🔳船橋の本町・宮本地区と船橋大神宮の散策(2023-06-18)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
地元の人に親しまれる「意富比(おおひ)神社(別名船橋大神宮)」は船橋市最大の神社です。その歴史は古く日本武命が東征の途中に神鏡を祀ったのが創始と言い伝えられています。大神宮の門前にあたる「本町」・「宮本」地区では室町・戦国時代に市が立てられていたことから村の名前もいつしか「九日市村」・「五日市村」と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代に入って慶長十九年(1614)頃、徳川家康は佐倉藩主土井利勝に命じて船橋から東金まで「御成街道(東金街道)」を掘削させました。また御成街道の北側には家康の休泊所として広大な「船橋御殿」も造営しました。これにより「九日市村」と「五日市村」は御成街道(東金街道)、佐倉(成田)街道、上総街道が集中する交通の要衝となりました。成田参詣が盛んになった江戸中期頃からは大いに繁栄し旅館数が29軒にも上る佐倉道最大の宿場町になりました。
この地域には意富比神社を初め、船橋御殿跡地や宿場町の史跡など見どころが満載です。一度は訪れてみたい場所です。
①本町十字路
写真の前後方向が本町通りで、江戸時代には東金御成街道、佐倉道(成田道)、房総往還の宿場町として繁栄した通り町である。船橋宿は、五日市・九日市・海神の3村からなるが、最初に栄えたのは五日市村本宿だったが、往来者が増えてきた江戸中期以降、九日市村の通りへ中心地が移っていった。そして29軒もあった旅籠屋は九日市村だけに存在したのが特徴である。
②浄勝寺
浄土宗、明応五年(1496)開基。徳川家康より寺領10石を受領、塔頭三ヶ院を持つ。古くは東向きだった本堂を、駅前通り開通後に西向きに回転したという。
③浄勝寺境内の地蔵
江戸時代に浄勝寺が、歓楽街の薄幸な運命に翻弄された女性を弔うため境内に「お女郎地蔵」を建立したという。
④不動院と大仏
真言宗、南北朝時代の開基。門の前に海難事故者供養や海難防止を願い石造の釈迦如来座像が建立されている。最近は地元漁師から「飯盛大仏」と呼ばれ大事にされている。
⑤廣瀬直船堂
本町通り(御成街道)の南側には創業300年、大正7年築の和菓子店が現在も営業している。
⑥森田呉服店
本町通り(御成街道)の北側には創業140年、明治5年築の森田呉服店が営業している。
⑦厳島神社
由緒不詳ながら、寛政十二年(1800)の「村艦明細書上帳」にある「弁財天」が当社と推察されている。明治維新後、意富比神社に合祀され飛地境内社となる。
⑧道祖神社
由緒不詳ながら寛政十二年(1800)の「村艦明細書上帳」にある「道祖神」が当社のことと推察されている。意富比神社に合祀され飛地境内社となっている。本町三丁目の守神。
⑨三峯神社
境内の左奥には三峯神社がある。由緒不詳。
⑩御殿通り
勤労市民センターから御蔵稲荷までの通りは近年になって「御殿通り」と名付けられた。江戸時代初期、通りの北側に船橋御殿が置かれたことによる。当時、通りの町並みは正面側を御殿に向けて建てられていたという。
⑪船橋東照宮と御殿稲荷大明神
船橋御殿は慶長十九年(1614)家康が東金へ鷹狩に行くための休泊所として建てられた。秀忠も鷹狩の際、休泊したとされる。面積は約400アール(12,000坪)あり周囲は土塁で囲われていた。寛文十一年(1671)に当御殿は廃されたが、その跡地に意富比神社宮司・富氏が当社を建てたと云われる。隣には稲荷大明神が祀られている。
⑫御蔵稲荷神社
正保年間(1644~47)、飢饉に備えて穀物備蓄用の郷蔵が作られた。お陰で享保・天明の飢饉の時にも多くの人々が救われた。蔵は寛政三年(1791)出水のため流失したが、地元民が感謝を込めて、その跡地に稲荷神社を建立した。
⑬万代橋から見た海老川橋
成田名所図会によると橋は太鼓橋として描写されている。架橋は、海老川の東側を大神宮の切通工事で出た土で埋め立て、橋桁には石積みによる土留めをするなど大工事だった。海老川は九日市村と五日市村の境である。川の東岸には江戸~明治中期、海運会社の建物が立ち並び、五大力船が出入りしていた。佐倉藩の米蔵もここに存在した。
⑭海老川橋のレリーフ等
「船橋地名発祥の地」として、橋の欄干には船橋の歴史をイメージした数々のレリーフが欄干に飾られている。また別名「長寿の橋」として故・泉重千代さんの手形なども飾られている
⑮意富比神社前の追分
海老川橋を渡ると正面に四辻が見える。大神宮の右手は上総道、左手の坂は慶長 十九 年(1614)に開かれた宮坂と呼び御成街道(東金街道)・佐倉道(成田道)である。この四辻に宝永六年(1709)造立の道標を兼ねた廻国塔が建てられていたが、現在東光寺に移設されている(「東光寺の廻国塔」参照)。
⑯西福寺
真言宗豊山派で長谷寺の末寺、創建は鎌倉時代。地元民に「閻魔寺」と呼ばれ愛されている。入口の左側で、ふくよかな顔をした六体の地蔵尊「ふくふく地蔵尊」が出迎えてくれた。
⑰宝篋印塔と五輪塔
境内右手・坂上の墓地に、鎌倉時代後期建造の石造宝篋印塔や南北朝時代の五輪塔がある。元々安養寺にあったが船橋御殿造成時に、この場所に移設されたものである。鎌倉を除くと関東でも優れた作品として県文化財に指定されている。
⑱了源寺
浄土真宗、足利義輝が暗殺されたため出家した侍臣・天野匡親(釈伝翁)が天正年間(永禄年間とも)に創建したという。大輪の蓮の花に癒された。
⑲了源寺鐘楼堂
享保年間、徳川幕府はこの丘に砲台の台座を設け東方の原野に向けて試射したという。これが廃止後、跡地に鐘楼堂が建てられ、幕府から「時の鐘」として公許された。明治4年に廃止されるまで船橋一帯に時を告げていた。当寺には、時の基準となった和時計(当時「自鳴鐘」と呼んだ)と鐘の音を聞いて詠んだ蜀山人の自筆狂歌が保存されている。
⑳板橋氏神
了源寺から南に下りていく途中に見つけた立派な鳥居の神社だが、由緒不詳。
㉑辻切
了源寺から東光寺に向かう大神宮沿いの下り道で辻切(3か所)を発見。お札には「塞神三柱守護門也」と書かれている。
㉒東光寺境内の廻国塔
東光寺参道石段を登り右手植栽の中に廻国塔が建っている。元は大神宮西参道の四辻に建っていたもので東光寺に移設されたものである。廻国塔は宝永六年(1709)の作で道標を兼ねており「右かつさ道 左ハさくら道」と刻印されている。
㉓意富比神社南参道の一之鳥居
明治二十七年の皆川華岳彫刻による「意富比大神宮」図によると、南参道鳥居の前は上総道で、そのすぐ南側に海岸線が描かれている。今回は鳥居右手の日本料理店で楽しい昼食を済ませ、いよいよ意富比神社参拝へ。
㉔南参道二之鳥居と土俵
二の鳥居を通して正面に拝殿が見える。右手には土俵があり10月の例大祭に奉納相撲が開催される。これは天正十八年(1590)の徳川家康の上覧相撲に起源を持つとされる。
㉕意富比神社拝殿
11~12世紀にかけて源頼義・義家父子は当宮を修造し、義朝は再建した。その頃の文書に「船橋伊勢大神宮」とある。源朝臣家康が天正十九年 (1591)に五十石を社領とした朱印状がある。家康が本殿・末社等を造営したが、戊辰戦争の戦火で焼失したため、「江戸名所図会」でしか見ることはできない。
㉖意富比神社西参道
本町方面からの参道になる。
㉗八剱神社・八坂神社神輿奉安殿
背の高い建物の中に、神輿が二基納まっている。左は本町八坂神社、右は湊町八剱神社の神輿である。他の神輿と異なり神輿自体が神社という位置づけで神様は常にこの神輿に鎮座するとされる。例祭は七月。
㉘常磐神社(東照宮)
創建は天正十九年(1591)徳川家康によるといわれる。後に秀忠が「常磐の御箱旗弓・家康の前歯など」を納めたことから東照宮とされ、江戸の武士達が参拝に訪れたという。社前に三つ葉葵紋の入った灯篭や手洗石がある。
㉙灯明台
常磐神社鳥居の右手・小高い丘の上に和洋折衷の建物・灯明台がある。明治十三年築で木造瓦葺三階建、一・二階は和室で当番が宿泊でき、高さは12mある。私設灯台で光到達距離は約11km(浦安沖辺りまで)あったと云われる。この高台には以前浅間神社があった。
㉚皆川華志による大神宮図
常磐神社入口付近に明治二十七年皆川華岳彫刻による「延喜式内意富比大神宮」が展示してある。大神宮と周辺の様子が克明に刻まれていて、貴重な資料である。
【後記】
都市化された船橋しか見る機会がなく、今回は江戸時代に栄えた御成街道周辺のお寺や神社など多く残されていて新たな発見ができました。船橋大神宮も見ごたえがありました。
歴史ある船橋を散策でき、大変楽しい思い出を残すことができました。(Y.T.)