「ただいま!戻りやしたあ!」
「おかえり。ジュース買ってくるだけなのに遅すぎんだよ」
「す、すいやせん」
倉持に命じられ、『おつかい』から帰ってきた沢村の様子がどうにもおかしかった。騒がしいのはいつものことだが、いつも以上に落ち着きがない。というか、妙にそわそわしている。うろうろと動く視線に合わせて左手のビニール袋ががさりと音を立てた。
「おら。買ってきたんだろ?さっさと寄こせよ」
「うー・・・・・・」
うなった沢村は、唐突に靴を脱ぎ、倉持の正面に陣取るっておもむろに正座した。まっすぐな眼差しが倉持の目を射る。
マウンドに立った時と見まごう用な真剣な表情は、その実日常生活で披露される時は8割がたバカなことを言い出す前触れだ。今まで沢村が巻き起こした珍エピソードが脳内を駆け巡り、自然と倉持を半眼にさせた。眉間に皺だってよる。そんな倉持の様子を気にかけもせず、沢村は意を決したふうに口を開いた。
「センパイ」
「ンだよ」
「俺と盃を交わしていただけませんか!」
ほらきた。突拍子もない話が。
「・・・・・・とりあえず確認させろ。何の盃だ?」
盃を交わすと聞いて倉持がまっさきに思いついたのは三々九度の盃だった。結婚式で花嫁と花婿が交わすアレである。まさか、そんな、いくら沢村の思考回路が斜め右に突っ走ったとしていたとしても、そんなものをねだりはしないだろう。と、思う。思うのだが一応聞いておくに越したことはない。次のアクションの参考として。
「なんの、って。えと、兄弟盃っす」
「そーか。兄弟盃な」
兄弟盃。間違っても、高校野球に全力を捧げる球児が口にのぼらせる単語じゃない。三々九度ならまだ日常生活の範囲内に収まらないこともないが、こっちはなんてったって筋者用語だ。ヤーさんたちが契りと共に交わす盃。
さて、健全きわまりない生活を送っている沢村がそんな怪しい単語を仕入れる先といえば、まあ選択肢は限られてくるわけで。倉持は軽く首をひねった。音は立たない。凝っているわけじゃないのだからそりゃそうなのだが、目の前の馬鹿を威嚇するためならちょっとぐらいは鳴ってもいい。
「・・・・・・昨日見た映画は仁義なき戦いか?それとも極妻か?」
「えっ」
「簡単に影響されてんじゃねえよこの野郎!」
毎度のことながら沢村の反応より倉持の手が届く方が早かった。いつもどおりの「お仕置き」コース、に色をつけたプロレス技をお見舞いする。ぼーりょくはんたい!ノーモアぎゃくたい!ノーモア後輩いじめ!沢村がキンキン耳に刺さる声でがなりたてる。が、その程度で倉持が離すわけもない。
「ていうか俺昨日は自主練のあとすぐ帰ってきて寝たし!映画見る暇なんて無かったっすよ!?」
「じゃあなんだって兄弟盃なんてわけわからねえこと言い出すんだよ!オラアアアア」
「うおおおおおおおギブギブギブギブ!話す!話すから技やめろ!」
「敬語忘れてんぞ沢村あ!?」
「すいやせんっしたあああ!」
絶叫に近い謝罪を聞き届けてから(だいぶ鼓膜が痺れた)倉持は沢村を解放した。ぶんむくれた顔付きのまま正座し直す沢村の前で胡座をかく。
「で?映画じゃないならなんだっつうんだよ」
顎をしゃくって促すと、沢村は一転して落ち着かなさげに瞬きをした。太ももの上に置かれていた拳に筋がたつ。何かを探すように沢村の視線が床を舐める。もう一度目があったのは、倉持が「遅え」と言うために口を開きかけたときだった。
「俺、先輩のこと、兄ちゃんみたいだなって思ってるっす」
「……ああ?」
「俺、一人っ子だから兄弟とかよくわかんないんすけど、先輩といると、兄ちゃんってこんなんなのかなって思ってて。なんかこう、いじめられたり、からかわれたりするけど、かっこよくて、頼りになって、一緒にいると安心するっつうか当たり前っつうか、そういう感じになるのが兄ちゃんかなって」
照れたように口を尖らせてしゃべる沢村、を、倉持はただ見ていた。首筋から耳に、頬にかけて、暖かな朱色が沢村の血の巡りを際立たせて行くのも。みるみるうちに完成したいっそ見事なほどの茹でダコっぷりは絶好のからかいネタだ。この場に御幸がいたら喜んでつつきまくっただろうし、倉持だって当たり前のようにそうしたはずだ。いつもなら。
いつもどおり、ただ同室で同じ部活の、先輩と後輩なら。
沢村と同じ、一人っ子の倉持は、自称「弟」への声のかけかたがわからない。
「だから昨日、クラスのやつが兄弟盃ーってやってるの見て、先輩としたいなって思ったんす。俺の兄弟は、兄ちゃんは、先輩がいいなって」
へへっ、とくすぐったそうに沢村が笑う。倉持は笑えない。
「あの、そりゃあ春っちとお兄さんみたいな兄弟とまではいきやせんが!不肖この沢村栄純!これから先輩の弟としてふさわしくなるよう精進してまいりやすので!どーか盃を受けてはいただけやせんか!」
お願いしやす!一声叫んで、沢村はガバリと頭を下げた。勢いに吊られて目を落とせば、さりげなく三つ指などついている。ちげえだろそれ、ヒャハハ!沢村を笑う言葉が倉持の口から出てこない。もっとちがう、別の思いが。喉元でわだかまって出口をふさいでいる。
倉持と沢村の関係は、同じ部屋で暮らす先輩と後輩だ。そしてチームメイトだ。前者をつなぐのがこの5号室の部屋で、後者をつなぐのがフィールドと白球。どちらも、わざわざ何か(それこそ兄弟盃のような)儀式で成立させた関係ではない。いくつかの偶然と、同数の必然が結んだ縁は、繰り返す日常によって着々と積み上げられて、形にして確かめるまでもなく倉持と沢村を支えている。
そこにまだ足せと言うのだろうか、沢村は。バカで、うるさくて、うざくて、無根拠な自信に溢れているように見えてその実誰よりも努力を惜しまなくて、どうにも放っておけなくなってしまった沢村との関係に、「兄弟」なんて名前をつけろと言うのだろうか。
倉持の返事を待つ沢村の頭は小刻みに震えている。先輩へのお願いに緊張するようなタマではないから、おそらく倉持の顔を見たくてしょうがないのをがんばってこらえているのだろう。揺れるつむじに目を据えて、倉持は口の端をひんまげた。
「……クラスのやつって言ったよな」
「はい!?」
弾かれたように沢村が頭を上げる。「話が見えねえ」とでかでかと書いてある沢村の顔を直視できず、倉持は微妙に視線を反らした。つい早口になるのを止められない。
「てことは、やってたのは教室でだろ。盃交わすのに酒じゃねーのかよ」
「確かに教室で教えてもらいやしたけど。お酒はハタチからっすよ?」
「んなこたぁわかってる」
「俺が教えてもらったときはコーラっした」
ようは飲み方なんすよ!飲み方!自分のリンゴジュースを握りしめて沢村が力説する。この馬鹿に変に知識を与えるなかれ。知っていたことではあるが、再度倉持は胸に刻みこんだ。
弟が馬鹿やったら、兄は巻き込まれるものなのだから。
「……で、どうすんだよ」
「まずはこう腕を伸ばしてですね、……って、センパイ!?」
沢村の顔にぶわりと喜色が広がる。御幸に「球を受けてやる」と言われた時に匹敵する喜びようだ。こんなことでそこまで喜ぶのかよ、とか、お前投手なんだからもっと表情隠せるようになれよ、とかいくつもの言葉が倉持の頭を駆け巡るが、口には出さずぶっきらぼうに続きを促した。こんな恥ずかしいこと、とっとと終わらせるに限る。
「おら、続き」
「うおおおおあざっす!!先輩なら受けてくださるとこの沢村栄純確信しておりやした!」
……という倉持の思いを忖度するスキルは沢村にない。
「うっせえ気が変わる前にさっさとしやがれ!」
倉持がわめく。が、頬にさした赤みのせいであまり迫力がない。
「了解しやした!じゃあセンパイ、ファンタ持ってもらえますか」
「……おう」
「んで、右手を伸ばす」
「こうか?」
「その通りっす。さすがセンパイ!」
倉持が言われた通りに右手を突き出すと、ちょうど沢村の口元にファンタを突きつける姿勢になった。まさかお互い飲ませあいっこするなんて言わねえだろうな。頭をよぎった絵面のシュールさに倉持の唇がゆがむ。
しかし、現実はその上をいった。
「こう、腕組んで、輪っかみたいにして、そんで飲むんです」
リンゴジュースを右手に持ち直し、沢村が腕を伸ばす。倉持は一瞬、というには長いくらいの時間、このまま腕ひしぎをかけてやろうかと本気で考えた。実行に移さなかったのは、ファンタをこぼさないように床に置くのが面倒くさかったから。それ以外に理由なんて、ない。ないったらない。ついでに口をついて出た言葉も、深い意味なんてこれっぽっちもない。
「こっちこい」
「?」
「お前サウスポーだろ」
ほら、ここ。ファンタを引いて、倉持は自分の右隣の床を軽く叩く。それを聞いて沢村の目がいっそ見物になるぐらい丸く見開かれた。目ん玉落ちんじゃねーか、なんて漫画みたいなことを思った倉持だが、口にするのはやめておいた。本当に落とされても困るので。
「センパイ気がきくう!」
「うっせ」
キラキラキラキラ、日の光を受けた水面みたいに目を輝かせた沢村がいそいそ右隣に陣取り、左手にジュースを持ち直す。その腕に倉持は自分の右腕を絡める。沢村が言ったように腕を組んで呑もうとすると、思ったよりも距離を詰めなければ口に缶が届かない。どちらともなく近づいて、触れた肩があたたかかった。
「じゃあ一気にぐいっといきやしょう!いざ尋常に勝負!」
「違えだろバカ」
全くしまらないまま、倉持はファンタに口をつけた。沢村も、同じタイミングでリンゴジュースに口をつけた。舌の上で跳ねる泡の感触は驚くほどいつもと変わらない。それでも。それでも。
この味は兄弟をつなぐ輪となる味で。
倉持には、「やっぱ小岩井はうまいっすねー」なんて気の抜けた顔で笑う、弟ができたのだった。