同棲しているからといって、毎日会話するとは限らない。
山形と東海道が済んでいる家は東京にあるが、職務上接続しているのは東京駅だけだ。新幹線全体に関わる会議なり企画なりがあれば顔を合わせるものの、双方東京以外でこなさなければならない業務も多い。特に地元での仕事となれば、そのまま現地の宿舎に泊まって帰らないこともままある。車両内にまではりめぐらされた電波網を介し、メッセージアプリを使ってやりとりできる世の中だから、直接言葉を交わさなくても特に支障はない。
ないのだが。
ファミリーサイズの冷蔵庫、つやつやしたライトグレーのフレンチドアに貼り付けられた書置きに東海道が気づいたのは、ちょうど早番が割り振られた山形とすれ違ってしまった朝だった。
その書置きは、枝にとまった青いセキセイインコのイラストが半分を占める、四角いふせんに書かれていた。メッセージは、「お疲れ様。冷蔵庫にサラダがあるので、よければ食べてください」の一言。普段使いしているボールペンで走り書いたのであろうその文字は、書き手の涼やかなたたずまいを思わせる端麗な水茎の跡を滴らせている。
カロリー至上主義の東海道にとって、サラダなど食べる価値の見いだせないメニューの最たるものだ。なんせ草の寄せ集めだ。ドレッシングには多少油が使われているが、本体たるサラダと合わせても摂取できる熱量は微々たるものに過ぎない。エネルギーにならない食物を食べる手間など、かける価値はない。
ただし、山形の心配りは、受け入れるのもやぶさかではない。
東海道はふせんをはがしてポケットにしまい、いそいそと冷蔵庫からサラダの皿を取り出す。カロリーは期待できずとも、込められた思いが摂取できるなら、このサラダには価値がある。
東海道がその次に書置きを見つけたのは一週間後のことだった。脱衣場の棚に置かれた見慣れない入浴剤の箱に貼り付けられた、枝にとまったカナリアのイラストが半分を占める四角いふせん。書かれているのは「身体が温まるそうです。使ってみて」の一言。
そのメッセージを読んだとたん、互いに触れ合った夜を思い出して赤面する。どうにも冷えがちなつま先を包み込んで息を吐きかけられ、優しく温められたのは記憶に新しい。背筋を走るふるえまでもがよみがえってきたのを、頭を振って追い払う。気をとりなおし、ふせんをはがしてポケットにしまい込んだ。入浴剤を使うかどうか、悩んだあげく、やめにした。せっかく準備してもらったものだ。どうせおろすなら、二人で一緒に使える時がいい。
次に書置きを見つけたのは、さらに五日後のこと。白文鳥のイラストが半分を占める四角いふせんには、「クリーニングの受取を頼めますか?」との走り書きがあった。ダイニングテーブルに残されたふせんと、隣に置いてある引換券をポケットにしまって東海道は家を出た。ここ二、三日、どうにも慌ただしくてクリーニングに行くことも忘れていた。山形が洗濯ものをまとめて出してくれていたなら、せめて受取は自分で行くべきだろう。山形と暮らしているのは、自分の世話をさせるためではないのだから。……概ね世話になっているのは否めないが。
それからも、書置きはちょくちょく続いた。インコ、カナリア、文鳥がさえずるささやかなメッセージを、東海道はひとつずつ受け取っていく。ふせんが使われる順も決まって同じで、青、黄、白の小鳥たちが繰り返し現れる風景は、東海道の日常に馴染んだ。手書きの文字は、会えなくても山形の姿と声を思い起こさせた。ふせんは全て東海道に回収され、机の引き出しで眠りについた。
その日東海道が見つけた書置きのふせんは、冷蔵庫にはりつけられていた。「資源ごみを出しておいてもらえますか?」とのメッセージを読み終わり、ふせんをはがした東海道はふとそのイラストに目を留めた。描かれている鳥が文鳥だったのだ。三日前に見たふせんに描かれていたのはインコだったはずだから、今日のふせんはカナリアでないとおかしい。
……いや、別におかしくはない。山形だって文字を書き損じることぐらいあるはずだ。漢字を間違えたか何かで、一度書いたものを捨ててしまったのかもしれない。あるいは別の用件で使ったのか。自分用のメモとして何か書きつけたかのかもしれない。別の誰かへの伝言を残したのかもしれない。
カナリアの代わりに文鳥が来たそれらしい理由はいくらでも思いつく。そもそも、ふせんのローテーションがちょっとばかり変わろうが、伝言内容に差し障りはない。気にするようなことではないのだ。本当に。
それでも。山形が、東海道に向ける言葉をひとつ、無くしたのかもしれないと思うと。どうしても引っかかってしまう。
どんな些細な違和感であろうと、確認は必要だ。それは鉄道の運行であっても共同生活であっても同様だ。未然に事故を防ぐためには常に注意を怠ってはならない。そう自分に言い聞かせ、東海道は山形に直接尋ねてみることを決めた。いつのまにか、くしゃりと握りつぶしてしまっていたふせんを伸ばしながら。
幸い、というほどでもないが、尋ねる機会はすぐにやってきた。ちょうど翌日が、二人とも東京勤務からそのまま帰れる日だったのだ。私的な用件を職場に持ち込むのは躊躇われたたため、二人して帰宅し遅い夕食の席に着いた時に、東海道は口火を切った。
「山形。昨日の書置きについて聞きたいことがある」
東海道のことばに、山形はおっとりと首を傾げた。
「ゴミがどうがすた?」
「違う、内容ではない。ふせんだ。なぜ文鳥だったんだ」
「文鳥?」
長いまつ毛を瞬かせた山形はいかにも不思議そうだった。山形にとっては覚えてすらいないささいなことかもしれない。そう思ったが、一度聞いてしまったものはしょうがない。しょうがないのだから続けるべきだと、東海道は言葉を継ぐ。
「文鳥だ。いつもの書置きに使っているふせんなら、インコの次はカナリアだろう。なぜ今回は文鳥だったんだ」
なんだ、ほだなこが。山形が口元をほころばせた。心当たりが見つかったようだ。
「よぐ気づいだなぁ」
「あれだけ繰り返して使用していれば覚えもする」
「東海道は物覚えがええなぁ」
「当然だ。……いや、話がずれている。インコになった理由はなんだ」
別に責めたい訳じゃない、気になっているだけだ、と付け加える。ニコニコと笑う山形の様子からして、責められていると受け取っているわけではないとはわかっていたが、念のためだ。
「別に大したことじゃねぇず?」
「構わん。言ってみろ」
「来週の水曜急さ非番になったんだ。東海道も非番だべ?しぇっかぐだがら一緒さ出がげんべがど誘おうづもりだったんだが、途中まで書いでやめですまった」
「大事な話じゃないか!!」
「直接言いたくなったんだず」
今言えで良いっけ。嬉しそうに続けた山形は、近場で開催される予定のバードウォッチングの話を始めた。今しか見られない渡り鳥を観察する期間限定の特別イベントらしい。出かける先として否やはない。ないのだが。
「山形。その書きかけのふせんは捨ててしまったのか?」
「部屋さ置いでぎだはずだが、それがどうすた?」
「……いや。その。捨てていないなら、引き取ろうかと」
今までのふせんは全部取ってあるから、仲間外れにするのも悪いかと思ってな。手を振ってあたふたと言いつぐ東海道に山形は目を見開いて──破顔した。せわしなく動く手をそっとつかまえて、小さくささやいてやる。
山形が何を告げたのかは、東海道しか知らないことだ。そして一羽だけはぐれてしまったカナリアは、今は仲間たちとともに、東海道の机の引き出しで眠っている。書きかけの文字はそのままに、インコと文鳥に挟まれて。