工事中
"1945(昭和20)年8月30日、マッカーサー連合軍最高司令官の厚木基地着任を皮切りに、進駐軍は日本各地の施設建設に着手した。当社は渉外工事推進本部を設け積極的に受注を獲得し、進駐軍関連工事は当社を支える主柱となったのである。主な工事は、厚木基地工事、三沢基地工事、座間基地工事、そしてワシントンハイツ建設工事等であった。"
関東電気工事株式会社社史編纂委員会 編『20年の歩み』,関東電気工事,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2504379 (参照 2024-04-23)
大林組
”敗戦により、すべての産業が活動を停止したなかで、いち早く立ちあがったのは建設業であるが、その端緒を開いたのはいわゆる進駐軍工事であった。GHQの占領方式は間接統治であったが、はじめは日本国民の向背がわからないまま、府県ごとに軍政部をおき、各地に部隊を駐留させた。そのために多くの兵舎や将校宿舎、また航空基地を必要としたが、日本の旧軍事施設は壊滅していたため、占領開始とともにこれらを新設しなければならなかった。”
西松建設
米軍青森県三沢基地工事で起死回生成る。
工事は幅員45m、延長2,580mの滑走路の建設及び170棟の兵員宿舎、167戸の家族宿舎から成りました。慣れないアメリカ仕様の建築工事に加えての超突貫工事でした。荒漠たる丘陵地にブルドーザーやトラックが砂塵を巻き上げて走り回りました。当社は当初工事の70%を施工しました。当社が半世紀以上に亘って築き上げてきた基盤が終戦によって壊滅に帰する中で会社を再起させた工事でした。外地から引き揚げてきた職員は次々と三沢に送られ、最盛期には650人を数え作業員は1万人を超すこともありました。工事は米軍の評価を得てその後の米軍基地工事受注の大きな布石となりました。
建装工業
〝慶長8年(1603)年に江戸幕府の御用達の塗師として漆塗りに塗装のルーツを持ち、明治、大正、昭和、平成、令和という幾多の時代を「塗ること」を通じて彩り続けて400余年、”
″昭和20年(1945)終戦間もない8月下旬、外務省より米軍進駐までに日産館の塗り替え工事をせよとの依頼があり、前後の塗り替え工事としてはとしてはおそらく第1号と思われる工事を文字通り突貫工事で施工した。その後、帝国ホテル、第一ホテル、放送会館(NHK)、米軍女子幹部宿舎など矢継ぎ早に注文が殺到した。事業の拡大に伴って個人経営の髙橋延吉商店から合資会社 建装工業社を設立し本格的な戦後復興へ体制を整えていった。"
”昭和16(1941)年に第二次世界大戦が勃発すると、それまで順調に拡大を続けていた都市ガス事業も戦災により製造・導管設備共に大きな影響を受け、戦前に200万件を超えていた東京ガス管内の需要家件数も、戦後には約1/3と大幅に減ってしまいました。このような状況の下では、各都市ガス事業者もガス機器の普及どころではなく、まず都市ガスそのものの製造と供給の立て直し、破損してしまった導管の修理、各家庭内ガス設備機器の整備などに忙殺されていました。一方、アメリカの進駐軍の家族用住宅は、国会議事堂の周りやワシントンハイツ(代々木の国立オリンピック青少年総合センターなどになっている場所)に、約1300戸ほど建設されました。昭和22(1947)年には、東京ガスの進駐軍向けの需要家数は2300件となり、その販売量は、当時の東京ガス供給量の40%を占めるまでになったのです。
なお、ガス機器は、進駐軍が本国から取り寄せたカタログを日本のガス機器メーカーに提示して造らせた厨房機器、瞬間湯沸器、ガスストーブなどを使っていました。この時期、進駐軍のカタログを見ながら、ガス機器メーカーが苦労してガス機器を作ったのですが、この経験がその後の国産品としてのガス機器開発に生かされたとも言えます。”
第二次世界大戦が終結すると、貿易は全てGHQの管理下におかれ、民間企業による貿易は禁止となった。戦後の食糧難に対して、これまでビルマ米の輸入で実績を持つ日綿は、GHQの放出する食糧の輸送業務に従事。昭和21(1946)年には日米政府間協議により米綿輸入の再開が行われ、日綿は輸入と配送業務を担当した。