🔳佐倉市 田町・海隣寺町・並木町・新町の散策(2020-6-19)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
今回は鹿島橋から田町・海隣寺町・並木町・新町と佐倉城の城下町を通る佐倉道周辺を散策しました。
佐倉城は戦国時代に千葉氏一族の鹿島幹胤が鹿島台に築いた中世城郭を原型として、江戸時代初期に佐倉に封ぜられた土井利勝が慶長16年(1611)から元和2年(1616)までの間に築城した平城です。
佐倉藩の渡辺善右衛門によって著された『古今佐倉真砂子』とその付属『総州佐倉御城府内之図』は1700年初め頃の佐倉藩内の状況を知ることができる貴重な史料です。今回はこの史料を手掛かりに当時の遺跡や趣を求めて散策しました。この地域は佐倉城築城に伴い開発、整備されたところで、今も佐倉城址の周囲に旧佐倉道や侍屋敷の小路などの遺跡、当時から鎮座している寺社などがあり、佐倉城下町の趣を感じることができます。
左岸は角来村、右岸は田町である。江戸時代、右岸は入口が狭く旗のような形をしていることから「竿地」と呼ばれ、細かく区切って田町と角来村に分与されていた。また右岸の田町河岸では年貢米や干鰯・大豆などの商品が荷揚げされ、停泊する高瀬舟が度々見られたと云う。
鹿島川の東岸から見た鹿島橋である。手前から伸びる旧佐倉道の延長線上に 旧鹿島橋があったと推測される。現在の橋より少し上流(写真竹林の左手)に架かっていたことになる。
旧鹿島橋から旧佐倉道を暫く東へ進むと佐倉城の堀跡に突き当たり、道は左へ折れて200mほど真っ直ぐな道が続く。江戸時代、この通りの右側には佐倉城三十三間堀、左側には竿地沿いの竹藪や松並木が続いていた。200m程堀に沿って進むと、堀の角だった所で再び右へ折れて真っ直ぐな道が続く。ここの角の左手には吉田屋河岸があり藩の請負人・吉田屋が荷揚げされた年貢米を佐倉城内の椎木蔵まで馬で輸送していた。
旧佐倉道は三十三間堀の北西の角を右に折れて東へ450m程真っ直ぐに伸びている。江戸時代、この通りは片側にだけ町屋が並んでいたことから田町片町と呼ばれていた。田町は、椎木曲輪に住んでいた人々が佐倉城築城の時に強制移住させられて出来た町と云われる。
旧佐倉道は堀の北側を450mほど真っ直ぐ伸びている。丁度350mほどの所に佐倉城田町門跡がある。現在、国立歴史民俗博物館の正門が建っているが、その東側辺りに佐倉城の田町門があったと云う。下総の年貢米の八割以上が、田町門、椎木門を通って城内の椎木蔵に納められた。江戸時代には椎木門へ向かう上り坂の左手に愛宕神社と別当・円正寺があり、土井利勝を初め歴代藩主に祀られていたが、後に愛宕神社は移転され円正寺は廃寺となった。
田町門前の丁字路に道標がある。天保9年(1838)造立で、左側面に「是より岩名二王道十三丁」、右側面に「是より飯野観音道十丁」の刻銘がある。北へ向かうこの道は、当時、土浮の佐倉藩渡船場から印旛沼を瀬戸に渡り印西方面に通じる重要な交通路であった。
旧佐倉道は堀の東北端で鉤型に右折、左折した後、東へ真っ直ぐ海隣寺坂の方へ伸びる。この通りは佐倉城築城に伴い整備されたもので両側に町屋が並ぶことから田町両町と呼ばれた。
神社の参道や鳥居をくぐった狭い境内に石塔、常夜灯、狛犬が所狭しと建っている。この神社は、もとは佐倉城内に建立されて土井利勝初め歴代城主によって祀られてきたと伝わる。明治時代に廃仏毀釈や兵営建設などにより現在の場所に移転され、爾来、田町の氏神として祀られてきた。
拝殿に安置される約46㎝高の愛宕大神像は、雲・波型の台座の上で馬に跨り甲冑を身に着け、左手に宝珠、右手に錫杖を持った神像である。
愛宕神社から灯篭を過ぎて飛び石が敷かれた小径を進むと小さな稲荷神社が建っている。
小さな稲荷神社は愛宕神社と一緒に佐倉城内から移転されたものである。小さな社の内外には多くの石像、石仏や五重塔がある。昔は「石段のある神社」と云われていた。
愛宕神社の裏から急な小道を上っていくと、市役所を経由して海隣寺に出ることができる。
市役所駐車場の西側に広がる海鱗寺墓地の奥まった場所に累代千葉家の供養塔が整然と並んでいる。千葉氏歴代の五輪塔や宝篋印塔も海隣寺が本佐倉から移転した時に一緒に移転された。
飾らない山門越しに本堂が見通せる。因みに本堂の山号額「千葉山」と山門の木札「海隣寺」は第35代総理大臣平沼騏一郎の揮毫である。
寛文2年(1662)創建された時宗の寺である。本尊は「海上月越如来」と呼ばれる阿弥陀如来で、当麻無量光寺(相模原市)の有力な末寺である。当寺はもともと、千葉常胤が文治2年(1186)馬加(幕張)に真言宗の寺として建立したが、後に千葉貞胤が一遍上人に帰依し時宗に改宗した。15世紀の千葉宗家内訌に伴い、寺は文明16年(1484)以降に酒々井に移された。そして天正年間に千葉邦胤が鹿島台に本城を移そうと築城工事を再び始めた際に寺を現在地に移した。
田町両町から先の海隣寺坂は、急坂で荷車が上れず、後押しする(おっぺす)人夫がいたことから「おっぺし坂」とも呼ばれた。
坂の中程の右手に市文化財候補にもなった趣のある家屋がある。1868年から酒屋業を始めた老舗味噌屋の本家である。瓦には屋号の“山”に“二”が刻まれている。昭和50年代まで敷地内に煉瓦製煙突があったという。
海隣寺坂を上った場所を市役所の駐車場屋上から見下ろすと、当時の「海隣寺坂上の木戸や広場」の遺構も残っていて趣がある。三峰山道中記図絵(明治4年)には「海隣寺坂を上り切った辺りに海隣寺町の木戸があり、木戸の中には広場があり茶屋も見える。海隣寺通りの寺側には町屋、反対側には武家屋敷が並んでいて、往来は賑わっている」様子が鮮明に描かれている。
海隣寺坂を上り切り(当時の木戸を抜けて)直ぐに左手に小路の入口がある。ここは江戸時代、海隣寺曲輪の裏小路で、西側のこの辺りは坂上新建長屋と呼ばれ組長屋が3棟建っていた。侍屋敷特有の鉤型小路、藩主堀田正盛が建てた赤い稲荷神社、樹齢150年以上と伝わる梅の古木など現在も当時の趣をよく残している。
こちらは海隣寺曲輪の裏小路の東側にあたり古新建長屋と呼ばれ西側と同様に組長屋が3棟建っていた。ここの稲荷神社も、藩主堀田正盛が寛永19年(1642)家臣の曲輪(長屋)に設置した10社の内の1社である。
土井利勝が海隣寺門前と佐倉新町を往来できるように道(後に佐倉道)を造り、家臣の屋敷割をした。新町の横町木戸から海隣寺門前まで武家屋敷をつくり海隣寺並木町と呼んでいた。この道は佐倉藩主が往来する大通りで、藩主が往来する時は通りに面する武家屋敷はおもてなしの意味で盛砂をしたという。
海隣寺通りは海隣寺から鍛冶作にかけて武家屋敷や長屋の中を抜ける裏通りだが、現在は一部しか痕跡は残っていない。前堀田氏の時代には東側の表通りに一戸建ての独立した屋敷が多く、裏側には長屋が多かった。当時、海隣寺の南側は3500坪もある足軽長屋で清兵衛長屋と呼ばれていた(享保年間になり、稲葉氏の時代になって与力・稲葉酒之丞の屋敷となった)。
もとは清兵衛長屋にあったため清兵衛稲荷(堀田正盛が設置した10社の稲荷神社の一つ)と呼ばれていた。享保8年(1723)佐倉藩主稲葉正知が山城国淀に所替えになった時、一緒に淀へ持参したため、現在の高丘稲荷神社は、その後新たに勧請して祀ったものである。丘の上に推定樹齢500年の銀杏の大木が聳え立っている。
旧道路法(大正9年施行)により、各市町村に1個ずつ設置されました。ここは、佐倉藩高札場があった場所でもあり、ここが旧佐倉町の中心だったことが判る。
江戸時代後期に描写された『成田名所図会』にも描かれているように、写真右の佐倉町道路元標が建っている場所あたりに高札場があった。その前を左折すると成田山へ向かう道で参詣が盛んになる18世紀には「成田道」と呼ばれるようになる。当時、奥の交叉点(奥の信号辺り)に木戸があり、木戸をくぐり右折すると大手門に通じる宮小路に入った。
新町の木戸跡をくぐりと宮小路にでる。当時、正面に奉行所があり、そこを右折して麻賀多神社の前から、更に350mほど真っ直ぐに進むと佐倉城大手門に至る。
八千代市から成田市にかけて18社あるうちの一つで、佐倉藩の総鎮守である。ご祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと)で、万物を結び育てる御神徳があると云われる。
境内には樹齢800年以上と云われる大銀杏をはじめ古木・大樹に囲まれ稲荷神社などの境内社4社もある。
私達「さくら道26」のメンバーは佐倉道の散策へ出発するにあたり、この神社にみんなで安全祈願をしました。