでもとびかかるかのように吠えた。首につけられた鉄の鎖を見て多少安心して中門を越えた。

ほどよく広い前庭には、蛇の形をした一本のイブキの木が立ちはだかり、艶があり、なめらかに光って敷かれている板の間の向こうに開かれた二重門の内側 に、白い障子紙を張った引き戸が十組あまり、一列に連なっていた。夕食時なので、半分ほど開かれた台所から煮焼きする匂いが前庭にあふれ出ていたのだが、 そのあらゆる匂いのなかでも、どこまでも入り込むこまやかで芳しく刺激的な胡麻油の匂いや、牛肉を焼くしつこくて傲慢な匂いや、一面にたちおおうニシン科 の硬骨魚を焼く煙たい臭いは、横柄で人をさげすみ見下す、この家の風格を如実にさらけ出しているようだった。

下男が応祥を軒下に立たせ中に入ってしばらくして、絹のチマチョゴリを着て頭を編み物篭くらい結い上げた、皇后のような桂卿参夫人が板の間に出てきた。

「誰だ、お前は?」

王后の言いつけぐらい威厳があった。応祥は気勢をそがれ、お辞儀して挨拶した。

「定州ムルコルに住む、桂時卿の二番目の息子桂応祥であります。」

「おん。それでは、私の主人の従兄弟の息子か。どうして?」

「叔父さんに一度お会いしょうと思いまして。」

「それでは、入ってすぐに会ってみなさい。」

夫人は、客達で騒々しい中の部屋を指し示した。中の部屋では、非常な気勢をあげている叫び声と舌がもつれた日本語の話し声が、ごちゃ混ぜになって響いていた。応祥は静かな声で言った。

「客達が帰った後で会います。」

「どのような用で来たのか。私に言えばいけないのかい?」

「お父さんが、必ず叔父さんにお会いし挨拶をして、お話しなさいと言われたので。」

「おん。そうなのか。」

夫人は首をさっと回して、「やあ、チャッセ〔下男の呼び名)や、この坊ちゃんを外の居間にお連れせよ」と言いつけた。小柄の、見かけではとても年齢の分からない太った男が、どこからか走ってきて「はあーい」と答えた。

外の居間とは下男部屋であった。下男達が食べて寝る部屋へ案内され、蒸した鶏肉汁に白御飯を一膳食べた応祥は、今か今かと宴会が終わるのをいらいらしな がら待っていた。食事を運んでくれた太っちょの男の話によれば、この日は桂卿参の誕生日だそうだ。それで、大層なご馳走を準備し亀城郡の有力者達を招き思 いきり遊んでいるのだった。

庭の向こうの部屋では夜遅くまで酒を勧める歌が歌われ、安州から招かれたキーセン(朝鮮の宦妓)のなまめかしい歌声が響いた。

応祥は、次の日真昼近くになってやっと桂卿参の部屋を訪ねることが出来た。白い絹のパジチョゴリに繻子のチョッキを着て、花筵の上に虎皮を敷いて、分厚い枕に肘を当てて坐った桂卿参は、精気がなくどろんとした目をして尋ねた。

「訪ねてきた用件はなにか?」

おとなしくお辞儀をして父の挨拶を伝えた応祥は、五星中学卒業証書を差し出した。

「私は、ソウルに行き中学校を卒業しました。」

「ふむ、そうか。」

ハリネズミ髭で、歯と歯の間にはさまった肉を取っていた桂卿参は、応祥が差し出した卒業証書に何の関心も示さず見下ろした。

「お前の家の家計が相当よくなったようだな。まだ小作して農業をやっているのか?」

「はい。」

「 それなのに、ソウル遊学はどんな金でしたのか?」彼は分厚い唇を動かし言った。その瞬間、左右に口角がだらりと垂れた彼の顔には、意地悪い性質と愚 かさがはっきり現れていた。人間の知能などは眼中になく金だけを知っている無知な人を訪ねて来て、見当違いの話をしてしまったと思うと、羞恥感がどっと来 た。

後ろの壁に掛けてある掛け軸には、歳老いた虎が満月を呑み込もうと餓鬼のような口を開けた絵が掛けてあった。黄金の塊に狂った虎を連想させるその絵は、現金万能主義に酔っているこの家の主人をそのまま象徴しているようだった。

虎の貪欲な口に視線を落とした応祥は、ここへ来ながら頭の中で考えた言葉の数々は少しの価値もないということを直感した。

この人の前では、そのどれも通じないであろう、金を万能だとする人であるから、ただ唯一、金以外に心を動かせないであろうと身体で感じた。彼は、気をぐっと引き締めて力を込めて話をきりだした。

「金を、千円だけ、三分の利子で十年間貸してもらえないかと思って訪ねてきました。」

「何々、千円を?」

「はい。」

応祥は、心を正して桂卿参を見上げた。当時、千円あれば雄牛十頭を買える金だ。農民にとっては天にまでとどく大きな金額の金であるが、大金持ちにとって は敷いて坐っている虎の皮一枚の金額になるかならないほどのものだ。そうなのだが、彼は応祥よりももっと驚くのであった。

「私は、日本へ渡って行き蚕糸専門を卒業し帰ってきて、種卵場のようなものを運営して必ず利子を付けて返済します。」

「ほほお。」桂卿参はあきれたように笑い飛ばした。

「お前、蚕卵の商売が景気がよいと知ってはいるのだな。」

しかし、突然刀を抜いて敵に向かっていく人のように目つきを険しくして声を高めた。

「こいつ、誰の前だと思って何でもしゃべりまくるのか。それで期限が来て返済出来なかったら、お前の首でも差し出すのか?」

「はい、約束した金額を一銭たりとも違えて、期限内に返済できなければ首を差し出すという契約書に印鑑を捺します。」

応祥の言葉は空言ではなかった。このように片田舎でくさるのなら、たとえ命を投げ出すことがあっても、一度抱いた考えを最後まで実践に移してみようという思いだった。

そんなにも彼の決心は悲壮であった。

「ふむ、かなりの大言壮語だ。炭焼きの倅に、どこからそんな根性が出てくるのか?」

彼は頬をぴくぴくさせ、小面憎い態度でしゃべった。侮辱的な言葉に目をむいた応祥は、傲然と頭を高く上げた。

「今まで私はやると決めたことをやり遂げなかったことは、ただの一度もありません。金を貸してくれれば恩恵と思いますが、そうでないならば叔父さんが大きな損害を受けることでしょう。」

「ほほほ」曖昧に言葉を濁していた桂卿参が、突然口をぐっとつぐんでから断固としてまくし立てた。

「もうこれ以上長く話す必要はない。金は貸してやれない。」

「どうしてですか?」応祥はいきなり尋ねた。

「一体全体、お前の家の財産は全部ひっくるめてどのくらいあるのか?」

「_」

担保がない人に金を貸したことはない。」

応祥は、口角がだらり垂

「分かりました。だけど覚えておいて下さい。十年後に、その時またお会いします。」

どこからそんな勇気が出てきたのか、応祥は力をこめて言った。

「何がどうなる?こいつめが、なんだと私の所に来て十年がどうのとけしからんことを言うのか、おん!」

桂卿参は、両膝を両手でつかんで激しく怒った。応祥はさっと立ち上がって、とどめを刺して言った。

「金は耳垢と同じようなものですよ。積もれば害になり、使うほどためになるのですよ。覚えておいて下さい。」

応祥は、後ろも見ないで引き戸をすっと開けて庭に出た。桂卿参は立ち上がって大声を上げた。

「うおん、こんな奴、見たことない。やあ出てこい、誰かおらぬか?」

どこからか、大きい図体をした庭男があたふたと走ってきたが、応祥は中大門を経て表玄関の大門を通り過ぎていた。

時はすでに真昼になっていた。応祥は、川辺に降りて流れる水を両手ですくいごくり飲んで、来た道をすぐ引き返しはじめた。半分の道のりも行っていないの に、日がだんだん暗くなってきた。しかし、応祥は両手を握って、狼の鳴き声が哀れっぽく響き、虎が一夜に十二回も頻繁に出入りするという虎岩嶺を越え、明 け方になって家に帰った。

自分の家の敷居をまたぎどさっと坐ってはじめて、背中が汗でぐっしょり濡れており、ぎゅっと閉じた口がしばしの間剥がれなくて苦しんだ。堅い決心で真っ暗な夜道を突き進んで行くのに、歯が折れるほど奥歯を噛んでいたに違いない。

当時の生活を回顧して、桂応祥は自叙伝に次のように書いた。

「---中学校を卒業した後には、学費関係で上級学校へ行くこともならず、容易に就職するところもなく、家に帰って来て一年ぐらい農業に従事するように なった。学ぶことに対する熱望を胸に抱いて、荒れた畑で鍬仕事をした悲惨な日々は永遠に忘れられない。学校の講堂で響いたうら悲しい卒業歌の余韻は、頭に 白髪の生えた今日でも、私の胸の中で消え去らないのだ。---」

桂応祥が故郷へ帰った後、五星中学校李徳求先生は、のがれられない困難な境遇に陥っていた。自然分科で地理を教える孟文益教員が徳求を警察に告発したのだ。背が高く体も大きくて貫禄のある彼が、そんな卑劣な行動をしょうとは、まったく思いもよらなかった。

孟文益は、自称ソウル一円で自分ほどの地理教員はいないのだと大言壮語している人であり、職員室ではあからさまに日本人達の醜行を声高に話していた人で あった。すんなりした体躯で、頬髭がところどころ黒ずんで生えており、ふさふさした髪をきれいに分けていることなど、どこから見ても男らしくて寛容でこだ わりがない人のようだった。しかし、高等課刑事が学校に現れて何回か尋問すると、水っぽいぬるぬるの餅のように丸め込まれてしまった。

彼の貫禄のある体躯が一銭の価値もない肉塊に過ぎなかったことが、如実にあばかれた。彼が虚勢を張ってとうとうとあれこれ言っていた話が皆刑事の耳に入ったことを知ると、孟文益は自分の同僚を密告して贖罪しょうとしたようであった。

彼は、野心満々の若い高等課刑事奴に、李徳求が家で隠れて禁止されている書籍を耽読し、信頼する一部学生達に不穏書籍を読ませていると密告した。また、 徳求が講義時間に、わが先祖が着ていた華麗な着物、緑衣紅裳(若い女性の色鮮やかな装い)が出てきた由来を話しながら、三国時代には三国の染色技術が全盛 期を迎え、日本では経糸に青色と紅色を染めて布地を織る程度であったが、わが国では十二色の神秘な絹織物を織っていたという話をして排日思想を吹き込んだ というのだった。

夕方、学校から帰ってきた李徳求は、妻が修羅場となった部屋にかがんで泣いているのを見つけた。主人も居ない部屋に、日本人の巡警どもが飛び込んできて 部屋の中をごった返しにした。何の端緒も見つけられなかった巡査どもは、軍刀で床板をはずし壁付き戸棚の上に積んで置いた古文書まで放り出した。

李徳求は呼び出し状を受けとり、受蒼洞派出所に呼ばれて行った。

取り調べでは、学生達に不穏思想を広めたのか、そして、朝鮮人が日本人よりも優れていると宣伝したのかという質問をされた。彼は、きっぱりと拒否した。弟子達が自分を売ったりしないと信じていたのだ。

こうなると証拠は、孟文益が卑劣にも窓際にくっついて盗み聞いた話だけが残った。孟文益は傲慢なところがあり、その上、野心まであわせ持った人間であっ た。学生達が李徳求の生物実験室に群がり、彼を尊敬し慕う気運が高まると、動揺して、どうにかして徳求を除去してしまおうと卑劣な行動をとったのであっ た。恐怖心にかられ驚いてしまった妻が荷物を包み実家へ帰ってしまい、がらんとした家で徳求は、ひとり暮らしをして学校へ出勤するはめになってしまった。

彼は妻を愛してはいなかったが、彼女と別れた生活について、ただの一度も考えたことがなかった。柔弱でおとなしい彼の妻は、突然の旋風にびっくり仰天して再びソウルへ上って来ようとしなかった。

ついに自分を忘れてくれとの妻の手紙を受け取った李徳求は、目の前が真っ暗になった。明るい空でさえ鮮明でなく、ぼうっとしているようだった。しかし、 それはそれでも耐え忍ぶことのできる苦痛であった。そのぐらいの生活の波風ですら、うち勝てない女を一生の伴侶としたことは胸が痛む失策だったが、それで も、それは正すことができるのではないかとゆったり考えていた。彼は、しばらくの間、私ごとの感情に浸ることをやめようと心を落ち着かせた。

しかし、教師が学生達に、胸の中で燃えたぎる思いをそのまま話せないことほど苦しくて嫌なことはなかった。学生達の心に炎をたきつけられない教師を、ど うして師と言えようか。オウムのように、総督府学務局から送られてくる教科書をそらんじているようでは、退職願を出して隠退する方がいいだろう。

有名な両班(貴族)で、清廉潔白であると知られた校長も、学務局の日本人官吏が一度学校を視察して帰れば、教員達を集めこれ以上日本人に逆らう講義をしないようにと念仏のように伝えるのだった。

「絶対に問題が起こらないようにして下さい。」

教育の真正な使命よりも、当局の意向を優先的にするなさけない雰囲気の中で、教員達は誰も心を開けて話そうとしなかった。李徳求は、こんな息が詰まるような雰囲気の中では、呼吸することすら苦しかった。

自身の身辺問題のため心身が疲れ神経科敏になったときでも、李徳求は、故郷に帰った愛弟子・桂応祥の運命について忘れることはなかった。

彼はちょっと前に、遺伝学者富山が書いた本「蚕の遺伝」を購入した。

蚕こそは、彼の弟子応祥が、あんなに実験材料にしょうとしていたものではないか。 それなのに、今、応祥は何をしているのか。自分よりも前に蚕で遺伝学 を開拓しょうとする人がいるということを知っているのかどうか。しかし、どうして応祥から何一つ消息もないのか---。

不安であった。もしも彼がいくらかの金でも準備できたなら、たぶんまっすぐにソウルへ走ってくるはずだ。半年ほどして、応祥から首を長くして待っていた手紙が来た。

「---先生!私も、それがたやすくできるとは期待してはいませんでした。水に落ちた人が藁をもつかむと言うではありませんか。その人も死んだ丸太でないからには、一人の人間の切迫した心情がわかれば、頭から知らないとは言えないだろうと思っただけでした。

しかし、世間は、私が思っていた以上にあまりにも無情でありました。墓の前に向かい合せに立てられた石柱はそれでも沈黙を守っているが、そやつは人の胸 に刀を突き刺す悪漢でした。千円の虎皮を敷いて坐り、人の素朴な願いを完全に踏みにじる奴を先生が見られたら---私は全身が燃えるような羞恥と侮辱で手 足が震えました。そんな卑劣な奴と立ち向かうには、私の感情があまりにも鋭敏すぎるようでした。

今になって、私は、先生が私の下宿部屋を訪ねて来られ真心をこめて勧告された話が、ことあたらしく思い出されました。遅くなったのですが、先生の勧告通りにさせてもらえないでしょうか?---」

手紙の文章の一節一節を吟味してゆっくり読んだ李徳求の顔に、うら寂しくて悲しい気色がただよった。彼は握り拳をぐっと握って叫んだ。

「なんと、そんなことはありえない。絶対にそんなことはありえない。」

李徳求は、自分自身が辱められた以上に苦しかった。

もうこれ以上空しいことに時間を浪費せず、まっすぐな道をひた走って行こうとした応祥のショックが如何ばかりであったろうか、それで、こんな手紙をよこしたのであろう。

数日後、彼は、学校学務部に言って二、三日の休暇をもらい、汽車に乗り定州へ向かった。李徳求教師がムルコルに着いたのは午後御飯時頃であった。

「うちの応祥を訪ねてこられたのですか?」

台所で麦を挽いていた尹氏は麦穂の髭を白く被ったまま外に出てきた。

「はい、ソウルから来ました。」

徳求は中折れ帽をとって丁寧に返事した。

「あらまあ、部屋が汚れているのにどうしましょう。さあ、お入り下さい。これがうちの次男坊の部屋ですよ。」

尹氏は徳求を居間に案内した。

「おかまいしないで下さい。応祥君はどこへ行っていますか?」

「あの子は谷間の粟畑へ草取りに行きました。今すぐ連れてきます。」

「いいです。どこなのかを教えて下さい。私が山の見物も兼ねて捜しに行きます。」

徳求がどうしても畑まで行くと言い張るので、尹氏もそれ以上引き留められず、六つか七つの一番上の孫をつきそわせて行かせた。

徳求は、幼い少年について谷間をそのままずっと入って行き、小川を渡って山の下の斜面を回って狭い山峡に入った。薄黒い石が方々散らばりごろごろしてい る小道の両側には、見かけが悪い雑灌木が散らばって群生していた。割合に低い峠の上へ上った徳求は、歩みを止めて段々畑を見下ろした。谷間の方へ溝が掘っ てある粟畑で、一人の若者が腰をかがめてホミを使って草取りをしているのがはっきり見下ろせた。

「叔父さん!」少年が大声をあげて駆け足で降りて行った。若者はその声を聞かなかったのか、埃をたててホミを使って草取りをしていた。

畝間にかがんでホミを敏捷に扱う応祥を見下ろした李徳求は、胸に義憤の血が煮えたぎった。道端に宝石が落ちていれば、ひとつひとつ拾い大事に始末するは ずだ。だが、宝の中でも一番貴重な宝である人間の知能を、このように踏みにじってしまうとは。いくら国権を失った民族ではあったとしても、この土地は、人 間の善意まですっかりひからびた荒れ地と変わってしまったというのか!

李徳求は、嘆かわしい思いで、畝間で土埃をぱっぱっおこしている桂応祥をやるせなく見下ろした。甥っ子のきんきん声を聞きとめた応祥がふりかえった。畑の入り口で立っている見慣れない紳士を間違いなくはっきりと見た彼は、ホミを投げ出してあわてて走って来た。

「先生!」

徳求の胸にぐいと抱かれた応祥の肩は、激しく揺すぶられた。弟子の肩をしっかりつかんで抱いた李徳求の目には、濃い霧のようなものがみなぎった。

「おまえ、こんなことをしていてどうするつもりなのか、 うん?」

応祥をつかんで揺り動かす徳求の頬が、ぷりぷり震えた。かさかさして、こちこちになった手や、太陽光線で真っ黒に焼けて目だけ光っている応祥の顔を、見てはまた見て、徳求はあきれて涙ぐんだ。

応祥をこんなにしたのは自分の不手際のためだと思って、頭を深く下げ長いため息をつくのだった。

彼等は、新しい草が生い茂っている畦道にならんで座った。

野ばらの群生でホホジロが競って鳴いており、コナラやカシワが生い茂っている谷では鴬が我が世の春と声を張り上げていた。自然は、本当に大昔の姿そのままでそっけなかった。

「ご家族の皆様お元気ですか?」

「_」

「奥様もお元気ですか?」

忘れていたことを思い出させたために、徳求の気持ちは乱れた。しかし、ちくちく痛む心を黙ってなだめてうなずくだけであった。それでなくても、悩みが多い弟子に無駄なことに気を使わせたくなかったのだ。

しかし、おかしい気配を感じた応祥は首を回して師の横顔をじっと見て尋ねた。

「その間、何かあったのではありませんか?」

徳求は頭を上げて山頂を穴があくほど眺めた。心の中で押さえても押さえきれない悲しい思いが急にこみあがってきて、目の前がかすんでしまった。今までこ らえていた憤りが、つらい悲しみと折り重なり心身を揺り動かし爆発しょうとした。李徳求は、奥歯をぐっと噛んだ。ただ、かっと開かれた目に真珠のような涙 がうるんで眉毛をぬらし、かさかさの頬をつるり流れただけであった。

「いや、なんでもない。」

彼は埃を払って立ち上がった。心の中から起こってくる旋風を落ち着かせるかのように、山風に頭の毛を飛び散らせ歩いて行った。

彼等は、薄暗くなってから家に降りて来た。応祥が住んでいる居間に入った李徳求は、行灯の下に山と積まれた書物に視線を向けた。壁には紙に書かれた暦が 貼ってあったのだが、そこには、日別にはっきりと書き記された学習計画があった。その日の課題をやった日は、日にちの上に線が引いてあった。決めて置いた 学習計画をやれなかった日にちには、線を引かないようだった。

ひたすら自分を統制し励ますために作っておいたものであろう。もう一方の隅には、山で採集した蝶や指貫大の繭が沢山積まれていて、その上には古い拡大鏡 が置いてあった。観察力を鋭敏に鍛えるために、拡大鏡でアゲハチョウを近くでよく見て描かれていた蝶の解剖図にも驚いたが、帰るときに持っていった英語の 原書を手に取ってみて、舌打ちせざるを得なかった。その間、数百頁の原書を翻訳してしまっているのだった。

一日中農作業をした身で、このようにべらぼうな仕事をやりのけたということは、彼が得た知識を失わず新しい知識で自分を準備するために、どんなに身もだえしていたのかをそのまま物語っていた。

李徳求は、自分だけが知っている何か意味深長な思惑を匂わせて、何度もこのように言うのだった。

翌朝、彼は急いでソウルへ帰って行った。その時から一か月が経ったある日、応祥に、意外にも、李徳求先生から金三百円を送った送金通知と一緒に、短い内容が記された手紙一通が届いたのである。

「---君に手紙を出して、私はすぐにソウルを出て行く。無駄に私を捜そうと苦労しないように。私がこの生活と決別しょうと決心したのはずっと前のこと だ。金がどこから出てきたのかについては問わないでくれ。私もまた以前、君が行こうとするその道を非常に渇望した人であったことだけは忘れないで欲しい ---私がそのように出来なかったのは、やる勇気と決断力が足らなかったからなのだ。 私はこのような自分を許せない。時期の遅い後悔を、ただひたすら、 君のような洋々たる弟子の未来で償われたいという希望を押さえきれないのでこのようにするのだ。とるに足らないことだが、私の最後の誠意なので遠慮なく受 けてほしい。私は、君が成功して祖国に帰ってくる前には、絶対に会わないつもりだ---」

応祥は、心配のあまり顔色が青ざめ恩師の手紙を何度も繰り返し読んでみた。家に訪ねてきて師が、言った言葉を、あらためて考えてみた。

「もう少し待っていてくれ。」

理解できないことであった。いくら考えをめぐらしても、師の生活状態で、こんな巨額の金を準備したのは驚くべきことだった。どうしても不吉な考えがするので、じっと坐っていられなかった。

応祥は大急ぎで旅装をととのえてソウルへ上り恩師の家を訪ねたが、瓦を敷いたこぢんまりして上品な平屋は、すでにお金持ちのある商売人の妾の家になっていた。

顔が色白く清楚に見えた、妾であるというその女は、李徳求先生が家財道具まで全部売って、トランク一つ持って家を出たこと以外には、何も知ってはいなかった。

学校でも、師が急に辞職願を出して黙って中途退職したこと以外には、何か知っている人はいなかった。李先生と親しかった数学の先生だけが、師は学校など 一つもない寂しい島へ渡って行ったようであり、それは恐らく、彼が日帝警察の家宅捜査以後、日増しに息が詰まるようになった学校の雰囲気から逃れようとす るもがきなのだ、と耳打ちしてくれただけで、彼もまた徳求先生がどこへ行ったのかについては全く知らなかった。

応祥は茫然自失して、日が暮れるまで恩師と一緒にぶらついたなじみの路地をひたすら歩き回った。(どうしてこんなことがありえましょうか。私が勉強を もっとするのがいくら切迫しているからとはいえ、どうして師の血のにじむ生活の代価としての金を受け取れられましょうか。)

応祥は心の中で何度も叫んだ。

しかし、誰をつかまえてこんな切々たる心情を一緒に分かちあえようか。

本当に高潔な心情を持った恩師は、自分の弟子がこんな心境になるだろうと前もって推しはかり、誰にも居所を知らせずにどこか遠くへ消えてしまったのだ。 ああ、代償がなくては一銭の金も得られないこの世の中で、まったく報償も期待しないで、0巨額の金を喜捨するこんな人は、めったにいないであろう。

急に頭を上げて四方を見渡した応祥は、自分が少しの間も、このようにさまよい歩く身ではないのだと感じた。彼がそんなに渇望していたその道を急ぎ邁進することだけが、恩師の期待に報いる道なのだという考えが胸一杯に膨れ上がってきたのである。