とわのいろどり
とわのいろどり
来る場所を間違えてしまったのか。
もうとうになじんだはずのその場所に足を踏み入れた瞬間、蒼衣は半ば以上真剣に、あるはずも無いことを考えてしまった。
白壁の古い写真館を改造した古物商『神狩屋』の店舗兼断章騎士団『神狩屋ロッジ』の建物は、その建物と内装と扱っている商品とが相まって、日中でも薄暗いしほこりっぽい。四季とは関わり無しに、年がら年中夕暮れの薄闇の中に置き去りにされた気分を味わえる場所である。
それが、今日は違った。神狩屋は明らかに、春を迎えていた。
店の奥、いつも蒼衣たちがお茶をするスペースの、アンティーク調の丸テーブル。その上に、可憐に咲き誇る桜の鉢が置いてあり、仄かな香りとにじむ様なやさしい彩りを店中に振りまいていたのが、その原因だった。
「こんにちは。・・・・どうしたんですか?この桜」
挨拶もそこそこに、蒼衣はたずねた。普段なら遠慮がちにでも目を合わせて挨拶する少年なのに、今その視線は一点に固定されたまま動かない。まるで魅入られてしまったような姿に、椅子に腰掛けていた神狩屋はいくぶん目を細めた。
「ああ、お疲れ様。・・・・気になるかい、これ」
腕を組み、目線で促す神狩屋。蒼衣は勢い良く頷いて、
「はい」
その勢いに自分でも驚き、途端、花に夢中になっている自分に気まずくなり、それでようやく桜から目を離した。
「その、珍しいなと思って」
「まあそうだろうね。うちは骨董商だから、置いてあるのは下から命のないモノか、かつて生きていたとしてももはや死んだモノばかりだ。・・・・これはね、預かり物なんだよ」
「はあ。預かり物、ですか」
一応は納得したというそぶりで、呟く蒼衣。ただ、まだ幾分かの疑問を抱えているのが少しひそめられた眉から伺える。がしがしと寝癖の付いた髪をかきまわし、神狩屋は言葉を接いだ。
「そう。この桜に見合った鉢を見繕って欲しいと頼まれて、ついでに預かったんだ。審美的な作業はあまり得意じゃないんだが、仕事だからね。
だから、騎士団とは関係ない。安心していいよ」
「そうですか・・・・」
蒼衣は小さく溜息を吐いた。その息は、騎士団と――神の悪夢たる『断章』とこの桜には関わりが無いと聞いて安堵したという理由もあったのだが、桜に見蕩れて無意識に漏れたという理由のほうが大きかった。
どうにも心が惹かれ、もう一度桜に視線を戻す。桜という花に格別思い入れのない蒼衣でも見ほれるほどの美しさだった。片手でも持てそうな大きさの鉢に植わっているため、木自体はさほど大きくない。花の量など、公園に植わっている桜の一枝ほどもあればいいほどだろう。その少なさもあってだろうか、はたまた桜色というには淡い色の花びらのせいか、どこか胸が詰まるような儚さを湛えていた。一瞬でも目を離せば散ってしまい、もう見ることができなくなってしまうかもしれない。この桜は、そんな奇妙な幻想さえ浮かぶ危うさで咲いている。
「綺麗ですね・・・・・・」
「ほんとうにきれいですねー」
「うん。・・・・・・あれ?ああ、颯姫ちゃんか。こんにちは」
多少危なっかしい手つきで紅茶の給仕をしてくれた少女を認め、蒼衣は軽く会釈した。短く切った髪にカラフルなヘアピンを何本も差してた少女――颯姫も、応えるようにもともと浮かべていた笑みをさらに明るくした。基本的に、颯姫はいつも笑顔を浮かべているのだが、今日は特にうれしそうに笑っている。
「すごくすごくきれいですよね!白野さんも、やっぱりそう思いますよね!」
「うん。今まで見た中で、これが一番綺麗かも」
蒼衣がそう言った途端、颯姫ははじけるように笑みを深めた。
「やっぱり!じゃあわたし、すごくラッキーですね!」
「どうして?」
「だって、はじめて見るお花なのに、一番きれいに咲いてるのを見れたんですよ。とってもとってもうれしいです!」
颯姫は滅多にないくらいの幸せそうな様子で言い切った。その言葉にも様子にもどこにも嘘が混じる気配はなく、言葉通り嬉しいという気持ちが全身から伝わってくる風情である。ただ、蒼衣は颯姫と一緒に喜び続けることはできなかった。颯姫の言葉、その一言にひっかかりを覚えたせいだ。
「颯姫ちゃんは、桜の花を見るのはこれがはじめてなの?」
「このお花の名前、『さくら』っていうんですか?」
「そう・・・・・・だけど」
「『さくら』かあ。お花とおんなじくらい、きれいな名前ですね。・・・・・・うん、わたし、このお花を見るのははじめです。もしかして前に見たことがあるかもしれませんけど、覚えてないんですよー」
幸せそうな笑顔を崩さずに颯姫は言う。『食害』の血脈に連なる彼女にとって、記憶を食われることは日常茶飯事であり抗いようの無い運命に他ならない。それは颯姫に出会ってから今まで変わることの無い事実であるし、蒼衣もそういうものとして若干の気まずさとともに受け入れている。
それでもやはり、颯姫が桜を知らないという事実は蒼衣にショックを与えた。どれだけ花に興味がない人間であったとしても、この国で生きてきたなら春の訪れを告げるように咲き誇る桜の姿は必ず脳裏に焼きついているものだ。それなのに、彼女の頭の中にはこの花を見た記憶がしまわれていない。文字通り、蟲に食われて穴が空いている。
颯姫が何かを覚えていない状況は頻繁に起こることで、この場所に、騎士団に慣れて来た蒼衣にしてみても、もう十分受け流せる話であるはずだった。それがどうしても胸につかえて上手く飲み込めないのは、眼の前の桜が余りにも美しすぎるせいなのかもしれなかった。
「? 白野さん、どうかしましたか?お茶、いりませんか?」
「ああ、いや、もらうから」
黙り込んでしまったせいで心配したらしく、不安そうに覗き込んでくる颯姫。蒼衣は慌てて椅子を引き席に付くと、カップを手にとり、ごまかすように紅茶をすすった。途端、下にぴりりと痛みが走る。颯姫の言葉ではないが、紅茶がまだ冷めていなかったのだ。しかし大丈夫と口にした手前、急に冷ましだすのも間が抜けている。結局蒼衣は痛みをこらえつつゆっくりと紅茶を嚥下した。
いつの間にか神狩屋は姿を消していた。おそらく夢見子の様子を伺いにいったのだろう。蒼衣の眼の前には、圧倒的な存在感で咲き誇る、桜。そしてそれを見て、ニコニコしながらお茶を飲む颯姫。平和で穏やかな、花と少女の組み合わせという風景は断章とその影響に痛み続ける心には非常に優しい風景だ。ましてや、それが滅多に見られないものならなおさら。
「颯姫ちゃん、嬉しい?」
「はい。嬉しいです。きれいなもの、好きですから」
「うん。きれいだよね」
「ずっとずっと見ていたいですんけど、散っちゃうんですよね」
「・・・・・・そうだね」
「残念だなあ。散らなかったら覚えていられるかもしれないんですけど、無理ですよね」
いつもどおりに、まるで紙に火をつけると燃えるのが当たり前だとでも言うように、颯姫は笑う。目の底、声の奥に染み付いた諦念の強さに、蒼衣は目を伏せた。蒼衣が希求する『普通』の存在なら、こういうときは相手をなぐさめるものだろう。しかし、その場しのぎのなぐさめなどが『断章』に通用するわけがなかった。颯姫が忘れるのは断固たる事実であり、逃れられない悪夢であり、その悪夢を利用したことも少なくない蒼衣にとっては太刀打ちの出来ない現実だった。
かける言葉を思いつけず、ごまかすように蒼衣は目を伏せる。颯姫も何も言わず、ニコニコと桜を見続けている。淡く紅に色づき、咲き誇る桜。桜がもし、ずっと咲き続けていられるなら忘れないかもしれない、と颯姫は言った。花を散らせずにとどめておくことなど、蒼衣にはできない。それでもなにか、代わりにできることがあるのではないか。ちっぽけで、ささやかなことだとしても。
線の細い顔立ちに、固い表情を浮かべて蒼衣は考え込む。咲き続ける花。代わりにできること。花。の、代わり。代わりの花。偽者の花。花の、つくりもの。・・・・・・つくりもの?
ある考えがふいに浮かんできて、蒼衣は目を見開いた。これなら自分にもできるし、うまくいけば颯姫が桜を思い出すよすがになる。しかし、そううまくいくものだろうか。それに、颯姫は喜んでくれるだろうか。恐る恐る、蒼衣は颯姫を横目で見た。途端、ドアが軋む音がした。来客のしるしだ。この時間にこの店に来る人間といえば、思い当たるのはただひとり。
「・・・・・・雪乃さんかな?」
「あ、わたしお茶いれてきます!」
パッと立ち上がり、颯姫がぱたぱたと台所へ賭けていく。その背中を見て、もういちど桜を見て、蒼衣は心を決めた。
「颯姫ちゃん、ちょっといいかな?」
「なんですかー?」
次の日。同じようにロッジを訪れた蒼衣は、神狩屋への挨拶もそこそこに済ませて颯姫を呼んだ。蒼衣の声はすこし上ずっており、その態度も視線があちこちをさまよったり妙にそわそわしていたりと何処からどう見ても緊張したものだったが、颯姫は気にせず寄ってきた。
ほぼ間を置かずに蒼衣の前に到着した颯姫は、普段どおりにこにこと笑顔を浮かべている。自分が決めたことなのに気後れがして、でも止める気にもなれなくて、蒼衣はまごつきながら颯姫に向かって紙包みを差し出した。
「えーと。たいしたものじゃないんだけど、これ、颯姫ちゃんにどうかなと思って」
「わたしにですか?」
「うん、そうなんだ。颯姫ちゃんに」
颯姫は戸惑うように首をひねった。今までに蒼衣が颯姫に贈り物をしたことなど無いのだから当然の反応だろう。気恥ずかしさが怒涛のごとく押し寄せてきて、蒼衣の頬がみるみるうちに朱色に染まっていく。
「その、いらない、かな?」
わずかな沈黙さえもいたたまれず、おずおずと蒼衣が口を開いた。途端、傾いでいた颯姫の頭がばっと持ち上がる。その勢いに圧倒された蒼衣は思わず手に力をこめた。閉じ込められた紙包みがくしゃりと悲鳴を上げる。
「そんな、嬉しいです!ありがとうございます!あの、いま開けてみてもいいですか?」
「・・・・・・あー。うん。大丈夫だよ」
颯姫はぎこちない手つきでくしゃくしゃの紙包みを受け取ると、もどかしげに包装を開けはじめた。遊園地の入口で入場を待つような、判決を待つ罪人のような、そんな気持ちで蒼衣は颯姫の様子を見守る。程なくして、無事に包みが取り外された。中に入っていたのは、和柄のヘアピンが一組。そのピンの、持ち手の部分に飾られたモチーフを目に留め、理解して、颯姫の眼が丸く見開かれる。
飾られたモチーフは、桜の花。ちりめん製の、作られた、散らない花。
「あっ、あの、白野さん、これ、」
「プレゼントってほどのものじゃないけど。昨日、桜がずっと咲いていたら、忘れないかもしれないって言ってたでしょ?これならぜったい散らないから、覚えていられるかなって思って」
昨日雪乃と合流した後、蒼衣は見回りにでかけた。見回り自体はいつものことだが、見回りを終えて家に帰る途中、蒼衣はいつもならまったくしない寄り道をした。生まれてこの方立ち寄ったことも無かった、女性向けのファンシーショップを訪れたのだ。もちろん、理由はひとつ。颯姫に桜の花にちなんだものを贈ろうと思いついたからである。
本物の桜は散るが、つくりものなら散ることはない。散らない桜ならば、この眺めを、桜という花の存在を覚えておくよすがになるのではないか。蒼衣はそう考え、ファンシーショップに足を運んだ。後々になって恥ずかしくなったのだが、その時はそうしなければいけないという衝動に突き動かされていたのだ。
女性しか居ない空間でいたたまれなさに身を縮めながらも、蒼衣は必死に店内を探し回った。空振りに終わる可能性も頭の隅では思い描いていたが、幸いなことにそんなに時間をかけずとも求めていたものは見つかった。桜のモチーフを使った商品が何種類もある中でヘアピンを選んだのは、いつも身につけていられるものならそれだけ記憶にとどまりやすいのではないかと考えたからだ。
颯姫の眼は見開かれたままで、小さな手の上のヘアピンに、つくりものの桜に釘付け。あまりにもおおきく開かれているせいで、まるで目がこぼれおちそうてしまいそうだと蒼衣は思った。ロマンチックな発想だが、実際にこぼれおちた目玉を見たことがある蒼衣にとってはあまりいい連想ではなかったため、首を振って考えを打ち消す。色素の薄い、細い髪がゆれてさらりと音がした。小さな音ではあったのだが、それに気付いてようやく颯姫は蒼衣と視線を合わせた。表情が、くしゃりと歪む。
「颯姫ちゃん!?」
「白野さん、ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます」
おおきな目が潤んだように見えた蒼衣は慌てたが、颯姫は泣かなかった。ただ、泣きそうにみえるほど顔をくしゃくしゃにゆがめて、それでも心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。
「わたし、忘れません。絶対に忘れません。また来年、このお花を――桜を見るまで、ずっと覚えてます。桜のことも。白野さんに、ヘアピンをもらったことも」
「・・・・・・うん。僕も、颯姫ちゃんが覚えておいてくれると嬉しい」
「はい!」
颯姫の笑顔に釣られるように、蒼衣の顔のこわばりもほどけていく。ようやく浮かんだ笑顔で、蒼衣はヘアピンにちらりと視線を向ける。
あの桜の美しさがそのまま備わっているわけではない。だが、ちりめんの素朴なあたたかみは、怖いほど綺麗な本物よりも、よほど颯姫には似つかわしいだろう。蒼衣はそっとそう思う。
散らない花は、颯姫の手の上で、つつましく花びらをひろげていた。