🔳市川真間・国府台の散策(2019-10-02)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
市川市の地形は北から南にやや傾斜し、北部の台地は概ね標高20m程度でそれ以外は2m程度の平坦地がほとんどです。
大化の改新の後、国府台に下総国国府が置かれ、政治・経済・文化の中心として栄えました。因みに国府台の地名は「国府」に由来しています。
奈良時代、市川真間の美少女・手児奈に纏わる悲劇の伝説は遠く都にまで届き万葉集に詠まれるほど有名でした。
また、この地域は水陸交通の要衝であり、平安~戦国時代には平将門の乱、源頼朝の軍勢立て直し、太田道灌築城、国府台合戦など数々の戦乱や合戦の舞台となりました。そして、江戸時代には「市川の渡し」が定船場となり、のちに関所も設置されました。
一方、近代になると東京都内の富裕層の別荘地、高級住宅地として知られるようになり、永井荷風、幸田露伴、北原白秋、井上ひさしなど多くの文人が暮らした街でもありました。
今回は地元のボランティアガイドの方々に案内していただき、これらの歴史や文化が感じられるスポットを巡りました。
市川市の地形は北から南にやや傾斜し、北部の台地は概ね標高20m程度でそれ以外は2m程度の平坦地がほとんどです。
大化の改新の後、国府台に下総国国府が置かれ、政治・経済・文化の中心として栄えました。因みに国府台の地名は「国府」に由来しています。
奈良時代、市川真間の美少女・手児奈に纏わる悲劇の伝説は遠く都にまで届き万葉集に詠まれるほど有名でした。
また、この地域は水陸交通の要衝であり、平安~戦国時代には平将門の乱、源頼朝の軍勢立て直し、太田道灌築城、国府台合戦など数々の戦乱や合戦の舞台となりました。そして、江戸時代には「市川の渡し」が定船場となり、のちに関所も設置されました。
一方、近代になると東京都内の富裕層の別荘地、高級住宅地として知られるようになり、永井荷風、幸田露伴、北原白秋、井上ひさしなど多くの文人が暮らした街でもありました。
今回は地元のボランティアガイドの方々に案内していただき、これらの歴史や文化が感じられるスポットを巡りました。
①文学の道
市川ゆかりの文化人と万葉の歌を紹介した説明版が遊歩道沿いに設置されている。
②大門通り(弘法寺参道)
真間山弘法寺へと続く真っ直ぐな道で嘗ては参道として利用されていた。
③真間の継橋と真間万葉顕彰碑(継橋)
国府台に下総国国府が置かれた頃、上総国国府と繋ぐ官道は市川の砂州上を通っていた。砂州から国府台の台地にかけて、入り江の口には幾つかの洲ができていて、その洲と洲を結ぶ懸け橋が万葉集に詠われた「真間の継橋」である。ここの顕彰碑(継橋)には「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ」(読み人知らず)の歌が紹介されている。
④手児奈霊神堂入口の真間万葉顕彰碑(真間娘子墓)
万葉集には真間の手児奈の伝説を詠んだ歌が9首載せられている。そのうち3首について歌のゆかりの場所に顕彰碑が建てられている。ここの顕彰碑(真間娘子墓)には「我も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」(山部赤人)が紹介されている。「奥津城処」は墓所のことである。
⑤手児奈霊神堂
伝説の美女・手児奈を祀る霊神堂。手児奈はあまりの美しさ故に多くの男から求婚され、自分のために人々が争うのを憂いて真間の入江に身を投じたとの伝説がある。
⑥手児奈霊神堂の睡蓮池
霊神堂脇にある池で、手児奈が身を投じたと伝わる場所である。昔の入江の名残があり、夏になると一面に睡蓮の花が咲き誇る。
⑦亀井院前の真間万葉顕彰碑(真間井)
万葉の歌人高橋虫麻呂は手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞き「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」と歌を詠んだ。
⑧亀井院本殿
亀井院は寛永12年(1635)に弘法寺の貫主の隠居寺として建てられ当初「瓶井坊」と呼ばれていた寺である。
⑨亀井院の庭奥の井戸
奈良時代に詠まれた万葉集の歌に、 手児奈が水を汲んだ「真間の井」が出てくるが、亀井院の庭の奥にある井戸のことであると伝わる。
⑩亀井院の北原白秋の歌碑
白秋は大正5年頃亀井院に寄宿していたことがある。歌碑には「蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に蝦すくふ子か水音たつるは」と紹介されている。
⑪弘法寺の参道石段と「涙石」
真っ直ぐな参道の先に急な参道石段がある。江戸時代に作事奉行の鈴木長頼が日光東照宮に使う石材をここに使ったため幕府から責任を問われ、ここの石段で割腹した。それ以来、下から27段目の左側の石はいつも濡れていて「涙石」と呼ばれる。
⑫石段最上段からの参道・市内の眺望
参道石段を登り切って振り返ると市内の町並みを真っ直ぐに伸びる参道が一望できる。
⑬真間山弘法寺の仁王門
日蓮宗真間山弘法寺の正面参道にある仁王門。弘法大師の筆によると云われる扁額「真間山」には二羽の鳩が隠れていて、しかも「阿吽」の口になっている。
⑬仁王門の仁王像
仁王門の両側の仁王像は運慶作と伝えられる。
⑭弘法寺の本殿
奈良時代に行基菩薩が手児奈の霊を供養して一宇を建て「求法寺」と名付けた。平安時代になって弘法大師が7堂を構え「弘法寺」と改称した。鎌倉時代には千葉胤貞より寄進を受け、多くの寺領や信徒を擁していた。天正年間には徳川家康から朱印地30石を与えられている。
明治21年の火災で諸堂は焼失してしまい、明治23年に再建されて現在に至る。(写真は弘法寺HPより引用)
⑮弘法寺の客殿
⑯弘法寺の祖師堂
祖師堂には日蓮大聖人、開基日頂聖人、第二祖日常聖人が祀られている。 祖師堂の扉の金色のかんぬきに、お洒落な「蝉の装飾」を発見した。これは仏教の大切な戒めである「不殺生戒」を守る清らかさの象徴とされ、大覚寺など他の寺でもよく見られるという。
⑰樹齢400年の枝垂れ桜(伏姫桜)
名の由来は不明ながら「伏姫桜」と呼ばれている。江戸時代には紅葉の名所としても知られていた。小林一茶も「真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉」と詠んでいる。
⑱弘法寺の鐘楼
⑲弘法寺の赤門(朱雀門)
本堂の西側にある赤門で、明治21年の大火で全山悉く灰燼に帰した中で唯一焼失を免れたと伝わる。
⑳木内ギャラリー
明治・大正期の政治家・木内重四郎が大正初期に建築した近代建築様式として歴史的価値が高い建物である。和洋折衷の建物の洋館部分を再築しギャラリーとして公開している。
㉑総寧寺の中門(山門)
本堂の正面にあり、下部が石造りでその上に木造りの楼閣を乗せた竜宮城のような形状の門である。「江戸名所図会」に描かれた仏殿前の山門も同じような方形の建物に見える。
㉒安国山総寧寺の本堂
もともと近江国観音寺の城主佐々木氏頼によって永徳3年(1383)に開山・建立された曹洞宗の寺院であった。ところが天正3年(1575)に小田原城主北条氏政は20石を与えて関宿に移した。その後水害を受けたため徳川家綱により国府台に移された。その際寺領として128石余を与えられた。当寺は家康から全国曹洞宗寺院の総支配権を与えられ一宗の大僧録に任じられている。しかも歴代住職は十万石大名の格式をもって遇せられてきた。
㉓国府台天満神社
文明11年(1475)に太田道灌持資により当地の鎮守として創建されたと伝わる。
㉔国府台から江戸川と対岸を望む
市内で最も高い標高30mの国府台の台地から江戸川越しに小岩・葛飾方面を望む。室町時代に、二度の国府台合戦が繰り広げられた場所である。
㉕「夜泣き石」伝説
国府台合戦で戦死した武将里見弘次の末娘の姫は父の霊を弔うため遥々安房の国からこの地に辿り着いたが、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ち拉がれ、この石に凭れて泣き続け遂に息絶えたと伝わる。以来、夜な夜なこの石から悲しい声が聞こえてきたという伝説になった。
㉖国府台合戦の戦死者を弔った碑等
永禄7年(1564)の第二次国府台合戦で里見義弘率いる八千の軍勢は北条氏康率いる二万の軍勢に敗れ、里見軍の戦死者は五千名とも云われる。戦死者の霊を弔うために、文政12年(1829)里見諸士群亡塚(左側)と里見諸将霊墓(中央)が建てられ、時期は不明ながら石井辰五郎によって里見広次廟(右側)が建てられた。
㉗紫烟草舎
北原白秋は 小岩に在ったこの離れ「紫烟草舎」で、大正5年から1年ほど執筆活動を行った。紫烟草舎を復元するに際しこの地を選んだのは、以前に真間の亀井院に住んでいたこともあり、この地をこよなく愛していたことが窺える。
㉘里見公園
この地は国府台城址で、公園の地形から江戸川に向かってコの字型に二重の土塁が築かれ、その外側は空堀で囲われていたことも分かっている。この城は文明11年(1479)に太田道灌が築いたと伝わる。
㉙市川関所跡
奈良・平安時代には井上駅家が置かれ太日川の渡し船があったとされる。室町時代には連歌師の宗長が紀行文『東路の津登』の中で市川に渡しがあったことを記しており、古くからこの地に渡しがあったとされる。江戸時代には、「定船場」が設けられ、この場所が後に佐倉道の関所になる。