1.さよならを告げる
「・・・・・・岩をも断つ御神刀様を斬っちゃうなんてねえ」
事切れて血溜まりに沈む石切丸を、青江は見下ろしていた。
保有していた刀装は全て割れ落ち、本体たる大太刀もまっぷたつに折れている。手入れをするだけ無駄だと人目でわかる有様だ。刀身が長いだけあり折れにくくできている石切丸は、万が一も無いだろうと御守を持たされておらず、それゆえに奇跡も訪れない。
石切丸は死んでいた。人の身も、刀の身も、完全無欠に死んでいた。
・・・・・・石切丸を屠ったのは青江だった。
大太刀相手に脇差が挑むなど無謀。そう思うことが既に負けの始まりだ。戦い方さえ工夫すれば、一見不利と思える相手だろうと隙をつくことは十分出来る。特に青江は、豊富な実戦経験からくる千変万化の戦術と共に、人の身を得てからあたう限りの修練を積んでいた。同じくあたう限りの修練を積んだ石切丸でさえ、青江の手中に収まる獲物だった。
刀剣男士随一の偵察力でもって石切丸の様子を窺い、脇差特有の隠蔽力を活かして背後に忍び寄る。備えておいた弓兵と投石兵で精鋭兵を全て蹴散らしてしまえば青江の刃は石切丸に届く。届きさえすれば、青江は貫く場所を誤らない。背中から差し込まれた鋭い切っ先は矢のように心臓と地金を貫いた。一太刀浴びればお陀仏の大太刀が、鞘から抜かれる間も無かった。
切った瞬間、己の右目が焼け付くように痛んだ。
そのとき、石切丸がどんな表情をしていたのかは見えなかった。
「さあて、茶坊主を切った国重はへし切長谷部になった。燭台を斬った光忠は燭台切光忠になった。神剣を切った青江は神剣切青江になるのかな。それともにっかり青江のままなのかな」
じりじりと疼く右目を無視してしゃがみこみ、青江はうつぶせに倒れていた石切丸の身体を抱き起こした。血溜まりに膝が汚れたが、欠片も厭いはしなかった。あらわになった顔は、目こそ開いていたものの不思議なほど静かな面持ちをしていた。手袋を噛んで引き抜き、やわらかな頬にそっと指を沿わせる。一見穏やかに見えて意外と喜怒哀楽の激しい石切丸の、感情に合わせてよく動いた頬は、触れてみれば大福のようにやわらかかった。やわらかかったのだと、青江は初めて知った。
そのまま指を滑らせて、栗色の睫に囲まれた目に触れる。煙る紫水晶のいろをした瞳はきゅうと開かれ、これが死んでいるのだと雄弁に語りかけてくる。水晶の欠片を光にかざすと内側でいくつも光が折れてちらちらまたたくように、石切丸の瞳も光を宿して瞬いていた。戦場で仲間が、己が、傷つけられたときに敵を睨みつける眼差しなど、稲妻が走るようだった。まるで雷を落とすように大太刀を振るう姿に見惚れたその瞬間を、鮮明に覚えている。まだ青江は、思いだせる。
ぽかりと虚ろな瞳を見つめること数秒。青江は何のためらいもなく己の右目を抉り取った。赤く濡れた目をぐしゃりと握りつぶし、石切丸の右目に手を伸ばす。人差し指と中指、それに親指を抉りこませて紫水晶を引き抜き、そっと眼窩にはめ込む。
ぎょろり、と目玉が勝手に動いた。ぎちりと何かが噛み合う音がして、欠けた視界が瞬く間に戻ってくる。それが幽霊切りのにっかり青江が神剣切りの青江になった合図だった。
「さよなら、石切丸」
青江はそっとささやいた。
「君のところへは、いけないよ」
2.わたしのそばに
木下闇に隠れるように佇む青江を見つけられたのは淡く輝く白装束のお陰だった。
今日は朝から雨の降り通しで、どんより垂れ込めた鉛色の雲と細かく降り注ぐ雨粒が相まって視界がきかない。偵察を大の苦手とする石切丸にとっては天敵とも言える様な空模様で、そんな中人探しをするなど、ましてや本丸で一二を争う隠れ上手の青江を探すなど、不可能に近いと思っていたのだが、見つけられた。
ほう、と安堵の溜息をもらす石切丸の目の前で白装束が揺れる。
風は吹いてない。
裾からは紺の軍服に包まれた青江の脚――それと何か、細い棒のようなものが、二本、覗く。
棒のようなもの、が先端に五本の指を備えた手であるとわかったのと、青江がこちらを振り向くのが同時だった。
「・・・・・・驚かせないでくれるかな」
青江はにこりと笑う。その笑顔は普段よりも温かく、声色もやわらかい。そのわずかな差を認めるのがどうにも癪で、石切丸はわざと抑えた声で返した。
「君は驚いていないだろう」
「ふふ、わかってるくせに。僕に言わせたいのかい?」
この子を驚かせないでほしいんだよ。そう言って青江は肩にかけた白装束をほんの少しつまみあげた。ふわりと持ち上がったその中に、小さな手が、足が、それにつながる胴体が頭が隠れている。その肌は青白くところどころが透けていて、見るものに奇妙な寒気を抱かせた。
幼子の幽霊を、青江はどうしてか隠しているのだった。
「それは一体、どうしたんだい」
「どうしたもこうしたもないさ。雨に降られて迷ってしまったというから、ちょっと雨宿りさせてあげてるんだよ」
「・・・・・・雨宿り、」
「そう。濡れたら身体が冷えるだろう?」
なにを当たり前のことを、と青江が首をかしげる。幽霊は身体を冷やしたりしないよ、と石切丸は言わなかった。それよりも、もっと聞きたいことがあった。石切丸はそっと息を吸う。
「切らないのかい」
「切らないよ」
打てば響くような青江の答えだった。わずかに口元の笑みを深めて、青江は続けた。
「この子は道がわからなくなっているだけだ。雨さえ上がれば、行くべき所に行ける。ただの哀れな迷い子なら僕が切る必要なんてどこにもない。・・・・・・それにね」
青江が白装束の袖を撫でる。その手つきは酷く優しい。まるで母が子の頭を撫でるようだ、ぽつりと浮かび上がった連想を石切丸は頭を降って追い払った。
「この子、泣いていたんだよ。さむい、つめたい、ここはどこ、ってね。雨宿りぐらい、させてあげたいじゃないか。
ねえ、お願いだよ。見逃してくれないか。雨がやむまででいいんだ。本丸には決して入れたりしない。少しだけでいいから、雨宿りをさせてあげてくれないか」
とつとつと訴えかける青江の眼には、自分がどう映っているのか。ひょっとすると、死穢と見ればすかさず祓ってしまうような潔癖症とでも思われているのか。その考えは、石切丸の胸に鈍い痛みをもたらした。確かに穢れは厭わしいものだが、それに劣らぬ情もある。相手が青江ならなおさらだ。
断罪を待つように見つめてくる青江に、石切丸は差していた蛇の目をそっと持ち上げた。
「・・・・・・おいで。君が身体を冷やしてしまっては元も子もないだろう」
江戸紫の蛇の目が今初めて目に止まったというように、青江がぱちくりと瞬きを繰り返す。どうやら、本当に驚かせられたようだった。溜飲がひとつさがって、石切丸はそっと口元をゆるめた。
「雨がやむまで、お供しよう」
「・・・・・・ありがとう」
ほんの少しまなざしを彷徨わせてから、青江はするりと石切丸の隣にもぐりこんだ。
石切丸と、青江と、それから白装束の下の幼子と。
ふたふりとひとりで、それからしばらく、傘を叩く雨の音を聞いていた。
3.Honey Sea Moon
「月には海があるそうだよ。聞いたことあるかい?」
青江の声に、石切丸はゆっくりと首をめぐらせた。
振り向いた先では腹ばいになった青江が行儀悪く足を曲げ、畳の上で泳ぐ真似をするようにぷらぷらと揺らしていて、当の本人はいつもの張り付いたような笑顔にわずかに面白がるような色を載せて石切丸を見上げている。その手に収まっているのは、大写しにした月を拍子に描いた文庫本。審神者に借りたものだろう、と石切丸はあたりをつけた。
本を読むときの青江は会話を好まない。それが自分から話しかけてきたのだから、もう読み終えて、ここから去る気なのだろう。去り際の挨拶にしては変わった話題だと思いながら、石切丸は応えた。
「昼にも夜にも、青く見えるところはないのに海があるのかい?」
「水を湛えた海じゃないさ。細かな細かな砂塵がいっぱいに降り積もったところがあって、海みたいに見えるからそう呼んでいるだけだって」
「砂なら砂漠か、蟻地獄みたいなものじゃないのかい?」
石切丸は大真面目に言ったのだが、青江はぷっと吹き出した。
「あ、蟻地獄って、きみねえ・・・・・・!月に蜉蝣がいるなんて、考えたこともないよ!」
「嫦娥は月に行って蝦蟇になったというのだから、蜉蝣がいてもおかしくないだろう」
「んっふ、そうだね。蝦蟇がいるなら餌の蜉蝣だって、いてもおかしくないよねえ・・・・・・はは」
「・・・・・・笑いすぎだよ、青江」
石切丸は、ごくさりげなく自らの大太刀を引き寄せた。鯉口を切るまではさすがにしなかったのだが、青江の反応は実にすばやく、速やかに目尻に浮かんだ涙をぬぐうと脇によけてあったおやつ皿を石切丸に差し出した。
「ごめんごめん。うん、謝るし僕の分のわらびもちも食べていいからその大太刀を仕舞ってくれないかな」
「わかればいいんだよ」
差し出されたわらびもちをひとつつまんで、口に放り込む。水よりはぬるいが体温よりはひんやりとした、程よい冷たさがが黄な粉の香ばしさをまとって喉をすべりおり、石切丸にわずかな涼気をもたらした。喉越しの滑らかさがまたすばらしい。見る間に機嫌を直す石切丸を間近に眺め、青江はふわりと口元を緩めた。
「月には沼があるそうだから、ほんとうに蝦蟇が鳴いていたらおもしろいね」
「海があって沼があるなら、川か池もあるのかな」
「川と池は知らないけど、湖があるよ。沼があって湖があって、海があって入り江があって、山脈を越えた先に大洋が広がっている。・・・・・・面白いと思わないかい?」
歌うように告げて、青江はゆるく首を傾けた。わずかに零れた髪がさらりとゆれて、柔らかく細められた金の目に薄く帳を落とす。それが雲隠れする満月のように見えて、石切丸は手を伸ばした。髪に触れて、そっと払ってやると、青江は二度またたいて上目遣いに石切丸を見上げた。
「どうかな。君は、見てみたいと思わないかい?」
「わたしと、君とで?」
「そう。僕と君とで、月の海を」
「君が案内してくれるなら、行ってもいいかもしれないねえ」
「ふふ。索敵ならお手のものさ」
青江は跳ねるように立ち上がった。空になった皿を盆に載せ、ついでとばかりに本も載せ、器用に片手で持ち上げて障子に手をかける。そうして石切丸のほうを振り返ると、ふと笑った。その名前とは程遠く、石切丸の見たことがない、本丸の誰も見たことがないような、花がほころぶような笑顔だった。
知らず、石切丸は息を呑んだ。
「いつかきっと、行こうねえ」
4.どっちがいいの
「君って両刀使いだよね。・・・・・食事のことだよ?」
ここのところは鳴りを潜めていた青江特有の変に勘繰らせるような物言いに、石切丸はゆっくりと首をめぐらせた。視線の先、石切丸の左隣では当の青江がお馴染みの薄ら笑いを貼り付けて茶請けの菓子を眺めている。
「急に何を言い出すんだい」
「だって君、ザルじゃないか。こないだの宴会なんか次郎太刀に張り合って一斗樽を空けていただろう。かと思えばこういう甘味もぺろっと食べちゃうし。守備範囲が広いよねえ」
青江が黒文字でつついてみせるのは、歌仙が太鼓判を押して勧めてきた羊羹だ。今の時分にふさわしく、表に紫陽花の花をあしらった美しい菓子を、石切丸は先ほど三切れ平らげた。青江の目の前の皿にも同じ羊羹が載っているが、こちらはまだ二切れ残っている。
「好き嫌いはよくないからね」
「そういう問題じゃないと思うんだけどなあ。それに何でも食べるのはいいけれど、食べすぎは身の毒だよ。ほら、こんなに肉がついてる」
ふに、と頬をつまんできた手を捕まえて、石切丸は青江を身体ごと引き寄せた。
「こら。やめなさい」
「ふふふ。あーあ、怒られちゃった」
石切丸の腕の中にすっぽりと納まってしまった青江は忍びやかに笑う。ぴたりと合わさったところから己の胸に直接笑い声が響いてくるようで、石切丸はわずかに抱きしめる力を強くした。
かすかに身じろいで、青江が振り向く。薄い唇がにんまりと釣りあがった。
「もしかして、夜の方も両刀だったりするのかな?」
「私は青江一筋だよ」
耳元で吐息と共に告げられて、青江の耳が瞬時に赤く染まる。花にもに似たそれに、石切丸はそっと口付けた。