シリーズ「佐倉道の界隈を歩く(葛飾新宿、行徳~佐倉)」(新着情報あり)
目次
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編/ さくら道26
今回は鹿島橋から田町・海隣寺町・並木町・新町と佐倉城の城下町を通る佐倉道周辺を散策しました。
佐倉城は戦国時代に千葉氏一族の鹿島幹胤が鹿島台に築いた中世城郭を原型として、江戸時代初期に佐倉に封ぜられた土井利勝が慶長16年(1611)から元和2年(1616)までの間に築城した平城です。
佐倉藩の渡辺善右衛門によって著された『古今佐倉真砂子』とその付属『総州佐倉御城府内之図』は1700年初め頃の佐倉藩内の状況を知ることができる貴重な史料です。今回はこの史料を手掛かりに当時の遺跡や趣を求めて散策しました。この地域は佐倉城築城に伴い開発、整備されたところで、今も佐倉城址の周囲に旧佐倉道や侍屋敷の小路などの遺跡、当時から鎮座している寺社などがあり、佐倉城下町の趣を感じることができます。
左岸は角来村、右岸は田町である。江戸時代、右岸は入口が狭く旗のような形をしていることから「竿地」と呼ばれ、細かく区切って田町と角来村に分与されていた。また右岸の田町河岸では年貢米や干鰯・大豆などの商品が荷揚げされ、停泊する高瀬舟が度々見られたと云う。
鹿島川の東岸から見た鹿島橋である。手前から伸びる旧佐倉道の延長線上に 旧鹿島橋があったと推測される。現在の橋より少し上流(写真竹林の左手)に架かっていたことになる。
旧鹿島橋から旧佐倉道を暫く東へ進むと佐倉城の堀跡に突き当たり、道は左へ折れて200mほど真っ直ぐな道が続く。江戸時代、この通りの右側には佐倉城三十三間堀、左側には竿地沿いの竹藪や松並木が続いていた。200m程堀に沿って進むと、堀の角だった所で再び右へ折れて真っ直ぐな道が続く。ここの角の左手には吉田屋河岸があり藩の請負人・吉田屋が荷揚げされた年貢米を佐倉城内の椎木蔵まで馬で輸送していた。
旧佐倉道は三十三間堀の北西の角を右に折れて東へ450m程真っ直ぐに伸びている。江戸時代、この通りは片側にだけ町屋が並んでいたことから田町片町と呼ばれていた。田町は、椎木曲輪に住んでいた人々が佐倉城築城の時に強制移住させられて出来た町と云われる。
旧佐倉道は堀の北側を450mほど真っ直ぐ伸びている。丁度350mほどの所に佐倉城田町門跡がある。現在、国立歴史民俗博物館の正門が建っているが、その東側辺りに佐倉城の田町門があったと云う。下総の年貢米の八割以上が、田町門、椎木門を通って城内の椎木蔵に納められた。江戸時代には椎木門へ向かう上り坂の左手に愛宕神社と別当・円正寺があり、土井利勝を初め歴代藩主に祀られていたが、後に愛宕神社は移転され円正寺は廃寺となった。
田町門前の丁字路に道標がある。天保9年(1838)造立で、左側面に「是より岩名二王道十三丁」、右側面に「是より飯野観音道十丁」の刻銘がある。北へ向かうこの道は、当時、土浮の佐倉藩渡船場から印旛沼を瀬戸に渡り印西方面に通じる重要な交通路であった。
旧佐倉道は堀の東北端で鉤型に右折、左折した後、東へ真っ直ぐ海隣寺坂の方へ伸びる。この通りは佐倉城築城に伴い整備されたもので両側に町屋が並ぶことから田町両町と呼ばれた。
神社の参道や鳥居をくぐった狭い境内に石塔、常夜灯、狛犬が所狭しと建っている。この神社は、もとは佐倉城内に建立されて土井利勝初め歴代城主によって祀られてきたと伝わる。明治時代に廃仏毀釈や兵営建設などにより現在の場所に移転され、爾来、田町の氏神として祀られてきた。
拝殿に安置される約46㎝高の愛宕大神像は、雲・波型の台座の上で馬に跨り甲冑を身に着け、左手に宝珠、右手に錫杖を持った神像である。
愛宕神社から灯篭を過ぎて飛び石が敷かれた小径を進むと小さな稲荷神社が建っている。
小さな稲荷神社は愛宕神社と一緒に佐倉城内から移転されたものである。小さな社の内外には多くの石像、石仏や五重塔がある。昔は「石段のある神社」と云われていた。
愛宕神社の裏から急な小道を上っていくと、市役所を経由して海隣寺に出ることができる。
市役所駐車場の西側に広がる海鱗寺墓地の奥まった場所に累代千葉家の供養塔が整然と並んでいる。千葉氏歴代の五輪塔や宝篋印塔も海隣寺が本佐倉から移転した時に一緒に移転された。
飾らない山門越しに本堂が見通せる。因みに本堂の山号額「千葉山」と山門の木札「海隣寺」は第35代総理大臣平沼騏一郎の揮毫である。
寛文2年(1662)創建された時宗の寺である。本尊は「海上月越如来」と呼ばれる阿弥陀如来で、当麻無量光寺(相模原市)の有力な末寺である。当寺はもともと、千葉常胤が文治2年(1186)馬加(幕張)に真言宗の寺として建立したが、後に千葉貞胤が一遍上人に帰依し時宗に改宗した。15世紀の千葉宗家内訌に伴い、寺は文明16年(1484)以降に酒々井に移された。そして天正年間に千葉邦胤が鹿島台に本城を移そうと築城工事を再び始めた際に寺を現在地に移した。
田町両町から先の海隣寺坂は、急坂で荷車が上れず、後押しする(おっぺす)人夫がいたことから「おっぺし坂」とも呼ばれた。
坂の中程の右手に市文化財候補にもなった趣のある家屋がある。1868年から酒屋業を始めた老舗味噌屋の本家である。瓦には屋号の“山”に“二”が刻まれている。昭和50年代まで敷地内に煉瓦製煙突があったという。
海隣寺坂を上った場所を市役所の駐車場屋上から見下ろすと、当時の「海隣寺坂上の木戸や広場」の遺構も残っていて趣がある。三峰山道中記図絵(明治4年)には「海隣寺坂を上り切った辺りに海隣寺町の木戸があり、木戸の中には広場があり茶屋も見える。海隣寺通りの寺側には町屋、反対側には武家屋敷が並んでいて、往来は賑わっている」様子が鮮明に描かれている。
海隣寺坂を上り切り(当時の木戸を抜けて)直ぐに左手に小路の入口がある。ここは江戸時代、海隣寺曲輪の裏小路で、西側のこの辺りは坂上新建長屋と呼ばれ組長屋が3棟建っていた。侍屋敷特有の鉤型小路、藩主堀田正盛が建てた赤い稲荷神社、樹齢150年以上と伝わる梅の古木など現在も当時の趣をよく残している。
こちらは海隣寺曲輪の裏小路の東側にあたり古新建長屋と呼ばれ西側と同様に組長屋が3棟建っていた。ここの稲荷神社も、藩主堀田正盛が寛永19年(1642)家臣の曲輪(長屋)に設置した10社の内の1社である。
土井利勝が海隣寺門前と佐倉新町を往来できるように道(後に佐倉道)を造り、家臣の屋敷割をした。新町の横町木戸から海隣寺門前まで武家屋敷をつくり海隣寺並木町と呼んでいた。この道は佐倉藩主が往来する大通りで、藩主が往来する時は通りに面する武家屋敷はおもてなしの意味で盛砂をしたという。
海隣寺通りは海隣寺から鍛冶作にかけて武家屋敷や長屋の中を抜ける裏通りだが、現在は一部しか痕跡は残っていない。前堀田氏の時代には東側の表通りに一戸建ての独立した屋敷が多く、裏側には長屋が多かった。当時、海隣寺の南側は3500坪もある足軽長屋で清兵衛長屋と呼ばれていた(享保年間になり、稲葉氏の時代になって与力・稲葉酒之丞の屋敷となった)。
もとは清兵衛長屋にあったため清兵衛稲荷(堀田正盛が設置した10社の稲荷神社の一つ)と呼ばれていた。享保8年(1723)佐倉藩主稲葉正知が山城国淀に所替えになった時、一緒に淀へ持参したため、現在の高丘稲荷神社は、その後新たに勧請して祀ったものである。丘の上に推定樹齢500年の銀杏の大木が聳え立っている。
旧道路法(大正9年施行)により、各市町村に1個ずつ設置されました。ここは、佐倉藩高札場があった場所でもあり、ここが旧佐倉町の中心だったことが判る。
江戸時代後期に描写された『成田名所図会』にも描かれているように、写真右の佐倉町道路元標が建っている場所あたりに高札場があった。その前を左折すると成田山へ向かう道で参詣が盛んになる18世紀には「成田道」と呼ばれるようになる。当時、奥の交叉点(奥の信号辺り)に木戸があり、木戸をくぐり右折すると大手門に通じる宮小路に入った。
新町の木戸跡をくぐりと宮小路にでる。当時、正面に奉行所があり、そこを右折して麻賀多神社の前から、更に350mほど真っ直ぐに進むと佐倉城大手門に至る。
八千代市から成田市にかけて18社あるうちの一つで、佐倉藩の総鎮守である。ご祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと)で、万物を結び育てる御神徳があると云われる。
境内には樹齢800年以上と云われる大銀杏をはじめ古木・大樹に囲まれ稲荷神社などの境内社4社もある。
私達「さくら道26」のメンバーは佐倉道の散策へ出発するにあたり、この神社にみんなで安全祈願をしました。
編/ さくら道26
今回は臼井駅そばの音楽ホールを出発して、新臼井田、江原台、角来を経て鹿島橋まで歩きました。
この地域は印旛沼の南岸、鹿島川の下流域の左岸に接する標高30m程の下総台地の一部にあります。
この地域は長い間、臼井氏の勢力下にあったとみられ、典型的な中世の旧跡が残っています。しかし交通面は恵まれず、鹿島川の下流域は暴れ川かつ湿地帯で渡河も容易でなく、本佐倉方面への主要陸路は今のように江原台・角来を通らず、臼井宿から南下して生谷・飯重道、大崎台を経由して鹿島宿に上がる迂回ルートが使われました。
江戸時代、土井利勝が佐倉城主になると佐倉城を建築し新しい佐倉道も整備します。さらに17世紀後半には、藩の石高加増に伴い佐倉城下が手狭になり、角来や江原台まで街道沿いが町割りされ足軽長屋などが建築されました。
現在も佐倉道沿いには、佐倉城下特有の枡形や鉤型などの遺跡が残っているほか、江戸時代の実話や伝説に纏わる旧跡も保存されています。
佐倉音楽ホールを出発して、京成線沿いに東へ進むと佐倉道(国道296号)に出る。右折すると直ぐに三叉路がある。右側の道は「飯重生谷道」で中世に本佐倉城や千葉へ繋がる重要な道であった。左側の道は「佐倉道(成田道)」で江戸時代に参勤交代や成田山参詣に使われた街道である。整備された一角に二つの道標、廻国塔、上部が破損した墓石が建っている。
左端にある角柱型の「成田道道標」には、「正面 : 西 江戸道、左面:東 成田道、右面:南 飯重生ヶ谷道、裏面:文化三丙寅(1806)、台座:願主油屋庄次郎他12人の名」が刻まれている。
左から2番目の「さくら道道標」には、舟型浮き彫りの地蔵尊に「さくら道願主 文太郎」と刻まれている。造立年代は不明であるが、成田道道標よりは古いとされる。
光勝寺は阿弥陀如来を本尊とする時宗の寺院である。最初は真言宗の寺院として臼井台の道場作に創建され、初期頃の臼井一族の菩提寺として崇敬されていた。その後、臼井祐胤が一遍上人の高弟で遊行二世・真教上人に帰依して時宗に改宗したという。しかし臼井興胤が臨済宗の円応寺を創建し菩提寺とした後は寺勢が衰えたという。天正18年(1590)臼井城が落城後、小笹台に移転した。
近年、台地の最上部に新しい伽藍が建築されたのに伴い、坂の中腹にあった旧本堂は取り壊された(写真はその直後の風景)。
臼井城から望む光勝寺の夕景は「光勝晩鐘」と呼ばれ「臼井八景」の一つに数えられていた。写真は光照寺跡から望む風景で、正面に印旛沼が広がり左端に臼井城の台地がせり出している。
近年、台地の上に本堂をはじめ新しい伽藍が建築された。本堂には閻魔大王像が安置されていることで有名である。
戦後、元京成印旛沼山荘の跡地に、佐倉城址から鹿島神社を移し、ご神体は松虫寺から勧請した。現在の社は数年前に建て替えた二代目、御祭神は伊弉諾尊で縁結びの神とされる。
今も続く佐倉の花火大会は、昭和31年に「佐倉樋ノ口橋納涼花火大会」と銘打って佐倉駅近辺で始まったが、地元の熱烈な誘致活動もあり、昭和41年からは「印旛姫の宮奉納花火大会」として、この地で開催されるようになった。
光勝寺の東側(姫の宮周辺か?)に暦応元年(1338)創建、真言宗で本尊は不動明王と伝わる。不動明王は岩戸城主岩戸五郎胤安の持仏で、竹若丸(臼井興胤の幼名)を臼井城から脱出させる際に、この不動明王と竹若丸を笈に入れて鎌倉まで無事逃したと伝わる。その不動明王のご利益と胤安の忠節に報いて臼井興胤が創建した寺である。創建当初の不動明王は成田山新勝寺の不動明王と同木で弘法大師の作と云われていた。
その後、この寺は臼井城南側の田町字御屋敷に移転され「稲荷山常楽寺」として現在に至る。移転の時期は不詳だが、天正5年(1577)の「臼井郷図」に同寺が現在地に記載されている。
古今佐倉真砂子に「(江原台から臼井へ向かって)坂下より一丁半行きて左右に一里塚あり 塚印榎」と記されている。
場所は写真のカーブミラー付近とされ、左右に大きな一里塚があり、明治の初めまで榎の老樹があったと云う。以前は「一里塚跡」の木標もあったが現在は何もない。
八丁坂の途中に「六丹社」と称する場所があり、二つの石の小祠と4体の馬頭観音、1体の聖観音像が祀られている。
「六丹社」の由来は、「下総國香取郡油田村(現小見川町油田)に千葉家創立の古刹崇福寺があった。千葉家が滅び江戸時代になると崇福寺領油田村の小作百姓六人が、その寺領を横領して年貢を納めないばかりか、所有権を主張しだした。同寺の住職六丹和尚が、寺の旧事因縁を説諭し聞かせたが一向に聞き入れなかった為、六丹和尚はやむを得ず、お上に訴えて公判を願うべく、訴状を携えて江戸へ向かい、ここまで来た時に待伏せた前記六人に討たれて落命した」という。
臼井旧事録(明治28年(1895))に「六丹和尚怨恨を含みて死する。和尚の魂晩留まりて鬼火の怪あり。六人の者も発病し恐れて相議し、日井(臼井?)の地に六所の小祠を設置し、六丹和尚を合祀す。円応寺永く此の地の供養す云々。」「のち、和尚の幽霊が此の小作人の一族を悩ましたとかで、和尚の怨霊退散供養のため、六丹社を祀り、由来円応寺で供養す一」と記録されている。
六丹社は別名「訴訟の神様」と呼ばれ、訴訟に関し祈願すると必ず御利益があると云われ、これを伝え聞いて参詣する者があったという。石祠が二つあるのは、「文化十二、三年頃(1815~6)日井の大田某外一人事故ありて訴訟に及ぶ時、此の社に祈誓して大いに霊験があったので、お礼に新しい祠を造り奉献した」ため、新旧二祠があるのだという。一つは宝暦11年(1761)、もう一つの新しい祠は文化13年(1816)に奉納された。
馬頭観音は、1体は中央の大きな三面六臂・丸彫りで延宝○○(1673~1680)とある。もう一体は文字塔で明治17年(1984)とある。
聖観音像は元禄17年(1694)。ここは八丁坂上の刑場で処刑された者の“さらし首”の置かれた場所とも云われる。
江戸時代、八丁坂の坂上には佐倉道の枡形土手と木戸が設けられていた。今でも道路の形状から枡形の遺構が想像される。木戸を抜けると、江原から角来まで真っ直ぐに整備された佐倉道が伸びていた。
八丁坂の左手(写真のフェンス部分)は佐倉藩の江原刑場跡、右手の竹林を下りた所にある湧水池は「首洗い池」と呼ばれ、江原刑場で処刑された者の首を洗ったと伝えられている(最近、宅地開発によって埋め立てが進み池の所在は不明)。
八丁坂の左手に佐倉藩の江原刑場跡があり、供養塔と数基の供養碑が建っている。この場所で天保14年(1843)佐倉藩では初めて佐倉藩蘭方医・鏑木仙安等による刑死者の腑分け(解剖)が行われている。鹿島橋の袂に仕置き場ができた江戸後期には、ここはもっぱら晒し場として使われた。
刑場跡には寛政8年(1796)に建てられた高さ3mほどの供養塔と数基の供養碑が建っている。供養塔の正面には「南無妙法蓮華経」、台石には「法界、講中」、右側には「衆罪如霜露慧日能消除」と刻銘がある。また、聖観音を浮き彫りにした舟形像の供養碑もある。
江原台の佐倉道沿いには、寛文年間(1660年代)に足軽長屋が建てられ、その奥には薬園畑が開拓された。嘉永6年(1853)の実測図では幅5間(9.1m)の街道両脇に奥行き25間~30間の43棟の長屋があったという。写真は江原台付近の佐倉道の裏通りで、通りの右側に足軽長屋が並び、左側には薬園畑や馬の飼葉畑が広がっていたとされる。
佐倉道の裏通りを江原から角来へ進むと、中ほどに一風変わった寺がある。大雄寺は黄檗宗で、本尊は正観世音大士、京都宇治の万福寺の末寺である。佐倉藩主稲葉正通(1640~1716)の菩提寺と云われる。創建は不詳ながら大雄寺第一世・湛堂大和尚の墓誌の紀年銘や「古今佐倉真佐子」の記述から、元禄~享保年間(1700代前半)と推察される。境内には比較的新しい大師堂、如意輪観音の十九夜塔などがある。
圓通寺は東に延びる台地の北東先端に位置し、鹿島川や対岸の印東庄が一望できる場所にある。もともと少し南側の台地上(字小用内)に建っていたが慶長年間(1595~1614)に失火したと伝わる。そこには今でも小字外城の名前が残っているなどの他、臼井城の出城説を裏付ける言い伝えが地元に多く残っている。
山門をくぐると右側に8体の地蔵尊(最古は元文5年(1740))とその隣に聖観音像(寛政12年(1800))、そして如意輪観音像の秩父三十四番供養塔が並んでいる。
圓通寺は臨済宗妙心寺派、本尊は地蔵菩薩、円応寺の末寺である。円応寺二世・道庵和尚が応永年間(1394~1428)に開山したと伝わる。臼井興胤の長子・道庵は臼井城の勢力地域の要所要所に臨済宗寺院を創建している。
『古今佐倉真砂子』に「 八幡神社前の段々坂を登ると江原です。左右両側の五丁(約55m)程の間に組長屋があります。さて、その先の左右両側共が御菜園になっています。藩士で役目として馬を持っている者の分として、この場所の飼葉畑が渡されます。御菜園奉行の石田三郎兵衛は百石とりであります。」 と書かれている。
角来・八幡神社の創祀年代は不詳だが、元禄年間(1688~1709)と伝わる。江原に武家長屋が成立したのは寛文年間以降(1661~)と云われており、神社創建の時期と符合する。祭神は誉田別命。
現在の本殿、拝殿、鳥居は元禄16年(1703)に改築したもの。前方後円墳と思しき角来坂一号墳跡に造られた境内には、日枝神社(天神社)、子安神社、御岳神社が祀られ、出羽三山碑、庚申塔等がある。手水石は享保5年(1720)、子安観音は文化8年(1811)、道祖神は文政2年(1819)のものである。
旧佐倉道は、右側の佐倉道(国道296号)から八幡神社の前で左に折れ、再び八幡神社の下で右に折れて鹿島橋へ真っ直ぐ伸びている。上から見ると鉤型の様子がよくわかる。前方の緑の台地は佐倉城址である。
角来八幡神社の前を左に折れて暫く進み、次の鉤型の左手前に小さな祠がある。祠には二体の比較的新しい馬頭観世音と数個の摩滅した石塊が納められている。
この祠がある場所については次のような伝説がある。「佐倉城主堀田正信は、万治3年(1660)老中を政治批判して無断で江戸を発ち、単騎佐倉城へ馳せ帰った。しかし、角来八幡下まで来た時、馬が疲れ果てて倒れ息絶えた。」
正信については「佐倉(木内)惣五郎が年貢減免を江戸幕府に直訴した咎で正一家を極刑に処した。それからというもの、堀田家は惣五郎の亡霊に悩まされ、正信の妻は死亡、正信自身は発狂してしまったと語り継がれていた。」それから「86年後の延享3年(1746)堀田正亮が佐倉へ転封となり、着任の時ここに(八幡神社下)差し掛かると、一人の白髪の老人が現れ、正亮の馬の手綱を引いて大手門まで案内して姿が見えなくなった。正亮は異に思い八幡神社下に馬頭観世音の碑を建てて、馬を供養した。」また「正亮は宝暦4年(1754年)に惣五郎を将門山の口之明神(口ノ宮神社)に祀り、毎年2月と8月に盛大な祭典を行なうようになった」という。この祠に残る摩滅した数個の石塊がその昔の馬頭観音碑(堀田観音)であるとか?
右手の道が旧佐倉道で、八幡神社下から真っ直ぐ鹿島川に向かって進むと旧鹿島橋跡と地蔵尊がある。
角来の「子育て地蔵」とも言われ、鹿島橋の袂に建てられている。
本体高150cm、蓮座、丸石、角石三段の台石の上に立ち総高240cmの立派なお地蔵様である。正面中央に「再興万人講」、右に「宝暦5(1755)」、左に「享和元(1801)」、背面に「天保6(1838)」と刻銘がある。また右面には願主、世話人として12名の名、左面には20名ほどの信士、信女、童子の戒名が刻まれている。昔、鹿島川は水深があり流れも速く水難事故が多かった。水難者を供養するため近郷近在の人たちの浄財により建立され、これまで度々修復されているという。
印旛沼に注ぐ鹿島川の下流域は広大な湿地帯で氾濫も多く、鹿島橋が初めて架かったのは佐倉城の築城時期以降と考えられる。旧佐倉道の遺構から、旧鹿島橋は現在の橋の少し上流にかかっていたと推定される。
編/ さくら道26
江戸時代、この土地は佐倉道の臼井宿と萱田・大和田宿の間に位置する台地で、交通の要衝でもなく経済的にもあまり恵まれた土地ではなかったようです。
一方、この周辺地域には室町時代に臼井氏一族の庇護の下で建てられた臨済宗と真言宗の古刹が点在していて、臼井一族の盛衰や内訌の歴史が想像され興味深いものがあります。
ユーカリが丘駅周辺は大型宅地開発が進み、歴史的な遺跡も散逸し、また資料も乏しい中で、貴重な地元の方々の情報を基に推定した旧佐倉道を辿りながら周辺の旧跡を訪ねました。
ユーカリが丘駅から上座公園入口バス停までバスで移動し散策を開始する。
小竹交叉点に建つ石造り鳥居は元々20m程西に在ったものを移したものである。鳥居後方の境内に建つ12基の出羽三山碑も道路拡張工事により別の場所から集められたものである。最古のものには天保4年(1833)の刻銘がある。
手繰橋から佐倉道を西へ200m程進んだ右手に祠や石仏などが散在した一角がある。元々この付近に林性寺という古刹があり、成田山新勝寺の出開帳時に休憩所として使用されたことが宝樹院の記録に残っている。明治時代初期、神仏分離・一村一寺令により廃寺となり、現在は宝樹院の管理地となっている。
林性寺跡地に建てられた不動堂である。中には、元々林性寺の本堂に祀られていたと云われる不動尊と大日如来が祀られている。
林性寺跡に建つ大師堂で由緒不明である。
碑銘によると昭和5年の建立である。由緒が不明である。
下側は土に埋もれて読めないが、正面上部に「権大僧都・・・」という僧位、側面には寛政6年(1794)の碑銘がある。修行の成果や功績を高く評された高僧が林性寺に関係していたものと推察されるが、詳細は不明である。
14基の馬頭観音塔が並んでいるがユーカリが丘駅北口開発の際に駅前からここに移されたという。
14基の中に一面六臂の馬頭観音像が彫られ異彩を放つものがある。右上部が欠けて碑銘の一部は読み取れないが、「〇元丁辰十月吉日」とも読める(「丁辰」は存在しないので誤謬か)。
江戸時代、手繰坂を下りて手繰川を渡ると上座の台地に突き当たり、その正面に林性寺(写真の右手に寺跡)があった。初め頃の旧佐倉道はそこから台地に沿って左側へ進む経路だったという(写真の上座公園入口看板の手前を左折する佐倉道があったという)。
土地の人に信仰されている神と思われる。佐倉には至る所に喉や咳の神が見受けられる。
上座公園の東側入口。
公園入口を入って正面に、綺麗に剪定されたツツジの植込みが見える。春、ピンクの花が咲くと桜花を象った佐倉市章が浮かび上がる。
写真は旧佐倉道を振り返った景色である。左側の白いガードレール沿いに台地の縁をぐるりと回る経路だったという。
上座公園から台地の縁をさらに進め、早苗田と豊かな新緑を楽しみながら旧佐倉道を歩く。
歩いていると何処からともなくテイカカズラの花の香りが漂ってくる。
上座の台地から早苗田、手繰川、その対岸に臼井~生谷を望む。
旧佐倉道から生谷方面へ抜ける古道である。もしかしたら中世の佐倉城や江戸時代の年貢道に通じる支道などではないかと想像を廻らす。
旧佐倉道沿いの石積みの高台にある木製鳥居と小さな祠がある。由緒不詳である。
高台にある小さな祠。地元の産土神と思われるが詳細不明。
街道の脇に小さな根神社と子権現が並んで祀られている。由緒は不詳ながら、いずれも南関東から東海地方に分布する「ねのじんじゃ」の一つと思料される。ほとんどの根(子)神社は大国主命(大己貴命)を主祭神とし、子沢山だったことから子授け・子育ての神として信仰されている。
昔、三叉路正面には大きなお地蔵様が建っていたが、宝珠院の山門前に移された。右手に行くと宝樹院である。
中央が旧佐倉道三叉路に建っていたお地蔵様。山門前に他のお地蔵様と一緒に安置されている。
山門の右側に六地蔵、その後方に4基の観音様と6基の二十三夜塔が笹に覆われて建っているいる。
現在の山門は明和3年(1767)に建立されたものである。
扁額「金嶺山」は駿河国松陰寺の僧で臨済宗の中興の祖と称される白隠禅師の揮毫である。
寺に現存する最も古い建物で明和6年(1769)の建立である。
平成5年、境内左手に開設された堂に五百羅漢像が安置されている。堂は土日に開放される。
山門をくぐって右側に観音様が建っている。遠方に墓のある人が宝樹院で供養をした卒塔婆を立てていく場所である。
本堂の正面にある山茶花は「臼井興胤公お手植え」と伝えられる古木である。平成31年の市の調査で推定樹齢300年以上とされ、幹の周囲長は約150㎝、樹高4.9mと全国でも珍しい大きさとされる。令和2年に市の天然記念物に指定された。
安永8年(1779)の建立で、中には観音様、地蔵菩薩、薬師如来が安置されている。
金嶺山宝樹院は臨済宗妙心寺派で、臼井家中興の祖と称される臼井興胤公が文和2年(1353)に建立し、夢窓国師が開山した。本尊は地蔵菩薩で、宝樹院再興時(江戸時代)に制作された。
高さ40㎝程の供養塔で、正面には「明治丗五年五月廿五日 千葉家三士戦死霊 小竹村山崎ス〇建」と刻銘されている。戦国時代、手繰川付近で激戦があり多くの戦死者が出た。その千葉家由来の武士の遺骸を葬った耳塚が、上座の不動堂の裏手にあったという。宅地化に伴い、この碑を建て宝樹院で供養することになったという。
小谷茂信は明治3年から6年まで宝樹院に寺小屋を開いて指導した。その後、臼井小学校の上座分校が当院に開校されると引き続き14年間教鞭をとり地域児童の教育に尽力した。
上座の産土神で室町時代(1400年頃)の創建と伝わる。元は「熊野三社大権現」と称したが明治元年に今の「熊野神社」に改名した。現在も「本宮」の南方位に「前の宮」、北方位に「後の宮」が残されている。
この流造本殿は文化元年(1804)に建て替えられたものである。本殿の扁額は今も「熊野三社大権現」と書かれている。主祭神は伊弉諾命と伊弉冉命である。
境内社で大山祇命を祭神とする。
境内社で祭神は素戔嗚尊である。
境内の裏側には末社・金毘羅神社の他にも7つの弊社が並んでいる。
熊野神社から旧佐倉街道を西に進み志津小学校の方へ向かう。
上座公園の一角にある児童遊園地。ここで一時休憩。
志津小学校の裏門に旧志津小学校(明治23年開校)で使用された正門の門柱(石造り)が再使用されている。門柱には当時校札を掛けたと思しき錆びた鉤型が残っている。門柱には明治44年の刻銘がある。
志津小学校の正門に建つ明治26年制作の碑で、志津村誕生の経緯や村の名前の由来などが刻まれ、村の歴史を物語る貴重な遺跡とされる。今回、残念ながら正門内のため碑銘まで確認できなかった。
旧佐倉道と国道296号が交わる場所に建っている。大正11年頃の元標である。
享保年間(1715~1736)に上座の新田開発に伴い、現ユーカリが丘駅辺りから宝樹院(写真左手)まで直線的な道が建造されている。佐倉市史では、これも旧佐倉道と呼んでいる。
国道建設に伴い移設された13基の庚申塔である。何処から移設したかは不明である。最古のものは元文5年(1740)のものとされるが今回現物を確認できなかった(元々右から5番目に有るはずが無い)。
その中で一際目立つ一面六臂の青面金剛像がある。顔の表情も怨嗟に満ち全体的に綺麗な彫像である。銘には「天保八酉年」(1837)とある。
天保8年(1837)建立と云われる。街道の安全を祈願して建てられたか。
道祖神社の裏手に北辰大神を祀った碑がある。元々駅南口付近「お屋敷」と呼ばれる所にあったが上座貝塚の発掘調査の時ここに移された。裏面には「明治三十五年」の刻銘がある。
編/ さくら道26
今回は、京成中山駅から地元ボランティアガイドの方に案内して頂きながら中山法華経寺を中心に散策しました。
日蓮は文応元年(1260)、幕府に『立正安国論』を提出したため迫害を受けることになりました。これを避けるため、日蓮に帰依していた下総若宮の領主富木常忍(ときじょうにん)と中山の領主太田乗明(おおたじょうみょう)のもとに身を寄せたといいます。この時、常忍は館に持仏堂(後に法華寺となる)を建て、太田氏は館を本妙寺とした。弘安五年(1282)日蓮聖人が入滅後、二つの寺は合体して正中山法華経寺となり、常忍は出家して日常と名を改め初代法華経寺貫主となりました。
法華経寺には日蓮聖人が尊崇する鬼子母神の御親刻尊像が安置されています。法華経行者擁護の守護神、安産・子育ての神様として全国の信者から信仰されています。
境内には数多くの史跡が残っており十分時間をとって散策することをお勧めします。
①京成中山駅
今回の散策の出発・ゴール地点。
②法華経寺黒門(総門)
参道の総門で、全体が黒塗りのため黒門とも呼ばれる。建立時期は明確ではないが江戸時代初期と云われる。
門の形式は高麗門と呼ばれ、柱は四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、屋根は最上段に細長い切妻屋根、一段下にも直角に二つの小さな切妻屋根を掛けている。
正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の揮毫で裏面に寛政五年(1793)の刻銘がある。
③黒門から赤門へ向かう参道
この辺の参道は左右に商店や民家が立ち並び車の往来も多い。
④赤門右手の日蓮聖人像
高村光雲作・日蓮聖人像をモデルにして製作された銅像で、2012年に開眼式が行われた。
⑤法華経寺赤門(仁王門・山門)
仁王門、山門(三門)とも呼ばれ、二重の入母屋造の構造で、左右にそれぞれ仁王像が安置されている。
江戸時代末期の修築された記録があり、江戸名所図会にも掲載されている。
⑤赤門の扁額
法華経寺の山号を表した扁額「正中山(しょうちゅうざん)」は本阿弥光悦の筆である。
⑥赤門から境内へ向かう参道
赤門をくぐった参道の両脇には桜並木と法華経寺ゆかりの寺が続く。春は桜の名所となる。
⑦正中山遠壽院の入口
赤門をくぐり参道を少し進むと左手に、「日蓮宗祈祷相傳荒行道場」と書かれた白い門柱がある。遠壽院(おんじゅいん)の入口である。遠壽院は法華経寺の塔頭(たっちゅう)で、「荒行堂」とも通称されるように、正中山修法の相伝を使命とする加行道場として約400年の伝統と歴史を有する。
⑦遠壽院荒行堂
法華経寺の祈祷秘法は唯授一人の秘法とされ代々直接相伝されてきたが、第十代上人の時に初めて、一門の者から最も相応しい者を選び、その者に秘法相伝を託した。その時、選ばれた当院開基となる経王院日祥上人が天正十九年(1592)に新たな堂宇を建立したのが「荒行堂」の始まりである。
因みに扁額「荒行堂」は越中富山藩主前田利幹(としつよ)の揮毫で裏面に文政二年の刻銘がある。
⑦遠寿院の古木梅
文政年間(1818~1830)、越中富山藩主前田利幹が、前田家古伝に従い世継ぎ誕生を祈願して三植の紅白の梅の木を植樹したと伝わる。
⑧法華経寺境内入口の龍渕橋
この橋は法華経寺の結界とされ、橋の先は法華経寺境内となる。
欄干の擬宝珠(ぎぼし)はザクロの形になっている。ザクロは種が多いことから多産や豊穣の象徴とされ、安産や子育ての神として有名な鬼子母神の持ち物でもある。
⑨蒋介石胸像
1972年の日中国交回復の折、当時の住職が建てたもの。
⑩五重塔(国重文)
元和八年(1622)、本阿弥光室が両親の菩提を弔うために加賀藩主前田利光の援助を受けて建立した。塔の高さは約30mで近世の五重塔としては標準的な規模であるが、軒の出張りが少ないので細長い塔に見える。塔の中心は中空で、そこに長い心柱を天井から吊るしている。
⑪祖師堂(国重文)の正面
日蓮上人を祀る大堂、正中二年(1325)の創建である。現在の祖師堂は延宝六年(1678)に上棟されたものである。
⑫祖師堂の側面
祖師堂の造りは七間堂で、正面の横幅は26.5mあり、側面から見ると檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を二つ並べたような比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)の形式をもつのが特徴である。この造りの屋根は全国的にも例が少なく大変珍しい。
⑬銅造釈迦如来坐像
釈迦如来坐像(中山大仏)は青銅の鋳造で総高が4.52m、像高は3.45mである。享和四年(1719)に第五十九代貫首日禅上人を大願主として、江戸神田鍋町の鋳物師・太田駿河守藤原正義によって鋳造された。この大仏は当時、江戸近辺では最も大きい規模であった。
⑭日常聖人の像
日常聖人は元々下総国守護千葉氏の被官で富木常忍(ときじょうにん)と呼ばれ下総若宮に館を構えていた。鎌倉時代中期に日蓮に帰依してその有力な檀越(だんおつ)となり法華寺を建てる。そして日蓮聖人が入滅後、太田氏の本妙寺と合体して法華経寺が誕生すると、常忍は出家して日常と名を改め法華経寺の初代貫主となった。
⑮日蓮宗大荒行堂
日蓮宗の新しい荒行堂で、三大荒行の一つに数えられる大荒行が11月1日から2月10日まで100日間に亘りこの建物内で行われる。今回訪問時は丁度、修行中だったようで道場から経の読誦や床の鳴る音が響いていた。
最近、一般の人も荒行僧から祈祷を受けられるとのこと。
⑯本院(太客殿)
玄関ホールの右側に寺務所があり、左側には休憩できる場所もある。
⑯鬼子母神堂
本殿の奥深くに鬼子母神堂があり、日蓮聖人御親刻の鬼子母神尊像が安置されている。
中山の鬼子母神は法華経行者擁護の守護神、安産・子育ての神として全国の信者に信仰されている。
⑰宇賀神堂
法華経寺の守護である宇賀徳正神の本社である。財福の神として知られる。
⑱法華堂(国重文)
法華堂は法華経寺の本堂で、本尊は釈迦・多宝両尊像である。創建は文永年間(13世紀後半)に富木常忍(ときじょうにん)が若宮に建立し、後にこの中山に移したと伝わる。現在の法華堂は室町時代後期に再建されたものである。もとは祖師堂と同じ地盤に建っていたが江戸時代中期にこの場所に移された。
正面の扁額「妙法花経寺」は本阿弥光悦の作である。
⑲四足門(国重文)
建築形式は四脚門、切妻造、屋根は杮葺き(こけらぶき)で、室町時代後期の建築とされる。元は鎌倉の愛染堂に在ったものを移築して法華堂の正門とした。明治になって現在の場所に移された。
⑳刹堂(せつどう)
刹堂は鬼子母神堂とも呼ばれ、正面に掛けられた扁額には「鬼子母神」と書かれている。将軍家光公の時代に鎌倉に建てられたものを移築したものと云う。優雅な屋根の入母屋造や見事な彫刻などから有名な名匠や名工による建築とも伝えられる。十羅刹女(じゅうらせつにょ)、鬼子母神、大黒様を祀っている。
㉑妙見堂
千葉胤貞の猶子である法華経寺第三代貫主日祐上人は胤貞の庇護を受けて法華経寺の基礎を築いた。日祐上人は胤貞の父の遺骨を安置し、胤貞流千葉氏の氏寺にした。
㉒墓地高台から境内を眺望
境内で一番の眺望が開けた場所だとか。
㉓本阿弥光悦の墓
墓地の最奥(南側)にひっそりと置かれている。
㉔八大龍王堂と龍王池
日蓮聖人開眼の八大龍王を祀る御堂と御池。日蓮が雨乞いをしたと伝わる
㉕参道の茶屋
㉖清華園
参道の黒門近くにある旧邸宅と庭園で平成4年に市に寄贈された。偶々、竹久夢二の作品展を開催していたので鑑賞することに。
㉖清華園の竹久夢二展
散策の最後に夢二の美人画を鑑賞できて満足であった。その後、京成中山駅に戻り解散。
【後記】-市川散策-
四十年ほど前、私は東中山の駅前のアパートで、今は亡き妻と新生活を始めました。その時に屡々散歩したのが中山法華経寺でした。
今回の見学は、久しぶりに境内を巡りながら、自分の思い出と古刹の悠久の歴史を同時に感じながら、時の流れの中に浸ることができました。
往時の「さくら道」を歩いた人々も同じ思いで参拝したのかもしれません。 (H.K.)
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編/ さくら道26
今回は、大和田駅から歩いて大和田宿の界隈に残る史跡や自然を訪ねました。八千代市の大和田・萱田町を東西に貫く国道296号は、戦国時代末期まで遡る古道(通称;下総道)に始まると云われ、江戸時代初期に徳川家康の命を受けて佐倉藩主・土井利勝が街道を整備した。最初は佐倉道と呼ばれ、江戸時代中頃以降、成田山参詣が盛んになると成田道と呼ばれるようになった。大和田宿の形成過程は明らかになっていないが、大和田村には大和田字古屋敷の住人、萱田町には萱田村などの住人が移り住んで宿場町(継立場)を形成したと云われる。最盛期には宮坂(大和田坂)の下から市役所入口交差点付近まで1㎞ほどの街並みで、旅籠や問屋場が設けられ大和田宿と通称され参詣客などで賑わったという。
①京成大和田駅
今回の散策の出発地。大正15年(1926)に東京・成田間に京成電鉄が開通し、八千代市内に初めての大和田駅も作られた。それに伴い成田山参詣客の多くが鉄道を利用するようになり大和田宿は衰退していくことになる。
②小板橋時平神社
昭和15年(1940)頃、大和田時平神社から分祀された。八千代市内の4番目の時平神社となる。本殿の三面胴羽目には見事な唐獅子の彫り物が施されている。
③第六天宮
小さな社殿が、街道を挟んで萱田町時平神社と向き合うように建てられている。
神社創立の由緒は不明だが、千葉県には第六天神社が広範囲に分布している。大六天は仏道を妨げる第六天の魔王で他人の楽しみを自分のものにする法力があるという説がある。
④宮坂(大和田坂)
江戸時代初期に佐倉道を整備するために掘削された坂道。以前の旧街道は少し南側にあったと云われる。街道の北側は萱田町時平神社の鎮守の森で、坂を下った所が宿場の東端にあたる。
⑤萱田町時平神社
元和元年(1615)創立で佐倉道が整備された時期と重なる。祭神は藤原時平命。佐倉道から参道の階段を登りきると周りは鎮守の森、正面に鳥居・社殿と連なる境内が広がります。境内は台地の東端に位置するため勝田台や村上の街並みが一望できる。
⑥医王山薬師寺
真言宗豊山派の寺院。「千葉郡誌」によれば文亀二年(1502)の開基とされる。佐倉道が整備される前の旧街道は、本寺の角を南に曲がって古屋敷(小字名)へ通ずる道であった。そのため寺のお堂も東向きに建てられていると地元では伝わる。以前は境内入口付近に在った「成田山」道標は、別の場所(隣の土地へ)に移されて確認できなかった。
⑦飯綱権現道の道標
道の名は「萱田道」または「権現道」と云われ飯綱神社への参拝道標である。天保四年(1833)造立、碑には闊達な字で「可やた山いつ奈大権現道」と刻まれている。
⑧中宿三叉路
大和田宿の中心部の三叉路付近。ここには高札場や荷附小屋(問屋場)などがあった。付近には今でも当時の有力な名主等と同じ苗字が残っている。
⑨明治天皇行在所
現在記念碑がある場所には大沢小十郎邸があった。明治天皇が行幸時に宿泊所として度々使われた。その度に湯殿や厠を新築するなど、大沢家は多大な経済的負担を強いられたという。明治6年に大和田村で近衛兵による演習が行われた際、篠原少将の見事な指揮ぶりに感銘し「篠原に習え」と下知されたことから「大和田原」は「習志野原」に改名されたという(諸説あり)。
⑩大和田時平神社
慶長15年(1610)創建、祭神は藤原時平命。八千代市には時平神社が4社あり、大和田が最も古い。時平神社に関しては、何故藤原時平を祭神にしたのか?何故この地域に多いのか?など謎は多い。大和田時平神社の由緒も不詳だが、「下総三山の七年祭り」では屋台(山車)を出すなど、萱田町時平神社と同様に二宮神社との関係が深い。
⑩大和田時平神社の社殿彫刻
社殿の胴羽目には「神功皇后」「源為朝」「源頼光」に纏わる伝説を題材とした見事な彫刻が施されている。
⑪地蔵山円光院
真言宗豊山派で千葉・大聖寺の末寺。「千葉郡誌」に慶長15年(1610)創立、「円光院の記念誌」に古邸(ふるやしき)に在った羅漢寺が現在地に移転とある。古邸(字古屋敷のことか)は、大和田宿に移住した人々が以前住んでいた場所であることから頷ける。佐倉道が整備される以前に移転したためか、街道から少し入った所に風流な山門があり、ずっと奥の方に立派な本堂や墓地が広がる。明治6年(1873)、八千代市内で最初の出戸小学校(現大和田小学校)が開校した際、本寺を校舎として使用した。
⑫天受山長妙寺
日蓮宗、身延山久遠寺の末寺。寛永三年(1626)河野又衛門尉栄通が尽力し一宇を創建(河野一族の末裔はまだこの地に居住とのこと)。街道を挟んで日蓮宗と真言宗の寺が建立されている。当時この地域は両宗派が布教活動で鬩ぎ合った場所であり、大和田村と萱田町の住人の出身地が異なることと関係しているかも知れない。
⑫長妙寺の八百屋お七の墓
本堂の西側の墓地に「八百屋お七の墓」(天和二年三月二九日「妙栄信女」の銘)がある。お七の実母が遺骨を探し出し当地に葬ったという。
⑬無縁法界塔
文久元年(1861)に女人講が行倒れの人を供養する目的で建立した。現在、そば屋(さわ田茶屋)の入口付近に建っている。この辺りが大和田宿の西端にあたる。
⑭さわ田茶屋
そば屋の建物は東久邇宮元首相の市川別邸(昭和初期築)を移築したものである。
残暑の中、散策お疲れ様! ご褒美は名店の蕎麦と麦酒!! 「天蕎麦」御馳走様でした!!!
【後記】
猛暑も収まり三か月ぶりの散策です。今回は大和田宿で、当地には全国的にも珍しい「時平神社」が四社あります。なぜ悪役イメージの藤原時平(菅原道真を左遷した)を祀っているのか不思議です。大和田時平神社本堂の彫り物は見ごたえがありました。
(S.N.)
編/ さくら道26
地元の人に親しまれる「意富比(おおひ)神社(別名船橋大神宮)」は船橋市最大の神社です。その歴史は古く日本武命が東征の途中に神鏡を祀ったのが創始と言い伝えられています。大神宮の門前にあたる「本町」・「宮本」地区では室町・戦国時代に市が立てられていたことから村の名前もいつしか「九日市村」・「五日市村」と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代に入って慶長十九年(1614)頃、徳川家康は佐倉藩主土井利勝に命じて船橋から東金まで「御成街道(東金街道)」を掘削させました。また御成街道の北側には家康の休泊所として広大な「船橋御殿」も造営しました。これにより「九日市村」と「五日市村」は御成街道(東金街道)、佐倉(成田)街道、上総街道が集中する交通の要衝となりました。成田参詣が盛んになった江戸中期頃からは大いに繁栄し旅館数が29軒にも上る佐倉道最大の宿場町になりました。
この地域には意富比神社を初め、船橋御殿跡地や宿場町の史跡など見どころが満載です。一度は訪れてみたい場所です。
①本町十字路
写真の前後方向が本町通りで、江戸時代には東金御成街道、佐倉道(成田道)、房総往還の宿場町として繁栄した通り町である。船橋宿は、五日市・九日市・海神の3村からなるが、最初に栄えたのは五日市村本宿だったが、往来者が増えてきた江戸中期以降、九日市村の通りへ中心地が移っていった。そして29軒もあった旅籠屋は九日市村だけに存在したのが特徴である。
②浄勝寺
浄土宗、明応五年(1496)開基。徳川家康より寺領10石を受領、塔頭三ヶ院を持つ。古くは東向きだった本堂を、駅前通り開通後に西向きに回転したという。
③浄勝寺境内の地蔵
江戸時代に浄勝寺が、歓楽街の薄幸な運命に翻弄された女性を弔うため境内に「お女郎地蔵」を建立したという。
④不動院と大仏
真言宗、南北朝時代の開基。門の前に海難事故者供養や海難防止を願い石造の釈迦如来座像が建立されている。最近は地元漁師から「飯盛大仏」と呼ばれ大事にされている。
⑤廣瀬直船堂
本町通り(御成街道)の南側には創業300年、大正7年築の和菓子店が現在も営業している。
⑥森田呉服店
本町通り(御成街道)の北側には創業140年、明治5年築の森田呉服店が営業している。
⑦厳島神社
由緒不詳ながら、寛政十二年(1800)の「村艦明細書上帳」にある「弁財天」が当社と推察されている。明治維新後、意富比神社に合祀され飛地境内社となる。
⑧道祖神社
由緒不詳ながら寛政十二年(1800)の「村艦明細書上帳」にある「道祖神」が当社のことと推察されている。意富比神社に合祀され飛地境内社となっている。本町三丁目の守神。
⑨三峯神社
境内の左奥には三峯神社がある。由緒不詳。
⑩御殿通り
勤労市民センターから御蔵稲荷までの通りは近年になって「御殿通り」と名付けられた。江戸時代初期、通りの北側に船橋御殿が置かれたことによる。当時、通りの町並みは正面側を御殿に向けて建てられていたという。
⑪船橋東照宮と御殿稲荷大明神
船橋御殿は慶長十九年(1614)家康が東金へ鷹狩に行くための休泊所として建てられた。秀忠も鷹狩の際、休泊したとされる。面積は約400アール(12,000坪)あり周囲は土塁で囲われていた。寛文十一年(1671)に当御殿は廃されたが、その跡地に意富比神社宮司・富氏が当社を建てたと云われる。隣には稲荷大明神が祀られている。
⑫御蔵稲荷神社
正保年間(1644~47)、飢饉に備えて穀物備蓄用の郷蔵が作られた。お陰で享保・天明の飢饉の時にも多くの人々が救われた。蔵は寛政三年(1791)出水のため流失したが、地元民が感謝を込めて、その跡地に稲荷神社を建立した。
⑬万代橋から見た海老川橋
成田名所図会によると橋は太鼓橋として描写されている。架橋は、海老川の東側を大神宮の切通工事で出た土で埋め立て、橋桁には石積みによる土留めをするなど大工事だった。海老川は九日市村と五日市村の境である。川の東岸には江戸~明治中期、海運会社の建物が立ち並び、五大力船が出入りしていた。佐倉藩の米蔵もここに存在した。
⑭海老川橋のレリーフ等
「船橋地名発祥の地」として、橋の欄干には船橋の歴史をイメージした数々のレリーフが欄干に飾られている。また別名「長寿の橋」として故・泉重千代さんの手形なども飾られている
⑮意富比神社前の追分
海老川橋を渡ると正面に四辻が見える。大神宮の右手は上総道、左手の坂は慶長 十九 年(1614)に開かれた宮坂と呼び御成街道(東金街道)・佐倉道(成田道)である。この四辻に宝永六年(1709)造立の道標を兼ねた廻国塔が建てられていたが、現在東光寺に移設されている(「東光寺の廻国塔」参照)。
⑯西福寺
真言宗豊山派で長谷寺の末寺、創建は鎌倉時代。地元民に「閻魔寺」と呼ばれ愛されている。入口の左側で、ふくよかな顔をした六体の地蔵尊「ふくふく地蔵尊」が出迎えてくれた。
⑰宝篋印塔と五輪塔
境内右手・坂上の墓地に、鎌倉時代後期建造の石造宝篋印塔や南北朝時代の五輪塔がある。元々安養寺にあったが船橋御殿造成時に、この場所に移設されたものである。鎌倉を除くと関東でも優れた作品として県文化財に指定されている。
⑱了源寺
浄土真宗、足利義輝が暗殺されたため出家した侍臣・天野匡親(釈伝翁)が天正年間(永禄年間とも)に創建したという。大輪の蓮の花に癒された。
⑲了源寺鐘楼堂
享保年間、徳川幕府はこの丘に砲台の台座を設け東方の原野に向けて試射したという。これが廃止後、跡地に鐘楼堂が建てられ、幕府から「時の鐘」として公許された。明治4年に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていた。当寺には、時の基準となった和時計(当時「自鳴鐘」と呼んだ)と鐘の音を聞いて詠んだ蜀山人の自筆狂歌が保存されている。
⑳板橋氏神
了源寺から南に下りていく途中に見つけた立派な鳥居の神社だが、由緒不詳。
㉑辻切
了源寺から東光寺に向かう大神宮沿いの下り道で辻切(3か所)を発見。お札には「塞神三柱守護門也」と書かれている。
㉒東光寺境内の廻国塔
東光寺参道石段を登り右手植栽の中に廻国塔が建っている。元は大神宮西参道の四辻に建っていたもので東光寺に移設されたものである。廻国塔は宝永六年(1709)の作で道標を兼ねており「右かつさ道 左ハさくら道」と刻印されている。
㉓意富比神社南参道の一之鳥居
明治二十七年の皆川華岳彫刻による「意富比大神宮」図によると、南参道鳥居の前は上総道で、そのすぐ南側に海岸線が描かれている。今回は鳥居右手の日本料理店で楽しい昼食を済ませ、いよいよ意富比神社参拝へ。
㉔南参道二之鳥居と土俵
二の鳥居を通して正面に拝殿が見える。右手には土俵があり10月の例大祭に奉納相撲が開催される。これは天正十八年(1590)の徳川家康の上覧相撲に起源を持つとされる。
㉕意富比神社拝殿
11~12世紀にかけて源頼義・義家父子は当宮を修造し、義朝は再建した。その頃の文書に「船橋伊勢大神宮」とある。源朝臣家康が天正十九年 (1591)に五十石を社領とした朱印状がある。家康が本殿・末社等を造営したが、戊辰戦争の戦火で焼失したため、「江戸名所図会」でしか見ることはできない。
㉖意富比神社西参道
本町方面からの参道になる。
㉗八剱神社・八坂神社神輿奉安殿
背の高い建物の中に、神輿が二基納まっている。左は本町八坂神社、右は湊町八剱神社の神輿である。他の神輿と異なり神輿自体が神社という位置づけで神様は常にこの神輿に鎮座するとされる。例祭は七月。
㉘常磐神社(東照宮)
創建は天正十九年(1591)徳川家康によるといわれる。後に秀忠が「常磐の御箱旗弓・家康の前歯など」を納めたことから東照宮とされ、江戸の武士達が参拝に訪れたという。社前に三つ葉葵紋の入った灯篭や手洗石がある。
㉙灯明台
常磐神社鳥居の右手・小高い丘の上に和洋折衷の建物・灯明台がある。明治十三年築で木造瓦葺三階建、一・二階は和室で当番が宿泊でき、高さは12mある。私設灯台で光到達距離は約11km(浦安沖辺りまで)あったと云われる。この高台には以前浅間神社があった。
㉚皆川華志による大神宮図
常磐神社入口付近に明治二十七年皆川華岳彫刻による「延喜式内意富比大神宮」が展示してある。大神宮と周辺の様子が克明に刻まれていて、貴重な資料である。
【後記】
都市化された船橋しか見る機会がなく、今回は江戸時代に栄えた御成街道周辺のお寺や神社など多く残されていて新たな発見ができました。船橋大神宮も見ごたえがありました。
歴史ある船橋を散策でき、大変楽しい思い出を残すことができました。(Y.T.)
編/ さくら道26
船橋市の「西船」地区は、後の犬山城主成瀬正成が家康から初めて四千石の領地を与えられた土地です。爾来、宝成寺を菩提寺とする成瀬家にゆかりの深い土地です。
「海神」地区は、船橋地域の中でも古代の伝説が残る神秘的な土地です。特に有名な伝説の粗筋は次のとおりです。
1.大和政権の日本武尊は東征途上この地にやってきた。
2.旱に苦しみ雨乞いの儀式を行ったところ、海上に現れた一隻の船上に神鏡を見つけ、浜に持ち帰り新しい宮を建てて祀った。このことから宮付近の場所は「海神」と呼ばれるようになった。
3.東征を無事終えた日本武尊が神鏡を祀った宮へ行こうとしたが洪水で川を渡れず、思案の末、船を並べて橋にして無事渡ることができた。そこから「船橋」の名が起こったという。
ここで最初に神鏡を祀ったとされる宮が入日神社で意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)の元宮と云われます。
なお、葛飾新宿経由の水戸佐倉道と行徳経由の佐倉道は、ここ「海神」で合流し間もなく船橋宿に入ります。
さあ、神社やお寺など史跡を巡り楽しみましょう!
①宝成寺
曹洞宗。成瀬正成が天正年間に移設・創建し、成瀬から「成」の一字をとって法成寺と改名した。広大な境内、山門の屋根に輝く三つ葉葵と立派なお寺である。
②成瀬家の墓所
法成寺は成瀬家の菩提寺。墓所で一際大きいのは犬山城主成瀬正寿の墓石で県内で最大級と云われる。
③成瀬地蔵
貞享4年(1687)地元の念講中により寄進された。夭折した成瀬之虎の供養説があるも由緒不詳。
④正延寺
真言宗豊山派。創建年代は不詳だが本尊・胎蔵五智如来像は、平安時代の作と推定され県文化財に指定されている。境内の新四国八十八カ所 巡りを皆で楽しんだ。
⑤龍神社
創建は不詳だが西海神村の鎮守で大綿津見命を祀る。仏名を娑羯羅龍王ということから「龍神社」と称するという。
⑥本殿の彫刻
龍神社本殿は明治44年頃の建立で、壁面全面の見事な彫刻は船橋の仏師の作である。モチーフは日本武尊伝説か。
⑦龍神池
池の奥の石碑は所謂「弘法大師の石芋伝説」を詠んだ大覚院實嚴和尚の七言律詩である。
⑧大覚院
真言宗豊山派。何故か地蔵堂の六地蔵が金メダルをしていた。四国の形をした「大師の庭」で2回目の八十八カ所巡りを楽しむ。
⑨入日神社
日本武尊が雨乞い時、現れた船上の神鏡を最初に祀った場所とされ、意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)の元宮と伝わる。
⑩佐倉道の追分跡
三叉路の右側が葛飾新宿経由の水戸佐倉道、左側が行徳経由の佐倉道であった。この場所に元禄7年(1694)造立の道標が建っていたが、念仏堂に移設された。
⑪念仏堂に建つ道標
佐倉道の追分から移設された道標で、「右いち川みち、左行とくみち」と刻まれている。何れの道も佐倉道のことである。
⑫地蔵院蓮華寺
創建年代は江戸時代の初め以前とされる。現在の本堂はまだ新しく現代的な作りである。御住職によると「左側の地蔵様は願い事がよく叶う」とか。
⑬海神稲荷神社
由緒不詳。海上の守護神で、漁村だった旧海神村の象徴だった。現在地蔵院持である。
⑭日枝神社
山王様と呼ばれる地元の産土神。明治の神仏分離令で日枝神社に改名された。
⑮西向地蔵
江戸前・中期の石仏・石塔が置かれ、最古は万治元年(1658)の地蔵像念仏塔である。慶長十九年(1614)の東金街道開削はこの西向地蔵が起点という。此処の「鉤の手」は古宿場の境でよく見られる一形態である。
【後記】
散策後、遅めの昼食を思い切って若い人向けのお洒落なレストランでとることに。ところが「注文はスマホ使ってオンラインで」だとか。スマホと悪戦苦闘の末、最後は奥の手「お姉さん、助けて!」。そして…漸く乾杯!(S.U.)
編/ さくら道26
江戸時代、幕府は防衛上の理由から中川や江戸川に橋を架けることを許しませんでしたので、交通は渡しによって支えられていました。しかし、幕府が公認したのは「小岩・市川の渡し」だけでした(今井の渡しをはじめ他の渡しは、生活上の必要から農作業時のみなど限定条件付きで認められていたものでした)。
寛永9年(1632)日本橋と本行徳村を結ぶ行徳船が就航すると幕府は「今井の渡し」の利用を大名に限り認めました。庶民の通行が制限的にも認められるようになったのは元禄16年(1703)に市川団十郎が「成田山分身不動」を演じた事が契機となり成田参詣が盛んになってから後のことと云われています。
今井の渡し跡の他にも、江戸川の川辺には素敵な公園や歴史的な名所があります。
①旧江戸川と対岸・南行徳
一の江駅から歩いて今井橋の手前から旧江戸川と対岸・南行徳方面を望む。
②今井橋を渡って行徳へ
今井橋を渡り切ったら、いよいよ南行徳地区へ。
③今井の渡しの旧跡
最初は寛永9年(1632)大名に限り利用を許可された。大正元年に橋が架かって役目を終えている。ここが行徳街道の起点(終点)であった。
④旧江戸川沿いの遊歩道
満開のツツジの生垣を楽しみながら旧江戸川沿いのジョギング道(遊歩道)を歩く。
⑤相之川日枝神社
相之川の鎮守として万治元年(1659)に創建、祭神は大山昨神。御宮司から「行徳は徳の町」とし儒教の教えを戴いた。
⑥内匠堀プロムナード
鎌ヶ谷から灌漑・排水を備えた全長12㎞の水路を開き農業の発展に寄与した。尽力した田中内匠と狩野浄天に因んで「内匠(たくみ)堀」又は「浄天堀」と呼ばれる。
⑦源心寺
開山は芝増上寺の観智国師。慶長16年(1611) に狩野新右衛門(浄天)が堂宇を建立。2016年竣工した参道と両側の庭は「二河百道(にがびゃくどう)」といい極楽往生に辿り着く道を表わすという。
⑧香取神社
香取(かんどり)神社という。下総一の宮から勧請して天文年間(1522~55)創建された、欠真間・香取(かんどり)・湊・湊新田村の鎮守である。
⑨湊水神宮
社の裏に行徳河岸(祭礼河岸)があった。由緒は不詳であるが、漁師を初め地域に大層崇められていて、6月の祭礼当日には数千人の参拝者があると云う。
⑩行徳河岸(祭礼河岸)旧跡
貨物専用の河岸がこの付近にあり、昭和の初め頃まで使用されていたという。場所は特定できないが現在のポンプ場付近と推測する。
⑪押切稲荷神社と大銀杏
慶長3年(1598)創建、ご尊体は約850年前作の十一面観世音菩薩と云われる。御神木の大銀杏は現在の3倍の高さがあり、江戸湾の漁師が方角を定める目標にしたという。
⑫押切神社の彫刻
本殿の三面胴羽目の彫刻は「大江山鬼退治」「養老の滝」「玉巵弾琴」とよく見かけるモチーフだが、見事な彫りである。
【後記】
江戸川沿道は遊歩道、静かで風光明媚。満開のツツジに癒され爽やかなスタートです。しかし昔は水害が多かったのでしょう。鎮守の神社が多く、また街中は人々の苦労も垣間見えました。でも江戸川・今井の渡しで、ここ行徳から成田道(さくら道)が繫栄する起点に繋がったんですね。(M.H.)
編/ さくら道26
江戸時代、成田山詣に向かう人々は船で行徳までやってきて行徳街道を陸路、成田山に向かいました。また家康は鷹狩のため権現道を通ったと云われます。
界隈には、今でも多数の神社・お寺を初め歴史的建造物や街道跡などが多く残っています。
歴史の道を散策して江戸時代にタイムスリップしてみませんか。
①旧成田道の街並み
沿道に並ぶ歴史的建物が醸し出す風情を楽しみながら街道を歩く。
②春日神社
境内の燈籠に寛文十年(1671)とあり、それ以前の創建とされる。
③妙好寺山門
茅葺屋根の山門は建築様式や文様が江戸中期の特色を示している。
④妙好寺
永禄8年(1566)創建の日蓮宗の寺。静かな佇まいに癒される。
⑤八幡神社
妙好寺と同じ敷地内に祀られ、創建も同時期と謂われる
⑥徳願寺山門
徳川家康の「徳」をとって名付けられた浄土宗の寺。
⑦徳願寺経蔵
内蔵する回転式八角輪堂を参加者全員で力を合わせて回させて頂いた。
⑧徳願寺観心堂
寺宝「宮本武蔵の達磨の絵と書」や「円山応挙の幽霊画」が収蔵されている。年に1回だけ一般公開される。
⑨権現道
家康が鷹狩の途中通ったと云われる。沿道には多くの寺が建ち風情が残る。
⑩妙覚寺
境内にキリシタン燈籠がある。下の彫刻がバテレンに見えることからそう呼ばれる。
⑪行徳街道の田中邸
行徳街道沿いに歴史的建造物が多く残っている。写真は元行徳町長宅。
⑫常夜灯
旧江戸川沿いに1812年、航路安全を祈願して建立。
⑬浅子神輿跡
国登録有形文化財。屋内に神輿の歴史や技法などの展示室がある。
⑭休憩所
ここで昼食をとりました。
⑮中台神輿ミュージアム
神輿の構造について説明と組み立て実演を見学。
【後記】
最後に、今回は地元のボランティアの方々に案内していただきました。御多忙な中、懇切丁寧に案内していただき行徳・妙典地区の街の風情を十分に堪能することができました。末筆ながら御礼申し上げます。
編/さくら道26
八幡は市川市の中央部に位置し、下総国総鎮守・葛飾八幡宮を中心に発展し、江戸時代には中央部を東西に貫く佐倉道の宿場町として栄えました。
葛飾八幡宮は由緒ある神社で、平安時代の寛平年間(889〜898)に宇多天皇の勅願により京都石清水八幡宮から勧請して創建されたと伝えられています。誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、厄除けや必勝祈願の神社として広く信仰され、平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など歴史上の武将からも厚く信仰され庇護されていました。境内には国指定天然記念物の「千本公孫樹(せんぼんいちょう)」があり、樹齢1200年とも言われる壮大な姿を誇ります。
一方、「藪知らず」は、葛飾八幡宮の旧所有地内にあった小さな竹藪で、江戸時代から「入ると出られなくなる」と言われる禁足地として知られています。その謂れについては「日本武尊が陣を敷いた跡地説」、「平将門の鬼門にあたる場所説」等々、多くの伝説が残っています。江戸名所図会にも登場し、ミステリアスなスポットとして長く語り継がれてきました。
歴史と伝説が交錯するこのエリアを散策するのは、まさに文化と神秘を体感する旅です。一度は訪れたいところです。
散策の出発地です。今回は地元ボランティアの方々に案内して頂きました。
永井荷風ゆかりの「大黒家」。現在は「大人の学び舎 大黒家」として利用されている
永井荷風は晩年、移り住んだ八幡の自宅近くにある「大黒家」でカツ丼を毎日のように食べていたという。
孤老永井荷風は八幡の自宅において一人で人生を終えた。
岡晴夫は戦前から戦後にかけて活躍した歌手で、昭和52年に日本歌謡界における功績を讃え岡晴夫を偲ぶ会によって葛飾八幡宮境内に顕彰碑が建立された。碑銘は藤山一郎の揮毫である。
参道を進んで拝殿の手前にある。
左手前より拝殿、幣殿、奥に本殿と続く。そして右側に千本公孫樹。
左側に見えるのは神楽殿、正面が拝殿。
鳥衾付鬼板を乗せた唐破風向拝の軒下の精緻な兎毛通、笈形、蟇股、木鼻の彫刻群。
擬宝珠高欄付廻縁を設けた拝殿。
神様に神楽を奉納する神楽殿の正面。
神楽殿の奥に掛けられた大絵馬は江戸時代末期に奉納されたもの。右から二人目が御祭神・神功皇后(息長帯姫命)とされ、夫の天皇の遺志を継ぎ「新羅出兵」した時の様子とされる。新羅からの帰途、筑紫で息子の応仁天皇(誉田別命)が生まれたとされる。
樹齢1200年と云われるイチョウ(公孫樹)の巨木。その姿は「江戸名所図会」にも描かれている(ホームの写真参照)。千本という名は、落雷で地上6mの所で折れた太い幹を根元から立ち上がった多くの幹が囲んでいることに由来すると云われる。
神社に鐘楼とは珍しい!上野東叡山寛永寺末寺で、葛飾八幡宮の別当寺・八幡山法漸寺の鐘楼が今も神社の一角に残っている。明治維新後の廃仏毀釈運動の中、関係者が社殿を塀で囲い、その中に入れて鐘楼堂を守ったお陰で、本堂は廃棄されたものの、幸い鐘楼はそのまま残された。
治承4年(1180)安房国から下総国府に軍馬を進め八幡宮を参詣し戦勝を祈願した。その折、頼朝公の馬がこの石に前脚を掛け、ひずめの跡を残したことから「駒どめの石」と云われる。
市川の土地は砂地が多く耕作には適さなかったが、江戸時代に寺小屋の師匠であった川上善六は梨の栽培には適していることが分かると、美濃国大垣から梨の枝を持ち帰り、葛飾八幡宮の法漸寺境内で試験栽培をした。これが「市川の梨」の始まりと云われる。
参道の随神門をくぐると左側に黒松や楠の間から見える門構えに風情を感じる。明治期に新潟で建築された邸宅を昭和27年に移築して公民館として使ってきた(令和3年に閉館)。
明治維新以前は別当寺八幡山法漸寺の仁王門だったが、神仏分離によって仁王像があった所には随神(左大臣、右大臣の像)が奉納され「随神門」と改名した。その時、仁王像は行徳の徳願寺に移された。木造で、正面柱間3間、奥行柱間2間の八脚門。
葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺仁王門の両裾に奉納されていた仁王像は現在、行徳の徳願寺に遷されている。
随神門の手前に小林一茶の句碑。「冬木立むかしむかしの音すなり」は一茶49才の時に、恩人の13回忌に想いを詠んだ句である。
二の鳥居から随神門方面を望む。長い参道の並木道は風情がある。
この地域は砂浜や入江の湿地帯に囲まれた土地で耕地には向かない土地であったため、 明治45年に耕地整理組合が発足し多くの水路が作られ、5畝割を基本とした水田の区画化が行われた。
広さ約300坪(近世以前はもっと広かったという)で、一度入ったら二度と出られないと語り継がれる竹藪である。
史実をみると、ここは行徳の入会地で八幡の住民はみだりに入ることが許されなかった。そのため「八幡知らず」と呼ばれ「藪知らず」に転じたと云わる。
藪知らずが禁足地となったのには「八幡宮の神聖な地」、「日本武尊の陣所跡」、「貴人の古墳跡」、「平将門平定の折、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き死門の一角を残した」、「平将門の家臣6人が、この地で泥人形になった」など数々の伝承が関係している。
不知森神社の御朱印は葛飾八幡宮で受け付けているとのこと。
藪知らずから佐倉道を少し東へ歩いたところに曹洞宗寺院の浅間山東昌寺がある。東昌寺は天正年間に太誉和尚が創建した寺で、寛永元年(1624)に現在地に遷された。
戊辰戦争終盤、主に九州や中国地方出身の藩兵で構成する新政府軍は旧幕府軍を追討すべく八幡まで進軍していた。そこに中山から旧幕撤兵隊の大隊が反撃してきた為、不意討ちを食らった新政府軍側に多数の死傷者がでた。寺の墓地内には、この戦いで戦死した新政府軍兵の墓が建てられている。
八幡にあるサイゼリヤの1号店が教育記念館として保存されている。
ここで、八幡周辺の散策は終了し、後半は中山に向かう。
編/ さくら道26
市川市の地形は北から南にやや傾斜し、北部の台地は概ね標高20m程度でそれ以外は2m程度の平坦地がほとんどです。
大化の改新の後、国府台に下総国国府が置かれ、政治・経済・文化の中心として栄えました。因みに国府台の地名は「国府」に由来しています。
奈良時代、市川真間の美少女・手児奈に纏わる悲劇の伝説は遠く都にまで届き万葉集に詠まれるほど有名でした。
また、この地域は水陸交通の要衝であり、平安~戦国時代には平将門の乱、源頼朝の軍勢立て直し、太田道灌築城、国府台合戦など数々の戦乱や合戦の舞台となりました。そして、江戸時代には「市川の渡し」が定船場となり、のちに関所も設置されました。
一方、近代になると東京都内の富裕層の別荘地、高級住宅地として知られるようになり、永井荷風、幸田露伴、北原白秋、井上ひさしなど多くの文人が暮らした街でもありました。
今回は地元のボランティアガイドの方々に案内していただき、これらの歴史や文化が感じられるスポットを巡りました。
市川市の地形は北から南にやや傾斜し、北部の台地は概ね標高20m程度でそれ以外は2m程度の平坦地がほとんどです。
大化の改新の後、国府台に下総国国府が置かれ、政治・経済・文化の中心として栄えました。因みに国府台の地名は「国府」に由来しています。
奈良時代、市川真間の美少女・手児奈に纏わる悲劇の伝説は遠く都にまで届き万葉集に詠まれるほど有名でした。
また、この地域は水陸交通の要衝であり、平安~戦国時代には平将門の乱、源頼朝の軍勢立て直し、太田道灌築城、国府台合戦など数々の戦乱や合戦の舞台となりました。そして、江戸時代には「市川の渡し」が定船場となり、のちに関所も設置されました。
一方、近代になると東京都内の富裕層の別荘地、高級住宅地として知られるようになり、永井荷風、幸田露伴、北原白秋、井上ひさしなど多くの文人が暮らした街でもありました。
今回は地元のボランティアガイドの方々に案内していただき、これらの歴史や文化が感じられるスポットを巡りました。
①文学の道
市川ゆかりの文化人と万葉の歌を紹介した説明版が遊歩道沿いに設置されている。
②大門通り(弘法寺参道)
真間山弘法寺へと続く真っ直ぐな道で嘗ては参道として利用されていた。
③真間の継橋と真間万葉顕彰碑(継橋)
国府台に下総国国府が置かれた頃、上総国国府と繋ぐ官道は市川の砂州上を通っていた。砂州から国府台の台地にかけて、入り江の口には幾つかの洲ができていて、その洲と洲を結ぶ懸け橋が万葉集に詠われた「真間の継橋」である。ここの顕彰碑(継橋)には「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ」(読み人知らず)の歌が紹介されている。
④手児奈霊神堂入口の真間万葉顕彰碑(真間娘子墓)
万葉集には真間の手児奈の伝説を詠んだ歌が9首載せられている。そのうち3首について歌のゆかりの場所に顕彰碑が建てられている。ここの顕彰碑(真間娘子墓)には「我も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」(山部赤人)が紹介されている。「奥津城処」は墓所のことである。
⑤手児奈霊神堂
伝説の美女・手児奈を祀る霊神堂。手児奈はあまりの美しさ故に多くの男から求婚され、自分のために人々が争うのを憂いて真間の入江に身を投じたとの伝説がある。
⑥手児奈霊神堂の睡蓮池
霊神堂脇にある池で、手児奈が身を投じたと伝わる場所である。昔の入江の名残があり、夏になると一面に睡蓮の花が咲き誇る。
⑦亀井院前の真間万葉顕彰碑(真間井)
万葉の歌人高橋虫麻呂は手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞き「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」と歌を詠んだ。
⑧亀井院本殿
亀井院は寛永12年(1635)に弘法寺の貫主の隠居寺として建てられ当初「瓶井坊」と呼ばれていた寺である。
⑨亀井院の庭奥の井戸
奈良時代に詠まれた万葉集の歌に、 手児奈が水を汲んだ「真間の井」が出てくるが、亀井院の庭の奥にある井戸のことであると伝わる。
⑩亀井院の北原白秋の歌碑
白秋は大正5年頃亀井院に寄宿していたことがある。歌碑には「蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に蝦すくふ子か水音たつるは」と紹介されている。
⑪弘法寺の参道石段と「涙石」
真っ直ぐな参道の先に急な参道石段がある。江戸時代に作事奉行の鈴木長頼が日光東照宮に使う石材をここに使ったため幕府から責任を問われ、ここの石段で割腹した。それ以来、下から27段目の左側の石はいつも濡れていて「涙石」と呼ばれる。
⑫石段最上段からの参道・市内の眺望
参道石段を登り切って振り返ると市内の町並みを真っ直ぐに伸びる参道が一望できる。
⑬真間山弘法寺の仁王門
日蓮宗真間山弘法寺の正面参道にある仁王門。弘法大師の筆によると云われる扁額「真間山」には二羽の鳩が隠れていて、しかも「阿吽」の口になっている。
⑬仁王門の仁王像
仁王門の両側の仁王像は運慶作と伝えられる。
⑭弘法寺の本殿
奈良時代に行基菩薩が手児奈の霊を供養して一宇を建て「求法寺」と名付けた。平安時代になって弘法大師が7堂を構え「弘法寺」と改称した。鎌倉時代には千葉胤貞より寄進を受け、多くの寺領や信徒を擁していた。天正年間には徳川家康から朱印地30石を与えられている。
明治21年の火災で諸堂は焼失してしまい、明治23年に再建されて現在に至る。(写真は弘法寺HPより引用)
⑮弘法寺の客殿
⑯弘法寺の祖師堂
祖師堂には日蓮大聖人、開基日頂聖人、第二祖日常聖人が祀られている。 祖師堂の扉の金色のかんぬきに、お洒落な「蝉の装飾」を発見した。これは仏教の大切な戒めである「不殺生戒」を守る清らかさの象徴とされ、大覚寺など他の寺でもよく見られるという。
⑰樹齢400年の枝垂れ桜(伏姫桜)
名の由来は不明ながら「伏姫桜」と呼ばれている。江戸時代には紅葉の名所としても知られていた。小林一茶も「真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉」と詠んでいる。
⑱弘法寺の鐘楼
⑲弘法寺の赤門(朱雀門)
本堂の西側にある赤門で、明治21年の大火で全山悉く灰燼に帰した中で唯一焼失を免れたと伝わる。
⑳木内ギャラリー
明治・大正期の政治家・木内重四郎が大正初期に建築した近代建築様式として歴史的価値が高い建物である。和洋折衷の建物の洋館部分を再築しギャラリーとして公開している。
㉑総寧寺の中門(山門)
本堂の正面にあり、下部が石造りでその上に木造りの楼閣を乗せた竜宮城のような形状の門である。「江戸名所図会」に描かれた仏殿前の山門も同じような方形の建物に見える。
㉒安国山総寧寺の本堂
もともと近江国観音寺の城主佐々木氏頼によって永徳3年(1383)に開山・建立された曹洞宗の寺院であった。ところが天正3年(1575)に小田原城主北条氏政は20石を与えて関宿に移した。その後水害を受けたため徳川家綱により国府台に移された。その際寺領として128石余を与えられた。当寺は家康から全国曹洞宗寺院の総支配権を与えられ一宗の大僧録に任じられている。しかも歴代住職は十万石大名の格式をもって遇せられてきた。
㉓国府台天満神社
文明11年(1475)に太田道灌持資により当地の鎮守として創建されたと伝わる。
㉔国府台から江戸川と対岸を望む
市内で最も高い標高30mの国府台の台地から江戸川越しに小岩・葛飾方面を望む。室町時代に、二度の国府台合戦が繰り広げられた場所である。
㉕「夜泣き石」伝説
国府台合戦で戦死した武将里見弘次の末娘の姫は父の霊を弔うため遥々安房の国からこの地に辿り着いたが、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ち拉がれ、この石に凭れて泣き続け遂に息絶えたと伝わる。以来、夜な夜なこの石から悲しい声が聞こえてきたという伝説になった。
㉖国府台合戦の戦死者を弔った碑等
永禄7年(1564)の第二次国府台合戦で里見義弘率いる八千の軍勢は北条氏康率いる二万の軍勢に敗れ、里見軍の戦死者は五千名とも云われる。戦死者の霊を弔うために、文政12年(1829)里見諸士群亡塚(左側)と里見諸将霊墓(中央)が建てられ、時期は不明ながら石井辰五郎によって里見広次廟(右側)が建てられた。
㉗紫烟草舎
北原白秋は 小岩に在ったこの離れ「紫烟草舎」で、大正5年から1年ほど執筆活動を行った。紫烟草舎を復元するに際しこの地を選んだのは、以前に真間の亀井院に住んでいたこともあり、この地をこよなく愛していたことが窺える。
㉘里見公園
この地は国府台城址で、公園の地形から江戸川に向かってコの字型に二重の土塁が築かれ、その外側は空堀で囲われていたことも分かっている。この城は文明11年(1479)に太田道灌が築いたと伝わる。
㉙市川関所跡
奈良・平安時代には井上駅家が置かれ太日川の渡し船があったとされる。室町時代には連歌師の宗長が紀行文『東路の津登』の中で市川に渡しがあったことを記しており、古くからこの地に渡しがあったとされる。江戸時代には、「定船場」が設けられ、この場所が後に佐倉道の関所になる。
編/ さくら道26
葛飾の新宿は水戸道と佐倉道の分岐点です。
この地域は15世紀中頃~戦国時代にかけて関東で繰り広げられた勢力争いにおいて両勢力が江戸川で対峙した最前線です。川の西側には上杉氏や後北条氏の支城(葛西城)があり軍事上の要衝でした。また16世紀中頃、後北条氏は小田原から江戸を経由して下総内陸部と結ぶ陸上交通の宿駅として「葛西 新宿」を整備しました。
江戸時代になると、葛西城は徳川家が鷹狩の際に休息所として使う「青戸御殿」に造り替えられ、新宿は「新宿の渡し」とともに水戸道や佐倉道の宿場町として栄えました。
今回の散策は葛飾の青戸・新宿から出発して高砂まで佐倉道を辿り、後半は佐倉道から少し外れるが「国の重要文化的景観」の葛飾柴又まで足を延ばしました。
多くの史跡が残っており十分時間をとって散策することをお勧めします。
①葛西城祉公園
葛西城は中川の沖積微高地上に築かれた平城である。現在、葛西城跡は地表に確認できる遺構は存在しない。享徳の乱に始まる関東管領上杉氏と古河公方足利氏との戦いにおいて上杉方の重要拠点として15世紀中頃に建築とされる。
その後、天文7年(1538)北条氏綱に攻略され後北条氏の城として戦国期まで争乱の舞台となる。
後北条氏滅亡後は、徳川将軍家の青戸御殿として鷹狩の際に休憩所として使われた。
①葛西城復元図
環状7号線建設に伴う調査で城館跡の存在が確認された。調査の結果、7号線の両側に現在御殿山公園、葛西城址公園にあたる場所に主郭、その周囲に幾つかの郭の存在が確認された。北条氏の時代に拡張され、南北400m、東西300mの範囲で堀(水路)が廻らされ主郭も幅20mの堀で囲われる堅牢な城館であった。また葛西御厨があり伊勢との交流を示す南伊勢系土鍋や享禄4年(1531)紀年銘の板碑が出土している。
②観音寺
観音寺は天正4年(1578)真盛法印の創建とされる。江戸時代には三社明神社(現青砥神社)の別当を勤めていた。
③青砥神社
青戸付近は室町時代の葛西御厨(伊勢神宮領)に始まる肥沃な土地である。最初、土地の鎮守神として崇められてきた三社明神は、時を経て改称や周辺の神社の合祀を繰り返し、今では9つの御祭神を祀る大きな神社となっている。
④延命寺
真言宗豊山派の長久山地蔵院延命寺は嘉応元年(1169)創建である。地蔵菩薩を本尊とする。葛西城の鬼門除けに建てられたとの伝えもある。
延命寺は「疫神様」とも呼ばれ4月15日の大祭には、草餅を作り親戚の家に届けて客を招待するのが慣わしである。
⑤中川の堤から見た眺望
延命寺を過ぎると中川の堤に出る。対岸に新宿・西念寺の甍を眺めながら、川上の中川橋へ向かう。新宿では中川でとれた鯉などの魚を大池の生簀に入れ魚料理を提供していた。美味しいと評判で、徳川将軍家が青戸御殿に滞在した際には鯉が献上されたという。
⑥新宿の渡し跡
亀有側から中川対岸の新宿を望む。中川橋が出来たのは明治17年であり、それまではこの辺りに水戸佐倉道の「新宿の渡し」があった。歌川広重の『江戸名所図会』や『江戸名所百景』に渡し場の様子や中川を往来する高瀬舟が描かれている。
江戸時代には、この渡しを通って水戸藩、伊達藩、佐倉藩、久留里藩を始め多くの大名が参勤交代で通行した。
⑦旧中川橋橋詰のタブの木跡
昔から中川橋橋詰に大きなタブの木があり、街道を往来する人々の道しるべであったと伝えられる。中川橋架け替えに伴い伐採されることになったため、旧中川橋の名残として、タブの木から採取し育てた苗木や幹の一部で製作したモニュメントなどを設置している。
19世紀初頭の図絵に見える新宿
後北条氏の古文書や伝馬手形に「葛西新宿」の名が見えることから戦国時代には既に駅場であったとされる。文化3年(1806)作成の『水戸佐倉道分間延絵図』(東京国立博物館図書検索より引用)に新宿の様子が描かれている。
宿の町並みは新宿の渡しの方から順に上宿、中宿、下宿、金阿弥町に分かれていて、軍事上の目的で道は3か所で鉤型に折れ曲がり、各角には寺社が配されていた。江戸時代の天保14年(1843)頃には旅籠が大2軒、小2軒、総戸数174戸956人規模の宿場になっている。
⑧西念寺
旧上宿から最初の角を曲がって進むと右手にある長い参道を進むと山門があり、さらに奥に建つのが浄土宗の覚林山宝珠院西念寺である。天文元年(1532)法誉による創建とされる。
何故か本堂の脇の小堂に右手に鯖を持った鯖大師像が建っている。元は高僧行基の鯖伝説に根ざした信仰で四国から広まったが、姿形が弘法大師像と似ていることから最近は混同されることも多いらしい。
⑧西念寺、生簀守の墓
将軍は鷹狩りに際し、度々青戸御殿を訪れており、その時に食膳に供する魚として新宿村の生け簀の魚を献上した。その生け簀の池守を務めたのが、矢作藤左衛門とその子孫であった。墓所に入ると5基の石仏がある。左の3基は「生簀守の墓」とされており、舟型光背型の観音像は矢作藤左衛門銘供養碑である。
⑨新宿日枝神社(山王様)
新宿日枝神社(山王様)は二つ目の鉤型の角にあり、新宿の鎮守社である。別当寺の創建時期から永禄2年(1559)頃の創建と推定されている。元禄時代には山王大権現と称し現在地より少し西方に位置していた
⑨親子猿の手水
神社の手水舎は龍の口が一般的だが、親子猿に瓢箪とは愛嬌がある。
⑩金阿弥橋の欄干
街道沿いに三つ目の角の手前に「金阿弥橋」と記銘された橋の欄干があるが、水路はなく暗渠の上に建っていると思われる。寛永年間の「水戸佐倉道分間延絵図」に金阿弥橋と街道を横切る水路が記載されており、その名残りと推察する。橋の名前は新宿の「金阿弥町」から来たものか。
⑪水戸街道石橋供養道標
水戸街道石橋供養道標はこの地域の三つの講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てられた。最初の頃はこの道標の上に不動像を安置していたという。水戸佐倉道は千住宿にて日光街道から分岐し葛西領に入り、新宿のこの地点で水戸道と佐倉道に分岐する。そこの道標の銘文は以下のとおり。
正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺 道」、右側面 に「成田山 さくらミち」、 左側面と背面に「安永2年(1773)」と 「安永6年(1777)」の紀年銘
⑫角柱三猿浮彫道標
角柱三猿浮彫(かくちゅうさんえんうきぼり)道標は元禄6年(1693)に建てられた道標である。文化3年(1806)作成の『水戸佐倉道分間延絵図』から亀田橋付近で街道が鉤型に曲がり、その角に地蔵を安置する小堂の存在が分かる。道標は高さ95.5cmの角柱形で、上部の正面、左右側面には、かなり摩滅しているが三猿と推定される浮彫がある。道標の銘文は、
正面に「これより右ハ 下河原村 左 さく ら海道」、 右側面は「これより左 下の割へ の道」、左側面には紀年銘。
⑬宋福寺
曹洞宗の寺院で、慶長5年(1600)布教の僧香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立したのが始まりである。
慶長18年(1613年)上野廐橋藩(前橋城主)酒井雅楽頭忠世が堂舎を建立し崇福寺とした。明暦3年(1657)の大火で焼失した為、忠世の孫酒井忠清が浅草松清町(現在の浅草郵便局)に1300坪の土地を拝領し再建した。以来酒井家の江戸の菩提寺として永く栄えた。その為酒井家の家紋・剣鳩酸草(けんかたばみ)を寺紋として使用している。江戸城大手門付近の酒井家上屋敷中庭に将門の首塚を祀り、宗徳寺の住職も供養に出向いていた。
大正12年の関東大震災で被災し、昭和になって高砂に移転し再建し今に至る。
⑭柴又の帝釈天参道
柴又駅から「国の重要文化的景観」に指定された帝釈天参道のレトロな雰囲気を味わいながら柴又帝釈天へ向かう。
⑮柴又帝釈天
日蓮宗の柴又帝釈天は中山法華経寺の禅那院日忠、題経院日栄によって寛永年間(1629頃)に開山、開基された。御本尊は日蓮上人御親刻と伝わる帝釈天王の像である。
江戸時代、飢饉や疫病蔓延に苦しむ民を救うため、帝釈天のご本尊を背負い江戸や下総の諸国を回ったという。こうして、江戸を中心に帝釈天信仰が高まり「庚申待ち」の信仰と結びついて「宵庚申」の参詣が盛んになった。
⑮帝釈天の胴羽目彫刻
帝釈天の内外には数多くの木彫が施されているが、特に帝釈天内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻は仏教経典の中で最も有名な「法華経」説話を彫刻にしたものである。膨大な彫刻は大正末期より10数年かけて完成した
⑯江戸川、矢切の渡し
帝釈天の境内を抜けて江戸川の堤にでると、広い河川敷、滔々と流れる江戸川、矢切へ渡る小舟、そして対岸の右手に国府台が一望にできる。戦国時代、川を挟んで二度も戦いが繰り広げられた歴史上の場所である。
また名作映画「男はつらいよ」で幾度となく観た風景でもある。
⑰山本亭
山本亭は大正末期から昭和初期に建築された和洋折衷の建物と書院造の庭園が調和した貴重な文化遺産である。
散策の最後に庭園を鑑賞しながら甘いものと抹茶をいただき疲れを癒した。