深川寺町は、東京都江東区深川地域に位置する寺院が集まるエリアです。江戸時代の明暦の大火(1657年)以降、多くの寺院がこの地に移転し、寺町として発展しました。現在も歴史ある寺院が点在し、江戸の文化や歴史を感じられる場所となっています。
例えば、深川寺町には「霊巌寺」や「法乗院 深川ゑんま堂」などの寺院があり、それぞれに独自の歴史や文化があります。「深川江戸資料館」では、江戸時代の深川の町並みが再現されており、当時の生活を体験することができます。
また、深川寺町周辺には歴史的な偉人の墓も多く、紀伊国屋文左衛門や間宮林蔵などの著名人が眠っています。この地域を散策すると、江戸時代の雰囲気を感じながら、歴史を学ぶことができるでしょう。
興味があれば、深川寺町を巡る観光コースもあるので、ぜひ訪れてみてください。歴史好きにはたまらないスポットです!
今回の散策のスタート地点。今回は地元ボランティアガイドの方に案内をお願いした。
東京市が社会事業施策として大正9年から順次設置した16か所の市設食堂の一つである。
構造は大震災の教訓を活かし、当時最先端技術の鉄筋コンクリートが採用された。デザインの特徴は明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と二階南側のスチールサッシ窓にある。
「閻魔堂橋」とは油堀に架けられた「富岡橋」のことである。「深川閻魔堂(法乗院)」へ通じる道であったため「閻魔堂橋」と呼ばれた。人情本や歌舞伎などの文芸や芝居の作品中に取り上げられ親しまれた。(詳細は案内板を参照ください)
向井忠勝(1582~1641)が1637年に開基し、自身の墓もある寺である。忠勝は16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大阪冬・夏の陣では水軍を率いて摂津尼崎へ出陣した。(詳細は案内板を参照ください)
寛永6年(1629)に創建され、宝永年間(1751~64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所で「深川ゑんま堂」として親しまれた。
高さ3.5mで、19種類の祈願ごとにお賽銭投入口があり、投入すると仏像から様々な説法を聞くことができるシステムを日本で初めて採用したゑんま像である。
元和2年(1616)京橋八丁堀寺町に創立、寛永10年(1633)現在地に移転された。現本堂は昭和43年に落慶した。(詳細は案内板を参照されたい)
採茶庵は江戸中期の俳人杉山彩風の庵室である。彩風は松尾芭蕉の門人であり蕉門十哲に数えられ、また芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られている。
採茶庵は元木場平野町(この案内板の場所から140mほど南西に位置する)にあった。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居の芭蕉庵を手放し、しばらくこの採茶庵で過ごした後、舟で隅田川をのぼり千住大橋の袂から奥州に旅立っていったという。(詳細は案内板を参照ください)
案内板によると「深川では江戸時代から飲料水の確保に大変苦労しました。この地が海面の埋め立て地であるため井戸水の水質が悪く、その上隅田川が障壁になって神田・玉川上水の利用ができなかったからです。
そのため、飲料水は水船に頼っていました。神田・玉川上水の余り水を銭瓶橋(現大手町付近)の「吐水口」で水船に積み込んで各地に陸揚げし「水屋」、「水売」と呼ばれる人々が棒手振りで売り歩きました。」
曲亭馬琴は明和4年(1767)に生まれ、本名は「滝沢興邦」、筆名は「曲亭馬琴」・「著作堂主人」などと号した。文筆で身を立てようと志し、23歳の時に戯作者で浮世絵師の山東京伝に入門した。馬琴が著作した作品は極めて多く、読本から黄表紙・随筆に至るまで約470にものぼる。なお、28年かけて完結した「南総里見八犬伝」は全部で106冊もある。(詳細は案内板を参照ください)
日蓮宗の寺院で、寛保元年(1741)の開山。深川七福神の一つ(大黒天)として親しまれている。
関東大震災により深川でも多くの犠牲者がでて、浄心寺の境内が臨時の火葬場に当てられ、凡そ3千の遺体が荼毘に付されたと云われる。(詳細は案内板を参照ください)
日蓮宗の寺院で、三沢局(徳川家綱の乳母)の菩提を弔うため万治元年(1658)に創建。10万石の格式を許される大寺院で、宝暦3年には身延山久遠寺の出開帳も行われた。
三沢局が大奥に入った時に伊勢神宮外宮の豊受大御神を奉祀したのが始まりで、浄心寺創建時に和合稲荷のご神体も境内に一宇を建てて祀ったと伝わる。
間宮林蔵は安永9年(1780)常陸国筑波郡で生まれ、天保15年(1844)深川蛤町(現門前仲町)で没した。
林蔵は樺太を探検した後、単身でシベリアに渡って沿海州に入り、アムール川を遡って清の役人が詰めるデレンまで到達した。この探検によって樺太が島であることが明らかになり、後に間宮海峡と呼ばれる海峡を発見して世界的に名を知られることになった(詳細は案内板を参照ください)
慶長16年(1611)日本橋に創建されたが江戸の大火で度々焼失し天和2年(1682)に現在の地に移転した。深川七福神の一つ(毘沙門天)である。
本堂右脇の五輪塔は紀年銘は貞享3年(1686)で、高さは3.5mの区内有数の大きさである。
徳川家康の側室「阿茶局」は家康没後、尼となり雲光院と呼ばれ当院を開基した。
庄司仁右衛門は吉原遊郭の創始者である。
江戸時代初期より金座・銀座を支配していた後藤家の三代目「三右衛門」で、以降、幕府の貨幣鋳造・改鋳を統括し、水野忠邦の天保の改革の中枢を担った。
本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものである。阿茶局は夫の死後、徳川家康の側室となり、大阪冬の陣では和睦の使者をつとめ、家康死後は徳川秀忠の五女和子の入内に際し母代として在京した。秀忠の死後は尼となり雲光院と称し83歳で没した。(詳細は案内板を参照ください)
中央の「文左衛門の碑」の左奥に墓がある。
勢至丸は法然上人の幼名で、法然上人生誕850年記念碑である。
享保2年(1717)に造られた江戸六地蔵の一つ(5番目)である。
道本山霊巌寺は寛永元年(1624)に霊巌島(現中央区)に創建したのが始まりで、明暦3年(1657)の大火で焼失し、現在の地に移転した。
松平定信は御三卿・田安徳川家の出自で、後に老中首座となり「寛政の改革」を行ったことで知られる。
地元ボランティアのガイドさん、大変お世話になりました。
とにかく魚が美味しい!安い!昼時は混むのでご注意を!
🌸🌸🌸後記🌸🌸🌸
今日は楽しみにしていた深川散策、朝方の雨も歩き出す頃には止み、さすが ”さくら道26” だと思った。
私は生まれも育ちも江東区だが、こんなに沢山のお寺があることに驚いた。火災等で焼け出されてあちこちから移転してきたらしい。
では出発! 深川二丁目にある法乗院閻魔堂には寄木造りの日本最大座像、浄心寺には三沢局(家綱の乳母)、歌舞伎役者、洲崎遊郭遊女等が眠っている。宇江佐真理の小説にもこのお寺が登場する。霊巌寺には松平定信(田沼時代を正すべく寛政の改革を断行した)のお墓がある。雲光院は宇治平等院阿弥陀様をモデルにしてる美しい彩色の仏が祀られている。
まだ書き足らないがそろそろランチに門前仲町へ! その後は大横川のお花見に行きます。 (H.Y.)
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