🔳佐倉市 新臼井田・江原台・角来の散策(2020-10-23)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
今回は臼井駅そばの音楽ホールを出発して、新臼井田、江原台、角来を経て鹿島橋まで歩きました。
この地域は印旛沼の南岸、鹿島川の下流域の左岸に接する標高30m程の下総台地の一部にあります。
この地域は長い間、臼井氏の勢力下にあったとみられ、典型的な中世の旧跡が残っています。しかし交通面は恵まれず、鹿島川の下流域は暴れ川かつ湿地帯で渡河も容易でなく、本佐倉方面への主要陸路は今のように江原台・角来を通らず、臼井宿から南下して生谷・飯重道、大崎台を経由して鹿島宿に上がる迂回ルートが使われました。
江戸時代、土井利勝が佐倉城主になると佐倉城を建築し新しい佐倉道も整備します。さらに17世紀後半には、藩の石高加増に伴い佐倉城下が手狭になり、角来や江原台まで街道沿いが町割りされ足軽長屋などが建築されました。
現在も佐倉道沿いには、佐倉城下特有の枡形や鉤型などの遺跡が残っているほか、江戸時代の実話や伝説に纏わる旧跡も保存されています。
佐倉音楽ホールを出発して、京成線沿いに東へ進むと佐倉道(国道296号)に出る。右折すると直ぐに三叉路がある。右側の道は「飯重生谷道」で中世に本佐倉城や千葉へ繋がる重要な道であった。左側の道は「佐倉道(成田道)」で江戸時代に参勤交代や成田山参詣に使われた街道である。整備された一角に二つの道標、廻国塔、上部が破損した墓石が建っている。
左端にある角柱型の「成田道道標」には、「正面 : 西 江戸道、左面:東 成田道、右面:南 飯重生ヶ谷道、裏面:文化三丙寅(1806)、台座:願主油屋庄次郎他12人の名」が刻まれている。
左から2番目の「さくら道道標」には、舟型浮き彫りの地蔵尊に「さくら道願主 文太郎」と刻まれている。造立年代は不明であるが、成田道道標よりは古いとされる。
光勝寺は阿弥陀如来を本尊とする時宗の寺院である。最初は真言宗の寺院として臼井台の道場作に創建され、初期頃の臼井一族の菩提寺として崇敬されていた。その後、臼井祐胤が一遍上人の高弟で遊行二世・真教上人に帰依して時宗に改宗したという。しかし臼井興胤が臨済宗の円応寺を創建し菩提寺とした後は寺勢が衰えたという。天正18年(1590)臼井城が落城後、小笹台に移転した。
近年、台地の最上部に新しい伽藍が建築されたのに伴い、坂の中腹にあった旧本堂は取り壊された(写真は旧本堂)。
臼井城から望む光勝寺の夕景は「光勝晩鐘」と呼ばれ「臼井八景」の一つに数えられていた。写真は光照寺跡から望む風景で、正面に印旛沼が広がり左端に臼井城の台地がせり出している。
近年、台地の上に本堂をはじめ新しい伽藍が建築された。本堂には閻魔大王像が安置されていることで有名である。
戦後、元京成印旛沼山荘の跡地に、佐倉城址から鹿島神社を移し、ご神体は松虫寺から勧請した。現在の社は数年前に建て替えた二代目、御祭神は伊弉諾尊で縁結びの神とされる。
今も続く佐倉の花火大会は、昭和31年に「佐倉樋ノ口橋納涼花火大会」と銘打って佐倉駅近辺で始まったが、地元の熱烈な誘致活動もあり、昭和41年からは「印旛姫の宮奉納花火大会」として、この地で開催されるようになった。
光勝寺の東側(姫の宮周辺か?)に暦応元年(1338)創建、真言宗で本尊は不動明王と伝わる。不動明王は岩戸城主岩戸五郎胤安の持仏で、竹若丸(臼井興胤の幼名)を臼井城から脱出させる際に、この不動明王と竹若丸を笈に入れて鎌倉まで無事逃したと伝わる。その不動明王のご利益と胤安の忠節に報いて臼井興胤が創建した寺である。創建当初の不動明王は成田山新勝寺の不動明王と同木で弘法大師の作と云われていた。
その後、この寺は臼井城南側の田町字御屋敷に移転され「稲荷山常楽寺」として現在に至る。移転の時期は不詳だが、天正5年(1577)の「臼井郷図」に同寺が現在地に記載されている。
古今佐倉真砂子に「(江原台から臼井へ向かって)坂下より一丁半行きて左右に一里塚あり 塚印榎」と記されている。
場所は写真のカーブミラー付近とされ、左右に大きな一里塚があり、明治の初めまで榎の老樹があったと云う。以前は「一里塚跡」の木標もあったが現在は何もない。
八丁坂の途中に「六丹社」と称する場所があり、二つの石の小祠と4体の馬頭観音、1体の聖観音像が祀られている。
「六丹社」の由来は、「下総國香取郡油田村(現小見川町油田)に千葉家創立の古刹崇福寺があった。千葉家が滅び江戸時代になると崇福寺領油田村の小作百姓六人が、その寺領を横領して年貢を納めないばかりか、所有権を主張しだした。同寺の住職六丹和尚が、寺の旧事因縁を説諭し聞かせたが一向に聞き入れなかった為、六丹和尚はやむを得ず、お上に訴えて公判を願うべく、訴状を携えて江戸へ向かい、ここまで来た時に待伏せた前記六人に討たれて落命した」という。
臼井旧事録(明治28年(1895))に「六丹和尚怨恨を含みて死する。和尚の魂晩留まりて鬼火の怪あり。六人の者も発病し恐れて相議し、日井(臼井?)の地に六所の小祠を設置し、六丹和尚を合祀す。円応寺永く此の地の供養す云々。」「のち、和尚の幽霊が此の小作人の一族を悩ましたとかで、和尚の怨霊退散供養のため、六丹社を祀り、由来円応寺で供養す一」と記録されている。
六丹社は別名「訴訟の神様」と呼ばれ、訴訟に関し祈願すると必ず御利益があると云われ、これを伝え聞いて参詣する者があったという。石祠が二つあるのは、「文化十二、三年頃(1815~6)日井の大田某外一人事故ありて訴訟に及ぶ時、此の社に祈誓して大いに霊験があったので、お礼に新しい祠を造り奉献した」ため、新旧二祠があるのだという。一つは宝暦11年(1761)、もう一つの新しい祠は文化13年(1816)に奉納された。
馬頭観音は、1体は中央の大きな三面六臂・丸彫りで延宝○○(1673~1680)とある。もう一体は文字塔で明治17年(1984)とある。
聖観音像は元禄17年(1694)。ここは八丁坂上の刑場で処刑された者の“さらし首”の置かれた場所とも云われる。
江戸時代、八丁坂の坂上には佐倉道の枡形土手と木戸が設けられていた。今でも道路の形状から枡形の遺構が想像される。木戸を抜けると、江原から角来まで真っ直ぐに整備された佐倉道が伸びていた。
八丁坂の左手(写真のフェンス部分)は佐倉藩の江原刑場跡、右手の竹林を下りた所にある湧水池は「首洗い池」と呼ばれ、江原刑場で処刑された者の首を洗ったと伝えられている(最近、宅地開発によって埋め立てが進み池の所在は不明)。
八丁坂の左手に佐倉藩の江原刑場跡があり、供養塔と数基の供養碑が建っている。この場所で天保14年(1843)佐倉藩では初めて佐倉藩蘭方医・鏑木仙安等による刑死者の腑分け(解剖)が行われている。鹿島橋の袂に仕置き場ができた江戸後期には、ここはもっぱら晒し場として使われた。
刑場跡には寛政8年(1796)に建てられた高さ3mほどの供養塔と数基の供養碑が建っている。供養塔の正面には「南無妙法蓮華経」、台石には「法界、講中」、右側には「衆罪如霜露慧日能消除」と刻銘がある。また、聖観音を浮き彫りにした舟形像の供養碑もある。
江原台の佐倉道沿いには、寛文年間(1660年代)に足軽長屋が建てられ、その奥には薬園畑が開拓された。嘉永6年(1853)の実測図では幅5間(9.1m)の街道両脇に奥行き25間~30間の43棟の長屋があったという。写真は江原台付近の佐倉道の裏通りで、通りの右側に足軽長屋が並び、左側には薬園畑や馬の飼葉畑が広がっていたとされる。
佐倉道の裏通りを江原から角来へ進むと、中ほどに一風変わった寺がある。大雄寺は黄檗宗で、本尊は正観世音大士、京都宇治の万福寺の末寺である。佐倉藩主稲葉正通(1640~1716)の菩提寺と云われる。創建は不詳ながら大雄寺第一世・湛堂大和尚の墓誌の紀年銘や「古今佐倉真佐子」の記述から、元禄~享保年間(1700代前半)と推察される。境内には比較的新しい大師堂、如意輪観音の十九夜塔などがある。
圓通寺は東に延びる台地の北東先端に位置し、鹿島川や対岸の印東庄が一望できる場所にある。もともと少し南側の台地上(字小用内)に建っていたが慶長年間(1595~1614)に失火したと伝わる。そこには今でも小字外城の名前が残っているなどの他、臼井城の出城説を裏付ける言い伝えが地元に多く残っている。
山門をくぐると右側に8体の地蔵尊(最古は元文5年(1740))とその隣に聖観音像(寛政12年(1800))、そして如意輪観音像の秩父三十四番供養塔が並んでいる。
圓通寺は臨済宗妙心寺派、本尊は地蔵菩薩、円応寺の末寺である。円応寺二世・道庵和尚が応永年間(1394~1428)に開山したと伝わる。臼井興胤の長子・道庵は臼井城の勢力地域の要所要所に臨済宗寺院を創建している。
『古今佐倉真砂子』に「 八幡神社前の段々坂を登ると江原です。左右両側の五丁(約55m)程の間に組長屋があります。さて、その先の左右両側共が御菜園になっています。藩士で役目として馬を持っている者の分として、この場所の飼葉畑が渡されます。御菜園奉行の石田三郎兵衛は百石とりであります。」 と書かれている。
角来・八幡神社の創祀年代は不詳だが、元禄年間(1688~1709)と伝わる。江原に武家長屋が成立したのは寛文年間以降(1661~)と云われており、神社創建の時期と符合する。祭神は誉田別命。
現在の本殿、拝殿、鳥居は元禄16年(1703)に改築したもの。前方後円墳と思しき角来坂一号墳跡に造られた境内には、日枝神社(天神社)、子安神社、御岳神社が祀られ、出羽三山碑、庚申塔等がある。手水石は享保5年(1720)、子安観音は文化8年(1811)、道祖神は文政2年(1819)のものである。
旧佐倉道は、右側の佐倉道(国道296号)から八幡神社の前で左に折れ、再び八幡神社の下で右に折れて鹿島橋へ真っ直ぐ伸びている。上から見ると鉤型の様子がよくわかる。前方の緑の台地は佐倉城址である。
角来八幡神社の前を左に折れて暫く進み、次の鉤型の左手前に小さな祠がある。祠には二体の比較的新しい馬頭観世音と数個の摩滅した石塊が納められている。
この祠がある場所については次のような伝説がある。「佐倉城主堀田正信は、万治3年(1660)老中を政治批判して無断で江戸を発ち、単騎佐倉城へ馳せ帰った。しかし、角来八幡下まで来た時、馬が疲れ果てて倒れ息絶えた。」
正信については「佐倉(木内)惣五郎が年貢減免を江戸幕府に直訴した咎で正一家を極刑に処した。それからというもの、堀田家は惣五郎の亡霊に悩まされ、正信の妻は死亡、正信自身は発狂してしまったと語り継がれていた。」それから「86年後の延享3年(1746)堀田正亮が佐倉へ転封となり、着任の時ここに(八幡神社下)差し掛かると、一人の白髪の老人が現れ、正亮の馬の手綱を引いて大手門まで案内して姿が見えなくなった。正亮は異に思い八幡神社下に馬頭観世音の碑を建てて、馬を供養した。」また「正亮は宝暦4年(1754年)に惣五郎を将門山の口之明神(口ノ宮神社)に祀り、毎年2月と8月に盛大な祭典を行なうようになった」という。この祠に残る摩滅した数個の石塊がその昔の馬頭観音碑(堀田観音)であるとか?
右手の道が旧佐倉道で、八幡神社下から真っ直ぐ鹿島川に向かって進むと旧鹿島橋跡と地蔵尊がある。
角来の「子育て地蔵」とも言われ、鹿島橋の袂に建てられている。
本体高150cm、蓮座、丸石、角石三段の台石の上に立ち総高240cmの立派なお地蔵様である。正面中央に「再興万人講」、右に「宝暦5(1755)」、左に「享和元(1801)」、背面に「天保6(1838)」と刻銘がある。また右面には願主、世話人として12名の名、左面には20名ほどの信士、信女、童子の戒名が刻まれている。昔、鹿島川は水深があり流れも速く水難事故が多かった。水難者を供養するため近郷近在の人たちの浄財により建立され、これまで度々修復されているという。
印旛沼に注ぐ鹿島川の下流域は広大な湿地帯で氾濫も多く、鹿島橋が初めて架かったのは佐倉城の築城時期以降と考えられる。旧佐倉道の遺構から、旧鹿島橋は現在の橋の少し上流にかかっていたと推定される。