佐倉市から電車で一時間と近くて有名な上野公園です。みんな何度か来たことはあるけど一度じっくり公園の名所・旧跡を見て回りたいということで、今回は地元ボランティアの会にお願いして公園内を案内して頂きました。
二つのグループに分かれて少人数で回り地元の人しか知らない見所や情報も教えて頂きました。お陰様で大変有意義で楽しい時間を過ごすことができました。
高村光雲の作。一般公開に際し招待された西郷夫人が「うちの主人は、こんなお人ではなかったですよ」と驚いたとか。
慶応4年(1868)の上野戦争で戦死し放置された彰義隊の遺体200余霊を円通寺(荒川区)の住職が埋葬し供養した。明治7年に、生き残った彰義隊士らが初めてこの地に唐金の墓を建立した。現存の大墓石は明治17年に再建されたものである。
寛永8年(1631)に天海大僧正によって建立された。清水観音堂は、京都清水寺に安置されていた千手観世音菩薩像を天海大僧正が奉納したことから清水寺と同じ舞台作りにして上野公園内の擂鉢(すりばち)山に初めて建てられた。しかし寛永寺総本堂の根本中堂建設に伴って、元禄7年(1694)現在地に移築された。写真は『江戸名所図会』と同じ構図で撮影したもの。
旧清水観音堂が建っていた擂鉢山は桜の名所で、元禄の頃、日本橋の菓子屋の娘「お秋」が井戸端の様子を詠んだ句「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」が評判となり、爾来「秋色桜(しゅうしきさくら)」と呼ばれるようになった。
清水観音堂の舞台から「月の松」の輪を通して不忍池弁天堂が見える。広重の『名所江戸百景』にも似た松が描かれており、庶民が同じ趣向を楽しむ姿が想像される。
旧寛永寺根本中堂の前に建っていた常行堂・法華堂の礎石群が残っている。二つのお堂は比叡山の「にない堂」を模して廊下で繋いだ構造になっていた。比叡山延暦寺では、弁慶が廊下を天秤棒にして二つのお堂を担いだという伝説から「にない堂」と呼んでいる。
五條天神社の歴史は古く、約1900年前、日本武尊が東征の為忍岡を通った際、大己貴命と少彦名命を祀って創建したと云われる。その後遷座を繰り返し大正14年に現在の地に遷座された。隣接して花園稲荷神社がある。
花園稲荷神社は正しくは忍岡(しのぶがおか)稲荷と云う。天海僧正が寛永寺を創建した際に狐の棲む処が無くなるのを憐れみ一洞(写真手前)を堀り、その上に社(写真の奥)を祀ったと云われる。石窟の上にあったことから俗称・穴稲荷とも云われていた。
この鐘は寛文9年(1669)に寛永寺及び周辺住民に時間を告げる目的で設置された。現在の鐘は天明七年(1787)に改鋳されたもので、今でも朝夕6時と正午の一日3回、絶やすことなく人の手で撞かれている。今回、散策中に何処からともなく正午の鐘が聴こえて、ふと芭蕉の句を思い出した。「花の雲 鐘は上野か 浅草か」(松尾芭蕉)
小高い丘の階段を登るとドーム状の建物がある。これは「パゴダ」と呼ぶ仏塔の一種で、内部に上野東照宮の薬師堂より遷座された薬師三尊像を祀っている。
江戸時代初期に建立された上野大仏像は高さ約6mの釈迦如来坐像であった。関東大震災で頭部が落下したため再建に備え保管していたが、第二次世界大戦中に金属供出で顔面部を除き没収されてしまった。昭和47年にその顔面のみをレリーフとして旧跡に安置した。最近は「これ以上落ちない」合格大仏として人気がある。
東照宮の入口付近にあり、寛永8年(1631)に他の大名に先駆け佐久間大膳亮勝之(佐久間盛次の四男)が東照宮に寄進した石造の灯籠である。灯籠は高さ6m余の巨大なもので「お化け灯籠」と呼ばれる。南禅寺や熱田神宮の大灯籠とともに日本三大灯籠に並び称される。
寛永10年(1633)に大名・酒井忠世が奉納した。石材には備前の高品質な花崗岩が使用されている。およそ50年に亘り平穏に建っていたが、天和時代(1681~1684)に理由は不詳なるも鳥居は解体され埋められてしまった。そして数十年後、享保19年(1734)に鳥居は酒井忠世の子孫・酒井忠知によって掘り起こされ元の場所に再建された。鳥居の柱は地下4mの深さまで埋まっており関東大震災でも少しも傾かなかった。
水舎門は、もとは社殿前の手水舎として使われていたものを昭和39年に門として移築したものである。その手水舎と水盤は慶安4年(1651)に老中阿部重次が奉納したものであった。
大石鳥居から社殿までの参道には、慶安4年(1651)に徳川家光が造営替えをした際、全国の大名から奉納された約250基の灯籠が整然と並んでいる。鳥居付近の石灯篭には刻字を金色に細工したものがあり、今でも金色の痕跡を視認できる。
唐門に向かって左側の手水舎は、その水盤の刻銘より明治6年に新門辰五郎他により寄進されたとされる。新門辰五郎は江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸の町火消の頭領で約2千人の手下を抱え、また浅草・上野を縄張りとする侠客として有名である。幕末には、懇意となった慶喜公に付き従い大阪・京都の火消しを務めたり、大政奉還後も上野~水戸~駿府と慶喜の行く先々で警護を担当した。
参道の社殿近くには、諸大名から奉納された48基の銅灯籠が整然と並ぶ。境内案内板近くの台座が円形のものは寛永5年(1628)に藤堂高虎から奉納され、他は慶安4年(1651)の金色殿造営時の奉納である。
慶安4年(1651)造営。正式名称は唐破風造四脚門と呼ぶ。唐破風は権威の象徴で曲線を付けた破風を特徴とする日本特有の屋根の建築技法である。左右の柱の傍らには左甚五郎作の4体の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があるらしい。
唐門両側の6基の銅灯籠は、内側から紀伊・水戸・尾張の順に徳川御三家より2基ずつ寄進されたものである。本来の序列は尾張家が最上位であるが、当時の尾張家徳川光義は家督を継いで間もなく、まだ官位が低かった為とみられる。
慶安4年(1651)造営。菱格子の向こう側が透けて見えるので「透塀(すきべい)」と呼ばれる。金色殿の東西南北を囲んでおり、塀の上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面の250枚以上に施されている。
唐門の裏に見える大きな屋根が金色殿である。もともと金色殿は寛永4年(1627)に創建された。現存する金色殿は1651年に徳川家光公の命により日光に準じた内外共に金箔と極彩色の金色殿へ建て替えられたものである。東照宮には、家康の遺言を受けて江戸時代には家康、天海、藤堂高虎の3人を祀っていた。明治以降、紆余曲折があって現在は本殿に家康、幣殿に吉宗、拝殿に慶喜が祀られているという。2013年に金色殿外部の修復が完了したが、11万枚の金箔が使用されたという。
最初の五重塔は、寛永8年(1631)に佐倉藩主土井利勝が寄進し建立したが、残念なことに寛永16年(1639)に焼失した。現在の五重塔は同年に幕府によって再建されたものである。幕末の上野戦争により旧寛永寺の主要な伽藍は焼失したが、幸い五重塔は延焼を免れた。
上野の山の元領主・藤堂高虎の墓は上野動物園の一角を柵で囲った場所に建っている。動物園の外側からも墓を垣間見ることができる。
オランダの軍医ボードワン博士は、明治政府に緑地帯の意義を説き、上野公園だけでなく日本に公園を誕生させた「公園生みの親」と云われるほど功績を残した人物である。初代のボードワン博士像は昭和48年に作られたが、現在の博士像は平成18年に作り直されたものである。理由はなんと初代の像は間違って弟の写真をもとに製作したからだという。
日本近代洋画の父とも云われ、その代表作「湖畔」でも知られる黒田清輝は大正13年に没する際、資産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言した。これを受けて昭和3年に竣工したのが黒田記念館である。館内には遺族から寄贈された遺作を展示し画家を顕彰するための黒田記念室が設けられている。記念館は昭和初期の美術館建築として国の登録有形文化財となっている。
土井晩翠が昭和10年に建立した。小泉八雲のレリーフを嵌めた記念碑と、その台上には天使が壺を囲む銅像・小倉右一郎作「蜜」からなる作品である。
東叡山寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺で、寛永2年(1625)天海大僧正が江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に創建した。後には德川家綱公霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。旧寛永寺のほとんどの伽藍、堂宇は上野戦争で焼失したため、現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院より本地堂を移築し再建したものである。
綱吉公の常憲院霊廟は宝永6年に竣工した。歴代将軍の霊廟の中でも最も整ったものの一つとされる。その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、廟所と共に災いを免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺である。
日暮里駅と上野公園駅との中間に位置する駅として昭和8年に開業した。駅舎は「世伝御料地内に建設するため品位に欠けるものであってはならない」とのお達しがあり、西洋風の荘厳なつくりとなった。長年営業してきたが、ホームが4両編成までと短く、利用者の減少により平成16年に廃止となった。
旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸大の前身・東京音楽学校の校舎として明治23年(1890)に建設された。2階の音楽ホール「奏楽堂」は滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が歌曲を歌った由緒のあるホールである。
「黒門」として東大の赤門と並び称される。江戸時代に建てられた鳥取藩池田家江戸上屋敷(大名小路、現在の丸の内)の表門を、東京国立博物館に移設した。屋根は入母屋造で、門の左右に向唐破風屋根の番所を備えており、大名屋敷の表門としては最も格式が高い。
旧寛永寺根本中堂の跡地には東京国立博物館が建っている。現在噴水が設けられている場所に旧寛永寺境内があり、伽藍、堂宇が立ち並んでいた。
国立西洋美術館の庭に建つ「考える人」の近辺でガイドツアーを終了した。