シリーズ「みんなで行こう!私の行きたい所」
【目次】
宗吾参道駅(そうごさんどうえき)から徒歩15分。駅から歩く道路は、酒々井町の「町道01-001号線」 で、義民佐倉宗吾を祭る宗吾霊堂(東勝寺)に参拝する人々が利用する参道で、沿道には山門や灯籠、サクラの老木などが昔のままの姿が残っているので見ながら歩きます。
宗吾霊堂の開基は古く、桓武天皇の時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者供養のために建立したと言われています。正しくは、鳴鐘山東勝寺といいます。
今では江戸時代の義民・佐倉宗吾様が祀られているお寺として、全国の信者が参拝に訪れています。
宗吾(1928.4.1) ⇒ 宗吾参道(1951.7.1〜)に駅名が変更
昭和57年1月24日 - 現在地に移転 (案内図に記載)
何時設置されたかは不明。
説明版には「平成2年新規マイロード事業によって宗吾参道を改良整備するにあたり地域の特性を活かした「義民の里に、ふれあいあふれる街づくり」をテーマとして実施したので表題について説明します。以下省略
何時設置されたかは不明。
稲荷神社の場所は成田市宗吾3丁目578 、由緒不詳。
写真右側あたりに、新勝寺と宗吾霊堂を東西に結ぶ成宗電車(成宗電気軌道線)の宗吾駅があったとされる。
左右に当時のお店などがあったが現在は閉店している。
鳴鐘山東勝寺と掲示されている。
平日はお店はお休みのようです。
真言宗智山派大本山智積院大僧正宥性による七言絶句の石碑。明治26年頃は明治政府によって真言宗の各派が合併されて、宗派内は混沌とした時期であった。
佐倉宗吾と4人の子供の墓である 。
義民「佐倉宗吾」の御霊を祀る宗吾霊堂で、人々が宗吾様へ自身の災いを代わりに引き受けてほしいと祈願する地蔵菩薩である。
東勝寺は真言宗豊山派の古刹で、今の仁王門は昭和53年に宗吾様の325年忌記念事業として完成した。
内部の仁王尊 は身丈8尺8寸にして、鋳造、金箔仕上げの我が国で唯一の金色仁王尊である。
慈眼閣は平成3年に建立された。
現在の鐘楼堂は昭和27年に建立された。
薬師堂は、焼失した供養堂(現在の本堂に相当)の仮堂として明治44年に建立された。大正10年の大本堂竣功後は、五霊堂(佐倉宗吾と共に直訴し、その罪で追放された名主5名を祀る)となり、後に5人の御霊が本堂に移されると、薬師堂に改称された。
昭和17年建立。木造チタン屋根、建坪は160坪、300余畳の大広間があり、ご信徒様の坊入り•休憩•研修道場等に使用している。※宗吾霊360年祭記念事業として屋根をチタン材に葺き替えた。
大正10年に8ケ年の歳月を費やし、十間四面総檸造り総銅葺き現本堂を再建した。御本尊には、宗吾様の霊を祀ってあります。
宗吾殿は東京の浅草宗吾殿を現地の再開発に際して平成29年に移築建立したものという。
宗吾霊350年祭記念事業において建立された四間四面のお堂である。ご本尊は、大仏師松本明慶師による十一面観世音菩薩をお祀りし、堂内には檀信徒様のお位牌をご安置してあります。
宗吾霊宝殿に保管されている梵鐘です。「下州印東庄八代郷船形薬師寺」という銘文から、船形の薬師寺に奉納されたことがわかり、慶応元年(1311)に鋳造されたことも記してある。この梵鐘は、撞座が一つという珍しいものとされる。
ここにある2基の板石塔婆は、卒塔婆の1種として造立された供養塔である。阿弥陀の種子(キリーク)のほかに年号、願文、願主など刻まれている。向かって左側のものは明徳2年(1391)、右側のものは康永元年(1342)に造立されたものである。
昭和10年に開館。本尊宗吾様の遺品や関係文書、什器、当山の寺宝、各時代の参考品、郷土出土品などが展示してある。なかでも、惣五郎様の存在と持高 を証明する名寄帳、宗吾様着用の祎と奥様ご使用の鏡、宗吾様とお子様4人の法号を記載した過去帳など貴重な品々が展示されている。
昭和42年開館。佐倉騒動の発端から、甚兵衛渡し、妻子の別れ、直訴から処刑にいたるまでを等身大人形66体で13場面 に配置してあり、宗吾様の尊い生涯を再現したものを観覧できる。
宗吾霊堂内にある、説明看板及び宗吾霊堂境内配置図及び宗吾霊堂パンフレットを引用しました。
深川寺町は、東京都江東区深川地域に位置する寺院が集まるエリアです。江戸時代の明暦の大火(1657年)以降、多くの寺院がこの地に移転し、寺町として発展しました。現在も歴史ある寺院が点在し、江戸の文化や歴史を感じられる場所となっています。
例えば、深川寺町には「霊巌寺」や「法乗院 深川ゑんま堂」などの寺院があり、それぞれに独自の歴史や文化があります。「深川江戸資料館」では、江戸時代の深川の町並みが再現されており、当時の生活を体験することができます。
また、深川寺町周辺には歴史的な偉人の墓も多く、紀伊国屋文左衛門や間宮林蔵などの著名人が眠っています。この地域を散策すると、江戸時代の雰囲気を感じながら、歴史を学ぶことができるでしょう。
興味があれば、深川寺町を巡る観光コースもあるので、ぜひ訪れてみてください。歴史好きにはたまらないスポットです!
今回の散策のスタート地点。今回は地元ボランティアガイドの方に案内をお願いした。
東京市が社会事業施策として大正9年から順次設置した16か所の市設食堂の一つである。
構造は大震災の教訓を活かし、当時最先端技術の鉄筋コンクリートが採用された。デザインの特徴は明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と二階南側のスチールサッシ窓にある。
「閻魔堂橋」とは油堀に架けられた「富岡橋」のことである。「深川閻魔堂(法乗院)」へ通じる道であったため「閻魔堂橋」と呼ばれた。人情本や歌舞伎などの文芸や芝居の作品中に取り上げられ親しまれた。(詳細は案内板を参照ください)
向井忠勝(1582~1641)が1637年に開基し、自身の墓もある寺である。忠勝は16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大阪冬・夏の陣では水軍を率いて摂津尼崎へ出陣した。(詳細は案内板を参照ください)
寛永6年(1629)に創建され、宝永年間(1751~64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所で「深川ゑんま堂」として親しまれた。
高さ3.5mで、19種類の祈願ごとにお賽銭投入口があり、投入すると仏像から様々な説法を聞くことができるシステムを日本で初めて採用したゑんま像である。
元和2年(1616)京橋八丁堀寺町に創立、寛永10年(1633)現在地に移転された。現本堂は昭和43年に落慶した。(詳細は案内板を参照されたい)
採茶庵は江戸中期の俳人杉山彩風の庵室である。彩風は松尾芭蕉の門人であり蕉門十哲に数えられ、また芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られている。
採茶庵は元木場平野町(この案内板の場所から140mほど南西に位置する)にあった。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居の芭蕉庵を手放し、しばらくこの採茶庵で過ごした後、舟で隅田川をのぼり千住大橋の袂から奥州に旅立っていったという。(詳細は案内板を参照ください)
案内板によると「深川では江戸時代から飲料水の確保に大変苦労しました。この地が海面の埋め立て地であるため井戸水の水質が悪く、その上隅田川が障壁になって神田・玉川上水の利用ができなかったからです。
そのため、飲料水は水船に頼っていました。神田・玉川上水の余り水を銭瓶橋(現大手町付近)の「吐水口」で水船に積み込んで各地に陸揚げし「水屋」、「水売」と呼ばれる人々が棒手振りで売り歩きました。」
曲亭馬琴は明和4年(1767)に生まれ、本名は「滝沢興邦」、筆名は「曲亭馬琴」・「著作堂主人」などと号した。文筆で身を立てようと志し、23歳の時に戯作者で浮世絵師の山東京伝に入門した。馬琴が著作した作品は極めて多く、読本から黄表紙・随筆に至るまで約470にものぼる。なお、28年かけて完結した「南総里見八犬伝」は全部で106冊もある。(詳細は案内板を参照ください)
日蓮宗の寺院で、寛保元年(1741)の開山。深川七福神の一つ(大黒天)として親しまれている。
関東大震災により深川でも多くの犠牲者がでて、浄心寺の境内が臨時の火葬場に当てられ、凡そ3千の遺体が荼毘に付されたと云われる。(詳細は案内板を参照ください)
日蓮宗の寺院で、三沢局(徳川家綱の乳母)の菩提を弔うため万治元年(1658)に創建。10万石の格式を許される大寺院で、宝暦3年には身延山久遠寺の出開帳も行われた。
三沢局が大奥に入った時に伊勢神宮外宮の豊受大御神を奉祀したのが始まりで、浄心寺創建時に和合稲荷のご神体も境内に一宇を建てて祀ったと伝わる。
間宮林蔵は安永9年(1780)常陸国筑波郡で生まれ、天保15年(1844)深川蛤町(現門前仲町)で没した。
林蔵は樺太を探検した後、単身でシベリアに渡って沿海州に入り、アムール川を遡って清の役人が詰めるデレンまで到達した。この探検によって樺太が島であることが明らかになり、後に間宮海峡と呼ばれる海峡を発見して世界的に名を知られることになった(詳細は案内板を参照ください)
慶長16年(1611)日本橋に創建されたが江戸の大火で度々焼失し天和2年(1682)に現在の地に移転した。深川七福神の一つ(毘沙門天)である。
本堂右脇の五輪塔は紀年銘は貞享3年(1686)で、高さは3.5mの区内有数の大きさである。
徳川家康の側室「阿茶局」は家康没後、尼となり雲光院と呼ばれ当院を開基した。
庄司仁右衛門は吉原遊郭の創始者である。
江戸時代初期より金座・銀座を支配していた後藤家の三代目「三右衛門」で、以降、幕府の貨幣鋳造・改鋳を統括し、水野忠邦の天保の改革の中枢を担った。
本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものである。阿茶局は夫の死後、徳川家康の側室となり、大阪冬の陣では和睦の使者をつとめ、家康死後は徳川秀忠の五女和子の入内に際し母代として在京した。秀忠の死後は尼となり雲光院と称し83歳で没した。(詳細は案内板を参照ください)
中央の「文左衛門の碑」の左奥に墓がある。
勢至丸は法然上人の幼名で、法然上人生誕850年記念碑である。
享保2年(1717)に造られた江戸六地蔵の一つ(5番目)である。
道本山霊巌寺は寛永元年(1624)に霊巌島(現中央区)に創建したのが始まりで、明暦3年(1657)の大火で焼失し、現在の地に移転した。
松平定信は御三卿・田安徳川家の出自で、後に老中首座となり「寛政の改革」を行ったことで知られる。
地元ボランティアのガイドさん、大変お世話になりました。
とにかく魚が美味しい!安い!昼時は混むのでご注意を!
🌸🌸🌸後記🌸🌸🌸
今日は楽しみにしていた深川散策、朝方の雨も歩き出す頃には止み、さすが ”さくら道26” だと思った。
私は生まれも育ちも江東区だが、こんなに沢山のお寺があることに驚いた。火災等で焼け出されてあちこちから移転してきたらしい。
では出発! 深川二丁目にある法乗院閻魔堂には寄木造りの日本最大座像、浄心寺には三沢局(家綱の乳母)、歌舞伎役者、洲崎遊郭遊女等が眠っている。宇江佐真理の小説にもこのお寺が登場する。霊巌寺には松平定信(田沼時代を正すべく寛政の改革を断行した)のお墓がある。雲光院は宇治平等院阿弥陀様をモデルにしてる美しい彩色の仏が祀られている。
まだ書き足らないがそろそろランチに門前仲町へ! その後は大横川のお花見に行きます。 (H.Y.)
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佐倉市から電車で一時間と近くて有名な上野公園です。みんな何度か来たことはあるけど一度じっくり公園の名所・旧跡を見て回りたいということで、今回は地元ボランティアの会にお願いして公園内を案内して頂きました。
二つのグループに分かれて少人数で回り地元の人しか知らない見所や情報も教えて頂きました。お陰様で大変有意義で楽しい時間を過ごすことができました。
高村光雲の作。一般公開に際し招待された西郷夫人が「うちの主人は、こんなお人ではなかったですよ」と驚いたとか。
慶応4年(1868)の上野戦争で戦死し放置された彰義隊の遺体200余霊を円通寺(荒川区)の住職が埋葬し供養した。明治7年に、生き残った彰義隊士らが初めてこの地に唐金の墓を建立した。現存の大墓石は明治17年に再建されたものである。
寛永8年(1631)に天海大僧正によって建立された。清水観音堂は、京都清水寺に安置されていた千手観世音菩薩像を天海大僧正が奉納したことから清水寺と同じ舞台作りにして上野公園内の擂鉢(すりばち)山に初めて建てられた。しかし寛永寺総本堂の根本中堂建設に伴って、元禄7年(1694)現在地に移築された。写真は『江戸名所図会』と同じ構図で撮影したもの。
旧清水観音堂が建っていた擂鉢山は桜の名所で、元禄の頃、日本橋の菓子屋の娘「お秋」が井戸端の様子を詠んだ句「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」が評判となり、爾来「秋色桜(しゅうしきさくら)」と呼ばれるようになった。
清水観音堂の舞台から「月の松」の輪を通して不忍池弁天堂が見える。広重の『名所江戸百景』にも似た松が描かれており、庶民が同じ趣向を楽しむ姿が想像される。
旧寛永寺根本中堂の前に建っていた常行堂・法華堂の礎石群が残っている。二つのお堂は比叡山の「にない堂」を模して廊下で繋いだ構造になっていた。比叡山延暦寺では、弁慶が廊下を天秤棒にして二つのお堂を担いだという伝説から「にない堂」と呼んでいる。
五條天神社の歴史は古く、約1900年前、日本武尊が東征の為忍岡を通った際、大己貴命と少彦名命を祀って創建したと云われる。その後遷座を繰り返し大正14年に現在の地に遷座された。隣接して花園稲荷神社がある。
花園稲荷神社は正しくは忍岡(しのぶがおか)稲荷と云う。天海僧正が寛永寺を創建した際に狐の棲む処が無くなるのを憐れみ一洞(写真手前)を堀り、その上に社(写真の奥)を祀ったと云われる。石窟の上にあったことから俗称・穴稲荷とも云われていた。
この鐘は寛文9年(1669)に寛永寺及び周辺住民に時間を告げる目的で設置された。現在の鐘は天明七年(1787)に改鋳されたもので、今でも朝夕6時と正午の一日3回、絶やすことなく人の手で撞かれている。今回、散策中に何処からともなく正午の鐘が聴こえて、ふと芭蕉の句を思い出した。「花の雲 鐘は上野か 浅草か」(松尾芭蕉)
小高い丘の階段を登るとドーム状の建物がある。これは「パゴダ」と呼ぶ仏塔の一種で、内部に上野東照宮の薬師堂より遷座された薬師三尊像を祀っている。
江戸時代初期に建立された上野大仏像は高さ約6mの釈迦如来坐像であった。関東大震災で頭部が落下したため再建に備え保管していたが、第二次世界大戦中に金属供出で顔面部を除き没収されてしまった。昭和47年にその顔面のみをレリーフとして旧跡に安置した。最近は「これ以上落ちない」合格大仏として人気がある。
東照宮の入口付近にあり、寛永8年(1631)に他の大名に先駆け佐久間大膳亮勝之(佐久間盛次の四男)が東照宮に寄進した石造の灯籠である。灯籠は高さ6m余の巨大なもので「お化け灯籠」と呼ばれる。南禅寺や熱田神宮の大灯籠とともに日本三大灯籠に並び称される。
寛永10年(1633)に大名・酒井忠世が奉納した。石材には備前の高品質な花崗岩が使用されている。およそ50年に亘り平穏に建っていたが、天和時代(1681~1684)に理由は不詳なるも鳥居は解体され埋められてしまった。そして数十年後、享保19年(1734)に鳥居は酒井忠世の子孫・酒井忠知によって掘り起こされ元の場所に再建された。鳥居の柱は地下4mの深さまで埋まっており関東大震災でも少しも傾かなかった。
水舎門は、もとは社殿前の手水舎として使われていたものを昭和39年に門として移築したものである。その手水舎と水盤は慶安4年(1651)に老中阿部重次が奉納したものであった。
大石鳥居から社殿までの参道には、慶安4年(1651)に徳川家光が造営替えをした際、全国の大名から奉納された約250基の灯籠が整然と並んでいる。鳥居付近の石灯篭には刻字を金色に細工したものがあり、今でも金色の痕跡を視認できる。
唐門に向かって左側の手水舎は、その水盤の刻銘より明治6年に新門辰五郎他により寄進されたとされる。新門辰五郎は江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸の町火消の頭領で約2千人の手下を抱え、また浅草・上野を縄張りとする侠客として有名である。幕末には、懇意となった慶喜公に付き従い大阪・京都の火消しを務めたり、大政奉還後も上野~水戸~駿府と慶喜の行く先々で警護を担当した。
参道の社殿近くには、諸大名から奉納された48基の銅灯籠が整然と並ぶ。境内案内板近くの台座が円形のものは寛永5年(1628)に藤堂高虎から奉納され、他は慶安4年(1651)の金色殿造営時の奉納である。
慶安4年(1651)造営。正式名称は唐破風造四脚門と呼ぶ。唐破風は権威の象徴で曲線を付けた破風を特徴とする日本特有の屋根の建築技法である。左右の柱の傍らには左甚五郎作の4体の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があるらしい。
唐門両側の6基の銅灯籠は、内側から紀伊・水戸・尾張の順に徳川御三家より2基ずつ寄進されたものである。本来の序列は尾張家が最上位であるが、当時の尾張家徳川光義は家督を継いで間もなく、まだ官位が低かった為とみられる。
慶安4年(1651)造営。菱格子の向こう側が透けて見えるので「透塀(すきべい)」と呼ばれる。金色殿の東西南北を囲んでおり、塀の上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面の250枚以上に施されている。
唐門の裏に見える大きな屋根が金色殿である。もともと金色殿は寛永4年(1627)に創建された。現存する金色殿は1651年に徳川家光公の命により日光に準じた内外共に金箔と極彩色の金色殿へ建て替えられたものである。東照宮には、家康の遺言を受けて江戸時代には家康、天海、藤堂高虎の3人を祀っていた。明治以降、紆余曲折があって現在は本殿に家康、幣殿に吉宗、拝殿に慶喜が祀られているという。2013年に金色殿外部の修復が完了したが、11万枚の金箔が使用されたという。
最初の五重塔は、寛永8年(1631)に佐倉藩主土井利勝が寄進し建立したが、残念なことに寛永16年(1639)に焼失した。現在の五重塔は同年に幕府によって再建されたものである。幕末の上野戦争により旧寛永寺の主要な伽藍は焼失したが、幸い五重塔は延焼を免れた。
上野の山の元領主・藤堂高虎の墓は上野動物園の一角を柵で囲った場所に建っている。動物園の外側からも墓を垣間見ることができる。
オランダの軍医ボードワン博士は、明治政府に緑地帯の意義を説き、上野公園だけでなく日本に公園を誕生させた「公園生みの親」と云われるほど功績を残した人物である。初代のボードワン博士像は昭和48年に作られたが、現在の博士像は平成18年に作り直されたものである。理由はなんと初代の像は間違って弟の写真をもとに製作したからだという。
日本近代洋画の父とも云われ、その代表作「湖畔」でも知られる黒田清輝は大正13年に没する際、資産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言した。これを受けて昭和3年に竣工したのが黒田記念館である。館内には遺族から寄贈された遺作を展示し画家を顕彰するための黒田記念室が設けられている。記念館は昭和初期の美術館建築として国の登録有形文化財となっている。
土井晩翠が昭和10年に建立した。小泉八雲のレリーフを嵌めた記念碑と、その台上には天使が壺を囲む銅像・小倉右一郎作「蜜」からなる作品である。
東叡山寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺で、寛永2年(1625)天海大僧正が江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に創建した。後には德川家綱公霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。旧寛永寺のほとんどの伽藍、堂宇は上野戦争で焼失したため、現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院より本地堂を移築し再建したものである。
綱吉公の常憲院霊廟は宝永6年に竣工した。歴代将軍の霊廟の中でも最も整ったものの一つとされる。その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、廟所と共に災いを免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺である。
日暮里駅と上野公園駅との中間に位置する駅として昭和8年に開業した。駅舎は「世伝御料地内に建設するため品位に欠けるものであってはならない」とのお達しがあり、西洋風の荘厳なつくりとなった。長年営業してきたが、ホームが4両編成までと短く、利用者の減少により平成16年に廃止となった。
旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸大の前身・東京音楽学校の校舎として明治23年(1890)に建設された。2階の音楽ホール「奏楽堂」は滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が歌曲を歌った由緒のあるホールである。
「黒門」として東大の赤門と並び称される。江戸時代に建てられた鳥取藩池田家江戸上屋敷(大名小路、現在の丸の内)の表門を、東京国立博物館に移設した。屋根は入母屋造で、門の左右に向唐破風屋根の番所を備えており、大名屋敷の表門としては最も格式が高い。
旧寛永寺根本中堂の跡地には東京国立博物館が建っている。現在噴水が設けられている場所に旧寛永寺境内があり、伽藍、堂宇が立ち並んでいた。
国立西洋美術館の庭に建つ「考える人」の近辺でガイドツアーを終了した。