シリーズ「佐倉の旧跡と自然を楽しむ」
目次
~謎の志津城跡とその周辺を巡る~
編/さくら道26
上志津は志津駅の南側に位置する舌状台地です。この地域には古くよりと臼井一族(或いは千葉家系の豪族)が居館を構え地名と同じ志津氏を名乗っていたとされます。
鎌倉時代、千葉一族から分流した臼井氏は臼井城臼井佑胤を中心に大きな勢力を持っていて、弟たちに周囲の志津、師戸、岩戸に支城を築き守り固めさせていました。弟の次郎胤氏は志津郷に入り志津城を築き、それ以来志津次郎胤氏と名乗ります。
今も、この地方には、鎌倉時代末期から室町時代初めにかけて起きた志津胤氏と臼井一族との内訌について有名な伝説が残っています。
「正和3年(1314)、臼井城主臼井佑胤は志津胤氏に3歳の子息竹若丸の後見を託して、25歳の若さで病死しました。 そこで胤氏はこれを機に竹若丸を殺害し自らが城主になることを謀りました。それを女中の多津から聞いた岩戸城主岩戸胤安は山伏の姿に変装して竹若丸を笈に隠して助け出し岩戸に連れて帰りました。さらに鎌倉に走り建長寺の仏国禅師に竹若丸を託しました。竹若丸の逃亡を知った志津胤氏は多津を殺害し、さらに岩戸城も攻撃し胤安と妻子を自害に追いやりました。それから志津胤氏は臼井城に居座り続けます。
時は経ち、鎌倉で元服した竹若丸は行胤と名乗り、暦応元年(1338)足利尊氏に推挙され本領の臼井城を賜り臼井興胤と改名しました。幕府は千葉介貞胤に対して、胤氏を臼井城から退去させ主従の礼を示すように命じます。しかし、その後も胤氏は不遜な態度をとり続けたため、興胤は後顧の憂いを断つため志津城を攻撃し胤氏と妻を自害させました。その後、志津城は廃城となりました。」
この伝説には多分に史実を包含しており、この地域の歴史をこよなく愛する人達にとっては非常に興味深い伝説です。
今回の散策では、歴史的背景から中世の遺跡を期待していたが、意外と江戸時代以降の遺跡がほとんどでした。その空白部分は伝説に思いを馳せて埋めることにしました。
今回はここから出発します。
上志津の新田開発が行われた時期は享保15年(1730)・寛保2年(1742)(「佐倉市史」に拠る)とされるが、ここの石仏の制作時期は全てそれより後年である。石仏群の配置状況からみて別の場所から集められたと推察されるが、その経緯は不明である。
左から二基は二十三夜塔で最古は最も左側の享和元年(1801)である。左から3番目は庚申塔で嘉永6年(1853)の刻銘がある。
右手の8基は馬頭観音で、前列右から4番目が最古で明和3年(1766)の刻銘がある。
豪快な人柄と歯に衣着せぬ物言いから「毒舌和尚」と呼ばれ親しまれた。晩年を妻の出身地志津で過ごし79際で人生を終えた。旧宅は周りを竹林に囲まれた閑静な場所にあり、今でも綺麗に手入れされている様子が窺える。
標高16mの台地上が志津城跡と云われる。周囲に腰曲輪があるのみで明確な遺構は確認されていないが、14世紀前半の館跡と想定されている。志津城は臼井城の支城の一つで臼井昌胤の次男・志津次郎胤氏の居城であったとの伝承がある。長年胤氏と臼井一族には内訌があり、1340年臼井家惣領・臼井興胤は、ついに志津城を攻め胤氏は自刃した。志津城はそのまま廃城となった。現在も志津地区には志津姓を名乗る家が多く残っている。
ケヤキ、アカガシ、スダジイの古木が高台を取り巻く。神社の創建が寛永3年(1626)と云われており、それより200年以上前から、この形状で遺構が存在し続けたことの証左である。
志津城跡は社殿が建つ境内とその奥に数m高い台地の二層から構成されている。城は二郭構造であったと云われるが、現況からは判然としない。
元々妙見菩薩を祀っていたが、創建は寛永3年(1626)と伝わる。明治時代に神仏分離令で天御中主神に祭神が改められた。社殿の彫刻は茨城県稲敷郡の小林寅次郎の作で「来迎雲に翁と姥」。
境内地は二層構造(二郭?)になっている。
昭和63年、志津城跡の境内地にある雑木林に埋納されていた古瀬戸灰釉瓶子が発見された。
出土した古瀬戸灰釉瓶子(写真出典;佐倉市デジタルアーカイブ)は高さ26.4cm、胴部径16.4㎝で内部に火葬骨が充填されていた。制作時期は形態から14世紀前半で、市内では類例がなく貴重な史料とされる。
後で調べてみたらミモザの種と判明し、ミモザの花のようなモヤモヤが晴れてスッキリ!
佐倉藩堀田家の配下であった御子孫のお屋敷で、母屋は文政元年(1818)の建築という。
清水山西福寺は真言宗豊山派で、400年ほど前に千手院の隠居寺として建てられたという。寺の東口左側には秩父観世音菩薩供養塔が12基ある。
寺の東口右側には子安観音供養塔が20基立ち並ぶ。
現在の本堂は昭和41年に再建されたものである。本寺は明治時代、井野小学校として使われたことがある。
境内の右奥に建ち高さ190㎝である。左側面に「享保十二年(1727)の刻銘がある。
境内の周りには樹齢400年のイチョウ、カヤ、ケヤキの大樹が保存されている。
寺の山門の左側高台に15基の出羽三山参拝記念碑が建っている。新しそうな記念碑の周りに5本の竹飾りが立っていた。その新しさから最近行われた宗教行事のものと思われる。前にも見たことがある気がするけど何だろう?神秘的で興味をそそられる。
実は、これは梵天と呼ばれ竿竹に藁と3色の垂れ紙で作られているそうだ。西福寺には上志津八日講があり、およそ10年毎に適齢期の同年代の人達で出羽三山に参拝した後、一緒に行った仲間で講を作り代々この行事を引き継いできたという。最古の記念碑は安政7年(1795)で、最新のものは平成21年(2009)である。230年間に15基の石碑が建てられたことになる。地元民の信仰心の厚さに驚いた。
八幡神社の登り口の前にある小さな神社。祭神は天日鷲神と云われる。由緒不明。
十数段の階段を登りきると鳥居がある。
鳥居から先は舗装された参道が伸びる。
舗装された参道を過ぎると飛び石の参道が続く。
社殿が見えるようになると土の参道になる。足跡を付けるのが申し訳ないくらい綺麗に掃き清められている。
創建は天御中主神社と同じ寛永3年(1626)とされる。中の社殿を保護するためにトタン屋根で覆ってある。
茅葺屋根の社殿。4つの壁面には神話を題材とした彫刻が施されている。正面には「母・神功皇后と応仁天皇の誕生」、裏面には「天の岩戸開き」の様子が彫られている。
八幡神社の社殿壁際に置かれたり、周囲の木々に吊るされた竹ひご編みの球体が数個ある。何の目的で置かれているのか謎めいている。
後で地元の方に聞いたところ、志津城跡に建つ「天御中主神社」が2026年に創建400年を迎えることから、記念イベントの一環で竹で編んだ竹ボールを7個製作し、志津駅南口で年末・年始に「竹灯り」を点灯したものと分かった。
帰りは八幡神社の参道途中で右に逸れて「上志津の杜」を下っていくと自然豊かな緑地公園に出る。
「憩のひろば」
(三つの不思議)
西福寺山門左の高台に出羽三山参拝記念碑と碑を囲むように立てられた竿竹、その先端の飾り物。“ん”こりゃなんじゃと思いながら、道の反対側を眺めると木立が続く高台、「あれ、こんな風景あったかな? ここ、上志津?」と首を傾げ。
その先の「八幡神社」では竹ひごで編まれた大玉が木々に吊るされている。何故? 何とも不思議!
数年前に散策した所だけど、リピート散策も面白い。 ( by M. I. /Mr.)
~歴史ある浄泉寺を訪ねる~
編/さくら道26
浄泉寺は、千葉県印旛郡酒々井町に位置する曹洞宗(禅宗)の寺院で、歴史的にも非常に興味深い場所です。浄泉寺の創建は1458年(長禄2年)に遡り、千葉氏一族によって建立されました。その後、1490年(延徳2年)に中興開基として粟飯原豊後守胤光が関与し、伽藍が完成したのは1495年(明応4年)とされています。
この寺院は、千葉氏の有力な一族である粟飯原氏の菩提寺としても知られ、古文書や銘文によりその由緒が正しく伝えられています。また、江戸時代の「成田名所図会」や明治時代の「新撰佐倉風土記」にも詳細に記載されており、歴史的価値が高いとされています。
浄泉寺を見学する ~境内編~
浄泉寺を見学する ~本堂内編~
御住職のご厚意により特別に「浄泉寺所蔵の古文書」(酒々井町文化財)を拝見させていただきました。
一通目は明応4年(1495)第22代千葉介孝胤公から粟飯原豊後守胤光に出された所領安堵状である。
二通目は永正6年(1509)第23代、千葉介勝胤公から胤光の子胤信に宛てた所領安堵状である。
両側脇間の襖絵は当時、酒々井在住の高橋清氏の作品である。
本堂の天井画も高橋清氏の作品である。
浄泉寺の文化財、天井絵、所蔵工芸品などの詳細は浄泉寺ホームページ参照してください
浄泉寺を見学する ~庭園編~
【後記】
宗吾参道駅から急坂を登って、「淨泉寺」まで歩くこと約20分。
ここは千葉孝胤所縁のお寺。お寺の石段を上がり手入れの行き届いた美しい庭園に目を見張り、本堂へ。
ご住職の案内を得て本堂に入ると天井いっぱいの絵に文化財。ご住職から「所蔵の古文書を見てみますか。」と勧められ、是非にとお願いし、見せて頂いたのが千葉氏より重臣.粟飯原氏に宛てた2通の所領安堵状。中世室町時代の古文書をまじかに見られて感激!
お寺の裏には今が盛りと満開の桜に群生の関東タンポポ。
あ―、今日も良い散策だった。(Mr. M.I.)
~浄泉寺への道のりの自然を楽しむ~
~宿場町として栄えた成田街道筋~
編/さくら道26
酒々井宿は、徳川家康が関東入りした翌年の天正19年(1591)、徳川家康の命により千葉氏の本佐倉城下を宿場町として再編したのが始まりです。
江戸時代の宿場町は、南北に伸びる成田街道の一里塚付近(旧成田信用金庫跡付近)から酒々井麻賀多神社付近まで、上宿・仲宿・下宿・横町の町屋が続いていました。また、成田街道から東へ伸びる銚子道や芝山道がそれぞれ宿内で分岐しており交通の要衝でした。
酒々井宿は継立場でしたが最盛期には10軒弱の宿屋を有する宿場町として、成田山などの参詣者や旅行者で賑わったほか、小見川藩などの参勤交代にも使われました。
また、周辺地域には江戸幕府の広大な佐倉牧があり、野馬取りのための施設を備えた野馬会所や牧士達が宿泊に使用する施設などがあったことでも知られています。
① 京成佐倉駅前
京成酒々井駅行きバスで本佐倉バス停まで。
② 莇(あざみ)吉五郎家
莇吉五郎家は明治時代中期以前に建てられた成田街道の景観を形成する象徴的な建物で、国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。
③ 酒々井の八坂神社
上宿と仲宿の間にある八坂神社は、創建年代等は不詳ながら、徳川家康が天正18年(1590)に関東入国し酒々井に宿場町が形成された際、宿と市場の守り神として牛頭天王社が勧請されたという。江戸期は勝蔵院が別当を勤め、祭礼に際しては勝蔵院に仮屋が設けられていたという。明治維新後、八坂神社と改称し、字天野の熊野神社を合祀している。
④ 島田右衛門家・島田政五郎家
仲宿の島田長右衛門家(本家)・島田政五郎家(分家)は酒々井町登録有形文化財に指定されている。家人によると現在の建物は明治時代に建てられたもので、その後文化財として保存しつつ改築が加えられて現在に至るという。道路に面する店舗は南北棟、住宅棟は店舗と直交する町家づくりになっている。
④ 島田家屋敷の鳥瞰図
「日本博覧図千葉県編」(第九編 明治27年刊)に掲載された島田家屋敷の鳥瞰図である。
島田家本家(図の左側)は、江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で、広い敷地を有し、嘗ては宅地裏に野馬会所と野馬払い場を有していた。分家(図の右側)は、やはり宅地裏に野馬払い場が続いていた。
⑤ 處寶山勝蔵院の仁王門
仲宿と下宿の境に位置する處寶山勝蔵院 ((処宝山)しょほうざんしょうぞういん)の仁王門である。
⑤ 仁王門の仁王像
仁王門には高さ6尺の二体の仁王像が納められている。
⑤ 勝蔵院の本堂
真言宗智山派。創建年代等は不詳ながら、佐倉藩主戸田能登守忠真(たださね)が元禄12~ 13年(1699~1700)頃に建立したとされる。本堂の不動明王坐像は町指定文化財で ある。
⑤ 勝蔵院本堂の額
本堂に掲げられた「處寶山」の額は戸田能登守の揮毫による。
⑥ 円福院神宮寺
真言宗智山派寺院で山号は酒々井山という。創建年代は不詳ながら残っていた下総板碑(「伝説酒の井碑」脇に移設)から中世の創建と推定されている。江戸期には下宿の麻賀多神社の別当を勤めていた。
⑥ 円福院の酒の井
円福院は、地名酒々井の起源となった孝行息子の伝説で有名な「酒の井」がある寺として知られる。
⑦ 酒々井麻賀多神社
酒々井の麻賀多神社は、千年以上前に建立されたと伝わる。祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと)。例祭は10月で、以前は安政6年(1859) 江戸で作られた貴重な人形の山車巡行が見られた。
⑧ 下り松(中川台)からの眺望
酒々井宿の北のはずれを印旛沼の方に向かって下りていくと「下り松」と呼ばる眺望の良い場所にでる。江戸時代は細い道の両側に樹々が生い茂り昼でも薄暗い場所でしばしば追剥ぎが出没したとか。
街道際に石塔が三本あり、一番大きな石塔は出羽三山碑。
⑧ 下り松の案内板
浮世絵「下総印旛ぬま」は元治元年(1864)安藤広重(二代)によるもの。 説明文には「下り松からは印旛沼に浮かぶ高瀬舟や漁師の小船、遠くには筑波山まで眺めることができた」と記載されている。
⑨ 築山
戦国時代には築山の眼前に印旛沼が広がり、沼を通る船を監視する見張り台があった。江戸時代には佐倉藩の御林(藩の木材の供給地)であった。明治初期に払下げられ、木内家が購入して庭の一部とし桜山と呼んだという。
⑩ 京成酒々井駅
今日の散策の終点、京成酒々井駅で解散しました。
編/さくら道26
馬渡・坂戸は佐倉市の南部地区である。印旛沼に注ぐ鹿島川の中流域に位置し、南側は四街道市・千葉市と境界を接している。
この地域の歴史は古く、中世には幕府内の勢力争いに巻き込まれて鹿島川流域でも幾度も勢力争いが繰り広げられる。軍事的に天然の堀として使われた鹿島川沿いには城・城館・塁などと呼ばれる遺跡が数多く残っている。
また、この地域は古くより交通の要衝であった。古代には律令政府が東征のため常陸国府に至る官道・古東海道を整備したが、この地域を通過していたとする説が有力である。江戸時代になると古東海道は佐倉藩により佐倉城下と千葉湊を結ぶ佐倉道として整備され、その中間地点にある馬渡は藩の継立場(馬渡宿)として明治時代まで繁栄した。
時代が変わり総武鉄道や国道51号線が開通すると旧街道の交通量は激減したが、馬渡全域が市街化調整区域に指定され宅地の新規開発が制限されたため今でも宿場の遺跡や趣が残されている。
一方、坂戸も古くより九十九里浜・上総国から千葉や船橋方面へ通じる街道の継立場であった。18世紀後半になると九十九里浜から〆粕や干鰯などの運送が増加して街道は干鰯道とも呼ばれた。今も街道沿いに「新宿」や「西宿」などの地名が残っている。
今回の散策は、馬渡宿を巡った後、鹿島川流域の早苗田や新緑の自然を楽しみながら辺田道を歩いて干鰯道の継場・坂戸まで訪れた。
八坂神社入口バス停
バスを降りると目の前が「松の下の墓地」の入口。 今日の散策の出発地点である。
①新堂の虚空蔵菩薩
入口付近の新堂に真言宗の代表的な虚空蔵菩薩(石像)が祀られている。この菩薩の由緒は不詳である。
①六地蔵
墓地の右手奥に等身大の六地蔵が立ち並ぶ。馬渡橋近くで問屋・名主を務めた実川清右門が、この墓地を寄付時に地蔵も造立と云われる。
紀年銘から、六地蔵は天正21年((文禄2年?)1593)~延宝4年(1676)、六角塔は延宝4年(1676)の造立と推定する。使用石材は四国から船で取り寄せたと云われる。
②まわたし百観音の参拝路
公園内の参拝路に入ると左右にそれぞれ秩父三十四観音と坂東三十三観音、中腹より最奥まで西国三十三観音の合計百観音が立ち並ぶ。
②板東三十三観音
②最上部の大日如来像
②秩父三十四観音
②中腹から大日如来像への参拝路
百観音参拝路を登ると最上部にヒラドツツジの植栽で囲われた大日如来像の社がある。紀年銘から元治元年(1864)の造立で、馬渡百観音も同じ頃の構築とされる。
②中腹に建つ子規の歌碑
「つき寒し 宿とり外す ひとり旅」
正岡子規の歌碑は参拝路の中腹から八坂神社へ向かう踊り場に建っている。馬渡に投宿時に詠んだ句とされる。他にも同じ意趣の句があり子規は宿探しで難渋したようだ。
③八坂神社境内社の山王神社と稲荷神社
百観音の中腹から八坂神社の裏に下りていくと境内社の小さい山王神社・稲荷神社がある。
③八坂神社拝殿
更に下りていくと八坂神社正面に出る。八坂神社の祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。本殿は享保19年(1734)の創建で京都の八坂神社を本社とする。
③境内社の三峯神社・天神社 と御神木の杉
境内右手に、御神木の巨木杉(樹齢250年以上、市指定文化財)がある。また境内社の小さい三峯神社・天神社もある。
③八坂神社鳥居と参道階段
見過ごしそうだが、参道石段の最上段に小さな石碑が建っている。劣化の為辛うじて「別當・重正寺住亮元」の銘が読める。別当寺の住職が石段・石灯籠・手洗石を奉納したとされる。これは、その記念碑か?重正寺は馬渡宿の北側「字入」にあったが廃寺となり由緒も不明。
参道正面の階段は急なので、右側の緩やかな坂道から降りることをお勧めします。
④佐倉道と酒蔵「旭鶴」
八坂神社の北東側(「コミュニティまわたし」付近)に、善養院の境外仏堂・薬師堂があったが、大正7年に善養院に移し本堂とした。現在跡地に石碑が建てられている。
⑤旧旅籠「蔦屋」
本宿の最も千葉側(消防分署前)に江戸時代の旅籠「蔦谷(つたや)」があった。現在、街道筋に面した二階建は主家で、江戸後期の建物とされ当時の趣が残っている。当時は大きな旅籠で、奥には二階建ての奥座敷があり、さらに屋敷の裏に大きな馬小屋(10頭)もあり、大正末期に興行師が象を連れてきたことがあるという。問屋の機能も持ち、明治期には駅伝取締所であった。
⑥佐倉道と酒蔵「旭鶴」
田中酒造店は天保元年(1830)の創業。八坂神社脇の天然水(まろやかな中軟水)が酒造りの源になっていて馬渡宿の酒蔵として繁盛した。明治22年、町村制施行により馬渡村は合併し「旭村」となり、「旭鶴」の名前の由来となった。
⑦旅籠「上総屋」跡
「旭鶴」の店舗がある街道沿いに元は旅籠「上総屋」があった。大正期に焼失した「上総屋」の土地を「旭鶴」が買い取り現在に至っている。
正岡子規は明治24年3月26日の早朝、船橋を出発して宗吾社、成田山と廻り、漸く馬渡に辿り着き投宿したのが「上総屋」だったという。紀行文『かくれ蓑』に「宿馬渡 蹠(あしうら)多豆」と書いている。その日は長距離歩いた為、足裏に沢山豆ができて痛かったのであろう。
また国木田独歩も上総屋に投宿したことがあるという。
⑧慈光山善養院全福寺(真言宗豊山派 )
地蔵菩薩を本尊とし千葉市若葉区金親町の金光院末である。創建は不詳だが、承応年間(1652~1654)の墓石や延宝年間(1673~1680)に逝った住職の墓石がある。
近年まで、八坂神社周辺に境外堂の虚空蔵堂・阿弥陀堂・薬師堂を擁していた。大正5年の火災で本堂が類焼したため、大正7年八坂神社の北東(「コミュニティまわたし」付近)にあった薬師堂を移築し本堂とした。本堂は江戸時代後期の建造物である。
⑨新旭橋と鹿島川
古くから、この辺りに鹿島川の渡河地点又は橋があったとされ、佐倉風土記に「馬渡橋」と記載されている。現有の旧・新「旭橋」はそれぞれ昭和38・48年に建造されたものである。
また橋の少し下流に河岸があり印旛沼に通じる水上交通路があったという。
⑩馬渡馬場城館跡 西側の土塁と空堀
鹿島川近くまで張り出した低い台地端に構築された半町四方(55m×55m)の館跡である。周囲を土塁で囲われ、西側には空堀と食違い状虎口を有するとされるが、竹藪で覆われ辛うじて形跡を見ることができる状態である。
15世紀後半から16世紀のもので、鹿島川の渡河点を抑えるための城館と比定されている。
⑪馬場城館内の延命山千手院千蔵寺
馬渡馬場城館の中に質素な寺が建っている。臼井実蔵院末で、虚空蔵菩薩を本尊とする。創建年代は不詳だが、裏の古い墓地に寛文年間(1661~1672)の宝篋印塔が4基認められている。
寺では長年、子授け地蔵の行事が行われている。仏像を授かった人は家に持ち帰り、願いが叶うと、その仏像と合わせて二体の仏像を奉納する。年々その数が増えて千躰仏と呼ばれている。
⑫鹿島川沿いの早苗田と辺田道
馬渡から坂戸まで鹿島川沿いの辺田道を歩いた。道中、水を張った早苗田からサギが飛び立ち、新緑の里山からはキジや小鳥たちの鳴き声がしきりに聞こえ一時疲れを癒す。道端でメンバーの一人が偶然四つ葉のクローバーを見つけ、誕生日の人にプレゼントする一幕も。
⑬坂戸追分の巡拝塔(道標)
巡拝塔には
「[梵字]秩父三十四番供養塔::
嘉永3庚戌年(1850)十一月 吉日:
右<むわたし/さくら/なりた>:
左<山なし/うすい/をうわた>::」
と刻まれ、ここが坂戸から馬渡と山梨方面へ行く道の追分であったことが分かる。
⑭坂戸八幡神社
祭神は誉田別命、応永年間(1394~1427)の創建。古来、字尾牛にあった八幡宮を、この地に移住する住民が一緒に遷移させようとしたが、尾牛に残る住民の反対で叶わず、この地(字馬場)に2つ目の八幡神社を建立した。
初代岩富城主原景弘一族の子孫にあたる原近江守胤春の氏神と伝わる。
⑮金剛山願正院西福寺(浄土宗)
良栄上人が応安年間(1368~1374)に開基した。現在知恩院末である。12世紀末頃、千葉介胤正が7体の阿弥陀仏を作り領内7か所に祀り阿弥陀堂を建立したうちの一つと伝わる。
当寺に伝わる「坂戸の念仏踊」(県指定文化財)は良栄上人が創始し伝承されたと伝わる。
⑮西福寺の鐘楼
大きな鐘楼が高さ3m程の土手の上に聳え立っている。寺の周囲に廻らされた高い土手を坂戸馬場城館の「土塁」とする説もあるが確かなことは分からない。
⑮境内の大銀杏
境内に見事な大銀杏がある。推定樹齢650年前後で市指定天然記念物である。
⑮大銀杏の幹の大きさを測ってみた
延享3年(1746)の『坂戸村明細帳』に大銀杏の大きさが記録されている。
「銀杏1本、5抱え(いちやう壱本 五かかえ)」
どれ位大きくなったか、遊び心で手と繋いで輪をつくり幹の大きさを測ってみた。
「銀杏1本、11抱え」
約300年間で約2倍の大きさに成長していた。銀杏の生命力、恐るべし!
⑯DIC川村美術館の休憩施設
散策のゴールDIC川村美術館に到着し美術館の休憩施設でしばし休憩させて頂く。まだ新しい施設で12名全員が囲める大きなテーブルがあり冷房も完備して、なんと無料。DICさん太っ腹!
今日は今年初めての真夏日。小一時間談笑しているうちに汗もすっかり乾いて、さあ家路へ。お疲れ様でした!
【後記】
字松の下の堂に無限の力であらゆるものを全て救うという虚空蔵菩薩や等身大の六地蔵、百観音の観音像や宿さがしに難儀した正岡子規の歌碑など祀られている仏、碑を拝みながら八坂神社に向かう。神社境内に神輿の納められている建物が見える。どうやら行徳から船で運んだと伝わっている。神社をあとにして善養院、千蔵寺へと。この寺では子授け地蔵の行事が行われ、仏像を授かった人は願いが叶ったら二体を奉納し、その数が増えて千体仏と呼ばれている。
次に坂戸八幡神社、西福寺へ巡る。3mの土手の上に大きい鐘楼がある。どうやら坂戸馬場城館の土塁という説もあるが確かではないかと思われる。また境内に推定650年の大銀杏がある。この大銀杏のまわりを11人で手をつないでみた。なんと立派な銀杏だろうか。幼い頃遊んだ友達を思い出し、みんな元気ですか~と故郷を思い出した。
いにしえの佐倉をもっともっと知りたくなりました。(馬渡・坂戸散策を終えて K.H.)
(休憩ふるさと広場)
編/さくら道26
佐倉市飯野には、史跡や神社仏閣が点在しています。飯野台地の高台にあり、夕日の展望が素晴らしい場所です。
飯野にある飯野山東徳寺は、延命地蔵を本尊とする真言宗豊山派の寺院で、「飯野の観音様」の名で知られています。 東徳寺は鏑木町の大聖院の門徒でした。飯野観音堂は先に焼失したため享保年間(1716~1736)に再建立されたと言われています。
江戸時代の『古今佐倉真佐子』から、馬が農耕や運搬等に大きく貢献していた時代の信仰と当時の縁日のにぎわいの様子がうかがえます。 また、本堂前には、藩の馬術師範であった都鳥重成(ととりしげなり)をはじめ、門人一同の名が刻まれた賽銭箱が奉納されていたとされ、馬の守護神として藩士が篤く信仰していたことがわかります。
この周辺は自然豊かなとても良いところです。近くにはふるさと広場があり、佐倉チューリップフェスタや佐倉コスモスフェスタなど開催されます。散策の帰りにぜひ休憩に立ち寄ってほしいです。
①自由乗降りバス停
建設業安全衛生教育センター入口よりスタート
②飯野鷲神社
ここは住民の間で「おわっさま」と親しく呼ばれ、女性がお産の神様として熱く信仰している「おわし様」である。
キンランなど草花がたくさん観察できる。
麻賀多神社に向かう道
③道祖神
麻賀多神社のある森に入るとすぐに道の右側にこの道祖神がある。ここは旧飯野村の東境に近いことから村へ災難や悪疫が入らないように建てられたのであろう。 正面に「道祖神」、右側面に「天保十二辛丑年(1841年)」と刻まれている。
④飯野麻賀多神社
祭神は、稚産霊命(わかむすびのみこと)。社伝によれば、創建は江戸時代中期と云われている。保存樹の案内板にもそのように記載されている。旧飯野村の鎮守様(産土神)である。社殿は平成17年に立て直されている。
東徳寺に向かう道
⑤東徳寺本堂
飯野山東徳寺は延命地蔵を本尊とする真言宗豊山派の寺院で、鏑木町の大聖院の門徒であった。
『古今佐倉真佐子』からは、馬が農耕や運搬等に大きく貢献していた時代の信仰と当時の縁日のにぎわいの様子がうかがえる。
⑤飯野観音堂
東徳寺の観音堂は先に焼失したため享保年間(1716~1736)に再建立された。境内には、それを裏付ける元禄9年(1696)の念仏塔や元禄11年(1698)の手水石がある。
観音堂手前に敷石が敷き詰められ、敷石の左右に天水鉢、常夜灯等が立ち並んでいる。
⑤観音堂の「おびんずるさん」
観音堂の軒下には彫刻が施され、絵馬も掲げられている。
また、観音堂に向かって左右に木彫りの“おびんづるさん”が配置されている。この像を撫でると除病の功徳があると伝わる。
自然豊かな山道
足元に注意
飯野集落と谷津
⑦長屋門(個人住宅)
個人住宅のため外観のみ見て通過する。
⑧清水山常安寺
佐倉市飯野にある清水山常安寺は臨済宗妙心寺派である。寺伝によれば明徳3年(1392)臼井六郎常安が開基し、円応寺二世道菴和尚が開山したという。
一説には、最初は常福寺と呼ばれていたが、後に原胤栄が千葉滿胤の位牌を安置し常安寺と改名したという。古い仏殿は平成10年に焼失した。
⑨ふるさと広場
ふるさと広場にて昼食後解散
かぼすちゃんデザインマンホール
世界一有名な柴犬“かぼすちゃん”の聖地である佐倉ふるさと広場に、かぼすちゃんデザインマンホールを設置し(売店「佐蘭花」前)、世界中にファンがいるかぼすちゃんの持つ魅力により、下水道事業への理解を深めてほしいという想いが込められています。( 佐倉市HPより)
インタビューを受ける
偶然かぼすちゃんデザインマンホールを見ていたら撮影中でしたのでグループ代表がインタビュー受けた。
【後記】
GW前の金曜日、朝から季節はずれの初夏のような陽気
強い日差しを浴びながら佐倉の銘茶・佐倉茶の生産地である飯野地区の散策
散策の途中に飯野の観音様(飯野観音堂)があり佐倉藩の馬事の神様として祭られており、佐倉藩の馬に関係している藩士達が深く信仰していた事が、うかがえる。又、観音堂の門前に向かう百数十段は有ると思われる急勾配の石段を佐倉藩士達は、往来していたかと思うと江戸時代の苦労が感じ取れる。
その他、散策の終りには、印旛沼の竜伝説の舞台である龍神橋を渡り太陽の光を浴びる印旛沼を眺めながら楽しい散策を終える。(K.I.)
編/さくら道26
弥富地区は佐倉市の南部に位置し、北は佐倉市の和田地区と根郷地区、東は八街市、南は千葉市、西は四街道市に接し、中央を鹿島川とその支流弥富川が流れ、広い田園地帯と森林を有している豊潤な土地である。
中世になると、岩富に城が出来(以前にも有力者がいたと思われ、弘安10年(1287)の板碑が出土している)原氏が入って来た。原氏も初めて岩富に来た時は、長福寺の隣の殿山(小字)に砦を作ったのではないかと言われており、今も城の地形が残っている。しかし原氏も小田原の北条氏が滅亡した時一緒に滅びている。
豊臣秀吉に敗れた相模国甘縄城の北条氏勝は、家康の計らいで、岩富一万石をもって封ぜられた。氏勝が岩富に入ったのが天正18年(1590)、養子の氏重が下野富田に所替になったのが慶長19年(1614)でわずか24年だった。その後、弥富は佐倉藩領になり、江戸時代は戦の無い平和な時代であった。
明治に入り17年に岩富町(武士が住んでいた所は町と呼ぶ)岩富村、七曲村、西御門村、宮内村、飯塚村、内田村、坂戸村(八村)が連合し、役場を岩富町に置くことにした。しかし各村は財力がなかったので、明治22年に協議合併して弥富村が誕生した。
昭和29年3月30日付けで弥富村の名称を解消し岩富町・岩富・飯塚・内田・坂戸・七曲・西御門・宮内は佐倉市に合併した。
①旧弥富小学校校舎
千葉県に残る数少ない木造校舎で昭和28年又は30年に落成し、70年の歴史がある立派な文化財である。
現在、校舎は佐倉市文化財関連の倉庫として活用されている。
②「弥富聖人」の顕彰碑
中世から伝わる佐倉藩外不出の立見流武術が今も岩富の第22代皆伝加藤氏に継承されている。
第19代皆伝加藤久氏は人格者で、関東震災時、佐倉で虐殺の危機に瀕した朝鮮人6名をただ一人で庇護し内務大臣より表彰されている。数々の功績を讃えて地元では「弥富聖人」と呼び、教蔵寺境内に顕彰碑が建てられている。
③京隆山教蔵寺
日蓮宗寺院本土寺末で、享徳元年(1452)平賀本土寺9世日意上人の開山とされる。天文年間(1532~1554)以前、原左衛門尉朗純による再建開基説が有力とされる。日意上人は当山を拠点に下総・上総の各地に教線を張ったとされる。
後世の本土寺30世日迅は子弟を集め当寺の本堂で教育を始め、明治5年学制発布と共にそのまま弥富小學校の前身・飯塚分教場となった。
④岩富八幡神社
岩富八幡神社は領主となった北條氏勝が鶴岡八幡宮を勧請して慶長14年(1609)に創建したとされる。
社格は村社で、明治43年道祖神社を合祀している。
⑤岩富町の街道と宿場跡
岩富町は江戸時代後半から干鰯などの物流の仲継で繁盛した所で、今も当時の趣が残る街並みが見られる。
今回、親切にも大きな屋敷のご当主に屋敷内を案内して頂き、岩富宿の歴史についてもお聞きすることができた。屋敷奥には城郭の土塁が残っており、岩富城測量図によるとⅢ郭の土塁とされる。大変貴重な経験をすることができ、ご当主に感謝したい。
⑥岩富城の登城口
街道の左手に突然、登城口(浅間神社の鳥居)が現れる。ここから真っ直ぐ上り土橋・虎口を抜けると主郭・浅間神社に到達する。
ちなみに街道の右手(登城口の反対側)の細い道を入ると「字下宿」で侍集落があった場所とされる。鍵型の道や陣屋の家など、痕跡が残っているという。
⑦岩富城の主郭土塁
岩富城は、文明年間(1469-1487)に原左衛門尉景広が築城したとされる。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより弥富原氏が滅んだ後、北条氏勝が岩富城主として入城、氏勝の養子氏重が慶長18年(1613)に下野国富田へ転封され、岩富城はわずか24年で廃城となった。
鹿島川に面する台地端に主郭跡、周囲の土塁、空堀および虎口などが今もしっかり残っている。
⑧主郭土塁と浅間神社
主郭の西端土塁に沿って進むと最奥に岩富浅間神社がある。創建年代等は不詳である。明治の社格では無格社とされている。
⑨岩富の自然豊かな田圃道
岩富城から長福寺まで田圃脇の道を歩きながら水鏡や田園風景を楽しむ。
途中、右手に硬式少年野球「佐倉リトルシニア」野球場が現れる。全国優勝8回の名門で今年プロ注目新人DeNA度会選手の出身チームである。
ここを左に行けば弥富川を渡り参道入口に着けるはずが、まさか迷路の畦道で迷子(老人?)になるとは…
⑩長福寺参道と殿山
険しい参道の中腹は「字殿山」と呼ばれ、岩富城築城以前に弥富原氏が一時的に滞在したとか、隠居所があったとか言われるも確たる情報がない。
⑪勝興山長福寺
日蓮宗で平賀本土寺末。岩富城主原景広は本土寺九世日意上人に帰依し、文明2年(1470)当寺を建立して弥富原氏代々の菩提寺としたと云われる。
⑫長福寺梵鐘
台風被害から再建された鐘楼に元禄七年(1694)在銘の梵鐘(佐倉市指定有形文化財)がある。
鐘の池の間(中帯の上)のうち二区に鋳込まれた銘文には「元禄七年十七世日堯の時に、江戸深川の工人田中七右衛門尉藤原重次が鋳造したことや長福寺の由緒」が記されている。
梵鐘は、総高は145センチメートル口径は76センチメートルで駒の爪(鐘の最下部)が太く外に出張る形(江戸時代の梵鐘の特徴)を備えている。
【後記】
岩富城跡は、その歴史的な重要性と美しい景観が印象的でした。
次に、八幡神社、長福寺、教蔵寺など、佐倉市弥富地区の歴史的な社寺を訪れることで、地域の信仰と伝統を感じることができました。これらの場所は、地元の人々の生活と信仰が深く結びついていることを示しています。
また、谷津田や里山を巡る風景は、自然と歴史が調和していることを示しており、非常に落ち着いた雰囲気を感じることができました。
全体として、佐倉市弥冨の史跡めぐりは、地域の歴史と文化を深く理解するための素晴らしい体験ができ、とても良かったです。 (Y.T.)
編/さくら道26
今回は、佐倉市の佐倉城城址のある田町から岩名にある岩名仁王尊までの通称岩名道を散策します。
仁王尊は、空海が作ったという伝説や、川を流れてきたという伝説があります。
岩名仁王尊は、真言宗豊山派の寺院で、市指定文化財の阿吽金剛力士像を所蔵しています。仁王堂は玉泉寺の一建物ですが、本堂がある場所から少し離れた場所にあります。
また、印西市松崎にある多聞院山門の仁王尊二体のうち一体が、大雨の時に佐倉市岩名に流れ着いたとも言われています。
それ以外には神社や仏閣など多く、また山崎ひょうたん塚古墳や岩名天神前遺跡などもあり歴史ある場所です。岩名道周辺をぜひ楽しみながら散策をしてほしい。
①岩名運動公園バス停
岩名運動公園よりスタート。
②長屋門(個人住宅)
個人住宅のため外観のみ見て通過する。
③玉泉寺
正式名は二峰山玉泉寺。宗派は真言宗豊山派。開山は文安元年(1444年)とされている。本尊は大日如来である。
④仁王尊
岩名仁王堂は岩名玉泉寺の一建物であるが、本堂がある場所から少し離れた場所にある。玉泉寺本堂の右手にある6基の石塔をさらに進むと階段があり、その階段の上に仁王堂がある。
④毘沙門堂
当毘沙門堂は二峯山寂号院玉泉寺(文安元年開山)の境外仏堂にして毘沙門天の尊像を厨子中に安置している(掲示板より)。
⑤庚申搭
左の庚申塔は享保17年(1732年)建立。右の年代不詳の地蔵尊の首から上は昭和49年の調査ではなかった(「ふるさとの石仏」佐倉市教育委員会 より)。
⑥山崎ひょうたん塚古墳
この古墳は、印旛沼を眼下に望む海抜29mの台地縁辺に位置する前方後円墳で、嘗ては、ひょうたん塚古墳の南側にあった円墳1基(消滅)とともに夫婦塚と呼ばれていた(「佐倉細見」佐倉市教育委員会より)
⑦岩名天神前遺跡
岩名天神前遺跡は佐倉市岩名396番地にあり、関東地方では最も古い弥生時代の墓の遺跡である。1963年も暮れようとする頃、偶然にも佐倉市の農家の人が芋掘りの最中に1個の土器を発見したという記事が毎日新聞千葉版に掲載された。この記事に注目した弥生文化研究の権威者・明治大学の杉原荘介博士が1963年と翌年の2回にわたって発掘を行った結果、東日本では最も古い特徴を持つ弥生土器、管玉(くだたま)といった遺物や人の骨などが発見され、しかもその墓は2度埋葬する珍しい墓であったことが分かった。
⑧麻賀多神社
旧岩名村の鎮守様(産土神)。道路を挟んだ所にある八幡神社は 旧山崎村の鎮守様(産土神)である。麻賀多神社は、旧岩名村の 南境に位置する。祭神は、稚産霊命(わかむすびのみこと)。創建は不詳である。同神社の棟札に天和三年(1683年)に造立されたという墨書があるが、創祀ははるか以前と思われている。
⑨山崎八幡神社
創建が何時かは不明であるが、往古より旧山崎村の鎮守様(産土神)としてムラの人々の信仰を集めていた。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)。この場所は、旧山崎村の東の境にあたる。
⑩仙元神社
山崎仙元神社は、以前山崎八幡神社の境内にあった祠を平成3年頃現在地に移したとのことである。仙元は浅間と同義語であり、浅間は富士のことである。仙元社は、富士山を鎮める神の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神とする神社である。
⑪道祖神
この道祖神社がいつからあるかは不明である。田町片町から山ノ崎に入り、岩名と飯田に向かう峠付近に立っており、賽ノ神として悪疫・災いなどが村の外から入らないように、また通行する人が恙無く旅を続けられるようにとの願いを込めて建てられた。
⑫道祖神そばの大きな榎の下に佇む石仏群
左より、地蔵尊、廻國塔、六地蔵、庚申塔、その右は不明
⑫ 廻國塔
廻國塔の正面真ん中に「大乗妙典日本囘國六十六部供養佛」、その右には「天下和順 山村」、左には「日月清明 願主浄心」と記銘され、右側面には「宝暦十庚辰年(1760)十一月七日」、左側面に「宝林院岸誉円阿○玄居士、珠林院光一房清寿信女」と記銘されている。
⑫ 六地蔵
石幢(せきどう)型の六地蔵である。「上報四恩下資三有」「享保十八癸丑年(1733)七月廿四日 願主 了圓」の字が彫られている。高さ約1m20cm 。
⑫ 庚申搭
庚申塔の正面に一面六臂の青面金剛が邪鬼を踏み付け、その下に見ざる聞かざる言わざるの三猿が彫られている。右側面に「干時享保元丙申歳(1716)初四月 奉造立庚申之尊像」と彫られている。左側面には「須以此功徳普及〇 我等輿衆生所供〇佛道」その下に竹内〇〇他6名の名が刻まれている。高さ約1m10cm。
⑬岩名道の道標
この石碑には「岩名道」と書かれておりその他は不明。
⑭馬頭観音
岩名道の傍らに木々に囲まれて馬頭観世音などの石碑が十数個建てられている。
⑮隆祥寺
隆祥寺は曹洞宗のお寺で「天桂山隆祥寺」と号する。大佐倉にある勝胤寺の末寺で釈迦牟尼如来を本尊とする。
【後記】
弥生月に入った雨上りの朝、鈴懸の実を収集、太古から続く谷津田に囲まれた島々を目前にスタートした。隣接に宮前団地が開発された岩名の神社仏閣は歴史の重さと風格が感じられた。岩名天神前遺跡で発掘された土器から死者を弔うため二度埋葬される再葬墓を取り入れたということに関心を深めた。(Mrs. M.I.)
編/さくら道26
「和田地区」は佐倉市の最東端に位置し、市全体の面積の14%を占める広大な地区である。明治22年(1889)に14村が合併し広大な「和田村」が誕生する。昭和になり佐倉市となったが、その後もこの地区は「和田」と呼ばれている。
この地区の歴史は古く、大字長熊で白鳳時代(8世紀)の様式を伝える広大な廃寺の遺跡が発見されたことから、この地域が仏教普及や製鉄・須恵器などの最新技術の中心地であったとされている。
また、大字八木の山ノ田遺跡から、道幅最大4.3m、両側の側溝を含めると幅約6mの道路状遺跡が発見されている。これは市原古道遺跡と規模・時期が類似することから、奈良・平安時代の主要道路(古東海道)、またはその支道の可能性があるとされている。また、国道51号線が開通するまでは、この古道の南側に隣接する道(現市道)が千葉から成田へ抜ける幹線道路(千葉成田道)とされ、盛期には成田山や滑河観音の参詣者で賑わったと伝わる。
鎌倉・室町・戦国時代には、関東や下総で数々の戦乱が起きているが、その都度この地域も大きな影響を受けてきた。和田地区に代々引き継がれる数々の伝承の中に、その歴史の端々を垣間見ることができる。
さあ、古道と伝承の和田へタイムスリップしましょう!
①和田ふるさと館
ここには和田地区の紹介パネルや歴史民俗資料が展示してあり一見の価値あり。
今回はいい時間のバスがないため車で移動し、ここから出発する周回コースを策定した。途中、休憩所がないので要注意。
②皓月山静覚院宝金剛寺
(こうげつさんじょうかくいんほうこんごうじ)真言宗豊山派、大和長谷寺末。由緒によると建仁3年(1203〉鎌倉幕府将軍・源頼家が北条時政に命じて堂宇を建立させ、寺領300石を寄進した。覚済(かくぜい)僧正の開山と云われる。
後に北条氏勝が岩富城主に封ぜられると大旦那となり寺領100石を寄進した。寄進した物の中に二組の七条袈裟・横被(県指定)と三鱗紋蒔絵四重碗(市指定)があり文化財 として保存されている。
③北条氏勝の墓所跡
寺の裏に北条氏勝の墓跡と伝えられる場所があり、現在供養塔が建てられている。
当寺は、氏勝の法号から「静覚院」を寺の院号に、「丸に三つ鱗」(玉縄城北条家の家紋)を寺紋に戴いている。
④寒田山円輪寺
真言宗豊山派(宝金剛寺末)。由緒不詳、境内に不動堂と大師堂(文政11 年(1828)創立)がある。
⑤香取神社
社殿は石室で、祭神は経津主命という。今回、社殿の所在は確認できなかったが、一面を覆う銀杏の葉が神社らしい雰囲気を漂わせていた。
⑥明王山不動院
由緒不詳、真言宗豊山派(宝金剛寺末)。境内に不動明王を本尊とする不動堂(江戸中期建立?)、大師堂(文政年間建立)および六地蔵(明治時代造立)がある。
当院の獅子舞は400 年の歴史がる。
⑦道祖神社
由緒不詳。祭神は賽神三柱。境内に浅間神社と天神社の二社がある。
⑧庚申塔
銘文は無いが、主尊の青面金剛の足下に三猿が彫られた本格的な塔である。
⑨八木山ノ田遺跡の道路状遺跡
写真中央の住宅付近で発掘調査の結果、ほぼ東西に延びる道幅最大4.3m、両側の側溝幅最大1.4m の道路状遺構が発見された。奈良・平安時代の遺構と推察されている。調査報告書では、これは市原古道遺跡と規模や時期が類似すること、また本遺跡南側の市道は八木の台地を北東方向に天辺から長熊へ抜ける道であることから、典型的な官道に比べ道幅は少し狭いものの周辺の台地の形状を考えれば、常陸国に抜ける古代の主要道路またはその支道である可能性があるとしている。
⑩竹林の中の旧千葉成田道
この道は、国道51号の開通までの間、千葉から成田へ最短で抜ける幹線道路として使用された道(千葉成田道)とされる。地元の人が「水戸黄門も通った道」と誇らしげに教えてくれた(「甲寅紀行」によると1674年徳川光圀は鎌倉へ向かう途中、酒々井から千葉へ通ったとされる)。
⑪伝説『矢弦橋』の場所
写真は伝説『矢弦橋』に登場する地名の場所で、中央は高崎川支流・矢弦橋跡、左側の台地は「八木塁」と古道のある台地(字勝負込)、右側の台地が字房田で「房田の家(円城寺家)」があり裏山に「馬場」があったとされる。
伝説は、室町時代に千葉一族の宗家争いが繰り広げられた歴史的背景とも重なり、この場所で川を挟んで対峙し矢を射合う情景が目に浮かぶようである。
⑫房田本家
八木字房田という場所に伝説『矢弦橋』にも登場する「房田の家」がある。今回、幸運にもその屋敷の御主人に話を聞くことができた。「房田の家(房田本家)」とは円城寺氏のことで、戦乱を乗り越えこの地で名跡を引き継いできた。伝説に登場する「馬場」は現屋敷の北側にあり館跡ではないかとのこと。また「妙見様」も昔は屋敷内に祀られていたとのこと。
⑬瑠璃山東福院
真言宗豊山派、宝金剛寺末。由緒不詳、字堂山にあったものを嘉永4 年(1851)当院に移転したという。境内に薬師堂が一宇ある。
本尊は木造薬師如来坐像(墨書銘文に文明8 年(1476))で、現在は宝金剛寺に客物として移されている。
⑭森のレストラン「クオーコ」
散策の最後は、森のレストランで美しく照り輝く紅葉を眺めながらランチ。シェフこだわりの地元野菜が美味しいお店です。
【後記】
令和5年12月8日、当日は午前9時30分より午後12時30分頃まで約3時間弱のゆっくりした散策で、湿気も低く風や雲ひとつない日本晴れでした。
散歩道は道巾も広く廻りはほとんど野山と田んぼのみで、今迄になかったようなコースでした。
道中、堀内さんの声かけのお陰で、「房田本家」の当主にもお会い出来、いろいろ貴重なお話を聞くことが出来ました。
すっかり忘れていましたが、昼食時の「森のレストラン」は5~6年前に一度訪れた憶えがあります。食事もおいしく紅葉もきれいで良い時期でした。
皆様のお世話で楽しい一日を過ごさせて頂きました。ありがとうございました。(T.T.)
編/さくら道26
小篠塚城の詳細は不明ですが、室町時代には「享徳の乱」で古河城を追われた初代古河公方・足利成氏が一時期、千葉孝胤を頼ってこの城に居を構えていたと伝えられています。
千葉氏討伐のため、二代目古河公方となった足利政氏が嫡子の高基とともに小篠塚城に動座したとも伝えられています。
現在、城址内の一角には後世の正慧寺が建立されていますが「小篠塚城址園」として整備されており、遊歩道も設けられ、土塁や空堀などの遺跡を確認することができ、各ポイントに石標が設置されています。
小篠塚城址入口
南東側に城址園の入口がある。嘗ての搦手の方角にあたる。晴天下、満開の桜が迎えてくれた。
搦手堀底道
搦手の土塁に挟まれた堀底坂道を登っていくと虎口に至る。
搦手虎口
登り切った所の左手に搦手虎口がある。南側の土塁しか残っていないが、喰い違い虎口と横手掛かりが特徴とされる。
搦手虎口から主曲輪1方面
搦手虎口から見て、左手が手前から曲輪3、曲輪2の土塁、右手が曲輪4で、正面の突き当たりが主曲輪1の虎口である。
曲輪2と曲輪3の境通路
曲輪2と曲輪3の土塁に挟まれた通路があった。現在遊歩道として舗装されている。
曲輪3、東南端に見台
曲輪3の東南端、石標に「見台」とある。ここから搦手を駆け上がる敵に対して攻撃もできる。
曲輪3から見た曲輪2
曲輪2の西側は土塁が低く、コの字型の土塁形状をしている。
曲輪3の土塁南端突出部
曲輪3の土塁外縁を巡って西へ侵入する敵を遮断する土塁。
曲輪2から見た主曲輪1土塁
堀の向こうに見えるのが一段高い主曲輪1の突出部土塁。
曲輪2と主曲輪1間の堀底
左の曲輪2の土塁は低く主曲輪1の外堀に下りやすい。
主曲輪1虎口
主曲輪1の虎口。突出した土塁・横矢・喰い違いの特徴が見られる。
虎口から大手に通ずる堀底道
主曲輪1虎口から主曲輪1の土塁沿いに堀底道を通って大手虎口に通じる。右手は曲輪4。
大手虎口から曲輪4へ登坂
大手虎口から曲輪4へ通じる登り坂。高低差は3m程ある。
大手出桝形虎口
大手より北側は土地開発が進み、虎口の東側土塁は壊され原型を留めていないが、辛うじて喰い違いの形跡が認められる。
主曲輪1北側の土塁・空堀
浅く原型は掴めないが、まだ土塁と土塁の間に空堀が残されている。北東端では箱薬研らしき堀断面が確認されており発掘調査が望まれる。
主曲輪1から見た曲輪4
曲輪4は北東に位置し、一角は現在正慧寺境内となっている。北側には厳重に二層の土塁や空堀が在ったが土地開発により立ち入りも難しい。
虎口から見た主曲輪1
主曲輪1は南と西を断崖、北と東を土塁と空堀で防御された平坦地で、他の3つの曲輪とほぼ同じ高さにある。
主曲輪1西側の切岸
主曲輪1の西側斜面は、防御のため人工的に切り落とした切岸になっている。
切岸に作られた急な遊歩道
主曲輪1から西側切岸に整備された急な傾斜の遊歩道を慎重に下りていくと、小篠塚湧水群方面に通じる。
湧水群へ足を延ばす
時間が余ったので、ちょっと湧水群の方へも足を延ばす。
小篠塚湧水群
遠く小篠塚湧水群を望む。きれいな湧水に水草、アメンボ、おたまじゃくし、白サギなど豊かな里の自然。
【後記】
桜花の下、戦国時代の城跡を示す石標を探して歩き、城下の谷津での散策では湧水の流れと蓮田の水面を滑る“あめんぼ”を見つけ、子供の頃を思い出した。小篠塚城の歴史と共に自然に触れ会えた散策、良かった!(Mr. M.I.)