視界の隅に、薄く。手を振る『影』がちらついた。
・・・・・・こう表現するとホラーかファンタジーの出だしのようだ。そのうえ『影』が自分にしか見えないとなると、なおさらフィクションめいてくる話である。
しかし。高尾にとっては、現実の出来事だ。たとえ今が試合前で、なんでアイツがここに居てしかも手招きしてんだよ意味わかんねえよと思っても、実際に起こっていることだ。
改めて『影』を認識する。その状態を把握する。いつか見た、いつも見るままの無表情でちょこちょこと手招きしている。対象は、おそらく、高尾。そして高尾以外に『影』に気付いている人間は居ない模様。まあ、もともとあの『影』を見つけるのは至難の技なんでしょうがない。
どうしよっかなーアレ。
高尾は、というか秀徳高校バスケ部の面々は、これから練習試合なのである。とはいえ真面目なバスケ部メンバーはきちんと時間に余裕を持たせて移動してきたため、ちょっと『影』に誘われてみるぐらいの余裕はありそうだった。
「スンマセーン。ちょおっっと用事思い出しちゃったんで、先行っててもらえませんかね」
高尾の声に、前と隣を歩いていたチームメイト達が足を止めた。携帯電話を取り出し振って見せる。前をゆく我らがキャプテンは渋面をつくったが、時計を確認するといいだろうとうなずいた。隣でラッキーアイテムの電気ポッドを抱えていた我らが愛すべきエース様は、かすかに眉根を寄せたものの、結局興味ないのだよと言いたげにそっぽを向く。
「試合に遅れたら承知しないのだよ」
「まっさかあ!冗談きついぜ真ちゃん」
ひらりと手を振って、高尾は走り出した。間に合わなかったら轢くぞ、という先輩の温かい声をBGMに。
「よっ」
手招きしていた『影』こと、誠凛高校バスケ部の黒子テツヤはぱちくりとまばたきをして高尾を迎えた。
「来てくれたんですね」
「おいおい、呼んだのはお前だろー?」
「そうなんですが。高尾君が来てくれるかどうかは、正直自信がありませんでした」
君がボクを見つけられるのは知っていますが、今までそういうこと、なかったんで。
わずかに視線を逸らしてつぶやく黒子、の、肩を掴んでやる。
「前にも言ったろ?俺は、いつでも、お前のこと絶対に見逃さねえから覚悟しとけって」
「見逃してください。特に試合中は。迷惑です」
「ふはっ!オッマエ、往生際悪いでやんのー!」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
黒子の声音は若干ふてくされたような色を帯びていた。これはますますつつき回してからかいたいところだが、じゃれているばかりでは話が進まない。湧き上がる笑いを噛み殺して飲み込んで、高尾はせいぜい真面目な顔を作った。
「つーかさあ、お前、何しに来たわけ?」
「ちょっと高尾君に用事がありまして」
「真ちゃんじゃなくて?」
わざと語尾を上げてやる。黒子はきっぱり断言した。
「緑間君に用事があるなら、直接言います」
「だよなー」
「大体高尾君だって一人で来たじゃないですか」
「そりゃーさー。あんなに熱心に誘われたらひとりで来ないほうが失礼じゃん」
「はあ。伝わりましたか。それはうれしいですね」
黒子が無表情のまま、棒読みで、そうのたまったものだから、高尾のそれなりに努力して作った真面目な顔ががらがらと音を立てて崩れた。
「っ、くっはー!!お前もうちょっと言い方あるだろ!棒読みすぎだろ!マジひでえ!!」
「笑いすぎです」
ひいひい笑う高尾のみぞおちにずさっと黒子の手刀が刺さる。
「いってえ!何すんだよ!」
「いえ、早く用事を済ませようと思いまして」
高尾君。
そう、改めて口にした黒子から、先ほどまでのむすっとしたような雰囲気は消えていた。残ったのは相変わらずの、何を考えているのかわかりにくい無表情だ。
「何だよ」
「手を出してくれませんか」
ひたり、と。視線を据えて、黒子が言った。
なんだこいつと真っ先に思った。怪しいとも。しかし高尾は、黒子が試合前の選手に危害を加えようとするやつじゃないことを知っている。それに、高尾は面白いことが大好きだ。斜め後ろ20cm上からおは朝の神様が告げている。これは乗っかった方が面白そうなのだよ、と。
「はいよ」
それでも用心して利き手と反対、左手を差し出す。黒子は僅かに眉をひそめた。
「もう片方もお願いしていいですか」
「んー、別にいいけどさ。一体お前、何したいわけ?」
「こうです」
あろうことか、黒子は。
差し出した両手を、自分の両手で包み込んだ。
「っ、はあ?!」
「すぐ済ませますから少しだけ貸してください」
慌てる高尾に落ち着いた声で告げて、黒子はそっと目を伏せた。空色の眼差しがまつげの影に隠れる。
空気に淡く溶けるように、黒子が囁いた。
“ボクのパスが、君の力になりますように”
きゅっと、手を包む力が増す。
そして見上げてきた黒子の視線に、高尾は射抜かれた。
いつもの茫洋とした目とは全然違う。まるで試合の最中、火神にパスを出す時のようなつよい視線。外すことなんてできやしない。広い視野と俯瞰的な状況把握を誇る『鷹の目』の持ち主、であるのが高尾の売りだが、こんな視線に捉えられてしまっては嫌でも視界が狭まってしまう。ただ、目の前の、黒子だけしか見えない。
どうにかことばを絞り出せるようになるまで、随分時間がかかった気がした。
「……どういうつもりなワケ?」
「この前のお礼、というか、お返しです」
『鷹の目』くれましたよね。その一言で数日前の記憶がよみがえる。
せっかくの休日だというのに、何の因果かキセキの世代やらそのチームメイトやらが集まってストバスをした。その時、相手チームのメンバーが大きすぎて見晴らしが聞かないとこぼしてみせた黒子に高尾はこう言ったのだ。
"じゃあ、俺の『目』、やるよ"
勿論冗談だったし、黒子もそう受け取ったはずだった。だが、ふざけて黒子の目に手をかざした時、黒子がやけに大人しく目を閉じたことが今更思い出される。あの時、高尾はどう反応したのか。指をかすめた前髪の柔らかさばかりが顔を出し、肝心のことを思い出せない。
「もらいっぱなしは癪ですから。ボクのパス、もらってください」
黒子の顔は大真面目で、冗談を言っているようには見えない。かと言って、マジになって返すのは、なんか、違う。なかば無理やり、軽い声を出す。
「嫌っつったら?」
「返品は受け付けてません」
鮮やかな即答。イグナイトパスもびっくりの素晴らしい反射速度だ。
「……つーか、なんでパスなんだよ。お返しっつうなら、俺が『目』やったんだからお前は『影の薄さ』寄こすべきなんじゃねーの」
「君の『目』なら単体でも効果を発揮しますけど、影が薄いだけでは意味がありませんし。それに、君にはパスの方がいいかと思いまして」
黒子の目がすっと細まった。そこに意味を探してしまったのは、高尾が意識しているせいだと高尾自身が知っている。
キセキの世代の、幻のシックスマン。そう呼ばれる黒子の特徴は、ミスディレクションだけにあるのではない。イグナイトパス、サイクロンパスなどの特殊なパスを含めての極めて高いパスワークを持って、黒子はキセキと共にプレイしてきた。キセキの世代に対する立ち位置もそうだが、黒子が高尾の目をひきつけて離さないのはパスが占める割合も大きい。そして、そこから生まれた感情に、かつて高尾は「同属嫌悪」という名前をつけたわけで。
その、黒子から。パスをもらってしまったわけで。
高尾の口がいびつに歪んだ。こりゃー、やられたな。
「つまりパスなら売るほど余ってるって言いたいわけだ」
ふざけてかわすつもりの声が、低く響いた。一方で黒子の声はいやに平坦に聞こえる。
「お金を取る気はありませんよ」
「言葉のアヤだっつの」
「はあ。でもまあ、そうですね」
黒子の声が、わずかに揺らめいた。風を受けた炎のように。
「君にはミスディレクションが通じないかもしれませんが、パスで負ける気はありませんので」
「へーえ。随分自信満々じゃん」
「ボクの大事な武器ですから」
淡々とした口調とは対照的に、黒子の瞳は爛と光っていた。勝負事には興味ありませんという見た目をしておきながら、中身はかなり好戦的、かつ、勝利への執着心が強い。黒子がそういう性格の持ち主だと高尾は知っている。知っているから、言葉を選ぶ。
「敵に塩送っちゃっていいのかよ?」
「よくないです。けど、さっき言いましたよね」
もらいっぱなしは癪です。それに、先にくれたのは高尾君です。
きっぱり言い放つ姿に、吹き出してしまった。黒子がおかしいのではなく、自分がおかしくて。
・・・・・・だって高尾も、最初に黒子から何かをもらったなら、同じように返そうとしたはずだから。
もらいっぱなしなんて死んでもごめんだ。そしてどうせ返すなら、相手にとって必要なもので、自分の持っているものを。こんな発想まで同じなんて今知った。
「っ、やっぱ、俺、お前のこと嫌いだわ」
収まらない笑いをそのままに、高尾は自分の手を黒子の手の中から引っこ抜いた。ぐっと握り締めて、眼の前に突き出す。黒子は一瞬首を傾げたが、すぐに思い当たったようで、かすかに口元に笑みを滲ませて同じく拳を作った。
正面で、打ち合わせる。力を入れすぎてちょっと痛かったのはご愛嬌だ。
「ボクのパス、無駄にしないでくださいね」
「お前のパスなんかなくても勝てるっつの!」
「それは失礼しました」
あわせた拳を下ろして、すっと黒子が1歩下がる。そろそろ潮時ということなのだろう。ちらっとケータイを確認すると、高尾もそろそろ戻らないとやばい時間だった。間に合わなかったら轢き殺されるかもしれない。今日のラッキーアイテムは鈍器としても結構活躍できそうなヤツだったので、エース様のお怒りも避けたい。
それでも高尾は、この場を離れる前に黒子に言わなければならないことがあった。
「なあ黒子」
「何でしょう」
黒子の視線は、まっすぐに高尾に向けられている。迎え撃つように、視線を呑んで見返す。
今度は、高尾が黒子を射抜くように。
「次は俺がお前にパスやるからな。首洗って待ってろよ!」
返事は聞かずにくるりと踵を返す。
駆け出した高尾の背中を、黒子の声が押した。
「楽しみにしてます」