🔳佐倉市 臼井宿周辺の散策(2017~25)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
臼井は、江戸時代になると臼井城の廃城、佐倉道の整備と経路変更、宿場の移転と繁栄など大きく変容を遂げたため名所旧跡も多く「江戸時代の初期」と「江戸時代の中期以降」の二部に分けて散策を行うことにしました。
今回の散策では、江戸時代中期以降の臼井宿と佐倉道周辺の名所・旧跡に焦点を当てて散策をしました。
元禄時代になると、臼井峠と称される新坂が開かれ、成田山参詣客も増え臼井は宿泊・休憩の地として賑わいをみせていきました。この頃の佐倉道は手繰坂→臼井台町(大名宿)→新坂→片町→上宿→中宿→下宿→新町→八丁坂→江原台のルートに変わり「佐倉道」は「成田道」とも呼ばれるようになったと云われます。
享保年間(1716年~1735年)の終わり頃、問屋・人馬継立・助郷組織・旅籠など宿駅としての機能・設備が整備され、臼井宿が宿場として整ったと云われます。
臼井界隈の散策の起点。
宗徳寺の庭園に立ち並ぶ七福神像。春は紫陽花や桜、秋は紅葉が楽しめる。
地元では、臼井八ヶ寺(花)のひとつ「紫陽花の寺」と呼ばれる。
曹洞宗寺院で、元は生実城城主原胤高が応永3年(1396)に北生実柏原に報恩寺宗徳寺として創建したが、天正2年(1574)に堂宇が焼失して、翌天正3年に原胤高が本拠を臼井に移したときにこの地に再建し、長谷山宗徳寺と改号したものである。
毎年臼井城主から20石の寄進があり累代原氏の菩提所だったが、秀吉の小田原北条攻めに際し天正18年(1590)原氏も滅亡した。
徳川家康の関東入国後、寺領10石の御朱印状を賜わり、江戸期には末寺10ヶ寺を擁して曹洞宗大本山住職を務める輪番地にまでなった。
この碑の裏側に「當山は、天明三年(一七八三)三月十五日 祝融にあい諸堂すべて焼失しました。その時、鳴いて急を告げたのが、八臼烏であります。この供養塔を建立し、山門の火盗消除、安寧を祈念いたします。平成十七年三月吉日 三十二世 雲外岩雄」と刻銘されている。
国道を挟んで宗徳寺本堂の向かい側にある湧水のことである。徳川家康がこの地に狩りで訪れた折、振舞われた水が京都の名水に似ていると賞味され、その後も寺を訪れるたびに、この湧水を愛飲していたので「権現水」と呼ばれるようになったという。
この辺は臼井城大手門跡とされ、臼井台の尾根を真っ直ぐな道が三の丸まで伸びている。
臼井城を囲む5砦のひとつで前方には手繰川が流れ、臼井城の西方を防備する砦であった。
佐倉道は、手繰川を渡った後、急な手繰坂を上り臼井宿に通じる。この坂の歴史は定かでない。
手繰坂を上っていくと大名宿通りに突き当たり、丁字路に110cm高の道標が建っている。道標には次の刻銘がある。
正面:右 成田みち、右側面:左 江戸みち、左側面:西 さくばみち、裏面:文化三丙寅年(1806)正月二十八日 新吉原仲之町 宿太田屋 伊勢屋半重良
江戸時代の寛政から文化年間にかけて無敵と謳われた大関・雷電為右衛門は、妻の故郷臼井宿で引退後の余生を過ごしている。
197センチの等身大で描かれているという顕彰碑や手形の看板がある。碑に刻まれている11文字は佐久間象山筆である。
日蓮宗寺院で長享2年(1488)に創建という。雷電は文政8年(1825)に59才で亡くなり、妻八重の実家が妙行寺(現妙覚寺)の檀家だったことから、当寺に葬られている。
因みに当寺は臼井八ヶ寺(花)のひとつ「百日紅の寺」と呼ばれている。
嘗て此処には朱塗りで趣のある二階建ての鐘楼門があったが、老朽化の為最近新しい四脚門に建て替えられた。
日蓮宗寺院で、本土寺第3世日伝上人が弘安6年(1283)に、臼井城大手門近くの石神に創建したという。その後、臼井氏の中興の祖臼井興胤が臼井城を整備すると、当寺もその頃この地に移転したとされている。
妙傳寺の境内からは、臼井宿跡・印旛沼・臼井城址が眺望できる。また足下には臼井宿へ下りていく佐倉道新坂を鳥瞰できる。新坂の途中左側には成田山講中寄進の常夜灯が建っていたと云われる。
本覚山浄行寺跡の杉山家墓地に雷電夫婦と子供の3人の墓がある。妻八重の実家が当寺の檀家であったためである。雷電の墓は全国に4ヶ所あるが、親子3人の墓があるのはここだけである。
臼井宿の上宿から中宿方向の写真である。左の看板が江戸時代に甘酒茶屋「天狗」があった場所を示している。雷電が看板娘「おはん(後に八重)」を見初め、娶ったとされる運命の場所である。
元禄時代以降、成田参詣が盛んになると臼井宿は継立場、茶屋、数軒の宿屋を擁し大いに繁盛した。
『成田名所図会』には中宿丁字路(写真正面)に佐倉藩の高札場が描かれている。
明治天皇が明治14年と15年に三里塚種畜牧場へ行幸の際、往復とも御昼餐をお召しなされた「伊勢屋」という店があった処である。
側面に「史蹟名勝天然記念物保存法に拠り史跡として昭和12年12月文部大臣指定」と刻まれている。
大正11年内務省令に基づき、臼井町の枢要な場所として建てられた(元は向かって右へ7mの位置にあった)。
中宿の東端に本陣(「菊屋」)、 脇本陣(「大桜屋」)があり、下総や上総の大名の宿泊所して使われた。
浄土宗寺院で、元亀元年(1570)道誉上人によって創建された。当初は、道誉上人が先に開基した生実の大巌寺にならい、全く同様の山号院号寺号をもって「龍澤山玄忠院新大巌寺」と称したが、寛永年間に「長源寺」に改称された。元は長源寺山(宿内砦跡がある台地)にあったが、安永元年(1772)の火災で堂宇等全てを消失した。天明元年(1781)現在の地に移転し本堂を再建し、現在に至る。
ここは明治6年開設の臼井小学校の発祥の地でもある。
春先には寺の境内に見事な枝垂れ梅が咲き誇る。地元では臼井八ヶ寺(花)のひとつ「枝垂れ梅の寺」と呼んでいる。
道誉上人は芝増上寺第九世法席を継いだこともある名僧で、原胤栄の加護を受けながら当山を中心に浄土宗の教勢拡大に尽力した後、当山で入寂した。長源寺から宿内公園へ上る途中の長源寺墓所に 道誉上人の墓がある。
戦国時代に臼井城の周囲に築かれた5砦のひとつとされる。
砦は三方を急崖に囲まれ、虎口側のみ台地に繋がっている。5砦の中で最も保存状態の良い遺跡である。
現在は宿内公園として開放され、広場は一部の音楽ファンから「たんぽぽの丘」とも呼ばれている。
左側の座像は寛文5年(1665)造立の菩薩像、右の立像は寛文12年(1672)の如来像である。台座の荒廃等により改修工事を行った。これらの像の由来は不詳。
新坂下の上宿から南へ坂道を上っていくと左手に稲荷神社の急な石段があり、その先の鳥居を潜った境内には稲荷神社・子安神社・古峯神社を祀る3つの小祠がある。
神社の石段はもともと雷電為右衛門が寄進したものであったが、その後改修工事の際に取り外され、現在境内の敷石に転用し保存されている。
写真の右奥に昔稲荷台砦があったとされるが、宅地開発が進み台地は掘削され砦の遺跡は残っていない。