ワシントン・ハイツは現在の代々木公園にかつて存在した米軍家族住地区です。1946年に設立されました。
米陸軍の将校や民間人職員、およびその家族のために建設されたこの施設は、軍によって海外に建設された最初の住宅施設のひとつであり、他の住宅地域の設計の模範となりました。敗戦国日本の首都・東京の真ん中に突如、豊かな「アメリカ」の町が出現したのです。その存在はその後の日本社会にも大きな影響を与えるものでした。外苑前のあたりはワシントンハイツのアメリカ人を相手にしたお店がたちならびます。「キデイランド」「紀ノ国屋」「白洋舎」なども彼らを顧客とする中でアメリカ式のノウハウを吸収して日本に紹介し成長していった企業です。やがて1964年東京オリンピック開催を機に日本に返還され、選手村して利用されました。オリンピック後に施設は解体され、代々木公園やNHK放送センターとして再開発されました。
秋尾沙戸子『ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮社、)
”東京でのランドリーは、地魚河岸市場の中に設けられた。日本人が多数雇われていたが、監督は白洋舎が行なった。氏が驚いたのは、見たこともない械が持ち込まれ、きわめて効率よく作業が行われていたことだった。
「洋服は揮発油で洗い、シミはスチームで落としていました。軍服にはアイロンをかけずに、機械でそのままの形で一度にプレスしてしまう。 驚きましたね。戦争で払い下げられた機械を業者から買い、白洋舎は技術的にもアメリカ化が進んだと思います」
占領軍の下で新しいアメリカ式の技術を学んだ日本人が、戦後のクリーニング業界の近代化に大きな貢献をすることになる。白洋舎はその後、ノウハウを自社の工場内で全国的に実践したのだった。 ”
原宿が「裏原系」を生み出し、世界のファッションの首都となった理由。
”「お昼によく行ったのは、セントラルアパートのネブスというアメリカっぽい料理を出すお店とか、そう、あとコープオリンピアの中のオリンピアダイネット。あそこはカウンターから何からすべてアメリカから取り寄せて作って、まるでアメリカそのもののようだったわ。チェリーコークとかもあって、それにハンバーガーやホットドッグがとてもおいしかった」
そもそもの街の成り立ちから、原宿はアメリカ的だったのだ。”
原宿カルチャーの源流。70年前の「神宮前交差点」はリトルアメリカだった
”さらに今の「東急プラザ表参道原宿」がある敷地には、かつて「原宿セントラルアパート」という建物があったという。こちらは外国人向けの高級賃貸マンションだったようだが、実はこの建物が後の原宿・表参道のカルチャーに大きな影響を与えたのだとか。
「GHQが撤退していった60年代以降、セントラルアパートはカメラマンやデザイナーなど、流行の最先端を行くクリエイターが集う場所になっていきました。映画監督の伊丹十三氏や俳優の渥美清氏、タレントのタモリ氏などが出入りしていたみたいです。80年代には、コピーライターの糸井重里氏も事務所を構えていたといいます」”
2016年1月1日~キデイランド70周年記念「マンスリーキャラクターイベント」スタート!!
”「ワシントンハイツ」の存在は、原宿界隈を“米軍の街”として発展させ、中上流家庭のアメリカ文化が育っていきました。そのため、東京の真中にあって、異国情緒あふれる独特のイメージが定着。また、海外からの情報もいち早く取り入れる土壌が育ちました。
さらに、1964年(昭和39年)の東京オリンピックが契機となり、徐々に表参道沿いに店舗が増えてきました。オリンピック開催中の原宿は、外国人選手にサインを求める若者が集い、外国人向けの洒落たレストランなどが次々と建てられました。オリンピックが終わっても、その雰囲気は変わらず、“アメリカ文化の香のする街”に憧れる若者の羨望の的となりました。
キデイランドも、 1966年(昭和41年)には本店ビル(地上6階地下2階)を竣工し、キデイランド原宿店のブランドは国内外のお客様に日本を代表する玩具店として認識されるようになりました。”
Washington Heights - The Memory Lingers On
米軍施設を五輪の選手村に ワシントンハイツ返還【映像記録 news archive】