悪魔たちを魔界に送り返し、使った食器を片付ける。机の上をざっと整理し、部屋の掃除をする。慣れた手つきで片付けをしていたさくまは、ふいに背筋を冷気が撫でた気がして振り返った。デスクで頬杖をついていたアクタベと目が合う。その視線の冷たさに息を呑む。
絞り出した声は、上ずっていた。
「あ、あのですね、もう時間なので帰ろうと思うんですがナニカまだすることあったでしょうか」
「別に。今日はもうない」
「そうですよね仕事終わりですよねお疲れ様です!」
「ただ・・・・・・」
意味ありげに言葉が切れる。さくまはごくりとのどを鳴らした。こういう場合、ろくなことが起きたためしがない。
さくまの顔が青ざめる。アクタベは構わず続けた。
「時間あるなら、肩揉んでほしいんだけど」
「へ?」
「・・・・・・仕事じゃないから強制はしない。さくまさんがよければ頼みたい」
戸惑いで口がうまくまわらず、返事ができない。アクタベがこんなに譲歩して頼みごとをするなんてめったにないし、そもそも痛みだとか、疲れだとか、そういう肉体的なしがらみはアクタベには関係ないものだと思っていた。
さくまの沈黙を拒否と受け取ったのか、アクタベはすっと目をそらした。
「イヤならいいけど」
「あ、いえ、別にイヤじゃないです!なんかアクタベさんって肩凝らなさそうだなーと思って驚いただけです!!」
「俺も肩ぐらい凝る」
「そうなんですか……」
悪魔たちに反抗すら許さない力の持ち主であり、ほとんどバケモノとしか思えないアクタベにも、意外と人間らしいところがあるのだ。さくまは心のメモ帳にそっと書きとめた。脅迫への対抗手段に近づく第一歩かもしれない。
「ちょっと待っててくださいね、すぐに片付け終わらせちゃいますから。あと、その椅子に座ったままじゃやりにくいんで、ソファに座ってもらえますか?上着も脱いでおいてもらえるとありがたいです」
「わかった」
片付け終わるのには、ほとんどやってしまっていたこともありものの5分とかからなかった。帰り支度まで済ませてしまってからさくまはソファへ向かった。
きちんと上着を脱いで、アクタベはソファに腰掛けていた。後ろから近づく。シャツの上からでも、筋張った肉のつきようがわかる。うわあ固そう。これはなかなか手ごわいかもしれない。さくまは気を引き締めた。
「はじめますねー」
「どうぞ」
「では・・・・・・ふん!」
首の付け根に親指を当て、押し込んでてみたものの、いっそ笑えるぐらい指が沈まない。ベルゼブブにしたときの感覚がまだ残っていたのもあるが、それにしてもかなりの固さだ。これはなかなか手ごわい。
「アクタベさん、もっと強くしても大丈夫ですか」
「いいけど」
「では遠慮なく」
指では埒が明かないようなので、ひじを使いエルボーを打つ気分でえぐりこませる。ようやく手ごたえが返ってきた。そのまま首周り全体をぐりぐりとえぐっていく。
「よいしょっと。結構力いれてますけど痛くないですか」
「平気」
アクタベの声は普段どおりの低さと平坦さで、痛くはなさそうだがマッサージが効いてるかも判らなかった。まあ、気持ち良さそうにしてるアクタベさんなんて想像できないし、いっか。頭をひとつふって、さくまはマッサージを続ける。
首の筋に沿って指で押し上げて、つまむように肩をもむ。肩甲骨にこぶしを押し当てて、ぐりぐりまわす。ごつごつしているなあと思う。友達の肩もみをしてあげたときとは大違いだ。やっぱり男のひとなんだ、とまで考えたところで、急に状況が頭に入ってきた。
(わたし、家族でもない男の人に、触ってる・・・・・・?)
カッと頬に血が上る。その熱さをごまかすように、さくまは手に力をこめた。だって、アクタベさんだから、そんなこと考えてないだろうし。へんなこと考えたらアクタベさんに失礼だし。そういえばアクタベさん、上着脱いでるんだっけ。って、何考えてるの私。無心になれ。肩もみしてるだけなんだから。別に他意なんてないんだから。他意って何、ああもうだめだ私!
「さくまさん」
そう声をかけられた瞬間、さくまは文字通り飛び上がった。
「はいいいいいいい!?」
「もういい。ありがとう」
「そ、そうですか」
アクタベが立ち上がり、デスクへ戻っていく。その肩を上下させ、首を回すささいな動作を見守るうち、さくまは徐々に落ち着いてきた。確かに男の人に触っていたといえばそうだが、ただの肩もみじゃないか。自分ひとりが勝手に変な連想に陥って勝手に混乱していただけなのだ。
(アクタベさん、変なことなんて考えたことなさそうだし)
アザゼルのセクハラに常に鉄拳制裁を加えているあたり、意外と潔癖なのかもしれない。そこまで考えて、さくまはついふきだした。
その音が聞こえたらしく、椅子に手をかけたままアクタベが振り向く。その目元の険がいつもより5%減ぐらいに見える。なんとはなしにだが、機嫌も良さそうだ。どうやら、自分のしたことは無駄ではなかったらしい。
「どうしたの」
「いえ、何でもありません。もうあがらせてもらいますね」
「お疲れ様。・・・・・・あとさくまさん」
「なんですか?」
アクタベはさくまから視線を外し、どさりと椅子に腰を落とした。
「肩もみ、また頼んでもいいか」
「それは・・・・・・」
肩もみ程度で雇い主の機嫌が良くなるのなら、悪くない。それがこのアクタベならなおさらだ。ただ、さっきみたいに混乱してしまうのはもういやだ。まあ、あれは、自分が意識しなければ言いだけの話なんだけど。でもやっぱり、ちょっと恥ずかしいし。
「・・・・・・考えておきますね」
結局はいともいいえとも言えず、お疲れ様でした、と一礼してさくまは逃げるように事務所を後にした。
・・・・・・ただし。そのおかげで、アクタベの口元に浮かんだ、獲物をいたぶる猛禽のような笑みは、目にせずにすんだのだった。