……ピンポンパンポーン。どこかで聞いたことのある音階のチャイムが流れた。ざらついたホワイトノイズが一瞬大きく響いてすぐに収まり、くぐもった男声アナウンスが始まる。
『……ご案内いたします。西武新宿線と西武安比奈線(廃線)はキスしないと出られない部屋に閉じ込められました。この部屋は、名前の通り、キスをしないと出られない部屋です。部屋から出るためには二人でキスをしてください。繰り返します……』
「いや繰り返さなくていいよ!!そもそもキスしないと出られない部屋って、しかも閉じ込められたってどういうことだよ?!」
締め切られた扉を目の前にして立ちつくす安比奈の絶叫が、部屋の中にこだました。
「安比奈、落ち着けって。ただのよくある同人部屋に閉じ込められただけだ」
「落ち着いてなんていられるかー!!ていうかこんなシチュエーションがよくあるの?!」
アナウンスを聞いて元気にツッコミを入れていた安比奈は、隣で訳知り顔で肩をすくめている新宿に勢いよく向き直った。勢いついでにがっしり肩も掴んでしまったせいで、新宿が少し体勢を崩す。ごめん、と咄嗟に謝った安比奈に、気にすんな、なんて軽く答えて、掴まれたせいでできた服の皺を伸ばしてから、新宿はにこやかに宣言した。
「こういうシチュエーション、よくあるぞ」
「そうなんだー!?」
ガーン、と効果音でも出てきそうな絶望を顔に浮かべる安比奈を横目に、新宿はぐるりと部屋を見回す。素材のよくわからない壁に囲まれた、殺風景な白一色の部屋だ。窓はどこにもなく、出入り口になりそうなのは、隙間なく閉じられたスライド式の扉のみ。もちろん手では開けられないし、蹴破ることもできないのは確認済み。他にどう表現しようもない、見事な閉じ込められっぷりである。
「こんな、カジュアルに閉じ込められちゃうものなんだ…… カルチャーショック……」
「まー気にしたら進まないからサクサク行こうぜ」
「いや新宿も気にしようよ大事なことでしょ?!」
「ふーん。じゃあ安比奈、このまま4ページぐらい使ってここがどこかどうして閉じ込められたのかあーだーこうだ言い合うのと、裏事情を完全に無視してさっさとキスして出ていくのとどっちがいい?」
「えっそういう問題?」
「そういう問題。キスしないと出られない部屋ってことは、キスしたら出られるってことだろ」
「それはまあそうなんだろうけど」
「じゃ、キスすればいい」
新宿はさりげなく安比奈の左手を取った。左指の根元に納まっている銀色の指輪に、一瞬、目を留めてから手の甲にキスを落とす。ほのかなぬくもりが安比奈に伝わるのと同時にごうっと鈍いモーター音がして、扉がわずかにスライドし、わずかに隙間が空いた。
「おー、開いた」
「うわー…… 本当にキスしたら開くんだ…… 」
「看板に偽りなしってやつだな。良かったなあ安比奈」
「でもほんのちょっとしか開いてないよ?」
「もっとキスしたらもっと開くって」
新宿は、人差し指、中指、薬指、小指と順を追って丁寧に爪先に唇を落としていく。指がひと段落すると、手をくるりとひっくり返して掌に。ちゅ、ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップ音がリズミカルに響くたび、唸り声のようなモーター音とともに少しずつドアの隙間が広がっていく。それはいい。それはいいのだが。
「新宿、わざと音を立ててるよね?!」
「バレたか。結構早かったな」
「恥ずかしいからやめてよもう」
「別に恥ずかしがることはないだろ。ここ、俺達しかいないんだぜ?」
「そういう問題じゃないんだよっ、わっ、うひゃ?!」
「へえ。安比奈って、ここ、弱かったのな」
新宿が「弱い」と評したのは手首の内側、皮膚が薄くなっているせいでどうにも敏感で、キスのついでにやわく食まれたのにちょっと過剰に反応してしまった。それだけなのに、新宿はわざとらしく舌を出して、薄く浮いた血管をなぞるように舐め上げる。ざらついた熱い舌が肌を這う感覚に背筋がざわついて、安比奈はつい身震いしてしまう。おまけにもう一度食まれて、じゅう、と吸い付かれて。安比奈の我慢は限界に達した。
「〜〜〜新宿!!」
「何だよっ、ん」
掴まれていた左手を振り払うのもつかの間、安比奈は新宿の肩を掴んで無理やり自分の唇を新宿の唇に押し付けた。1、2、3。カウントして、がばりと身を離すと、かぶさった前髪越しに目を丸くしている新宿の顔が飛び込んでくる。悪いと思いつつも扉に駆け寄り、空いた隙間に半身をねじ込もうとする。が、頭と胸がつかえて通れない。
「……まだ出られないな?」
「もおおおお」
「ま、あとちょっとなのは間違いないって。ほら、」
こっちこいよ。ふわりと優しく呼びかけられて、安比奈は渋々新宿の隣に戻る。安比奈は憮然としているのに、目を合わせた新宿は自信満々に笑っていた。
「キスしよう、安比奈」
「あーもう!そういうのさらっと言えちゃうところほんとイケメンだよね!このイケメン!モテ男!稼ぎ頭!」
「褒めてくれてサンキュなー」
「そりゃ新宿褒めがいがあるもん……」
ぼやいた言葉にクスクスと笑って、新宿は安比奈の肩に手を置いた。新宿がつま先立ちをしたのに応じて、安比奈も新宿の方に手を置く。視線が綺麗に合う位置、額と額が触れ合うほどの距離にまで顔を近づけて、お互いの瞳を覗き込む。
どちらからともなく、キスをする。
触れ合った唇からは熱が伝わってくる。それだけで、何かが通い合っている気がする。もう少し、うん、もう少し、と互いに手に力を入れた瞬間、どこかで聞いたことがあるようなチャイムが再び鳴り響いた。
『……ご案内いたします。西武新宿線と西武安比奈線(廃線)は既定のキスを達成したため部屋から出ることが可能です。忘れ物に注意の上、お気をつけてお帰りください。繰り返します……』
「いや色々台無しじゃない?!」
「んー……まあ出られるんならいいんじゃないか?」
「新宿はほんと切り替え速くていいよね」
そりゃ俺だって出たかったよ、出たかったからキスしたんだけどさ、でもなんか雰囲気とかあるじゃん。ぶつぶつとぼやく安比奈に、新宿は手を差し伸べた。
「安比奈」
「なに、新宿」
「帰ったら続きしようぜ」
「……家事が全部終わったらね」
「おー。俺も手伝うわ」
安比奈は新宿の手を取った。並んで部屋を出る、二人の左手薬指には銀色の指輪が輝いている。