🔳2019-11-05葛飾八幡と周辺の散策
編/さくら道26
編/さくら道26
八幡は市川市の中央部に位置し、下総国総鎮守・葛飾八幡宮を中心に発展し、江戸時代には中央部を東西に貫く佐倉道の宿場町として栄えました。
葛飾八幡宮は由緒ある神社で、平安時代の寛平年間(889〜898)に宇多天皇の勅願により京都石清水八幡宮から勧請して創建されたと伝えられています。誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、厄除けや必勝祈願の神社として広く信仰され、平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など歴史上の武将からも厚く信仰され庇護されていました。境内には国指定天然記念物の「千本公孫樹(せんぼんいちょう)」があり、樹齢1200年とも言われる壮大な姿を誇ります。
一方、「藪知らず」は、葛飾八幡宮の旧所有地内にあった小さな竹藪で、江戸時代から「入ると出られなくなる」と言われる禁足地として知られています。その謂れについては「日本武尊が陣を敷いた跡地説」、「平将門の鬼門にあたる場所説」等々、多くの伝説が残っています。江戸名所図会にも登場し、ミステリアスなスポットとして長く語り継がれてきました。
歴史と伝説が交錯するこのエリアを散策するのは、まさに文化と神秘を体感する旅です。一度は訪れたいところです。
散策の出発地です。今回は地元ボランティアの方々に案内して頂きました。
永井荷風ゆかりの「大黒家」。現在は「大人の学び舎 大黒家」として利用されている
永井荷風は晩年、移り住んだ八幡の自宅近くにある「大黒家」でカツ丼を毎日のように食べていたという。
孤老永井荷風は八幡の自宅において一人で人生を終えた。
岡晴夫は戦前から戦後にかけて活躍した歌手で、昭和52年に日本歌謡界における功績を讃え岡晴夫を偲ぶ会によって葛飾八幡宮境内に顕彰碑が建立された。碑銘は藤山一郎の揮毫である。
参道を進んで拝殿の手前にある。
左手前より拝殿、幣殿、奥に本殿と続く。そして右側に千本公孫樹。
左側に見えるのは神楽殿、正面が拝殿。
鳥衾付鬼板を乗せた唐破風向拝の軒下の精緻な兎毛通、笈形、蟇股、木鼻の彫刻群。
擬宝珠高欄付廻縁を設けた拝殿。
神様に神楽を奉納する神楽殿の正面。
神楽殿の奥に掛けられた大絵馬は江戸時代末期に奉納されたもの。右から二人目が御祭神・神功皇后(息長帯姫命)とされ、夫の天皇の遺志を継ぎ「新羅出兵」した時の様子とされる。新羅からの帰途、筑紫で息子の応仁天皇(誉田別命)が生まれたとされる。
樹齢1200年と云われるイチョウ(公孫樹)の巨木。その姿は「江戸名所図会」にも描かれている(ホームの写真参照)。千本という名は、落雷で地上6mの所で折れた太い幹を根元から立ち上がった多くの幹が囲んでいることに由来すると云われる。
神社に鐘楼とは珍しい!上野東叡山寛永寺末寺で、葛飾八幡宮の別当寺・八幡山法漸寺の鐘楼が今も神社の一角に残っている。明治維新後の廃仏毀釈運動の中、関係者が社殿を塀で囲い、その中に入れて鐘楼堂を守ったお陰で、本堂は廃棄されたものの、幸い鐘楼はそのまま残された。
治承4年(1180)安房国から下総国府に軍馬を進め八幡宮を参詣し戦勝を祈願した。その折、頼朝公の馬がこの石に前脚を掛け、ひずめの跡を残したことから「駒どめの石」と云われる。
市川の土地は砂地が多く耕作には適さなかったが、江戸時代に寺小屋の師匠であった川上善六は梨の栽培には適していることが分かると、美濃国大垣から梨の枝を持ち帰り、葛飾八幡宮の法漸寺境内で試験栽培をした。これが「市川の梨」の始まりと云われる。
参道の随神門をくぐると左側に黒松や楠の間から見える門構えに風情を感じる。明治期に新潟で建築された邸宅を昭和27年に移築して公民館として使ってきた(令和3年に閉館)。
明治維新以前は別当寺八幡山法漸寺の仁王門だったが、神仏分離によって仁王像があった所には随神(左大臣、右大臣の像)が奉納され「随神門」と改名した。その時、仁王像は行徳の徳願寺に移された。木造で、正面柱間3間、奥行柱間2間の八脚門。
葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺仁王門の両裾に奉納されていた仁王像は現在、行徳の徳願寺に遷されている。
随神門の手前に小林一茶の句碑。「冬木立むかしむかしの音すなり」は一茶49才の時に、恩人の13回忌に想いを詠んだ句である。
二の鳥居から随神門方面を望む。長い参道の並木道は風情がある。
この地域は砂浜や入江の湿地帯に囲まれた土地で耕地には向かない土地であったため、 明治45年に耕地整理組合が発足し多くの水路が作られ、5畝割を基本とした水田の区画化が行われた。
広さ約300坪(近世以前はもっと広かったという)で、一度入ったら二度と出られないと語り継がれる竹藪である。
史実をみると、ここは行徳の入会地で八幡の住民はみだりに入ることが許されなかった。そのため「八幡知らず」と呼ばれ「藪知らず」に転じたと云わる。
藪知らずが禁足地となったのには「八幡宮の神聖な地」、「日本武尊の陣所跡」、「貴人の古墳跡」、「平将門平定の折、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き死門の一角を残した」、「平将門の家臣6人が、この地で泥人形になった」など数々の伝承が関係している。
不知森神社の御朱印は葛飾八幡宮で受け付けているとのこと。
藪知らずから佐倉道を少し東へ歩いたところに曹洞宗寺院の浅間山東昌寺がある。東昌寺は天正年間に太誉和尚が創建した寺で、寛永元年(1624)に現在地に遷された。
戊辰戦争終盤、主に九州や中国地方出身の藩兵で構成する新政府軍は旧幕府軍を追討すべく八幡まで進軍していた。そこに中山から旧幕撤兵隊の大隊が反撃してきた為、不意討ちを食らった新政府軍側に多数の死傷者がでた。寺の墓地内には、この戦いで戦死した新政府軍兵の墓が建てられている。
八幡にあるサイゼリヤの1号店が教育記念館として保存されている。
ここで、八幡周辺の散策は終了し、後半は中山に向かう。