あの日はとても疲れていた。
何かイベントがあったわけではなく、さりとて細かな仕事が詰まって、なんだかむしょうに忙しかった日。あちらこちらと駆け回って業務をこなしていたら、気が付けば同じ姿の子どもはみな眠りにつくような時間になってしまっていた。こんな時間まで引き止めてしまって申し訳ありませんと直角に腰を折って謝る職員たちに、平気です気にしないでくださいと声をかけたところまではよかったものの、宿舎に帰りついたとたん、制服も脱がずにベッドに倒れ込んで寝てしまった。
翌朝、頭の芯が凝り固まったように寝たりないのに瞼を閉じきれなくなってしまったのは、二度寝もできないにぐらいに空腹を覚えたからだ。おなかとせなかがくっつく、なんて歌みたいな状況は、あのメロディみたいなゆかいさからはほど遠いつらさだった。疲れていて、おなかが空いていて、何か食べないといけないのはわかっている。わかっているのに手足がだるくて動かす気になれない。
息すらうまくできないような気がしたときに、玄関のチャイムが聞こえた。
誰かはわからない。でも、待たせるのはいけないと、重たい身体をなんとか起こして寝台から抜け出す。自分ひとりのためには動けないのに、誰かのためなら動くからだは他人事のようにおかしかった。短い廊下をようよう通り過ぎて、ドアの前まで辿り着く。鍵を開けた瞬間に誰何するのを忘れたことに気づいた。危ないですから、誰が来たのか確認してからドアを開けてくださいね。子どもに言い聞かせるように注意された記憶がよみがえる中、手は半ば反射のようにドアを開けている。のぼったばかりとおぼしき日が差し込み目を焼いた。ぎゅっと目をつぶり、瞼の裏でおどる火花をいなしてから開ける。
目の前には、信越本線がいた。
「信越……?なんでここに、」
「朝ごはん食べに行きましょう。長野上官」
信越は笑う。恋人でも見るような目をして、甘やかに。
「とっておきの場所に連れてってあげます。着替えて、顔だけ洗ってきてください」
信越に急かされて私服に着替え(見守ろうとするのは固辞した)、洗顔を済ませる。玄関を出るときから手を引かれたのはしょうがないと割り切った。他人の顔を見て錆着いた体に刺された油はたやすく尽きて、歩くのが億劫だったのだ。信越の性癖が気がかりだろうと、引っ張られて進むほうがまだましだ。ただ、身体がだるいのは信越も承知していたようで、軽く握られた手は優しく長野を誘導したし、目的地自体にも五分も立たずに到着した。
町に根を下ろして、長く続いていそうな喫茶店だった。タイル張りの壁には四段並んだガラスケースがはめ込まれ、ナポリタン、オムライス、フルーツパフェが行儀よく並んでいる。セピア色の窓ガラスの向こうには飴色のカウンターが光っている。扉には丸っこい文字で「準備中」と書いたプレートがぶらさがっていたが、信越は気にする風もなく押し開けた。
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
緑色のエプロンをつけた眼鏡のマスターが笑って出迎える。空腹と疲労のせいでぼんやりしていた長野はかろうじて会釈した。そちらの席にお掛けください、と示された布張りのソファにくたりと腰掛ける。信越は長野の目の前の席に陣取り、楽しそうに声を上げた。
「マスター、準備できてる?」
「勿論できていますよ。まずはこちらからどうぞ」
サーブされたのは、お冷のグラス。それとウサギ型にカットしたリンゴを並べた皿。目の前に水があると認識した瞬間、のどが乾いているのだと気づいてグラスを掴んで口をつける。歯に舌に沁みわたるような水は、少しだけレモンの風味がした。噛んでふくめるように飲みこんで、二口三口と続ける。グラスの中身を半分まで減らしたところで、リンゴに手を伸ばす。添えられた銀色のフォークで突きさして、しゃくりとかみしめる。あふれ出す果汁と甘み。シナノスイートだ。あっというまに平らげる長野を見ながら信越は笑う。
「こんなの序の口ですよー。まだ来ますから、覚悟してくださいね」
信越の言葉通り、すぐにマスターが次の皿を並べたプレートを持って現れた。まず長野の目の前なか置かれた白い皿の上には二段重ねのホットケーキが湯気を立てていて、こんがりきつね色に焼けたリンゴのソテーが渦を描くように並べてある。ソテーが囲んだ真ん中には真っ白のホイップクリームがちょこんと添えられていて、ホットケーキの熱にじんわり溶け始めている。続けてことりとテーブルに並べられたのは、金色のはちみつがたっぷり注がれたピッチャー。ガラスの器に盛られたヨーグルト。リンゴジャム。ごとり、と続いたのは、厚切りのベーコンとマッシュポテト、レタス、トマトが盛られた大皿。最後に信越の前に厚切りのトーストをおいて、マスターは一度テーブルを離れた。カウンターへ戻り、左手にコーヒーカップを二つ並べてすぐさま返ってくる。カフェオレを長野に、ブラックコーヒーを信越にサーブして一礼する。
「お待たせ致しました、どうぞお召し上がりください」
「どーも。それじゃあ本番ですよ、長野上官。どんどんいただいちゃいましょう」
「はい、いただきます!」
銀のナイフとフォークを手に取り、早速ホットケーキを一切れ切り取って頬ばる。ほかほかした生地が舌の上に乗り、まだしゃくしゃくした食感を残したりんごのソテーが続く。ホットケーキとりんごを合わせて噛み締めると、やわらかな甘みとさっぱりした甘み、ささやかな酸味が混じり合う。
「美味しいでしょう?」
口ぱんぱんに詰め込んでしまったせいで返事ができない。せめて代わりにと何度もうなずいてみせる。本当に、美味しい。味のことはもちろん、疲れているところに気遣われたこと、振舞うように手配してくれたこと、手向けられたやさしさが嬉しかった。
「疲れた時には甘いものがいいかと思いまして」
ソテーもいいですけどそのジャムを乗っけても美味しいですよ。トーストにジャムを塗りながら信越が言う。ソテーもジャムも、信越さんが持ってきてくださったりんごで作ったんですよ。あなたに長野の美味しいりんごを食べてもらいたいからってね。マスターがニコニコと口をはさむ。
勧められたとおり、ホットケーキにジャムを乗せてかじりつく。今度は鮮やかなシナモンの香りとピリリと聞いたコショウの風味が舌からのどへと駆け抜けていく。それがケーキの甘みを殺さず、引き立て合っているのだから面白い。ホットケーキの甘みに疲れてきたらベーコン、野菜、カフェオレで口なおしをして、またホットケーキを切り分ける。ナイフとフォークを使う手は止まらず、気が付けば全ての皿が空になっていた。
「ごちそうさまでした。どれも、とっても美味しかったです」
「どういたしまして。満喫してもらえたみたいで何よりです。……あれ、長野上官、眠くなってきちゃいましたか」
「そんな……」
信越の指摘に反射的に首を横に振ったが、実はその通りだった。エネルギーを補給したのに眠くなるというのもおかしいが、腹がくちくなったおかげで体が温まり、まぶたが落ち出している。船をこぎかけて慌てて持ち直す長野を見て信越は目を細めた。
「帰ったら寝なおしましょうか。俺、添い寝しますよ。なんなら子守歌と腕枕も付けますよ!お得!」
「添い寝はいらないです。……子守歌は、聞きたいです」
「はは、了解しました」
それじゃあ、帰りましょうか。
そう言って差し伸べられた信越の手を取って、喫茶店を出たところまでは覚えている。
子守歌を歌ってもらったのか、添い寝されたのかは眠気に隠れて曖昧だ。
……そんな昔のことを思い出したのは、あの時と同じように疲れたあげくベッドに倒れ込み、空腹に耐えきれず目を覚ましたからだ。あの時からは随分と伸びた手足をぐんと伸ばしてため息をひとつ。確か買い置きはもう無い。一度外に出なければならなかった。
重い腕を持ち上げてカットソーに袖を通す。財布とスマホだけサコッシュにしまい、ジャケットを羽織って玄関へ向かう。ドアを開けると、のぼったばかりとおぼしき日が差し込み目を焼いた。ぎゅっと目をつぶり、瞼の裏でおどる火花をいなしてから開ける。
目の前には、信越本線がいた。
「……何しに来たんです?」
「わざわざ忘れ物を届けにきた部下に向かって随分な言いぐさですね」
はいこれ。雑な手つきで押し付けられたファイルケースを半ば反射で受け取る。中身を確認すると、確かに急ぎの書類が数枚入っていた。礼を言うと信越は鼻を鳴らした。
「飯行きますよ」
「……はい?」
「そんな顔してるってことは、まだ食べてないんでしょ。あんた今日午後出勤なんだし、腹空かして倒れられても困ります」
そう続けて信越は踵を返して歩き始めた。咄嗟に玄関にファイルケースをおいて鍵をかけ、信越の後を追う。
「待ってください、信越も一緒にですか」
「文句あるんです?」
「文句は無いですけど」
「なら別にいいでしょ」
この時間からやってる店のひとつやふたつ知ってるでしょ、さっさと決めてくださいよ。ポケットに手を突っ込んでそううそぶく信越は、完全に北陸任せのつもりらしい。自分から誘っておいて勝手なものだ。長野新幹線だった時は、信越が店を選んでメニューを指定して、リンゴを持ち込んでくれるぐらいに甘かったのに。北陸新幹線へと変わった今となっては、塩対応もいいところだ。
……ああ、それでも。朝食を共にする気はあるのか。
手を引かれたあの日は遠く過ぎ去ったけれど、隣で歩いている今は続いているから。
「行ってみたいカフェがあるんです。つきあってくれませんか?」
「上官のおごりならどこでもいいです」
「そこは信越がおごってくださいよ。あなたは私の先輩なんですから」
手はつながずに、歩調を合わせて、隣に並んで歩いていく。
きっと、あたたかな湯気を立てているホットコーヒーを思い描いて。
「大阪まで延伸したら朝食にあの肉まんを買ってきましょうか」
「あのにおいを漂わせて職場に来たら臭害で訴えますよ」