李升基博士の生涯

1905年全羅北道で生まれた。

--両班家門で父は開花思想家の一人で、学問を志した息子に「学問は個人の富貴栄華のためにあるのではない」と戒めてソウル遊学させた。

--ソウルの中央高等普通学校を卒業して日本留学へ(1924,5年?)

(旧制松山高校を経て京都帝国大学工学部工業化学科へ入学)

--両班家門とはいえ、経済的には裕福とはいえず苦学し卒業した。

「1931年4月李升基君は、私がドイツ留学から帰ってきたとき新しい卒業生として工業化学教室の喜多研究室に残っていた」(桜田一郎)

*生活のために民間の委託研究生となり、アスフアルト強化の研究をやり、半年足らずである程度の研究成果を上げて学界で発表し大きな反響を呼ぶ。

--東京工業試験所研究員を経て京大内に設立された化学繊維研究所の研究講師となり、念願の「繊維素誘導体溶液の透電的研究」(学位論文)に向かう。

この頃、博士は「朝鮮の科学を発展させよう、朝鮮にも科学者がいることを世界に示そう」という気概を持って研究に励んだという-論文数(48編)

アメリカでのナイロン発明(1938年)の報を受けて博士の研究が一躍注目の的となった

*1939年1月16日工学博士学位取得

*1939年10月「合成1号」と名付けられた化学繊維の合成に成功する

しかし、それは日本の発明と世界に報じられ、博士には日本の化学の名を輝かしめるのに利用されただけだという虚しさだけが残った。

「それより数年前のことだと思うが、オリンピツクのマラソンでわが朝鮮の選手が一位、三位を勝ち取って世界をあっと言わせたことがあった。しかし、その時、競技場に掲揚されたのは朝鮮の旗ではなく、臆面もない日章旗であった。東亜日報と中央日報は、わが選手の走る姿を報道し、その胸に付けられた日の丸を黒く塗りつぶした。しかし、そらがもとで、二紙は停刊処分を受けた。私はこの記事を読み涙を禁じることができなかった。だが、わずか数年後に私自身が、まさに彼等が流した涙を流す羽目になった。しとしと降る雨がもの悲しかった。私は畳をむしりながら一晩中泣き明かした。」

--1944年7月下旬「国防科学」研究を拒否したことなどで大阪憲兵隊に拘留され、出獄したのは8.15解放の日であった。

「李君は、喜多先生の信頼も厚く、京大の化学研究所の講師、助教授、を経てやめたときは教授であった。その間終始一緒に研究することが出来た」(桜田一郎)

1945年11月新たな希望を胸に故国の土を踏んだ博士を待っていたのは米軍政下の惨状であった。

*それでも、京城帝大を京城大学へと自主再建し博士も工業化学科を受け持った。ところが米帝主導の大学、専門学校を統合するという「国大案」が発議され、それに反対する教員、学生が次々と投獄され、はかせも解職されて、なすすべなく研究を中断しモチ袗に戻り故郷で失意の日々を送る。

「二十年にわたって心血を注いだ苦心の研究が水泡に帰してしまった。この空虚感のために、そしてまた、植民地奴隷になったために私は悲憤やるかたなかった。」

1950年朝鮮戦争でソウルが解放された数日後博士のもとに、李鐘玉氏が、今回必ず博士を北に迎えるようにという主席の委任を受けて訪ねてきたのであった。その話を聞いて博士は家族とともにすぐに北に向かった。

興南化学工場技師長に就任した博士は、すでに「カ-バイトからアルコ-ルを生成することのできる化学工場の技術者をわずか五年という短期間に養成していたことが非常に嬉しかった。ビナロン工業化研究のしっかりした基礎ができていることを意味したからである。」

ビナロンを発明してすでに十年余り、やっと工業化の道が開けたのだ。

朝鮮戦争の一時的後退期に、博士は両江道青水里の山の中腹に大洞窟を掘って作られた研究所でビナロン工業化の研究を行っていた。

*洞窟とはいえ、寝室、食堂,浴場、娯楽室などの施設がそなえられ、戦争中にもかかわらず研究に必要なすべての機材と試薬が揃っていた。

*1952年4月27日平壌のモランボン地下劇場に集まった科学者達は

戦火の中でもこのような科学者大会を召集し参席した主席の高い志に感激しながら、それぞれの分野での成果を大きな喜びで分かちあった。

『わが国の科学発展のために』(金日成)

・科学の研究で主体性を確立、国内資源にもとづいて経済建設と人民生活に緊切な問題を解決することに基本的な方向をむけるよう強調

・すべての科学研究を統一的に指導する科学院の創設を提起

(1952年12月1日科学院が創設される)

・研究室と現場との連携を効率よく行うため科学院髟ェ院創設

・1956年工業と農業展覧館に最初のビナロンを展示

その後、日産200�の中間試験工場を建設して研究

主席の現地指導(1958年6月24日)

・ビナロン工場の敷地確定(1959年3月25日)

1960年から本格的に始まった本宮でのビナロン工場建設は、当初の計画を大きく上回る年産二万トン規模の、設計図だけでもトラック二台分になるという共和国での屈指の大建設事業であった。

*この大事業も《すべての力をビナロン工場建設へ》スロ-ガンのもと人々の熱意によってわずか一年あまりの19961年5月に完成した。竣工式(1960年5月6日!)「この夜、私は過ぎた日々を振り返らずにはいられない興奮した状態にあった。私は李朝末期にも生きたし、日帝時代にも生き、そしてまた米帝国主義占領下の南朝鮮でも生活したことがある。日本帝国主義は私を利用するために甘い言葉を弄し、南朝鮮に侵入した米帝国主義は古靴のように私を捨てた。科学者が科学の道から追い出されて何ができるだろう。痩せた体で田畑を耕すことができるのか、なにもないところから商売を始めることができるのか、あの時、私はまさに何もできない屑のようであった。---いま私が切実に感じることは、一科学者の運命は、結局彼自身の資質と努力、すなわち主観的要素によって規定されるのではなく、彼がそこに住む社会制度の性格によって規定されるという事実である」

1996年2月8日逝去享年91才