🔳青戸・新宿・高砂・柴又の散策(2019-06-21)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
葛飾の新宿は水戸道と佐倉道の分岐点です。
この地域は15世紀中頃~戦国時代にかけて関東で繰り広げられた勢力争いにおいて両勢力が江戸川で対峙した最前線です。川の西側には上杉氏や後北条氏の支城(葛西城)があり軍事上の要衝でした。また16世紀中頃、後北条氏は小田原から江戸を経由して下総内陸部と結ぶ陸上交通の宿駅として「葛西 新宿」を整備しました。
江戸時代になると、葛西城は徳川家が鷹狩の際に休息所として使う「青戸御殿」に造り替えられ、新宿は「新宿の渡し」とともに水戸道や佐倉道の宿場町として栄えました。
今回の散策は葛飾の青戸・新宿から出発して高砂まで佐倉道を辿り、後半は佐倉道から少し外れるが「国の重要文化的景観」の葛飾柴又まで足を延ばしました。
多くの史跡が残っており十分時間をとって散策することをお勧めします。
①葛西城祉公園
葛西城は中川の沖積微高地上に築かれた平城である。現在、葛西城跡は地表に確認できる遺構は存在しない。享徳の乱に始まる関東管領上杉氏と古河公方足利氏との戦いにおいて上杉方の重要拠点として15世紀中頃に建築とされる。
その後、天文7年(1538)北条氏綱に攻略され後北条氏の城として戦国期まで争乱の舞台となる。
後北条氏滅亡後は、徳川将軍家の青戸御殿として鷹狩の際に休憩所として使われた。
①葛西城復元図
環状7号線建設に伴う調査で城館跡の存在が確認された。調査の結果、7号線の両側に現在御殿山公園、葛西城址公園にあたる場所に主郭、その周囲に幾つかの郭の存在が確認された。北条氏の時代に拡張され、南北400m、東西300mの範囲で堀(水路)が廻らされ主郭も幅20mの堀で囲われる堅牢な城館であった。また葛西御厨があり伊勢との交流を示す南伊勢系土鍋や享禄4年(1531)紀年銘の板碑が出土している。
②観音寺
観音寺は天正4年(1578)真盛法印の創建とされる。江戸時代には三社明神社(現青砥神社)の別当を勤めていた。
③青砥神社
青戸付近は室町時代の葛西御厨(伊勢神宮領)に始まる肥沃な土地である。最初、土地の鎮守神として崇められてきた三社明神は、時を経て改称や周辺の神社の合祀を繰り返し、今では9つの御祭神を祀る大きな神社となっている。
④延命寺
真言宗豊山派の長久山地蔵院延命寺は嘉応元年(1169)創建である。地蔵菩薩を本尊とする。葛西城の鬼門除けに建てられたとの伝えもある。
延命寺は「疫神様」とも呼ばれ4月15日の大祭には、草餅を作り親戚の家に届けて客を招待するのが慣わしである。
⑤中川の堤から見た眺望
延命寺を過ぎると中川の堤に出る。対岸に新宿・西念寺の甍を眺めながら、川上の中川橋へ向かう。新宿では中川でとれた鯉などの魚を大池の生簀に入れ魚料理を提供していた。美味しいと評判で、徳川将軍家が青戸御殿に滞在した際には鯉が献上されたという。
⑥新宿の渡し跡
亀有側から中川対岸の新宿を望む。中川橋が出来たのは明治17年であり、それまではこの辺りに水戸佐倉道の「新宿の渡し」があった。歌川広重の『江戸名所図会』や『江戸名所百景』に渡し場の様子や中川を往来する高瀬舟が描かれている。
江戸時代には、この渡しを通って水戸藩、伊達藩、佐倉藩、久留里藩を始め多くの大名が参勤交代で通行した。
⑦旧中川橋橋詰のタブの木跡
昔から中川橋橋詰に大きなタブの木があり、街道を往来する人々の道しるべであったと伝えられる。中川橋架け替えに伴い伐採されることになったため、旧中川橋の名残として、タブの木から採取し育てた苗木や幹の一部で製作したモニュメントなどを設置している。
19世紀初頭の図絵に見える新宿
後北条氏の古文書や伝馬手形に「葛西新宿」の名が見えることから戦国時代には既に駅場であったとされる。文化3年(1806)作成の『水戸佐倉道分間延絵図』(東京国立博物館図書検索より引用)に新宿の様子が描かれている。
宿の町並みは新宿の渡しの方から順に上宿、中宿、下宿、金阿弥町に分かれていて、軍事上の目的で道は3か所で鉤型に折れ曲がり、各角には寺社が配されていた。江戸時代の天保14年(1843)頃には旅籠が大2軒、小2軒、総戸数174戸956人規模の宿場になっている。
⑧西念寺
旧上宿から最初の角を曲がって進むと右手にある長い参道を進むと山門があり、さらに奥に建つのが浄土宗の覚林山宝珠院西念寺である。天文元年(1532)法誉による創建とされる。
何故か本堂の脇の小堂に右手に鯖を持った鯖大師像が建っている。元は高僧行基の鯖伝説に根ざした信仰で四国から広まったが、姿形が弘法大師像と似ていることから最近は混同されることも多いらしい。
⑧西念寺、生簀守の墓
将軍は鷹狩りに際し、度々青戸御殿を訪れており、その時に食膳に供する魚として新宿村の生け簀の魚を献上した。その生け簀の池守を務めたのが、矢作藤左衛門とその子孫であった。墓所に入ると5基の石仏がある。左の3基は「生簀守の墓」とされており、舟型光背型の観音像は矢作藤左衛門銘供養碑である。
⑨新宿日枝神社(山王様)
新宿日枝神社(山王様)は二つ目の鉤型の角にあり、新宿の鎮守社である。別当寺の創建時期から永禄2年(1559)頃の創建と推定されている。元禄時代には山王大権現と称し現在地より少し西方に位置していた
⑨親子猿の手水
神社の手水舎は龍の口が一般的だが、親子猿に瓢箪とは愛嬌がある。
⑩金阿弥橋の欄干
街道沿いに三つ目の角の手前に「金阿弥橋」と記銘された橋の欄干があるが、水路はなく暗渠の上に建っていると思われる。寛永年間の「水戸佐倉道分間延絵図」に金阿弥橋と街道を横切る水路が記載されており、その名残りと推察する。橋の名前は新宿の「金阿弥町」から来たものか。
⑪水戸街道石橋供養道標
水戸街道石橋供養道標はこの地域の三つの講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てられた。最初の頃はこの道標の上に不動像を安置していたという。水戸佐倉道は千住宿にて日光街道から分岐し葛西領に入り、新宿のこの地点で水戸道と佐倉道に分岐する。そこの道標の銘文は以下のとおり。
正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺 道」、右側面 に「成田山 さくらミち」、 左側面と背面に「安永2年(1773)」と 「安永6年(1777)」の紀年銘
⑫角柱三猿浮彫道標
角柱三猿浮彫(かくちゅうさんえんうきぼり)道標は元禄6年(1693)に建てられた道標である。文化3年(1806)作成の『水戸佐倉道分間延絵図』から亀田橋付近で街道が鉤型に曲がり、その角に地蔵を安置する小堂の存在が分かる。道標は高さ95.5cmの角柱形で、上部の正面、左右側面には、かなり摩滅しているが三猿と推定される浮彫がある。道標の銘文は、
正面に「これより右ハ 下河原村 左 さく ら海道」、 右側面は「これより左 下の割へ の道」、左側面には紀年銘。
⑬宋福寺
曹洞宗の寺院で、慶長5年(1600)布教の僧香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立したのが始まりである。
慶長18年(1613年)上野廐橋藩(前橋城主)酒井雅楽頭忠世が堂舎を建立し崇福寺とした。明暦3年(1657)の大火で焼失した為、忠世の孫酒井忠清が浅草松清町(現在の浅草郵便局)に1300坪の土地を拝領し再建した。以来酒井家の江戸の菩提寺として永く栄えた。その為酒井家の家紋・剣鳩酸草(けんかたばみ)を寺紋として使用している。江戸城大手門付近の酒井家上屋敷中庭に将門の首塚を祀り、宗徳寺の住職も供養に出向いていた。
大正12年の関東大震災で被災し、昭和になって高砂に移転し再建し今に至る。
⑭柴又の帝釈天参道
柴又駅から「国の重要文化的景観」に指定された帝釈天参道のレトロな雰囲気を味わいながら柴又帝釈天へ向かう。
⑮柴又帝釈天
日蓮宗の柴又帝釈天は中山法華経寺の禅那院日忠、題経院日栄によって寛永年間(1629頃)に開山、開基された。御本尊は日蓮上人御親刻と伝わる帝釈天王の像である。
江戸時代、飢饉や疫病蔓延に苦しむ民を救うため、帝釈天のご本尊を背負い江戸や下総の諸国を回ったという。こうして、江戸を中心に帝釈天信仰が高まり「庚申待ち」の信仰と結びついて「宵庚申」の参詣が盛んになった。
⑮帝釈天の胴羽目彫刻
帝釈天の内外には数多くの木彫が施されているが、特に帝釈天内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻は仏教経典の中で最も有名な「法華経」説話を彫刻にしたものである。膨大な彫刻は大正末期より10数年かけて完成した
⑯江戸川、矢切の渡し
帝釈天の境内を抜けて江戸川の堤にでると、広い河川敷、滔々と流れる江戸川、矢切へ渡る小舟、そして対岸の右手に国府台が一望にできる。戦国時代、川を挟んで二度も戦いが繰り広げられた歴史上の場所である。
また名作映画「男はつらいよ」で幾度となく観た風景でもある。
⑰山本亭
山本亭は大正末期から昭和初期に建築された和洋折衷の建物と書院造の庭園が調和した貴重な文化遺産である。
散策の最後に庭園を鑑賞しながら甘いものと抹茶をいただき疲れを癒した。