🔳佐倉市上座周辺の散策(2025-05-23)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
江戸時代、この土地は佐倉道の臼井宿と萱田・大和田宿の間に位置する台地で、交通の要衝でもなく経済的にもあまり恵まれた土地ではなかったようです。
一方、この周辺地域には室町時代に臼井氏一族の庇護の下で建てられた臨済宗と真言宗の古刹が点在していて、臼井一族の盛衰や内訌の歴史が想像され興味深いものがあります。
ユーカリが丘駅周辺は大型宅地開発が進み、歴史的な遺跡も散逸し、また資料も乏しい中で、貴重な地元の方々の情報を基に推定した旧佐倉道を辿りながら周辺の旧跡を訪ねました。
ユーカリが丘駅から上座公園入口バス停までバスで移動し散策を開始する。
小竹交叉点に建つ石造り鳥居は元々20m程西に在ったものを移したものである。鳥居後方の境内に建つ12基の出羽三山碑も道路拡張工事により別の場所から集められたものである。最古のものには天保4年(1833)の刻銘がある。
手繰橋から佐倉道を西へ200m程進んだ右手に祠や石仏などが散在した一角がある。元々この付近に林性寺という古刹があり、成田山新勝寺の出開帳時に休憩所として使用されたことが宝樹院の記録に残っている。明治時代初期、神仏分離・一村一寺令により廃寺となり、現在は宝樹院の管理地となっている。
林性寺跡地に建てられた不動堂である。中には、元々林性寺の本堂に祀られていたと云われる不動尊と大日如来が祀られている。
林性寺跡に建つ大師堂で由緒不明である。
碑銘によると昭和5年の建立である。由緒が不明である。
下側は土に埋もれて読めないが、正面上部に「権大僧都・・・」という僧位、側面には寛政6年(1794)の碑銘がある。修行の成果や功績を高く評された高僧が林性寺に関係していたものと推察されるが、詳細は不明である。
14基の馬頭観音塔が並んでいるがユーカリが丘駅北口開発の際に駅前からここに移されたという。
14基の中に一面六臂の馬頭観音像が彫られ異彩を放つものがある。右上部が欠けて碑銘の一部は読み取れないが、「〇元丁辰十月吉日」とも読める(「丁辰」は存在しないので誤謬か)。
江戸時代、手繰坂を下りて手繰川を渡ると上座の台地に突き当たり、その正面に林性寺(写真の右手に寺跡)があった。初め頃の旧佐倉道はそこから台地に沿って左側へ進む経路だったという(写真の上座公園入口看板の手前を左折する佐倉道があったという)。
土地の人に信仰されている神と思われる。佐倉には至る所に喉や咳の神が見受けられる。
上座公園の東側入口。
公園入口を入って正面に、綺麗に剪定されたツツジの植込みが見える。春、ピンクの花が咲くと桜花を象った佐倉市章が浮かび上がる。
写真は旧佐倉道を振り返った景色である。左側の白いガードレール沿いに台地の縁をぐるりと回る経路だったという。
上座公園から台地の縁をさらに進め、早苗田と豊かな新緑を楽しみながら旧佐倉道を歩く。
歩いていると何処からともなくテイカカズラの花の香りが漂ってくる。
上座の台地から早苗田、手繰川、その対岸に臼井~生谷を望む。
旧佐倉道から生谷方面へ抜ける古道である。もしかしたら中世の佐倉城や江戸時代の年貢道に通じる支道などではないかと想像を廻らす。
旧佐倉道沿いの石積みの高台にある木製鳥居と小さな祠がある。由緒不詳である。
高台にある小さな祠。地元の産土神と思われるが詳細不明。
街道の脇に小さな根神社と子権現が並んで祀られている。由緒は不詳ながら、いずれも南関東から東海地方に分布する「ねのじんじゃ」の一つと思料される。ほとんどの根(子)神社は大国主命(大己貴命)を主祭神とし、子沢山だったことから子授け・子育ての神として信仰されている。
昔、三叉路正面には大きなお地蔵様が建っていたが、宝珠院の山門前に移された。右手に行くと宝樹院である。
中央が旧佐倉道三叉路に建っていたお地蔵様。山門前に他のお地蔵様と一緒に安置されている。
山門の右側に六地蔵、その後方に4基の観音様と6基の二十三夜塔が笹に覆われて建っているいる。
現在の山門は明和3年(1767)に建立されたものである。
扁額「金嶺山」は駿河国松陰寺の僧で臨済宗の中興の祖と称される白隠禅師の揮毫である。
寺に現存する最も古い建物で明和6年(1769)の建立である。
平成5年、境内左手に開設された堂に五百羅漢像が安置されている。堂は土日に開放される。
山門をくぐって右側に観音様が建っている。遠方に墓のある人が宝樹院で供養をした卒塔婆を立てていく場所である。
本堂の正面にある山茶花は「臼井興胤公お手植え」と伝えられる古木である。平成31年の市の調査で推定樹齢300年以上とされ、幹の周囲長は約150㎝、樹高4.9mと全国でも珍しい大きさとされる。令和2年に市の天然記念物に指定された。
安永8年(1779)の建立で、中には観音様、地蔵菩薩、薬師如来が安置されている。
金嶺山宝樹院は臨済宗妙心寺派で、臼井家中興の祖と称される臼井興胤公が文和2年(1353)に建立し、夢窓国師が開山した。本尊は地蔵菩薩で、宝樹院再興時(江戸時代)に制作された。
高さ40㎝程の供養塔で、正面には「明治丗五年五月廿五日 千葉家三士戦死霊 小竹村山崎ス〇建」と刻銘されている。戦国時代、手繰川付近で激戦があり多くの戦死者が出た。その千葉家由来の武士の遺骸を葬った耳塚が、上座の不動堂の裏手にあったという。宅地化に伴い、この碑を建て宝樹院で供養することになったという。
小谷茂信は明治3年から6年まで宝樹院に寺小屋を開いて指導した。その後、臼井小学校の上座分校が当院に開校されると引き続き14年間教鞭をとり地域児童の教育に尽力した。
上座の産土神で室町時代(1400年頃)の創建と伝わる。元は「熊野三社大権現」と称したが明治元年に今の「熊野神社」に改名した。現在も「本宮」の南方位に「前の宮」、北方位に「後の宮」が残されている。
この流造本殿は文化元年(1804)に建て替えられたものである。本殿の扁額は今も「熊野三社大権現」と書かれている。主祭神は伊弉諾命と伊弉冉命である。
境内社で大山祇命を祭神とする。
境内社で祭神は素戔嗚尊である。
境内の裏側には末社・金毘羅神社の他にも7つの弊社が並んでいる。
熊野神社から旧佐倉街道を西に進み志津小学校の方へ向かう。
上座公園の一角にある児童遊園地。ここで一時休憩。
志津小学校の裏門に旧志津小学校(明治23年開校)で使用された正門の門柱(石造り)が再使用されている。門柱には当時校札を掛けたと思しき錆びた鉤型が残っている。門柱には明治44年の刻銘がある。
志津小学校の正門に建つ明治26年制作の碑で、志津村誕生の経緯や村の名前の由来などが刻まれ、村の歴史を物語る貴重な遺跡とされる。今回、残念ながら正門内のため碑銘まで確認できなかった。
旧佐倉道と国道296号が交わる場所に建っている。大正11年頃の元標である。
享保年間(1715~1736)に上座の新田開発に伴い、現ユーカリが丘駅辺りから宝樹院(写真左手)まで直線的な道が建造されている。佐倉市史では、これも旧佐倉道と呼んでいる。
国道建設に伴い移設された13基の庚申塔である。何処から移設したかは不明である。最古のものは元文5年(1740)のものとされるが今回現物を確認できなかった(元々右から5番目に有るはずが無い)。
その中で一際目立つ一面六臂の青面金剛像がある。顔の表情も怨嗟に満ち全体的に綺麗な彫像である。銘には「天保八酉年」(1837)とある。
天保8年(1837)建立と云われる。街道の安全を祈願して建てられたか。
道祖神社の裏手に北辰大神を祀った碑がある。元々駅南口付近「お屋敷」と呼ばれる所にあったが上座貝塚の発掘調査の時ここに移された。裏面には「明治三十五年」の刻銘がある。