月も雲もない、暗い夜だった。
ここら辺は駅から10分も歩けば住宅地が広がるばかりで、喧騒も光彩もほとんど届かない。小さな一軒家、大きな一軒家、たまにアパートとマンションが並んで、まばらな街灯がぽつぽつと光の輪を投げかけているだけの暗い道だ。日付が変わるまでの残り時間を数えた方がはやいような、夜更けに歩く人の姿は武蔵野たち以外には見当たらない。
武蔵野たち。内訳を言うと、武蔵野と東上だ。車両点検で帰りが遅れ、人様の手料理が食べたくなった武蔵野と、東武本線たちとの会議があって、またうっかり撥ねたとかいう肉を持たされた東上とで、たまたま顔を合わせて、向かう先が同じだからと肩を並べて歩いている。近況報告に世間話、仕事の愚痴、同僚の愚痴。話題は双方それなりにある。ふうふうと白い息をこぼしながら、とりとめない会話が続いて、続いて、不意に途切れた。
……こういう時、何が通り過ぎたって言うんだっけ。なんか聞いたことがある気がする。なあ東上、そう声をかけようと武蔵野は隣の東上を振り向いた。
東上はなにかを見上げていた。マフラーがずれて顎がのぞく。口が小さく動いて白い息が汽車めいて立ち上がる。声は聞こえなかった。聞かせるつもりで言ったのではないんだろう。ただちょっと、武蔵野は聞いてみたくなった。
「とーじょー、今なんつったの?」
「あ?」
じろりと睨まれたが気にはならない。武蔵野を見る東上の目つきが悪いのは慣れっこだ。まあ、別に慣れたくて慣れたわけじゃないけど。
「上見てさ、なんか言ったじゃん。なんつったの?」
「別に大したことじゃねえよ」
「えー隠されると気になるんですけどー」
武蔵野がわざと茶化すような口ぶりをしてみせると、東上はぷいとそっぽを向いた。そっけない仕草だが、怒鳴られるよりはずいぶんマシだ。それに、こういう子供っぽい仕草をする東上は結構貴重だ。宿舎だと親みたいに振舞っているし、そうじゃなきゃ秩鉄がらみでイッちゃってるし、仕事で顔を合わせるときは先輩面ばっかりだから。
「別に隠してねえよ。本当に大したことじゃない。オリオンだって、言っただけだ」
「オリオンって、えーと、星座?」
「そう。ほらあそこ、マンションの上」
肉が詰まったビニール袋でふさがったのとは反対、右手で東上は空を指さす。綺麗に伸びた人差し指の先をたどると、オレンジと青の対角線に挟まれた三ツ星が並んでいる。
「あー見つかった見つかった。なるほど星ね。星かー」
東上は星を気にするような性格ではなかったよな、なんて思ったが、突っ込むのはやめておいた。へーと気の抜けた声を漏らして空を眺める武蔵野の隣で、東上も再び空を見上げた。
「オリオンを見つけると、冬だなって思うんだよな」
「有名なんだっけ?冬の星って確か他にもあった気がする」
「有名な星なら冬の大三角だろ。オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、三つつないで冬の大三角。あとはそうだな、あのベテルギウスの斜めの星がリゲル、真ん中が三ツ星、あそこの明るいのがアルデバラン、あっちがカペラ、カストル、ボルックス……」
「あらま、結構あるのね」
「そうか?昔と比べちゃずいぶん減った」
「えー、キラキラしてんじゃん」
「昔はもっときらきらしてたんだよ。ここでだって、もっとたくさんの星が見えた」
東上の声は遠い過去をなぞるようだった。東上がまっすぐに見上げるまなざしは、今のまばらな輝きを透かして、かつての夜空を眺めているようだった。隣の武蔵野などいなかった時の満天の星空。武蔵野の知らない、煌めく夜。
武蔵野は別に星に興味はない。東上の隣で同じように空を眺めてはいるが、東上にしか見えない星を見たいとは思わない。それでも見るなら、今ふたりで見える星がいい。そう、たとえば。
「流れ星でも落ちねえかなあ。こないだニュースになってたやつみたいなとかさあ」
東上はあきれたように武蔵野を一瞥した。
「こないだって、だいぶ前の話だろ」
「そりゃそうだけどさ、遅れてきたやつが一個ぐらい落ちてきてもいいだろ。こんな感じでーー」
武蔵野は冗談のつもりで指を振りかざした。先ほど東上が指さした冬の大三角、シリウスとベテルギウスをつなぐように走らせた軌跡を――
ひとすじの流星が、綺麗に尾を引いてなぞって消えた。
「……」
「……」
思わず足を止め、二人して顔を見合わせる。シンと冷たい空気が頬を刺している。こわごわと、武蔵野は自分の指を目線の高さまで持ち上げた。
武蔵野が、もう一度軽く指を振ったのをみて、東上は腹を抱えて笑い出した。
「お、お前……!いまの、タイミング、良すぎかよっ……!」
「いや偶然だかんね?」
東上の目じりには涙が浮かんでいる。よっぽどツボにはまったらしい。
「たまたまにしちゃできすぎだろっ…!フッハ、なんだよ、魔法かよっ」
「魔法とかそーゆーのは京葉の担当だってば」
「ちちんぷいぷいってか。おまえ、そーいう柄かぁ!?」
「ねえ東上聞いて?俺の話聞いて?」
ひいひいと肩を揺らす東上は邪気のない笑顔をこぼしている。これはすぐには収まりそうにないと検討を付けた武蔵野は、声をかけるのを諦めることにした。空いた手をポケットに突っ込んで、見るともなしに空を眺める。ひときわ強く輝く青白いシリウス、月めいて色味がかった橙のベテルギウス、少し視線をずらした先のプロキオン。東上が指さした三つの星を目でなぞる。冬の大三角以外には、数えるほどの星が瞬く夜空。
それが今、東上の隣にいる武蔵野の目に映る夜空だ。武蔵野は、別にこれでいい。
つま先がじんと痺れるほどに冷えたころ、ようやく東上は笑うのをやめて歩き出した。武蔵野もそれに続く。ごうと音を立てて車が二人を追い越していく。宿舎まではまだもう少し歩かなければならない。
「あーあ。折角の流れ星なのに願いごと言いそびれたな」
「そーですねー」
「もっかいできねえか?なあ、魔法使い」
東上の言葉尻にはまだ笑みが滲んでいる。武蔵野はジト目で東上を見やった。
「できねーし。つか何願うの」
「……ん、」
東上はそっぽを向いて、空咳をひとつした。
「……押しかけ飯たかり野郎が明日の朝何食いたいか教えてください、かな」
「え?それって、」
「面白いもん見せてもらったからな。朝飯に、食いたいものぐらい作ってやってもいい」
顔を合わせようとしないし、言いまわしこそぶっきらぼうだが、東上の声音は柔らかかった。多分、照れている。東上が武蔵野にこんな風にふるまうのは珍しいし、メニューのリクエストを受け付けるのも珍しい。珍しいことづくめだ。やるじゃん偶然!武蔵野は心の中でガッツポーズした。これを逃す手はない。
「じゃあ、じゃあ、俺の東上の味噌汁が食べたい!わかめとタマネギのやつ、鰹節で出汁とったやつ!」
「出汁ぃ?ったく面倒くせえのあげやがって」
「えーダメなのかよー東上のケチー」
「駄目とは言ってねえだろ」
「やったー!あっあと出汁がらでふりかけ作って、なんか甘辛いやつ」
「ちったあ遠慮しろよてめえ」
「なんだよ、作ってくれるって言ったのは東上だろ」
「これだから国鉄は……」
ぶつぶつと文句を言っているが、今日帰ったら、東上は明日のために昆布を水に浸けるのだろう。そして明日の朝、食卓には出汁から作った味噌汁と炊きたてのごはん、それから鰹節のふりかけが並ぶのだ。
3回唱えずともかなう願いに思いを寄せて、武蔵野は「その袋持つよ」と右手を差し出した。