さくまが死んだとき、アザゼルはその傍にいてやれなかった。
最期を看取ったのがベルゼブブだと聞いた瞬間に胸のうちに膨れ上がった衝動には名前をつけなかった。その黒い叩きつけるような衝動が、叫びたくてたまらなかった想いが、どれほど大きく荒れ狂うものであったとしても、つけてしまえば自分が自分で無くなるとむなしいぐらいにわかっていた。それが自分のプライドで、彼女と向かい合ったときの自分の姿だった。
いくら淫奔を職能とする悪魔とはいえ、ネクロフィリアの趣味は持ち合わせていない。そう自分に言い聞かせ、死んださくまに会いにいくのはこらえた。セクハラしたときの軽蔑しきった視線と声、グリモアをひっつかむ腕の動きに愛着などなにもない。いっそ消えたほうが心地いい。しかし、背中を撫でる優しい手つきも、くるくると良く動く表情も、柔らかな肌のぬくもりも共に無くしてしまったただの物体に会いに行く気など一切わかなかった。アザゼルが興味を持つのは生きたさくまだけであって、冷たい、さくまの顔かたちをしただけの動かない物体など、近寄りたいとすら思わなかった。
グリモアはアクタベへ譲渡されていたが、さくまの死後にアクタベがアザゼルをよびだすことはほとんど無かった。そうなれば、ベルゼブブを始め芥辺探偵事務所によばれる悪魔の面々と顔を合わせることが無くなった。会いたいとも思わなかったから、魔界でも交流を絶った。もともと縁なぞ人間界以外にないようなものだ。つながりは断ち切れた。
適当な女とセックスして、ツレどもとバカ騒ぎして、過ごす時間が戻ってきたのだ。さくまのことは忘れなかったが、思い出す回数は日に日に減っていった。
ベルゼブブに会おうと思いついたのに、深い理由は無かった。そういや長いこと会っとらん。唐突にそう思い、その思いのままに暗く濁った空を駆けベルゼブブへの屋敷へと向かった。何の連絡もせずに訪れたのにも関わらず、ベルゼブブはあっさりとアザゼルを迎え入れた。
「べーやん久しぶりー。元気にしとった?」
「元気ですよ。アザゼル君こそ変わりがないようで何よりです」
そう言った元同僚兼旧友こそ、どこも変わっていなかった。やる気のなさそうな表情はいつか見たままで、ただ顔にくちばしがついていないことにふっと笑いがこみあげる。もともとこうだったのに、どうやら自分は反射レベルであの結界に慣れてしまっていたらしい。こんなに時間が経った今も忘れないほどに。
急にくつくつと笑い出したアザゼルを見て、ベルゼブブは嫌そうに目を細めた。
「急に訪ねてきたりして、何があったんです」
「別に。何や会いとうなっただけやし。せっかくやし今日はがんがん飲もうや」
「・・・まあ、いいでしょう。準備をさせますから少し待ちなさい」
「ええのん頼むで~」
「あつかましいのにも変わりないですね、きみは」
にやりと口元を歪め、ベルゼブブは踵を返した。そのまますたすたと歩いていく。アザゼルもその後を追う。
近況や、噂話。くだらない冗談に、猥談。話題はいくらでもあり、用意された酒瓶は順調に空になっていく。その数が20を超えたあたりで、アザゼルはぽつりとこぼした。
「・・・なあ、さくが死んだときって、どないやったん」
まだ酒の残るグラスをテーブルに置き、ベルゼブブは指を組んでその上にあごを乗せた。目を伏せるしぐさがやけにゆっくりとしていて、そこだけ時間の流れが変わるようだった。
「・・・どうしたもこうしたもありませんよ。さくまさんは、苦しまずに息を引き取りました。まるで眠るみたいにね。私は隣にいただけです」
「・・・悪魔使いのくせしてそんなあっさり死によったんか、あのクソ女は」
悪魔と関わった人間は必ず不幸になる。この法則は絶対で、そもそも真っ当に死ねること自体が珍しい。眠るように息を引き取るだなんて平和な死に目を迎えられたのはさくまぐらいではないだろうか。生きているときから多少どころではなく変わった悪魔使いは、死に際まで常軌を逸していたのだ。なぜか、無性におかしくなって、アザゼルは腹を抱えて笑い出した。ベルゼブブも苦笑を浮かべている。目に浮かんだ涙を拳でこすって、もう一度グラスを乾そうとしたとき、ふいにベルゼブブの左手の指に、白い指輪がはまっているのに気づいた。装飾品を好まないベルゼブブにしては珍しい。
「その指輪どないしたん」
「ああ、これですか」
ベルゼブブは指輪に視線を落とす。途端、その目になんともいえない甘やかさが滲むのが見えて、アザゼルは内心首をかしげた。黄金で作ったんかいな。アホな妄想が浮かぶ。
「さくまさんの骨ですよ」
・・・・・・一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「・・・・・・はあ?」
「形見分けに肋骨を一本頂きましてね。それで作らせました」
「いやべーやんの言うとることわからんのやけど」
「あなたしばらく会わない間に耳が遠くなったんですか?これは、さくまさんの骨でつくった指輪だと言ったんです」
「そんくらいわかっとるわボケ!ワシはそもそも、なんでさくの骨なんぞで指輪作るんかわからん言うてんねん!」
「さくまさんを愛しているからですよ」
ベルゼブブの告白は至極あっさりしていて、アザゼルは聞き間違えたのかと耳を疑った。ベルゼブブはそのまま言葉を続ける。その表情に湛えられた陶然の色と狂気の光はさくまの前では決して見せなかったもので、彼の整った顔立ちに奇妙な色気と凄みを添えていた。
「できることなら死体丸ごとこちらに持ってきて、腐敗していくさまを心ゆくまで堪能したかった。黄金に勝る嗜好品はありませんが、屍とて捨てきれぬ味わいがありますからね」
「食う気やったんかい・・・・・・」
「満足するまで眺めたら食べますよ。肉のひとかけ、髄の一滴たりとも残さずに」
さくまさんをこの舌で味わえるのなら本望でした。そうつぶやき、ベルゼブブは唇を舐めた。怖気をふるうほど真剣なその様子に、そういやこいつ蝿やったな、と改めて認識する。
「まあ、残念ながら連れ出す機会がありませんでしたし、すぐに火葬されてしまいましたから実行には移せませんでした。しょうがないから、仕方なく骨一本程度で妥協したのですよ」
ふう、とため息をついてみせるベルゼブブの声音はどこまでも本気だ。
「悪魔と契約した人間の魂は、死後悪魔の元へやってくる。・・・・・・さくまさんが生きている間に結婚することはできませんでしたが、人間の寿命など長くてもせいぜい100年がいいところです。死後のほうがよほど長く共に過ごすことができる。私は、彼女がここに来るのを待っているのです。この指輪は彼女と私が契約した証に頂戴したようなものですから、言わば、」
ふいに言葉を切り、指輪の滑らかな表面にそっと口付けを落とす。
「彼女と私の、婚約指輪です」
「・・・・・・その理屈で行くとワシんとこにさくが来てもおかしないで」
ぽつりと洩らすと、ベルゼブブは明らかに馬鹿にした様子で鼻で笑った。
「そうなったときは力ずくで奪いに行きますから。大体、アザゼル君が私に勝てるわけないでしょう」
「言うたなこのクソ蝿がアッ!?」
「今から相手してやろうか腐れ犬野郎が!」
売り言葉に買い言葉、酒瓶とグラスを放り出して身構える。それがふいに懐かしくなり、にらみ合う視線はそのままにアザゼルは舌なめずりをした。さくまがいて、日々召喚されていたころは、これが日常だったのだ。かつての記憶がまた魔界で繰り返される日が来るというなら、それは悪いことではない。アクタベがいないとなればなおさらだ。
「アザゼルさんが強すぎて最近だーれも喧嘩売ってこおへんかったからなあ、肩慣らしにちょうどええわ」
「弱すぎて哀れまれたの間違いでしょうに」
「スカトロ蝿が何抜かしとんねん」
「ピギャーース!」
ベルゼブブが吼える。その頭に拳を打ち込むべく、アザゼルは地面を蹴った。